2021年6月13日(主日)至聖なるイエズスの聖心の荘厳祭
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父 説教(東京)
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟姉妹の皆様、
今日は、イエズス・キリストの聖心の荘厳祭を行なっています。一昨日の金曜日はイエズス様の聖心の大祝日でした。ですから今日はこの大祝日をこの日曜日に、もう一度荘厳に行なっています。
このミサの直後には、司祭が退場する前に、教皇ピオ十一世の命に従って、イエズスの聖心の連祷と、それからイエズスの聖心に対して犯される罪を償う祈りを唱えます。
先週の主日は、御聖体の荘厳祭を行なって、「全実体変化」について、この大奇跡について黙想しました。
天国にいらっしゃりながら、肉体を持っていらっしゃりながら同時に、全世界中の祭壇の上に、同時に、分割もせず、完全にイエズス様がおられる、小さなパンの欠片のどんな中にも、完全なイエズス様が同時に、全ておられる。この全実体変化、パンの実体が、イエズス・キリストの実体に変化する。これは、天主の全能のみが行なう事ができる。答えは簡単です。
しかし一体なぜ、天主はそのような全実体変化を、大奇跡を行なってまでも、この地上にパンとなって私たちの元に世の終わりまで留まるのでしょうか?一体なぜ、全能の天主の御稜威が、天国でいる事に満足できずに、パンになって、みすぼらしいこの地上に、世の終わりまで留まろうとするのでしょうか?一体なぜそこまで、一体私たちに何の良いところがあったのでしょうか?
これに答える返答は、たった一つしかありません。それは、イエズス様が、天主の御一人子が、私たちを、情熱的に、狂ったかのように、お愛しになっているからです。
私たちに別に何の良いところもなかったのですけれども、ただひたすらにイエズス様が私たちを愛して下さったが為に、御聖体を以って私たちを極みなく愛して下さっています。
イエズス様は私たちを創った創造した天主です。全能の、至福の、幸せの、全く不足のない、永遠の天主です。この天主が、私たちを愛するがあまり人間になって、しかも十字架に付けられて、全ての血を流して、それでも、「私たちを愛するには足りない」と思いました。
そこで、「私たちと一緒に留まりたい。一緒にいたい。すぐ横にいたい。そして自分の持っている御恵みを、全ての宝をあげたい。自分はどうなってもいい。特に愛する人に、自分の持っているものを全て与えたい。一つになりたい。」と燃える思いで、御聖体が制定されました。
考えてもみて下さい。この愛の限度の無さを。
イエズス様の燃えるような私たちに対する愛、この情熱、それを示しているのが、イエズス様の聖心です。
その聖心の信心には、2つの段階があります。
1つは、私たちがまず、イエズス様の聖心が愛の象徴であって、私たちをとても愛して下さる、という事を認めて、それに感謝して、それを讃美する事です。特に「御聖体という愛の奇跡において、イエズス様の愛を認めて、崇拝する、崇敬する」という事です。
もう1つは、更に加えて、「この聖心がこれほど愛しているにも関わらず、全く無視されている、無関心、冷淡で以って返答されている事について、償いをする」という2つの段階です。
イエズス様の聖心には、心臓の御姿に火が燃えているのが分かります。これは、イエズス様が私たちを燃えるように、情熱的に、狂ったように愛している、という事です。
それでここまで、「天主が、被造物の食べ物となる」などという、このようなここまで、私たちを愛していたにも関わらず、でもイエズス様は愛されていません。
イエズス様の御聖体は、残念ながら、無視されています。無関心で、誰も冷たく取り扱って、そして礼拝しようとも、感謝しようともしません。するとしても、ほんの少しの人しかしません。
秋田の聖母マリア様が涙を流されて、メッセージを与えて涙を流される前に、シスター笹川は、御聖体から御聖櫃から光が出て、そして数え切れないほどの多くの無数の天使たちが御聖体を礼拝しているのを見ました。
しかし御聖体は、天使の為ではなくて、人間の為に与えられたものです。私たち人間と共に留まる為に、イエズス様が考え付いた愛の大奇跡です。
それにも関わらず、天使はこの御聖体を礼拝しているにも関わらず、人間は、イエズス様を非常に粗末に扱っています。
手による聖体拝領や、立ったままでの新しいミサの為に、人々はイエズス様の現存に対する信仰を失いつつあります。「イエズス様の真の御体」という事を信じられなくなりつつあります。
100年前にファチマでは既に、天使が子供たちに、「人々から恐るべくも侮辱を受けているこのイエズス・キリストの御聖体を、罪の償いとして礼拝しなさい、拝領しなさい」と求めました。
イエズス様は今から350年前に、聖マルガリタ・マリア・アラコックに御現れになって、御聖体に対して受ける冷淡について、こう仰っていました。
「私は、十字架の上で受難で受けた全ての苦しみよりも、今、御聖体に対して私が受けている冷淡、無関心の方がもっと苦しい。この今の苦しみに思えば、受難の苦しみなど何でもない。」
考えてもみて下さい。もしも私たちの、私の愛する友人がいて、その友人の事をいつも大切に思って、自分の持ち物をあげて、全てを尽くして、この友人の為に尽くしてあげた。でもこの友達がお礼をするどころか、私を見ると何か、「あ、誰だろう?」という感じで無視する。「あぁ、あそこまで友情を示したのに、あそこまで尽くしたのに、何でこんな冷たい態度を取るんだろう。」普通だったら、これでもう友情など終わってしまうかもしれません。
イエズス様は私たちから冷たい態度を、何度も何度も何度も取られて、それにもかかわらず、私たちを愛し続けておられます。
それでも遂に、あまりにも辛かったので、聖女マルガリタ・マリア・アラコックに現れて、御頼みになりました。
「もしも、私のこの御聖体に対して、少しでも愛の返答があるならば、私は全ての事を忘れて、全ての苦しみを忘れて、もっと苦しみたいとも思う。しかし人々は、私にただ単に、忘恩と無関心でしか返答してくれない。だから少なくともお前は、私を慰めてほしい。」
そこで、特別にどうやって御慰めしたら良いかという方法も教えてくれました。
それは、「御聖体の祝日の八日目の後の金曜日に、その日には、私を慰める為に、罪を償う為に、御聖体に対して冒される罪を償う為に、御聖体拝領をしてほしい。そしたら私はとても大きな慰めを受けて、私はそのような人に特別な御恵みを与える。」
そして出来たのが、イエズスの聖心の祝日です。
そして今日皆さんにもお願いしたいのが、今日のこの聖心の荘厳祭には、イエズス様の聖心を慰める為に、お愛しする為に、罪の償いの為に、聖体拝領なさって下さい。
イエズス様に私たちがこれほどまで愛されている、という事を感謝して、讃美して、そしてこれほどまで私たちを愛する天主が無視されて、冷淡に扱われて、そして無関心で、御聖体が御聖体ではないかのように、イエズス様がいらっしゃらないかのように考えられて、取り扱われて、残酷な悲しみを受けておられるイエズス様を、どうぞ御慰め下さい。
21世紀の教会において、ますますイエズス様が忘れ去られている今、皆様の愛の込もった御聖体拝領を御覧になって、イエズス様はどれほど御喜びになり、御慰めをお受けになり、皆さんの家族を祝福されようと燃え立つ事でしょうか。そして私たちのみならず、全世界にも祝福を与えて下さるに違いありません。マリア様にこの御恵みを乞い求めましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。