アヴェ・マリア・インマクラータ!
「軍服の修道士 山本信次郎」
ライフ 本
ローマ法王の38年ぶりの来日を機に、『坂の上の雲』にも登場しながら、これまで知る人ぞ知る存在だった愛国のクリスチャン軍人、山本信次郎(1877~1942年)の初の本格評伝が出版された。本紙客員論説委員・皿木喜久著『天皇と法王の架け橋 軍服の修道士 山本信次郎』(産経新聞出版)。カトリック教徒の海軍軍人として日露戦争を戦い、昭和天皇の側近として「バチカン」との架け橋となった人物だ。同書の中から、昭和天皇が皇太子時代に訪欧した際、朝鮮半島での「三・一独立運動」をめぐり、当時のローマ法王が皇太子に連帯を求めた秘話を抜粋した。ネットでのご購入はこちらへ。
●124代と258代、初めての出会い
大正10(1921)年7月15日夕、皇太子・裕仁親王殿下の姿は、イタリア・ローマ市のテベレ川右岸のローマ法王庁にあった。
いうまでもなく、後の昭和天皇である。まだ20歳になったばかりだった。陸軍正装に身を包み、初々しさを漂わせておられた。
皇太子はこの年の5月から、イギリス、フランスなど欧州各国を歴訪中で、ローマ法王庁は、その最後の訪問地だった。
ローマ法王庁が「バチカン市国」として、正式に独立するのはこの8年後のことだが、世界中の信者約3億人(当時の推定)というカトリックの総本山であることに、変わりはなかった。
皇太子とその供奉員(お供)たちの一行を乗せた車は、サンダマン内廷の入り口に着いた。法王庁で最も有名な聖ピエトロ大聖堂の北側、バチカン宮殿の一角、法王の居室がある建物である。
軍旗を持った儀仗兵が整列して出迎え、軍楽隊が「君が代」を演奏した。
3階にある法王の居間まで階段を上っていく途中では、甲冑(かっちゅう)で身を固め、長槍を持ったスイス兵たちが先導し、一行はまるで中世のヨーロッパに来たような錯覚にとらわれた。
特別馬車でバッキンガム宮殿へ向かわれる皇太子。右は英国王ジョージ5世(大正10年5月9日)G20130818TTT0700043G30000001
特別馬車でバッキンガム宮殿へ向かわれる皇太子。右は英国王ジョージ5世=大正10年5月9日
居間の前に着くと、法王ベネディクト15世が部屋から出てきて、一行を出迎えた。法王は我が子のように、皇太子の手を握り書斎に招きいれる。
7年前の1914年、法王に選ばれたベネディクト15世は66歳。西洋人としては短躯で、「慈愛に満ちて穏やかな」といった歴代法王のイメージとは異なり、鋭い眼光の持ち主だった。
終わって間もない第一次世界大戦中に、和平をうながす回勅を出したり、戦後のヴェルサイユ条約の内容を批判したりした。表情さながらに、国際政治に対して、鋭い発言をしている法王だった。
書斎に招かれたのは皇太子殿下と、「輔導(ほどう)」役として訪欧に同行している皇族の閑院宮(かんいんのみや)載仁(ことひと)殿下、それに供奉員中、唯一人のカトリック教徒である山本信次郎海軍大佐だった。
山本はこのとき43歳。海軍兵学校から海軍大学を卒業したエリート軍人であり、日露戦争では旅順港閉塞作戦や日本海海戦にも参戦した「歴戦の雄」だった。だがそれより、山本の名が知られたのは「海軍一のフランス語つかい」「国際通」としてだった。
少年時代、カトリック系の暁星中学で学び、洗礼を受けるとともに、寄宿舎で4年間、フランス人修道士らと寝食をともにするうちに、ナチュラルともいえるフランス語の語学力を身につけた。
日本海海戦にさいしても、連合艦隊の秋山真之(さねゆき)参謀とともに、降伏したロシア艦隊の艦船に乗り込み、フランス語で降伏条件の交渉にあたった。
またカトリック信者だったことから、イタリア大使館付海軍武官時代は、ローマ法王庁内に太いパイプを築いていった。
大正8(1919)年暮れ、皇太子にフランス語を「御進講」するため、東宮御学問所に御用掛として入っており、そのままフランス語通訳などとして訪欧に供奉していたのだった。
初来日したローマ法王、ヨハネ・パウロ2世と会見される昭和天皇(昭和56年2月24日)MTG00098G090213T
初来日したローマ法王、ヨハネ・パウロ2世と会見される昭和天皇=昭和56年2月24日
その山本のフランス語の通訳により、皇太子と法王との会話はスムーズに進んでいった。
「天皇陛下から、よろしくとの伝言があります」
「ありがとうございます。陛下のご病状はいかがですか」
この後、互いに土産物の贈呈が行われる。
第124代の天皇となる皇太子殿下と、第258代の法王。建国以来、世界に冠たる伝統を誇る日本の皇位継承者と、キリストの弟子、ペトロ以来2千年近く、綿々とその地位を受け継いできたローマ法王との、初めての出会いだった。
法王はここで「珍田(ちんだ)さんもお入りください」と、書斎の外に控えていた供奉長の珍田捨巳(すてみ)を招き入れた。
珍田は駐米大使などを務め、「日本語よりも英語がうまい」といわれた外交官である。朴訥(ぼくとつ)とした人柄もあって、供奉長に選ばれていた。
■朝鮮独立運動で日本にエール
皇太子の訪欧の過程を詳しく記録している『昭和天皇実録』は、このとき法王が語った内容について、多くを記していない。
だが通訳にあたった山本信次郎は、帰国直後の9月5日、東京女高師で「東宮殿下の教皇庁御訪問」と題して講演(謹話)を行い、詳細に触れている。それによると、法王からは、儀礼的なものを通り越して、相当にきわどい政治的な発言が飛び出していた。
法王がまず取り上げたのが、2年前の大正8(1919)年3月に起きた朝鮮半島での「三・一独立運動」だった。
日本は明治43(1910)年、韓国を併合、ソウルに朝鮮総督府を置いて、朝鮮半島を統治下に置いた。
当時の日本には、韓国を併合する合理的理由があった。だが当然のことながら、朝鮮人のこれに対する反発や、独立を求める声は強かった。それが表面化したのが「三・一独立運動」だった。
『天皇と法王の架け橋 軍服の修道士 山本信次郎』
皿木喜久『天皇と法王の架け橋 軍服の修道士 山本信次郎』(産経新聞出版)
3月1日、ソウルのパゴダ公園に集まった約2万人の学生や労働者が「独立宣言書」にあおられ、市内をデモ行進したのが、始まりだった。暴動は朝鮮半島全土に広がり、日本人の警察官などが殺害された。
朝鮮総督府は武力鎮圧に乗り出し、同年5月ごろまでにはほぼ収まった。日本は武断政治を敷いてきた長谷川好道(よしみち)総督を更迭するなどして、事態の鎮静化につとめた。
だがなお、独立派が海外で暴動を起こす気配があった。
今回の皇太子訪欧をめぐっても、寄港する香港で、独立派の暴徒が皇太子を狙っている、とのうわさが流れた。
珍田らは、皇太子の又従兄で体つきが似ている小松輝久(てるひさ)侯爵に、山本信次郎をつけて、皇太子のダミーとして先に上陸させた。その後に皇太子自身が秘かに艦を降りるという作戦をたてたのだった。
つまり、日本にとっては重大な問題だったのだが、法王が話題にするとは、日本側にとって、意外だった。
「この独立運動で、プロテスタントの牧師が、教会の地下室で不穏文書の印刷をさせたとか、暴徒に金を与えたといったことがあった。しかも彼らの『愛国運動』に加わらないと、非国民視され、いろいろと迫害を蒙(こうむ)ったにも関わらず、カトリック教徒はついに、これに参加しませんでした」
「カトリックの教義教理は、確立せる国体、政体の変更を許しませんから、かかる結果をみたのです」
「過激思想、社会主義等の険悪なる思想が社会を風靡(ふうび)しつつある今日、これに有効に抵抗しつつあるのは、わずかにカトリック教会のみであります。従って秩序を重んぜらるる日本と、カトリック教会とが、ともに手を携(たずさ)えて進むことも度々ありましょう」
現代でもそうだが、極東の中でも、朝鮮半島はキリスト教勢力が強い。「三・一独立運動」をめぐっても、プロテスタントの指導者らが加わっていたことや、カトリックが、独立運動とは一線を画していたことは、研究者の多くが認めている。
だが、東洋の情勢についての法王の情報収集力と、緻密な分析には、山本らも舌を巻いた。
さらに4年前起きたばかりのロシア革命を念頭に置いたように、「反共産主義」を明確に打ち出し、日本に連帯を求めた。この発言に、皇太子が力強く感じられたことも、間違いないだろう。
■誰も持ち得なかった「国際感覚」
皇太子一行はこの後、法王庁国務省のガスパリ長官の案内で、宮殿内の大広間に向かった。そこにはフランス、スペイン、ブラジルなど各国の駐バチカン大使、公使など約50人が待っており、皇太子に拝謁した。
皇太子やその一行は、法王庁の「ひと声」でこれだけ多くの外交団が集まるところに、ローマ法王の力を思い知ることになった。
この法王庁訪問からちょうど60年後の昭和56(1981)年2月、当時のローマ法王ヨハネ・パウロ2世が日本を初めて訪問した。
皇居で法王と会見した昭和天皇は
「(60年前のバチカン訪問は)大変いい思い出になっております」と、お礼を述べられた。これに対しヨハネ・パウロ2世は
「日本は道義を重んじる立派な国で、大変尊敬しております」と応じた。
昭和天皇は、この年の9月2日の記者会見でも、この法王庁訪問について触れられた。
開戦直前の「杉山メモ」に関する質問に対しての、お答えだった。「杉山メモ」とは、当時の陸軍参謀総長、杉山元が重要会議の中身を、参謀本部の部下に記録させていたもので、戦後に単行本として出版されている。
その「杉山メモ」の昭和16年11月2日の項には、前日の国策再検討連絡会議について、東条英機首相らが昭和天皇に報告したさいの天皇の次の発言が記されていた。
「時局収拾に『ローマ』法皇(ママ)を考えてみては如何かと思う」
記者から、この発言の真意を尋ねられた昭和天皇はこう、答えられた。
「ローマ法王は世界の各国と深い関係があるし、その機関は平和的な機関ですから、平和に関する問題を解決するためにはこの機関と連絡することが必要だと思いましたので、それを東条総理に話したのです」
さらにこう述べられている。
「私はすでに、最初にヨーロッパを訪問してローマ法王と会ったときから、ローマ法王を尊重して、その機関と連絡をとりたいと常に考えておりました」
昭和天皇は、同じ昭和16年10月13日にも、内大臣(戦前、天皇の側近として仕えていた職)の木戸幸一に対して、こう語られた。
「開戦するにあたっては、戦争終結の手段をはじめから充分に考えておく必要がある。それにはローマ法皇庁との使臣の交換等、親善関係の方策をたてておく要がある」
開戦直後には、そのお言葉通り、バチカン市国へ使節(公使)を派遣するよう、東条に事実上の指示を出されている。
ローマ法王の影響力を重視、外交に生かそうという、恐らく日本人の誰も持ち得なかった世界観、国際政治観は、感性が柔らかい20歳のときに法王庁を訪れた経験から生まれたものだったのだ。
だが、皇太子の法王庁訪問は、最初から予定されたものではなかった。むしろ急遽(きゅうきょ)企画されたものだった。
ここで時計の針を4カ月余り戻してみたい。
※この記事は、『坂の上の雲』にも登場しながら、これまで知る人ぞ知る存在だった愛国のクリスチャン、初の本格評伝『天皇と法王の架け橋 軍服の修道士 山本信次郎』(皿木義久著、産経新聞出版)の序章から抜粋しました。ネットでのご購入はこちらへ。
■皿木義久(さらき・よしひさ) 産経新聞客員論説委員。昭和22(1947)年、鹿児島県生まれ。京都大学文学部卒業。産経新聞社入社、大阪本社社会部、東京本社政治部、特集部長、論説委員長などを経て平成27(2015)年退社。現在、産経新聞客員論説委員、新しい歴史教科書をつくる会副会長。主な著書に『大正時代を訪ねてみた』(産経新聞ニュースサービス)、『紅陵に命燃ゆ』(産経新聞出版)、『子供たちに伝えたい日本の戦争』『「令和」を生きる人に知ってほしい日本の「戦後」』(いずれも産経NF文庫)、『明治という奇跡』(展転社)。共著に『新聞記者 司馬遼太郎』(文春文庫)など。