Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

白衣の主日の説教:永遠の命を信じます

2023年04月20日 | お説教・霊的講話

白衣の主日の説教:永遠の命を信じます

レネ神父 2023年4月16日 大阪

親愛なる兄弟の皆さん、

永遠の命を信じます。

この、使徒信経の最後の箇条は、私たちの主の御復活によって証明されています。死は、命の終わりではありません。死は、「この」命の終わりに過ぎません。しかし、私たちの霊魂、私たちの精神は、それ以降も存在し続けて、世界の終わりに、再び私たちの体と結び合わされるのです。私たちの主イエズス・キリストは、福音の中で何度も永遠の命を約束されました。そして主は、ご自身の御約束を実現なされ得ることを、その栄(は)えある御復活によって、証明されたのです!

人がどのような人生観を持っていても、死は難しい問題です。この世での私たちの人生の目的は何でしょうか?過ぎ去ってしまうような喜びは、すべて、いささかむなしい、まやかしに過ぎません。私たちは、その喜びが永遠に続くことを望みますが、それが不可能であることを知っています。地上の喜びが永遠に続くことはあり得ませんし、私たちが死ぬ前にもう終わってしまうこともよくあるのです。そこで、世俗的な人たちは、こう結論づけます。それなら、この地上での快楽を、今できる間に、できるだけ楽しもう、明日はもう楽しめないかもしれないから。この人たちは、まさに、預言者イザヤを大いに悲しませたことを言っているのです。「人々は、たのしみ、よろこび、牛をころし、羊ののどを切り、肉をくい、ぶどう酒を飲んでいた。『食おう、のもう、あすは、死ぬのだから。』」(イザヤ22章13節)

そして、この世俗的な態度は、愚かなものです。このような人たちが、まるで動物のようにこの世の快楽に身を任せているまさにその時、その快楽が過ぎ去るものであるという、まさにその事実に悲しみを覚え、またそれに加えて、自分自身の罪の重荷を積み上げてしまっているからです。「万軍の主は、私の耳に、こう、おおせられた。『たしかに、この罪は、つぐなわれない、あなたたちが、死ぬまで。』」(イザヤ22章)

この世の物事を、慎みなく急いで楽しもうとする人たちは、しばしば、その愚かな行為の最中に倒れるのです。それは、私たちの主が、ファリザイ人にこう言われた通りです。「ある金持ちがいた。畑が豊かに実(みの)ったので、その人は心の中で『さてどうしよう。作物をおさめる所がないが・・・』と考え、『ではこうしよう、倉をこわしてもっと大きいのを建て、そこに穀物と財産とをみなおさめよう。そして、自分の霊魂に向かって、霊魂よ、おまえはもうこれから長い年月をすごせる多くの財をたくわえたから、休め、飲め、食べよ、楽しめ』といった。ところが、天主は、その人に、『おろかな者よ、あなたの霊魂は、今晩よびもどされるのだ。すると、あなたのたくわえたものはだれのものになるのか』とおおせられた。」(ルカ12章16-20節)私たちは、私たちに死が訪れる日も、時間も知らないのです。

また他の人たちは、地上の喜びを追い求めますが、その喜びはいつも逃げ去ってしまうのです。過ぎ去ってしまう喜びを求めれば求めるほど、その喜びは彼らのもとから、もっと速く逃げ去ってしまうのです。そのような人生も、おろかで、無駄なものです!

賢人はこう言いました。「死が遅くないことを忘れるな」(集会14章2節)死が来るのが遅くないとは、死がすぐに来ること、私たちが思っているよりも早く来るということです!

財産と権力をもっていたソロモンは、自分の人生の終わりが近づいた時、それを思ってこう結論づけました。「空(むな)しいことの空(むな)しさ、とコヘレットはいう、空(むな)しいことの空(むな)しさ、すべては空(むな)しい。」(伝道1章2節)「私は、この世でおこなわれることを、じっと見きわめたが、すべては空(むな)しいことで、風を追うに似ていた。」(伝道1章14節)「私は心のなかで自分にこういった。『さあ、快楽を味わいにくるがよい、幸福を味わうがよい』、だが、これも空(むな)しいことだ。」それは、無駄で、むなしく、まやかしで、そのために生きるには値しないものです。

天主との友情から離れる時間はすべて、永遠に失われてしまいます。

天主は、私たちをこの地上に永遠にいるようにされたのではなく、この地上で、天主とともにある天国の永遠の喜びを得るための功徳を積むようにされたのです。この地上での本当の喜びとは、この天国での喜びを求めて歩むことにあります。それは、聖パウロがこう言った通りです。「希望の喜びをもて。」(ローマ12章12節)これこそがこの地上での本当の喜び、キリストとともに天国への道を歩む喜びであって、その道は、私たちの主イエズス・キリストご自身です。主は、「道であり、真理であり、命」です。(ヨハネ14章6節)これが、天主との友情の喜び、永遠の命の本当の始まりです。

すでに旧約において、自らの罪をまことに悔(く)いて、正しく聖なる生活を送る悔い改めた人に、永遠の命が約束されています。「もし、悪人が、おかした罪から身をひき、私のおきてを守り、正義と公正とを実行するなら、その人は、生きのび、ふたたび死ぬことはない。…かれが反省して、おかした悪をしりぞけるなら、かれは、生きのびて、ふたたび死ぬことはない。」(エゼキエル18章21節、28節)「悪人[ではあったが悔い改めた者]が、借金のかたを返し、ぬすんだものを返し、悪をおこなわずに、私のいのちの定めを守るなら、かれは、かならず生きて、もう死ぬことはない。」(エゼキエル33章15節)そして、イザヤはこう言います。「あなた以外の神が、自分によりたのむもののために、これほどのことをされたと、耳にきいたこともなく、目でみたこともない。」(イザヤ64章4節)また、ダヴィドはすでにこう歌っていました。「主よ、あなたのいつくしみは深い!あなたをおそれる人々のために、あなたはそれを備(そな)え、あなたにより頼む人々のために、それを貯(たくわ)える、人の子らの前で。」(詩篇30篇20章)そしてまた、「あなたに身をよせる者は喜び、いついつまでも喜びを味わう。あなたのご保護によって、喜びおどれ、み名を愛する人々よ。」(詩篇5篇12章)

しかし、この約束がさらにずっと明確になるのは、新約においてです。旧約聖書の中では、「永遠の命」という表現は4回出てきますが、新約聖書の中では、41回も出てくるのです!私たちの主イエズス・キリストは、御聖体のことについて話されたとき、永遠の命と肉身のよみがえりを、三度もお約束になりました。「私の父のみ旨とは、子を見て信じる人々にみな、永遠の命をうけさせ、終わりの日に私がかれらを復活させることである。」(ヨハネ6章40節)「私をおつかわしになった父がおよびにならないかぎり、だれ一人私のところには来られない。私は、終わりの日に、その人々を復活させよう。」(ヨハネ6章44節)「私の肉を食べ、私の血をのむ人は永遠の命を有し、終わりの日に、その人々を私は復活させる。」(ヨハネ6章55節)

私たちの主のみ言葉に、よく注意してください。「私の肉を食べ、私の血をのむ人は永遠の命を有し」ということは、その人は、霊魂において、今すでに、その永遠の命の始まりを持っているということです。そして、「終わりの日に、その人々を私は復活させる。」ですから、あきらかに二つの命があります。体の命と、霊魂の命です。霊魂は、成聖の恩寵の状態にあれば、この地上ですでに永遠の命の始まりをもっており、善を行った人々の体はこの世の終わりに復活し、そして永遠の命を有することになるのです。(罪をもったまま死んだ人々は、「審判の復活のため」、つまり排斥されるためによみがえり、自らの罪の報いを、永遠に地獄で受け続けることになります。)

体は、霊魂と結びついているときは生きています。霊魂は、天主と結びついているときは生きています。死んでも、成聖の恩寵の状態にある霊魂は、天主と一致しつづけ、この命は、もはや体の制約をうけず、至福直観へと至ります。(それは、もし完全にその準備ができていれば、すぐにですが、小罪のけがれがいささかでも残っていれば、それを浄(きよ)めるため、またもし負債が残っていればそれを返すために、煉獄で一定の期間を過ごしたのちになります。)

この永遠の命の約束は、私たちの主が、他の多くの箇所でも、私たちに与えてくださいました。「私の名のために、家や、兄弟や、姉妹や、父や、母や、子や、田畑をすてる人は、みな、その百倍のものをうけ、永遠の命をうけつぐであろう。」(マテオ19章29節)「モイゼが荒れ野で蛇を上げたように、人の子もあげられなければならない。それは、信じるすべての人が、かれによって永遠の命をえるためである。天主はおんひとり子をお与えになるほど、この世を愛された。それは、かれを信じる人々がみな亡(ほろ)びることなく、永遠の命をうけるためである。」(ヨハネ3章14-16節)「私の羊は私の声をききわけ、私にしたがい、私もかれらを知っている。私はかれらに永遠の命をあたえる。かれらは永遠に亡(ほろ)びず、そして私の手からだれも、かれらをうばえない。」(ヨハネ10章27-28節)私たちの主イエズス・キリストは、最後の審判を、このみ言葉で締めくくられます。「そして、これらの人[つまり悪人]は永遠の罰をうけ、義人は永遠の生命にはいるであろう。」(マテオ25章46節)

そして、聖パウロはこう言います。「天主の正しい裁きは、…おのおのの業(わざ)にしたがって報い、根気よく善業をおこなって、光栄と名誉と不滅を求める人々には、永遠の生命を、お報いになる。」(ローマ2章5-7節)「罪から解放された今、天主の奴隷となって、聖徳の実を結んだ、その果ては永遠の命である。」(ローマ6章22節)「霊にまく人は、霊から永遠の命を刈り取る。」(ガラティア6章8節)そして、ティモテオに対して、聖パウロはこう言います。「信仰のよい戦いを戦え。あなたがそのために召された永遠の生命をとらえよ。」(ティモテオ前6章12節)

最後に、聖ヨハネがもっとも明確に述べています。「そしてかれ自身が私たちに約束されたことは、すなわち永遠の命である。」(ヨハネ第一書簡2章25節)「その証明とは、天主が私たちに永遠の命をあたえられたこと、その命がみ子にあることである。み子をもつ者は命をもち、天主の子をもたない者は命をもたない。私が、以上のことを、天主の子の名を信じるあなたたちに書いたのは、あなたたちに永遠の命があることを知らせるためであった。」(ヨハネ第一書簡5章11-13節)

親愛なる信者の皆さん、これらすべての驚くべき約束に強められ、勇気をもって、熱烈に、天国への道を進みましょう!罪のくびきをすべて切り、「天に宝をつみ」(マテオ6章20節)ましょう。喜びをもって徳を実践しましょう。徳には、報い、永遠の命という無限の報いがあるからです!

初期のキリスト教徒たちは、このことがたいへん良くわかっていたので、拷問や死を怖れませんでした。私たちの主イエズス・キリストが永遠の命という報いをくださることを知っていたので、主をあかしするために、自分の命をすすんで捧げたのです!これこそが、長崎の殉教者たち、そして日本のすべての殉教者たちの信仰でした。

これはすべて、私たちの主イエズス・キリストの恩寵の実です。主は、私たちが罪から離れ、まことに痛悔し、生き方を変えるよう、助けてくださいます。私たちが徳を実行するのを助け、私たちを強めてくださいます。主は、私たちの模範、私たちの贖(あがな)い主、私たちの王、私たちを命の水への道に導いてくださる私たちの善(よ)き羊飼いです。そして、主が、天国における私たちの喜びです。

まさに、この永遠の命が、天主の至福直観、栄光の光です。「主よ、天にはあなたの愛、あなたの真実は、雲に及ぶ。あなたの正義は天主の山、あなたの審(さば)きは、深淵(しんえん)のようだ。…天主よ、あなたの愛は尊い!そこで、人の子は、あなたの翼にかくれる。かれらは、あなたの家の油に酔い、あなたのよろこびの流れにうるおされる。実に、あなたには、命の泉があり、あなたの光において、われらは、光を見る。」(詩篇35篇6-10章)

聖ヨハネは、これについて、またこのようにも書き記しています。「かんがえよ、私たちは天主の子と称されるほど、おん父から、はかりがたい愛を与えられた。私たちは天主の子である。この世が私たちを認めないのは、おん父を認めないからである。愛するものたちよ、私たちはいま、天主の子である。のちにどうなるかは、まだあらわれていないが、それがあらわれるとき、私たちは天主に似たものになることを知っている。私たちはかれをそのまま見るであろうから。主が清いお方であるように、主にたいするこの希望をもつ者は清くなる。」(ヨハネ第一書簡3章1-3節)

すでにこの永遠の命をおもちの童貞聖マリアと天国の全ての聖人たちが、その祈りと模範とによって、私たちが、天に栄光をもってしろしめしておられる、「私たちの信仰の創始者であり、完成者である」(ヘブライ12章2節)私たちの主イエズス・キリストを見据えて、堅い決意をもって天国への道を歩むことを、助けてくださいますように。アーメン。


【参考資料】【ヴィガノ大司教】IN AZYMIS SINCERITATIS(清さの種なしパン):御復活の主日の説教

2023年04月20日 | 聖伝のミサの予定

【参考資料】IN AZYMIS SINCERITATIS(清さの種なしパン):御復活の主日の説教

2023年4月9日(主日)

IN AZYMIS SINCERITATIS: Homily for Easter Sunday

カルロ・マリア・ヴィガノ

Fratres: Expurgate vetus fermentum
ut sitis nova conspersio, sicut estis azymi.
Etenim Pascha nostrum immolatus est Christus.
Itaque epulemur: non in fermento veteri,
neque in fermento malitiæ, et nequitiæ:
sed in azymis sinceritatis et veritatis.

兄弟たちよ、あなたたちは新しい練り粉になるために、
古いパン種を取り除かねばならぬ。
あなたたちは種なしパンだからである。
私たちの過ぎ越しの小羊であるキリストは、すでにいけにえとなられた。
では、古いパン種ではなく、
悪意と邪悪のパン種でもなく、
清さと真理の種なしパンを用いて祝いを行おう。
コリント前書5章7-8節

現代世界は、嘘の人質になっています。エリートによって理論化され、制度によって肯定され、メディアによって宣伝されるものは、すべて嘘であり、虚偽であり、欺瞞です。

サイコパンデミックの緊急事態は嘘です。すべては、健康に有害なのと同じくらい効果のない集団ワクチンを接種させるために、実験室で作られたウイルスのせいです。ジェンダー論は嘘です。創造主が意図された男女の区別を否定し、人間における天主の像と似姿を取り消そうとします。気候変動は嘘です。人工的な気候危機という偽りの前提に基づくものであって、また、特定の国々の二酸化炭素排出量を削減することで地球の温度を最小限に変えることができるという、さらなる偽りのキメラ【想像上の怪物】に基づくものです。ウクライナ危機は嘘です。ロシア連邦に対する理不尽な制裁によって、欧州諸国の社会的・経済的基盤を破壊するために引き起こされたものです。アジェンダ2030は嘘です。人類を奴隷化するために破壊転覆者集団によって押しつけられているものです。覚醒(Woke)イデオロギーは嘘です。新世界秩序(New World Oder)という地獄の宗教とグレート・リセットの野蛮さを押し付けるために、私たちのアイデンティティー、私たちの歴史、私たちの信仰を取り消しを引き起こすものです。

最も懸念されるのは、諸国民に対するこの詐欺行為(諸国民を保護し擁護すべき権力者たちによって長く行われているもの)が、教会組織にも感染していることです。そこでは、同様に深刻な虚偽が信仰の純粋さを腐敗させ、天主の御稜威(みいつ)を傷つけ、主が多大の犠牲を払った末にいと尊き御血で買い取られた多くの霊魂の滅びを引き起こしています。エキュメニズムは嘘です。生ける真の天主を諸民族の偶像のレベルにまで貶めるものです。シノドスの道は嘘です。天主の民に耳を傾けるという偽りの口実のもとに、キリストが意図された教会の神聖な構造を破壊しているものです。典礼改革は嘘です。ミサを信者に理解しやすくするという口実で導入され、天主から名誉を奪って異端者を喜ばせることだけを意図しているものです。女性助祭は嘘です。女性に役割を与えるという口実をもってミサと秘跡を攻撃し、私たちの主によって制定された聖なる品級の秘跡を改ざんするものです。離婚して同棲しているカップルがご聖体を受けることができるというのは嘘です。同性愛の結合を祝福することは嘘です。神学校に性転換者が入学することができるというのは嘘です。ベルゴリオがどう言おうとも、道徳はその時々の流行に従うものではありません。同性愛行為を受け入れることは嘘です。あわれな罪人の霊魂を救うのというよりもむしろ、多くの高位聖職者や聖職者の行為を正当化しようと望んでいるように見えることが、あまりにも頻繁にあります。

これらの嘘は、合理的あるいは信頼できる論拠を欠いた明らかな虚偽として、図々しくも表に出て来ています。これらの嘘は、何かを不器用に隠そうとするための嘘ではなく、改ざんをしたり、論理を転覆させたり、真実を否定したりするための傲慢な宣言なのです。

しかし、なぜ多くの人々が自らの批判的判断を放棄して、露骨な嘘を合理的で真実であるものとして受け入れることを進んで選択するのでしょうか。なぜなら、誤謬に固執することは、この世が自らの崇拝者たちに、つまり、疎外され、犯罪者にされ、迫害されることを望まない人々に対して求める代償だからです。ところで、嘘の父であり、初めから殺人者だったサタンでないとするならば、嘘のかしらはいったい誰だというのでしょうか。サタンは、私たちの最初の父祖を、「この実を食べれば、神々のようになれる」という、これ以上ないほど図々しい嘘で誘惑しました。これは図々しい虚偽であり、これを信じることによってアダムとエワは理性を捨てて、忌まわしい被造物【サタン】が行った偽りの約束に従うために、天主に背くことを選択したのです。

サタンが砂漠で私たちの主を誘惑したときに主に約束した「このすべてをあなたにやろう」というのも嘘でした。何故なら、キリストがすでにその【「このすべて」の】主人であっただけでなく、すべての創造主でもあったからです。

私たちの主イエズス・キリストの死からの御復活を祝うこの最も聖なる日のミサの書簡の中で、使徒パウロは「古いパン種を取り除く」(Expurgate vetus fermentum)ようにと勧めています。古代のパンの作り方に詳しい人なら誰でも知っていることですが、小麦粉と水を混ぜて発酵させたものが母生地であり、これを発酵させたままにしておくと、パン種の塊となります。母生地は何十年も保存でき、定期的に新しい粉と水で練り直すことで、今日のパンは、過去にさかのぼる昔のすべてのパンと実質的につながっています。しかし、fermentum(発酵物)がvetus(古いもの)であれば、発酵物が古いものであれば、これは、新しい生地や新しいパンに影響を与えます。古いパン種を取り除くことが意味するのは、最初からやり直し、個々の霊魂と社会の体の真の「グレート・リセット」を成し遂げ、悪意と倒錯のパン種を取り消し、種なしパンで新しく始めることです。その種なしパンは、キリストが教会と交わした新しい永遠の契約の「聖なるエウカリスティアにして御聖体」のかたどりであり、恩寵のうちに新しくなり、時代、流行、状況の変化に左右されないものなのです。

このため、聖パウロはアジムス(azymus)、すなわち、種なしパンのことを語っています。質素(austerity)なパン、母生地を生きたまま保存する時間がない人のパン、エジプトの地を捨て紅海を渡る前に、傷のない小羊と苦菜を食べるために腰の帯を締めて準備する人のパンです。リセット、新創造、新しい過ぎ越しは、唯一無二の欠くことのできない永遠の真理、永遠の御父の生ける真の御言葉であるキリストにおいて成就されます。真のリセットとは、キリストの真理に、ご自身のことを「私は道であり、真理であり、命である」と言われたお方の真理に立ち返ることです。真理は、存在します。それに対して誤謬には存在がありません。真理は、私たちの側に清さを要求します(in azymis sinderitatis 清さの種なしパン)が、それは真理(et vertatis 真理)の光に対して必要とされる応答として要求するのです。

天主の猿まねをする者であるサタンは、分別のある人なら誰でもそのようなもの【模倣物】だと認識する奇怪なものに従事することで、グロテスクに創造を模倣します。サタンは、さらにグロテスクに贖いを模倣し、自分にとって未知である善、自分自身が最初に所有してはいない善を人に約束し、その見返りに、人がサタンを神として認めるように求めます。私たちは、サタンのこの法則をそのままに認識すべきであり、それを拒絶し、それに対して戦うべきです。

私たちが真理のために(神学的な真理だけでなく、あらゆる真理[真実]のために)戦うなら、私たちはキリストの側に、使徒たちにご自分の死と復活を告知なさったときに嘘をおつきにならなかったお方の側に身を置くことになります。

そうではなく、私たちが真理のために戦わないことを選択するなら、あるいは誤謬が宣言されるのを許すか、自らそれを広めるなら、私たちは嘘のかしらであるサタンの側に、つまり約束をしてそれを守らない者の側に身を置くのです。サタンが嘘をつく唯一の目的は、私たちを滅びの深淵に引きずり込むため、つまり、サタン自身が、傲慢の罪――自らが天主の座に就いて、何がそうであって何がそうでないのか、すなわち、何が真理で何が嘘か、何が善で何が悪か、何が美しくて何が醜いかを決めることができるなどと思いあがった罪――を犯したときに、彼が自ら選択した同じ滅びの深淵に私たちを陥れるためです。実際、私たちが真っ逆さまに突っ込んでいる地獄のような世界は今日、嘘と悪意と醜さでできています。それ以外のものではあり得ません。

サタンがこの世のかしらと呼ばれるのは偶然ではありません。彼は王ではなく、彼の力ははかないものであって、それが天主によって許されるのは、試練の期間が終わり、審判の瞬間が訪れるまでです。それは、サタンのしもべたちにとっても同じことです。たとえ彼らの力が私たちを圧倒するように見えても、彼らの思い通りになる手段が限りなく圧倒的なものであるように見えても、キリストがその普遍的な御国を取り戻されるとき、彼らの終わりは容赦なく近づいています。「天主は速やかに治められるべし」(Oportet illum regnare. コリント前書15章25節)、それが起こることが必要であり、それは天主のご意志による秩序であり、誰も、すべての地獄を合わせても、見かけ上の悪の凱旋を一瞬たりとも長引かせることはできません。

わずか2日前、私たちは最高法院(サンヘドリン)の策略、群衆の騒動、処刑人の拷問を経て、主の御受難と死の神秘を観想していました。アリマタヤのヨゼフや敬虔な婦人たちとともに、私たちは命なきイエズスのご遺体に墓所まで同行しました。私たちは、教会のむき出しの沈黙の中で祈り続けました。しかし、「Consummatum est」は、「すべてが失われた」という意味ではなく、むしろ「すべてが成就した」、つまり、「贖いのわざが成し遂げられた」という意味なのです。

Χριστὸς ἀνέστη(クリストス・アネスティ)は、「キリストはよみがえり給えり」というギリシャ語の復活祭の挨拶です。この挨拶に対して、「Ἀληθῶς ἀνέστη(アリトース・アネスティ)――まことに主はよみがえり給えり――Surrexit Dominus vere」という応答がなされます。そのἀληθῶς(アリトース、まことに)、そのvere(まことに)には、救い主の御復活という現実、すなわち、人にして天主であるお方の御あわれみが、サタンの嘘によって引き起こされたアダムの罪を償うという歴史的出来事の真理が含まれています。サタンは、偽りの証人によってキリストを告発したときに嘘をつき続けたのであり、今日でも贖いの実を挫こうとして嘘をついています。

今日、Exsultetの荘厳な歌声が御復活の栄光を告げた後、死と罪に対するキリストの凱旋、サタンに対するキリストの勝利をお祝いしましょう。また、神秘体の運命は、その天主なるかしらが、いにしえの蛇を十字架に釘付けになさった瞬間に定められたのですから、教会とキリスト教文明が地上の敵に勝利したこともお祝いしましょう。Mors et vita duello, conflixere mirando:Dux vitæ mortuus, regnat vivus.(死と命は、驚くべき決闘を行い、命の主は死しても、生きて治め給う)。

+大司教カルロ・マリア・ヴィガノ

2023年4月9日
主の御復活の主日
Dominica Paschatis, in Resurrectione Domini

英語版 IN AZYMIS SINCERITATIS: Homily for Easter Sunday

イタリア語版 Mons. Viganò, Omelia di Pasqua. Il Mondo Moderno e la Menzogna.


聖ピオ十世会 カトリック聖伝のミサの報告【東京】【大坂】 Traditional Latin Mass in Japan SSPX Japan

2023年04月20日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

白衣の主日、東京ではミサはドモルネ神父様が司式してくださいました。東京のミサに来られた方は、子供達も入れて合計105人でした。
大阪ではレネ神父様がミサを捧げてくださり、ミサの参加者は36人でした。

愛する兄弟姉妹の皆様のしもべは、聖ピオ十世シスター会のアメリカの修練院で、シスターの着衣式、初誓願、終生請願の儀式に参加しておりました。

聖伝の修道会は、若い修道志願者たちが多く、儀式には子だくさんの多くの家族が参加し、修道生活を志願する少女たちの姿も多く見受けられました。アメリカは豊かな国ですが、カトリックの聖伝では、アメリカの人々は、とても寛大で赤ちゃんや子供たちの多い大家族が笑顔が輝く、大きく成長しているコミュニティーであることがよくわかりました。願わくは、カトリック聖伝の信仰の火が日本にも燃え広がり、日本にいる私たちが、愛をこめて主の御旨にしたがおうと努める大きな共同体にますます成長していきますように!









【報告】【東京】
Dear Fathers:

Shown below are the number of attendees at today's Sunday masses in Tokyo. The total number of attendees at today's Sunday masses in Tokyo was 105 including children.

09:00 mass
M: 26 (incl. 4 children)
F: 30 (incl. 9 children)
Total: 56 (incl. 13 children)

11:30 mass
M: 25 (incl. 3 children)
F: 29 (incl. 3 children)
Total: 54 (incl. 6 children)

Total of 2 masses (excl. 5 persons who participated in multiple masses)
M: 47 (incl. 7 children)
F: 58 (incl. 12 children)
Total: 105 (incl. 19 children)


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
【最新情報はこちら、年間予定一覧はこちらをご覧ください。】