Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

2018年6月1日~3日の聖伝のミサ・ラテン語ミサ(聖ピオ十世会)の報告:Traditional Latin Mass SSPX

2018年06月13日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 今日は6月13日、マリア様が汚れなき御心を啓示なさった日ですね。

 この前の聖伝のミサの報告をご紹介いたします。

 今度のミサの予定は、次の通りです。

【大阪】

6月15日(金) 聖霊降臨後の平日(4級)緑
         午後5時半 ロザリオ及び告解 
         午後6時  ミサ聖祭

6月16日(土) 聖母の土曜日(4級)白
         午前10時  ロザリオ及び告解
         午前10時半 ミサ聖祭【聖母の汚れなき御心の随意ミサ】
         午後12時頃 聖体降福式

【東京】

6月17日(主) 聖霊降臨後第4主日【イエズスの至聖なる聖心の荘厳祭(白)】
         午前10時  ロザリオ及び告解
         午前10時半 ミサ聖祭【イエズスの至聖なる聖心の随意ミサ】

6月18日(月) 教会博士証聖者助祭シリアの聖エフレム(3級祝日)白 
         午前7時   ミサ聖祭


天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【報告】【大阪】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

大阪でのミッションありがとうございました!!!
6月の初金、初土の御ミサの報告をお送りいたします。

6月1日(初金) 至聖なるイエズスの聖心のミサには10名が、
6月2日(初土) 聖母の汚れなき御心のミサには20人が御ミサに与るお恵みを頂きました。デオグラチアス!

5月の聖母月を通ってイエズス様の聖心の月に突入するこの2か月は年中でも最も美しい、大好きな時節です。
沢山の御ミサと、御聖体降福式にまで与る事が出来たことを天主様に感謝致します。

最近小野田神父様から、「イエズス様は、ほんっっっとにお優しいです」という言葉をよくお聞きします。
イエズス様の聖心について両日のお説教で、天主様が愛である事、イエズス様がどれ程私たちを愛して下さっているか、そのお返しに私達は何をするべきかを黙想できました。
自分には聖ピオ十世会の神父様方や色々な聖人方のような大きな犠牲や深い祈りが出来ない事がもどかしく、申し訳なさでつぶれそうな気持にさえなる事がありますが、神父様が繰り返し教えてくださって、今は自分の心にも焼き付いた「マリア様の汚れなき御心を通して」を実践しながらイエズス様に愛をお返し続けたいと思いました。
お優しいイエズス様をマリア様のお手を借りてもっともっと完全にお喜ばせ出来るようになりたいと思います。

初金曜、初土曜日と続けてミサの後に御聖体降福式をして頂けて、イエズス様の愛を身近に感じ、礼拝する事ができました。
ミサに与れて、皆でロザリオを祈り、御聖体に讃美を捧げる事ができた素晴らしい2日間でした。このような日がずっと続けばいいなあと思うのは贅沢ですね。

また次の御ミサが待ち遠しいです。
今月は毎日イエズス様の聖心を黙想しながら次の御ミサを待ちたいと思います。

至聖なるイエズスの聖心我らを憐み給え
聖母の汚れなき御心よ我らのために祈り給え


【報告】
Dear Fr Onoda:

今日の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。

ミサの参列者数
男: 24人(内、子供4人)
女: 24人(内、子供4人)
計: 48人(内、子供8人)

【報告】
Ave Maria Immaculata!

6月3日のご聖体の祝日の御ミサをありがとうございます。

ご聖体を私たちがいただくということは、どれほどありがたいこと、お恵みであるかということ、神父様のお説教を拝聴し胸にしみいりました。
とりわけ深い感動を覚えましたのは、“天主さまがわたしの心に来たいと願っている”と聴き、ご聖体拝領によって“天主さまご自身をこの心にお迎えするのだ”と感じたことでした。

ごミサのなかという厳かな粛々とした空気に包まれ、これからイエズス様の生贄が再現されるその直前という時に、このすべての中ですべてでありすべてのなかで唯一存在される御方である天主様ご自身を、わたしの心のなかにお迎えすることに注意を向けさせていただき、いまいちどそのことの意味深さを感じようとして、しばし感覚を集中いたしました。すると、このようなこの上もない恩寵を平気でお受けしていたのは、わたしの心と感覚がいとも鈍感で粗雑だからであったからだということを、理解させられました。

もしわたしが、お受けするご聖体の深い意義をもっと十分にわかっていたなら、きっとあまりの緊張と感動でどうにかなることでしょう。気を失ってしまうほどまでになるかもしれません。昔読んだ聖人様の本のなかには、そういう表現がされていたことをおぼろげながら思いだしました。

非常に鋭敏で細やかで澄みきった霊魂にいらっしゃるとき、ご聖体はどれほどご自身をそのままお現わしになられることでしょう。そして、そのような方の霊魂のなかで天主様はどれほどおよろこびになられることでしょう。そしてその霊魂の人は、愛に満たされて、この世を忘れてあまりのかたじけなさに気を失うほどまでに打ち震えることでしょう。そのようになることもなくご聖体をお受けしているのは、わたしが鈍感で粗雑なものであるからとわかった次第です。

このように、天主さまご自身をわが霊魂の内に迎えることが本当はどれほどのことであるかを、すこし垣間見させていただいたように思います。霊的聖体拝領をするときも、このことを思いだし、天主さまご自身を迎えるにふさわしく自分の霊魂を準備する努力をしなければならないと痛感させられました。

長々と書いてしまいましたこと、申し訳ありません。
また、この日は、前田大司教さまが枢機卿に挙げられたことをお祝いして、私たちも前田枢機卿さまのためにお祈りという霊的な花束をお届けいたしましょうとお話しくださいました。

わたしはお祈りをする約束を届けて帰ったものの、大阪の前田大司教さまのことを何も知ることがなく、どのような方が日本の枢機卿になられたかを知りたく思い少し調べてみました。
すると、前田大司教さまの霊的講話が掲載されているところが見つかりました。大司教様が俳句とともに書かれている講話は読みやすく、書かれているお話のすごさに思わず引き込まれて、長文でしたが一気に読んでしまいました。(―俳句を嗜まれる枢機卿様でした―)

前田大司教さまは、明治になってからも続いた長きに渡る殉教・迫害のカトリック信者の流れに身を置く潜伏キリシタンの一族のご出身であり、司祭になられたのもご自分だけの希望というよりも先祖から受け継いだカトリック信仰のゆえに、神父の道を歩まれているということを知りました。その霊的講話のなかのお話の一つ一つが、体験からにじみ出る信仰の証であることに驚きました。

二年まえに、聖ピオ十世会の巡礼で長崎に行くお恵みをいただきました。そのとき初めて、長崎の殉教者のものすごく壮絶な生死を賭けた信仰について見聞いたしましたが、そのことには続きがあって、それをこの前田大司教さまの講話で読んでいるような気持ちになってしまいました。近代において明治の初めのカトリック信者も、どれほどひどい迫害を受けていたかということをよくわかっていなかったことをあらためて気づかされました。当時の信者は、現代と違う信仰を生きていたのではなく、今と同じ信仰を生きていたはずなのでは、と思います。・・それとも、もし現代において、当時と同じ信仰を生きようとするなら、やはり迫害やいじめや嫌がらせを受けるでしょうか?

わたしがいまこうしてトリエントミサに与るようになりましたその理由には、伝統的なカトリック信仰が感じられないかのような現代の教会の典礼のこととともに、昔の人(先祖・使徒)から受け継いでいる信仰が守られているかどうかということも根本にあったように思います。私の場合は、カトリック信者としての自分の先祖とは、血統における先祖というよりも、霊的な先祖のことになると思うので、継承されて受け継がれてきている信仰を守る使徒ということにもなるのでは、と思います。親からの信仰を引き継ぐことができないものは、神父様から正しいカトリック信仰の導きを受けるしかありません。初代教会から続く伝統的なカトリックの教育の行われる神学校で学ばれた司祭は、確かにこの使徒から受け継がれてきている信仰を伝えてくださるということを、日々ますます感じさせていただいております。

前田枢機卿さまは、先祖から受け継いだ信仰を胸に深く強く抱かれつつ、日本のカトリック信者に、先祖から受け継いだ信仰と使徒から受け継いだ信仰がちゃんと伝わっていくように司牧してくださるに違いないという、大きな希望をもっています。このような素晴らしい前田大司教さまを日本の枢機卿に選ばれるようにしてくださいましたこと、マリア様、本当にありがとうございます。

私たちの教会には、若いご夫婦が何組もいらっしゃいます。先日一緒に日本のためにロザリオを祈ったときにも、お茶を飲みながらいろいろお話を聞いていて、この若い方たちは頭で知的に理解しただけとは違う、先祖という使徒から受け継がれてきている確固としたカトリック信仰をハートにお持ちの家族なのだということが感じられました。きっとご自分の子供たちにも、その信仰をしっかりと伝えていくに違いありません。

わたしは、このような使徒から継承されたカトリックの典礼をしてくださる小野田神父様の司祭叙階25周年の記念ミサが、すぐ間近の次の主日6月17日に行われることを、とても楽しみにしております。司祭叙階の記念ミサではたくさんのお恵みが、参列した方に降ると聞いたことがあります。小野田神父様が、スイスの聖ピオ十世会の神学校で使徒継承の脈々と受け継がれたカトリック信仰を伝えるトリエントミサをお捧げする司祭になってくださらなければ、日本に居てこのごミサに与れなかったと思うのです。

25年の年月のなかでは、日本での宣教のため、どれほど困難がおありだったことでしょうか。いつも神父様には深く感謝申しあげております。一人でも多くの方に来ていただいて、どなたにも記念ミサと祝賀会にご参列いただけますよう、お祈りとささやかな準備を皆で致しています。心からの感謝と喜びをもって、6月17日の小野田神父様司祭叙階25周年記念ミサに与りたいと思っておりますので、どうぞよろしくお願いいたします。


【参考資料】
前田枢機卿様の興味深い記事を教えてもらいました。

http://www.catholic-honjyo-church.org/sp58_main2.htm

前田枢機卿様のお話から、血と涙の信仰が伝わってくるようですね。


Sermon for the 3rd Sunday after Pentecost ―Fr. Benoit Wailliez, FSSPX

2018年06月13日 | お説教・霊的講話
Sermon for the third Sunday after Pentecost
Fr Benoit Wailliez, FSSPX


Last Friday, we celebrated the feast of the Sacred Heart of Jesus.
As St. John the Apostle, who rested on the heart of Jesus, stated: "We looked upon him whom we have pierced" and elsewhere "We have come to know and have believed the love that God has for us".
Today, Mother the Church has picked one of Our Lord's parables to keep emphasizing His tenderness and compassion.
Let us have a look and explain what Our Lord meant in today's Gospel.

A man, who had hundred sheep, lost one of them. He left the 99 in the desert and went after the lost sheep. When he found it, he laid it upon his shoulders and brought it back home. He called all his friends and rejoiced because he had found the sheep that was lost.

The owner of the flock is God.
The sheep represents all of us. As Psalm 94 says: "We are His people and the sheep of His flock".
According to Scripture, the desert is "the resting place" of the Lord. For instance, God says: "I will lead her to the desert". It is an image of God's intimacy. We can only find God in silence, away from the noise of this world; in the desert. That is where God keeps His sheep close to him.

The lost sheep is the sinner. It went away from God, probably attracted by a more "exciting life".
Our Lord is the Good Shepherd, who knows His sheep and call them by their name. He notices the loss of His sheep and immediately leaves His flock in order to find the lost one.
This is an image of God leaving, so to say, the restful place of heaven and going into this world, through His Incarnation, to save us. Elsewhere in the Gospel, Our Lord says: "The Son of man came to save what was lost".
He goes after the lost sheep. We always have to remember that when we convert, for instance through a good confession, we are not the ones coming back to God: He is the one who went after us and found us and brought us back to Him, to His Sacred Heart.

The parable says: "He goes after the lost sheep until he find it". Meaning, Christ won't return to His restful place until He has found the sinner. And how does He bring it home? Putting it upon His shoulders. He saved us through His heavy cross, image of the weight of our sins. As a good Shepherd, He puts the lost sheep upon his shoulders and saves it from eternal loss.
Is the owner angry at the sight of his lost sheep, after so many efforts, so much sweat spent for that unfaithful sheep? No, he rejoices. And he wants all his friends to rejoice with him.

The Sacred Heart is so happy to bring us back to Him. He wants the rest of us, in heaven and on earth, to rejoice at the conversion of sinners.
Sometimes we are bitter with non-believers or with people who left the flock. But are we searching for them, at least through prayer? And are we rejoicing if they end up joining the flock or reincorporating it?
Have we forgotten that the "lost sheep" is firstly ourselves before being our neighbor?...

When we will receive communion and be closely united to our Shepherd and Savior, the choir will sing the beautiful concluding words of this parable: "There is joy before the angels of God upon one sinner doing penance". Amen.

2018年6月10日 聖霊降臨後第三主日の説教 「失われた羊とイエズスの聖心」―聖ピオ十世会司祭 ワリエ神父様

2018年06月12日 | お説教・霊的講話
聖霊降臨後第三主日の説教
ブノワ・ワリエ神父(聖ピオ十世会)


この前の金曜日に、私たちはイエズスの聖心の祝日をお祝いしました。
イエズスの胸元、聖心である心臓の上で頭を休ませた使徒聖ヨハネが、「私たちは自分たちが刺し貫いた人を仰ぎ見る」(ヨハネ19章37節)と述べ、また別の箇所で「私たちは天主の愛を知り、それを信じた」(ヨハネ第一4章16節)と述べたようにです。
本日、母なる教会は、主の優しさとあわれみを強調し続けるために、主のたとえ話の一つを取り上げました。
本日の福音で主が言おうとなさったことを少し眺め、説明してみましょう。

百匹の羊を持つ男が、そのうちの一匹を見失いました。彼は九十九匹を砂漠に置いたまま、失われた羊を捜し求めて行きました。その羊を見つけたとき、彼は羊を肩に乗せて連れ帰りました。失われた羊を見つけたので、彼はすべての友人を呼び集めて喜びました。

羊の群れの持ち主は天主です。
は私たちみんなのことです。詩篇94番が「われらは主の民、その群れの羊」というようにです。
聖書によると、砂漠は主の「住まい」(詩編132章14節)です。例えば、天主は「私は彼女を誘って砂漠に連れていく」(ホゼア2章16節)と言われます。それは、天主の近しさのかたどりです。私たちは、この世の喧騒から離れて、砂漠において、沈黙のうちにでなければ、天主を見いだすことはできません。砂漠は、天主が羊たちをご自分のそばに留めておられるところなのですから。

失われた羊は罪びとです。羊は天主から離れて行きました。多分、もっと「わくわくする生活」に惹きつけられたのでしょう。
主は善き羊飼いであり、ご自分の羊のことを知っておられ、それぞれの名前で羊を呼ばれるのです。主は羊を見失ったことにお気づきになると、すぐに失われた一匹を見つけるために羊の群れから離れられます。
これは、いわば天国の住まいを離れて、私たちを救うために、ご托身によって、この世に来られた天主のかたどりです。福音書のほかのところで、主は「人の子は見失ったものを救うために来た」(ルカ19章10節)と言われます。
主は失われた羊の後を捜して追いかけられます。私たちが、例えば良い告解によって回心したとき、私たちがみずから天主のもとへ戻ったのではないことをいつも思い起こさなければなりません。主こそが、私たちを追いかけて捜し、私たちを見いだし、私たちをご自分のもとに、主の聖心のもとに連れ戻してくださったのです。

このたとえは、「彼は見つけ出すまで失われた羊を捜して追いかける」(ルカ15章4節)と言います。その意味は、キリストはその罪びとを見つけるまでは、ご自分の住まいにお戻りになるおつもりはない、ということです。では、主はどのようにして罪びとを連れ戻されるのでしょうか? ご自分の肩に乗せてです。主は、私たちの罪の重さのかたどりである、重い十字架によって私たちを救われました。善き羊飼いとして、主は失われた羊をご自分の肩に乗せて、永遠の喪失から救われるのです。
羊の群れの持ち主は、この失われた羊を見て、この不信仰な羊のために費やした多くの努力、幾多の辛苦の故にお怒りになるでしょうか? そうではありません。羊の群れの持ち主はお喜びになるのです。そして、ご自分の全ての友に、ご自分と一緒に喜ぶことをお望みになるのです。

イエズスの聖心は、私たちをご自分のもとに連れて帰ることができて大変お幸せです。主は天と地にいる私たちが、罪びとの回心を喜ぶことをお望みです。
時に私たちは、不信仰者や群れから離れた人々に対して苦い思いをもっています。しかし、私たちは、少なくとも祈りによって、彼らを探し求めているでしょうか? また、彼らが最終的に群れに加わるか、再び一体となるなら、私たちはそれを喜んでいますか?
私たちは、「失われた羊」が、私たちの隣人である前に、まずは私たち自身であることを忘れてしまっていませんか?

私たちがご聖体を受け、私たちの羊飼いにして救い主であるお方と密接に一つになるとき、聖歌隊は、このたとえの美しい締めくくりの言葉を歌うでしょう。「悔い改める一人の罪びとのために、天主の天使たちの間には喜びがある」。アーメン。

来たる6月17日(主日)の聖ピオ十世会東京でのミサは、イエズスの至聖なる聖心の荘厳祭です

2018年06月11日 | 聖伝のミサの予定

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、
 来たる6月17日(主日)の聖ピオ十世会東京でのミサは、イエズスの至聖なる聖心の荘厳祭として「イエズスの至聖なる聖心」のミサを行います。

Introitus: Psalmus 32:11,19 Introit: Psalm 32:11,19 入祭文: 詩篇 32:11,19 进台咏(咏32:11,19)
COGITATIÓNES Cordis ejus in generatióne et generatiónem: ut éruat a morte ánimas eórum et alat eos in fame. THE thoughts of His Heart are from generation to generation: To deliver their souls from death, and feed them in famine. 主の聖心の想いは、霊魂を死から奪い取り、飢えるとき養うために、世々にわれらの傍らにとどまり給う。 祂心中的意念代代常存:祂要救我的生命脱离夭亡,并且使我饥馑之日、得到滋养。
Ps. 32:1 Exsultáte, justi, in Dómino, rectos decet collaudátio. Glória Patri et Fílio et Spirítui Sancto. Sicut erat in princípio et nunc et semper et in sǽcula sæculórum. Amen. Ps. 32:1 Rejoice in the Lord, O ye just: praise becometh the upright. Glory be to the Father, and to the Son, and to the Holy Ghost. As it was in the beginning, is now, and ever shall be, world without end. Amen. 詩篇32:1義人らよ、主において喜びおどれ。天主を讃美することは、義人にふさわしいことである。願わくは聖父と聖子と聖霊とに光栄あれ。はじめと同じく、今もいつも、世々に、アメン。 人啊!您们应当凭上主喜悦;因为颂扬原是正直者的事。光荣于父……。
Cogitatiónes Cordis ejus… The thoughts of … 主の聖心の想いは、… 心中的意念代代常存
Collectus Collect 集祷文 集祷经
  DEUS, qui nobis in Corde Fílii tui, nostris vulnerátio peccátis, infinítos dilectiónis thesáuros misericórditer largíri dignáris: concéde, quǽsumus ut illi devótum pietátis nostræ præstántes obséquium, dignæ quoque satisfactiónis exhibeámus offícium. Per eúmdem Dóminum nostrum Jesum Christum Fílium tuum, qui tecum vivit et regnat in unitáte Spíritus Sancti, Deus, per ómnia sǽcula sæculórum. O GOD, Who in the Heart of Thy Son, wounded by our sins, dost mercifully bestow on us infinite treasures of love: grant, we beseech Thee, that whilst we render It the devout homage of our affection, we may also fulfill our duty of worthy satisfaction. Through the same our Lord Jesus Christ, Thy Son, Who liveth and reigneth with Thee in the unity of the Holy Ghost, God, world without end. 天主よ、われらの罪のために傷つけられた御子の聖心において、御身は愛の無限の宝を、御慈悲をもってわれらに与え給う。願わくは、聖心に対して厚き敬虔のつとめを果たさせ、適当なつぐないの奥義をもわれらに行わせ給え。その同じわれらの主イエズス・キリスト、天主として、聖霊との一致において、御身と共に世々に生き且つ治め給う聖子によりて。 天主,祢既在祢圣子由我所受的圣心内,将无限情的宝藏仁慈地赐给,求祢开恩:使我们对于圣心不地献出心的敬礼,且能相称地尽到赔补债务。因我主……。
書簡Epistle エフェゾEphesians 3:8-12,14-19 书信(弗3:8-19)
LÉCTIO Epístolæ beáti Pauli Apóstoli ad Ephésios LESSON from the Epistle of blessed Paul the Apostle to Ephesians 使徒聖パウロのエフェゾ人への書簡の朗読
Fratres: Mihi ómnium sanctórum mínimo data est grátia hæc, in géntibus evangelizáre investi- gábiles divítias Christi: et illumináre omnes, quæ sit dispensátio sacraménti abscónditi a sǽculis in Deo, qui ómnia creávit: ut innotéscat principátibus et potestátibus in cœléstibus per Ecclésiam multifórmis sapiéntia Dei: secúndum præfinitiónem sæculórum, quam fecit in Christo Jesu Dómino nostro, in quo habémus fidúciam et accéssum in confidéntia per fidem ejus. Hujus rei grátia flecto génua mea ad Patrem Dómini nostri Jesu Christi, ex quo omnes patérnitas in cœlis et in terra nominátur: ut det vobis secúndum divítas glóriæ suæ, virtúte corroborári per Spíritum ejus in interiórem hóminem: Christum habitáre per fidem in córdibus vestris: in caritáte radicáti et fundáti: ut possítis comprehéndere cum ómnibus sanctis, quæ sit latitúdo, et longitúdo, et sublímitas et profúndum: scire étiam super- eminéntem sciéntiæ caritátem Christi, ut impleámini in omnem plenitúdinem Dei. Brethren: To me, the least of all the saints, is given this grace, to preach among the Gentiles the unsearchable riches of Christ: and to enlighten all men, that they may see what is the dispensation of the mystery which hath been hidden from eternity in God, Who created all things: that the manifold wisdom of God may be made known to the principalities and powers in heavenly places through the Church, according to the eternal purpose which he made in Christ Jesus our Lord: in Whom we have boldness and access with confidence by the faith of Him. For this cause I bow my knees to the Father of our Lord Jesus Christ, Whom all paternity in heaven and earth is named, that he would grant you according to the riches of His glory, to be strengthened by His Spirit with might unto the inward man, that Christ may dwell by faith in your hearts: that, being rooted and grounded in charity, you may able to comprehend with all the saints, what is the breadth and length, and height and depth: to know also the charity of Christ which surpassed all knowledge, that you may be filled unto all the fullness of God. 兄弟たちよ、私は、すべての聖徒の中で、最も小さい者よりも小さい者であるが、キリストの底知れない富を異邦人に告げ、万物の創造主なる天主のうちに、永遠から隠されていたこの奥義の啓示を表す恩寵を受けた。それは、天主の多種多様の上智を、天の権勢と能力とに、教会によって、いま知らせるためである。それは、われらの主キリスト・イエズスにおいて、天主が企て給うた永遠の計画によるのである。われわれは、彼に対する信仰によって、信頼してあえて天主に近づくことができる。それがために私は、われらの主イエズス・キリストの御父の御前(みまえ)にひざまずこう―[御父から]天と地とのすべての家族が起こったのである―。彼が、その光栄の富にしたがって、その霊によって、あなたたちの内的な人間を力強く固め、また信仰によってキリストがあなたたちの心に住み給うて、あなたたちの根と基(もとい)とを愛に置き、そしてあなたたちに、すべての聖徒とともに、[かの奥義の]広さと長さと高さと深さとを理解させ、計り知ることのできないキリストの愛を知らせ、充ち満てる天主によって満たし給うように祈る。 弟兄:我本是圣徒中最卑小的,天主竟我特恩,使我向外邦人宣基督深不可的富藏,并且把从永远隐藏在造生天地万物的天主内的奥秘划,启示众人。天主依照祂从永所定、而在我主基督耶内完成的划,愿意藉着教会、向天上的权者天神和异能者天神表示祂各式各的智慧。我信了基督,便因着祂坦然无畏地、满怀信心地、到天主台前来。为了这个原因、我在我们主耶稣基督的大父前屈膝。天上地下的一切父权、都是由祂而得名的。我求祂藉着祂光荣的富藏、赏赐你们赖着祂的圣神完全地坚强起来,使你们的内心、成长发展。愿基督藉着信德、居住在你们心中,愿你们在爱德中生根植基,和诸位圣徒一起明了基督的爱如何长、如何阔、如何高、如何深、得以明悉基督的爱远远超过人所意想的限度,而这样你们充满了天主完满无缺的美好。
Graduale : Psalmus 24:8-9 Gradual : Psalm 24:8-9 昇階誦 : 詩篇 24:8-9 .
DULCIS et rectos, Dóminus, propter hoc legem dabit delinquéntibus in via. Díriget mansuétos in judício, docébit mites vias suas. THE Lord is sweet and righteous: therefore He will give a law to sinners in the way. He will guide the mild in judgment: He will teach the meek His ways. 主は、正しくよい御者にてまします、故に主は、直(すぐ)なる道から外れた人々に、救いの法を示し給う。主は、柔和な人々を正義によって導き、へりくだる人々に主の道を教え給う。 主是良善公正的,因此、祂指导罪人走祂的道。——祂引谦虚人走公平的路,将自己的道指示给良善人。
Alleluia : Matthaeus 11:29 Alleluia : Matthew 11:29 アレルヤ誦 : マテオ 11:29 阿肋路亚!(玛11:29)
ALLELÚIA, allelúia. Tóllite jugum meum super vos et díscite a me, quia mitis sum et húmilis Corde, et inveniétis réquiem anímabus vestris. Allelúia ALLELUIA, alleluia. Take my yoke upon you and learn of Me, because I am meek and humble of heart: and you shall find rest to your souls. Alleluia. アレルヤ、アレルヤ。私は、心柔和で謙遜な者ゆえ、私のくびきをとって、私にならえ、そうすれば心の平和を見出すであろう、アレルヤ。 阿肋路亚,阿肋路亚。你们负我的轭吧!向我学习心中的温良和谦逊:你们将获得心中的安息。阿肋路亚。
Evangelium : Ioannes 19:31-37 Gospel : John 19:31-37 聖福音: ヨハネ 19:31-37 福音(若19:31-37)
  In illo témpore: Judǽi (quóniam Parascéve erat), ut non remanérent in cruce córpora sábbato, (erat enim magnus dies ille sábbati), rogavérunt Pilátum ut frangeréntur eórum crura et tolleréntur. Venérunt ergo mílites, et primi quidem fregérunt crura et altérius qui crucifíxus est cum eo. Ad Jesum autem cum veníssent, ut vidérunt eum jam mórtuum, non fregérunt ejus crura: sed unus mílitum láncea latus ejus apéruit, et contínuo exívit sanguis et aqua. Et qui vidit testimónium perhíbuit: et verum est testimónium ejus. Et ille scit quia vera dicit, ut et vos credátis. Facta sunt enim hæc ut Scriptúra implerétur: Os non commninuétis ex eo. Et íterum ália Scriptúra dicit: Vidébunt in quem transfixérunt.  At that time: The Jews (because it was the Parasceve), that the bodies might not remain upon the cross on the Sabbath day (for that was a great Sabbath day) besought Pilate that their legs might be broken, and that they might be taken away. The soldiers therefore came: and they broke the legs of the first, and of other that was crucified with Him. But after they were come to Jesus, when they saw that He was already dead they did not break His legs. But one of the soldiers with a spear opened His side, and immediately there came out blood and water. And he that saw it hath given testimony: and his testimony is true. And he knowth that he saith true, that you may believe. For these things were done that the Scripture might he fulfilled: You shall not break a bone of Him. And again another Scripture saith: They shall look on Him Whom they pierced. そのとき、(用意日だったので)安息日に体を十字架の上に残しておかないように(この安息日は、大いなる日であったから)ユダヤ人は、ピラトに、彼らの脛(はぎ)を折って取り除くように願った。それで、兵隊たちが来て、第一の者と他の者との脛を折った。イエズスのところに来るともはや死んでおられるのを見てその脛を折らなかった。しかし、一人の兵隊が、槍で御脇腹を突いたので、すぐ、血と水とが流れ出た。これを見た者が証明する―この証明は真実である、彼は自分の言葉が真実であると知っている―あなたたちが信じるためである。これらの事が起こったのは、「その骨は一つも折られないであろう」という聖書の言葉が成就されるためであった。また「彼らは、自分らが刺した者を仰ぎ見るであろう」という聖書の言葉もある。 那天正是巴斯挂的预备日。犹太人为使尸体、在安息日、不留在十字架上——因为那安息日是个大节日——,请求比拉多折断他们的腿,把他们拿走。兵士们来了,折断了第一个人的腿,及与耶稣同钉的第二个的。来到耶稣那里,见祂已经死了,就不折断祂的腿;但有一个兵拿枪刺开了祂的肋旁,立刻流出了血和水。那个看见的就作了见证,他的作证是真的;他知道说真话,好使你们也相信。——这件事发生了,使圣经这句话应验:“祂的骨头、你们一根也不要折断。”经上另一处又说:“他们瞻望他们所刺透的人。”
Credo Creed 信経
Offertorium : Psalmus 68:21 Offertory : Psalm 68:21 奉献文 : 詩篇 68:21 奉献咏(咏68:21)
IMPROPÉRIUM exspectávit Cor meum et misériam, et sustínui qui simul mecum contristarétur et non fuit: consolántem quæsívi et non invéni. MY Heart hath expected reproach and misery: and I looked for one that would grieve together with Me, but there was none: and for one that would comfort Me, and I found none. 私の心は、侮りと悩みしか期待できなかった。私は誰かが、共に苦しんでくれると期待していた。しかし誰も苦しんではくれなかった。私は人から慰められるのを待っていたが、慰めてくれる人は一人もなかった。 耻辱和忧闷、折伤了我的心,我指望了有人体恤我,却没有一个;我渴望了有人安慰我,可是寻不着。
Secretum Secret 密誦 密祷
RÉSPICE, quǽsumus, Dómine, ad ineffábilem Cordis dilécti Fílii tui caritátem: ut quod offérimus sit tibi munus accéptum et nostrórum expiátio delictórum. Per eúmdem Dóminum nostrum Jesum Christum Fílium tuum, qui tecum vivit et regnat in unitáte Spíritus Sancti, Deus, per ómnia sǽcula sæculórum. HAVE regard, we beseech Thee, O Lord, to the inexpressible love of the Heart of Thy beloved Son: so that what we offer may be a gift acceptable to Thee, and an expiation for our offenses, Through the same our Lord Jesus Christ, Thy Son, Who liveth and reigneth with Thee in the unity of the Holy Ghost, God, world without end. 主よ、願わくは、愛し給う御子の聖心の、言い尽くせぬ愛をかえりみ、われらの捧げ物を嘉し、われらの罪のつぐないとならせ給え。その同じわれらの主イエズス・キリスト、天主として、聖霊との一致において、御身と共に世々に生き且つ治め給う聖子によりて。 主,求祢顾及祢爱子心中不可名言的圣爱;望我们所献的、成为中悦祢的礼品,并成为补赎我们罪过的代价。因我们主……。
Prefacium Sacratissimi Cordis Iesu The Preface for The Feast of The Sacred Heart 聖心の序誦 耶稣圣心的颂谢引
VERE dignum et justum est, æquum et salutáre, nos tibi semper et ubíque grátias ágere, Dómine sancte, Pater omnípotens, ætérne Deus: Qui Unigénitum tuum in cruce pendéntem láncea mílitis transfígi voluísti: ut apértum Cor, divínæ largitátis sacrárium, torréntes nobis fúnderet miseratiónis et grátiæ, et quod amóre nostri flagráre nunquam déstitit, piis esset réquies et pœniténtibus patéret salútis refúgium. Et ídeo cum Angelis et Archángelis, cum Thronis et Dominatiónibus, cumque omni milítia cœléstis exércitus, hymnum glóriæ tuæ cánimus, sine fine dicéntes: Sanctus... IT is truly meet and just, right and for our salvation, that we should at all times and in all places give thanks to Thee, holy Lord, Father Almighty, eternal God: Whose will it was that Thine only-begotten Son, while hanging on the cross, should be pierced by the soldier’s lance: that the Heart thus opened should, as from a well of divine bounty, pour over us streams of mercy and of grace: and that the Heart which never ceased to burn with love for us, should be for the devout a haven of rest and for the penitent an open refuge of salvation. And therefore with Angels and Archangels, with Thrones and Dominations, and with all the hosts of the heavenly army, we sing a hymn to Thy glory, evermore saying: Holy… 聖なる主、全能の父、永遠の天主よ、われらが、いつも、どこにても、主に感謝を捧げるのは、実にふさわしく正しいことであり、われらの義務と救いである。御身は、十字架にかかり給う御独り子が、一人の兵卒の槍に突き刺されることを許し給うた。それは、天主の御寛仁の聖所であるその開かれた聖心が、われらの上に御あわれみと聖寵との流れを注ぎ、われらに対する愛に燃え続け給うその聖心が、善人の憩いの所となり、痛悔する者の救いの避難所となり給うためであった。故に、天使、大天使と共に、座天使と主天使と共に、また、天の万軍と共に、われらは、きわまりなく、主の御光栄の讃歌を歌い続けよう。聖なるかな、… 主、至圣的父、全能永生的天主,我们时时处处颂谢祢,是正而必的,属于我的,也属我得救的。祢曾欲祢的独子身苦架之,受了兵丁矛的刺透,使此大开了的心即天主博施的圣所、湧泄祢仁慈和恩的激流;也使此无或息燃火的心,对热诚者成安息之所,对忏悔者敞开救之门。为此、我们随同诸位天神、总领天神、上座者和宰制者以及天上万军、合唱光荣祢的圣歌,无穷期地说:圣、圣、圣……。
Communio Ioan. 19:34 Communion : John 19:34 聖体拝領誦 : ヨハネ 19:34 .
UNUS míitem láncea latus ejus apéruit, et contínuo exívit sanguis et aqua. ONE of the soldiers with a spear opened His side, and immediately there came out blood and water. 一人の兵隊が、槍で御脇腹を突いたので、すぐ、血と水とが流れ出た。 有一个兵、拿枪刺开了祂的肋旁,立时流出了血和水。
Postcommunio Postcommunion 聖体拝領後の祈 领后经
PRǼVEANT nobis, Dómine Jesu, divínum tua sancta fervórem: quo dulcíssimi Cordis tui suavitáte percépta, discámus terréna despícere, et amáre cœléstia: Qui vivis et regnas cum Deo Patre, in unitáte Spíritus Sancti, Deus, per ómnia sǽcula sæculórum. MAY Thy holy mysteries, O Lord Jesus, impart to us divine fervor: wherein we may taste the sweetness of Thy most loving Heart, and learn to despise what is earthly and love what is heavenly: Who livest and reignest with God the Father in the unity of Holy Ghost, God, world without end. 主イエズスよ、この聖なる秘蹟によって、われらの厚い信仰心を起こさせ、優しい聖心の甘美さを味わわせ、地上のことを軽んじ、天を愛することを教え給え。聖父なる天主とともに、聖霊との一致において、世々に生き且つ治め給う天主よ。 主、耶稣,祈望祢的圣事、赐给我们神圣的爱火;望我们尝到了祢圣心甘怡的挚爱,因而学得轻看世物、但爱天上之事。祢和天主父……。

秋田巡礼-霊的講話【5】-2018年5月4日シュテーリン神父様「新近代主義者はファチマをどのように歪曲化させたか」

2018年06月10日 | お説教・霊的講話
2018年5月4日 秋田巡礼 シュテーリン神父様霊的講話【5】
「新近代主義者はファチマをどのように歪曲化させたか」
同時通訳:小野田圭志神父


ファチマのマリア様の御出現があった所のみならず、ファチマのマリア様の御像によって、全世界に奇跡があったという話を申し上げました。

マリア様の元に近付いてマリア様にお祈りする人は全て、数え切れないほどのお恵みを頂きました。マリア様の元で回心して、そして聖人となる事はどれほど簡単か、という事をお見せになりました。

このマリア様が訪問される所では人々に、何百万人の人々に、心の平和を与えました。崩壊した家庭をもう一度1つにまとめたり、小教区ではその数を増やし、そしてその熱心を更に増しました。

でも皆さんは仰るかもしれません、「あぁ、これは昔の話であって、歴史の話で、1960年代に起こった事だ。でも今はもうそれは昔の話で、今はその事はどこにもないじゃないか、どうなっているのか。」

「ファチマ」というのは「戦いの場所」です。なぜかというと、マリア様がご自分のかかとで蛇の頭を砕くとすると、蛇はそれに対して抵抗して、マリア様に害を与えようと色んな事をするからです。

悪魔のそのしもべと言うか道具は、「フリーメイソン」と、そして「共産主義」です。たとえ共産主義の勢力がどんどん伸びて、フリーメイソンがどんどん栄えたとしても、マリア様が現れるだけで、それをストップさせるに十分でした。マリア様の小さな御像が現れるだけで、何百年も栄えていたフリーメイソンの支配が終わってしまいました。

しかしフリーメイソンと共産主義の別の敵が、更に悪い敵がありました。聖ヨハネは黙示録の中でこの事をはっきり書いています、「悪魔の仕事は働きは、反三位一体である。サタンというのは『竜』である」と言います。「そしてこの竜には2つの獣がいる。」

最初の獣は、黙示録によると「政治的な権力」として描写されています。「全ての民族、全ての言語、全ての人々は、この獣のイデオロギーに身を染めて、それに支配される」という事が書かれています。

では悪魔の公教要理とは何でしょうか?悪魔の要理というもの、教えというものは2つの文章です。これが悪魔のイデオロギーです。まず第1は、「私は従わない。私は奉仕しない。」悪魔は天主の権威を否定します。そして第2の文章は、「お前たちは天主のようになる。」

イエズス・キリストの否定であり、私たち人間の高揚です。イエズス様への叛意、王座から引きずり下ろす事、そして人間の尊厳の高揚です。人権の宣言。そしてこの政治的な獣のしもべは、フリーメイソンとそして共産主義です。

しかしこの獣といえども、婦人には勝てません。

そこで第2の獣が出てきます。第2の獣は、黙示録の中でよく何度も「偽りの預言者」として出てきます。つまり「霊的な、宗教的な権力」です。「見た感じ、見かけは羊のように子羊のように見えるけれども、しかし話す言葉は獣のように話す。」

つまり、外見はキリスト教の外見を取っています。外見上は天主の子羊であり、イエズス・キリストの形を取ります。しかしその教えは竜の教えです。その教えは、「私たちは天主の掟から解放されていて、そして人間の尊厳は全てに優って素晴らしい。」

聖ピオ十世、私たちの修道会の守護の聖人は、この第2の獣について既に告発しています、「私たちの敵は既に、私たちの中にいる」と。教会を近代化現代化しようとする人々、つまり近代主義者たちは、教会の教えを現代のイデオロギーに合わせようと、教会の教えを変えようとしています。

聖ピオ十世は、この近代主義の動きを断罪しました。しかし聖ピオ十世教皇様が亡くなり、第一次世界対戦の悲惨な状況があり、教皇様たちはどうやってこの近代主義者たちがまた元に戻っているかという事をよくはっきり見る事ができませんでした。近代主義は、その自分の持っているイデオロギーがどれほど酷いものか、のみならず、教会の中に浸透するそのやり方も非常に巧妙なものでした。

そのやり方というのは、「キリスト教、最もキリスト教的だったものを、全く変えてしまう」という事です。「私たちの宗教は、客観的に、私たちの心の外にある、三位一体から教えられた啓示」ではなく、そのカトリックの教えを、「自分の内面から来る、自分の宗教的な感情」に変えてしまおうとしたのです。

例えば、ある時アラビアに住む人の、ある時の宗教的な感情はアラーになった。あるいは中国においては、中国の人は神秘的なものについてのイメージが仏教になる。そして別の所では、ある宗教的なリーダーはイエズス様だった。

近代主義によれば、こうやって説明して、「宗教というのは、外から来るものではなく、人間の内側から来るものだ」と間違って教えました。

そしてその近代主義によると、「人々は変わるので、しかし時代が変われば宗教に関する概念も変わって当然ではないか。16世紀の人たちは地獄とか煉獄とかという事を言っていたけれども、今ではそれは通用しない。その地獄とか天国とか火で燃やされるというのは、16世紀の時代には通用した考えだ。しかし21世紀の現代の宗教は、もっと別の形を取るべきだ」と近代主義は言います。「だから21世紀の今の人の心に合うような、内側に合うような宗教に変えなければならない」と近代主義は言います。

聖ピオ十世教皇様は、このような間違った、近代主義の教えはどうして間違っているか、最初から最後まで詳しく説明して、「邪悪である!」と断罪します。

フランスの方はいらっしゃいますか?フランスは最高なものです。めでたしのお祈りをフランス語だけは、「『私は』あなたに挨拶します」と、「私」という言葉を付けて翻訳しました。もちろんフランスはルフェーブル大司教様、そして多くの大聖人を生み出しました。

しかしフランスは最高の国ですけれども、非常に悪い人々も生み出しました。フランスから近代主義が生まれて来ました。そして近代主義は、フランスから教会の中に浸透しますが、どうやったのでしょうか?教皇様によって近代主義が排斥された時、やり方を変えました。

彼らは教会の中に戻る時に、隠れて戻りました。見かけは非常に敬虔な人です。しかし隠れたサークルの中ではミーティングの中では、近代主義のを教えを書いていました。

聖ピオ十世教皇様は、その「間違ったイデオロギー」と、その「非常な邪悪なやり方」について、2つを発見して、その両方共を断罪しました。そしてこの人たちを、神学校や重要な地位から取り除いて、全てのカトリックの聖職者たちに、「反近代主義の宣誓」をさせました。

次の後継者の教皇様たちは皆、反近代主義者たちでした。「教え」についてはそうでした。しかし、この近代主義者たちがどうやって教会の中に浸透するか、というその「やり方」については注意深く警戒しませんでした。そこで密かな間に隠れて、近代主義者たちが、そうと知らせずに重要な地位を取って占めてしまいました。

ピオ十一世教皇の時代にそうでした。見かけは敬虔で、一生懸命熱心で、それで厳格な司祭、あるいは修道者、あるいは枢機卿様でしたが、しかし隠れて新近代主義の教えを広めていました。そしてそのような人たちは皆フランスにいました。

その内の1人は、フランス人でテイヤール・ド・シャルダンと言いました。このテイヤール・ド・シャルダン神父は、フランスの青年たちを魅惑しました。またフランスのそのような近代主義者たちは少しずつ、フランスの神学校の教授、あるいは大学の教授になっていきました。

ピオ十二世教皇様の時には、そのような近代主義者がもう色々な所での地位を占めていきました。そこで昔のままの近代主義ではなく、それにもうちょっとカムフラージュを付けて、ちょっと混ぜこぜになった「新近代主義」を教えていました。

そしてこの近代主義者のサークルの中で、ファチマの専門家となる人もいます。この人は特別に素晴らしい神学者というわけではなかったのですけれども、アンリ・ド・リュバック、あるいはイーブ・コンガールというフランス人の近代主義者の神学者たちの影響を受けた弟子でした。

この今申し上げるファチマの専門家の近代主義者は、フランス人で、ベルギーにいました。1962年、第二バチカン公会議が始まるその年に、この人はグレゴリオ大学、ローマのイエズス会の大学の学長になります。そしてこの男は、近代主義の原理をファチマに適用させます。

この近代主義によると、「ファチマというのは、マリア様が客観的に外から、私たちに天国から教えてくれたのではなくて、3人の子供たちが心の中で感じた、マリア様に対する感情を表したものだ。」だから、その感情は時によって変わるから、ファチマ1とファチマ2に分けました。ファチマ1によると、「子供たちはマリア様とお会いして、マリア様はどうだ」という事です。ファチマ2は、そのファチマ1を見た後に、「ファチマ1の後にシスタールチアの中にあった感情がどのように変化して、どのように解釈したかだ」と言うのです。

もちろん、ファチマで起こった事はシスタールチアによって私たちは知らされました。そのこの近代主義の司祭によると、「だからファチマでの事は、シスタールチアが自分の感情を書いた手記によるものなので、シスタールチアもちょっと、あまり知的に優れた人ではなかった。」

例えばこの司祭によると、地獄のビジョンについてこう解釈します。この司祭によると、近代主義の原理を応用して、「あぁ、地獄のビジョンというのも、あぁきっとルチアが地獄についての中世の本をこう読んで、その事を夢でもって、そして『マリア様だったらこういう風に言うだろう』という事を、『マリア様は言った』と書いたのだろう。」

この司祭は1945年に、自分の仮説を書いて提示します。

そうするとピオ十二世はこれを読んで、「No、No!」と言ってこれを排斥します。そしてその当時のファチマの専門家たちが、「これは最初から最後まで全部間違っている。」そしてファチマの専門家たちは、「神父様、もしもそんなような事を書くならば、ファチマに行って、シスタールチアと話して下さい、直接。シスタールチアがあなたに説明しますから。」

しかしこの神父様は、ファチマにも行きませんし、シスターとも話をせずに、誰とも話をせずに、自分の頭の中で、ファチマの話の本を書いて出版しました。

すると同僚の近代主義の司祭たちは、「あぁ、素晴らしい本だ!」と言って、この本を賛美します。

それがこの結果が、悲惨的な結果がローマで起こりました。この司祭はダニスというのですけれども、なぜそのような事が起こり得たのか、一体なぜかその理由はよく分からないのですけれども、1952年、突然ピオ十二世教皇様は、このダニス神父とその周りの人たちの影響を受けて、ファチマに対する態度を変えてしまいます。その時からピタリと、ファチマについて一切話す事をやめてしまって、死に至るまでファチマの事について口を閉じます。

ピオ十二世教皇様がたとえファチマについて話さなくなったとしても、マリア様の巡礼は、マリア様のご訪問は世界中に繰り広げられていて、多くの枢機卿、司教様、司祭たちはその為に多くの恵みを受けていました。

そしてその5年後、1957年、第3の秘密がピオ十二世教皇様の元に届けられますが、それを開けて見る事を拒否したのです。金庫の中にそれを入れました。その翌年、教皇様はそのファチマのメッセージを、第3の秘密を見る事なく亡くなりますが、翌年58年に、ヨハネ二十三世が教皇様になります。

しかしヨハネ二十三世は、ファチマの事、ファチマの御出現、ファティマの秘密、汚れなき御心への奉献、ロシア、一切語りませんでした。パウロ六世も同じです。しかしパウロ六世は、ファチマに教皇として行く、初めての教皇となります。

1960年に一体何が、本当ならば第3の秘密が公開されるはずでしたけれど、それについては省略します。1960年には全世界が第3の秘密の公開を待っていました。なぜかというと、シスタールチアによれば、「マリア様は、この年に第3の秘密が公開される事を望んでいる」と仰ったからです。しかし教皇様は第3の秘密を世界に公開する事を拒否したので、ファチマを信じる人々にとっては大きな打撃でした。

別の事がファチマをまたダウンさせました。第二バチカン公会議でした。なぜかというと第二バチカン公会議では、ファチマについて一言も語られなかったからです。たとえファチマの名前がなかったとしても、ファチマでマリア様が仰ったその内容、「これが重要ですよと」いう言葉が語られてもよかったのです。

例えばファチマでは、「多くの霊魂が地獄に落ちている」というマリア様の非常な警告。しかし第二バチカン公会議では、地獄の「じ」の字も、一言も、暗示さえもされていません。

第二バチカン公会議で語らなかったが故に、その後の公教要理、あるいは司祭の、あるいは司教様の教えの中にも、地獄について一切語られなくなりました。

ポーランドで私が働いていた時に、ポーランドの小教区の若い主任司祭たちと会った事があります。この神父様は毎年のように教会で働いて、主任司祭ではなくて助任として、もう毎年のように教会を転々と転任しています。なぜかというと、この神父様は御説教で、「地獄の火」について話すからです。そしてこの神父様は司教区の問題であって、司教区の外にいる人であって、この人だけが昔の古臭い地獄について話す唯一の人だからです。

マリア様はファチマで、このかわいそうな罪人たちが地獄に落ちないように、その特効薬を、その防御策を与えてくれました。それが「汚れなき御心への信心」です。そして「ロザリオ」です。

しかし第二バチカン公会議では、汚れなき御心への信心も、ロザリオについても語られません。

第二バチカン公会議に参加した教父たちは、司教様たちは、その会議の中に、「ぜひ、『教会のお祈りの1つとして、ロザリオはとても良い祈りだ』という事をテキストの中に入れて下さい」と懇願しました。

しかし、この司教様たちのこの謙遜な熱烈な懇願も受け入れられませんでした。なぜかというと、「『ロザリオ』という事が入ると、分かれた兄弟たち(プロテスタント)の気分を害するから。」

ファチマでは、ロシアの誤謬が広がる「共産主義」について、多くマリア様は警告しています。第二バチカン公会議の時には、ビシンスキー枢機卿様と一緒に300名以上の司教様たちが、懇願の書を出して署名して、「共産主義を公式に断罪するように。『共産主義は非常に危険だ』という事を言うように」と要請しました。

しかしそれは受け入れられませんでした。なぜならば、「この第二バチカン公会議は、排斥する公会議ではなくて、世界に開かれた公会議で、肯定的な公会議でなければならないからだ。」

300名以上の教父たちが、「『マリア様が全てのお恵みの聖寵の仲介者である』という事をドグマとして宣言するように」と懇願しました。しかしこの懇願も要請もお願いも受け入れられませんでした。

「罪人の回心」という事もファチマでマリア様はたくさん話しましたが、これについて一言も第二バチカン公会議では述べられていません。

マリア様が話したのは「真の信仰への回心」です。しかし第二バチカン公会議ではその反対を言います、「非カトリックのみならず、非キリスト教の宗教と一緒に対話をして、そして協力して、良い世界を作ろう」と。

「ロシアをマリア様の汚れなき御心に奉献する」という要求も一言もありませんでした。

マリア様のファチマのメッセージと、第二バチカン公会議の新しい精神とは対立するものでした。

ですから、「第二バチカン公会議とファチマとが矛盾、対立している」という事を見た第二バチカン公会議派の人たちは、ダニス神父の言った、近代主義によるファチマの解釈を非常に歓迎したのです。

そのおかげで、第二バチカン公会議後、ファチマの熱心がますます冷えていきます。パウロ六世教皇様がファチマに行った事が非常に悲惨でした。パウロ六世はシスタールチアと写真は撮りますが、話はしません。パウロ六世はその御出現の場所にさえも行きませんでした。なぜかというと、他の宗教の指導者たちとミーティングがあったからです。ファチマでマリア様が仰った事について一言も言いませんでした。

ですから、第二バチカン公会議の後に、ファチマについて何が起こったのか皆さんよくご理解できると思います。

2つの違った態度があります。

一方で、近代主義やあるいは超(新?)近代主義の人々は進歩主義の人々は、ファチマについて全く語りません。その人たちはファチマについて反対して何か戦おうともしません。むしろファチマを促進するかもしれません。どうやるか知っていますか?

どうやるかというと、ファチマにホテルを造ります。そして世界中の人々を集めて、巡礼団を作ります。そしてそこでお祈りをするようにします、あるいは犠牲を払うように。団体で巡礼を募ります。しかし皆をそこに集めて、そこで近代主義の教えを教えます。

私が最初に第1回目にファチマに行った時に、どこにも、ファチマのどこにも大きなポスターがありました。そしてこのポスターには、手で聖体拝領をしている写真が載っています。「これがイエズス様を感じるやり方だ」と「イエズス様を愛するやり方だ」と宣伝の文句があります。そこでポルトガル人の神父様に聞きました。そこで何と答えたか知っていますか?

するとこの神父様によると、「ポルトガル人は手による聖体拝領は大嫌いだ。でもファチマに行くのは好きだ。そこでファチマに行って、手による聖体拝領を教えられた。」と。

そしてファチマは近代主義によると、「収入源になると同時に、カトリックのメンタリティーを変える良い絶好の場所になる。」

第2のグループは、近代主義ではなくて保守派の人たちの態度です。この保守派の人たちは、司教様とか枢機卿様で、ファチマの事を信じています。そしてファチマをサポートして、支持して、それを推進させます。ブルー・アーミーとか色々なマリア様の運動をサポートします。しかし残念な事に、この保守派の人たちは、ファチマの一番核心のメッセージについて話しません。

例えばヨハネ・パウロ二世です。ヨハネ・パウロ二世教皇様は、マリア様について特別の信心がありました。ヨハネ・パウロ二世教皇様にとってファチマは非常に重要な場所で、何度も巡礼に行きました。しかしヨハネ・パウロ二世教皇様は初土の信心についても、あるいは汚れなき御心に対する信心についても一切、ロシアの奉献についても話しませんでした。そしてロシアの奉献については、特別の解釈を持っていました。暗殺未遂のあった時に、その以前はファチマのメッセージについてあまり関心がなかったのですけれども、暗殺未遂があった後には、メッセージについて非常に関心を持ちました。そして2000年にはヨハネ・パウロ二世はファチマの子供たちを列福します。第3の秘密と言われるものも公開します。一度、人類を天主の御母であるマリア様に奉献する事もします。

この実りは何でしょうか?その実りは、マリア様が一番仰りたいというその核心のメッセージが伝えられずに、いわばマリア様は口を封じられたかのようになってしまったという事です。そこでマリア様は仕事をする事ができなくなってしまいました。

そこでその後にあった作戦はどうだったのでしょうか?これはまだ続いています。つまり保守派によれば、ファチマの外的な目に見えるところや、あるいは第二次的なものが強調されます。例えば御像とか、聖母行列とか、ファチマの世界平和とか、隣人愛とか、子供たちの生活など。そこでマリア様の仰った、一番仰りたいと思った事が沈黙させられて、そしてあるいは歪曲されています。

例えばマリア様が仰った「罪人の回心」という事は横に置かれて、その代わりに「どの人に対しても寛容であろう」というスローガンが言われます。

例えば「ロザリオ」についても、ロザリオについては言われるのですけれども、ロザリオは結局、「聖書を黙想する事」に変えられます。しかしロザリオは「悪魔に対する武器」「この世界を回心させる為の武器」としては、全く一言も述べられません。

「ロシアの回心」についても同じです。ソ連が崩壊してそして鉄のカーテンが無くなった時に、「あぁ、これはファチマのマリア様のおかげで、そして共産主義はもう死んでしまったのだ!」

そうすると私たちの目の前に、ファチマのマリア様について別のイメージが提示されています。

ですからこの世界の歴史、あるいは教会での出来事について、ファチマの目で見る事がどれほど大切であるか分かるでしょうか。なぜかというと、第二バチカン公会議の後には、もうファチマの役割は終わって、マリア様の特別な特権というものについても話されずに、プロテスタントの人たちをあまり傷付かせないように、あまり気を悪くしないような事だけが話されているからです。

しかしマリア様は、既にこの事をよく知っていました。マリア様は目に涙を溜めながら、「彼らは、私の要求を聞き入れなかった」と。その為に、マリア様は悲しいかな、「大きな不幸が教皇様、そして教会に、そして世界に起こるだろう」と予言しています。

マリア様のファチマでのメッセージと、第二バチカン公会議後の新しい方針というものは全く対立しています。第二バチカン公会議の精神が、「素晴らしい」というものを、マリア様は排斥しています、「ダメだ」と言っています。ファチマには、今で言う「エキュメニズム」とか、あるいは「信教の自由」というものは存在していません。第二バチカン公会議では一言も言わないような事、第二バチカン公会議が無視するような事を、マリア様は「大切だ」と仰っています。

ですからファチマは、今の私たちにとって、「教会の危機というものはどのようなものであるだろうか」という事を見せてくれるものなのです。そこでシスタールチアは、もうその後、第二バチカン公会議後、話す事も書く事も禁止されました。そしてファチマについての最も深い神学者の書いた、例えばジョアキム・アローム神父様が書いた物は、私たちは読む事さえもできません、今。

これがファチマ100年の後半部に起こった事です。ファチマの後半部は多くの衰退がありました。人々は方針を失ってしまって、信仰を失ってしまいました。

では私たちにとって、一体これは何の意味があるでしょうか?

「ファチマの元々のメッセージに忠実であるべし」という事です。もしもそうであるなら、いつの時代にも実りがもたらされます。フィリピンでのミッションツアーを見て下さい。ファチマのメッセージに忠実であればあるほど、私たちの心に平和と光が戻ってきます。家庭は平和であるし、周りの全てはうまくいきます。しかしマリア様のメッセージを無視するならば、暗闇がやって来ます。

そこで、ファチマについてまたもう一度お読み下さい。ファチマこそ、終末の時代の私たちに必要なものです。「さぁ、去年ファチマ100周年をやったので、次の100周年までファチマについて話さない」というのは間違いです。まだファチマではこれからなされるべきという事がたくさん残っています。

「初土曜のマリア様の汚れなき御心の信心」というのは、教会に全世界に広く普遍的に広まっているものではないのです。マリア様の要求した通りに、ロシアが汚れなき御心に奉献されたわけではありません。私のファチマについて書いた3番目には表が載っています。ピオ十二世教皇様からヨハネ二十三世まで、教皇様がファチマのマリア様の奉献をした年と、そのどういう条件を満たしたのか、という事を分析したものですけれども、マリア様の仰った通りになされた事は一度もありませんでした。

そしてこの第3の本の75ページから150ページの間の、75ページの間に、「第3の秘密と言われている、私たちが言っているものは、実はまだその本物が公開されていない」という色々な理由を説明しています。

マリア様は予言します、「教皇様は私の汚れなき御心にロシアを奉献するでしょう。しかしそれは非常に遅れるでしょう」と。

でも私たちはそれを早める為に何も影響力がありませんから、私たちができる事を、あるいは私たちはしなければならない事があります。まず教皇様がロシアを奉献するのを待つ間、私たちも私たち自身を、私たちの家族を、私たちの教区を、マリア様の汚れなき御心に奉献しなければなりません。

今フィリピンでは、ベトナムの独立派の人たちとフィリピンの軍が対立してこう戦っていますけれども、ある将軍は私たちの司祭に、「神父様、私はこの何よりも、この私の配下の軍の軍人たちを、マリア様の汚れなき御心に奉献する事を望みます。なぜかというと、彼らがいつ命を失って、戦いで命を失ってしまうか分からないからです。ですから彼らの為に全てをマリア様に委ねます」と言って奉献しました。「なぜかというと、私の配下の部下たちは、マリア様は彼らを助ける事ができると、守ることができると信じているからです。」

この将軍のように、マリア様を知らせて、マリア様が愛されるようにして下さい。

ファチマでは、マリア様は御出現される度に、「毎日ロザリオを唱えなさい」とお願いしました。「私の汚れなき御心に対する信心をしなさい」と言いました。「初土の信心をしなさい。償いの聖体拝領をしなさい。」マリア様の名誉の為に、世界に何をする事ができるか、という事をファチマで仰って下さっています。

そしてファチマの最初の部分では、宣教師たちは、ファチマでマリア様が一体何を望んでいるのか、何を仰っているのか、詳しく皆に教えました。私がプロテスタントの牧師たちの為に黙想会の間にやった事は、ファチマのマリア様が仰った事を説明する事でした。

まず黙想会の最初の日に、プロテスタントの牧師たちにロザリオを配りました。すると最初の日は、この牧師さんは何か蛇を掴むかのように嫌がって、そしてある牧師たちは「ロザリオはいらない」と言いました。「神父様、私にはプロテスタントの牧師という名誉があります。こういう物に触る事もできません。」

「でも触っても害はありませんよ」と言うのですけれども。「しかもこのロザリオのお祈りをする時に、私たちは聖書のお祈りを使っています。使徒信経の『我は天地の創造主…』というのを祈りますか?」
「はい。」

「天にましますを祈りますか?」
「はい、祈ります。」

「めでたし聖寵…これは祈りますか?」
「いやいや!祈りません!」

「待って、『めでたし聖寵充ち満てるマリア、』これは聖ルカの1章28節にあります。あなた聖書を読んだ事があるのですか?」
「読みますよ!」

「そしたら聖書にある通り祈って下さい。そこで天使祝詞の最初の部分は聖書に載っているので、必ず祈らなければなりません。」

そして結局ロザリオを受け取りました。

そしてプロテスタントの牧師さん達に黙想会の間、「マリア様は誰か」という事を説明しました。皆知らなかったのです。彼らの頭にあったのは、カトリック信仰とは何の関係もない議論で、そして例えば「あぁ、カトリックはマリア様を半分女神のように拝んでいる」とか「カトリックはイエズス様を無視している」とか「救われる為にはマリア様の御像に接吻すれば良い」とか、とにかく何か全然カトリックの教えではないような事を信じていました。


そこでマリア様についての話をすればそれほど、深く理解していきました。そこで牧師さんたちに、「さぁ友人の皆さん、皆さんはご自分をマリア様に奉献しなければなりません」と言うと、私の方を見ました。

「でも友人の皆さん、牧師さん達、イエズス様は30年間何をなさいましたか?ルカの第2章を読んで下さい、『イエズスは、彼らに従っていた。』つまりイエズス様は、マリア様とヨゼフの子供として、この2人の言いつけのままに従っていた、という事で、自分の事は自分の思い通りはしなかったという事です。ヨゼフ様が亡くなった後には、マリア様の言いつけの事だけをしていた、という事です。イエズス様ほどマリア様に従順だった子供はありません。」

「イエズス様は何と仰いましたか?『私は、お前たちの為に模範を残した。それはお前たちが私のやった事をする為だ。』イエズス様ほどマリア様に奉献された人はいません。そして聖書によれば、イエズス様は御自分がなさったようにお前たちもしなさい、と言っています。」

すると、19名のプロテスタントの牧師たちの黙想会をしましたが、その時の様子を映画で撮っておけば良かったです、こう目を大きくして、目を大きくして互いに目を合わせて。

毎晩ロザリオを唱えたのですけれども、最初の頃から、1日黙想会が進むにしがたって、声が大きくなっていきます。最初の日はロザリオを私1人で唱えていました。第2日目は1人か2人が答えました。第3日目はちょっと声が大きくなりました。最後の日には、大きな声で一緒になって、プロテスタントの牧師さん達がロザリオを唱えていました。そして最初ロザリオを受け取らなかった牧師さんは、後には、どこに行くにもロザリオを付けてお祈りするほど変わっています。

そして黙想会が終わった後に、ある牧師さんが立ち上がって、目に涙を溜めて、「私たちは本当に愚かだ!私は、私たちにお母さんがいらっしゃる事を発見した!お母さんのない家族などない!この黒い服を着た鳥から、私はお母さんを学んだ。私の母を愛して信頼するべきだという事を学んだ。そして私のプロテスタントのこの教区の信徒にとって、これこそが私たちの母に行く道であり、武器だ!」と。

15年前にこうやって始まったこの黙想会ですけれども、カトリックへと道を今準備しています。

ですからたとえ相手が、プロテスタントとか、あるいはマリア様を否定するような人だと言ってても、心配しないで下さい。不思議のメダイ、ロザリオを与えて下さい。

今日の拷問はこれで終わります(^^)

秋田巡礼-霊的講話【4】-2018年5月4日シュテーリン神父様「マリア様は、この世界に本当の平和の秩序を与える事ができる:マリア様がファチマでなさったこと」

2018年06月09日 | お説教・霊的講話
2018年5月4日 秋田巡礼 シュテーリン神父様霊的講話【4】
「マリア様は、この世界に本当の平和の秩序を与える事ができる:マリア様がファチマでなさったこと」
同時通訳:小野田圭志神父



平和の象徴として色々なものがありますが、1つには鳩があります。ノアが方舟の中で、洪水が終わったのかどうかという事を知る為に鳩を放した時に、「鳩は緑の葉っぱの付いたオリーブの枝を持って来た」ので、その時から平和のシンボルとして使われます。

昨日私たちは、ポルトガルという国において、マリア様が非常に短期間の間にキリスト教的な平和をもたらした、という事を見ました。

ではポルトガルの人々は、どうやってファチマのマリア様と接触をしたのでしょうか?2つのやり方でした。

まず第1には、「巡礼」でした。毎月13日に、ポルトガルの人々はファチマに巡礼にやって来ました。

もう1つは、「マリア様の御像が訪問した」という事です。

御出現の数年後、ある司祭は、「私たちがマリア様に行くと同時に、マリア様にも私たちの所に訪問してもらおう」というアイデアを持ちました。マリア様の御像はファチマを出て、色々な各地をご訪問して回りました。ポルトガルのみならず、マリア様の御像は世界中を訪問しました。

2年前、私たちはこの小さなマリア様の御像が村々に入って訪問した時に、家庭に入って訪問した時に、どれほどの事をする事ができるか、と想像する事もできませんでした。ポルトガルの村々はマリア様の御訪問によって、全体が、全く道徳的に回心しました。

マリア様は、その他の奇跡も行いました。これは鳩の奇跡です。多くの御像には、マリア様の足元に鳩が付いているものがあります。この奇跡は、最初にマリア様がファチマからリスボン(ポルトガルの首都ですが)に行くまでに起こりました。リスボンの大司教である枢機卿様ご自身が、この奇跡について語っています。

どこからともなく、知らない鳩が、マリア様の御像の所に留まって来たのです。マリア様の足元の所に座って、そのままじっとしています。一羽ではなくて数羽。その巡礼者が「シッシッ!」と言って、鳩を追いやるのですけれども、また戻って来るのです。

普通、ちょっとした雑音とか音を出すと、鳥は恐れてどこかに行ってしまいます。マリア様の御像の前で、色んな歌とか、音とか、色んな事をするのですけれども、鳩はそのままマリア様の足元にずっと留まっているのです。

特にこのポルトガルでは、御聖体に私たちがよくするように、花の花びらを集めてマリア様の所にふりかけるのです。すると毎日のようにこの鳩は、花びらのシャワーを浴びていたのです。でも動こうとしません。

12月、非常に気候の寒い時、12月の寒い気候の間に、何百キロとマリア様と共にこの鳩はずっと付いて、留まって、歩いて行きました。この普通では考えられません。同じ事が、ポルトガルだけではなく、他の国々にも起こりました。

それでその鳩を追いやろうと色々試みるのですけれども、できません。必ず戻ってきます。そこである人は研究しました。分析をして、「一体どこの国で鳩が現れたのか、どこの国で現れなかったのか」すると鳩は、カトリックの国で現れたそうです。大多数がカトリックでない所では、鳩は現れなかった。

もしも私たちがこの事を解釈するならば、この「鳩」というのは「平和のシンボル」ですから、「マリア様は私たちの霊魂、家族、国に平和を、御自分の平和を与えたいと思っている」という事です。

ポルトガルだけでも、ファチマがどれほど重要か、という事を理解するのに十分ですけれども、しかしこの秋田の巡礼に来られた皆さんが、巡礼に来た実りとして、ますます大きな信頼をマリア様に寄せる事ができる為に、この話をしたいと思います。

ファチマの御出現から今現在まで、100年経ちました。この100年を2つの部分に分ける事ができます。御出現の直後の50年と、その後の50年に分ける事ができます。

最初の50年は、ファチマのマリア様の凱旋でした。まずピオ十二世教皇様がご自身でなさったこのファチマのマリア様の祝福の為に、多くの実りがありました。ご自分自身の事を「ファチマの教皇」と言っていました。

5月13日の最初のファチマの日に、実はローマでピオ十二世教皇様は、司教様として聖別されていました。第二次世界大戦の間、「この戦争を終わらせる為には、マリア様の汚れなき御心に奉献しなければならない」という事を知っていました。このピオ十二世教皇様がなさった汚れなき御心への奉献は、世界中にファチマのマリア様の事を知らしめました。教皇様は世界中の司教様たちに、また司祭たちに、「教皇様ご自身と心を合わせて、この奉献をするように」と招いていました。

私たちの聖ピオ十世会の『CHRISTIAN WARFARE』というお祈りの本には、このお祈りが載っています。とても美しいお祈りです。この聖別のこの奉献の祈りによって、教会の中に大きな霊的な刷新が行なわれました。それはロシアの奉献ではなかったのですけれども、「全世界と教会を、マリア様の汚れなき御心に奉献する」という事でした。

その奉献が終わった数年の後の、教皇様の書いた回勅、あるいは教皇様の指導、あるいは教会での発展というものは、目を見張るものがあります。 その教皇様のなさったお話や講話や、全集という物がありますけれども、それを読むと教皇様がどれほど多くの実りをもたらしたか、という事が分かります。

第二次世界大戦によって、多くが崩壊されて壊されてしまった只中で、教皇様の指導によって霊的な刷新と、大きな盛り上がりがありました。今でも、私たちがこの霊的な糧として使っている、その時代に書かれた教皇様の書いた回勅は、非常にしっかりとした教義の本、回勅です。その現代に合っている、非常に深い、伝統的な、聖伝に合った、近代主義の誤謬をはっきりと指摘する教えが、その時にその時代に述べられました。

1947年には、聖マリア・グリニョン・ド・モンフォールや、あるいはカタリナ・ラブレを列聖しました。つまりピオ十二世教皇様は、「マリア様のまことの信心、自己奉献、あるいは不思議のメダイは真である」という事を促進したのです。

1950年は聖年でした。 1950年にはこの聖年において、教皇様はその現代における最後のドグマの宣言をしました。「マリア様の被昇天」のドグマが宣言されました。1950年同じ年に、聖ピオ十世教皇様の書かれた物と同じ題に沿った、近代主義を排斥する回勅を書かれました。

マリア様、ファチマのマリア様に対する信心、それを促進させる、皆に勧めている事によって、教皇様はその当時、全世界に光り輝く指導者となりました。教皇様としてのその使徒職を通して、多くの人々がマリア様とイエズス様に近寄ってきました。特にこう新しく結婚した人々に対する講話が有名です。ピオ十二世教皇様のこのお言葉ほど、新しく結婚して家庭を作ろうとする人々に対する励ましのものはありません。

同時に「新近代主義者」と言われる人たちが教会の重要な地位を占めつつありました。しかし、教皇様はそれに抵抗して、「教会の教えはこうだ!」といつも示してきました。

また教皇様は、「教会とは一体何なのか」あるいは「聖伝の典礼は何なのか」という事を教えました。エキュメニズム、「本当のエキュメニズムとは何か」という事も教えました。本当のエキュメニズムというのは、「カトリック教会の元に、多くの人々を呼び寄せる」これが本物のエキュメニズムです。

共産主義も排斥しました。反キリスト教的な運動を全て断罪しました。

ピオ十二世が真の道を進めば進むほど、多くの敵が反対しました。したがって教皇様は、いわば孤独な、一人ぼっちに立たされた教皇様でした。教皇様はバチカンの内部においての裏切りや、あるいは陰謀なども見出しました。その時にすぐに教皇様は、マリア様の元に避難所を見出しました。

これは1952年まで、このように続きました。

ところが、1952年になると、知らない内に信じられない事が起こってしまいました。これがファチマの歴史の第2部が始まる事です。これについては後にお話します。

スペインに話を移します。スペインでは1947年から、スペインの各地をマリア様が回って訪問しました。この情景を見た人は口を揃えて言います、「スペインでは、このような事はかつてなかった。」

マドリッドの司教様はこのように感謝のお礼の手紙をしています、「マリア様の御像が私の司教区に入った途端、人々の霊魂を魅惑した。10万100万の人々のみならず、それ以外の無神論者や、信じていない、信仰を失った人たちをも惹きつけた。信仰を失った人、あるいは共産主義や社会主義の手に入ってしまったような人たちがまた戻ってきた。マドリッドでこのような事を見た事がなかった。」

司教様の話によれば、「全国で国中で、人々の話はマリア様の事だけだった。数え切れないほどの奇跡や、数え切れないほどの回心が起こった。マリア様が御訪問なさった9日間の為に、私の使徒職、25年の司教職を与える、それと交換できる。司祭たちは告解の行列があまりにも長かったので、告解場でほぼ死なんばかりでいた。マドリッドの近郊にある主任司祭は私にこう言った、『15年、20年、30年以上告解に来ていなかった、という人が告解に来たけれども、その告解の人々のそれが40%に上った。』」

1954年には、フランコ将軍によるスペインの国家のマリア様への奉献がなされました。同時に、ローマとスペインの間に政教条約が結ばれて、その条約の中には、「スペインの唯一の宗教は、カトリック教会である、カトリック宗教である」と書かれました。

フランスの話もさせて下さい。フランスではもっと良い話があります。1943年、第二次世界大戦の間、フランスの司教様たちは、各地で自分の司教区をマリア様の汚れなき御心に奉献します。この事を転機として、フランス国内で『大立ち戻り』という名前の運動が行なわれ、天主の元に立ち戻る、これはフィリピンで行なったマリア様の行列のフランス版です。

5年間の間、16000の小教区をマリア様が巡礼して訪問しました。正確に5年の間、60ヶ月の間、40から50名の司祭に囲まれて、マリア様は巡礼しました。一緒にこう付き添った司祭たちは、どこに行っても告解を聞くので忙しくて、自分の時間がありませんでした。それはちょうど17世紀に、聖ヴィンセンシオ・ア・パウロ以来見た事がなかったような、カトリック信仰への立ち戻りがフランス国内でありました。

1947年、マリア様の御像はアメリカに行きます。マリア様がファチマに行った時に、コルゲン神父様と、あとジョン・フェファーという平信徒が『ブルー・アーミー』を作りました。このブルー・アーミーというのは、マリア様の運動の歴史の中で、世界最大のものです。フルトン・シーン司教様というのは有名な司教様ですけれども、マリア様の使徒となって、マリア様の事をアメリカに知らせました。このファチマのマリア様のおかげで、今までアメリカが見た事もなかったような、10万人あるいは何十万人もの人々が、大人が、カトリックになって回心して、洗礼を受けました。

1959年には、ブルー・アーミーの会員は5000万名になりました。1956年には、ブルー・アーミーの本部は、ファチマのアリア様の聖地のすぐ隣に作られました。

1946年以後、ファチマのマリア様の御像は世界中のどこでも行くようになりました。ポ-ランドやフィリピンにも御像が訪問します。47年にはカナダやベルギーあるいはハンガリー、49年からはアジアの各地を回りました。

私の話をします。もう皆さんもうご存知だと思いますけれども、アフリカの宣教師として働いていた時があります。私たちがその宣教を始めたばかりの時に、ある司教様がやって来ました。それはガボンでのミッションを始める時ですけれども、その訪問して下さった司教様はルフェーブル大司教様の教え子でした、それはシリアコ・バンバー司教様でした。ルフェーブル大司教様の弟子、子供たちに挨拶をする為にやって来たのです。

1987年にこの司教様が訪問して下さったのですけれども、その時私は司教様と色々な話をしました。お話の種が尽きそうな時に、私はこんな質問をしました、「司教様、司教様の司祭としての生活の内で、一番素晴らしい出来事は何ですか?」そのお話をした部屋には、小さなファチマのマリア様の御像がやっぱりあったのですけれども、その時の様子をまだ昨日であったかのように思い出します。

すると司教様は、「このマリア様こそ、私の司祭としての一番大きな出来事だった」と言います。

「それは、ファチマのマリア様の御像が初めてガボンにやって来た時で、私はランバレネという村の小教区の主任司祭でした。ランバレネというのは世界中で有名な村で、なぜかというとシュバイツァー博士がそこで働いていたからです。そこでそのランバレネの村では、ほとんどがプロテスタント、あるいは異教徒で、カトリックは本当の少数でした。」

司教様の話によると、マリア様の御像がランバレネにやって来て、2週間留まったそうです。毎晩のように聖母の行列をやったり、あるいはマリアの歌を歌ったり、お祈りをしたりして、色んな事がされました。それで毎日司祭は、「あれ?一体どこからこんなにたくさんの人が来るんだろう?」と思いました。来る人はほとんどがカトリックじゃないのです。プロテスタント教区の教会から来る人や、あるいは信仰のない人、異教徒の人がやって来ます。プロテスタントの牧師さんが、「あっちに行ってはいけない!」と言うのですけれども、皆行っちゃうのです、マリア様が引き寄せてしまいました。

私の前の司教様は目に涙を浮かべて、「私は司祭としてこのような事を見た事がなかった。1日前、めでたしの『め』の字も言うのを拒否したこのプロテスタントの人たちが、マリア様の歌を歌って、讃美歌で『マリア様は素晴らしい!』と、皆で声を合わせて大きな歌を歌っているのです。いくらお願いしても、教会の中に足を一歩も踏み入れる事を拒否したような異教徒たちが、教会の中に入ってマリア様を讃美している。」ですから、司祭と神父様が教会に入る事さえも、最後には入ることさえも難しいような人だかりになってしまいました。

その年の終わりには、カトリックの人口がプロテスタントよりも上回ったそうです。他の年よりも洗礼の数が10倍に増えたそうです。ちょうどマリア様が磁石でこう引き寄せたように、今私が言う事を誰も信じないかもしれませんけれども、私も信じられない事が起こりました。

その前は本を書いたり、色々討論をしたり、プロテスタントの人たちに説得したりしましたが、何も起こりませんでした。でも今回は、何も仰らない小さなマリア様の御像を置いただけで、人々が集まってきて回心しました。

私はその話を昔、司教様から直に聞きました。その後に色んな証言を読んで、世界中どこでも同じ事が起こった、という事が分かりました。

ちょうど1年前、フィリピンで同じ事が起こりました。ファチマのマリア様の御像をとって色々な所を訪問して回りました。有名な「マリア様のミッションツアー」というものです。

もしも私たちがその所に行ったとしても、挨拶もしません、全く私たちは無視されて当然の存在です。フィリピンで不道徳がもう各地に這っています。「私たちが巡礼をしてまわったら、もしかしたらマリア様を知っている人が、少しは気にかけるかもしれない」と思って始めました。

私たちがこう始まって2つの町、2つ目、3日目の村を行った時に、村長さんとか市長さんとか、あるいは学校の校長先生とか、色んな所の人が、「マリア様、ここを訪問して下さい。ぜひこっちに来て下さい」とお願いをされました。この村や町や地域や学校を、聖母の汚れなき御心に奉献するのです。

イロイロではこんな事がありました。ダニエルス神父様はこういう話をしてくれました。

県庁知事に当たるような方ですけれども、1つの州のそこのガバナーと言いますかトップの人に、神父様が、「どうぞこの州を地方をマリア様に奉献なさって下さい。どうしたら良いかというと、このお祈りをすれば良いのです。」といいました。

「え?このお祈りちょっと見せて下さい」と言って、この祈りを見ると「あぁ、このお祈りをする事はできない。なぜかというと、『私は、フリーメイソンの回心の為にお祈りします』と言う事は、これはできない。私はフリーメイソンだから。」

ダニエルス神父様はマリア様にお願いしたそうです、「助けて下さい。」

「でも県庁知事、これはあなたの個人的なお祈りではなくて、知事としての公的なお祈りですから大丈夫です。」そうすると知事は、「あぁ、その通りだ。私はしよう。」

このフリーメイソンの知事が、この県の職員が皆マリア様の御像に跪いて、このお祈りをして奉献したのです。

ダニエルス神父様のその奉献式の後で、「カルメル山のマリア様のスカプラリオの着衣式をするのはどうか」と言いました。

県知事は、最後の最後まで最後まで、ずっと立って待っていました。県の職員、皆にスカプラリオをやって、最後に県知事の方にやって来ます。

県知事の前に行った時に、ダニエルス神父様は、「マリア様、助けて下さい」と言ったそうです。ダニエルス神父様は自然に、「これは、マリア様からあなたへのプレゼントですよ。」

すると県知事は目に涙を溜めて、跪いて、スカプラリオの着衣式を受けました。

その後で県知事はダニエル神父様に何と言ったか知っていますか?

「あぁ、私フリーメイソンになっちゃいけないと初めて聞きました。でも私の同じこのフリーメイソン同僚の中には、司教様や神父様もいらっしゃるのですけれども、初めて聞きました。」

もしも司教様や神父様たちがフィリピンに行って、ファチマのマリア様の事を少しでも皆の前に話をしたら、今頃フィリピンは全部がカトリックになっていた事でしょう。

このマリア様のミッションツアーで、この人々が私たちに直接こう言うのを聞かない限り、もしも私たちだけだったらこれはもう信じる事ができない事を、皆さんから聞かされます。

例えば20歳や30歳になる人が告解の時に、「神父様、私のこの前の告解は初聖体の時でした。」聖伝の事も全然知らないし、聖伝のミサも全然知らないし、何も知らない人たちが、マリア様の御像を見て、「あぁ、告解しよう」と思ってやって来るのです。30年から40年の後に初めて告解するケースです。

このマリア様がフィリピンの間を回っている間に、司祭の数が少なかったので、1人か2人の司祭しか一緒に行くことができなかったのです。けれども、その間に約10万ほど不思議のメダイを配りました。それから5万名の方がM・Iに参加しました、会員になりました。 ファチマのマリア様の御出現の後その50年間の間は、フィリピンにこのようにあったように、世界中で信じられないような回心と御恵みがいっぱいありました。

イエズス様が昇天された時に、12人の使徒たちを世界に送りました、「全世界に行って、私の教えた事を教えよ。」

1917年、一体コヴァ・ダ・イリアで何があったでしょうか?貧しい3名の牧童たち、それから貧しい寒村、何もありませんでした。そのこの30年、カトリック世界で最も重要な出来事はファチマでした。世界中からファチマに巡礼者が何百万人と行くようになりました。これを見ると、「マリア様こそ本当の宣教師だ」という事が分かります。

土曜日には司祭はこうマリア様の讃美を歌いますけれども、「あなたはたった一人で、世界中の異端を滅ぼした給うた。」マリア様はたった一人で、近代主義や異端者を信仰に立ち戻らせます。プロテスタントや異教徒をカトリックの信仰にへと引き入れます。

もしも皆さんが30年、40年間まだ告解に行った事がないとしたら、「行くか、告解に行かないか、行くとどうしようか」とそれを決心する為に長い時間かかるかもしれません。ところがマリア様が現れたら、すぐに跪いて、「告解に行こう」と。

ですからマリア様は「力ある童貞」、確かに力ある童貞です。マリア様は必ず奇跡を行われるからです。

マリア様の御出現50年後は、フリーメイソンがますます力を得て、共産主義もますます力を得ています。東欧では全く共産主義の手に陥ってしまい、カトリック教会は東欧で迫害さえも受けています。

ちょうどこれは比較できます。16世紀にイスラム教徒が侵入してきた時に、マリア様がそれに打ち勝ったという事。それとそれに打ち勝ったように、ますます力を得ている共産主義やフリーメイソンに、マリア様はいきなり勝って、それを回心させます。スペインやポルトガルであったように、いきなり起こった変化に気を付けて下さい。無秩序や無政府主義から大きなカトリックの秩序に戻る、等という突然の変化があります。マリア様がこの世界中を訪問している間、一体何が起こったのかという事をよく調べて下さい。

この御像を通して、マリア様が私たちの目に見える方となります。あるいは別の言い方をすると、マリア様の御像は、マリア様が本当に現存しておられるという事の目に見えるしるしとなりました。このマリア様の御像が、多くの人々を御自分の元に引き寄せたのです。

ほとんどの場合、マリア様が引き寄せた人々は、信仰を失った人、信仰をしていない人たちでした。もしも私たちが宣教師として誰かをカトリック教会に招待しよう、あるいは信仰をするようにと何とか説得しようという時には、どれほどの努力が必要でしょうか。でも人々は知っています、「マリア様はお母様だ。」

たとえマリア様に引き寄せられたとしても、まだこの人たちは罪の状態にあります。ところが、この人たちがその元にやって来ると、マリア様はこの人たちに語りかけます。聖歌を通して語りかけます、あるいはこの御像を通して、マリア様が仰った言葉、あるいはなさった奇跡などについて語りかけます。以前の偉大な宣教師たち、現代の偉大な宣教師が、マリア様がなさった事を皆さんに説明します。

ところが悲劇は、マリア様の仰った事、あるいはマリア様が何を仰ったかという事を語らない事です。マリア様はご自分の子供の事をよく知っています。マリア様は子供が目に見える何かを必要としている事を知っています。目に見えるものを通して、目に見えない天国の事に惹かれるのです。もしもマリア様が涙を流さなかったとしたら、誰も山の中にある修道院の事やこの御像の事について知りませんでした。

ですからマリア様の御像が訪問する時に、ファチマで何をなさったか、何を仰ったか、という事を皆さんに語りかけます。特に、「御自分の汚れなき御心を私たちに見せた」という事について教えてくれます。一歩一歩、マリア様は天主様の恵みを世界に、世界中に伝えるのです。

マリア様は昔からそれをなさっています。聖ドミニコの時代から、ロザリオを通してなさいました。それはマリア様を通して、マリア様と一緒に天主様にお祈りする、という事を教える為です。聖シモン・ストックを通して、茶色のスカプラリオを与えて下さいました。母親として私たちに服を着せて、悪から守って下さるのです。聖カタリナ・ラブレを通して、マリア様は不思議のメダイを下さいました。 M・I が無原罪の聖母の騎士が使う、あるいはブルー・アーミーが、あるいはその他レジオ・マリエが使う道具を使って、私たちに回心をして下さいます。

では、ファチマはなぜそれほど特異な特別な存在なのでしょうか?なぜかというと、マリア様の私たちを愛する御心を示して下さったのが、ファチマだからです。他の御出現はマリア様と一緒にマリア様を通して何をするかを教えてくれます。でもファチマはもっとです。なぜかというと、ファチマではマリア様はご自分の心を、御心を私たちに下さるからです。ファチマ以上の事をマリア様は下さる事はできません。なぜかというと、もう御心で全ての事を私たちに下さっているからです。

ですから、この謙遜な単純なファチマのマリア様の御像が、多くの人々を引き寄せます。ここで私たちは今、平和の元后としてのマリア様を黙想しようとしています。マリア様は本当にファチマで平和の元后として現れました。ある個人が、あるいは家庭が、あるいは団体が、あるいはある国が、マリア様に忠実であろうとする限り、マリア様はそこに良い香りを残して置かれます。

「平和」という事について主題を戻すと、昔、かつて教会には、「キリスト教世界」と言われる時代がありました。キリスト教世界というのは、キリスト教の秩序の事であって、法や世界的な構造が、キリストに全て向かっていた、秩序付けられていた時代の事です。これは黄金の中世の時代でした。

しかし後にそれは失われてしまいました。プロテスタント、あるいは世俗主義というものが入って来て、そのキリスト教世界を崩壊してしまいました。そこでカトリックの国家というのはもはや残っていません。

しかしマリア様がお現れになると、そこではキリスト教の世界がまた復興して、その秩序がまた戻ります。ポルトガルがそうでした、スペインがそうでした。その世界の基礎は、天主の十戒であって、その王は、王たるキリストです。マリア様はもう一度、イエズス様をその玉座につけるのです。そうすると、イエズス様が王として君臨するやいなや、その団体はその国家は栄えます。

ポルトガルを見て下さい。ポルトガルは本当に多くの人々が貧しくて、貧困でした。まず海岸端に住んでいたのは漁民です、お魚を釣って生活する人。また農民は農業をするのですけれども、土地は非常に痩せていて、ほとんど作物が取れません。しかしサラザール大統領のキリスト教的な立法のおかげで、この人たちが相互に助け合って生活する事ができるようになりました。

マリア様は、この世界に本当の平和の秩序を与える事ができます。しかしこの本当の平和が来る為には、イエズス様が王として認められなければなりません。イエズス・キリストが無い、マリア様の無い平和というのは必ず失敗します。ですから世界の平和を推進させる為には、一番良い方法は、皆さんが無原罪の聖母の騎士となって、マリア様を多くの人に知らせるという事です。

15分と10秒の休憩を入れます(^^)


第五部 内的生活をいとなむための若干の原理と意見 (続き13)【ドン・ショタール著「使徒職の秘訣」】

2018年06月08日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

恒例のドン・ショタール著「使徒職の秘訣」L'Ame de tout apostolat
第五部 内的生活をいとなむための若干の原理と意見(続き13)
をご紹介します。山下房三郎 訳を参考に、フランス語を参照して手を加えてあります。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


第五部 内的生活をいとなむための若干の原理と意見


三、典礼生活こそは、わたしの内的生活を、したがって、使徒職を生かす源泉である

(Ⅴ)典礼生活の実行(2/2) 

(c)典礼の務めは、どのように果たさねばならないか
 ああ、わが天主よ、典礼の務めをりっぱに果たす、ということは、あなたの大きな恩寵のおかげです。「全能であって、慈悲ふかい天主よ、主の信徒がふさわしく、ほむべき奉仕をなしえますのは、ひとえに主の恩寵によるのです」(聖霊降臨後第十二主日の集禱文)
 主よ、典礼の務めをりっぱに果たす恩寵を、どうぞわたしにもお恵みください。わたしは典礼の務めを果たしているあいだ、天主の“礼拝者”として、いつまでもとどまっていたいのです。“礼拝”という言葉こそは、典礼の務めを完全に果たすための、すべての様式を、みごとに集約しています。
 わたしの意志は飛躍して、わたしの心を高く天主の稜威(みいつ)のまえに運び、いつまでも、礼拝のうちに、そこにとどまらせます。わたしは、典礼の務めを完全に果たすための全要領を、三つの言葉――「ふさわしく」「注意して」「信心ぶかく」――のなかに、集約します。そして、「主よ、わたしのくちびるを開きたまえ」の祈りこそは、わたしが典礼の務めを果たす間に、どんな態度を保っていなければならないか、わたしのからだ、わたしの知性、わたしの心は、どんな態度をとっていなければならないか、それをみごとに、適確に表現しつくしています。
 ふさわしく、聖務にたずさわる。
 つつましい態度。聖務の言葉は、正確にとなえる。重要な部分は、他の部分よりもっとゆっくりとなえる。聖務の規則を、注意して、適確に守る。声も、きめられたとおりに出す。十字架のしるしも、りっぱに、正確にする。定められた箇処では、正確にひざまずく、などなど。――このようにして、主よ、わたしの“からだ”は、いま自分がだれとお話をしているのか、自分はいま何をお話しているのか、ということをハッキリ、人にもわかるようにふるまうのです。このようにして、わたしはどれほどすばらしい使徒職を、発揮することができるのでしょう。そればかりか、外部の態度の謹厳さによって、わたしの“心”も、必然的に、内部のつつましさにさそわれていきます。
 地上の国王らの宮廷においては、いちばんつまらない侍臣ですら、自分にあてがわれた仕事がどんなに、いやしいものであったにしても、これを最も光栄ある役目だと思い、知らぬ間に、重々しくいかめしい態度で、その仕事をりっぱに果たすではありませんか。わたしも、自分の典礼の務めを果たすときには、かれらに劣らぬ高貴な態度をとり、いかめしい威厳を発揮できないということはありません。そのためには、霊魂の礼拝にぬかずく態度を、からだの謹厳にみてる風格を、そのまま外部に表わせばよいのです。ましてや、わたしは、王らの王、稜威(みいつ)きわまりなき天主の侍従なのですから!
 注意して、聖務にたずさわる。
 典礼のなかには、わたしの霊魂のかてとなるりっぱな言葉や儀式が、豊富に盛られている。わたしの心は、そういう霊の宝を集めるために、懸命に努力しなければならない。
 それで、わたしは聖務の“言葉の意味”に、注意を集中せねばならぬ。わたしは、一句一句を、注意してとなえる。聖務を、口でとなえながらも、心では特に深い印象を受けた語句について、長く黙想する。他の語句について、また同じように強い印象を受けるまでは、それを続ける。とにかく、聖ベネジクトがいっているとおり、わたしも「精神を、くちびるがとなえる所に一致させる」(『戒律』の言葉)ように、努力しなければならぬ。さらに、わたしの知性は、その日の奥義なり、典礼の季節の主要思想について、ふかく考究しなければならぬ。
 だが、知性のはたらきは、意志のはたらきより強いものであってはならない。意志のはたらきは、わたしの霊魂を、天主のみまえに、礼拝のうちにぬかずかせること――この礼拝の態度をいつまでも持続させること、忘れたら再びそれにもどすこと――にあるのだから、この意志のはたらきこそ第一義的であり、知性のはたらきはその次にくるもの、意志のはたらきを助けるもの、その手伝いでしかないのだ。
 放心が、どれほどしばしば起こって、わたしの礼拝の態度をつきくずしにかかっても、わたしはすぐに立ち上がって、この放心を霊魂から駆逐し、また元どおり、礼拝者の態度にかえりたい。――静かに、しかし、強い態度で。主よ、あなたのお助けに信頼いたしますから、静かな、安らかな努力で、それができるのです。あなたのお助けに協力いたしますから、それはあくまでも忠実な、忍耐づよい努力がないなら、とうていできないことです。
 信心ぶかく、聖務にたずさわる。
 主よ、この点が、いちばん大切です。かんじんなのは、“聖務日課、その他典礼のすべての務めを、”信心業“にすること、したがって”心から出る行為“にすることです。
 「性急に果たすのは、信心の死滅」(聖フランシスコ・サレジオの言葉)です。聖務日課をとなえるにさいして、ましてやミサ聖祭をささげるにさいして、聖フランシスコ・サレジオは右の格言を、自分の“原則”にしました。ですから、わたしも、ミサ聖祭を執行するにあたって、これに半時間をささげましょう。そういたしましたら、たいせつなミサのカノンばかりではなく、その他すべてのミサの部分を、信心ぶかく、熱心にとなえることができましょう。
 ミサ聖祭は、わたしの一日の太陽であり、中心行為であらねばなりません。これを大急ぎで果たすためのすべての“口実”を、わたしはなさけ容赦もなく、排斥しなければなりません。もしわたしが不幸にも、過去のわるい習慣のために、ミサ聖祭のある言葉か儀式を飛ばしている、早口のためにとなえないでいる、といたしましたら、時にはわざとその部分だけ、ゆっくりすぎるほどゆるやかに、となえることにいたしましょう。
 程度の差こそあれ、わたしはミサ聖祭をゆっくり、信心ぶかくささげる、というこの決心を、他のすべての典礼の務めにもおしひろげていきたい決意です。――すべての秘跡の執行にも、聖体降福祭にも、死者の葬式・・・などにも。
 聖務日課を、何時何分にとなえるか、その時刻を、わたしはちゃんと前もって定めておきます。その時刻がやってくる。わたしはどんな犠牲を払っても、いっさいの雑務からはなれる。どんな犠牲を払っても、わたしは聖務日課をとなえることが、心から出るほんとうの祈りであるように、ふかく念願しているのです。

 ああ、イエズスよ、わたしがあなたの代理を努めますとき、または教会の名によって行動しますとき、そのような場合にはいつも、性急に大いそぎで、大切な典礼の言葉をとなえることがどんなに恐ろしいことか、どうかわたしに教えてください。
 大いそぎで果たすことは、偉大な準秘跡たる典礼を、台なしにするのだということを、わたしの心にふかく確信させてください。典礼の務めを、大いそぎで果たせば、念禱の精神が確保できなくなる。そしてこの念禱の精神がなければ、わたしは人の見たところでは、なるほどりっぱな、熱心な、よく活動する司祭ではあっても、あなたの目にはごく冷淡な、不熱心な司祭でしかない、いやそれどころか、わるい司祭でしかない、ということを、納得のゆくまで悟らせてください。ちょっときいただけで身ぶるいするような、それほど恐ろしい次の言葉を、わたしの良心に深くきざみつけてください。「天主のわざを、なおざりに果たす者は、呪われねばならぬ」(イエレミア48・10)
 心が躍動しますなら、信仰の精神によって、聖節において典礼が祝わう、天主とキリストの奥義の一般的意味を、わたしは容易にとらえることができます。そしてそれによって、自分の霊魂を養うことができます。
 このようにして、典礼の奥義の黙想は、わたしにとって、一つの長い法悦となります。信仰と希望、願望と悔恨、献身と愛――これらの心情を、わたしは長時間にわたって、心ゆくまで味わうことができます。
 時には、ただ一回の“眺め”だけで足りることもあります。心の目で眺める、じーっと眺める。―― 一つの奥義を、天主の完徳を、イエズス・キリストのご性格の一面を、教会を、わたしの虚無なることを、わたしの悲惨を、わたしの入り用を、わたしのキリスト信者としての尊厳を、司祭という者の、修道者という者の高い尊い身分を、心の目で眺めるのです。
 この眺めは、たとえば神学研究のときのような、冷やかな、純然たる理知的行為ではなく、意志の滋味を加えた、熱い、うるおいのある眺めです。それはまた、わたしの信仰をふやしてくれる眺めです。信仰以上に、わたしの愛をますます深めてくれる、ますます盛んにもやしてくれる眺めです。
 この眺めは、むろん、至福直観のあわい反映にすぎませんが、しかしそれは同時に、あなたがすでにこの世ながらに、心のきよく熱心にもえた霊魂たちにお約束になったものを、実現してくれます。すなわち、「心のきよい人たちは、さいわいである。かれらは天主を見るであろう」(マテオ5・8)
          *
このようにして、典礼の務めの一つ一つは、わたしにとって、このうえなくありがたい“息抜き”となるのです。なぜなら、多忙な日常生活のいとなみによって、ともすれば窒息しようとするわたしの霊魂の呼吸を、典礼は容易に円滑にしてくれるからです。
 ああ、聖なる典礼よ、あなたはそのいろいろちがった“務め”によって、どれほどかんばしい香りを、わたしの霊魂に放ってくださることか。あなたは、わたしにとって、荷の重い、いやな苦役どころか、かえってわたしの生活を慰めで満たしてくれる、最大の恩人なのです。そうではない、とどうしていわれましょう。なぜなら、わたしはあなたのおかげで、自分は教会の子どもである、自分は教会の使節である、自分はイエズス・キリストの肢体である、聖役者である、この位階はきわめて神聖だ、との自覚を、いつも心に持つことによって、“選ばれた人びとの歓喜なる”イエズス・キリストを、ますます身に着けていくからです。
 イエズスとの一致によって、わたしはこの世の十字架をよく利用することができ、この世の苦難をうまく利用して、永遠の幸福のもとでにするすべを修得するのです。そのうえ、典礼生活によって、わたしは他の人びとも、自分の後から、救霊と聖性の途にみちびいていくことができます。こう考えてまいりますと、典礼生活は、他のいかなる使徒職にもまさって、いっそう効果的である、といわなければなりません。


イエズスの至聖なる聖心の祝日おめでとうございます

2018年06月08日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日は、私たちの主イエズスの至聖なる聖心の祝日です!

愛熱のかまどなるイエズスの聖心よ、我らを憐れみ給え!

愛する兄弟姉妹の皆様の上にイエズスの聖心の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田神父

第五部 内的生活をいとなむための若干の原理と意見 (続き12)【ドン・ショタール著「使徒職の秘訣」】

2018年06月07日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

恒例のドン・ショタール著「使徒職の秘訣」L'Ame de tout apostolat
第五部 内的生活をいとなむための若干の原理と意見(続き12)
をご紹介します。山下房三郎 訳を参考に、フランス語を参照して手を加えてあります。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


第五部 内的生活をいとなむための若干の原理と意見


三、典礼生活こそは、わたしの内的生活を、したがって、使徒職を生かす源泉である

(Ⅴ)典礼生活の実行(1/2) 

 善き師よ、あなたはわたしに、典礼生活がどんなものだか、よく理解させてくださいました。さて、典礼生活を実行するためには、わたしの方からある種の努力が要る。この努力を、あなたはわたしから要求しておいでになる。わたしの聖役上、それは必然の要求となっている。わたしは、主のこのご要求を満たすための努力をしないのについて、なにか言い訳でもあるのでしょうか。もしあるのでしたら、それに答えて、あなたはきっとこう仰せられることでしょう――私の望みにしたがって、典礼の務めをふさわしく果たすためには、これまでおまえが機械的に、それを果たしていたときよりも、更に長い時間は要らないのだと。
 あなたはわたしに、あなたの数おおくのしもべたちの中から、とくに福者ペルブアールを選んで、かれの模範をわたしに示してくださることでしょう。かれは本当に、もうこれ以上はできない、というぐらいに、たいへん忙しい、ちょっとの暇もない仕事に始終たずさわっていたにもかかわらず、それでも選良の典礼的霊魂としてとおっていたのです。

(a)遠い準備
 慈しみ深い救い主よ、わたしは典礼生活を送ろうと熱く望んでおります。どうぞこの願望が、すべて天主の礼拝にかんする事がらにたいする、大いなる“信仰の精神”に充満する態度によって、外にも現れますように。
 天国の天使、聖人たちは、あなたを目のあたりに眺めています。かれらの精神は、なにものにもさまたげられることなく、永遠の典礼という最高の務めに集中されています。そして、この務めこそは、かれらにとって、いいつくしがたい喜びの一つなのです。だがしかし、このあわれなわたし、――の人間性のあらゆる弱さにまつわられ、意のままにならぬわたし、このわたしが、教会と共に、あなたと語る典礼の務めのあいだ、どうしてあなたのみまえに、いつまでも、注意の焦点をしぼっておくことができるのでしょうか。もし洗礼のとき頂きました“信仰”の賜ものを、わたしのうちにゆたかに進展させませんなら。
 わたしはけっして、典礼の務めを、なにかいやな苦役、できるだけ早く片づけてしまいたい苦役のようには、考えたくないのです。または、それに謝礼金がついているからやる、といったような、さもしい心は起こしたくないのです。さらにわたしは、聖の聖なる三位一体の天主とお話をするのに、もしくは典礼の務めを果たすのに、世の中でいちばんつまらない人のまえで、そうするのさえはずかしいと思われるような、そんな無遠慮な、ぶしつけな、なれなれしい態度でやりたくはないのです。
 典礼こそは、わたしにとって、教化となり利益となるはずなのに、かえってそれが、つまずきとなり損害となるような、そんな結果に終わらせたくないのです。だがしかし、もしわたしが信仰の精神をもっていませんなら、これをもっているか否かを反省するのを止めるようになりましたら、さてそのとき、わたしはどこまで行くか、どこまで落ちて行くか、予測できません。
 ああ、わが天主よ、もしわたしが不幸にも、断崖に立っているのでしたら、どうぞわたしを抱き止めて、谷底に落ちないようにしてください。別の言葉で申せば、どうぞわたしに強い、生き生きとした信仰をお与えください。そして、この信仰のおかげで、典礼の務めがあなたの前に、いかに大きな価値があるか、それをよく悟って、心は大いなる喜びに波うち、意志はますます感激におどるようにしてください。
 ところで、もしわたしが、典礼の規則をよく知るために、却ってこれを忠実に守るために、すこしも努力していませんなら、どうして信仰の精神をもっているといえましょう。――いや、自分は典礼の務めを果たすとき、ほんとうに美しい考えが湧いてくる、といってみたところで、ああ、わが天主よ、それでわたしの怠慢のいいわけになりましょうか。典礼の規則、典礼の意義を知ろうとの努力にたいして、たとえわたしが自然の喜びを、自然の魅惑を感じないからとて、それは一向差支えないことではありませんか。要は、わたしの努力、わたしの従順が、あなたの御意に召しさえしたら、それでよいのです。典礼がわたしにとって、大きな利益になりさえしたら、それでよいのです。
 黙想会のとき、わたしは次の諸点について糾明するのを、けっして忘れますまい。――自分は、ミサ典書、定式書、聖務日課祈祷書にたいして、どんな態度をとってきたのかと。
 ああ、イエズスよ、あなたの教会こそは、その典礼に“詩篇”の富を、最もよく利用した方です。もしわたしが、典礼の精神をもっていましたら、わたしの魂は詩篇の書のなかに、とりわけ、あなたのご受難が表象的に記録されているのを発見するでしょう。苦しみ悩めるあなたのお姿が、そこに預言され、鮮明に表現されているのを見いだすでしょう。
 あなたが、地上生涯のあいだ、天父に申し上げましたお言葉のかずかずが、あなたの聖心が天父にたいして、いだいておられたご心情のかずかずが、それをご霊感なされた詩篇作者の預言的辞句のなかに散在している事実を、わたしの霊魂は見逃せないのです。
 私の霊魂はまた、詩篇のなかに、あなたの福音書のおもな教えのかずかずが、みごとに、組織的に、前もって記述されているのをみて驚嘆します。
 詩篇のとばりをとおして、わたしはまた“教会の声”をきくのです。それは、あなたの地上生活を、世の終わりまで継続し、そしてそれを天父に披歴する声、あなたのご受難とご凱旋のあいだ、親しくあなたのくちびるから洩れでたお声の再生です。天配たるあなたのご心情に浸透された心情――その声の源をたずねれば、ここにたどりつくのですが――この心情をこそ、教会はその子らにも、自分らのものにさせるのです。――誘惑のとき、失敗のとき、戦いのとき、悲しみのとき、幻滅のとき、失意のときに。そればかりか、勝利のときも、得意のときも、とにかくあなたのご生命が、その内にあらわれることのできるすべての霊魂は、このようにして、あなた自身のご心情を、その時どきに応じて、自分のものにすることができるのです。
 読経の一部は、いつも“旧新両約聖書”から取られていますが、これによってわたしは、典礼への興趣をますます深め、ますます容易に、聖書の言葉に注意を集中させることができるのです。
 聖務日課をとなえるとき、よく注意してその組み合わせをしらべてみますと、そこにはちゃんと根本思想というものがあり、他のすべての教訓は、この思想を中心として、そのまわりを廻転していることがよくわかります。
 そんなわけで、ああ、わが魂よ、おまえはなんと強力な武器を持っていることか。――さ迷いやすい想像を、一つのまじめな中心思想に定着させることによって。とりわけ、おまえがもし、典礼にあらわれる“表象”(シンボル)をよく理解し、これを自分の教化にうまく利用することを知ってさえいたら・・・。
 教会が、この典礼の表象を使用するのは、典礼のなかに提示されている真理を、まずその子らの感覚にうったえて、生き生きと鮮烈な姿に焼きなおし、このようにして、かれらの精神に捕捉させるためなのだ。「あなたがたは、現在なにをしているか、よく悟りなさい」――わたしは、司祭叙階式のとき、おごそかにこういわれたのだった。じっさい、典礼の儀式にも、儀式に使用するいろいろな物品にも、聖なる祭服にも、これらのすべてのものに、母なる教会はそれぞれちがった深い意味をふくませ、そしてこれらの意味は声高々と、わたしに認識を迫っているようにみえる。
 もしわたしが、これらのものが語る声なき言葉に耳をかさないなら、どうして信者たちの知恵を啓発し、かれらの心をとらえることができるのだろうか。――せっかく、母なる教会が、信者たちの霊魂をとらえるために用意している、これらの生き生きとした、そして偉大な声を、解明する秘密のカギを所持していないなら……。

 (b)近い準備
 「祈るまえに、心の準備をしなさい」(集会の書18・23)
 ミサ聖祭の直前、または聖務日課の直前、わたしは潜心を実行しなければならぬ。
 それは、静かで、しかも充実したものでなければならぬ。
わたしの思考を、天主の方に向かわせない浮き世の事物から、引き離すためである。
 そして、わたしの注意の焦点を、天主にのみしぼるためである。
 わたしは今、だれとお話しようとしているのか。――天主とである。
 だがしかし、この天主は、同時にわたしの“父”であられる。だから、わたしは、聖母マリアがそのむかし、御子イエズスとお話になるときにそうなさったように、ふかい尊敬にみちたおそれをもって、天主とお語りしなければならぬ。そのうえ、わたしは子供の質朴と単純をもって、天主とお話しよう。これこそは、どんな年老いた人たちにも、天主とお話するときには“小さい子供の心”をあたえてくれる。
 天父のみまえにおけるこの態度――この質朴、単純な子供心――こそは、わたしがイエズス・キリストに一致し、これと一つになっている、わたしはいやしい者だが教会を代表する者である、とのわたしの信念を反映するものだ。そればかりか、さらにまた、わたしは祈るとき、祈りの伴侶として、天軍をもっているのだ、とのわたしの信念も反映している。「わたしは、天使たちのまえで、あなたに詩篇をうたいましょう」(詩篇113)
 わが霊魂よ、おまえは再び“小さい子供の魂”に帰らねばならぬ。今はもうこれについて、議論したり吟味しているときではない。おまえは善悪の分別ができる年齢に達したころ、母が自分に話してくれた真理を、絶対的なものとして、すなおに受けいれたではないか。それと同じすなおさをもって、いまおまえは母なる教会が、おまえの信仰のかてとして提供しようとしておられるすべての真理を、そっくりそのまま、絶対的のものとして受けいれなければならないのだ。
 霊魂のこの若返り! 主よ、これはわたしにとって、なくてはならないものです。
 わたしがますます“子供の魂”になればなるほど、わたしはいっそう典礼の宝を、利用することができるのです。また、それだけいっそう、聖なる典礼の詩から魂を奪われて、恍惚の境に遊ぶことができるのです。わたしが子供の魂になりきればなりきるほど、それだけいっそう典礼の精神にも、進歩することができるのです。
 子供の魂になりきるときこそは、典礼の務め(儀式・聖務日課・ミサ聖祭・秘跡など)を果たしている間に、すぐわたしの魂は“礼拝”のうちにぬかずき、そのままの姿勢で、長くとどまっていられるでしょう。――教会の肢体として、教会の使節として、天主の聖役者として、典礼の務めにたずさわっているそのときに。
 典礼の務めの間に“礼拝のうちにぬかずく”こと――この礼拝の態度から、典礼の利益と功徳は生まれてくるのです。そればかりではありません。天主が典礼の務めをよく果たす者に約束された慰めも、同時に生まれてくるのです。そしてこの慰めこそは、つらい苦しい使徒的事業のいろいろの艱難において、わたしの勇気を支えてくれるのです。
 ですから、わたしはまず、天主を“礼拝”したいのです。意志の飛躍によって、わたしのつたない礼拝を、天主の人イエズス・キリストのそれに合わせたいのです。天主にふさわしい尊崇をささげるために。この意志の飛躍は、むろん頭を使ってする仕事ですが、頭よりもむしろ“心”を使ってする仕事なのです。
 ああ、イエズスよ、わたしはあなたの恩寵によって、天主を礼拝したいのです。そして典礼の務めを果たすとき、わたしはきまってこの恩寵を、あなたにお願いするのです。例えば、聖務日課をとなえるときには、「天主よ、わが助けにみ心を傾けたまえ」の祈りを、熱心にとなることによって。また、ミサ聖祭をささげるときには、「われは主の祭壇に行こう」の祈りを、ゆっくりと、信心をこめてとなることによって。
 わたしはそうしたい、と心から望みます。この望みは、子供の魂から出る、愛情にみちたものです。謙遜にみち、しかも強いのです。あなたのお助けをこいねがう切なる望み――あなたは、この望みを、わたしが持つことを要求されます。
 もしあなたの恩寵によって、わたしの知性が、わたしの信仰に、これまで知らなかった広い美しい地平を展開してくれますなら、また、わたしの感性が、わたしの心に、いくらかの信心ぶかい感動をあたえてくれますなら、そのときわたしの意志はそれらをよく利用して、もっと容易にあなたを礼拝することができるのでしょう。
 だが、わたしは次の原理を、けっして忘れてはいません。――天主との一致は、究極において、霊魂の深層部で、意志のなかでいとなまれる。だから、たとえ霊魂が、暗闇と乾燥の秘境をさ迷っているにもせよ、また、たとえ意志そのものが、なんのうるおいもなく、なんの熱気もなく、氷りついたように冷たく、味気ないものであるにもせよ、そのときこそは、ただ“信仰”にだけ頼みの綱をかけて、勇敢に、天主への飛躍をこころみなければならないのだ。


今日、6月6日は初水曜日(月の初めての水曜日)です「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」

2018年06月06日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日、6月6日は初水曜日(月の初めての水曜日)であります。

「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」について黙想することをご提案します。



なぜなら、聖ヨゼフはこの世で天主イエズス様と浄配なる聖母マリア様を最も良く知り、愛された御方であり、その隠れた徳ゆえに偉大なる御方、イエズス様とマリア様の最大の命の恩人であられました。

また、聖ヨゼフは、この世では、全てを天主の栄光のために、隠れてその生涯をささげられたが故に、天にて聖母の次に最大の栄光をあたえられていらっしゃいます。

聖伝では、水曜日は聖ヨゼフに捧げられた曜日であり、月の最初の水曜日を聖ヨゼフに捧げることで、聖ヨゼフを讃え、その御取次に信頼し、その御徳に倣って、聖ヨゼフを通して、天主イエズス様とマリア様をお愛しすることができますように。

初土曜日の「聖母の汚れ無き御心」への信心にならって、この「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」のどれかを「15分間黙想」することにいたしましょう。

聖ヨゼフの帯の信心については、下記リンクをごらんください。
聖ヨゼフの帯 cingulum Sancti Joseph


天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


聖ヨゼフの7つの苦しみと喜び

1 ああいと潔き御母マリアの浄配、栄えある聖ヨゼフよ、御身のいと清き妻を失ならんと心に思い煩いし時の苦しみはいと大いなるものなりき。
されど天使が御託身の玄義を御身に伝えられし時の喜びは、またひとしお大いなりき。この苦しみ、この喜びにより、今も臨終の時も我らの心を潔さ良心の喜びと、イエズス、マリアのうちに自我を滅する尊き御身の心を示し、我らを慰め給え。



2 ああいと幸いなる保護者聖ヨゼフよ、御身は人となり給いし御言葉の潔き養父の位にあげられたれども、御身は幼きイエズスがいと貧しき中に生まれ給うを見て大いに悲しみ給いしが、
天使らのたえなる歌声を聴き、その輝ける夜の栄えを見給うや、その悲しみは天的の喜びと変じたり。御身のこの悲しみ、この喜びによりて、我らもまたこの世の歩みを終えたる後、天使らの賛美の歌声を聴き、天的光栄の輝きを受け得んことを願い奉る。



3 ああ御摂理にいと従順なしもべなる、栄えある聖ヨゼフよ、幼きイエズスが割礼にて流されたる尊き御血は御身の心を苦痛もて貫きたれども、
イエズスと命名されるや御身の心は喜びに満たされたり。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らをこの世の悪徳より離れしめ、イエズスのいと尊き御名を心から唱えつつ心満たされてこの世を去るを得しめ給え。



4 ああいと忠誠なる聖ヨゼフよ、御身は救世の玄義の成就に身をもって大いなる役を果たされしが、シメオンの預言によりイエズスとマリアが受け給うべき苦難を予知せられ苦しみ給いたれど、
数限りなき人々の霊魂がこれによって救わるるとの預言によりて、天的喜びに満たされたり。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らがイエズスの功徳と聖母マリアの御取次ぎにより、終わりなき栄えを得てよみがえる人々のうちに数えられる御恵みをとりなし給わんことを願い奉る。



5 ああ人となり給いし天主の御子のいとも注意深き保護者なる栄えある聖ヨゼフよ、御身はいと高きものの御子を養い給い、これに仕えるために多くの辛酸をなめられたり。わけてもそのエジプトへの逃避はいと苦しきものなりしが、
御身が常に天主御自身と共におられし喜び、またエジプト人らの諸々の偶像が地に落とされしを目の当たりに見られし時の安心はいと大いなりき。この御身の辛酸と喜びとによりて、我らが地獄的暴君より免れて、わけても危険なる機会より逃避する事を得しめ、我らの心のうちに地上的執着が落とされ、ひたすらイエズスとマリアに仕え奉りつつ日々の生活を送り、この世を幸いに終わる事を得しめ給え。



6 ああこの地上の天使なる栄えある聖ヨゼフよ、御身は御身の心を天の王に全く捧げられたり。御身がエジプトより戻られる喜びは、アルケラウスに対する憂慮にて不安の闇となりしが、
天使は再び御身にイエズスとマリアと共にナザレトにて楽しく住み給う事を約束せられたり。御身のこの苦しみ、この喜びによりて、我らの心を深い恐怖より免れしめ、潔き良心の平和を楽しみ、イエズスとマリアと共につつがなく世を送り、臨終においてはイエズスとマリアの御手に我らの霊魂を捧ぐる事を得しめ給え。



7 ああ全ての徳の鑑なる栄えある聖ヨゼフよ、御身は御身の誤りにあらずして幼きイエズスを見失い、三日の間苦しみもて捜し求められたり。
されど神殿の中に博士らに取り巻かれたるイエズスを見出されし時の喜びはいかに大いなりや。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らが大罪を犯しイエズスを失いたりせば、たゆまず彼を捜し求め、遂に再び巡り会えるよう、わけても臨終の時に彼と共にありて天国に至り、御身と共に天主の終わりなき御恵みを賛美し奉るようとりなし給わんことを心から願い奉る。



交唱 イエズスが教えをはじめたりしは三十歳ごろなり、人々、イエズスをヨゼフの子なりと思いたり。(ルカ3:23)

V 聖ヨゼフ、我らの為に祈り給え。
R キリストの御約束に我らをかなわしめ給え。

祈願 天主、御身のかしこき御摂理のうちに祝せられたヨゼフを至聖なるマリアの浄配に選び給いたれば、願わくはこの世の我らの保護者として崇め奉る彼が、我らの天のとりなし手となり給わんことを。 アーメン。



英語ではこちら。
THE SEVEN DOLOURS AND SEVEN JOYS.

i. St. Joseph, pure spouse of most holy Mary, the trouble and anguish of thy heart were great, when, being in sore perplexity, thou wast minded to put away thy stainless spouse: but this joy was inexpressible when the archangel revealed to thee the high mystery of the Incarnation.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee comfort our souls now and in their last pains with the consolation of a well-spent life, and a holy death like unto thine own, with Jesus and Mary at our side.
Pater, Ave, and Gloria.

ii. St. Joseph, Blessed Patriarch, chosen to the office of Father of the Word made Man, the pain was keen that thou didst feel when thou didst see the Infant Jesus born in abject poverty; but thy pain was changed into heavenly joy when thou didst hear the harmony of angel-choirs, and behold the glory of that night when Jesus was born.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee obtain for us, that, when the journey of our life is ended, we too may pass to that blessed land where we shall hear the angel-chants, and rejoice in the bright light of heavenly glory.
Pater, Ave, and Gloria.

iii. St. Joseph, who wast ever most obedient in executing the law of God, thy heart was pierced with pain when the Precious Blood of the Infant Saviour was shed at His Circumcision; but with the Name of Jesus new life and heavenly joy returned to thee.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us, that, being freed in our life from every vice, we too may cheerfully die, with the sweet Name of Jesus in our hearts and on our lips.
Pater, Ave, and Gloria.

iv. St. Joseph, faithful Saint, who wast admitted to take part in the redemption of man; the prophecy of Simeon foretelling the sufferings of Jesus and Mary caused thee a pang like that of death; but at the same time his prediction of the salvation and glorious resurrection of innumerable souls filled thee with a blessed joy.
By this thy sorrow and thy joy, help us with thy prayers to be of the number of those who, by the merits of Jesus and his Virgin Mother, shall be partakers of the resurrection to glory.
Pater, Ave, and Gloria.

v. St. Joseph, watchful Guardian, friend of the Incarnate Son of God, truly thou didst greatly toil to nurture and to serve the Son of the Most High, especially in the flight thou madest with Him unto Egypt; yet didst thou rejoice to have God Himself always with thee, and to see the overthrow of the idols of Egypt.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us grace to keep far out of the reach of the enemy of our souls, by quitting all dangerous occasions, that so no idol of earthly affection may any longer occupy a place in our hearts, but that, being entirely devoted to the service of Jesus and Mary, we may live and die for them alone.
Pater, Ave, and Gloria.

vi. St. Joseph, angel on earth, who didst so wonder to see the King of heaven obedient to thy bidding, the consolation thou hadst at His return was disturbed by the fear of Archelaus, but nevertheless, being reassured by the angel, thou didst go back and dwell happily at Nazareth, in the company of Jesus and of Mary.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us, that, having our hearts freed from idle fears, we may enjoy the peace of a tranquil conscience, dwelling safely with Jesus and Mary, and dying at last between them.
Pater, Ave, and Gloria.

vii. St. Joseph, example of all holy living, when, though without blame, thou didst lose Jesus, the Holy Child, thou didst search for Him for three long days in great sorrow, until with joy unspeakable thou didst find him, who was as thy life to thee, amidst the doctors in this Temple.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee with our whole heart so to interpose always in our behalf, that we may never lose Jesus by mortal sin; and if (which God avert) we are at any time so wretched as to do so, that we pray thee to aid us to seek Him with such ceaseless sorrow until we find Him, particularly in the hour of our death, that we may pass from this life to enjoy Him for ever in heaven, there to sing with thee His divine mercies without end.
Pater, Ave, and Gloria.

Ant. Jesus Himself was about thirty years old, being, as was supposed, the son of Joseph.

V. Pray for us, holy Joseph.
R. That we may be made worthy of the promises of Christ.

Let us pray.
O God, who in Thine ineffable providence didst vouchsafe to choose blessed Joseph to be the husband of Thy most holy Mother; grant, we beseech Thee, that we may have him for our intercessor in heaven, whom on earth we venerate as our holy protector. Who livest and reignest world without end. Amen.

秋田巡礼-お説教-2018年5月4日(初金) シュテーリン神父様―聖モニカの「祈りを諦めないこと」について

2018年06月05日 | お説教・霊的講話
2018年5月4日(初金)秋田巡礼 至聖なるイエズスの聖心の随意ミサ 聖モニカの祝日
シュテーリン神父様御説教
同時通訳:小野田圭志神父



聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

巡礼の第2日目です、今日は聖モニカの祝日です。この聖モニカは、「祈りにおける忠実さ」「祈りを諦めない事」について、私たちに模範を示しています。

まず聖モニカは祈りによって、自分の夫の回心を勝ち取りました。しかしその当時、自分の息子である聖アウグスチノのカトリック的な教育を授ける事はできませんでした。もちろん聖モニカはできるだけの事をしましたけれども、しかし夫は異教徒で、夫の影響を非常に強く受けていました。またその周囲の状況も、聖アウグスチノにふさわしい教育を授けるには難しいものでした。そこで聖モニカの置かれている状況は、私たちの置かれている状況と非常に似通っています、今日(こんにち)。

私たちの子供たちは、もちろんできる限りカトリックの教育を与えたいと思います。けれどもその周囲が、周りの雰囲気が、環境が良くないので、悪い影響を受けています。 子供が大きくなれば大きくなるほど、友人の悪い影響を受けたり、学校の環境の悪い影響を受けたり、あるいは勉強の過程での悪い影響を受けたりして、霊的に子供が失われているという事で、父兄の悲しみを私たちはよく聞きます。

今日聖モニカの模範によって私たちに、天主様が何を私たちに教えようとしているかというのは、とても興味深いものです。

非常に重要な意向の為に、皆さんお祈りをして、お祈りをして、お祈りをして、一生懸命お祈りをして、1年経ったとします。しかし1年の後に、お祈りが聞き入れられたとは思えず、却って状況がますます悪くなっているとします。皆さんはもしかしたら、「あぁ、天主様は私の事を忘れてしまった。マリア様は私の事を何も聞いてくれていない」と言うかもしれません。「私の祈りは聞き入れられる価値がない。私はふさわしくない。」「一生懸命1年お祈りしたにも関わらず、何も聞き入れられない。天国は何かドアが閉まっているように思える」として、多くの人はもうお祈りなどやめてしまおう、と思ってしまうかもしれません。

聖モニカの模範を見て下さい。10年、聖モニカは祈ります。10年祈って、祈れば祈るほど、その祈りの効果の反対に、ますます子供は悪くなっていきます。まず、息子の聖アウグスティヌスは傲慢になります。ラテン語が上手くできるという事で、雄弁な話ができるという事で、傲慢になります。そしてその友達の影響で、異教のセクトに入ってしまいます。セクトにはまってしまったのみならず、不道徳的な生活も始めます。ある女性と同棲して、そして子供をもうけます。聖モニカは一生懸命お祈りして、天主を愛する女性ですが、母親ですが、その自分の目の前で、子供がそういう状態に陥っているのを見るのです。

「10年、11年、12年、一生懸命こうやってお祈りしているのに、状況はますますひどい。どうやって、なぜ私はこのまま続けて祈る事ができるだろうか。」12年のお祈りをした後に、「きっと私が悪いんだ。私が何か悪い事をしたに違いない。私のやり方が間違っているんだ。」皆さんでも同じように考えたように、聖モニカも同じように考えました。

聖モニカはもうお祈りをやめてしまおうと思う前に、司祭に相談に行きました。聖モニカはミラノの司教様である聖アンブロジオの元に行って、相談します。すると聖アンブロジオは聖モニカを慰めます。聖アンブロジオが言うには、「お祈りを続けなさい。なぜならば、それほど多くの祈りと涙の子供は、決して失われる事がない。」

そして聖モニカはそれに従順に従って、お祈りを続けます。6年更に続けました。18年間、聖なる女性が、罪人ではなく聖なる母親が、祈りに祈り、祈りを重ねました。

すると聖アウグスティヌスは回心します。その回心も、単なる生ぬるい回心ではなくて、大回心を遂げて、そして教会史上に残る大聖人になり、教会博士にもなる大聖人になりました。聖アウグスティヌスは回心の後に本を書きます。そして「自分の回心は、自分の母親のお祈りと涙のおかげであった」といって記しています。

私は年老いた母が実家におります。私は同じ事を母に負っています。母は健康を害していて、色々な所を痛がっています。ところで私が母の元に行って、「母さん、大丈夫ですか?」と聞くと、すると母の答えは、「どうもお前の償いの為に必要としているようだ」と言います。私たちが天国に行くと、天国に行って初めて、私たちの母親たちがどれほど私たちの為に祈りや犠牲を捧げていて下さったか、という事を知る事でしょう。

では聖モニカに話を戻ると、一体なぜ天主様は聖モニカに対して、そんなに残酷に取り扱ったのでしょうか?18年間という人生の最も大切な花咲く時代を、そのように残酷に夢を取り去るような話をしてしまったのでしょうか?

18年間、聖モニカは本当の喜びがありませんでした。もしも自分の子供が地獄に今落ちようとしている、という事を知っていたら、どうやって聖モニカが本当に喜ぶ事ができたでしょうか。愛する息子であるアウグスティヌスが目の前に現れた時に、そのアウグスティヌスのその自堕落な生活、あるいは天主を知らない生活を見て、どれほど悲しんだ事でしょうか。

ですから私たちは自問自答します、「主よ、一体なぜこのような聖なる人々が、こんなに立派な方々が、聖なる方々が、主を愛する方々が苦しむのを許すのですか?苦しまなければならないようにされるのですか?」

もしも、私たちが得るべき結果が大きければ大きいほど、それを得るべき手段も偉大なものでなければなりません。もしも良い自転車を買いたいと思うならば、それにふさわしい値を払わなければなりません。もしも立派な車を買おうとするならば、更にそれにふさわしい値を払わなければなりません。聖アウグスティヌスは偉大な素晴らしい聖人になると天主は知っていました。したがって、それにふさわしい値を払うように、聖モニカに要求したのでした。

もしも皆さんがお祈りをして、お祈りが聞き入れて下さらないように、聞き入れられないように思われた時に、もしもそれが聞き入れられないように見えれば見えたほど、「それはより良い事だ」と思って下さい。「どうも天主様は、より良いものを私たちに準備している。」ですからその為に、より多くのものを支払わなければならない事を知って下さい。聖アウグスティヌスの回心の事を見て下さい。ほんのちょっとの事で、ほんの一瞬で聖アウグスティヌスは大回心を遂げます。 昨日見たように、メキシコで一年、たった一年で全国を全く回心させました。

もしも皆さんの祈りを聞き入れてそれをその通りにするのを待たせるならば、皆さんを待たせるならば、天主様には特別の大きな意向があるからです。

もしも私たちの祈りがすぐ聞き入れられたとしたら、もちろん人間的にはとても嬉しい事ですが、それは私たちを傲慢にさせます。「私の祈りのおかげで彼は回心した。俺がやった」と傲慢になるに違いありません。そうしてしまったら、傲慢によって私たちは多くの功徳を失ってしまいます。

私たちの祈り続ける事によって、待たせる事によって、私たちをますます謙遜にさせてくれます。更にそうする事によって、私たちが天主を信頼する事、天主に委ねている事を確かめます。そこでそうする事によって待たせる事によって、私たちの徳をますます大きくさせます。

もしも聖モニカのお祈りを長く待たせずに、すぐに天主様が聞き入れて下さったとしたら、聖モニカは聖人になっていなかったかもしれません。

テストをしてみましょう。ある意向の為にお祈りします。子供がいて、その子供は天主を信じる事をやめてしまって、どこかに行ってしまった。自分の子供の為に毎日3環ロザリオを唱えて、そして多くの連祷も唱えて、一生懸命お祈りします。6ヶ月の後に、子供が回心した。皆さんは非常に喜ぶ事でしょう。ではその6ヶ月の後に、子供が回心した後に、同じ程度でお祈りを続けるでしょうか?皆さんやめてしまいます。もう動機がないからです。「子供がもう回心したので、お祈りをやめて別の事をしよう。」そこで天主様が皆さんを待たせて、更に待たせて、皆さんを更に堅忍させて、徳に積ませるのです。

聖モニカは、一生懸命お祈りをしましたけれども、そのお祈りの実りとして、ただ聖アウグスティヌスの回心を勝ち取ったのみならず、他の多くの罪人たちの回心をも勝ち取りました。聖モニカが一生懸命毎日捧げた祈りを、イエズス様やマリア様がそれを使って、他の失われた子供たちの為に使っていました。

きっと毎日聖モニカが捧げた祈りは、毎日、毎日、日ごと10人の失われた子供たちの回心の為に使われていたかもしれません。するともしも単純に計算すると、1年の間には約4000人の人たちを回心させた事になります。10年では4万人です。そこで18年では約10万人の人を回心させた事になります。

天国に行くと聖モニカは、「あぁ、自分の子供は大聖人になっている!」という事に気が付く事でしょう。そして自分の子供が後に何百万人という人々を回心させて、多くの善を、より多くの人々に施しているのを見る事でしょう。聖アウグスティヌスのやっている善は今でも、21世紀でも続いています。特に今でも聖アウグスティヌスの「告白録」等という書いた本を読んで回心した人もたくさんいます。映画の中で最も美しい映画の1つに、聖アウグスティヌスの回心の映画があります。もしも皆さんが携帯で何か変なものを見ようとした時には、その事を考えて下さい。何か読むのが嫌だ、という人はその映画を勧めます。

聖モニカの話に戻りますと、天国に行った聖モニカは、天主様からその祈りの効果を見せられた時に、きっと驚いた事でしょう。天国に入った時に、聖モニカの周りに10万人の人々が歓迎して待っている、と。世界中から来た霊魂が待っている。そして聖モニカの元に10万の人々が続々やって来て、手を握って手に接吻をして、「お母さん!」「お母さん!」と言っているのです。「なぜですか?」と言うと、「あぁ、なぜかというと、イエズス様とそしてマリア様の後で、あなたのお祈りのおかげで、私は天主の命を頂いて、回心の御恵みを頂いたからです。命を与える方を、私はお母さんと呼ぶのです。」

そして10万人の霊魂たちは永遠に渡って、終わりなく、自分の回心の為に祈った聖モニカを母親として讃美して、感謝して、称える事でしょう。たった1人の霊魂を天国に回心させて、天国の永遠の命を受ける事ができたとしたら、この地上の何百万人の最高の子供よりも更に価値があります。

もしかしたら小野田神父は、日本での15万人の霊魂たちの霊的なお父さんかもしれません。なぜかというと、小野田神父がこの地上にいる間、日本の回心の為に聖モニカのように一生懸命お祈りしているからです。ただ1つの問題は、小野田神父はまだ聖モニカのように聖徳に達していないことです。しかしきっと小野田神父が天国に入った時には、その時には、15万人の日本人の霊魂が、「救われました!」と言って近寄ってくる事でしょう、「お父さん!」と。

これが冗談ではなくて、本当の現実の話です。こうやって天主様は、私たちの祈りを必ず聞いて下さるので、私たちは祈り続けなければならないという事です。

もしも私がする事ができるなら、聖モニカを日本の守護の聖人としたいと思います。なぜかというと、皆さんは日本の回心の為に一生懸命毎日いつも祈っているにも関わらず、何の効果もないかのように見えるからです。私たちはもう何年も何年も日本の為に祈っているのですけども、でも私たちのミサには、来る人はほんの20人か30人です。ですからそのような時には、聖モニカを私たちの模範として、守護の聖人として真似なければなりません。

ですから今日は聖モニカをお連れして、秋田の聖母の元に行きましょう。そしてマリア様に申し上げましょう、「マリア様、マリア様がお望みの期間、もしもお望みならば死ぬまで、ずっと祈り続けます。私の祈りの功徳、そしてその効果は、あなたに任せます。聖モニカのように、私も全く盲目的にあなたに信頼します。それは私の祈りと、この私のこの巡礼は必ず実りを結ぶという事です。私が想像したよりも更に多くの実りを結ぶ、という事を信頼しています。」

では、私たちがいつも祈っているその回心の為の、ある霊魂の回心のその為に、私たちの意向を全てイエズス様の聖心にお委ね致しましょう。なぜかというと、今日は初金だからです。イエズス様の聖心は、聖モニカがこれほど寛大に祈り、犠牲を捧げたのを見て、とっても喜びに満ちていました。 皆さんの堅忍と忍耐と、そして寛大さで、イエズス様の聖心を喜ばせて下さい。

聖父と聖子と聖霊の御名によりて、アーメン。

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
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