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2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

聖アルフォンソ・デ・リグオリによる【臨終の苦悶と死去について】の黙想

2015年11月11日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

「死者の月」の黙想のご提案をいたします。

聖アルフォンソ・デ・リグオリによる【臨終の苦悶と死去について】の黙想をどうぞ。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


【臨終の苦悶と死去について】の黙想

 その1

 冷や汗が額に噴出す、目は眩み、脈拍は弱まり、手足は凍えてさながら死体のようになる。臨終の苦悶は遂に襲ってきた。彼の運命の時は瞬く間に迫ったのである。苦しい息は次第に細り、死期の近い兆候が現れた。司祭は祝別済みの蝋燭を病人の手に握らせ、臨終の祈りを始める。ああくすしきともし火よ、今私の心を照らせ。為したる悪事に薬をつける暇の無い時になっては、汝の光も格別益にはなるまいから・・・。

 この物悲しい蝋燭の光に照らされたら、世間の儚さ、罪の重い憎たらしさなどが手に取るように明らかに見えるであろう。

 遂に彼は行き絶えた。その最後の一息こそ彼にとってはこの世の終わりで、永遠の始まりだ。幸の永遠か、禍の永遠かは、実にこの一息によって定まるのである。

 主よ、私を憐れみ給え。私の罪を赦し給え。私を堅く主に結びつけて、滅びの不幸に陥らせることなかれ。

 いよいよ息絶えたと見るや、司祭は跪いて「天主の聖人は来たりて彼を助け、天使は出でて彼を迎え・・・」と唱え、彼のために安息を祈る。

 主と和解して死んだなら安息を得るに違いないが、万一、聖寵を失ったまま死ぬようなことでもあれば、それこそ可哀想なことで、天主が天主でまします限り、彼は安息できないであろう。

 主よ、私はこれまで幾度となく世の儚い楽しみに引かれて主の愛も聖寵も振捨てた。もしその時に私の命を取り上げておられたら私はいかなる不幸に泣かなければならなかったであろうか。御憐れみの程を深く感謝し、死ぬまで忠実にお仕えすることを決心し奉る。

 その2

 死ぬと間も無く訃報があちらこちらに伝えられる。聞く人々は思い思いに噂をする。「彼は正直は正直だったが、どうもあまり熱心ではなかったね」と言う者があるかと思うと、「彼は救霊を得たでしょうかねぇ」と言う者もいる。親兄弟は悲しみを忘れようとして、なるべく彼について語らないようにする。やがて彼は棺桶に入れられて墓に送られてしまう。

 さてさて今まで社交界の華と言われていた彼も、今や誰一人思い出してくれる者すらいない。その名を出すことさえ遠慮して差し控えるようになった。彼の部屋を訪ねても彼は影も形も見えない。彼の家具、彼の財産は残らず人手に渡ってしまった。そして彼は今どこにいる? 肉体は墓の中に、霊魂は永遠の世界に。

 彼を見たければ墓穴を掘って中を覗くがいい。以前のすこやかな肉体、元気な顔つき、喜びの色が溢れる彼ではなくて、もはやまったく腐敗した肉の塊がある。豊かな頬も、朱の唇も蛆虫は容赦なく食い尽くしてしまった。余すところは白骨ばかり。それすら時を経ると頭は首と、手足は胴と離れ離れになって、完全なものは一つも残らない。見よ!主に背くことがどれほどのことだとのたまっていたその体の成れの果てを。

 ああ天国の聖人達よ、現世で肉体を責め懲らしめられた貴方達はどんなに賢かったことか! 今や貴方達の遺骨は祭壇の上に安置され、霊魂は限りなき栄光を帯び、主を目の当たりに眺めつつ公審判の暁を待ち望む。かつてこの世の苦しみを共にした肉体と再び合体して、永遠無窮に天国の栄光を楽しむべき公審判の暁を待ち給うのである。

 主よ、私も聖人達に倣い、今のうちに肉体を懲らしめて我が罪を償い、主を一心に愛し、後に天国において、聖人達と共に、いつまでも、いつまでも主を賛美し奉りたい。何とぞ御憐れみを垂れて私を顧み給え。私の罪を赦し給え。

 その3

 私が今永遠の世界に在るものとすれば、主の為に何をしていたらよかったのに!と思うだろうか。

 聖カミロはしばしば墓穴を覗き、一人自ら嘆息して「この人が蘇って、再び世に出ることが許されるなら、終わりなき命の為に、どんな努力でも厭わないであろう。それなのに今私は何をしているのだ?」と言って奮い立たれた。私は永遠の為に今まで何をしたであろうか?

 死んだ上では幾ら望んだところで一分間の命すら与えられない。しかし私にはいまだ充分な月日が残っている。今これを何のために用いねばならぬ? いたずらに世の栄華、快楽を漁りまわっていてよいのだろうか? そうやって天国の為に何の備えもしていない間に、突然「現世を去れ」という命令を受けたらどうするつもりなのであろうか?

 主よ、私は憎んでも足りない恩知らずではあるが、しかし御憐れみを垂れて私を顧み給え。他の人は暗闇の中で罪を犯したけれど、私は真昼間に主に背き奉った。罪を犯せばいかなる辱めを主に加えることになるのか重々承知しながら、聖寵の光も、主の御勧めも踏みにじり、散々悪事を働いた。しかし主よ、「願わくば我が恐れとなり給わざれ。主は禍の日に我が避難所にまします」(エレミア17-17)。しかり、イエズスよ、主は私の唯一の避難所にましませば、臨終の苦悶の時、私の恐れとなり給わず、かえって何よりの信頼となりたまえ。

 ああ聖母よ、私はひとえに御憐れみに縋り奉る。アーメン。

聖アルフォンソ・デ・リグオリによる【臨終について】の黙想

2015年11月10日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

11月は「死者の月」です。煉獄の霊魂たちのために祈りましょう。死について黙想しましょう。

私たちも死ななければならないことを思い出しましょう。

聖アルフォンソ・デ・リグオリによる【臨終について】の黙想をご提案します。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


聖アルフォンソ・デ・リグオリによる【臨終について】の黙想

 その1
 今日にも死なねばならないと聞いたならば、誰しも俄かに狼狽して、なお1年、いや1カ月の猶予を求めようとし、その為には大金を投げ出しても惜しくはあるまい。しからば、只今から志を定めて、為すべき事はサッサとしておくがよい。死に臨んでは何一つできるものではない。

 しかもその死のやってくるのは何時かわからないからである。今年か? 今月か? いやいや今日ではあるまいか?

 どうも今のままで死にたくないと思うならば、どうして今のままで月日を送ろうとするのだろうか? 人が急に死んだのを見ては、「マアかわいそうに。何の用意もするひまも無しに・・・」と気の毒に思うのではなかろうか? それなのに自分はその大切なひまを持っていながら、なぜ急いで用意に取り掛からないのだろう?

 主よ、私はいよいよ決心した。これからは御胸に刻まれている私の名を余儀なくも削り去らねばならぬような事は決して致すまい。私は深く主の御憐れみを感謝し奉る。なにとぞ私を助けて行いを改めさせてください。主は私の救霊を望み給い、私も心からこれを望んでいる。願わくば私を憐れんで救霊の恵みを得さしめ、永遠に主を賛美し、主を愛し奉らしめ給え。

 臨終に際して、病人の手には十字架が握らされ、今となってはイエズスの他に信頼でき慰めとなる者はいないのだ、と注意される。しかし今まで十字架もイエズスも愛したことのない人は、これを見ても、慰めはおろかかえって言い知れぬ恐怖を感じるだけであろう。これに反して平素からイエズスを愛し、その為には万事を擲つことを厭わなかった人ならば、この十字架を手にして、これに恭しく接吻するとき、いかなる心楽しい気分を覚えるであろうか。

 最愛のイエズスよ、主は私の全てにましませば、今も臨終の時も、私の唯一の愛の対象とならせ給え。

 その2
 心に罪の重荷を背負っている病人は、ただ「永遠」という語を耳にするだけでも身震いするぐらいである。憐れなる彼は、ただ病の辛さ、医者、薬などのほかは語りたいとも思わない。霊魂のことに対して話題にする人がいると、直ちに嫌気を覚え、「どうぞ休ませてちょうだい!」と話題を打ち切ってしまう。

 病がいよいよもう如何ともしがたい状況に至って、やっと迷いの目を醒まし、「ああ、行いを改める月日があったなら!」と嘆息し、いくらかの猶予を求めようとする。しかし「もう出発の時が来た。早くこの世を去れ!Proficiscere de hoc mundo (臨終の信者にする教会の祈祷文)」と言われるばかり。「今一度他の医者にかかりたい、他の治療法を試したい」と頼んでも、「医者?治療法?今は永遠に入るときです!早く!早く!」と促されるばかりであろう。ああ、その時ばかりは、果たしていかなる気持ちがするであろう。

 「キリストを奉じる霊魂よ・・・この世を去れ」(祈祷文68)かねてより主を愛し奉る熱心な信者は、この「去れ」という命令を受けても、決して肝を冷やすようなことはない。かえって自分が万事を超えて愛し奉るその御主を失う気遣いも、いよいよ今日で最後かと思って言い知れぬ喜びを感じ、小躍りするばかりである。

 「願わくば汝、今日安楽の座を占め、天国の中に住いを得んことを」(祈祷文268)、自分は主の聖寵を保っていると安心して静かに死の来るのを待っている人の為には、いかに楽しい言葉であろう。

 主よ、私もこの安楽の座に導かれ、喜び極まって、今こそ主を失い奉る心配がなくなった!と叫ぶことが出来なければならぬ。主の値高き御血の功徳によって、私は熱くこれを望み奉る。

 「主よ、僕の叫びを憐れみ、その涙を憐れみ給え」(祈祷文268)、愛すべき御主よ、私は臨終の時を待たず今から我が罪を憎み嫌い、これを一心に痛悔し、悲しみの余り胸が破れてしまいたいと望み奉る。嗚呼、無上の善にてまします主よ、私は主を愛し奉る。私は主を愛し奉る。私は一生涯愛しては嘆き、嘆いては愛して、身を終わりたいと決心し奉る。

 「主よ、彼は異なれる天主に造られし者に非ずして、活ける真の天主に造られし者なることを認めたまえ」(祈祷文268)、ああ主よ、私は主のために造られた者であれば、何とぞ私を退け給うことなかれ。私も今までこそ主を軽んじ奉ったが、しかし今では万事を越えて主を愛し奉る。主のほかには何一つ愛さない決心をしているのである。

 その3
 平素から格別主を愛していなかった人は、臨終の聖体を見ても何となくうら怖ろしく覚えるものである。しかし、かねがね主の他に愛するものなしと言うぐらいの人ならば、主が忝くも永遠の旅路の糧とも、道連れともして、己のあばら屋を訪れてくださったことを思って、希望に満ち、感涙に咽ぶのである。

 塗油の秘蹟を授かる段になると、悪魔はこれまでに犯した罪を急に思い出させて失望の淵に突き落とそうとするかもしれぬ。であるから今のうちに残らずその罪を痛悔・告白して罪の赦しを得ておかねばならぬ。秘蹟を授かり終われば、親戚、友人は退き去って、ただ病人一人が十字架と共に残されるであろう。

 主よ、臨終に際して、人はみな私を棄て去るとしても、主のみは決して見捨て給うことなかれ。私はただ主お一人を杖とも柱とも頼み奉る。「主よ、我主に信頼したれば、永遠に辱められじ」(詩篇30-2)

 ああ聖母よ、御身は罪人の御母にましまして、いかなる重罪人でも御前にはせ寄ると、決してお見捨てになることはない。私の臨終に際しても、なにとぞ憐れみの御手を伸ばし、来たり助け給え。アーメン。

聖ピオ十世会 レネー神父様説教 王たるキリストの祝日 イエズス・キリストが王であるということの意味

2015年11月05日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 2015年10月25日に大阪でレネー神父様がしてくださった御説教をご紹介いたします。

 私たちの主イエズス・キリストは、私たちの本当の王です。私たちを恵み愛する王です。私たちは、イエズス・キリストの臣下です。イエズス・キリストの御国に属しているとは、なんと幸いなことでしょうか!イエズス・キリストのくびきは軽く、優しく、憐れみに満ちているからです。

 私たちは、王から多くを恵まれたにもかかわらず、罪をもってこの良き王に何と多く背いてきたことでしょうか! 

 願わくは私たちの心が全て王たるキリストのものとなりますように!
では、レネー神父様のお説教をお聞き下さい。
天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


2015年10月25日 大阪 レネー神父様説教
王たるキリストの祝日




親愛なる兄弟の皆さん、

私たちの主イエズス・キリストが王であるということは、旧約全体を通じて明白です。ダビド王自身が、多くの詩篇において王たるキリストをたたえるために歌いました。詩篇において、父なる天主はこう言われます。「私は彼を長男とし、地の王のうち、最も高き者と」(詩篇88章28節)する。また、メシアは言います。「『尊いシオンの山の上に、私は王を立てた』。私は主の定めを告げよう。主は私に言われた、『おまえは私の子である、私は今日、おまえを生んだ、私に求めよ、そうすれば私は異邦の民を遺産として与え、地の果てまでも領土として与えよう。鉄のつえで彼らを打ち破り、陶工のつぼのようにかれらを打ち砕け』。さて王たちよ、よく悟れ、地を支配する者よ、学べ。恐れをもって主に仕え、震えおののいて、主のみ足にくちづけせよ、主が怒り給えばあなたたちは滅ぼしつくされる」(詩篇2章6-12節)。

聖福音において、キリストは、癒やしを求める多くの病人によってダビドの子と宣言されます。「主よ、ダビドの子よ、私たちをあわれんでください」(マテオ20章30節)。主は枝の主日に群衆によって王と宣言されます。「ホザンナ、讃美されよ、主の名によって来られる者。祝されんことを。いまや来る、われらの父ダビドの国。いと高きところにホザンナ」(マルコ11章9-10節)。私たちの主イエズス・キリストは、ピラトの前でご自分が王であると告白されます。「『私の国はこの世のものではない。もし私の国がこの世のものなら、私の兵士たちはユダヤ人に私を渡すまいとして戦っただろう。だが、私の国はこの世からのものではない』。ピラトが、『するとあなたは王か』と聞いたので、イエズスは、『あなたの言うとおり私は王である。私は真理を証明するために生まれ、そのためにこの世に来た。真理につく者は私の声を聞く』と答えられた」(ヨハネ18章36-37節)。するとピラトは、この主張を認めて十字架の上にそれを書きます。「ユダヤ人の王、ナザレトのイエズス」(ヨハネ19章19節)。

キリストの王国は天主の王国であって、聖マテオ福音書では永遠の至福、永遠の命、天の国などと同じ意味です。ですからこの王国は、ここ地上では教会において始まります。カトリック教会は、地上でのキリストの王国であり、キリストの王国を認める人々なのです。実際、私たちの主イエズス・キリストは、天主として全宇宙を統治なさっています。主は自然の法則すべてを定め、人間と天使のための知性と道徳の法を定められました。物質的な被造物はすべて、ただ必要であるがゆえに、これらの法則に従います。霊的な被造物は愛によって法に従うべきなのですが、すべての霊的な被造物がこれに従うという訳ではありません。これが人類の悲劇、罪による悲劇であり、愛という偉大なる法に要約されるこれら天主の法、キリストの法、すなわち「あなたは、すべての心、すべての霊、すべての知恵をあげて、主なる天主を愛せよ」(マテオ22章37節)への不服従なのです。

私たち被造物は知性と意志という霊魂の能力を授けられたため、私たちが天国へ行くのは、例えば信仰によって照らされ、愛によって燃え立たされた知性と意志の行いといった「愛の一歩一歩によって」なのです。聖トマス・アクィナスは、主は私たちに天国への道において二重の助けをお与えくださる、と説明します。律法による助けは外的な助けであって、私たちの知性に道を示し、意志に報酬と刑罰によってやる気を起こさせます。究極の報酬は天国の福楽であり、究極の刑罰は地獄での永遠の苦しみです。これは実際、強力な動機付けであり、私たちの意志に対して、その無限の報酬によって善きことをするよう導くとともに、罪という悪、このように善き天主を侮辱するという悪につり合った恐ろしい刑罰によって、悪を行うのを避けるよう動機を与えます。地獄は罪びとによって侮辱された天主の善という面があるのです。

私たちの主イエズス・キリストがお与えくださる第二の助けは、内的な助け、助力の恩寵による助けです。これは善きことを行うという私たちの霊魂の能力(知性と意志)を実際に働かせ、知性と意志を信仰によって天主の真理に執着させ、天主を愛させ、愛によってその戒めに従わせるのです。聖パウロは言います。「私たちに与えられた聖霊によって、この心に天主の愛が注がれた」(ローマ5章5節)。

キリストの法についてよく考えてみましょう。それは、永遠の命へと導く命の法です。最初の三つの戒めは天主に対する私たちの義務に関するものです。その義務は、聖三位一体に対する礼拝、 崇敬、感謝、負っている負債の償い、助けをこい求めることです。礼拝は、天主が至高に優れていることを認めることです。このため、この礼拝はすべて、天主を至高の善、究極の恩人としてたたえます。これは、道理をわきまえた被造物が創造主に対して行い得る最低限のものです。そしてこの地上における礼拝は、私たちに有益です。なぜなら、この地上の礼拝は、私たちの永遠の至福の時、愛情を込めて顔と顔を合わせて天主を見つつ行なう礼拝の義務の準備となるからです。これら最初の三つの戒めは、御父、私たちの主イエズス・キリストへ至る道はひとつしかない、ということを思い出させてくれます。「私は道であり、真理であり、命である。私によらずには誰一人父のみもとには行けない」(ヨハネ14章6節)。私たちの主イエズス・キリストによって立てられた宗教、カトリックの宗教、唯一の真の宗教はこれしかないのです。すべての人のための、唯一の宗教があります。なぜなら、私たちの主イエズス・キリストはすべての人の救い主だからです。「救いは主以外の者によっては得られません。この世においてわれわれの救われる名は、そのほかにはないからです」(使徒行録4章12節)。このように、私たちには、(インドの異教の神々のような)偽りの神々を礼拝することや、真の天主を誤った方法で礼拝すること(キリストの神秘体であるカトリック教会を拒絶するすべてのプロテスタントや異端の礼拝)はどちらも禁じられ、冒涜は禁じられ、主日を聖化することが命じられています。

これらの戒めは天主を愛する人々にとっては甘美なものです。私たちが天国へ至る道を照らす光です。「戒めは灯(ひ)であり、教えは光であ」(格言[箴言]6章22節)る。天主は、ご自分と友人関係である命に、さらに天主の子としての命にさえも私たちを呼んでおられます。ですから私たちは、天主が示してくださった方法、特にミサの最も聖なるいけにえによって喜んで主を礼拝します。ミサにおいては、これまで地上に存在したあらゆる崇敬、愛、すべての徳の行いに勝るもの、すなわち私たちの主イエズス・キリスト、天主の御子ご自身が十字架上で御父に捧げられたいけにえを天主にお捧げするからです。

命すべての根源である生ける天主に対する戒めののちには、第四戒があります。これは、私たちに命を伝えた人々、すなわち両親への義務ですが、両親に留まらず、私たちに対して天主の権威を持つ人々全体にあてはめられます。「汝の父と母を敬え。そうすれば、天主なる主がお与えになるこの世において、汝は長く生きることができるだろう」(脱出[出エジプト]20章12節)。

第五戒はすべての人間の命を尊重する義務を教えています。「汝殺すなかれ」(脱出20章13節)。

第六戒が私たちに教えているのは、命の伝達が、天主が意図されたように家庭においてなされるよう尊重することです。家庭とはすなわち、選ばれた者で天を満たすべく、一人の男性と一人の女性が子どもをもうけ、教育するという目的のために一生涯にわたって忠実を守る結合です。「汝姦淫するなかれ」(脱出20章14節)。天主の方法はよいものです。しかし人が自己中心の楽しみのために天主の御業をゆがめるとき、はなはだしいダメージをもたらし、家庭を壊し、子どもたちは別れた両親の間で引き裂かれ、不道徳やあらゆる種類の無秩序をもたらします。純潔の聖域かつ愛徳の学校であるべき家庭が、現代のあらゆる罪、特に妊娠中絶や避妊、また数えきれないほどのあらゆる種類の私通、姦淫、さらには自然に反する罪によって深く傷ついています。まことに、天主の戒めは最も有益で、真にして純粋で忠実な愛という正しい区域に私たちをとどめてくれます。これが可能なのは、私たちの主イエズス・キリストの恩寵があってのことです。これは可能であるだけでなく、大きな慰めの源です。私の祖父が結婚50周年のときに私たちに言いました。「結婚から50年たったのだから、喜びは最初と同じではないね。しかし、結婚生活を振り返って50年間忠実だったことを思ってみれば、その喜びは最初より大きいよ」。

私たちの主イエズス・キリストの恩寵は、さらによいことを可能にします。修道生活において清貧、貞潔、従順という三つの福音の勧めを実践することで、霊魂をより高い霊的な命、キリストご自身との神秘的結婚へと引き寄せることを可能にします!私たちの主イエズス・キリストの恩寵がこのようなことを可能にするのですから、結婚した二人が生涯を通じて忠実であり続けるよう、いかにより多くの助けを与えることができることでしょうか。

第七戒が私たちに教えてくれるのは、隣人の生活の手段を尊重することです。「汝盗むなかれ」(脱出20章15節)。正直は、盗むことを避けるだけでなく、隣人に対する私たちの義務を積極的に行い、天主の御摂理が私たちに与えた立場がどんなものであれそこでよく働くということです。ほんの少し考えただけでも、私たちが隣人に対していかに多くを負っているかが分かります。私たちの住居を建てる人々、水や電気を供給する人々、衣服を作り、食べ物を供給する人々です。一人でこれらのことを同時にできるはずがありません。ですから、私たちは仲間である人々の助けを必要としますし、 私たちも、こういった共通善をもたらすようにしなくてはなりません。隣人の善のために、また共通善のために私たちが貢献する度合いに応じてのみ、自分の収入や給料を受けることができるのです。人に損失を与えながら生活するのは正しくありません。

第八戒は、それなしでは人間社会で生活を共にすることができないお互いへの信頼を尊重するよう命じています。「汝隣人について偽証するなかれ」(脱出20章16節)。

最後の二つの戒めは、私たちに外から見える正義を要求するだけでなく、貞潔に反したり貪欲だったりする悪しき望みを禁じることによって、また一般的にあらゆる悪しき望みや考えを禁じることによって、心の中の正義さえも要求します。

「主の律法は完全で、人の魂を慰め、主の証明は真実で、単純な人に知恵を与える。主の定めは正しく、人の心の喜びとなり、主の命(めい)は純粋で、人の目を開(あ)ける。主への恐れは清く、永遠に変わることがなく、主の裁きは真実で、すべて正しい。それはどんなまじりけのない黄金よりも尊く、み言葉は蜜よりも、蜜房のしたたちよりも甘い。教えを受ける、あなたのしもべが、それを守るのは大きな利益である」(詩篇18章8-12節)

ですから、まことに「申し分のない道を歩み、主の法を守る人は幸せである」(詩篇118章1節)!

私たちの主イエズス・キリストが王であるのは、主がすべての人間のために定められた法によってです。しかし、無原罪の御孕りという特権をお受けになり、常に罪のない状態だった童貞聖マリアは別にして、すべての人間は、ある者は多く、ある者は少なく、しかし大抵はさらにずっと多く、天主の法を破ってきました!天主は善き王ですから、御民の弱さをご覧になって、彼らに有罪の宣告をなさることなく、かえって私たちを罪から救い、天国へ至る正しい道に私たちを戻すために、ご自身が地上に来られました。この善き羊飼いは、ご自分の羊が罪という負債を返せるように、ご自分の血を与えてくださり、私たちにすべての徳の完璧な模範を与えてくださいました。

十字架上のいけにえによって、私たちの主イエズス・キリストは、御母を通して私たちに分配してくださるすべての恩寵の報いを得られたのです。主の戒めを守るためには、私たちの主イエズス・キリストの恩寵が必要であり、私たちの主イエズス・キリストの助けが必要です。これが、私たちが毎日祈る必要のある理由なのです。

私たちの主イエズス・キリストは、罪びとをさげすむどころか、罪びとを追いかけて、より良い生活へと戻るよう呼びかけ、悔い改めをするよう呼びかけてくださいます。その罪がどれだけ大きくても、私たちの犯した罪からまさに私たちを救うために御血を流された私たちの主イエズス・キリストは、私たちが自分の霊魂を傷つけた以上に力強く霊魂を癒やしてくださいます。「慈悲は裁きに勝」(ヤコボ2章13節)ち、裁きにまさるのです。主はすべての罪びとに、最も悪しき罪びとにさえも、天国への道に戻るよう助ける恩寵をくださいます。

主は十字架上で亡くなられ、死者の中から復活されましたが、それはまさにそのため、罪びとを罪から救うためでした!しかし、主は私たちが罪の状態のままでいることは望まれません。主は善き医者ですから、主は私たちが健康に戻ることを望まれ、病気のままでいることは望まれません。主が私たちに望まれるのは、主のようになり、聖パウロが言うように、「罪に死んで、天主のために生きる」(ローマ6章11節)ことです。主が私たちに望まれるのは、姦淫の罪で捕らえられた女に言われたように、「もう罪を犯さぬように」(ヨハネ8章11節)ということです。主は、聖アウグスティヌスが「誤ったあわれみ」と呼ぶ、罪を癒やすことなく覆い隠すあわれみ、心の本当の変化を要求することのなく罪びとを罪の状態に置いたままにするあわれみを望んでおられるのではありません。これは本当のあわれみではなく、あわれみがひどく頽廃したものに過ぎません。

私たちの主イエズス・キリストは、私たちがまさに天主の掟に従えるよう、ご自身をいけにえとしてお捧げくださったので、私たちの主イエズス・キリストの王国が広がり、全ての人に至るよう、 天主と天主の掟の恵みをもたらすため、教会はミサのいけにえを捧げます。どのミサにおいても、ミサは司祭自身やその周りの信者のためだけでなく、教会のすべての意向のため、特に罪びとの回心のためという意向のために捧げられるのです。

私たちの主イエズス・キリストが天と地の元后の冠をお与えになった童貞聖マリアが、私たちを永遠の命に到達させてくれる王たるキリストの戒め、十戒に、心から愛をもって従うために必要とするすべての恩寵を、私たちのために取り成してくださいますように。そして聖母が私たちに強い熱意を与えてくださり、個々の霊魂においても、広くは社会においても、私たちの主イエズス・キリストの王国を拡張していくことができますように。その結果、私たちの主イエズス・キリストのいとも甘いくびきに喜んで服従することによって、私たちが天国の永遠の幸福に達することができますように。

アーメン。


聖ピオ十世会 聖伝のミサ(トリエント・ミサ) 10月25日の報告:天主の御憐れみを賛美しよう

2015年11月03日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 11月1日は、諸聖人の祝日でした。
 いかがお過ごしでいらっしゃいますか?ご無沙汰して申し訳ありません。

 10月25日は、レネー神父様が大阪でミサを捧げて下さいました。レネー神父様に感謝します。天主様に感謝します。





 次のようなご報告を頂きましたので、ご紹介いたします。

 こちらフィリピンでは、司祭の黙想会がダヴァオでありました。9名の司祭が参加しました。

 マニラでは、修道院長会議が二日間にわたってあり、色々なことを話し合いました。いろいろなことが決定されましたが、そのうちの一つが、来年、日本に月に二回訪問してみる、ということです。そのために、ミサの回数が増え、聖ヨゼフ様の祝日が日本でお祝い出来るようになりました。日本のお恵み倍増計画んついて天主様に感謝します!

 【来年の聖週間については、今現在の予定では、残念ながら不可能の予定です。】

 修道院長会議での決議以外では、次の予定が立てられています。

 3月には、総長第2補佐のネリー神父様が日本を訪問される予定です。

 恒例の秋田巡礼について、来年は十周年に当たり、それを記念して天主様の御憐れみを乞い求めて日程と行き先を拡大し、4月29日から5月8日まで、長崎と秋田とに巡礼をすることになりました。

 来年の8月には、11日から15日まで聖母黙想会が日本で開かれる予定です。

 来年の9月には、ティシエ・ド・マルレ司教様が初の日本訪問をされる予定です。

 天主様の御憐れみを感謝します。天主様の御憐れみをとこしえに祝福します。
Misericordias Domini in aeternum cantabo!

 さて報告です。

【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

10月の大阪での主日のミサの報告をお送りいたします。

10月25日(主)王たるキリストの祝日の歌ミサには20人が、
翌  26日(月)諸聖人の随意ミサには11人が御ミサに与る御恵みを頂くことが出来ました。デオ・グラチアス!

25日のミサの後、神父様と「カトリックの黙想と仏教の黙想」と題しての講話をして頂きました。
講話を通してカトリックの祈り・黙想の意味、結果を再認識するとともに、天主の存在を認めない異教の人々のために善き見本であるマリア様に祈り方を教え頂きながら私達カトリック信者は祈らなければならないと痛感いたしました。
【報告 終わり】

【質問】
 2016年は次の1級祝日が、金曜日に当たります。

1月1日 金 主の御降誕の八日目(1級祝日)白
4月1日 金 復活の金曜日(1級)白
6月3日 金 イエズス・キリストの至聖なる聖心(1級祝日)白
6月24日 金 洗者聖ヨハネの誕生(1級祝日)白
7月1日 金 イエズス・キリストのいと尊き御血(1級祝日)赤

この全てで小斎が免除されるのでしょうか。それとも、一部だけでしょうか。

【お返事】
 「守るべき祝日」では、大小齋が免除されます。
 日本では守るべき祝日は、クリスマスと1月1日です。
そこで、2016年1月1日(金)主の御降誕の八日目(1級祝日)は、小齋が免除になります。
 その他の祝日については、小齋の免除はありません。


天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)



--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
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