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教会はイエズスの聖心の愛のプレゼント:確実に、正確に、疑いなく、真理を教える権威を持った組織:聖書だけでは足りない

2024年06月22日 | お説教・霊的講話

2024年6月16日 聖霊降臨後第四主日 東京10時30分ミサ 説教

トマス小野田圭志神父

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、先週、私たちは、イエズス様の聖心の愛の神秘について黙想しました。
今日は、イエズス様の聖心の私たちへのプレゼント、教会について、一緒に黙想いたしましょう。
イエズスの聖心は、私たちに対する愛によって、私たちが永遠の栄光にたどり着くための真理を、確実に、そして正確に間違いなく、疑いなく、教える権威を持った組織を作りました。これが、教会です。イエズス・キリストの愛する花嫁、神秘体である教会です。

【1:聖書だけで十分か?】
これについて、ある人は教会を否定しようとします。キリストの教えについて正確で十分な知識を得るには、最も優れた安全で確実な手段は聖書だというのです。聖書だけが、キリストの教えを説明する手段であって、教師であって、キリストの代理だと主張します。

でも、イエズス様は本当にそのことをお望みだったのでしょうか。イエズス・キリストは、私たちが自分の思うところに従って聖書を読みさえすれば、そしてそれを自分の思うように解釈すれば、永遠の命に到達することができると教えたのでしょうか?

いいえ、そうではありませんでした。何故かというと、まず聖書はキリストの真理を明瞭に教えていないからです。たしかに、一部の真理は平易に誰にもわかるように書かれています。例えば地獄とか。しかし、その他の部分は、曖昧で難しい表現で書かれている部分が多くあります。

天才的な頭脳を持っていた聖アウグスチヌスでさえも、長い間聖書の研究をした結果、自分が理解することができたことよりも、理解できなかったことの方が遥かに多い、と晩年に公言しています。
聖ペトロは聖書の解釈がむずかしいことについてこういいます。「聖書のどんな預言も、自分勝手に解釈してはならないことを知らなければならない。」(ペトロ後1:20)そしてその少し後に、こうも書いています。「無学な人や心の定まらない人々は、…その意味をまげて、自分自身の亡びを招いてしまう。」(ペトロ後3:16)

たしかに聖パウロはこう言います。「聖書はみな天主の霊感を受けたものであって、教えのために、いましめのために、矯め直すために、正義を教えるために、有益である」(ティモテオ後3:16)。
でも、聖書が唯一の手段である、とはいえません。

なぜでしょうか?なぜかというと、聖書は自分自身で自分こそが正真正銘の天主の御言葉だと保証することができないからです。なぜかというと、もしもそうであるならば、現在までいろいろなでてきた聖書のどの版が純粋な天主の御言葉であって、どの翻訳にあるいは写本に誤りがないと誰がわかることができるでしょうか。

またイエズス様御自身も、聖書については、お命じになっていません。
もしも聖書だけが唯一のキリストの真理を教えるための手段だったとしたならば、なぜイエズス様はご自分で聖書を書かなかったのでしょうか?聖書のどこにもイエズス様が聖書を書けと弟子たちに命じたところはありませんでした。使徒たちの中で福音を書いたのはたった二人です。聖マテオと聖ヨハネです。聖ヨハネの福音は、イエズス様の復活の60年以上も経ったあとから書かれました。そして、福音の最後にはこうも言っています。「イエズスが行われたことは、この他にも多いけれども、一つ一つ記していたら、その書かれた本を入れるためには、全世界でさえもたりないと思う。」(ヨハネ21:25)つまり聖ヨハネはイエズス様のすべてを書いたわけではなかった、というのです。使徒たちの中で 書簡を書いたのは たった五人です。もしも、キリストが使徒たちに聖書がそれほど大切だとしたならば、なぜ他の使徒たちは説教をしただけで満足したのでしょうか。使徒でなかった聖ルカは、他の人びとに書いたというよりは、多くの人々というよりは、自分の知っていた改宗者の友人に宛てて、テオフィロに宛てて、書かれたものです。

しかし聖書が書かれる以前に、新約聖書が一言も書かれていないその前に、聖ペトロは何千人もの人々に洗礼を授けて、すでに教会が成立しています。

なぜ、聖書だけでは足りないのでしょうか。なぜかというと、聖書を研究した多くの人々のなかでも、いろいろな解釈をする人々があり、それだけでは、意見の一致を見ることはまったく不可能であるからです。つい最近私は40年以上、プロテスタントの牧師を努めていた方のお見舞いに行ってきました。その方がつい最近書かれた一節には「教会史における論争は、聖書から直ちに解決を見出すことができないから起こるのである。聖書によってキリスト教が一致できるのならばどうして教会の分裂がおこるのだろうか。異端でさえ、聖書を根拠にするのである。」とあって、そして、聖書だけではだめだとおっしゃっています。そうではない…自分だけで聖書の深い意味を知る、というほど、私たちは思いあがることができません。エティオピアの女王のカンダケの高官が助祭のフィリッポに、この聖書の意味がわかるかと尋ねられて、こう答えました。「だれかが導いてくれなければ、どうしてわかりましょう」…「教えてください」(使徒行録8:31)。そうです。私たちは、誰かが教えてくださらなければ、その聖書の意味の深い意味がわからないのです。

【カトリック教会】
では、いったいどこにおいて、いったい誰に聞けば、イエズス様ご自身の権威と確実性をもって、確かに、キリストの教えを受けることができるでしょうか?イエズス様はわたしたちに何を求めていたのでしょうか。誰に聞けと言ったのでしょうか。イエズス様は私たちのために教会を残してくださいました。これがイエズスの聖心の愛のプレゼントです。

天主は人間となって、全人類にこの世の終わりまでの人々に、永遠の救いの道を教えました。霊魂の救い、これという崇高な事業をするための教え、永遠の至福に至るという崇高な真理、この真理の伝達は一冊の本ではまったくできません。キリストの愛は、私たちに、生きている、目に見える、そして教え導く母親のような組織体を通して、人類を教え導くことを良しとしました。それこそが、最適であると考えました。イエズス様はこの組織体の頭であって、その王です。イエズス様は公生活をはじめるや否や、最初にしたのはこの特別の弟子たちを作るということでした。かれらを使徒と名付けました。この使徒には十二人いますが、そのうちの一人シモン・バルヨナを選び、彼にはペトロという名前を特別につけて頭とします。イエズス様はこう言います。「私はあなたにいう。あなたはペトロである。岩(いわお)である。私はこの岩の上に、私の教会をたてよう。地獄の門もこれに勝てないだろう。私は天の国の鍵をあなたに与えよう。」(マテオ16:18)

この言葉は決定的です。イエズス様は御昇天の時、天に昇られるときには、イスカリオトのユダをのぞいた十一人の弟子たちを集めてかれらにこう言われました。「私には、天と地の一切の権力が与えられている。だからあなたたちは諸国に弟子たちをつくりにいき、聖父と聖子と聖霊との御名によって洗礼をさずけ、私があなたたちに命じたことをすべて守るように教えよ。私は、世の終わりまで、常にあなたたちとともにいる。」(マテオ28:20)と。

【カトリック教会の教導権】
ですから使徒たちはイエズス・キリストのみ教えの通り、これを実践しました。教会は、初代から永遠の救いにたどるのには何が必要であるかを教え続けました。説教し続けました。聖パウロもこういうではないでしょうか。「私はイエズス・キリストを、十字架につけられたイエズス・キリストのみを説教する。」と。

たとえば聖パウロは、聖霊降臨後直後、数千人の異邦人たち、つまりユダヤ教ではない人たちにも、洗礼を授けていました。でもその直後には問題が起こりました。福音には書かれていない問題です。「割礼を受けていないなら救いを受けることができるかできないか」という問題でした。使徒たちはエルサレムに集まって論議をして、話し合い、そして、ペトロが代表に立って言います。「聖霊と私たちは、必要なこと以外はどんな荷も(重荷も)あなたたちに負わせないほうがよいと考えました。」割礼を受ける必要はありません。(使徒行録15:28)

四世紀には アリウスという男が、おかしなことを主張したがために人々の信仰が動揺しました。彼は、キリストは天主の子ではあるが被造物で、永遠からのものではない、と言ったのです。聖書だけでは解決になりませんでした。しかし教会はニケア公会議を開催して、いや、アリウスは間違っていると、イエズス・キリストは天主御父と同じ本質をもつ、ホモウシオスである、と宣言して、アリウスは異端であると排斥されました。

実際、聖書が私たちにあたえられたのも、教会を通してでした。実は、初代、私たちが知っている聖書以外の福音あるいは書簡というものも、出現しました。中には非常に敬虔に満ちて書かれていたので『もしかしたら本物かもしれない』と『聖霊の霊感を受けて書かれたものかもしれない』と思わせるようなものもありました。しかし教会はキリストから与えられた権威をもって、聖霊の導きによって、本物の聖書正真正銘の聖書と偽物の聖書を識別しました。天主の物と人間の物を区別しました。そして新約聖書のリスト――これをカノンと言いますけど――これを発表しました。これは、教皇聖ダマススの指導のもとで行われました。つまり、新約聖書がいったいどれだというのは、教皇とまたカトリックの司教様たちによって人類に与えられたのです。言いかえるとカトリック教会が私たちに聖書というプレゼントを与えたのであって、聖書から教会が生まれたのではないということです。

【今日の福音】
今日の福音は、まさにこれを暗示しています。イエズス様は、二せきの舟があるなかでそのうちのシモン・ペトロの舟にのられます。ペトロを選ぶのです。将来イエズス・キリストがペトロを選んで、自分の教会つまり新約のノエの方舟、これにお入りにならなければ、救われることができないという箱舟を建てることを前兆しました。
そして、シモンの舟に乗って、その中から、人々にお教えになります。言葉でお教えになります。これはイエズス様が「世の終わりまで、私はあなたとともにいる」とシモン・ペトロにいったその約束でなくてなんでしょうか。
また、教えたのちに、シモンに命じて、「沖にのり出して、あみをおろして漁をせよ」といいます。これはイエズス様が「諸国に弟子をつくりにいけ、洗礼をさずけよ、教えよ」という前兆でなくて何でしょうか。
その通りにすると、あみが破れそうになるほどの大漁になります。二艘の舟が沈みそうでした。これは将来ペトロの上にたてられたカトリック教会が全世界に広がって、莫大な数の人々を救うということを暗示しています。聖ペトロの上に立ったイエズス・キリストの教会。まさにこれこそが、人類に与えられた聖心の愛のプレゼントです。聖パウロはこうも言っています。「これは真理の柱であり、基礎であり、生きる天主の教会である」(ティモテオ前3:14)と。

では最後にマリア様にお祈りいたしましょう。マリア様は、天主の御母であり、またキリストの神秘体である教会の母でもあります。全ての人々が、イエズスの聖心が打ち立てた教会に入り、そして安全な救霊の港まで到達することができますように、お祈りいたしましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。



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