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【拡散希望】「教皇フランシスコのドキュメンタリー映画『フランチェスコ』で見落とされた重要なポイント」カトリック台北大司教区生命倫理委員会(天主教周報第615号)

2020年11月12日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

台湾のカトリック教会の週刊紙「天主教周報」第 615 号

に掲載された、カトリック台北大司教区生命倫理委員会の記事「教皇フランシスコのドキュメンタリー映画『フランチェスコ』で見落とされた重要なポイント:性の本質は一人の男性と一人の女性による婚姻の内に成立する」の日本語訳をご紹介いたします。

中国語でお読みになりたい方は「天主教周報」の第一面に「教宗方濟各紀錄片《Francesco》被忽視的重點:性愛的本質建立在一男一女婚姻之內■文/台北總教區生命倫理委員會」として掲載されていますので、ご覧ください。

これを見てわかることは、台湾の司教たちが、カトリック教会の教えを信徒たちにはっきり教えようとしている、ということです。

台湾の司教たちは、アメリカのバーク枢機卿と同じように、カトリック教会の教導権の公式文書を引用して、カトリック教会の信仰の教えを明確に繰り返しました。

カトリック東京大司教区 菊地功 大司教のコメント「教皇フランシスコの同性婚に関する発言について」とは、全く対照的です。

何故なら、
1/ 台湾の司教たちは、教皇フランシスコの発言内容の問題性をよく調べて把握しているからです。
「教皇フランシスコは、ドキュメンタリー『フランチェスコ』の中で同性愛傾向者に共同生活をする法的権利を与えることに触れておられます。」

教皇の発言については、YouTubeにすぐにアップされて、簡単に視聴して内容を確認することができます。それを見てもわかることですが、問題になっているのは「同性愛という性的指向をもつ者たちの共同生活を、男女の婚姻と同じ公的な法的権利を与えるかどうか」ということです。
この発言を擁護しようとした人々が、カバーアップしようとした、スペイン語と英語の違いについても台湾の司教たちは触れています。

2/ 台湾の司教たちによれば、真理(未来にわたって絶対に永久に変わり得ない真理)について語っているからです。
「カトリック教会の性と婚姻に対する教えは真理であり、『聖書・創世紀』から今に至り、未来永劫に不変です。」

3/ 台湾の司教たちは、カトリック教会の教えがはっきりしていることを示し、カトリック信者は、とりわけカトリック信者の政治家は、同性結合の法律に反対する重大な義務があることを断言しているからです。
「教会の教導する教義は非常にはっきりとしています。あらゆるカトリック教徒、とりわけカトリック教徒の政治的人物は、必ず同性結合の法律に反対しなくてはなりません。」

しかしそれに引き換え、東京大司教の態度は私たちを驚かせました。

1/ インターネットの現代では、教皇の問題発言のある映画の部分を見ようと思えば見ることができます。しかし、そうはせずに確実な情報を得ないまま、内容をすり替えようとしているからです。つまり、自分は正確なことはよくわからないと断りつつ、教皇の発言の「同性愛者の共同生活に公的な権利を与える」問題を、「家庭から排除する」ことに歪曲しているからです。
「映画において実際にどのような発言があったのかは、その映画を見ていない段階で確実に知ることは出来ません。… 報道された断片的な言葉によれば、教皇フランシスコは、何人も性的指向・性自認の如何によって、家庭から排除されてはならないことを指摘しています。」

2/ さらには、東京大司教は、カトリック教会の教えを再確認していないからです。しかも、教会のこれまでの教えを歪曲して提示して軽蔑する発言をしています。
「これまでの同性愛者に対する教会の裁きの態度について深い反省」

しかし、カトリック教会の教えをよく知っていたなら、教会は同性愛の性的指向をもつ"人々"を、その指向のゆえに裁いていたことはないことは一目瞭然です。このことはバーク枢機卿も台湾の司教たちもカトリック教会の教えを引用して断言しています。

3a/ 東京大司教は、カトリック信者が、とりわけカトリック信者の政治家が、同性結合の法律に反対する重大な義務があることを述べないばかりか、教理省文書『同性配偶者に法的地位を与える提案の考慮に関して』や、米国司教団の『同性愛傾向者に対する専任職務:司牧手引』などに反対し、カトリック教会の教導職と矛盾していることを主張しているからです。
教会の教えによれば、同性結合の法律として認めることができないのは、同性的配偶者の結合は、私人の利益であって、公益のためではないからです。「性的指向」は、種族や民族背景などと同列に論じる質性とは異なり、差別とは無関係だからです。むしろ教会の立場は彼らを差別するのではなく、彼らを癒していこうとする態度を取り続けています。
それにもかかわらず、東京大司教は、それを「差別」としています。
「すべての人が差別されることなく尊厳が守られなくてはならない」

3b/ 今回の教皇がした問題発言の核心部分については、何の注釈もなく、それを受け入れるべきであるかのように提示しているからです。しかも、一人の男性と一人の女性の結合にのみに使うことができる「婚」という言葉を使って「同性婚」と間違って使用しています。本当は「同性の結合」「同性の共存」と言うべきであって「同性婚」ではありえません。(英語の方では "marriage" ではなく civil union とはなっていました。)
「また教皇の発言の後半は、10年ほど前のアルゼンチンにおける同性婚の法制化議論において、生活をともにする人が差別されることなく公的保護を受けられるようにするべきだという趣旨の発言をしたこと」

4/ また最後に「婚姻の秘跡」の教義に関して述べたものではない、としつつ問題になっている論点をずらしているからです。
教皇の発言は、同性愛の同居の民法上の合法化を図るべきだという、教会の教えに反する個人的な意見であった、ということが問題の核心でした。しかしそれには一切触れないで、同性「婚」ということばを用いつつ、「婚姻の秘跡」に関するカトリック教会の教義に変更はない(だからこの教皇発言には問題はない)と主張し、実際はそれに道を開こうとする立場の発言に見えるからです。
「なお、この発言は「婚姻の秘跡」の教義に関して述べたものではありません。「婚姻の秘跡」に関するカトリック教会の教義に変更はありません。」


最後に、バーク枢機卿は、フランシスコ教皇の発言がカトリック信徒たちの混乱と誤解と誤謬を引き起こしている危険を鑑み、霊魂の牧者たちである聖職者たちに「人々のために適切かつ必要な明確化を行う良心上の義務が課されている」と警告しました

私たちは、天主であるイエズス・キリストから与えられた真理を信ずる者として、道、真理、命であるイエズス・キリストの愛の教えを、変えることなく守り伝えるために、バーク枢機卿の言葉を引用して、カトリックの教えを、すぐに、愛する兄弟姉妹の皆様に伝えました。

今回、東京大司教の曖昧な発言を見聞きし、カトリックの真理の教えが排除されることなく、そのまま明確に伝わるために、私たちにはもう一度、教えについて明確に発言する良心上の義務が課されていると確信します。

聖ピオ十世会は、東京において常駐の聖堂こそ持たず、いわば仮のテントで霊的な活動を行っているような「野戦病院」のようであります。しかし、たとえ「野戦病院」であったとしても、カトリック信者の方々の危険に瀕している霊的生活を助けるために、カトリックの教えをそのまま伝え、秘蹟をそのまま執行しております。

もしもそうでなければ、もしもカトリックの変わり得ない教えを曖昧に伝えて人々を誤りに導くようであるなら、そのような指導者は「パンをほしがる子に石を与え、魚をほしがる子に魚の代りにへびを与え、卵をほしがる子にさそりを与える父親」に等しいからです。

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


天主教周報第 615 号 2020 年 11 月 8 日発行の記事翻訳


教皇フランシスコのドキュメンタリー映画『フランチェスコ』で見落とされた重要なポイント:
性の本質は一人の男性と一人の女性による婚姻の内に成立する


■文/カトリック台北大司教区生命倫理委員会

10 月 22 日の報道によると、教皇フランシスコはドキュメンタリー『フランチェスコ』の中で同性愛傾向者に共同生活をする法的権利を与えることに触れておられます。各メディアでは、原文のスペイン語、英語、中国語の間の単語は同じではなく、多少の論争があります。例えば、中国語では「同性結合」、「共同生活」、「共存を保証する民法」、「民事共存」、「民事共處(共存)」と訳されます。大きな争いを引き起こす重要なポイントは、これらの言葉は教会が『聖書』、聖伝と教会が教導する性と婚姻の教えを等しく曖昧にし、なおかつ軽視していることです。教会の教導する教義は非常にはっきりとしています。あらゆるカトリック教徒、とりわけカトリック教徒の政治的人物は、必ず同性結合の法律に反対しなくてはなりません。以下に教会の教えを説明します。

カトリック教会の性と婚姻に対する教えは真理であり、『聖書・創世紀』から今に至り、未来永劫に不変です。性の本質は一つの種による客観的な共同の存続で、本来は本性の秩序の下にあり、男女の異性間の結合は、婚姻をすることで次世代を保護し生み育て、共同で家庭を作ります。しかし、同性間「性的な結合」はこの種の客観的な共同の秩序に違反します。これは客観的な真理であり、どんな言葉もそれを消し去ることが出来ません。

『カトリック教会のカテキズム』は、「同性愛的"傾向"(性的指向)」が罪ではないとはっきり説明しています。私たちは「同性愛的傾向者」をその両親を含めて配慮することが必要で、彼らが貞潔で価値のある生活を過ごし、苦痛をイエズス・キリストに捧げることに寄り添わなければなりません。しかし「同性による性"行為"」は男女の婚姻内の性行為ではなく、第 6 戒「姦淫する勿れ」に違反する罪です。イエズス・キリストは姦淫を犯すような行為の人を慈悲深く許すことが出来ますが、同時にまた「再びしてはならない」と彼らに教えました(《カトリック教会のカテキズム》2357-2359 条参照)[訳注1]

教皇聖ヨハネ・パウロ 2 世は、正式な文書で指摘されています。「今日、私たちは、特にある場所で[家庭の]本当の自然本性を貶めようとする傾向を目にします。実際に、世論であるか、立法機関であるかにかかわらず、家庭を単なる事実上の結合に過ぎない、あるいは同性の結合を認可しなければならないというこの種類の傾向はずっと存在しています。これとその他の異常に対しては、司牧的に断固として、私たちが婚姻と家庭に関する真理を宣言するように導いています。もしこのようにしなければ、司牧上の深刻な怠慢であり、人を誤った方向へ導き、特に国家の共通善のために政策を決定する重大な責任を担う人々を誤った方向へ導くものです。」(2002 年11 月 16 日、教皇ヨハネ・パウロ 2 世のブラジル東部の第 2 区司教アド・リミナ時の挨拶)[訳注2]

教理省『同性配偶者に法的地位を与える提案の考慮に関して』は明確に述べています。「既婚の夫婦は人類の子孫継続を確保することが出来、特に大衆の公益に利があるので、民法は婚姻を1つの制度と認めます。その一方で、同性的配偶者の結合はこの役割を履行する公益のためではなく、それゆえ法律的立場から論ずれば、特別な世話は必要ではありません。同居する同性者が一緒に生活するのだから、彼らの人権と市民権が奪われるのを避けるために、法律で同性愛を認可しなければいけないというこの論拠は実際には成り立ちません。現実に、――ちょうど、すべての市民が自分の私的な自律的生活においてそうするように――公益の問題に関連して自分の権利を守るために、彼らは常に法律の条文を利用することができています。大衆の公益と家庭に対する公正な法律を犠牲にしてまで、社会全体を妨げない方式で保証することができまた保証しなければならない私人の利益を守るのはきわめて不公平な事です。」[訳注3]

米国司教団が公布する『同性愛傾向者に対する専任職務:司牧手引』は次のように指摘します。「同性愛的傾向者は、尊厳の対処を受けることを含むあらゆる人間と同様の基本的権利があります。しかし、『性的傾向』は決して種族、民族背景などと同列に論じる質性を構成せず、これは差別するかどうかとは無関係です。」ですから、婚姻がなおただ一人の男性と一人の女性の内に制限されていることは不公平ではありません。婚姻の中でこそ持てる福祉を、同性の伴侶が享有することに反対することも、同じく不公平ではありません。従って、いわゆる同性の「婚姻」、またはいかなる類似の結合、例えば婚姻に似た同性結合(シビル・ユニオン)を教会は支持しません。教会の聖職者たちは、このような結合を祝福することは出来ず、同じく、直接または間接的でも、いかなるやり方でも、このような結合を提唱することは出来ません。[訳注4]

最後の一点で同様に重要なのは、教皇フランシスコのドキュメンタリー映画『フランチェスコ』は教会の正式な教導文書ではないことです。教皇が映画の中で何を言われても、これによって『聖書』、聖伝と教会の教導以来続く性と婚姻に対する教えは変わると言うことは出来ません。その上、映画は容易に編集の技巧を通して、監督あるいはその他個人の訴えを差し込めます。信者がこの映画がリリースする情報を見る時、さらにはっきりと知らねばならないのは、映画中の叙述が何であろうとも、法律上の同性結合を認める教えを拒絶する教会の教導の権利は変わりません。

脚注

[訳注1] Catechism of the Catholic Church: Chastity and homosexuality
2357 Homosexuality refers to relations between men or between women who experience an exclusive or predominant sexual attraction toward persons of the same sex. It has taken a great variety of forms through the centuries and in different cultures. Its psychological genesis remains largely unexplained. Basing itself on Sacred Scripture, which presents homosexual acts as acts of grave depravity,141 tradition has always declared that "homosexual acts are intrinsically disordered."142 They are contrary to the natural law. They close the sexual act to the gift of life. They do not proceed from a genuine affective and sexual complementarity. Under no circumstances can they be approved.
2358 The number of men and women who have deep-seated homosexual tendencies is not negligible. This inclination, which is objectively disordered, constitutes for most of them a trial. They must be accepted with respect, compassion, and sensitivity. Every sign of unjust discrimination in their regard should be avoided. These persons are called to fulfill God's will in their lives and, if they are Christians, to unite to the sacrifice of the Lord's Cross the difficulties they may encounter from their condition.
2359 Homosexual persons are called to chastity. By the virtues of self-mastery that teach them inner freedom, at times by the support of disinterested friendship, by prayer and sacramental grace, they can and should gradually and resolutely approach Christian perfection.
https://www.vatican.va/archive/ccc_css/archive/catechism/p3s2c2a6.htm#II

貞潔と同性愛
2357 同性愛とは、同性に対してのみ、もしくは主に同性に対して性愛を抱く男同士、またほ女同士の関係を指しています。これは時代に従ってまたさまざまな文化の中で、きわめて多様な形を取っています。その心理学的起源はまだ十分に解明されていません。同性愛の行為を重大な堕落の行為 (acts of grave depravity) とする聖書に基づき、聖伝はつねに「同性愛の行為は本質的に秩序が乱れている (intrinsically disordered)」と宣言してきました。同性愛の行為は自然法に背きます。この行為は性行為を生命の賜物へと閉ざさせます。これは、真正の情的・性的補完性から生じるものではありません。いかなる場合でも、これを認めることはできません。
2358 同性愛の根強い傾向を持ってい男女の数は無視できません。この傾向は、客観的には秩序の乱れた傾向ですが、大部分の当事者にとって、これは試練です。彼らは、尊敬と同情と思いやりをもって迎え入れられなければなりません。彼らに関して不当な差別の印は避けられるべきです。この人々は、自分の生活の中で天主の御旨を果たすように呼ばれており、彼らがキリスト信者であれば、自分のこの条件から生じるかもしれない困難を主の十字架の犠牲と一致させるように招かれています。
2359 同性愛的な人々は貞潔に呼ばれています。内的自由を自分に教える自制・克己の徳によって、またときには、友人の献身的な助けによって、祈りと秘跡の恩寵によって、彼らは徐々に、そして断固として、キリスト教的完徳に近づくことができますし、またそうでなければなりません。

[訳注2] 英語: Address of John Paul II to the Bishops of Brazil from the East 2 Region on Their “Ad Limina”Visit No. 4): Today we are seeing a trend, very widespread in certain areas, which is tending to reduce its true nature. Indeed, there is no lack of attempts, in public opinion and in civil legislation, to make equivalent to the family mere de facto unions or to recognize as such same-sex unions. These and other anomalies lead us with pastoral firmness to proclaim the truth about marriage and the family. Not to do so would be a serious pastoral omission that would lead people into error, especially those who have the important responsibility of making decisions for the common good of the nation.
http://www.vatican.va/content/john-paul-ii/en/speeches/2002/november/documents/hf_jp-ii_spe_20021116_brazil-leste-ii.html

[訳注3] 英語: Considerations Regarding Proposals to Give Legal Recognition to Unions Between Homosexual Persons No. 9:
Because married couples ensure the succession of generations and are therefore eminently within the public interest, civil law grants them institutional recognition. Homosexual unions, on the other hand, do not need specific attention from the legal standpoint since they do not exercise this function for the common good.
Nor is the argument valid according to which legal recognition of homosexual unions is necessary to avoid situations in which cohabiting homosexual persons, simply because they live together, might be deprived of real recognition of their rights as persons and citizens. In reality, they can always make use of the provisions of law – like all citizens from the standpoint of their private autonomy – to protect their rights in matters of common interest. It would be gravely unjust to sacrifice the common good and just laws on the family in order to protect personal goods that can and must be guaranteed in ways that do not harm the body of society.(17)
https://www.vatican.va/roman_curia/congregations/cfaith/documents/rc_con_cfaith_doc_20030731_homosexual-unions_en.html

[訳注4] 英語: Ministry to Persons with a Homosexual Inclination: Guidelines for Pastoral Care
In fact, the Church actively asserts and promotes the intrinsic dignity of every person. As
human persons, persons with a homosexual inclination have the same basic rights as all people, including the right to be treated with dignity. Nevertheless “‘sexual orientation’ does not constitute a quality comparable to race, ethnic background, etc., in respect to nondiscrimination.”33 Therefore, it is not unjust, for example, to limit the bond of marriage to the union of a woman and a man. It is not unjust to oppose granting to homosexual couples benefits that in justice should belong to marriage alone. (...)
Consequently, the Church does not support so-called same-sex “marriages” or any semblance thereof, including civil unions that give the appearance of a marriage. Church ministers may not bless such unions or promote them in any way, directly or indirectly.
https://www.usccb.org/resources/ministry-to-persons-of-homosexual-iInclination_0.pdf

天主教周報 No 615. 主曆2020年11月8日 星期日

教宗方濟各紀錄片《Francesco》被忽視的重點:
性愛的本質建立在一男一女婚姻之內


■文/台北總教區生命倫理委員會

根據10月22日報導,教宗方濟各在紀錄片《Francesco》裡提到,給予同性傾向者共同生活的法律權利。無論各媒體在原文西班牙文、英文、中文之間用詞多麼不同,有多少爭議,例如,中文或許譯為「同性結合」、「共同生活」、「保障共存的民法」、「民事結合」、「民事共存」、或「民事共處」,引起軒然大波的重點是,這些詞語中均模糊且忽視了教會在《聖經》、聖統和教會訓導中,對於性愛和婚姻的教導。教會訓導的教導非常清楚:所有的天主教徒,尤其是天主教政治人物,必須反對承認同性結合的法律。以下說明教會的教導。

天主教會對於性愛和婚姻的教導是真理,從《聖經.創世紀》以來,至今永恆不變。性愛的本質是一種客觀共同系統,原本就是在本性秩序之下,男女異性之間的結合,受婚姻保護生育下一代,共同成立家庭,而同性之間的「性愛結合」違反這種客觀共同秩序。這是客觀真理,任何言語都不能抹殺。

《天主教教理》清楚說明「同性傾向」不是罪。我們要關愛「同性傾向者」,連其父母都要關懷,要陪伴他們過貞潔有價值的生活,把痛苦奉獻給耶穌基督。而「同性性行為」不是男女婚姻內的性行為,是違反第六誡「勿姦淫」的罪。耶穌基督會仁慈寬恕犯姦淫這樣行為的人,但同時也教導他們:「不要再做了。」(參閱《天主教教理》,2357-2359條)

教宗聖若望保祿二世在正式文件上指出:「現今我們看到一種趨勢,尤其在某些地方十分普遍,就是要貶低自然本性。事實上,這種趨勢一直都在,無論是公共觀點或是立法機構,都要將家庭等同於僅只是身體上的結合,或是要認可同性結合。這種及其他的異常使我們必須在牧靈上,肯定地宣揚婚姻與家庭的真理。不如此做的話,在牧靈上是嚴重的疏忽,引導人往錯誤的方向走,尤其誤導國家決策者,因為他們對國家前途身懷重任。」(2002年11月16日,教宗若望保祿二世對巴西東部第2區主教述職時作的致詞)

信理部《有關賦予同性配偶法律地位建議的考慮》明確說道:「由於已婚的夫婦能確保延續人類後代,特別有利於大眾公益,民法因而確認婚姻為一個制度。另一方面,由於同性配偶的結合並不為公益履行
這職能,故此就法律立場而論,不需要特殊關照。有謂為了避免共賦同居的同性配偶,由於他們生活在一起,致令他們的人權和公民權可能不受到正視,因此必須賦予法律認可,這樣的論據實在不能成立。
事實上,他們常可引用法律條文——正如所有公民對自己的自主行為一樣——在有關公益的問題上維護自己的權利。犧牲大眾公益和對家庭的公正法律,而去維護應以不妨礙社會整體的方式來保障的私人利
益,這是極其不公義的事。」

美國主教團頒布的《對有同性戀傾向者的專職服務:牧民指引》指出:「同性傾向者有著與所有人相同的基本權利,包括受到尊嚴的對待。然而,『性傾向』並不構成可與種族、民族背景等等相提並論的質性,這與是否歧視無關。」所以,猶如限制婚姻只是在一男一女之內並沒有不公平;同性伴侶不能享有只在婚姻中才擁有的福祉,也沒有不公平。教會不支持同性「婚姻」,或任何類似的結合,例如,狀似婚姻的同性結合。教會職務上不能祝福這樣的結合,也不能直接或間接地以各種方式提倡這樣的結合。

最後一點同樣重要的是,教宗方濟各的紀錄片《Francesco》並不是教會的正式訓導文件。不論教宗在影片中說什麼,不能因此就說教會一直以來從《聖經》、聖統和教會訓導,對於性愛和婚姻的教導就此改變。況且影片也可輕易透過剪輯技巧,置入導演或其他個人的訴求。教友看到這支影片所釋放的訊息時,更必須清楚,影片中的敘述,無論如何都不改變教會訓導權拒絕法律上承認同性結合的教導。


教皇様が発言されたとされている「同性愛を法的に認めるべきではないか」というような発言に関して:バーク枢機卿の発表

2020年11月12日 | カトリック・ニュースなど
2020年10月25日(主日)王たるキリストの大祝日

聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父メッセージ


聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、つい最近、インターナショナルニュースで、教皇様が発言されたとされている「同性愛を法的に認めるべきではないか」というような発言がなされたという事で、多くの方が「一体どういう事だろうか?」と思っていらっしゃる事と思います。

ニュースによりますと、フィリピンの司教様たちは「ショックで、もう言葉も出ない」とのレポートがあります。

そこで、これについてバーク枢機卿様はすぐに発言されました。

「この教皇様の言葉は、教導権を持った、権威を持ったドグマとしての発言ではなくて、個人的な発言であるので、誰もこれをドグマのように信じる必要はない。そしてこれはあくまでも個人的な発言として、私たちはそれを否定する事もできるし、批判する事もできる」という事をおっしゃっています。

バーク枢機卿様が発言した内容を今、引用したいと思います。皆さん、どうぞ注意して聞いて下さい。

まず、この教皇様の発言とされる「権威」についてです。これは、バーク枢機卿様のお言葉です。

“まず第一に、このような宣言がなされた文脈と状況のゆえに、この宣言には、『教導権』としての重みはいささかもありません。
これらの宣言は、それを述べた人の単なる個人的見解として解釈することが適切です。これらの宣言は、いかなる形においても信者の良心を縛るものではなく、信者はむしろ、『聖書と聖伝』、そして教会の『通常教導権』がその問題について教えることに対して、宗教的従順をもって従う義務があります。特に、次のようなことに注意しなければなりません。

1.「同性愛の行為を、重大な堕落としている聖書に基づき、聖伝はつねに『同性愛の行為は本質的に秩序を乱すもの(intrinsically disordered)』であると宣言してきました。”

これはカトリック教会のカテキズムからの引用です。(『カトリック教会のカテキズム』2357番。教理省『Persona Humana、性の倫理に関する特定の問題に関する宣言』VIII番)


“同性愛の行為は自然法に背き、生命という賜物から閉ざされ、真の感情的・性的補完性を欠いているためです。したがって、これを認めることはできません。”


今度は、その「人々」についてですけれども、
“2.特定の、そして時には根強い傾向を持っている同性愛の条件にいる男性や女性がいます。これらの条件は、彼らにとってこのような人々にとっては、試練ではあるけれども、それ自体は罪を構成しないかもしれませんが、それにもかかわらず、客観的には、これは秩序を乱す傾向です(『カトリック教会のカテキズム』2358番、教理省『Homosexualitatis problema、同性愛者の司牧的ケアに関するカトリック教会の司教への手紙』3号)。

したがって、このような人々については彼らについては、不当な差別を避けて、敬意と、思いやりと、感受性をもって受け入れられるべきです。カトリック教会の信仰は、信者に、「罪」を憎み、しかしながら「罪人」を愛することを教えています。”

「罪」は憎むけれども、「罪人」は愛するという事です。

“3.信徒、特にカトリックの政治家は、同性関係の法的承認に反対する義務があります。”

これは教理省の宣言です。(教理省『Considerations Regarding Proposals to Give Legal Recognition to Unions between Homosexual Persons, Diverse questioni concernenti l'omosessualita』10号)

“家庭をつくる権利は、主張されるべき私的な権利ではなく、人間を性的な差異(ちがい)のうちに「男と女とに天主がつくりだされ」(創世記1章27節)、人を、つまり男と女を、生命の伝達にお呼びになる創造主のご計画に対応したものでなければなりません。”

“結婚した夫婦は(父、子供、孫、曾孫などと)世族の継続を保証するので、抜きん出て公共の利益に合致します。そのため、市民法は夫婦の結婚に制度的な承認を与えます。

一方、同性関係は、この機能(世族の伝達の機能)を公共善のために果たさないために、法的観点から特別な注意を払う必要はありません。”

これはやはり、教理省の宣言です。(同上9号)

“結婚した夫婦間の結合と同じ意味において同性間の結合を語ることは、実際には、非常に大きな誤解を招くことになります。なぜなら、同性の人の間にはそのような結合は存在しえないからです。

司法の運用に関しては、同性愛の状態にある人は、他のすべての市民と同じように、自分の『私的な』権利を保護するために、常に法律の規定を利用することが可能です。”

「公的な権利」と「私的な権利」の区別をしなければなりません。

最後にバーク枢機卿様は、次のように述べて宣言を締めくくっています。
“報道機関によって非常に大きく強調されて報道された、教皇フランシスコのものだとされる個人的な意見が、聖書と聖伝に表わされて、そして教導職によって守られ、保護され、解釈される教会の不変の教えに一致していないことは、最も深い悲しみの源であり、また差し迫った司牧的な懸念の源です。
また同様に悲しく、かつ懸念されることは、カトリック教会が路線変更をした、つまり、そのような基本的かつ重要な問題について、『教会の永続する教えを変更した』という完全に誤った印象を与えることによって、一般的に言えば、それが引き起こすつまずきに加えて、カトリック信徒の間に引き起こされる動揺、混乱、誤謬、これこそが、司牧的な懸念の源です”と、仰っています。

愛する兄弟の皆さん、フランシスコ教皇様の為にお祈り致しましょう。教皇様の霊魂の為に、また教皇様が教導権の、キリストの代理者として、この問題についてはっきりと、明確に、私たちに教えて下さいますように、お願い致しましょう。

そしてまた同時に私たちは、「同性愛の罪」と、「同性愛の傾向を持っている人々」とを区別して、「罪」を憎み、しかし「罪の傾向にある人」は、憐れみと敬意を持って、彼らを受け入れて、そしてその彼らの為にお祈りを致しましょう。教会の教えにいつも忠実であるように、祈りましょう。

そして日本中の司教様、司祭、神父様たちが、この事についてはっきりと、聖伝の変わる事のない教えを、明確に、私たちに教えて下さるようにも、お祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。




イエズスの王権か、あるいは悪魔の支配下か。私たちにはその2つのどちらかしかありません。

2020年11月12日 | お説教・霊的講話
2020年10月25日(主日)王たるキリストの大祝日

聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父説教(大阪)

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

今日は王たるキリストの祝日で、ピオ十一世教皇様の命令によって、今日はこの大祝日に2つの事をしなければなりません。

よく私たちがするべきものは、王であるキリストの、王としての聖体行列、あるいは御聖体降福式です。

しかし私たちは聖体行列ができないので、このミサの後に、感謝のいつものお祈りの後に、終課の代わりに、短い御聖体降福式をしたいと思っています。

そこで、ピオ十一世教皇様の命によって、もう1つ、イエズスの聖心の連祷、そしてイエズスの聖心に人類を奉献する祈り、規定の祈りがあるので、これを唱える事に致します。

それから、教皇様が非常に個人的な自分の意見として、教導権を使わずに、インタビューに答える形で、映画の中で同性愛についてちょっとしたコメントを出しました。

それについて、世界中で多くの動揺が広がってしまいました。そこですぐに、色々な枢機卿様や司教様たちが、それに対して「教会の教えはこうだ!」と発表しました。

その内で、バーク枢機卿様という方がいらっしゃいますけれども、その枢機卿様が仰った発言を、すぐにインターネットに翻訳して載せました。またそれも印刷して皆様の元に、お手元で読む事ができるように準備してあります。どうぞお持ち下さい。

愛する兄弟の皆さん、今日は王たるキリストの祝日ですので、そのイエズス様の王権について一緒に黙想致しましょう。

簡単に申しますと、「イエズス様が王である」というその根拠は2つあります。

イエズス様が、「イエズス・キリストが真の天主であると同時に、真の人間である」という、このヒポスタティスにおける一致によるからです。
イエズス様は真の天主であって、真の人間であると同時に真の天主であるので、この世界の全てを天主として統括し、統治し、所有しています。全宇宙はイエズス様の命令に従っています。ですから私たち人間も、被造物として、この創造主の命令に従わなければなりません。

それのみか、第2の理由は、イエズス様は私たちの「贖い主」であるからです。
私たちは罪を犯したので、悪魔の征服下の元にありました。悪魔の奴隷、悪魔の領地の中に落ちてしまいました。
しかしイエズス・キリスト様は、御自分の天主の血を流す事によって、私たちを贖って、買い取って、私たちをイエズス様のものとして下さいました。悪魔の手から奪って下さいました。

当然、もはや悪魔の支配下におらず、贖い主の元にいる、という事ですから、イエズス様を大恩人として、贖い主として、そして私たちを贖って勝ち取って下さった、悪魔から奪い取って下さった王として、その新しい王権の下に入るのは当然の事です。

イエズスの王権か、あるいは悪魔の支配下か。私たちはその2つのどちらかしかありません。

イエズスの御旗、十字架の御旗のもとの支配に立つか、あるいは十字架の敵の旗、十字架とは別の旗(三色旗?虹の旗?)のもとに立つかのどちらかです。

イエズス様は、信仰・希望・愛・従順・清貧・貞潔・謙遜の御旗の元に、私たちを、愛の元に引き寄せます。

悪魔は、憎しみと、自由・平等・博愛、そして傲慢・この世の欲望・権利・邪欲の元で、自分の元に引き寄せようとします。

イエズス・キリストは真の王ですけれども、その自分の王権を、私たち人間に委ねました。

この地上で最高の権威は、「教皇様」です。

この地上のどのような王よりも、どのような皇帝よりも、天皇陛下よりも、権威がある方が、教皇様です。

そしてこの教皇様に、特にイエズス様の代理者として、地上の最高の権威として、この地上の全ての平和と、祝福を、そして原理を、「イエズス・キリストの教えが何かを教える」という力を与えました。成聖の御恵みを与える力を与えました。

そして、この「教導権」とは区別されているけれども、しかし教導権を常に、その教えに従う「王権」が与えられました。その王権というのは、真理の道徳に従って、この地上の世俗の事を支配する権利です。

この王権には4つの力があります。1つは「立法権」、もう1つは「行政権」、そして「司法権」、そして軍隊を指揮する「軍隊の統率権」です。王はこの4つを持っています。

イエズス・キリスト様も王としてこれを持ち、そして地上の王にこれを委ねます。

イエズス・キリストの場所を占める者として、そのこの2つの権力が、「教導権」と「王権」が調和を取った時に、「王権」が「教導権」に従った時に、世界はまさに平和に、イエズス・キリストの支配下の元にある事になります。これがイエズス様の望みでした。

しかし残念ながら、この地上の王は、このイエズス・キリストの支配下の元にあろうとしませんでした。「私は従わない!」という昔のサタンの声を聞いてしまいました。そしてイエズス・キリストを王国から、その国から取り除こうと、できれば人々の心からもイエズス・キリストを追い出そうとしていました。

その時に、その現代世界において、ピオ十一世は言いました、「いや、もしも私たちの社会から、家庭から、人々からの心から、イエズス・キリストが王でなくなってしまったら、この世界は滅びる。」

もしもイエズス・キリストが王として、天主として、「結婚はどういうものであるべきか」「私たちの労働がどういうものであるべきか」「社会はどのようなものであるべきか」という事を教えなければ、道徳に反する、自然に反するようなものが、結婚に関して法律で認められたり、一人っ子政策、あるいは私が今口で言う事ができないような色々な悪や罪が法律となって、私たちに押し付けられてしまうことでしょう。

そうした時に、そのような社会がどうやって長く存続する事ができるでしょうか。滅びに行ってしまうのは明らかです。

昔日本にも、キリシタンは迫害したけれども、しかし犬は大切にしたという時代もありました「犬は殺してはいけない」と。

では私たちは今日、どのようにしたら良いでしょうか?

マリア様にお願いして、イエズス・キリストの教えが世界中で、キリストの代理者である教皇様の声、あるいは司教様たちの声、司祭たちの声を通じて、響き渡りますように、何も変える事ができない、イエズス様の教えを、世俗の声に忖度せずに、イエズス様の教えをそのまま、忠実に伝える声となりますように、お祈り致しましょう。

マリア様にお祈り致しましょう。カトリック教会を守って下さいますように、教皇様、司教様たち、司祭たちを守って下さいますように、忠実に、イエズス様の教えを忠実に反映する、響かせる声となる事ができますように、お祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。




もしも人間社会が、家庭が、個人が、イエズス・キリストの与える掟に従わないならば、キリストの御旨に反対するような法律を作るならば、そのような社会は滅びてしまう危険がある

2020年11月12日 | お説教・霊的講話
2020年10月25日(主日)王たるキリストの大祝日

聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父説教(東京)

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

今日は王たるイエズス・キリストの祝日です。

イエズス・キリストは真の王です。その理由は2つあります。

1つは、イエズス・キリストが真の天主であり、真の人であり、イエズス・キリストの天主のペルソナにおいて、人間の本性と天主の本性が一つに合体しているからです。
ですから創り主として、「創造主」として、全世界における主権を持っています。

そればかりのみならず、第2の理由は、イエズス・キリストは、私たちを霊魂を贖った「贖い主」として、私たちの霊魂を悪魔の手から取り返した、という征服の権利があります。
イエズス・キリストは、贖い主として、贖った霊魂たち全てに、王として支配を及ぼす権利があります。悪魔の支配を取り払う権利があります。

この2つの理由によって、イエズス・キリストは私たちの本当の、この権利を持つイエズス・キリストこそが、私たちの世界に本当の幸せと、本当の喜びを与える事ができます。

もしもイエズス・キリストが統治しないなら、もしも人間社会が、家庭が、個人が、イエズス・キリストの与える掟に従わないならば、このイエズス・キリストの御旨に反対するような掟を、法律を作るならば、この社会は滅びてしまいます。イエズス・キリストが統治しない国は、分裂して無くなってしまいます。

ある日、フランス革命の直後のナポレオンに、ピー枢機卿という、ポワチエのフランス人枢機卿が言いました。

「さぁ、閣下、ナポレオン閣下、もしもフランス帝国がイエズス・キリストを王と認めないならば、この帝国は滅びるでしょう。長く持ちません。」

その通り、すぐに滅びてしまいました。

イエズス・キリストが統治しない国は、イエズス・キリストの掟に逆らう国は、滅びるしかありません。

ですから、同性愛あるいは自然や道徳に反する事を合法化するような社会は、滅びてしまいます。この地上のどのような権威の方がそのような事を仰ったとしても、それは滅びてしまいます。

私たちは、イエズス・キリストは、そのような事を決して望みません。

イエズス・キリストが王として、私たちの社会に命令しなければなりません。そうしなければ、人類は分裂して戦い、あるいは罪の傷によって、そのまま無くなってしまいます。

マリア様にお祈り致しましょう。マリア様の御取次ぎによって、多くの家庭が、国家が、イエズス・キリストの甘美なその王権を認める事ができますように。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。






--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

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