Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

40日間、イエズスは祈り、苦行をし、悪魔と戦われました。四旬節は、私たちにとっても、祈り、苦行をし、悪魔と戦い、自分を改めるべき時です

2023年03月02日 | お説教・霊的講話

聖なる四旬節の季節についての説教

ドモルネ神父 2023年2月26日

はじめに

四旬節が始まりました。四旬節とは、イエズスが砂漠で過ごされた40日間を記念するものです。この40日間、イエズスは祈り、苦行をし、悪魔と戦われました。四旬節は、私たちにとっても、祈り、苦行をし、悪魔と戦い、自分を改めるべき時です。今日は、この三つのポイントを、私たちが実りある四旬節を過ごすために、私たち一人一人が立てるべき三つの決心に対応させてお話しします。

1)祈りの時である四旬節

砂漠で、私たちの主イエズス・キリストは祈られました。四旬節は祈りの期間です。私たちの主は、私たちに、いつも祈らなければならないと言われました。つまり、天主を礼拝し、天主に感謝し、天主に罪の赦しを求め、天主の恩寵を求めるために、心の中でしばしば天主に語りかけるべきだということです。しかし、教会は、四旬節の間、特に祈るようにと、私たちに勧めています。それは、どのような理由からでしょうか? 第一に、四旬節の間、私たちは自分が罪人であることを思い起こすからです。自分の罪を見、来るべき審判を恐れ、自分の弱さや私たちを取り巻く危険を見れば、当然私たちは、自分や他人のために、霊的な癒やしや強さという特別な恩寵を求めるようになるはずです。第二に、教会では、四旬節の季節は、伝統的に洗礼志願者の準備と指導の時期です。ですから、四旬節の間、私たちは、異教徒の回心の恩寵を得るために祈るのです。

ですから、四旬節の私たちの第一の決心は、私たちの祈りの生活についてのものであるべきです。私たちには、どのような決心ができるでしょうか? 朝夕の祈りを毎日行っていない人は、それを行う決心を立てるべきです。すでに毎日朝夕の祈りを行っている人は、ロザリオ一環を毎日祈ることを決心すべきです。そして、すでにロザリオ一環を毎日祈っている人は、毎日15分間の霊的読書をすることを考えるべきです。これら三つのことは、良きキリスト教生活を発展させるために不可欠なものです。祈りがなければ恩寵はなく、恩寵がなければ霊的な進歩はありません。

2)苦行の時である四旬節

砂漠で、私たちの主イエズス・キリストは断食されました。主は、私たちの罪を償うために、また私たちに良き模範を示すために、苦行をされました。私たちが不正を犯した場合、私たちはその不正を正さなければなりません。例えば、お金を盗んだならば、それを返さなければなりません。罪は天主に対する侮辱であり、不正義ですから、私たちは、自分の罪を償わなければなりません。私たちの罪の完全な償いは、私たちの主イエズス・キリストの十字架上の犠牲によってなされます。しかし、ミサで司祭がカリスのぶどう酒に一滴の水を混ぜるように、私たちも、自分の罪の償いをするために、自分の苦行をもって、イエズスの犠牲に加わらなければなりません。イエズスは、はっきりとこう言われました。「あなたたちも苦行をしないなら、みな同じように滅びるだろう」(ルカ13章3節)。

ですから、四旬節の私たちの第二の決心は、苦行と罪の償いについてのものであるべきです。私たちには、どのような決意ができるでしょうか? 第一に、断食(すなわち大斎)と、肉を控えること(すなわち小斎)です。大斎・小斎の義務は、灰の水曜日と聖金曜日だけですから、今日の教会の法は非常に軽いものです。しかし、私たちの多くの罪という現実からすれば、教会の法が要求する以上のことを行うことは、必須です。例えば、平日に毎日大斎をすることができる人はそうすべきですし、それができない人は、週に1日か2日、大斎をしましょう。大斎ができない人は、少なくとも四旬節の間、肉を控えることができます。これは難しいことではなく、健康な人なら誰でも、たとえ子どもでも可能なことです。

私たちにできる苦行は、次のように、他にもいくつかあります。たとえば、隣人の弱点や欠点、侮辱的な言葉、あるいは屈辱を、忍耐強く受け入れること。飲み食い、暑さ寒さ、贅沢や楽しみに関して、しばしば何かを諦めること。誰に対しても、あるいは何に対しても、不平や不満を言わないこと。天主をお喜ばせする意向をもって、自分の身分に応じた義務を迅速に行うこと、といったことです。

3)悪魔と戦い、自分を改める時である四旬節

砂漠で、私たちの主イエズス・キリストは悪魔を屈服させ、そして私たちに霊的戦いを教えるために、悪魔と戦われました。実際、あの悪魔の三つの誘惑は、人間に対してなされうるあらゆる誘惑を統合したものです。私たちは一生の間、誘惑と戦わなければなりませんが、四旬節には、それ以上のことをしなければなりません。四旬節は、霊的な攻勢にでる時です。このことが意味するのは、日常の誘惑に打ち勝つだけでなく、また自分の霊魂を、自分を罪に導くあらゆるものから解放するよう努めなければならない、ということです。

ですから、四旬節の私たちの第三の決心は、自分を改めることについてのものです。私たちの中で、改めなければならないものとは何でしょうか?

○まず第一に、私たちは、悪魔が私たちをその支配下においておくために使うものを、すべて排除しなければなりません。ですから、例えば、恨みや復讐心を完全に捨て、自分に対して悪いことをした人を赦し、私たちが犯した盗みや欺きやその他のあらゆる不正を償わなければなりません。

○次に、私たちは自分の悪い習慣を捨てなければなりません。例えば、道徳的に問題のある場所や人に頻繁にかかわること、アルコールやギャンブルへの依存、全般的な、特にインターネット上での怠惰、服装に慎みを欠くことです。

○最後に、私たちは自分の中心的な欠点と戦わなければなりません。中心的な欠点とは、私たちの中で支配的で、私たちのほとんどすべての失敗の原因となっている欠点のことです。この欠点は、七つの罪源のうちの一つに関連しています。例えば、毎日の祈りを怠り、インターネットでしばしば時間を無駄にし、自分の身分に応じた義務をすぐ先延ばしにし、いつも何かをしないための言い訳を見つけ、ちょっとした困難でも努力をあきらめる人がいます。そのような人の中心的な欠点は、おそらく怠け心でしょう。四旬節の間、私たちは、自分の中心的な欠点を見つけ、次に、毎日実行できる簡単で具体的な決心を立てて、その欠点と正面から戦うことにしましょう。例えば、いつも朝寝坊をしている人は、目覚まし時計が鳴ったらすぐにベッドから出る決心をする、大食いの人は、食事と食事の間にお菓子や甘い物を食べない決心をする、自己中心的な人は、愛徳をもって人を助ける決心をする、ということです。

結論

親愛なる信者の皆さん、四旬節は祈り、苦行、悪魔との戦い、そして自分を改めるための期間です。良い四旬節を過ごすために、簡単で具体的な三つの決心を立てましょう。それは、祈りの決心、苦行の決心、そして自分の中心的な欠点に対抗する聖徳を実践する決心です。そして毎晩、この三つの決心について、自分の良心を吟味しましょう。もし私たちが決心を忠実に守ったならば、私たちの主に感謝し、私たちが翌日もその努力を継続できるよう助けてくださるよう、主にお願いするのです。もし私たちの決心の通りにいかなかったならば、私たちの臆病さを赦してくださるよう私たちの主にお願いし、翌日はもっと用心深くなるよう、自分を戒めるのです。

イエズスとマリアへの愛が私たちの心を燃え立たせ、私たちが自分の決心を寛大に実行できるよう、してくださいますように。


【参考資料】ヴィガノ大司教:FBIがカトリック信者を標的にしているのは教皇フランシスコが信者を迫害していることの「論理的帰結」である

2023年03月02日 | カトリック・ニュースなど

【参考資料】ヴィガノ大司教:FBIがカトリック信者を標的にしているのは教皇フランシスコが信者を迫害していることの「論理的帰結」である

Abp. Viganò: FBI targeting Catholics is a ‘logical consequence’ of Pope Francis persecuting the faithful

このような世俗権力と霊的権力との側による〈反対意見の犯罪化〉作戦は偶然ではなく、市民そして市民の機関の代表者、さらに信者およびとりわけその牧者たちから、非常に強い非難と決定的な反対が起こされなければなりません。

カルロ・マリア・ヴィガノ大司教

2023年2月20日(月曜日) 米東部標準時間午前10時38分

(LifeSiteNews)―以下は、ラテン語ミサにあずかるカトリック信者をFBIが監視していることについてのカルロ・マリア・ヴィガノ大司教の小論です。

Ideo inter vos multi infirmi et imbecilles, et dormiunt multi.
I Cor 11:30
そのため、あなたたちの中には、弱い者、病気の者が多く、死んだ者も少なくない。
コリント前書11章30節

礼拝の自由という原始的信仰(トーテム)により、悪魔崇拝者がリトルロックのアーカンソー州議会議事堂の前に冒涜的なバフォメットの記念碑を建てたり、ニューヨークの裁判所の正面に中絶支持者の最高裁判事をたたえる悪魔の像を建てたりすることが許されており、また、ニューメキシコでは、悪魔寺院が儀式的な中絶を行う診療所を開設し、州の承認によって利益を得ています。一方、バイデン政権のシークレットサービスは、聖伝のカトリック信者をプロファイリング【犯罪者のようにどんな人々か分析する】し、ラテン語で典礼が行われる共同体を監視する他に仕事をすることがありません。まるで、聖伝のカトリック信者が、既存の秩序に対する脅威と国家機関に対する潜在的危険を象徴しているかのようです。

私の考えでは、このニュースは、もう一つの類推できる、似たような出来事の論理的かつ必然的な帰結として読み取るべきです。すなわち、聖ペトロ大聖堂や他のカトリック教会でカトリック位階階級の指導者たちがパチャママという悪魔に捧げた偶像崇拝と、それと同時発生的な、自発教令「トラディティオーニス・クストーデス」(Traditionis Custodes)をもって、また、差し迫っていると言われている更なる制限をもってなされる、教会当局による聖伝のカトリック信者に対する迫害です。

このような世俗権力と霊的権力との側による〈反対意見の犯罪化〉(criminalization of dissent)作戦は偶然ではなく、市民そして市民の機関の代表者、さらに信者およびとりわけその牧者たちから、非常に強い非難と決定的な反対が起こされなければなりません。この非難は、それ自体非常に深刻ですが、この最近の話に限定することはできず、教会の逸脱した部分と協力した国家の逸脱した部分による憂慮すべき陰謀にも拡大しなければなりません。一方ではディープ・ステートが、他方ではディープ・チャーチが、ともに腐敗してグローバリストのエリートに従属しており、キリスト、教会、聖なるミサに対する憎悪によってそのイデオロギー的基盤が一致している破壊転覆的な目的を持っているのです。

私が「国家宗教」(こちら)で説明したように、教会と国家の分離【政教分離】と宗教的問題に対する「世俗主義」とされるものが、天主を社会から排除し、サタンを受け入れるための欺瞞的かつ悪意に満ちた口実を形成していることは明らかです。

革命は、原理と目的を覆すことによって社会秩序を転覆させましたが、キリスト教社会、特にカトリックの君主制の特徴となっていた玉座と祭壇の間の同盟、つまり、現世的権力と霊的権力の間の同盟という有利さを維持し、利用しました。〈アンシャンレジーム〉【旧体制】の専制を非難した人々は、例えば、言論の自由の名の下にメディアの検閲を廃止するつもりは全くありませんでした。彼らは単に、真実を検閲し、誤謬を広めるという、逆の目的のためにメディアを利用したかっただけなのです。教皇の現世的権力を批判する人々は、教会の公的問題への干渉を阻止したかったのではなく、教会を解体し、新世界秩序の要求を支持するために教皇職の権威と権力を利用するために、今日私たちが見ているように、教会を利用したかったのです。

ピオ九世やピオ十二世の時には、その統治が「教条主義」(dogmatism)と反対されていましたが、それは近代思想に反対していたからです。「教条主義」は、第二バチカン公会議やベルゴリオのエキュメニカルでシノドス的な教条主義に進化して変質し、その問題は見かけだけのもっともらしい嘘であり、〈手段〉ではなく、〈目的〉に関わる【問題はドグマを押し付けることではなく、何をドグマとして押し付けるのかである】と実証しています。

ですから今日、私たち大衆は、国家が基本的な自由に対して統制と制限を課す権威主義(それは昨日までナチの全体主義の表すものとして忌み嫌われていました)に驚きはしませんし、カトリック位階階級の現在の権威主義、つまり教会がグローバリズムのイデオロギーを支持し、世界経済フォーラムと〈アジェンダ2030〉に従属する政府に対して教会が協力する権威主義にも驚きはしないのです。

宗教の問題に対して政府が「中立」とされる態度を取ることが可能だと、私たちが信じ続けるならば、私たちの文明を消滅に追いやることになります。なぜなら、人類の歴史と個人の永遠の運命の一部である、善と悪の戦いを否定してしまうことになるからです。〈誰も二人の主人に仕えることはできない〉と、私たちの主は福音の中で教えておられます(マテオ6章24節)。また、私たちの中立性がすでに敵【悪魔】の助けとなっている対立に直面したとき、どちらにも仕えないという決断もできません。ここで私たちが自問すべきなのは、悪の行き過ぎを非難することにとどまって、その原因を非難しない政治家や高位聖職者が、どのような責任を負っているかということです。

国家の世俗性【国家が宗教を持たないという性質】は、国家を土台から破壊するために使われる幻想のキメラ【想像上の怪物】であることが証明されているのに、何としても国家の世俗性を救おうと主張したり、第二バチカン公会議のはっきりとした失敗や教会への計り知れない損害を目にしているのに、公会議を擁護しようと主張したりするのは、支配者や牧者としての自分の役割を、自分が代表する組織をただ守るだけの役割としか考えていない人々による、その場しのぎの処置なのです。彼らは、自分たちの重大な不忠実を把握するのを拒否し、したがって市民と信者の両方に利益をもたらす可能性を排除しているのです。医者に求められているのは、患者を治療することであって、単に病気の診断にとどまったり、保健当局が腐敗していることを認めたくないからという理由で、あるいは【保健当局の】不当な命令にあえて背きその結果【受ける処罰】に直面する勇気がないという理由で、病気を隠したりすることでもありません。

この重要な局面で私たちが目撃しているのは、これまで「社会的成果」を正当化するために使われてきた口実(民主主義、言論や礼拝の自由、少数派の尊重など)が消滅していることであり、また同時に、国家と教会の権威を簒奪する犯罪的エリートの真の動機が傲慢にも露呈していることです。一方でキリスト教的社会モデルと他方でディストピアの社会モデルがあります。つまり、一つは私たちの主イエズス・キリストが、世俗的・宗教的領域において統治し、私たちが自由に善を行うようにと導き、それによって私たちを永遠の幸福にあずかる者とするというキリスト教的社会モデルと、もう一つは、サタンの暴政が、私たちの自由を侵害し、悪事を行うように強制し、私たちを永遠に滅ぼすために混沌と反乱を押し付けているというディストピアの社会モデルとですが、この両者は両立し得ないのです。

情報機関による聖伝のカトリック信者のプロファイリングが正当化されないように思えるのは、現在の支配者が共通善と国家の安全を追求していると私たちが誤解している場合だけですが、十分に正当化されるのは、支配者が、本質的に反キリスト教的でキリスト教信仰と相容れないグローバリズム崇拝を押し付けることを目的としている場合です。それと同時に、カトリックの位階階級によってトリエント典礼に結びついている信者が迫害されるのが、前代未聞で考えられないのは、天主の栄光と霊魂の救いを求める牧者の熱意があることを私たちが前提にしている場合だけです。彼らが本当は何者なのかを、つまり、羊の皮をかぶった狼や傭い人であることを私たちが理解するならば、使徒継承のミサに対する彼らの嫌悪感は理解できるものであり、彼らがそのような怒りをもってそれを表明しなかったとすれば、それは本当に驚くべきことになるでしょう。ある意味で、彼らの目には、私たちは、遺伝子血清の接種を受けた大勢の人々と一緒にいる、ワクチン未接種者という「対照群」として映っているのです。

天主に反抗する世界を欲し、この世の精神に従順な「シノドスの教会」を欲する人々にとって、私たちカトリック信者が脅威であるというのはその通りです。殉教者たちは、キリスト者という名前が社会に存在しているというヒロイズム【英雄的な態度】を証言しています。変質した権威は殉教者たちの模範と何よりも福音の爆発力を知っていて恐れているために、この権威は敵とみなす人々に苦痛と死を与えます。しかし、殉教者たちのヒロイズムは、この苦痛と死に英雄的に立ち向かうのです。

第三の道はないこと、つまり、善というテーゼと悪というアンチテーゼを組み合わせたジンテーゼのようなものはないことを理解するなら、また、どちら側で戦うのかを選択しなければならないこと――悪人が悪を選択したように――を、私たちが理解するならば、私たちには抵抗と勝利の機会がいくらかあるでしょう。「あなたたちは地の塩である」(マテオ5章13節)。病めるこの世に寛容を求めることは、私たちを伝染から守るのではなく、ただ私たちの抹殺をただ単に先延ばしにするだけ、私たちから【塩の】味を奪い、人々に踏みにじられる運命をもたらすだけなのです。

+大司教カルロ・マリア・ヴィガノ

2023年2月19日
Dominica Quinquagesimæ
五旬節の主日


英語版 Abp. Viganò: FBI targeting Catholics is a 'logical consequence' of Pope Francis persecuting the faithful - LifeSite

イタリア語版 Monsignor Viganò / A proposito della schedatura dei cattolici da parte dell’autorità civile - Aldo Maria Valli


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