Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

ヴィガノ大司教の枝の主日のメッセージ:キリストの御受難とキリストの神秘体について観想し、眠りから目覚め、罪の奴隷状態から抜け出る

2023年04月05日 | カトリック・ニュースなど

ヴィガノ大司教の枝の主日のメッセージ:

キリストの御受難とキリストの神秘体について観想することが、私たちを眠っている状態から立ち上がらせ、私たちを罪の奴隷状態から救い出し、私たちを聖性のヒロイズムに駆り立てることができますように。

2023年4月2日(主日)

Viganò’s Message on Palm Sunday

カルロ・マリア・ヴィガノ

Improperium exspectavit cor meum et miseriam; 
et sustinui qui simul contristaretur, et non fuit; 
et qui consolaretur, et non inveni.
Et dederunt in escam meam fel, et in siti mea potaverunt me aceto.

そしりは私の心を砕き、私は気力を失い、
あわれんでくれる人を待ったがいなかった。
慰めてくれる人を待ったがいなかった。
彼らは私に苦きものを食わせ、渇いた私に酢を飲ませた。―詩篇68篇21-22節

Israël es tu Rex, Davidis et inclyta proles.
(御身はイスラエルの王、ダヴィドの高貴な血筋なり)。
王たるキリストへの古代の賛歌のこの荘厳な言葉に、聖なる教会がイスラエルと、天主の民が選ばれた民と同一視されているのが分かります。

Plebs Hebræa tibi cum palmis obvia venit: cum prece, voto, hymnis, adsumus ecce tibi:(棕櫚の枝を手に持って、ヘブライ人の民は御身を迎えに出る。祈り、祈願、賛美をもって、われらも御身を迎える)。

ダヴィドの子としてエルザレムに歓迎され、主の名によって来たる御者として出迎えられ給うたキリストの凱旋が、【聖金曜日になると突然】わずか数時間のうちに、総督官邸の外に立つ群衆の激しい騒動へと、叫びと侮辱へと、御受難の苦しみへと、そして最後に十字架の木の上のユダヤ人の王の死へと変わってしまうことは、失望を起こさせるはずです。群衆は、最高法院(サンヘドリン)や民の長老たちに操られやすい性向があり、主が通られる道沿いに広げられた栄誉の捧げ物、オリーブや棕櫚の枝、衣服などを、まるで何も起こらなかったかのように簡単に忘れてしまうという、群衆がいかに変わりやすいかという考察から生まれる失望です。

「ヘブライ人の子ら」(pueri Hebræorum)の中に、後に十字架上で死にゆき給う救い主をあざ笑った人々がいたかどうかは、私たちには分かりません。しかし、大司祭、律法学士、神殿の番兵がユダヤ人だったように、イエズスが彼らの前で立って、鞭打たれ、茨の冠をかぶせられ給うたときに、「十字架につけろ!」と叫んだ人々がユダヤ人だったことは分かります。また、キリストを三度否んだシモン・ペトロがユダヤ人で、キリストのために泣いた敬虔な婦人たちもユダヤ人で、キレネのシモンもユダヤ人で、アリマタヤのヨゼフもユダヤ人だったように、逃げた使徒たちもユダヤ人でした。

しかし、ユダヤの民の一部が、預言や旧法の下での天主のご介入にもかかわらず、約束されたメシアを死に追いやったとすれば、キリストの時代のファリザイ人や最高法院の指導者たちのように、今日でも「Crucifige」(十字架につけよ)と叫び、「Qua non novi hominem」(私はそんな人を知らぬ)(マテオ26章72節)と繰り返すカトリック信者を、そして位階階級のメンバーをも見るとき、この裏切りが、新しいイスラエルである教会の一部で繰り返されているのではないかと私たちは自問すべきです。

民とは、ラテン語のpopulus(自らに法を与え、それを遵守する社会)の意味ではなく、むしろvulgus(つまり、アイデンティティーがなく、権利や義務の自覚がなく、操られやすく、自分たちの遺産や運命が何であるかを知らない民、聖なるものに対する感覚のないprofanum[不敬者])の意味です。

教会に起こっていること、教会を悩ます危機、位階階級と信者を堕落させる背教を見るなら、枝の主日の出来事は忘れられたように思える一方で、私たちの目の前に生きている御受難と十字架という恐怖が見えます。

かつてキリストの凱旋を祝い、キリストの福音を宣教した教会は、今日、冒涜したとして天主の御子を非難する最高法院と、キリストの死を求める大司祭たちによって、日食で覆われてしまったように思えます。かつてキリスト教的だった社会は、今や「彼を連れて行け、連れて行け」と叫び、救い主の顔に唾を吐きかけ、彼を苦しめる者たちをあざ笑い、彼の抹殺を求めているのです。今日の律法学士やファリザイ人は、自分たちが嘘つきであるのを暴露することになる教会の復活を避けるためであるかのように、教会が横たわっている墓を監視するために番兵を配置することを決意しているように思えます。主の弟子たちは逃げ、隠れて、排除や疎外されないために、流れに逆らわないために、権力者に逆らわないために、主を知っていたことを否んでいます。そして同時に、多くの敬虔な婦人たち、多くのキレネ人たち、多くのアリマタヤのヨゼフたちは、嘲笑され侮辱されながらも、教会が十字架を荷うのを助け、聖母と聖ヨハネとともに教会の足元に留まり、神秘体の復活を待ちつつ、神秘体を横たえる場所を探し求めています。

今日の裏切りは、私たちの主がお苦しみにならなければならなかったものに劣らず深刻なものであり、「教会の受難」(passio Ecclesiæ)は、教会のかしらの御受難に劣らず悲しみに満ちたものであり、教会自身の役務者から辱めにさらされた「異邦人の女主人」(Domina Gentium)【教会】を見つめる人々の荒廃と落胆は、「悲しみの御母」(Mater Dolorosa)【聖母】の苦しみに劣らず悲惨なものです。なぜなら、当時の処刑人たちを動かした憎しみは、今日の処刑人たちを動かす憎しみと同じものであり、当時のメシアを認識した善きユダヤ人たちの愛は、今日でも続くメシアの苦悶を見る善きキリスト信者の愛と同じものであるからです。

「われ、なんじをエジプトの奴隷状態から解放したのに、なんじ、救い主を十字架につけて報いた」と、私たちは「咎めの交誦」で歌います。

われ、なんじにミサを与えたのに、なんじ、それを、われを辱め、信者を遠ざける儀式に置き換えている。われ、なんじに司祭職を与えたのに、なんじ、それを、異端と姦淫の役務者で冒涜している。われ、なんじを敵に対して堅固にしたのに、なんじ、城塞の扉を開け放ち、敵に向かって駆け出し、敵がなんじを滅ぼそうと準備する間に、敵をほめたたえている。われ、なんじに信仰の真理を教えたのに、なんじ、世を喜ばそうと、それに混ぜ物をし、あるいは、それについて沈黙を守っている。われ、なんじにカルワリオの王道を示したのに、なんじ、滅びの道、快楽の道、倒錯の道を歩んでいる。

Popule meus, quid feci tibi? aut in quo contristavi te? responde mihi!(わが民よ、われ、なんじに何をしたか。何をもってなんじを悲しませたか。われに答えよ!)。

この言葉は、多くのカトリック信者、多くの高位聖職者たち、そして、主がヘブライの民になさったように、何千、何万回と熱烈な愛を示された多くの霊魂に当てはまらないでしょうか? 私たちは、キリストの血を流さないいけにえを私たちの祭壇に永続させるキリストとキリストの教会への裏切りの、世の終わりまでキリストの無限の功徳の役務者にして分配者である教会への裏切りの、キリストの奇跡の証人、キリストのみ言葉の宣教者、キリストの真理の守護者である教会への裏切りの共犯者になるかもしれないと考えるだけで、震え上がるべきではないでしょうか?

親愛なる友人の皆さん、世界を根底から揺るがすこの熾烈な戦いにおいて、私たちの不滅の霊魂がどの立場にいるのかを、よく考えましょう。私たちは、贖い主のいとも神聖なる肉体に拷問を加える悪党どもの中にいるのでしょうか、それとも代わりにその崇むべき御体を迎えるために心を開くのでしょうか? 私たちは、神性の宣言に衣を引き裂くのでしょうか、それとも代わりに私たちのために死んでくださる救い主の前にいる百卒長のように腰をかがめるのでしょうか? 私たちは、天主の御子に対して暴徒を扇動する者たちの中にいるのでしょうか、それとも代わりに天主の栄光ある復活を証言する者たちの中にいるのでしょうか? なぜなら、私たちの主が御血を流し、御命を与え給うた私たちのこの霊魂は、楽園の永遠なる至福の中であっても、地獄の永遠なる苦しみの中であっても、不滅であり続けるからです。

キリストの御受難とキリストの神秘体について観想することが、私たちを眠っている状態から立ち上がらせ、私たちを罪の奴隷状態から救い出し、私たちを聖性のヒロイズムに駆り立てることができますように。なぜなら、私たちのために注がれた御血は、断罪するものとして私たちに降りかかるのではなく、恩寵を与える救いの泉として私たちに降りかかるものだからです。アーメン。

+大司教カルロ・マリア・ヴィガノ

2023年4月2日
御受難節の第二主日または枝の主日
Dominica II Passionis seu in Palmis

英語版 Viganò’s Message on Palm Sunday

イタリア語版 Monsignor Viganò / Omelia nella Domenica II di Passione o delle Palme - Aldo Maria Valli


西暦1592年に日本人によって描かれた、現存する日本最古の聖母と御聖体への信仰を表す宗教画「ご聖体の連祷と黙想の図」

2023年04月05日 | カトリックとは

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

明日は聖木曜日です!私たちの主が御聖体を制定された聖なる日です。
私たちの祖国日本では、キリシタン時代から御聖体に対する信心が極めて盛んでした。

西暦1592年に日本人によって描かれた、現存する日本最古の聖母と御聖体への信仰を表す宗教画(「ご聖体の連祷と黙想の図」)が、今でも現存しています。

Photo Credit

■「ご聖体の連祷と黙想の図」(澤田美喜記念館所蔵)は、12枚の和紙を継いだ長さ320センチ、幅22センチの薄手の和紙に、墨で文字と絵が描かれた巻物です。最後に西暦1592年パウロとの署名(奥書)があります。

■澤田美喜の伝記によると、これは彼女が1957年ごろ生月島のかくれキリシタン信徒から譲り受けたものです。紙を炭素同位体を使用したAMS年代測定法で調査したところ、この紙は1557年から1632年に伐採された木からできたものと判定されています。コピーではありません。

■聖母子像図:ラファエロの「システィーナの聖母」とそっくりの聖母子像が描かれています。聖母子像を取り囲むように、ポルトガル語で「至聖なる御聖体は賛美せられさせ給え」(Lovvado seia o santissimo sacramento)が上と下に書かれています。

■ポルトガル訛りのラテン語祈祷文をかな書きにしたご聖体の連祷前半

文字の部分は、ラテン語をポルトガル語訛りに発音した「ご聖体の連祷」を変体仮名で書き留めたものが書かれています。「ご聖体の連祷」は、日本国内では他に大阪府茨木市で見つかった1例しかありません。
きりゑれいそん きりしてれいそん(Kyrie eleison, Christe, eleison)
きりゑれいそん きりしてれいそん
きりしてあうぢのす きりしてゑ(Christe, audi nos. Christe exaudi nos.)
はあてるでせり DS(デウス)みせれれ なうひす(Pater de caelis, Deus, miserere nobis.)
すぴりつさんと DS(デウス)みせれれ なうひす(Spiritus Sancte Deus, miserere nobis.)
たんたとりにたすうぬす DS(デウス)みせれれ なうひす(Sancta Trinitas, unus Deus, miserere nobis.)
ぱあにすびぶすきでせろでせんぢ 同(Panis vivus, qui de caelo descendisti, miserere nobis.)
でうすあうすこんぢとさうばあとる 同(Deus absconditus et Salvator, miserere nobis.)
・・・
びいぬんせなんすびるぢぬん(Vinum germinans virgines)
・・・
おぶらしよむんだ(Oblatio munda)
あくぬすあふすけまあくら(Agne absque macula)
べるぶんかろはくつ・・・(Verbum caro factum, habitans in nobis)
おすちあさんた(Hostia sancta)
かありすべんぢしおにす(Calix benedictionis)
みすてりうんひいでい(Mysterium fidei)

■ロザリオの十五玄義図(喜びの玄義・悲しみの玄義・栄えの玄義)、

御復活の玄義に描かれた男性は、日本刀を腰からぶら下げて、刃の部分を下にして帯刀しています。これは江戸時代よりも前、騎乗での戦闘が日常的だった時期の太刀の佩き方なのです。もしもこれが江戸時代に書かれたものであれば、大小2本の刀を刃を上にして帯に差しているはずでした。

■奥書「御出世以来千五百九十二年 者う路(はうろ)」。

岡美穂子は「天草パウロ良印」の可能性を提起している。天草パウロ良印は 1553 年頃、天草生まれの日本人修道士。1577 年にイエズス会に入会し、五島などののキリシタン布教のパイオニアとして活躍した。禁教により、慶長19年(1614)に国外追放となった高山右近と共にマニラへ渡り、同時期に死亡したと思われる。

■1615年にラテン語で出版された「種々の聖なる連祷 毎日の短い敬虔な信心業付き」("Sacrae Litaniae Variae, cum Brevi Piaque Quotidiana Exercitatione", Apud Franciscum Du Bois, 1615)には、「御聖体の連禱」が掲載されています。モーツァルトも1772年にこの連祷の作曲をしています。Wolfgang Amadeus Mozart: Litaniae de venerabili altaris Sacramento, K. 243(1772)

■以下、御聖体の連祷のラテン語と日本語訳をご紹介いたします。

Litaniae de Sanctissimo Sacramento 御聖体の連祷
   
Kyrie eleison, Christe, eleison 主あわれみたまえ。キリストあわれみ給え。
Kyrie eleison, Christe, audi nos. Christe exaudi nos. 主あわれみたまえ。キリストわれらの祈りを聴き給え。キリストわれらの祈りを聴き容れ給え。
Pater de caelis, Deus, miserere nobis. 天主なる御父、われらをあわれみ給え。
Fili, Redemptor mundi, Deus, miserere nobis. 天主にして世のあがない主なる御子、われらをあわれみ給え。
Spiritus Sancte Deus, miserere nobis. 天主なる聖霊、われらをあわれみ給え。
Sancta Trinitas, unus Deus, miserere nobis. 唯一の天主なる聖三位、われらをあわれみ給え。
   
Panis vivus, qui de caelo descendisti, miserere nobis. 天からくだられた生けるパン、われらをあわれみ給え。
Deus absconditus et Salvator, miserere nobis. 隠れたる天主にして救い主、われらをあわれみ給え。
Frumentum electorum, miserere nobis. 選ばれた者たちの小麦、われらをあわれみ給え。
Vinum germinans virgines, miserere nobis. 童貞女たちを生み出すぶどう酒、われらをあわれみ給え。
Panis pinguis et deliciae regum, miserere nobis. 肥えたパンかつ王たちの美味、われらをあわれみ給え。
Iuge sacrificium, miserere nobis. とこしえの犠牲、われらをあわれみ給え。
Oblatio munda, miserere nobis. 清き捧げもの、われらをあわれみ給え。
Agne absque macula, miserere nobis. 汚れなき子羊、われらをあわれみ給え。
Mensa purissima, miserere nobis. いと清き食卓、われらをあわれみ給え。
Angelorum esca, miserere nobis. 天使たちの食べ物、われらをあわれみ給え。
Manna absconditum, miserere nobis. 隠れたるマンナ、われらをあわれみ給え。
Memoria mirabilium Dei, miserere nobis. 天主の驚くべき記念、われらをあわれみ給え。
Panis supersubstantialis, miserere nobis. 日用の糧【超実体的なパン】、われらをあわれみ給え。
Verbum caro factum, habitans in nobis, miserere nobis. われらのうちに住み給う、人となった御言葉、われらをあわれみ給え。
Hostia sancta, miserere nobis. 聖なるホスチア、われらをあわれみ給え。
Calix benedictionis, miserere nobis. 祝福のカリス、われらをあわれみ給え。
Mysterium fidei, miserere nobis. 信仰の神秘、われらをあわれみ給え。
Praecelsum et venerabile Sacramentum, miserere nobis. いとも高き敬うべき秘跡、われらをあわれみ給え。
Sacrificium omnium sanctissimum, miserere nobis. すべての中で最も聖なる犠牲、われらをあわれみ給え。
Vere propitiatorium pro vivis et defunctis, miserere nobis. 生ける人々と死せる人々とのためのまことの罪の償い、われらをあわれみ給え。
Caeleste antidotum, quo a peccatis praeservamur, miserere nobis. それによりて我らが罪から守られる、天の薬、われらをあわれみ給え。
Stupendum supra omnia miraculum, miserere nobis. すべてを超える驚くべき奇跡、われらをあわれみ給え。
Sacratissima Dominicae Passionis commemoratio, miserere nobis. 主の御受難のいとも聖なる記念、われらをあわれみ給え。
Donum transcendens omnem plenitudinem, miserere nobis. すべての充満を超越する賜物、われらをあわれみ給え。
Memoriale praecipuum divini amoris, miserere nobis. 天主の愛の特別の記念、われらをあわれみ給え。
Divinae affluentia largitatis, miserere nobis. 天主の寛大さの激流、われらをあわれみ給え。
Sacrosanctum et augustissimum mysterium, miserere nobis. 神聖にして犯すべからざるいとも偉大なる神秘、われらをあわれみ給え。
Pharmacum immortalitatis, miserere nobis. 不死の薬、われらをあわれみ給え。
Tremendum ac vivificum Sacramentum, miserere nobis. 身震いすべき、命を与える秘跡、われらをあわれみ給え。
Panis omnipotentia Verbi caro factus, miserere nobis. 御言葉の全能により、パンとなった肉体、われらをあわれみ給え。
Incruentum sacrificium, miserere nobis. 無流血のいけにえ、われらをあわれみ給え。
Cibus et convivia, miserere nobis. 食べ物にしてかつ友なる客、われらをあわれみ給え。
Dulcissimum convivium, cui assistunt Angeli ministrantes, miserere nobis. 天使たちが仕えて同席する、いとも甘美なる宴、われらをあわれみ給え。
Sacramentum pietatis, miserere nobis. 敬虔の秘跡、われらをあわれみ給え。
Vinculum caritatis, miserere nobis. 愛徳の鎖、われらをあわれみ給え。
Offerens et oblatio, miserere nobis. 捧げる者【司祭】にしてかつ捧げられたもの【犠牲】、われらをあわれみ給え。
Spiritualis dulcedo in proprio fonte degustata, miserere nobis. 固有の泉から味わった霊的な甘美さ、われらをあわれみ給え。
Refectio animarum sanctarum, miserere nobis. 聖なる霊魂たちの回復、われらをあわれみ給え。
Viaticum in Domino morientium, miserere nobis. 主において死す人々の旅路の糧、われらをあわれみ給え。
Pignus futurae gloriae, miserere nobis. 将来の栄光の保証、われらをあわれみ給え。
   
Agnus Dei, qui tollis peccata mundi, parce nobis, Domine. 世の罪を除き給う天主の小羊 主われらを赦し給え。
Agnus Dei, qui tollis peccata mundi, exaudi nobis,Domine. 世の罪を除き給う天主の小羊 主われらの祈りを聴き容れ給え。
Agnus Dei, qui tollis peccata mundi, miserere nobis. 世の罪を除き給う天主の小羊 主われらをあわれみ給え。
   
V. Panem de caelo praestitisti eis, (T.P. Alleluia) 御身は天からのパンを彼らに与え給えり。(アレルヤ)
R. Omne delectamentum in se habentem. (T.P. Alleluia) すべての楽しみをその中に含ませ給えり。(アレルヤ)
Oremus; 祈願:
Deus, qui nobis sub Sacramento mirabili Passionis tuae memoriam reliquisti; tribue quaesumus, ita nos Corporis et Sanguinis tui sacra mysteria venerari, ut redemptionis tuae fructum in nobis iugiter sentiamus. Qui vivis et regnas in saecula saeculorum. Amen 天主よ、御身は驚くべき秘蹟のもとに御身の御受難の記念を我らのために残し給えり。願わくは、我らをして御身の御体と御血の玄義をかくも崇敬し、御身の贖いの実りをわれらにおいて常に感ずるをえんことを。御身は代々に生き、かつしろしめし給う。アメン。

至聖なる御聖体は賛美せられさせ給え!Lovvado seia o santissimo sacramento! 


2023年4月5日は、4月の初水曜日(月の初めての水曜日)です 聖ヨゼフ!我らのために祈り給え

2023年04月05日 | カトリック・ニュースなど

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日、2023年4月5日は聖水曜日、聖ヨゼフの月である4月の初水曜日(月の初めての水曜日)です。聖母の汚れなき御心と聖ヨゼフとの取り次ぎを通して、私たちの主の御聖体に対する冒瀆的な取り扱いに対する償いを捧げましょう。

初水曜日ですからいつものように「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」について黙想することをご提案します。


聖ヨゼフはこの世で天主イエズス様と浄配なる聖母マリア様を最も良く知り、愛された御方であり、その隠れた徳ゆえに偉大なる御方、イエズス様とマリア様の最大の命の恩人であられました。

また、聖ヨゼフは、この世では、全てを天主の栄光のために、隠れてその生涯をささげられたが故に、天にて聖母の次に最大の栄光をあたえられていらっしゃいます。

聖伝では、水曜日は聖ヨゼフに捧げられた曜日であり、月の最初の水曜日を聖ヨゼフに捧げることで、聖ヨゼフを讃え、その御取次に信頼し、その御徳に倣って、聖ヨゼフを通して、天主イエズス様とマリア様をお愛しすることができますように。

初土曜日の「聖母の汚れ無き御心」への信心にならって、この「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」のどれかを「15分間黙想」することにいたしましょう。

聖ヨゼフの帯の信心については、下記リンクをごらんください。
聖ヨゼフの帯 cingulum Sancti Joseph

聖ヨゼフの御取次ぎにより、聖母の汚れ無き御心とイエズスの至聖なる聖心ヘの愛をますます与えてくださいますように!
聖ヨゼフの御取次ぎにより豊かな祝福がありますように!

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


聖ヨゼフの7つの苦しみと喜び

1 ああいと潔き御母マリアの浄配、栄えある聖ヨゼフよ、御身のいと清き妻を失なわんと心に思い煩いし時の苦しみはいと大いなるものなりき。
されど天使が御託身の玄義を御身に伝えられし時の喜びは、またひとしお大いなりき。この苦しみ、この喜びにより、今も臨終の時も我らの心を潔き良心の喜びと、イエズス、マリアのうちに自我を滅する尊き御身の心を示し、我らを慰め給え。



2 ああいと幸いなる保護者聖ヨゼフよ、御身は人となり給いし御言葉の潔き養父の位にあげられたれども、御身は幼きイエズスがいと貧しき中に生まれ給うを見て大いに悲しみ給いしが、
天使らのたえなる歌声を聴き、その輝ける夜の栄えを見給うや、その悲しみは天的の喜びと変じたり。御身のこの悲しみ、この喜びによりて、我らもまたこの世の歩みを終えたる後、天使らの賛美の歌声を聴き、天的光栄の輝きを受け得んことを願い奉る。



3 ああ御摂理にいと従順なしもべなる、栄えある聖ヨゼフよ、幼きイエズスが割礼にて流されたる尊き御血は御身の心を苦痛もて貫きたれども、
イエズスと命名されるや御身の心は喜びに満たされたり。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らをこの世の悪徳より離れしめ、イエズスのいと尊き御名を心から唱えつつ心満たされてこの世を去るを得しめ給え。



4 ああいと忠誠なる聖ヨゼフよ、御身は救世の玄義の成就に身をもって大いなる役を果たされしが、シメオンの預言によりイエズスとマリアが受け給うべき苦難を予知せられ苦しみ給いたれど、
数限りなき人々の霊魂がこれによって救わるるとの預言によりて、天的喜びに満たされたり。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らがイエズスの功徳と聖母マリアの御取次ぎにより、終わりなき栄えを得てよみがえる人々のうちに数えられる御恵みをとりなし給わんことを願い奉る。



5 ああ人となり給いし天主の御子のいとも注意深き保護者なる栄えある聖ヨゼフよ、御身はいと高きものの御子を養い給い、これに仕えるために多くの辛酸をなめられたり。わけてもそのエジプトへの逃避はいと苦しきものなりしが、
御身が常に天主御自身と共におられし喜び、またエジプト人らの諸々の偶像が地に落とされしを目の当たりに見られし時の安心はいと大いなりき。この御身の辛酸と喜びとによりて、我らが地獄的暴君より免れて、わけても危険なる機会より逃避する事を得しめ、我らの心のうちに地上的執着が落とされ、ひたすらイエズスとマリアに仕え奉りつつ日々の生活を送り、この世を幸いに終わる事を得しめ給え。



6 ああこの地上の天使なる栄えある聖ヨゼフよ、御身は御身の心を天の王に全く捧げられたり。御身がエジプトより戻られる喜びは、アルケラウスに対する憂慮にて不安の闇となりしが、
天使は再び御身にイエズスとマリアと共にナザレトにて楽しく住み給う事を約束せられたり。御身のこの苦しみ、この喜びによりて、我らの心を深い恐怖より免れしめ、潔き良心の平和を楽しみ、イエズスとマリアと共につつがなく世を送り、臨終においてはイエズスとマリアの御手に我らの霊魂を捧ぐる事を得しめ給え。



7 ああ全ての徳の鑑なる栄えある聖ヨゼフよ、御身は御身の誤りにあらずして幼きイエズスを見失い、三日の間苦しみもて捜し求められたり。
されど神殿の中に博士らに取り巻かれたるイエズスを見出されし時の喜びはいかに大いなりや。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らが大罪を犯しイエズスを失いたりせば、たゆまず彼を捜し求め、遂に再び巡り会えるよう、わけても臨終の時に彼と共にありて天国に至り、御身と共に天主の終わりなき御恵みを賛美し奉るようとりなし給わんことを心から願い奉る。



交唱 イエズスが教えをはじめたりしは三十歳ごろなり、人々、イエズスをヨゼフの子なりと思いたり。(ルカ3:23)

V 聖ヨゼフ、我らの為に祈り給え。
R キリストの御約束に我らをかなわしめ給え。

祈願 天主、御身のかしこき御摂理のうちに祝せられたヨゼフを至聖なるマリアの浄配に選び給いたれば、願わくはこの世の我らの保護者として崇め奉る彼が、我らの天のとりなし手となり給わんことを。 アーメン。

参考リンク
サンタフェ~奇跡の階段 コラレス通り1丁目 この記事に昔の階段の様子の写真があります。

聖ヨゼフの階段(アメリカのニューメキシコ、サンタ・フェにあるロレット・チャペル)



英語ではこちら。
THE SEVEN DOLOURS AND SEVEN JOYS.

i. St. Joseph, pure spouse of most holy Mary, the trouble and anguish of thy heart were great, when, being in sore perplexity, thou wast minded to put away thy stainless spouse: but this joy was inexpressible when the archangel revealed to thee the high mystery of the Incarnation.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee comfort our souls now and in their last pains with the consolation of a well-spent life, and a holy death like unto thine own, with Jesus and Mary at our side.
Pater, Ave, and Gloria.

ii. St. Joseph, Blessed Patriarch, chosen to the office of Father of the Word made Man, the pain was keen that thou didst feel when thou didst see the Infant Jesus born in abject poverty; but thy pain was changed into heavenly joy when thou didst hear the harmony of angel-choirs, and behold the glory of that night when Jesus was born.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee obtain for us, that, when the journey of our life is ended, we too may pass to that blessed land where we shall hear the angel-chants, and rejoice in the bright light of heavenly glory.
Pater, Ave, and Gloria.

iii. St. Joseph, who wast ever most obedient in executing the law of God, thy heart was pierced with pain when the Precious Blood of the Infant Saviour was shed at His Circumcision; but with the Name of Jesus new life and heavenly joy returned to thee.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us, that, being freed in our life from every vice, we too may cheerfully die, with the sweet Name of Jesus in our hearts and on our lips.
Pater, Ave, and Gloria.

iv. St. Joseph, faithful Saint, who wast admitted to take part in the redemption of man; the prophecy of Simeon foretelling the sufferings of Jesus and Mary caused thee a pang like that of death; but at the same time his prediction of the salvation and glorious resurrection of innumerable souls filled thee with a blessed joy.
By this thy sorrow and thy joy, help us with thy prayers to be of the number of those who, by the merits of Jesus and his Virgin Mother, shall be partakers of the resurrection to glory.
Pater, Ave, and Gloria.

v. St. Joseph, watchful Guardian, friend of the Incarnate Son of God, truly thou didst greatly toil to nurture and to serve the Son of the Most High, especially in the flight thou madest with Him unto Egypt; yet didst thou rejoice to have God Himself always with thee, and to see the overthrow of the idols of Egypt.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us grace to keep far out of the reach of the enemy of our souls, by quitting all dangerous occasions, that so no idol of earthly affection may any longer occupy a place in our hearts, but that, being entirely devoted to the service of Jesus and Mary, we may live and die for them alone.
Pater, Ave, and Gloria.

vi. St. Joseph, angel on earth, who didst so wonder to see the King of heaven obedient to thy bidding, the consolation thou hadst at His return was disturbed by the fear of Archelaus, but nevertheless, being reassured by the angel, thou didst go back and dwell happily at Nazareth, in the company of Jesus and of Mary.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us, that, having our hearts freed from idle fears, we may enjoy the peace of a tranquil conscience, dwelling safely with Jesus and Mary, and dying at last between them.
Pater, Ave, and Gloria.

vii. St. Joseph, example of all holy living, when, though without blame, thou didst lose Jesus, the Holy Child, thou didst search for Him for three long days in great sorrow, until with joy unspeakable thou didst find him, who was as thy life to thee, amidst the doctors in this Temple.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee with our whole heart so to interpose always in our behalf, that we may never lose Jesus by mortal sin; and if (which God avert) we are at any time so wretched as to do so, that we pray thee to aid us to seek Him with such ceaseless sorrow until we find Him, particularly in the hour of our death, that we may pass from this life to enjoy Him for ever in heaven, there to sing with thee His divine mercies without end.
Pater, Ave, and Gloria.

Ant. Jesus Himself was about thirty years old, being, as was supposed, the son of Joseph.

V. Pray for us, holy Joseph.
R. That we may be made worthy of the promises of Christ.

Let us pray.
O God, who in Thine ineffable providence didst vouchsafe to choose blessed Joseph to be the husband of Thy most holy Mother; grant, we beseech Thee, that we may have him for our intercessor in heaven, whom on earth we venerate as our holy protector. Who livest and reignest world without end. Amen.


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