Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

私たちはどのように互いに愛し合わなければならないのか? 主イエズスは、私たちの間にどのような愛を望んでおられるのか? なぜこの愛がイエズスの弟子の特別なしるしなのか?

2023年04月09日 | お説教・霊的講話

隣人への愛についての説教(聖木曜日)

ドモルネ神父 2023年4月6日

はじめに

あと数分で、洗足の儀式が行われます。司祭は、最後の晩餐のときに私たちの主ご自身がなされたことを再現します。イエズスは、この素晴らしい謙遜の行為を行い、使徒たちへの愛を示された後、こう言われました。「私は新しい掟を与える。あなたたちは互いに愛し合え。私があなたたちを愛したように、あなたたちも互いに愛し合え。互いに愛し合うなら、それによって人はみな、あなたたちが私の弟子であることを認めるだろう」(ヨハネ13章34-35節)。

今晩は、このイエズスのみ言葉についてお話しします。私たちは、どのように互いに愛し合わなければならないのでしょうか? 私たちの主イエズスは、私たちの間にどのような愛を望んでおられるのでしょうか? そして、なぜこの愛が、イエズスの弟子であることの特別なしるしなのでしょうか?

1. 自分のように隣人を愛すること:その意味

私たちの主イエズスは、私たちが互いに愛し合わなければならないと言われ、その方法を教えてくださいます。それは「私があなたたちを愛したように」です。しかし、ここで、私たちは少し混乱してしまうかもしれません。実際、イエズスは私たちに、福音の他の箇所で、こう言われました。「隣人を自分と同じように愛せよ」(マテオ22章39節)。しかし、他の箇所で、イエズスは、私たちが自分自身を憎まなければならないことも教えておられます。「私のもとにきても、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そして自分の命までも憎まないなら、私の弟子にはなれない」(ルカ14章26節)。私たちの主のこれらのみ言葉は、矛盾しているように思えます。では、私たちは、どのようにして、互いに愛し合わなければならないのでしょうか?

この疑問に答えるには、第一に、自分自身について、区別を行う必要があります。原罪以来、私たちは、自分自身を愛すると同時に、憎まなければなりません。私たちは、天主の像と似姿に造られ、ついには顔と顔を合わせて天主を見て、天主の永遠の命にあずかるように運命づけられている、天主の被造物としての自分自身を、愛さなければなりません。要するに、自分自身を愛するということは、私たちの内におられる天主を愛することなのです。逆に、私たちは、天主に対立する自分自身、つまり、天主のご意志に対立する自己意志を憎まなければなりません。私たちは、自分自身の罪や、私たちの内にあって、私たちを天主から遠ざけるすべてのものを、憎まなければなりません。要するに、自分自身を憎むということは、私たちの内にある天主でないものを憎むことなのです。

ですから、キリストが、隣人を自分のように愛さなければならない、と言われるとき、キリストは、私たちが自分の内におられる天主を愛するように、隣人の内におられる天主を愛さなければならない、という意味で言っておられるのです。私たちは、自分自身のために永遠の救いを望むように、隣人にも永遠の救いを望み、この目的のために私たちにできることなら、それが何であっても、しなければならないのです。

しかし、イエズスは、私たちにそれよりもっと多くのことを望まれます。イエズスはこう言われました。「私があなたたちを愛したように、互いに愛し合え」。ですから、私たちの基準と模範は、イエズスの愛なのです。私たちに対するイエズスの愛とは、どのようなものだったでしょうか?

2. 隣人を愛すること:いくつかの特徴

愛するということは、第一に感傷的な感情を抱くことではなく、本質的に言えば、人のために良いことをしたいと思うことです。愛とは、第一に意志の行いであり、感情ではありません。感情は、意志の行いと共にあることもありますが、必ずしもそうではありません。例えば、イエズスの友人ラザロが死んだときのイエズスを思い出してください。イエズスは泣かれました。イエズスの愛には感情が伴っていました。しかし、オリーブ園での苦悩のときのイエズスも思い出してください。私たちに対するイエズスの愛は、まったく感傷的ではありませんでした。イエズスは、私たちの救いのためにどれほど苦しむことになるかをすべて予見なさって、激しい苦悶の状態で、血の汗を流されていました。しかし、そのご意志の強さをこめて、こう祈られました。「父よ、おぼしめしならば、この杯を私から遠ざけてください。しかし、私の意のままにではなく、あなたのみ旨のままに」(ルカ22章42節)。イエズスの愛は、私たちを救うという固い決心にあったのです。しかし、その決心が、イエズスを感覚的に大変苦しめることとなったのです。

第二に、隣人を愛することは、隣人の言動や行動に同意することではなく、逆に、隣人が悪から離れて善を行うように助けることです。例えば、私たちの主イエズスが神殿から商人たちを追い出されたことを思い出してください。イエズスは彼らを愛し、彼らの永遠の救いを望んでおられたため、彼らの悪しき商売をやめさせられたのです。また、聖ペトロが主のご受難を思いとどまらせようとしたとき、イエズスが聖ペトロに言われた強い言葉も思い出してください。イエズスはペトロを愛しておられましたが、ペトロにこう言われました。「サタン、ひきさがれ!あなたは私の邪魔をするのか」(マテオ16章23節)。また、イエズスがファリザイ人をどのように呼ばれたかを思い出してください。「偽善者よ…盲目の案内人よ…愚か者、盲目よ…蛇よ、まむし族よ…」(マテオ23章)。イエズスはファリザイ人を愛し、彼らの永遠の救いを望んでおられました。しかし、彼らはあまりにも罪に凝り固まっていたため、イエズスは彼らが罪から抜け出せるようにと、彼らの悪事を強く糾弾なさらなければならなかったのです。

第三に、隣人を愛するとは、個人的な利益を求めずに、隣人の善を求めることを意味します。私たちに対するキリストの愛は、私たちの救いのために死を覚悟した、至高の慈愛に満ちた愛でした。「友人のために命を与える以上の大きな愛はない」(ヨハネ15章13節)。イエズスには、私たちのために死ぬ義務がなかったことを思い出してください。私たちに対するイエズスの愛は、私たちに過去の功徳があったから、というわけではありませんでした。それどころか、私たちはイエズスの敵だったのです(ローマ5章10節参照)。ですから、イエズスが私たちに、「私があなたたちを愛したように、互いに愛し合え」と言われるとき、イエズスは私たちに、すべての人に対して、それが私たちに何も良いことをしてくれなかった人であっても、たとえ敵であっても、私たちが慈愛に満ちた愛を持つことを命じておられます。私たちの愛は、隣人の永遠の救いのために必要であれば、肉体的な死をも覚悟するほどのものであるべきです。囚人収容所で餓死の刑を宣告された人の身代わりになった、聖マキシミリアノ・コルベの例を思い出してください。彼は、この人や他の囚人たちの霊魂が救われるように、自分が肉体的に死ぬことを決心したのです。

3.愛はキリストの弟子の持つ特別なしるしである

ここで、私たちの主イエズスの、次の言葉を考えてみましょう。「互いに愛し合うなら、それによって人はみな、あなたたちが私の弟子であることを認めるだろう」。なぜ、私たちの間の愛が、私たちがキリストの真の弟子であることを識別するための特別なしるしなのでしょうか? その答えは単純です。私たちは、イエズスだけが与えることがおできになる成聖の恩寵と、超自然の徳である愛がなければ、イエズスがなさったように、隣人を愛することはできないからです。

率直に言えば、完璧な男も完璧な女も存在しません。私たちは皆、原罪と自罪の影響を受けています。私たちが他人の欠点に耐えることは困難で、他人が私たち自身の欠点に耐えることも困難です。すべての人が私たちの友人というわけではありません。私たちの人生において、あらゆる種類の不正や不義が、私たちに対してなされる可能性があります。

私たちの知性が、信仰という超自然の徳によって強められなければ、私たちの敵を、キリストの血によって贖われ、永遠の命に召された天主の被造物と見ることが、どうして私たちにできるでしょうか? 私たちの意志が、愛という超自然の徳によって強められなければ、私たちの敵の永遠の救いを確実にするために、自分の死を覚悟するほど敵を心から愛することが、どうして私たちにできるでしょうか? イエズスを自分の心に抱かなければ、私たちは、イエズスが私たちに望まれるように、隣人を愛することはできません。

結論

親愛なる信者の皆さん、この聖木曜日に、私たちの主から私たちに与えられた愛の掟を思い出しましょう。私たちの気質の違い、好き嫌いの違い、私たち一人一人に固有の欠陥や霊的な惨めさを超えて、私たち共通の存在目標、すなわち永遠の命に心を集中させ、イエズス・キリストとの一致を保ち、またイエズス・キリストにおいて、互いに一致を保ちましょう。私たちの主イエズスから、主の教えや模範、恩寵から、互いに愛し合うことを学びましょう。


聖ピオ十世会 カトリック聖伝のミサ 聖週間と復活祭の報告【東京】【大坂】 Traditional Latin Mass in Japan SSPX Japan

2023年04月09日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、
私たちの主の御復活、おめでとうございます。主イエズス・キリストはまことに復活されました。

ミサの報告を申しあげます。
東京の聖木曜日のミサに来られた方は、子供達も入れて合計52人でした。大阪では21人でした。
東京の聖金曜日の典礼に来られた方は、子供達も入れて合計55人でした。大阪では24人でした。
東京の聖土曜日の復活の徹夜祭に来られた方は、子供達も入れて合計59人でした。大阪では26人でした。
東京の復活の主日のミサに来られた方は、子供達も入れて合計154人でした。大阪では58人でした。復活祭の日中のミサには、212人が与るお恵みを受けました。天主に感謝いたします。復活祭のミサでは、東京でも大阪でもはじめて聖伝に与られた方々がおられました。

大阪では、復活の徹夜祭に一人の成人男性が洗礼の恵みを受けました。Deo gratias! 大阪の復活の主日の日中のミサのあとに、復活祭のパーティーが食べ物の持ちより分かち合いで行われました。その後、2時30分ごろに聖体降福式をおこないました。それは本当に幸福な式でした。

聖週間の素晴らしい典礼を東京で捧げてくださったドモルネ神父さまに心から感謝いたします。また、聖週間の典礼を最高のものとするために、準備や練習など労苦を惜しまずに協力してくださった、侍者の方々、香部屋の準備片付けして下さった方々、聖歌隊の方々、事務の方々、心から感謝申し上げます。東京でも大阪でも、聖週間の特別な儀式がとても荘厳に執行することができました。感謝!感謝!感謝!

復活された主イエズス・キリストが、愛する兄弟姉妹の皆様の皆様の仕事や疲労を何十倍にして報いてくださいますように!どうぞ良き復活の八日間をお過ごしください。

【報告】【聖木曜日】
Dear Fathers:

Shown below are the number of attendees at the Maundy Thursday mass in Tokyo today. The total number of attendees at the Maundy Thursday mass in Tokyo today was 52 including children.

18:00 mass
M: 24 (incl. 5 children)
F: 28 (incl. 3 children)
Total: 52 (incl. 8 children)

【報告】【聖金曜日】
Dear Fathers:

Shown below are the number of attendees at the Good Friday liturgy in Tokyo today. The total number of attendees at the Good Friday liturgy in Tokyo today was 55 including children.

18:00 via crucis + good Friday liturgy
M: 29 (incl. 3 children)
F: 26 (incl. 5 children)
Total: 55 (incl. 8 children)

【報告】【聖土曜日】
Dear Fathers:

Shown below are the number of attendees at the Easter Vigil in Tokyo today. The total number of attendees at the Easter Vigil mass in Tokyo today was 59 including children.

18:00 mass
M: 31 (incl. 5 children)
F: 28 (incl. 4 children)
Total: 59 (incl. 9 children)

【報告】【復活の主日】
Dear Fathers:

Shown below are the number of attendees at Easter Sunday masses in Tokyo today. The total number of attendees at Easter Sunday masses in Tokyo today was 154 including children.

09:00 mass
M: 47 (incl. 6 children)
F: 51 (incl. 10 children)
Total: 98 (incl. 16 children)
11:30 mass
M: 27 (incl. 2 children)
F: 35 (incl. 3 children)
Total: 62 (incl. 5 children)

Total of 2 masses (excl. 6 persons who participated in multiple masses)
M: 70 (incl. 8 children)
F: 84 (incl. 13 children)
Total: 154 (incl. 21 children)


[聖骸布]の最新研究:福音書のキリストの御受難,御死去,御復活が写し出されている [聖骸布]は21世紀の私たちのためのもの。

2023年04月09日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、主のご復活のお慶びを申し上げます。

2023年4月9日は復活祭です。

「テレワーク」方式ではありますが、皆様にYouTubeで「復活祭の説教」の動画をご紹介いたします。

この動画が気に入ったら、お友達にもご紹介くださいね。

SSPX JAPAN聖ピオ十世会日本にチャンネル登録もお願いいたします。

天主様の祝福が豊にありますように!

トマス小野田圭志神父

【ご要望がありましたので、ビデオを文字にしたものをご紹介いたします。】

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、今日は2023年4月9日、御復活の主日です。私たちの主イエズス・キリストの御復活のお喜びを申し上げます。私たちの主イエズス・キリストは、約束した通りまことによみがえりました。御自分の天主の力で、死から肉体を伴ってよみがえりました。

1.多くのことは、主の復活を語っている。
イエズス・キリストはご自分が天主であることを宣言して、それを証明するために、死者の中から復活することを約束していました。主の御死去と復活が確実であるのは、数多くの理由があります。私たちのもっている信仰は、盲目的なものでも感傷的なものでもありません。
私たちが主の復活を信じているのは、それは極めて高い信憑性があるからです。全ての客観的な出来事は、主が復活していることを指し示し、たとえそれをこの目で見なくとも、復活したとしなければ説明できないことがあまりにも多くありすぎるからです。

イエズス・キリストが御死去されたことは、主が受けた残酷な拷問、むち打ちなどによる大量の出血、十字架上の釘付け、飢えや渇き、苦しみと痛み、心臓が槍で貫かれたこと、ローマ当局の公式の確認、聖母の確認、新しい墓に埋葬された事実など、その他多くが証明しています。

主が御復活されたことは、ユダヤ当局がそのローマ兵士によって主の墓を警備させたことにもかかわらず、しかも、使徒たちが主の復活を信ぜずに逃亡して隠れていたにもかかわらず、三日目の朝早く、婦人たちや弟子たちは主の墓が空になっているのを目撃しました。墓には御体がなくなっており、残っていたのは主を包んでいた布だけでした。

主は、その直後にマリア・マグダレナとその他の婦人たちに現れ、また使徒たちにも現れてご自分の傷痕を示して「共に語り、共に食し」(ルカ 24:39-43)ご自分が復活されたことを証明されました。エンマウスへの途上の二人の弟子と共に歩いてそしてパンを割く様子から、二人は確かに主であると認めました(ルカ 24:35)。

キリストの復活をまったく信じようとはしなかった弟子たちが、キリストの復活が否定できない事実であるということを確認せざるをえませんでした。否定することができない自明の証拠を目の前に突き付けられたからです。彼らは「キリストは、約束のごとく復活し給うた、まことの天主である」と確信したのです。彼らは主の復活を見て、態度をがらりと変えてしまいました。

主が御復活したのでなければ、説明できないことが多くあります。そのようなことがらの一つに聖骸布があります。ちょうど裁判官が、ある事件について、多くある証人や事由を調べて、どうしても事件の事実の認定をしなければならなくなった証拠物件のうちの一つのようなものとして聖骸布があります。

2.聖骸布とは。
現在、北イタリアのトリノというところには、聖骸布と呼ばれている上等な亜麻布が保存されています。亜麻布というのは麻ではありません。杉綾織(すぎあやおり)と呼ばれる織り方で織られた純粋な亜麻布です。この織り方は中世ヨーロッパにはありませんでした。

トリノにある聖骸布の大きさは、長さ441センチ、幅113.3センチで、埋葬された人の前と後ろの姿が映っています。その姿には輪郭がありません。顔の部分と後頭部の部分が向かい合っていて、足は正面と背なかとで反対方向を向いています。この映っている方の身長は180センチから185センチです。聖骸布は、私たちの主イエズス・キリストを包んだ布として、血まみれの布であるにもかかわらず現在まで大切に保存されて伝えられてきました。

聖骸布ほど、世界中の科学たちによって調査・研究されたものはありえません。過去30年だけでも、2000人以上の科学者が研究し、そのうち無神論者だった研究者のうち、研究を終えたのち95%がキリスト教を信じるようになりました。

1898年5月28日にセコンド・ピアという人が聖骸布の写真を撮ったところ、写真のネガに写っていた姿がポジだったということを発見しました。つまり聖骸布の姿は、実際は白いところが黒く映り、黒いところは白く映っていて、白黒が正確に反転しているのです。つまり聖骸布というのは、写真機なしでできた等身大のネガが写っていたのです。

聖骸布に映った姿をこれから分析してみます。すると、十字架の刑を受けた姿が映っていることがわかります。法医学・解剖学・生理学の立場から、聖骸布に写っている傷痕がどのようにできたのかということを研究すると、足や手首、これは手のひらではありません、足や手首にある傷、流れた血の跡があること、膝が曲がっていること、膝と腰が浮いていることなどから、十字架の刑を受けた人の姿といえます。つまり聖骸布には十字架上でそのまま亡くなって、硬直状態となった体が写っているのです。

聖骸布を見ると、十字架を背負った傷も見えます。右肩の上と左肩の下に重いものを運んだためにできたような広いかすり傷がついています。また、足や膝や鼻のあたりには細かい土が付着しています。ですから裸足で歩き、地面に膝や顔をついたということがわかります。この土を分析するとエルサレムの土壌を覆っているアラゴナイトと同じ成分だということがわかります。

また、鞭打ちを受けた姿で映っています。背中や太もも、胸、体中の至る所に鞭を受けた傷痕があります。傷や流れる血の方向によって、打つ人は両側に一人ずついたということが分かります。120回ほどの鞭打ちを受けた痕があります。ユダヤ人にはむち打ちの限度がありそれは40回でしたから、鞭を打ったのはユダヤ人以外の人だったはずです。

また聖骸布には茨の冠を受けた姿が映っています。額と後頭部には、茨が刺したと思われる痕跡がたくさんついています。額に見える血の痕は、血の色と濃さが場所によって違っています。額の真ん中の数字の3の反対のような血は粘っこく、そして額の横を流れる血は薄い血です。これは動脈の血が濃く、そして静脈の血が薄いというのに対応しています。解剖学的には、額の中央に動脈があり、横に静脈があるのと一致しています。これは偽造のできないものです。

また暴行を受けた痕も写っています。顔には虐待を受けた痕が多く見られます。右目は打撲で腫れあがっています。鼻の線も曲がっています。強い打撃で軟骨がへし折られてしまった姿です。右の頬も膨らんでいます。

足の骨は折られていないということもわかります。イエズス・キリストと一緒に十字架にかかった二人の盗賊の足は、ローマ兵士によって折られました。しかし主イエズスはもう死んでいたので足の骨は折らなかったのです。旧約の規定によれば、過越しの生け贄の小羊の骨は折ってはなりませんでした。私たちの過越しである天主、天主の小羊イエズス・キリストの骨もおられてはなりませんでした。

胸の傷もついています。胸の右側の第五と第六の肋骨の間には、4センチ掛ける1.5センチの大きな傷がついています。その傷から大量の血が流れ出ていて、背中にも広がって聖骸布に付着しています。黒っぽいところと明るい部分があり、血清と血餅が分離していることがわかります。これは死後の血です。また開いたまま残っている傷も死後受けた傷であるということを示しています。

血液も解剖学的には血痕は血の痕はすべて正しい位置にあります。これは塗料で描かれたものではなく、傷口から直接布に移ったものです。胸の傷から流れた血だけは死後の血ですが、その他の傷の血は生前に流された血でした。聖骸布の血液は本物の人間の血液で、AB型でした。ビリルビンという赤い色素が多く含まれています。これは虐待を受けたときに赤血球が敗れてビリルビンが血液の中に入りこみますが、そのまま残って付着したものです。

また聖骸布をよく見るとこれは長い間使われなかったということがわかります。通常ならば数日で死体は腐敗します。腐敗した体液だらけになるはずです。そして腐敗のために、血の痕も姿も見えなくなっていたはずです。ところが、聖骸布には腐敗の痕跡がまったくありません。つまり体は腐敗する前に、布から離れ去っていたのです。

姿はどのように映っているのか。聖骸布の裏には、血痕は血の痕はしみ込んではいても、人の姿は写っていません。聖骸布には絵具や塗料の跡は全くないのです。ただ繊維が変色しているので姿を映し出しているだけです。布の背後から光を当てて見ると、血の痕や水のシミが付いているところでは光をさえぎるのですが、姿が見えるところでは光を通しています。つまり塗料によっては描かれてはいないということです。

よく分析してみると、聖骸布に写った姿は、繊維のセルロースの化学変化による色の変化によってできたものです。つまり布が焦げついているのです。いいかえると繊維が酸化しているのです。布の表面の6ミクロン、つまり1ミリの1000分の6程度の繊維の変色があるんです。人間の髪の毛は、50~60ミクロンの太さがあります。つまり人間の髪の毛の十分の一の浅い場所の色の変化が繊維に起こっているということです。固まった血の膜をはがすと繊維は真っ白のままです。つまり人の姿が映っているのは、血の痕が血痕が布についてから後のことであるということが分かります。

イタリアの科学者らが聖骸布と似ている酸化変化を布に起こす実験をしたことがあります。強烈な紫外線を繊維に放射したところ酸化が起こり色が付きました。彼らの研究によると、聖骸布の大きさのイメージを作りだすためには、400億分の一秒という極めて瞬時に、数十億ワットという巨大なエネルギーを発出されることが必要であるとわかりました。つまり主の御復活の瞬間、体からあっという間に輝き出た強力な栄光の力が、主の体を包んでいた布の繊維に変化を起こさせた、ということができるでしょう。

聖骸布はイエズス・キリストの体の全てに触れていたわけではありません。じかに触れていた部分もあれば、隙間が空いていたところもあります。しかし聖骸布には体全体の姿が写っています。しかも、聖骸布を紫外線で観察してみると、レントゲンのように、主の折ってある親指も透けて見えます。指の骨も写っていることがわかります。紫外線で観察すると傷跡から血が流れている痕も見えます。現代では聖骸布に移されたデータをもとに、立体の像、つまり3Ⅾの実物大の像を作ることにも成功しています。

結論。聖骸布には、福音に記録されているそのままのイエズス・キリストの御受難、御死去、そして御復活のあとが写し出されているということができます。これにはもう疑いの余地がありません。福音書が私たちに伝えている事実の、科学的な証拠物件の一つです。21世紀の科学技術が解明するまで、2000年間、先ほど述べてきたようなことは知られていませんでした。聖骸布の深い秘密は、21世紀の私たちのために、秘密のうちに隠されていました。つまり私たちが信じているカトリック信仰が、まぎれのない真理であるということを確認するために、明らかに私たちのために、現代のために取っておかれた秘密です。

愛する兄弟姉妹の皆さま、私たちの主イエズス・キリストはまことによみがえりました。イエズス・キリストは全世界の創造主、まことの天主です。カトリックの信仰は、昨日も今日も変わらず真理です。私たちにご自分の復活の命を与えるために主は今日復活されました。

復活祭の今日、特に聖母に、主への信仰を、復活への希望をいつも私たちが保ち続けることができるように祈りましょう。

われらは、キリストが真に死からよみがえり給うたのを知る。勝利の王よ、御身、われらをあわれみ給え、アメン。アレルヤ。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

 


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
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