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2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

ロザリオをよく祈る信者は、詩篇を祈る信者と同じくらい、あるいはそれ以上に多くの恩寵を得ることができる

2021年10月28日 | お説教・霊的講話

聖なるロザリオについての説教

2021年10月10日、ドモルネ神父

はじめに

10月7日には、聖なるロザリオの聖母の祝日をお祝いしました。この祝日は、1571年に、教皇聖ピオ五世によって制定されました。当時、イスラムのトルコ軍が、キリスト教世界に対して大規模な攻撃を仕掛けていました。教皇は、それに対抗する軍隊を、何とか動員させることができました。また、教皇は、童貞聖マリアが、トルコ軍を打ち負かすのを助けてくださるよう、聖なるロザリオをきわめて熱心に祈ることを、信者に求めました。実際、1571年10月7日に、その願いどおりになったのです。イスラム軍は、キリスト教側よりずっと強力で、大きな軍隊でしたが、レパントの海戦で、完全に敗北したのです。そこで、教皇聖ピオ五世は、童貞聖マリアへの感謝のしるしとして、10月7日を、「勝利の聖母」の祝日としました。その後、名称が変更され、「聖なるロザリオの聖母」の祝日となりました。ですから、教会は、童貞聖マリアの二つの称号、「勝利の聖母」と「聖なるロザリオの聖母」を統合したということです。言い換えれば、ロザリオは、勝利を意味するのです。今日は、ロザリオとその起源、また、ロザリオが常に勝利を導く力をもっている理由について、お話ししたいと思います。

1.聖なるロザリオとは何か

ロザリオは、童貞聖マリアを讃える祈りの形式のひとつです。ロザリオは、各連を主祷文で始め、「めでたし」を15連、唱えることから成り立っています。これらの祈りを唱えながら、私たちの主イエズス・キリストと童貞聖マリアがなさった15のみわざについて、心の中で黙想します。「めでたし」を唱える際には、これらのみわざに含まれる教えをよりよく理解し、その教えの中に示されている聖徳を実践することができるよう、童貞聖マリアに助けを求めます。

ロザリオは当初、「イエズスと童貞聖マリアの詩篇」、あるいはまた、「天使の詩篇」と呼ばれていました。それはなぜでしょうか? それは、ロザリオが、聖書の詩篇の構成に基づいてできているからです。詩篇が150篇あるように、ロザリオにも、「めでたし」が150回あります。詩篇が私たちの主イエズス・キリストの生と死と栄光について語っているように、ロザリオも、私たちの主イエズスの生と死と栄光について、私たちを瞑想させます。詩篇が50篇ずつの三つのグループに分かれるように、ロザリオも、喜びの玄義、苦しみの玄義、栄えの玄義の、50回ずつの「めでたし」の三つのグループに分かれます。詩篇50篇が10篇ずつの五つのグループに分かれるように、「めでたし」50回も、5連ずつのグループに分かれます。栄誦の祈りで詩篇を終えるように、同じ栄誦の祈りでロザリオの各連を終えます。詩篇が、直接、聖霊の霊感を受けて、聖書のなかにあるように、ロザリオの主要な祈りも、聖霊の霊感を受けて、聖書から引用されています。

聖ルイ=マリー・グリニョン・ド・モンフォールは、ためらうことなく、こう言っています。ロザリオをよく祈る信者は、詩篇を祈る信者と同じくらい、あるいはそれ以上に多くの恩寵を得ることができる、と。

2.ロザリオの起源

では、ロザリオの起源はどこにあるのでしょうか? ロザリオの本質的な構造は、聖ドミニコからのものです。聖ドミニコは1214年に、童貞聖マリアご自身から、ロザリオを受けました。聖ドミニコは、異端のアルビ派を改宗させようと努力していましたが、それはあまり成功していませんでした。聖ドミニコは、異端者たちの罪を償い、彼らの回心という恩寵を得るために、三日三晩の間、祈りときびしい償いのわざをしていました。すると、童貞聖マリアがご出現になって、彼にこう告げられました。「ドミニコよ、聖三位一体が、この世を改革するためにお使いになってきた武器を知っていますか?」。聖ドミニコは答えました。「ああ、聖母よ。あなたは私よりも、はるかによくご存じです。あなたは、御子イエズス・キリストに次いで、いつも私たちの救いのための最も大切な道具でいらっしゃるのですから」。すると、聖母は、こうお答えになりました。「あなたに知ってほしいのは、この種の戦いにおいての主要な武器は、新約の礎石である天使の詩篇だということです。ですから、もしあなたがあのかたくなな霊魂たちの心を動かし、彼らを天主の側に勝ち取りたいと思うなら、私の詩篇を教えなさい」。

歴史的文書によれば、ロザリオを唱えることは、聖ドミニコの時代である13世紀、ドミニコ会から始まったことは明らかです。その後、13世紀から17世紀にかけて、教会は、いくつかの補完部分を加え、今日私たちが知っているロザリオの祈り方を確立しました。

3.ロザリオの力

ロザリオは非常に強力な祈りです。聖なるロザリオの聖母は、勝利の聖母と同じお方です。どんな困難であろうとも、ロザリオの助けがあれば、乗り越えられないものはありません。このことは、教会の歴史においても、人々の生活においても、たびたび証明されてきました。しかし、それほどの効力の理由とは、何でしょうか? それは、ロザリオを祈ることによって、私たちの主イエズス・キリストの生と死と栄光の功徳のすべてが、童貞聖マリアを通して適用されるからです。ただそれだけです。それは本当に単純なことですが、ロザリオが極めて強い力をもっているのは、天主がそう、お望みだからです。天主は悪魔にこう言われました。「女はおまえの頭を砕くであろう」。

結論

親愛なる信者の皆さん、皆さんは全員、天国に行きたいと思っていらっしゃるでしょう。皆さんは全員、個人的な、家庭内の、あるいは職業上の困難を克服したいと思っていらっしゃるでしょう。皆さんは全員、より聖なるひとになりたいと思っていらっしゃるでしょう。皆さんは全員、自分の悪い習慣を直したいと思っていらっしゃるでしょう。皆さんは全員、自分の国がカトリックになることを望んでいらっしゃるでしょう。皆さんは全員、教会の危機が終わることを願っていらっしゃるでしょう。そうであれば、皆さんは、ロザリオを祈らなければなりません。毎日、できるなら家族で、少なくともロザリオを5連祈りましょう。ロザリオによって、皆さんが必要とされる恩寵を、イエズスさまとマリアさまから、いただくことができるのです。


聖テレジアは、私たちの人生において、自分と他人の霊魂を救うこと以上に大事なことはないということを、私たちに思い起こさせてくれます。

2021年10月28日 | お説教・霊的講話

使徒的な熱意についての説教

2021年10月3日、ドモルネ神父

はじめに

今日の福音で、教会が私たちに読ませるのは、自分の息子の婚宴にすべての人を招くために、しもべたちを送る王のたとえ話です。今日は、また、宣教の守護聖人である、幼きイエズスの聖テレジアの祝日でもあります。この二つの要素を合わせて、使徒的な熱意について、お話ししたいとおもいます。

1)婚姻の祝宴への招待

ある王が、自分の息子のための結婚式を準備しました。この王とは、父なる天主のことです。この王の息子とは、子なる天主である、私たちの主イエズス・キリストのことです。王の息子の結婚式とは、ご托身の神秘のことです。子なる天主は、まことの天主であると同時に、まことの人間であることによって、私たちの人間性を、ご自身に一致させられました。

王は宴会を計画して、こう言いました。「私は婚宴の準備をすでに整え、牛も肥えた獣(けもの)もほふって準備した」(マテオ22章4節)。この宴会とは、私たちの主イエズスが十字架上で犠牲としてほふられた、贖いの神秘のことです。この宴会とは、ご聖体において、ご自身の御体と御血を私たちに霊的に食べさせてくださり、またさまざまな祝福を与えてくださる、私たちの主イエズスのことです。この宴会とは、私たちの主イエズス・キリストを通して、天主が私たちのために準備してくださった、永遠の命と幸福のことです。

王は次の言葉で、しもべたちを送り出しました。「あなたたちは大路(おおじ)に行って、出会う人をみな宴会に招いてくるように」(マテオ22章9節)。天主はあらゆる地域、あらゆる時代のすべての人々を、永遠の命に招いておられます。しかし、王の招待は、しもべたちの仲介を通じてなされていることに、注意してください。天主は、ある人々の救いが、別の人々の宣教や使徒的活動に依存する、という愛徳の法を制定されました。私たちの主イエズスは、ご昇天の日に、使徒たちにこう言われました。「あなたたちは、全世界に行ってすべての人々に福音を宣べ伝えよ。信じて洗礼を受ける者は救われ、信じない者は滅ぼされる」(マルコ16章15-16節)。

もし、たとえ話のなかのしもべたちが、大路に出て、人々に会って、その人々を王の宴会に招かなかったなら、結婚式は決して招待客でいっぱいになることはなかったでしょう。それは、天主のしもべである、私たちカトリック信者にとっても同じことです。もし、怠惰や、人間的な敬意や、怠慢のために、私たちが出会う人々に対して、私たちの主イエズスについて話す機会があるたびに、それを行う努力をしなければ、彼らの中には地獄に落ちる霊魂たちがでてしまうことになり、それは、私たちのせいになってしまいます。ですから、私たち全員が使徒的な熱意を持つこと、つまり、霊魂たちを、私たちの主イエズスの知識と愛に導くことに、本気で関心を持つことが重要なのです。

2)宣教の保護聖人である幼きイエズスの聖テレジア

今日は、幼きイエズスの聖テレジアをお祝いしていますから、聖テレジアの偉大なる使徒的な熱意について、皆さんに思い出していただきたいと思います。聖テレジアは非常に多くの霊魂を、私たちの主イエズスのために勝ち取ったため、宣教の守護聖人となるにふさわしい人とされたのです。以下の逸話は、聖テレジアの姉のセリーヌが伝えたものです。

a)最初の逸話はこうです。「1896年6月、私は、テレジアの肖像写真を私たちの修道院長に差し上げるため、テレジアの写真を撮りました…テレジアは、私たちの母であるアヴィラの聖テレジアの言葉、『一人の霊魂を救うためには、私は自分の命を千回でも捧げます』« Je donnerais mille vies pour sauver une seule âme»を、自ら書いた巻物を手に持って、写真に写ることを望みました」。

聖テレジアは、私たちの人生において、自分と他人の霊魂を救うこと以上に大事なことはないということを、私たちに思い起こさせてくれます。そのため、私たちは、いかなる努力も、いかなる苦難も、いかなる苦しみも引き受ける覚悟ができていなければなりません。

b)二つ目の逸話です。「私たちがローマに行ったとき、テレジアはまだ14歳でした。宣教修道女たちの年鑑を数ページ読んだ後、テレジアは読むのをやめて、私にこう言いました。『もうこれ以上、読みたくありません。私はもうすでに、宣教をしたいという熱い願望を持っています。この使徒職の記録を読んで、その願いがもっと大きくなったら、いったいどうなることでしょう。私はカルメル会員になりたいのです』。テレジアは、そう決めた理由を、こう説明しました。『それは、厳格な生活の単調さから、より多くの苦しみを味わい、それによって、より多くの霊魂を救うためです』」。

聖テレジアは、霊魂たちを回心させるのは、天主の恩寵にほかならない、ということを、私たちに思い起こさせます。私たちの主な義務は、天主との深い友情の生活を通して、天主のこの恩寵を得ることです。私たちの天主への愛が、親密で、真摯であればあるほど、私たちの祈りは、より効果的なものとなります。私たちが天主にお与えすればするほど、天主も私たちにもっと与えてくださいます。天主との親密な友情の生活は、外見的には単調で、隠れた生き方の下でも、存在しうるのです。

c)三つ目の逸話です。「テレジアは、自分の生涯の物語のなかで、プランジーニという不幸な殺人犯のために粘り強く祈ったこと、そしてその祈りがかなえられ、この男が処刑される直前に突然悔い改めたのを見たときの感動について、語っています。テレジアは、その前に、顔を赤らめながら、この男の回心のために捧げるミサの費用を私に渡していました。テレジアは、恥ずかしくて、自分の聴罪司祭に、それを自分からお願いすることができなかったのです」。

ここで、聖テレジアが私たちに思い起こさせるのは、すべての恩寵の源は、私たちの主イエズスの十字架上での犠牲であって、それはミサにおいて更新される、ということです。ですから、ミサを捧げることは、罪人の回心を得るための強力な方法なのです。

d)四つ目の逸話です。「カルメル会修道院では、テレジアの使徒的な熱意は高まり続け、いつも、それが現れていました。ある日、私はテレジアが、ある労働者が不在のあいだに、その人の上着の裏地の下に、聖ベネディクトのメダイをこっそり隠しているのを見ました。その労働者は罪人だったのです」。

聖テレジアは、罪人の回心のために教会の準秘跡を使うことを、私たちに思い起こさせます。例えば、不思議のメダイを配ることです。聖母は、特にそのメダイを身につけている人々に有益な影響を及ぼしてくださることを、明らかにされています。

e)五つ目の逸話です。「テレジアの全身が結核に侵され、ひどい苦しみを受けていたとき、私たちがテレジアのために涙を流して、天の助けを求めて祈っていると、テレジアはこう言いました。『私のために唱えられるすべての祈りが、私の苦しみを和らげるためではなく、罪人たちを救うために使われるよう、主に祈っています』。そして、私は今でも、テレジアの次の言葉が耳に残っています。『こんなに苦しむことがあるなんて、信じられませんでした…絶対に、絶対に! 私がこのことを説明できるのは、私には、霊魂たちを救いたい、という熱烈な願いがあるからです』。« Non, je n'aurais jamais cru qu'on pouvait tant souffrir... jamais, jamais!  » これが、テレジアの最後の言葉のひとつでした」。

聖テレジアは、私たちの主イエズスが、そのご受難の苦しみによって私たちをあがなってくださったことを、私たちに思い起こさせます。ですから、私たちもまた、苦しむことによって、霊魂たちの救いのために働くのです。それが意味するのは、天主が私たちに送ってくださる苦しみを忍耐強く受け入れ、その苦しみを私たちの主イエズスと童貞聖マリアの苦しみと一致させることによって、私たちが働くということです。

結論

この説教を、最後の逸話で締めくくります。

「テレジアは、何度も、さまざまな方法で、天からバラの雨を降らせること、つまり多くの恩寵を送ることを、約束しました。テレジアは、自分の死後も、教会のために祈り、司祭とともに自分の特別な使命を続けることによって、良いことをしたいという願いと確信を、表明しました。特に、自分がどんな良いことをするのか、また、信頼することと、完全に身を委ねること、という自分のやりかたを教えることで、いかにして霊魂たちを天主のもとに呼び寄せるのかを、テレジアが説明しているのを聞きました。私はテレジアに、こう言いました。『それなら、天国から、もっと多くの霊魂を救うことができると信じているの?』。テレジアは、答えていいました。『ええ、そう信じています。その証拠に、私が主のために霊魂たちを救いたいとこんなに願っているときに、主は私を死なせてくださるのですから…』」。

親愛なる信者の皆さん、今日、大きな信頼を持って、聖テレジアに向かいましょう。そして、罪の状態でくらしている親戚、友人、知人に、恩寵の雨を降らせてくださるように、お願いしましょう。また、多くの人々が、カトリックの信仰に改宗するように、聖テレジアにお願いしましょう。


【参考文献】ヴィガノ・テープ 第10番:「教会は何十年にもわたってこの世や近代主義性との対話の名の下に、信者の信仰と道徳を組織的に取り消してきた。霊魂は超自然的な参考にすべきものをすべて失った。」

2021年10月28日 | カトリック・ニュースなど

【参考文献】ヴィガノ・テープ 第10番:「数十年にわたる組織的な取り消し」

「教会は、何十年にもわたってこの世や近代主義性との対話の名の下に、信者の信仰と道徳を組織的に取り消してきたことで、霊魂は超自然的な参考にすべきものをすべて失い、カトリック的なものが何もない形のない感傷に身をゆだねることになりました。」

【解説】ヴィガノ大司教は、今は引退して現役ではありませんが、バチカンの高位聖職者で、ベネディクト十六世のもとで在米教皇大使を務めました。
ヴィガノ大司教の関心は、キリストとサタンとの戦いです。人類の救いの問題です。

ここでヴィガノ大司教が話されている、ワクチンの問題は、実は、医学上の問題です。「新しい遺伝子技術を用いた実験的な治療法」が効果があるのかないのか、心臓発作や心筋炎を引き起こす副作用がどれほどあるのか、などは医学の問題だからです。また何故、完全な治験が終わっていない実験段階の技術が、副作用がどれほどあるのかまだ不明にもかかわらず、ワクチンが何故許可されているのかは政治の問題です。

それにもかかわらず、ヴィガノ大司教が信仰や道徳の領域から離れて、医学や政治の領域に踏み込んで話しているのは、次のような理由からのように思えます。
コロナ禍のなかで、聖職者自身が秘跡を執行したりミサを捧げたりする義務よりも、体の健康を優先させようとする実態(「裏切りや信仰の欠如」)を見て、ヴィガノ大司教が大きく失望したが、それ同時に、人々の体の健康を無視するわけではなく、かえって真実の意味で健康を守ろうとしたため。
ワクチン製造の過程で、中絶された胎児で作られた遺伝子血清が使用されているため。
政府当局が、事故があっても製薬会社は免責されている治験段階のワクチン接種を受けるように市民に圧力をかけているため。

そこで、ヴィガノ大司教は、ここでは個人個人の具体的な倫理的なケースについてというよりは、国家当局や教会当局の指導者たちに対する責任の重大さを思い起こさせることを主眼に話しています。

この質問への回答については、誇張表現に関する補足説明があるので、それも付け加えてあります。あくまでも参考文献としてお読みください。

【参考情報】ヴィガノ・テープ:「数十年にわたる組織的な取り消し(キャンセル)」
質問10

The Vigano Tapes: “Decades of Systematic Cancellation”
Question #10

【質問番号10】大司教様、大司教様は私たちのために善と悪の劇的な対決を描いておられます。天主と悪魔について語っておられます。私は、このような途方もない規模で多くのものに影響を与える敵対者のことではなく、もう少し細かく説明していただきたいと考えました。私たちの歴史、近年の、あるいは数世紀にわたる実際に起きた事実を、大司教様はどうお考えになっていますか? この歴史が、人類の運命、人間のアイデンティティー、人生の目標をめぐる、このような戦争へと私たちを至らせたのであり、大司教様もご承知の今日私たちが直面しているこのような厳しい対立状態へと至らせているところですが。西洋文明とキリスト教に対するこの攻撃の糸を引く権力はどのようなものでしょうか?

【回答】その答えはあまりにも単純です。まず第一に、キリスト信者として、この歴史的な戦争が人類の敵であるサタンによって行われていることを私たちは知っています。不法を行う者の背後には、常に、そして唯一、初めから人殺しであるサタンがいます。この計画の協力者が、製薬会社であろうと巨大金融であろうと、慈善団体であろうとメーソンのセクトであろうと、政党であろうと腐敗したメディアであろうと、ほとんど関係ありません。彼らはみな、意識しているいないにかかわらず、悪魔のわざに協力しているのです。

罪、病気、そして死は、紛れもないサタンのわざのしるしです。つまり、癒やされるべき悪としてではなく、邪悪な反応として、人間に生命と肉体的・霊的な健康をもたらす唯一の薬とされるものとしての罪、病気、そして死です。

実際、もはや贖いの経綸において生きるのではなく、サタンの奴隷状態 -- サタンは原罪の結果を元に戻せないようにし、キリストの犠牲を無効にしようとしている -- において生きる人々にとっては、それが正常なことなのです。これは、健康な人は潜在的な病人であり、疫病を撒き散らす人々、死を伝播する人々であるとみなされるようになり、逆にワクチン受けた人々(彼らには伝染させる力があります【シェディング】)だけが健康であるとみなされるという段階にまで至りました。しかも、聖職者自身でさえもが、秘跡を執行しミサを捧げる義務よりも、あえて体の健康を優先させようとする段階にまで至ったのです。最近の都市封鎖の際の、多くの司祭や司教のあからさまな臆病さは、聖職者のメンバーの中にある臆病さという実態を、実に、裏切りや信仰の欠如という荒涼とした実態を明るみに出しました。このことは、必要であとすれば、第二バチカン公会議の革命によってなされた損害の大きさを表わしています。

なぜなら、このことは、この一年半の間に起こった不条理な出来事だからです。季節性インフルエンザへの対応は、効果的な治療法を禁止し、新しい遺伝子技術を用いた実験的な治療法を押し付けることでした。この遺伝子技術は、ウイルスの影響を治すことができず、遺伝子の変更や副作用、心臓発作や心筋炎を引き起こし、本来健康であったり、利用可能な治療法で回復することが可能だったりした人々を死に至らしめます。

これに加えて、まるで地獄の儀式のように、中絶された胎児で作られた遺伝子血清が使用されています。これはまるで、異教徒の人間のいけにえを、健康という新たなこじつけを使って新たにし、罪のない子供たちの命で来るべき新秩序をたたえるかのようです。そして、キリスト教の洗礼が霊魂の罪を清め、その秘跡のカラクテル(霊印)で天主の子とするものであるのに対し、悪魔の洗礼はそれを受ける人々に獣のしるしをつけるのです。

カトリック信者はいかにして、良心の呵責を感じることなく、一種の悪魔の洗礼としてワクチンを受けることができるのか、という答えを必要とする問いが残っています。確かに、何十年にもわたって、この世や近代主義性との対話の名の下に、信者の信仰と道徳を組織的に取り消してきたことで、霊魂は超自然的な参考にすべきものをすべて失い、カトリック的なものが何もない形のない感傷に身をゆだねることになりました。霊魂の去勢は、この世と肉と悪魔に対するキリスト教の戦いが、無作法な退却へと、まさに臆病な脱走へと変質させられた瞬間に起こったのです。かつてはキリストの兵士でしたが、今では多くの人々が、自分が敵の男らしくない廷臣であることに気づいたのです。

 

   また、以下に、オーストラリアの読者からの重要で敏感な質問と、ヴィガノ大司教が私に送った質問への回答を掲載します。見逃さないでください。-ロバート・モイニハン

読者からの重要な質問

9月21日、オーストラリアのルイーズさんという女性からメールでこんな質問をいただきました。

おはようございます、ロバート。
  今の私が書いているように手紙を書く人がたくさん出てくると思います。ヴィガノ大司教は、あなたの質問10に対する回答の中で、私の記憶が間違っていなければ、ワクチン接種を受け入れることは、悪魔の洗礼を受け、獣のしるしを受けることだと言っておられます。これは問題発言だと思います。なぜなら、私たちの家族や友人のほとんどが、自国の政府が主導するメディアによって広められた恐怖による強制的な接種を受けているからです。ご存じのように、教会は私たちを別の方向に導いていません。
 ロバート、私は良きカトリック信者たちを知っています。聖伝のラテン語ミサにあずかっている人々、完全に正統派で年配の人々を知っています。彼らは、成人した子どもの一人が泣いて訴えたため、教区司祭に相談しました。この司祭は、ワクチン接種に同意することは獣のしるしを受けること「ではない」と断言しました。実際、この司祭自身も、これから人々の家に入ることができるようにワクチンを接種していました。そして、この司祭は、小教区の修道女会も同じ理由でワクチンを接種していると付け加えました。

 ほとんどの人は、主流メディアからの情報だけを受けているため、ウイルスのことで惑わされ、宣伝され、混乱し、不安になり、恐怖を感じています。大多数の人々はこのように行動しています。こういう訳で、私たちは羊と呼ばれているのです。なぜなら、羊は先頭の羊がすることを見て、それに従うからです。

 ほとんどの人が、自国の政府が自分たちを騙すという考えを持てないからではないかと私は思います。多くの人にとって、それはあまりにも信じがたいことなのです。だから、このような不確実な状態で生活するという感じている不安を解消するために、ワクチンを受けるのに同意するのです。非常に多くの人がこのようにしています。考えることをやめてしまったのです。彼らに話を聞いてみてください。大きな安心感があると言うでしょう。

 獣のしるしについての説明は、それがなければ誰も売買できないと聖書に書かれており、将来的にワクチンパスポートのようなものができる可能性があることは私も十分承知しています。しかし、私はまだそこまで来ていないと思います。少なくとも、多くの医療専門家は、慢性的な不健康の長期的な影響が、おそらく地球規模の社会の70%の人々にとって2~3年以内に明らかになると言っています。ですから、人類の大部分が健康を害してしまえば、より簡単にコントロールできるようになるのです。

 ロバート、ヴィガノ大司教にこの点について正確に表現をしたかどうか聞いてみてください。私は、彼のコメントによって多くの人が傷つくと信じています。なぜなら、彼らは悪魔的なプロジェクトとのつながりに気づいていなかったからです。あなたに天主の祝福がありますように。
   ―ルイーズ(オーストラリアにて)

私はこの手紙を大司教の注意を引くため、こう書き送りました。

 オーストラリアの読者から、とても興味深く、おそらく重要な手紙が届いています。答えていただけないでしょうか? 私は大司教様が多くのことに取り組んでおられることを承知していますが。
  ―ロバート

 その後、大司教は9月24日に次のように回答しました(本文は彼のイタリア語原文を私が訳したものです)。

【質問10a】大司教様、ワクチン接種は悪魔の洗礼のようなものだとおっしゃるのは、善意で説得されてワクチンを受けることを許した多くのカトリック信者にとって、少しきつい印象を与えるのではないでしょうか?

【カルロ・マリア・ヴィガノ大司教】このような質問をしていただき、ありがとうございます。この質問で、私は自分の考えを明確にできますし、さまざまな理由で予防接種を受けたそういう信者を励ますことができます。

ワクチンが悪魔的な象徴であり、それが「獣のしるし」を表す可能性があるという事実についての私の発言は、新世界秩序の確立に向けてグレート・リセットを完了する口実として悪意を持ってパンデミックを起こそうと決めた人々の意向に関するものです。ワクチンにこのようなほとんど秘教的な意味合いを持たせ、同時にパンデミック全体に儀式や典礼的な特徴を持たせているのは、ルシフェリアン・エリートです。

 私の表現は、パンデミックという茶番劇全体の最も不穏な部分を強調するための誇張表現(hyperbole)のつもりでした。[訳注:誇張表現(hyperbole)とは、「『一年は寝られる』とか『この本は一トンの重さがある』のように、強調や効果のために大げさな表現を用いる言葉のあや」であり、誇張表現とは、「修辞学上、明らかな誇張であり、文字通りに理解されることを意図しない、贅沢な発言や主張」です。]

逆に、教区司祭や霊的指導者の助言であっても、あるいはメディアや医療機関の圧力であっても、予防接種を受けるように説得されてしまう素朴な信者には、何の落ち度もありませんし、そのワクチンを使ってカトリック信仰から棄教し、「獣のしるし」の烙印を押されることを望むという重大な責任を負うこともありません。

また、私の知人や親戚にも起こったことですが、遺伝子血清の投与は、しばしば脅しや強制のもとに行われてきました。人々が特定のサービスを利用できたり、特定の場所に入れたり、さらには、今日イタリアで起こっているように、健康パスポートを所持し、いわゆるワクチンを接種した場合に限り、人々は仕事を続けることができるようになっています。多くの司祭も、役務を行うために、また病院や避難所に入って秘跡を執行するために、しばしば司教の命令によってワクチン接種を強いられてきています。

教理省(CDF)は、正確であいまいではない明確な介入をするのが助けとなり必要であっただろう時に、「ディープ・チャーチ」とそのトップのための共鳴板【宣伝グループ】としての役割を果たしていることは憂慮すべきことです。そういう介入をせずに、CDFは、その成分を知ることさえできない実験的な薬 -- 産業上の秘密に覆われているため -- に道徳的な正当性を与えることを急いでいます。また、何と簡単に、中絶に由来する細胞株の使用が道徳的に許容されると宣言し、ベルゴリオとパンデミックのナラティブ(物語)を喜ばせることだけを目的に、カトリックの教えを歪めています。アタナシウス・シュナイダー司教は、最近のインタビューの中で、「現代の多くの道徳的異端は、聖トマスや他の教会博士たちからの引用文をも含んでいる」と正しく観察しています(こちら)。

このように急ぐことは、世俗の当局さえも製薬産業の圧力を受けて不幸な選択をすることを正当化してしまった緊急事態の状況と完全に調和しているため、この性急さは教理省の発表(ノート)が表面的で不完全なものに見えるということを意味しています。なぜなら、この発表が遺伝子血清の短期的および長期的な深刻な副作用を考慮していないからです。

教理省は、妊娠中の母親をその気にさせ、法外に増加している妊娠中絶に沈黙しています。同省は、血清によって引き起こされる不妊症のリスクについて沈黙しています。同省は、コヴィッド(コロナウイルス感染症)による入院のリスクが最も少ない子どもや若者に遺伝子血清が引き起こす深刻な病状や死について沈黙しています。

最後に、今初めて人間に広く使用されている新しいメッセンジャーRNA技術は、実際には「ワクチン」とは言えない治療法ですが、これまで明らかに効果がなく、有害な副作用があった医薬品や治療法であり、スパイクタンパク質の接種によって長期的にどのような遺伝的変化が起こるのか、誰も確実には言えません。これらの「ワクチン」の効果がないことが明らかになったことで、教理省が当初認めた合法性が失われます。なぜなら、患者が自分自身をさらす危険は、当初保証されると言われていたわずかな、あるいは存在しない利益とは不釣り合いだからです。これらの議論にもかかわらず、ベルゴリオはこれらの「ワクチン」の積極的な推薦者となり、「ディープ・チャーチ」と「ディープ・ステート」を結びつける本質的なつながりをこの推薦によって証明しているのです。教理省がその道徳的権威を完全に失いたくないのであれば、たとえデータや証拠が主流メディアによって検閲されているとしても、現在入手可能なデータと、現在科学界によって認められている科学的証拠に照らし合わせて、この問題を再検討する必要があります。

遺伝子血清の意味は本質的に道徳に関するものであり、それゆえに、たとえ日常の活動の正常な遂行や司祭としての役務遂行の可能性がそれを受け入れるかどうかにかかっているとしても、重要性の低い問題だと考えることはできません。私の同僚司教であるシュナイダー司教はこう断言しています。「胎児産業への協力を妥協せずに明確に拒否することは、初期の数百年間のキリスト教徒が偶像崇拝や皇帝像への協力を妥協せずに拒否したことと類似しています」。しかし、ベルゴリオが、教導権に忠実であり続けようとする人々を「硬直」や「原理主義」と非難し、自分が圧迫的な権威主義で押し付ける逸脱を受け入れない人々をあざけり、侮辱する機会を決して逃さないのなら、どんな妥協しない姿勢を期待できるでしょうか。できるはずがありません。

しかし、私はワクチン接種を受けた人々に思い起こしていただきたいと思います。実験的な遺伝子血清の性質を認識していない場合や、世俗および教会当局を善意で信頼している場合には、個々の信者がワクチンを接種したことで「罪を犯した」と感じることは決してないと私が信じていることを。実際、カトリックの教理では、十分な理解と意図的な同意なしに行われた行為は、道徳的に罪あるものとは見なされないと教えられていますが、これはいわゆるワクチンの具体的なケースにおいても当てはまります。

権威を持つ者が、世俗および教会の領域で、市民に予防接種を受けるように圧力をかけてきたことは、非常に重大な道義的責任が残ります。死者や永久的な障害を含むすべての人の健康に対する結果は、保健当局の良心に大きな石のように重くのしかかり、教会の位階階級にはさらに重くのしかかります。これらの人々は、自分自身の過ちと、臣民に対して犯すことを許した過ちについて、天主の御前で答えなければならないでしょう。

軽薄な罪によって、あるいはさらに悪いことには犯罪的な共犯関係によって、霊魂と体の健康を守るためにそれぞれ責任を負う人々の権威と言葉を信頼していた非常に多くの罪のない人々に対して引き起こされたこれらの害から、主がご自身の子どもたちを守ってくださるように祈りましょう。

―カルロ・マリア・ヴィガノ大司教、2021年9月24日


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