Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

【カトリック聖伝のミサ】【修正あり】2022年クリスマスから年末年始のミサの予定

2022年12月22日 | 聖伝のミサの予定

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、
クリスマスから年末年始のミサの予定をお知らせいたします。

 12月16日(金) 【修道院】06:45 ミサ聖祭、【大 阪】18:00 ミサ聖祭、
 12月17日(土) 【大 阪】10:30 ミサ聖祭、【修道院】11:00 ミサ聖祭
 12月18日(日) 【東 京】09:00, 11:30 ミサ聖祭【大 阪】10:30 ミサ聖祭【名古屋】17:30 ミサ聖祭
 12月19日(月) 【修道院】06:45 ミサ聖祭(!!)
 12月20日(火) 【修道院】07:15 ミサ聖祭
 12月21日(水) 【修道院】07:15 ミサ聖祭
 12月22日(木) 【修道院】07:15 ミサ聖祭
 12月23日(金) 【修道院】06:45 ミサ聖祭、【大 阪】18:00 ミサ聖祭、
 12月24日(土) 【大 阪】10:30 ミサ聖祭、21:00 御降誕の朝課、24:00 主の御降誕のミサ聖祭および賛課
 12月25日(日) 【東 京】09:00, 11:30 ミサ聖祭【大 阪】18:00 ミサ聖祭
 12月26日(月) 【大 阪】06:30 ミサ聖祭
 12月27日(火)  --😓--
 12月28日(水)  --😓--
 12月29日(木) 【修道院】07:15 ミサ聖祭
 12月30日(金) 【修道院】07:15 ミサ聖祭
 12月31日(土) 【修道院】11:00 ミサ聖祭

2023年
 1月01日(日) 【東 京】09:00, 11:30 ミサ聖祭【大 阪】18:00 ミサ聖祭
 1月02日(月) 【大 阪】10:30 ミサ聖祭
 1月03日(火) 【修道院】11:00 ミサ聖祭
 1月04日(水) 【修道院】07:15 ミサ聖祭
 1月05日(木) 【修道院】07:15 ミサ聖祭
 1月06日(金) 【修道院】07:15 ミサ聖祭
 1月07日(土) 【修道院】11:00 ミサ聖祭
 1月08日(日) 【東 京】09:00, 11:30 ミサ聖祭【大 阪】18:00 ミサ聖祭
 1月09日(月) 【大 阪】06:30 ミサ聖祭
 1月10日(火) 【修道院】11:00 ミサ聖祭
 1月11日(水) 【修道院】07:15 ミサ聖祭
 1月12日(木) 【修道院】07:15 ミサ聖祭

【大阪】「聖ピオ十世会 聖母の汚れなき御心聖堂」 大阪府大阪市淀川区東三国4丁目10-2 EG新御堂4階 〒532-0002 :JR「新大阪駅」より徒歩10-15分、地下鉄御堂筋線「東三国駅」より徒歩2-3分

 12月23日(金)【大阪】18:00 ミサ聖祭
 12月24日(土)【大阪】10:30 ミサ聖祭、21:00 御降誕の朝課、24:00 主の御降誕のミサ聖祭および賛課
 12月25日(日) 【大阪】18:00 ミサ聖祭
 12月26日(月) 【大阪】06:30 ミサ聖祭

2023年
 1月01日(日) 【大阪】18:00 ミサ聖祭
 1月02日(月) 【大阪】10:30 ミサ聖祭

 1月08日(日)  【大阪】18:00 ミサ聖祭
 1月09日(月)  【大阪】08:00 ミサ聖祭

◎お知らせ:大阪の聖堂では、2023年から
通常の金曜日のミサの時間が午後6時から午後6時30分【初金曜日の御聖体顕示による聖時間はミサのまえの午後5時20分から午後6時20分】に、
通常の土曜日のミサの時間が午前10時30分から午前8時に【毎週土曜日はこれまで通りミサの後に御聖体顕示式があります】変更される予定です。【1月28日は大阪の聖堂にフェレー司教様が来られるのでいつもの通りの午前10時30分を予定しています。】

今年(2022年)中は、ミサ聖祭は今まで通りの時間です。

◎また、コロナ感染の収束を祈願して毎週主日に午前のミサの直後に必ず行っていました聖体顕示式は、コロナ騒動も落ち着きを見ましたので先日の12月11日の主日をもって終了いたします。
主日における御聖体顕示式は、特別な祝日(例えば、御聖体の荘厳祭や王たるキリストの祝日など)にはこれまでのように行いますので、ご安心ください。

【東京】

 12月25日(日) 【東京】09:00, 11:30 ミサ聖祭:入谷ホール2F(会場にご注意ください https://goo.gl/maps/FSsNuh45xtf96og69

2023年
 1月01日(日) 【東京】09:00, 11:30 ミサ聖祭:入谷ホール2F(会場にご注意ください https://goo.gl/maps/FSsNuh45xtf96og69

 1月08日(日)  【東京】09:00, 11:30 ミサ聖祭:曙町会館(https://goo.gl/maps/xKtKk86q54rGTYX39

【名古屋】愛知県名古屋市中村区名駅南1-3-14 石原ビル6階
12月18日(日) 17:30(午後5時半) ミサ聖祭

My dearest Brethren!
I would like to inform you about the Mass schedule for Christmas and New Year.

+++ Mass schedule in TOKYO +++

December 25: Nativity of Our Lord: Mass Location 2nd Floor at IRIYA HALL (only for Christmasand the New Year Day)
https://goo.gl/maps/FSsNuh45xtf96og69
09:00 - Sung Mass
11:30 - Low Mass

January 1st, 2023: Octave of the Nativity of Our Lord: Mass Location 2nd Floor at IRIYA HALL (only for Christmasand the New Year Day)
https://goo.gl/maps/FSsNuh45xtf96og69
09:00 - Sung Mass
11:30 - Low Mass

January 8 (Sunday) Mass location: "Holy Japanese Martyrs' Mass Center", Akebonocho Jido-kaikan, 1-12-5 Honkomagome, Bunkyo-ku, Tokyo, (https://goo.gl/maps/xKtKk86q54rGTYX39
09:00 - Sung Mass
11:30 - Low Mass

+++ Mass schedule in OSAKA +++

Fri, December 23: Holy Sacrifice of the Mass at 18:00
Sat, December 24: Holy Sacrifice of the Mass at 10:30; Matines at 21:00,
Sun, December 25: Midnight Mass of Nativity at 00:00, and at 18:00
Mon, December 26: Holy Sacrifice of the Mass at 06:30 am.

New Year 2023
Sun, Jan 1: Holy Sacrifice of the Mass at 18:00
Mon, Jan 2: Holy Sacrifice of the Mass at 10:30

Sun, Jan 8: Holy Sacrifice of the Mass at 18:00
Mon, Jan 9: Holy Sacrifice of the Mass at 08:00

+++ Mass schedule in NAGOYA +++

Sun, Dec 18: Holy Sacrifice of the Mass at 17:30


聖ベルナルドは、私たちの主イエズス・キリストのご来臨を、三つに区別しています。この三つのご来臨について、考察してみましょう。

2022年12月22日 | お説教・霊的講話

私たちの主イエズス・キリストの三つのご来臨についての説教

2022年11月27日 ドモルネ神父

はじめに

聖ベルナルドは、私たちの主イエズス・キリストのご来臨を、三つに区別しています。主がベトレヘムで、人間の本性をもってお生まれになった、地上へのご来臨、恩寵によって私たちの霊魂のうちへ来られる、霊的なご来臨、そして、時の終わりにすべての人を裁くために来られる、栄光のご来臨です。第一のご来臨は、謙遜で隠されたものでした。第二のご来臨は、神秘的で愛に満ちたものです。第三のご来臨は、栄光あるものであり、かつ恐ろしいものです。第二のご来臨は、第一のご来臨の実であり、また第三のご来臨に向けて、私たちを準備するものです。今日は、この三つのご来臨について、簡単に考察してみましょう。

1.私たちの主イエズス・キリストの人間としてのご生涯における第一のご来臨

私たちの主イエズス・キリストの第一のご来臨は、主の地上でのご誕生とご生涯です。イエズスは、御子なる天主であり、天主の第二のペルソナです。主は私たちと同じ人間の本性をお取りになり、ベトレヘムで童貞聖マリアからお生まれになりました。そうして、天地の創造主である天主が、御自ら目に見える姿で、33年間、人間の中でお暮らしになりました。なぜ、主はこの地上に来られたのでしょうか? 皆さんは、もうご存じでしょう。アダムとエワは、最も重い罪を犯したため、自ら天主から離れてしまいました。その結果、彼らは、天主が自分たちに、また全人類に与えると約束なさった永遠の幸福を失ってしまい、全人類は地獄行きの宣告を受けたのです。その時から今日まで、無知と邪悪と道徳的腐敗が、人間社会全体に影響を与え続けてきたのです。

そこで、私たちの主イエズスが、私たちを、地獄と、私たち自身の邪悪な行いから救うために、来られたのです。主が来られたのは、天主についての真理、私たちの存在理由、そして、物事の善悪を、私たちに教えられるためでした。主が来られたのは、私たちの代わりに私たちの罪を償ってくださり、私たちが霊魂を清め、聖なる生活を送るための手段を、私たちに与えてくださるためでした。主が来られたのは、永遠の命と祝福に入るための力を、私たちに戻してくださるためでした。聖ヨハネは、こう言っています。「その方を受け入れた人々にはみな、天主の子となる力を授けた」(ヨハネ1章12節)。

私たちの主イエズス・キリストの、この第一のご来臨は、地上に光と平和と救いをもたらしました。この第一のご来臨は、童貞聖マリアを通してなされ、ご聖体を通して続けられています。ですから、イエズスを探し求めるすべての人は、童貞聖マリアとご聖体に目を向けましょう。主を、主の光と平和と救いと共に見いだすのは、特に、童貞聖マリアと、ご聖体においてです。

2.第二のご来臨:私たちの霊魂のうちへの私たちの主のご来臨

私たちの主イエズス・キリストの第二のご来臨は、第一のご来臨に続くものです。私たちの主の第二のご来臨は、私たちの霊魂へのご来臨です。私たちの主イエズスは、すべての人を永遠の命に招いておられます。主は、すべての人に対して、永遠の命を得るための手段を与えてくださいます。しかし、主は、それを誰にも強制はなさいません。この命を得るためには、誰もが、主を信じることによって、知性において主をお迎えし、主を愛することによって、心に主をお迎えし、洗礼を通して成聖の恩寵を受けることによって、霊魂において主をお迎えするという選択をしなければなりません。成聖の恩寵とは、私たちが天主の命にあずかり、その命が私たちに伝えられることです。私たちが成聖の恩寵を持てば、イエズスが私たちのうちに来られ、私たちを聖三位一体と一致させてくださいます。これは、霊的かつ神秘的なご来臨ですが、現実のものなのです。私たちの主が、主をお迎えする人々について、御父に語られた言葉を思い出してください。「私は、あなたの与え給うた栄光を、彼らに与えました。私たちが一つであるように彼らも一つであるように」(ヨハネ17章22節)。そしてまた 「あなたが私を愛されたその愛が、彼らにもありますように。また、私が彼らの中にいるように、私は御名を知らせ、また知らせましょう」(ヨハネ17章26節)。

私たちの主イエズス・キリストの、この第二のご来臨は、特に霊魂に、光と平和と救いをもたらします。これは、至聖なる童貞マリアを通してなされます。実際、イエズスがご自分のすべての恩寵を私たちに伝達されるのは、マリアを通してなのです。私たちの霊魂のうちへのこのイエズスのご来臨は、聖体拝領によって、強められ、増大されます。イエズスの次の言葉を思い出してください。「私の肉を食べ、私の血を飲む者は、私に宿り、私もまたその者のうちに宿る」(ヨハネ6章56節)。ですから、マリアへの大きな信心を育み、頻繁にご聖体を受ける人は幸いです。それによって、イエズスとの一致がますます強くなるからです。

3.第三の来臨:私たちの主の時の終わりにおける来臨

私たちの主イエズス・キリストの第三のご来臨は、その前の二つのご来臨を締めくくるものです。世の終わりに、イエズスは、正義を実現するために、目に見える形で、大きな力と御稜威(みいつ)をもって、地上に戻って来られます。実際、私たちの根本的な存在理由は、天主を知り、天主を愛し、天主に仕えることです。そして、これは、私たちの主イエズスのみを通じて、なされなければなりません。ですから、私たちの主は、すべての人間を裁かれ、ご自分と一致した人を恩寵によって永遠の命に導かれ、他方、それ以外の者たちを捨てられ、悪魔の力にお委ねになるのです。

この日は、罪人たちにとっては恐ろしい日となりますが、天主の子らにとっては素晴らしい日となるでしょう。教会は、正義に飢え渇いているため、この日を切に待ち望んでいます。この日は実際、天主をあざけったり軽蔑したりするすべての人々の終わりとなり、私たちの主イエズス、聖母や聖人たちを冒涜するすべての人々の終わりとなり、あらゆる不正とあらゆる種類の罪の地上での終わりとなり、悪人たちによる私たちの主の弟子たちに対するあらゆる迫害の終わりとなるでしょう。この日、童貞聖マリアは、御自ら次のように言われたように、永遠の命にお導きになったすべての子らに囲まれることでしょう。「私のいうことを聞く人は幸いである。…私を見いだす人は命を見いだし、主の救いを得る」(箴言8章34-35節)。この日、ご聖体は、イエズスの御約束に従って、その最後の実を結ぶでしょう。「私の肉を食べ、私の血を飲む者は、永遠の命を有する」(ヨハネ6章54節)。

結論

親愛なる信者の皆さん、教会は今日、私たちに最後の審判を思い起こさせ、そのための準備をするように勧めています。私たちの主の三つのご来臨の驚くべき論理を見てください。第一のご来臨では、イエズスは、私たちのもとへと、地上に降りて来られます。第二のご来臨では、主は、私たちのうちにとどまり、私たちを天主のもとへと引き上げてくださいます。第三のご来臨では、主は、私たちを天主の幸福の充満へと導いてくださいます。この第三のご来臨は、最初の二つのご来臨によって、実現されるものです。ですから、私たちが最後の審判の準備をするのは、単純なことです。私たちは、地上の人生の間、私たちの主を、私たちの心、私たちの家族、私たちの社会にお迎えしなければなりません。そうすれば、最後の審判の時に、イエズスは、私たちを迎えてくださることでしょう。「私の父に祝せられた者よ、来て、世の始めからあなたたちのために備えられていた国を受けよ」(マテオ25章34節)。


私たちが地獄の罰から逃れたいのなら、私たちは、罪と、私たちを罪に陥らせるすべてのものから、遠ざかっていなければならない

2022年12月22日 | お説教・霊的講話

罪の機会についての説教

2022年11月20日 ドモルネ神父

はじめに

今日のミサの福音には、西暦70年のエルザレム滅亡に関する、私たちの主イエズスの預言があります。エルザレムはローマ軍によって破壊され、数十万人のユダヤ人が殺されました。これは、私たちの主イエズス・キリストの神性を信じず、天主殺しの罪を犯したことに対する罰でした。イエズスはまた、終末の時代における世界の滅亡を預言されました。これは、地上の人間が犯す非常に多くの罪に対する罰です。これら二つの滅亡は、罪に対する罰であり、大罪を犯しても、心から悔い改めようとはしない人々を襲う恐ろしい罰、つまり地獄の、ごく小さな象徴なのです。

私たちの主は、弟子たちに、エルザレムの滅亡から逃れるために、そこから逃げるように忠告されました。「ユダヤにいる者は山に逃げよ」(マテオ24章16節)。私たちの主は、私たちにも、同じことを言われます。私たちが地獄の罰から逃れたいのなら、私たちは、罪と、私たちを罪に陥らせるすべてのものから、遠ざかっていなければならない、と。今日は、罪の機会から遠ざかっている、ということについてお話しします。

1.「罪の機会」という概念

この「罪の機会」という言葉は、どういう意味でしょうか? それは、私たちのうちに罪深い考えを起こさせたり、私たちが罪を犯すように仕向けたりする、あらゆる状況、あらゆる外的なもの、あらゆる人、あらゆる場所のことを意味します。例えば、私たちを欲望や中傷の罪へと導く人と一緒に時を過ごすことや、カトリックではない宗教に積極的に参加するように導く集会などがそうです。

罪の機会がすべて、同じ強さで、私たちを罪へと導くわけではありません。私たちを罪へと少し導くような、つまり、私たちが罪に陥る危険性が小さい、罪の機会もあります。私たちはそれを、「遠い罪の機会」と呼んでいます。例えば、宴会に出れば、時折、酒酔いの罪に陥ってしまう人のことを考えてみてください。そうすると、この人にとって、宴会に出ることは、「遠い罪の機会」になります。

罪の機会の中には、私たちを罪へと強く導くような、つまり、そのような機会にさらされると、私たちが罪に陥る危険性が高いものがあります。私たちはそれを、「近い罪の機会」と呼んでいます。例えば、ネットサーフィンをすると、そのうち、しばしば不純な映画を見てしまう人のことを考えてみてください。この人にとって、ネットサーフィンは、「近い罪の機会」なのです。

ある種の罪の機会は、誰にとっても、罪の機会となります。例えば、みだらな本や異端的な本は、誰にとっても、「近い罪の機会」です。またある種の罪は、当人の感じ方や性格によって、その人にとってのみ、罪の機会となります。例えば、自分のお金を浪費しなくてもギャンブルできる人もいれば、それができない人もいるのです。

2.罪の機会から逃れる必要性

罪の機会、特に私たちを大罪に導くような罪の機会から、いつも遠ざかっておくことが必要です。預言者エレミアは、「バビロンから逃げ、おのおの、その命を救え」と言っています。バビロンは不義の場所を象徴しています(エレミア51章6節)。預言者イザヤは、こう言っています。「外へ、外へ、そこを出よ、汚れたものに触れるな! その中から出よ」(イザヤ52章11節)。大罪より劇的なものはありません。大罪は、天主に対する重大な侮辱であり、私たちの主イエズスの恐ろしいご受難の原因であり、私たちを永遠に地獄に行かせるものです。ですから、私たちは、大罪を注意深く避けなければなりませんし、私たちを大罪に導くあらゆるものから遠ざかっておかなければなりません。罪の機会から遠ざかっておかないということは、罪を犯そうと間接的に望むことと同じです。ですから、「近い大罪の機会」から遠ざかっていることを望まない人は、その罪を、赦されることができません。その人は、自分の罪を、本当に悔い改めていないのです。例えば、同棲生活を送っていて、それを終わらせたくない人がそうです。

「遠い罪の機会」から遠ざかっていることは、厳格な義務ではありません。しかし、もちろん、そうすることが、強く勧められます。ですから、例えば、ある人にとって、宴会に出ることが酒酔いの遠い機会であるなら、その人は、宴会を避けることが勧められます。

「近い罪の機会」を避けることは、厳格な義務です。聖書の中で、聖霊はこのように警告されています。「危険を好む者は、その中で滅びる」(集会書3章27節)。「松やにに触れる者は、それで汚される」(集会書13章1節)。エワが、すぐに蛇から目をそらさなかったため、不従順の罪に陥ったこと、また、聖なるダヴィド王が、水浴びをするベトサベアから目をそらさなかったため、姦淫の罪を犯したこと、そして、最も賢明なソロモン王が、異教徒の女たちと結婚したため、偶像崇拝の罪を犯したことを、思い出してください。

3.罪の機会から逃れる方法

罪の機会は、速やかに、勇気をもって、絶えず、避けなければなりません。私たちの主の言葉を思い出してください。「右の目がつまずきになるなら、抜き出して捨てよ。あなたにとっては、全身が地獄に投げ込まれるより、体の一部を失う方がましである。右の手がつまずきになるなら、切り捨てよ、全身が地獄に行くより、体の一部を失う方がましである」(マテオ5章29-30節)。

ある日、ドミニコ会の聖なる修道女が、私たちの主の言葉に、文字通りに従いました。あるスペインの王が、この修道女を見て、恋に落ちました。王は、彼女の目の美しさに心を奪われたと、彼女に告げました。修道女は、自分の置かれている危機を理解し、英雄的な決断を下しました。彼女は、自分の両目を抜き出して、こう言って、それを王に送ったのです。「これが、あなたをそれほどまでにお喜ばした両目です。しかし、どうか、私が長い間、主にお捧げしてきた私の貞潔の宝を、私の主イエズスにお引き渡しください」。

結論

親愛なる信者の皆さん、この修道女は英雄的でした。何が、彼女にそのような行動をとらせたのでしょうか? イエズスとマリアへの激しい愛と、お二方を侮辱したくないという固い意志です。私たちが、私たちの主イエズスと、私たちの母マリアを心から愛しているならば、私たちのうちに罪深い思いを起こさせたり、私たちが罪を犯すように仕向けたりする、あらゆる状況、あらゆる外的な対象、あらゆる人や物や場所を、私たちの生活から排除すべきです。今日、自分の良心を調べ、私たちの生活の中に、「近い罪の機会」があるかどうかを確認しましょう。もしそのような機会があるなら、そこから速やかに、勇気をもって、絶えず、遠ざかっている決心を固めましょう。


私たちが死んだ後も完全に消えるわけではないという三つの理由、人は死んだ後どうなるか

2022年12月22日 | お説教・霊的講話

死についての説教

2022年11月13日 ドモルネ神父

はじめに

11月に入って、秋が深まり、葉が落ち、寒くなる季節になりました。この季節は、死について黙想するのに適しています。葉が色づいて落ちるように、私たちは年を取って、この世での人生の終わりに向かっています。また、寒さが次第に大気中に入り込んでくるように、死という寒さも、ますます私たちに近づいてきます。11月2日に、私たちは死せる信者の記念を行いました。この記念は、いつか私たちにも死ぬ番が来ることを思い起こさせるものです。墓地を訪れると、いつか自分もそこに入るのだと思わずにはいられません。今日は、私たちの人生の中で最も重要な瞬間、私たちの将来全体を決定づける瞬間、つまり私たちの死についてお話しします。

死ですべてが終わるのではない

私たちの人生でただひとつ、絶対に確実なことは、私たちはいつか死ぬということです。いつ、どこで、どのように死ぬかは分かりませんが、私たちは皆、いつか死ぬということだけは絶対に確実です。そうすると、当然生じる疑問があります。死んだ後は、どうなるのでしょうか?

ある人は、「すべては終わり、死んだ後には、全く何もなくなる」と言います。私たちが死ぬと、私たちは消えてしまい、無に帰するというのです。私たちの人生は、まるでまったく存在しなかったかのように消えていく船の航跡のようなものだというのです。これは真実ではありません。また、それはカトリック教徒でなくても理解できることです。その理由の一つは、私たちが肉体だけでできているのではなく、肉体と霊魂でできていることです。私たちの肉体は、壊れたり消耗したりする物質的要素でできているため、死んでしまいます。しかし、私たちの霊魂は、そのような要素でできているのではありませんから、死ぬことはできません。私たちの霊魂は霊的なものであり、壊れ得ませんし、当然不滅のものです。したがって、死に際して、私たちの肉体は死にますが、霊魂は死なないのです。

また、私たちが死ねば、完全に消えてしまう、というのも間違いです。なぜなら、それは、私たちの内にある最も深遠な望み、すなわち完全な幸福、つまり生きたい、永遠に生きたい、という望みと矛盾しているからです。実際、私たちの幸福が、ある日終わってしまうものであるならば、それは完全な幸福でではあり得ません。もし、私たちが死ねば完全に消えてしまうのなら、それは、私たちの、生きたい、という計り知れないほど大きな望みが、空しいものであることを意味します。しかし、それは、私たちの周りの宇宙で見られることと矛盾しています。宇宙を見れば、すべての生きものの自然な傾向が満足させられていることが分かります。たとえば、どんな動物にも、ある特定の食べ物を望む自然な傾向があり、実際、その動物は、その食べ物を見つけることができるのです。同じように、人間には終わりなき命を望む自然な傾向があります。ですから、人間には、終わりなき命がなければならないのです。

私たちが死んだ後も完全に消えるわけではない、という第三の理由があります。この理由は正義です。なぜなら、悪い人々が、この地上で生きている間には、彼らにふさわしい罰を受けないことがあり、逆に、良い人々が、この地上で生きている間には、彼らにふさわしい報いを受けないことがあるのを、私たちは見ているからです。もし、私たちが死んだ後、完全に消えてしまうとすれば、悪人は罰せられず、善人は報われない、ということになるでしょう。このような考えは、不正義を助長することに等しく、ぞっとするものであるだけでなく、私たちが知っている宇宙の秩序とも矛盾しています。

死んだ後どうなるか

確実なのは、私たちは死んだ後、無となって消え去るのではない、ということです。では、死んだ後はどうなるのでしょうか? この問題は、私たちの将来全体に関係することであり、すべての人に関わることですから、非常に重要です。ある人はこう言います。「死の瞬間に、実際どうなるかわかるだろう」。しかし、そんなことを言うのがいかに愚かなことか、誰もが理解しています。それは、自分のお金を使い切る人が、「私のお金が全部なくなったときに、実際どうなるかわかるだろう」と言うようなものです。ある人は「自分は何かに生まれ変わる」と信じていますし、またある人は「自分は全宇宙に融合する」と信じています。死んだ後どうなるかについては、さまざまな信念があります。しかし、これらの信念が正しいという証拠が存在しないだけでなく、そのような信念は、多かれ少なかれ馬鹿げたものです。

私たちが死んだ後どうなるかを知るためには、私たちに命を与えてくださったお方から、教えていただかなければなりません。実際のところ、私たちの命は、私たちのものではありません。私たちは、自分自身に命を与えたのではなく、命を受けたのです。それは、誰からでしょうか? 最初の存在、つまり誰からも命を受けない存在であり、宇宙と私たちの命と存在の源であるお方からです。この最初の存在が天主です。私たちに命を与えてくださった天主は、私たちの存在の目的が、天主を知り、天主を愛し、地上で天主に仕えることで、天主の永遠の命と幸福にあずかるにふさわしい者となることであることを、啓示されました。私たちの主イエズス・キリストは、このすべてを教え、その教えが真実であることを証明する、多くの奇跡を行われました。イエズス・キリストは、ご自分の教会であるカトリック教会を通して、このすべてを教え続け、今日もこの教えの真理を証明する多くの奇跡を起こし続けておられます。死んだ後、私たちは裁かれます。聖パウロは、「人間は、一度だけ死んで、その後審判を受けると定められている」(ヘブライ9章27節)と言っています。天主を知り、愛し、この世で仕えた人は報われ、そうすることを拒んだり、怠ったりした人は罰せられるのです。

結論

親愛なる信者の皆さん、皆さんは、すでに、このことをすべてご存知です。しかし、私たちは、死んだ後の実際の結果を、簡単に忘れてしまいます。私たちの死の時には、私たちの富は何の役にも立たず、私たちの学歴や学位も何の役にも立たず、私たちの職業上の業績も何の役にも立たず、私たちの社会的関係も何の役にも立たないのです。私たちの死の時に重要な唯一のことは、その時の、私たちの天主への愛の強さなのです。ですから、学業や仕事を理由に天主に対する義務を怠ることは、なんと愚かなことでしょうか。私たちは、時間を無駄にしてはなりません。一日一日、私たちは死に近づいているのです。過ぎ去っていく一日一日は、二度と戻ってきません。ですから、私たちは毎日、天主への愛を育んでいかなければなりません。では、どのようにすればよいのでしょうか? それは、天主と教会の掟を忠実に守ることによって、また、私たちの日々のすべての行動を、天主をお喜ばせする意向で行うことによって、また、心の中で頻繁にイエズスとマリアに祈ることによって、また、天主への愛のために他人に善を行うことによって、そして、私たちの主イエズス・キリストと聖母がお示しになった模範に従って、すべての聖徳を実践することによって、です。


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
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