Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

12月25日の主の降誕の日中のミサのテキストを羅和対訳でご紹介いたします。

2019年12月23日 | カトリックとは

アヴェ・マリア・インマクラータ!

12月25日の主の降誕の日中のミサのテキストを羅和対訳でご紹介いたします。

主の御降誕(一級祝日 白)

日中のミサ聖祭(第三のミサ)(指定巡礼聖堂。聖マリア大聖堂)
聖グレゴリオ七世教皇のころまで、この第三のミサは、聖ペトロ大聖堂で行われていた。しかし、動乱の世であったし、天候の悪い冬季でもあったので、当時教皇の住まっていたラテラン宮廷に近い聖マリア大聖堂に変えられた。だが、夜中のミサは、この聖マリア大聖堂内のうまやの小聖堂で行い、日中のミサは、中央大祭壇で行った。第三ミサは、主として、メシアなる王の来臨、すなわち、天主が預言者になし給うた約束の成就を祝う<書簡>。人間のみじめな身体をとって生まれ給うた御者は、天主のみことばである。「みことば」は、人類のかしらとして、王として、司祭として、民を救いに導く<入祭文、集祷文、奉献文>。さらに、救霊の奥義をすべて実現し、聖体の奥義への信仰によって、万民は天主が送り給う救いを眺めることも語る<聖体拝領誦>。

聖ペトロ大聖堂は、キリストの普遍的な王権を示している。正に「幼児(おさなご)がわれらに生まれた、息子がわれらに与えられた。その主権は彼の肩の上にある。」地の全ての果ては、われらの天主の救いを見た。主は、御自分の救いを知らせ、その正義を異邦の民々の前に示し給うた。全世界の王、支配者、主権者がお生まれになった。

集祷文では「新しい誕生」と「古い隷属」とが対比されている。「全能の天主よ、願わくは、御独り子の、肉体による新しい御誕生により、罪の軛(くびき)の下でいにしえの奴隷状態により縛られているわれらを解放し給え。」
Concéde, quǽsumus, omnípotens Deus : ut nos Unigéniti tui nova per carnem Natívitas líberet ; quos sub peccáti iugo vetústa sérvitus tenet.

Ad tertiam Missam in die Nativitatis Domini 日中のミサ聖祭(第三のミサ)
Statio ad S. Mariam maiorem 指定巡礼聖堂。聖マリア大聖堂
Ant. ad Introitum. Is. 9, 6. 入祭文 イザイア 9ノ6
Puer natus est nobis, et fílius datus est nobis : cuius impérium super húmerum eius : et vocábitur nomen eius magni consílii Angelus. 幼児(おさなご)がわれらに生まれた、息子がわれらに与えられた。その主権は彼の肩の上にあり、その名は、大いなる御計画の使者と呼ばれるだろう。
Ps. 97, 1. 詩篇 97ノ1
Cantáte Dómino cánticum novum, quia mirabília fecit. 主に、新しい歌を歌え。主は不思議な業を行い給うたからである。
V/.Glória Patri. V/. 願わくは聖父と・・・(栄誦)。
Puer natus est nobis, et fílius datus est nobis : cuius impérium super húmerum eius : et vocábitur nomen eius magni consílii Angelus. 幼児(おさなご)がわれらに生まれた、息子がわれらに与えられた。その主権は彼の肩の上にあり、その名は、大いなる御計画の使者と呼ばれるだろう。



Oratio. 集祷文
Concéde, quǽsumus, omnípotens Deus : ut nos Unigéniti tui nova per carnem Natívitas líberet ; quos sub peccáti iugo vetústa sérvitus tenet. Per eúndem Dóminum. 全能の天主よ、願わくは、御独り子の、肉体による新しい御誕生により、罪の軛(くびき)の下でいにしえの奴隷状態により縛られているわれらを解放し給え。その同じわれらの主(…)。
Léctio Epístolæ beáti Páuli Apóstoli ad Hebrǽos. 使徒聖パウロの、ヘブライ人への書簡の朗読。
Hebr. 1, 1-12. ヘブライ  1ノ1-12
Multifáriam, multísque modis olim Deus loquens pátribus in Prophétis : novíssime diébus istis locútus est nobis in Fílio, quem constítuit herédem universórum, per quem fecit et sǽcula : qui cum sit splendor glóriæ, et figúra substántiæ eius, portánsque ómnia verbo virtútis suæ, purgatiónem peccatórum fáciens, sedet ad déxteram maiestátis in excélsis : tanto mélior Angelis efféctus, quanto differéntius præ illis nomen hereditávit. Cui enim dixit aliquándo Angelórum : Fílius meus es tu, ego hódie génui te ? Et rursum : Ego ero illi in patrem, et ipse erit mihi in fílium ? Et cum íterum introdúcit Primogénitum in orbem terræ, dicit : Et adórent eum omnes Angeli Dei. Et ad Angelos quidem dicit : Qui facit Angelos suos spíritus, et minístros suos flammam ignis. Ad Fílium autem : Thronus tuus, Deus, in sǽculum sǽculi : virga æquitátis, virga regni tui. Dilexísti iustítiam et odísti iniquitátem : proptérea unxit te Deus, Deus tuus, óleo exsultatiónis præ particípibus tuis. Et : Tu in princípio, Dómine, terram fundásti : et ópera mánuum tuárum sunt cæli. Ipsi períbunt, tu autem permanébis ; et omnes ut vestiméntum veteráscent : et velut amíctum mutábis eos, et mutabúntur : tu autem idem ipse es, et anni tui non defícient. 天主は、何度も、いろいろな方法で、その昔、預言者を通じて、先祖に語られたが、この終わりの日々には、子を万物の世継ぎと定め、また、よってもって万物をつくられたその子を通じて語られた。天主の光栄のかがやき、天主の本性の型である子は、その勢力あるみことばによって宇宙を保ち、罪のきよめをおこなって、高いところの天主のみいつの右に座られた。かれが受けられた名は、天使の名にどれほどまさっていたことか。天使よりはるかにまさる名を受けられた。天主はどんな天使にむかって、「あなたは私の子である。私は今日あなたを産んだ」、また「私はかれの父となり、かれは私の子となる」とおおせられたことがあろうか。そして天主は、長子をこの世に入れられたとき、「天主のすべての天使は、かれを礼拝せよ」とおおせられた。また、天使については、「天主はその天使たちを風とし、そのしもべを炎とされる」とおおせられたが、子については、「天主よ、あなたの王座は世々とこしえにあり、あなたの王国のしゃくは正義のしゃくである。あなたは正義を愛し、悪を憎まれた。そのため、天主は、あなたの天主は、あなたのともがらのだれにもまさって、より以上の、よろこびの油をあなたにそそがれた」とある。また、「主よ、あなたは、はじめ地をつくり、天もみ手の業である。天はほろびる、しかしあなたはながらえる。それらはみな、衣のように古びる。あなたは、それらを上衣のように、服のように、たたまれる。それらは変る。だがあなたは、永遠に変らず、あなたの年には果てがない」。
Graduale. Ps. 97, 3 et 2. 昇階誦 詩篇 97ノ3-4, 2
Vidérunt omnes fines terræ salutare Dei nostri : iubiláte Deo, omnis terra. 地の全ての果ては、われらの天主の救いを見た。全地よ、天主に喜び讃美せよ。
V/. Notum fecit Dominus salutare suum : ante conspéctum géntium revelávit iustitiam suam. V/. 主は、御自分の救いを知らせ、その正義を異邦の民々の前に示し給うた。
Allelúia, allelúia. V/. Dies sanctificátus illúxit nobis : veníte, gentes, et adoráte Dóminum : quia hódie descéndit lux magna super terram. Allelúia. アレルヤ、アレルヤ、V/. 聖なる日はわれらに輝いた。異邦の民々よ来れ、そして主を礼拝せよ。今日、大いなる光は、地上に下ったの、アレルヤ。
+ Sequéntia sancti Evangélii secundum Joánnem. ヨハネによる聖福音のはじめ。
Ioann, 1, 1-14. ヨハネ  1ノ1-14
In princípio erat Verbum, et Verbum erat apud Deum, et Deus erat Verbum. Hoc erat in princípio apud Deum. Omnia per ipsum facta sunt : et sine ipso factum est nihil, quod factum est : in ipso vita erat, et vita erat lux hóminum : et lux in ténebris lucet, et ténebræ eam non comprehendérunt. Fuit homo missus a Deo, cui nomen erat Ioánnes. Hic venit in testimónium, ut testimónium perhibéret de lúmine, ut omnes créderent per illum. Non erat ille lux, sed ut testimónium perhibéret de lúmine. Erat lux vera, quæ illúminat omnem hóminem veniéntem in hunc mundum. In mundo erat, et mundus per ipsum factus est, et mundus eum non cognóvit. In própria venit, et sui eum non recepérunt. Quotquot autem recepérunt eum, dedit eis potestátem fílios Dei fíeri, his, qui credunt in nómine eius : qui non ex sanguínibus, neque ex voluntáte carnis, neque ex voluntáte viri, sed ex Deo nati sunt. (Hic genuflectitur) Et Verbum caro factum est, et habitávit in nobis : et vídimus glóriam eius, glóriam quasi Unigéniti a Patre, plenum grátiæ et veritátis. はじめにみことばがあった。みことばは天主とともにあった。みことばは天主であった。かれは、はじめに天主とともにあり、万物はかれによってつくられた。つくられた物のうちに、一つとしてかれによらずにつくられたものはない。かれに生命があり、生命は人の光であった。光はやみに輝いたが、やみはかれを悟らなかった。さて、天主からつかわされた人がいて、その名をヨハネといった。この人は、光を証明するために、またすべての人がかれによって信じるために、証人として来た。この人は、光ではなく、光を証明するために来た。すべての人をてらすまことの光は、この世に来ようとしていた。かれは世にあり、世はかれによってつくられたが、世はかれを知らなかった。かれは、ご自分の家に来られたが、その人々はうけいれなかった。しかし、かれをうけいれた人々には、みな、天主の子となれる能力をさずけた。そのみ名を信じるすべての人たち、それは、血統ではなく、肉体の意志ではなく、人の意志ではなく、ただ天主によって生まれた人々である。(ここでひざまずく)みことばは肉体となって、私たちのうちに住まわれた。私たちは、その栄光を見た。それは、おんひとり子としておん父からうけられた栄光であって、かれは、恩寵と真理とにみちておられた。
Credo 信経
Ant. ad Offertorium. Ps. 88,12et 15. 奉献文 詩篇 88ノ12,15
Tui sunt cæli et tua est terra : orbem terrárum et plenitúdinem eius tu fundásti : iustítia et iudícium præparátio sedis tuæ. 天は御身のもの、地も御身のものなり。地球を、そしてその満ち溢れ[そこに含まれるもの]を御身は築き給うた。正義と公平とは御身の座の基礎である。
Secreta. 密誦
Obláta, Dómine, múnera, nova Unigéniti tui Nativitáte sanctífica : nosque a peccatórum nostrórum máculis emúnda. Per eúndem Dóminum nostrum. 主よ、御独り子の新しい御誕生によって、捧げられた贈り物を聖化し、また我らをもわれらの罪のけがれをきよめ給え。その同じわれらの主(…)。
Præfatio de Nativitate Domini. 序誦 御降誕の序誦
Vere dignum et justum est, æquum et salutáre, nos tibi semper, et ubíque grátias ágere: Dómine sancte, Pater omnípotens, ætérne Deus. Quia per incarnáti Verbi mystérium nova mentis nostræ óculis lux tuæ claritátis infúlsit: ut, dum visibíliter Deum cognóscimus, per hunc in invisibílium amórem rapiámur. Et ídeo cum Angelis et Archángelis, cum Thronis et Dominatiónibus, cumque omni milítia cœléstis exércitus, hymnum glóriæ tuæ cánimus, sine fine dicéntes: Sanctus, Sanctus, Sanctus... 聖なる主、全能の父、永遠の天主よ、われらが御身に、いつもどこにても感謝を捧げるのは、実にふさわしく正しいこと、義務と救いである。なぜなら、託身した御言葉の玄義によって、われらの精神の目に、御身の輝きの新しい光が、輝き出でし故なり。そは、われらが目に見えるやり方で天主を識り奉る時、これによって見えざるものらの愛に心ひかれるためなり。ゆえに、天使、大天使と共に、座天使と主天使と共に、また、天の万軍と共に、われらはきわまりなく、主の御光栄の讃歌を歌い奉る。聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、…
Ant. ad Communionem. Ps. 97, 3. 聖体拝領誦 詩篇 97ノ3
Vidérunt omnes fines terræ salutáre Dei nostri. 地の全ての果ては、われらの天主の救いを見た。
Postcommunio. 聖体拝領後の祈
Præsta, quǽsumus, omnípotens Deus : ut natus hódie Salvátor mundi, sicut divínæ nobis generatiónis est auctor ; ita et immortalitátis sit ipse largítor : Qui tecum vivit et regnat. 全能の天主よ、願わくは、本日生まれ給うた世の救い主が、われらをして天主の命へと誕生させたように、われらをして不滅の生命をも与え給わんことを。御身とともに、(…)。




O Emmanuel おお、エマヌエル!

2019年12月23日 | グレゴリオ聖歌
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、
今日の晩課のマニフィカトのアンティフォナです。

おお、エマヌエル、私たちの王かつ立法者、異邦の民々の待望、彼らの救い主よ、我らを救うために来たり給え、主よ、我らの天主よ。

O Emmanuel, Rex et legifer noster, exspectatio gentium, et Salvator earum: veni ad salvandum nos Domine Deus noster.






2019年12月22日 聖ピオ十世会東京での聖伝のミサの報告 Traditional Latin Mass SSPX in Japan

2019年12月23日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

昨日の主日から日本では聖伝のミサが毎日捧げられます。

クリスマスには、恒例の日本語版カレンダー2020年ができあがっている予定です。価格は今年も一部800円です。また3冊で2000円、10冊だと6000円です!部数に限りがありますので、もしも売り切れてしまった場合にはどうぞご了承ください。

今回は、フォルティン神父様がミサを捧げて下さっています。

愛する兄弟姉妹の皆様のしもべは、今年は(おそらく私にとって最後となる)フィリピンのマニラでのクリスマスを過ごす予定です。

ミサのご報告を頂きましたので、愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


【報告】【東京】
Dear Fr Onoda:

今日も、ピーター・フォルティン神父がまたマニラから来て下さり、待降節第4主日のミサをあげてくださいました。

今日の御説教ではまず、過去には待降節第4主日の前の土曜日が司祭の叙階の日であった時代があり、今日のパウロの書簡の朗読はその初ミサを挙げる神父への教えでもあったことを紹介されました。

その後、司祭職の偉大さは司祭自身によるものではなく司祭職が主に属しているからであること、真の司祭は天主であり人でもあり、それ故に完全な仲介者であるイエズス・キリストただ一人であること、そして人間の司祭は主のしもべであり代理者に過ぎないこと、しかしながら主は私たちが司祭のうちに主の似姿を見ることを望んでおられること、など、フランス革命時代の司祭や聖フランシスコの例を挙げて説明していただきました。

今日の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。

男: 19人(内、子供3人)
女: 28人(内、子供4人)
計: 47人(内、子供7人)

【お返事】
いつもご報告をありがとうございます。
今年の12月19日にはオーストラリアの聖十字架神学校で、聖ピオ十世会の一人の新司祭と三名の新しい助祭たちが誕生しました。三人の助祭の内、二名はフィリピン人です。

待降節第4主日の福音には、洗者聖ヨハネが登場します。洗者聖ヨハネの両親ザカリアもエリザベトもアアロンの家系、大司祭の家系でした。ザカリアは司祭でした。洗者聖ヨハネは旧約の司祭とはならず、主の来るのを準備する役割を果たしました。

マリア様の胎内におられながら、マリア様に運ばれながら、私たちの主イエズス・キリストの聖心が最初に行った愛の奇跡は、この司祭の家を訪問し、洗者聖ヨハネを祝福することでした。聖人たちは、ここに私たちの主の、司祭職に対する特別の愛の表れを見ています。

よいクリスマスをお迎え下さい。

【大阪】
 12月24日(火)
 平日の主の御降誕の前日(1級)紫
 午後5時半 ロザリオ及び告解
 午後6時 ミサ聖祭

 12月25日(水)
 主の御降誕(1級祝日、八日間付き)白
 午前0時 ミサ聖祭
 午前10時半 ミサ聖祭

 12月26日(木)
 最初の殉教者聖ステファノ(2級祝日)赤
 午後5時半 ロザリオ及び告解
 午後6時 ミサ聖祭

 12月27日(金)
 使徒福音史家聖ヨハネ(2級祝日)白
 午後5時半 ロザリオ及び告解
 午後6時 ミサ聖祭

 12月28日(土)
 幼子殉教者(2級祝日)赤
 午前10時  ロザリオ及び告解
 午前10時半 ミサ聖祭

 12月29日(日)
 御降誕の八日間内の主日(2級)
 午後5時半 ロザリオ及び告解
 午後6時 ミサ聖祭

【東京】
 12月25日(水)
 主の御降誕(1級祝日、八日間付き)白
 午後5時半 ロザリオ及び告解
 午後6時 ミサ聖祭

 12月26日(木) 
 最初の殉教者聖ステファノ(2級祝日)赤
 午前7時 ミサ聖祭

 12月29日(主) 
 御降誕の八日間内の主日(2級)
 午前10時  ロザリオ及び告解
 午前10時半 ミサ聖祭








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聖ピオ十世会 聖母の汚れなき御心聖堂(大阪)では12月24日(月)21時00分からクリスマスの朝課を歌います。
アヴェ・マリア・インマクラータ!愛する兄弟姉妹の皆様、【大阪】聖ピオ十世会 聖母の汚れなき御心聖堂(EG新御堂4階 大阪府大阪市淀川区東三国4丁目10-2 〒532-000......


2019年の聖伝のミサによる典礼カレンダーの印刷が出来ました! 聖伝のミサの時に東京の会場と大阪の聖堂でおわけしております。
アヴェ・マリア・インマクラータ!愛する兄弟姉妹の皆様、2019年の聖伝のミサによる典礼カレンダーの印刷が出来ました!大変お待たいたしました!今回の聖伝のミサの時に東京の会......


愛する兄弟姉妹の皆様をクリスマスの聖伝のミサ(トリエント・ミサ、ラテン語ミサ)にご招待します!
アヴェ・マリア・インマクラータ!愛する兄弟姉妹の皆様をクリスマスの聖伝のミサ(トリエント・ミサ、ラテン語ミサ)にご招待します!多くの方々が私たちの主イエズス・キリストがお生......



なぜ人間の命は大切で尊重しなければならないのか?その深い理由は?私たちに与えられたその命は何の為にあるのか?

2019年12月23日 | お説教・霊的講話
2019年12月7日(初土)聖母の汚れなき御心の随意ミサ(東京) 
聖ピオ十世会司祭 小野田神父様御説教


聖なる日本の殉教者巡回教会にようこそ。

今日は2019年12月7日、12月の初土曜日です。
ここで初土の信心のミサを行なう事ができて嬉しく思います。

今日このミサにいらした方には、そのマリア様を愛する心の滲み出るのを感じております。今日来た方には特別に、新しく出来たばかりのカレンダーをどうぞ無料で取って行って下さい。
本当に皆さんがミサにたくさんいらっしゃって下さって、感謝致しております。
マリア様がどれほどお喜びになっている事か、その天国でのマリア様の微笑みを感じるようになさって下さい。

明日はマリア様の特別の御恵みの大祝日です。聖母の無原罪の御孕りです。10時半からミサがあります。


聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

今日私たちは、生まれつつある子供たちの為の、特別の命のミサを行なっています。

それでぜひ今日は、
⑴一体なぜ、人間の命がそれほど大切なのか?なぜ、人間の命をこうやって尊重しなければならないのか?その深い理由をぜひ知って下さい。

⑵そして人間の、私たちの命を守る為に、私たちは何をしなければならないのか?そして私たちに与えられたその命は何の為にあるのか?その目的を深く知って下さい。

⑶そして最後に、遷善の決心を立てる事に致しましょう。


⑴第1に、では一体なぜ、命はそれほど大切なのでしょうか?

それは深い意味があります。カトリック信者であるからこそ、答える事ができる理由があります。

なぜかと言うと、私たち人間は、他の動物とは違って、天主の像と似姿に似せて、創造されてあるからです。

創世記によると、「天主は最初に、男と女を創った。そしてこれを御自分の『像』“image”と、『似姿』“similitudo”に従って、御創りになった」とあります。

神学者は、この2つの単語が使われている事を見てこう指摘します。

「天主の像」と言われた時には、自然の状態のことだ、と。天主のイメージ(像)に従って、つまり知性を持ち、自由意志を持って、真理が何であるかをはっきりと知り、そして善と悪を区別し、自由に真理を認めて、そして善を自由に選ぶ、そして天主を愛する者として創りました。これは自然の段階です。

更にこれを使って、超自然の段階に行くことができるように、天主の似姿に、天主の命を受ける事が、天主の本性に与る事ができるように、この自然を高めました。

ですから、私たちは生まれた時から、たとえ天主の聖寵の御恵みが無かったとしても、「天主の像である」という事には変わりがありません。知性とそして自由意志を持って、自由決定能力を持って、善を選ぶ事ができる、その天主の像が私たちの中にあるのです。

ちょうどこのマリア様のお写真、あるいはイエズス様のお写真、あるいは誰かの愛するお母様のお写真、あるいは写真を、もしもこの児童会館の会長のお写真を、誰かが破ったり、踏みにじったりしたり、壊したりしたら、私たちは非常な憤りを感じます。

天主も、私たちの中に御自分の像を見ているので、「これを大切にするように」と命じました。

命は、天主だけが私たちに与える事ができて、天主だけが取る事ができます。

特に、罪の無い人々の命は、私たちは絶対に守らなければなりません。たとえその方が病気を持っていたとしても、あるいはその方は不自由だった、その方が自分一人では歩く事ができない、目が見えない、耳が聞こえない、あるいはその他の苦しみを持っていたとしても、罪の無い人の命を奪う事はできません。天主から与えられた、神聖な命であるからです。

もちろん、お母さんのお腹の中に宿る命は、既に人間の命です。受精の瞬間から人間です。たとえ生まれていなくても、人間として生きています。ですからその命を守らなければなりません。

「あぁ、その赤ちゃんはいらない」などと誰も言う事ができません。天主が与えた命であるからです。天主の像であるからです。貴重なかけがえのない命であるからです。

もちろん、その「天主の命を守る」という事は、殺害してはいけないのみならず、傷付けてもいけません。害を与えてもいけません。大切にしなければなりません。健康を守るように、私たちは心を配らなければなりません。ですから、理由もなく体に傷を付けたり、あるいは刺青を入れたりとか、あるいは体を改造したりとかというのは、カトリックの教えではありません、それは許されてはいません。なぜならば、天主の神聖な像であるからです。

ただ唯一、例外として認められてあるのは、もしも癌があったり、あるいは破傷風だったり、「自分の命を守る為に、命の維持の為に、どうしても手術をしなければ命が失われてしまう」という時には、全体を守る為に、一部の腐った部分を切り取る、切断してしまう、という事が許されています。

あるいは命を守る為に、「誰か他の人から襲われた」という時には、私たちは正当防衛をする事ができます。しかし目的は、「命を守る為」であって、殺害する為では傷付ける為ではありません。

同じように、もしも悪意のある、不正な侵略を受けた場合には、正当な戦争もする事ができます。正当防衛です。

さらに、もしも社会の中に腐った部分があって、罪の無い人々を殺害する、殺してしまう、あるいは傷付けるという時には、仕方がなく、正当な審判の裁判の後には、死刑も認められています。社会全体を守るためです。

しかし決して、罪の無い人を殺す事はできません。なぜかと言うと、天主の像であるからです。


⑵では一体第2に、何で、なぜ天主は、これほど私たちの命を大切にしようとして、その命の目的は何なのでしょうか?

それは、天主の像として創られた私たちが、これを良く使って、この人生、この自然の命を良く使って、天主の似姿になるように、天主の命を受ける事ができるためです。

今までの天主の像という、自然のレベルから無限の高みにまで上げられる事ができるように、超自然の天主の本性に与る事ができるように、その為です。

つい最近私たちは、天皇陛下の玉座の着座の式があったり、色々な、遂には今までその皇太子であられた方が陛下となられたという儀式を見ました。

ところで「私たちが、ただのこの自然の段階から、天主の高みに上げられる」、これこそ人間にとって最も高貴で、最も尊厳のある、高い御恵みです。「天主の似姿に、天主の本性に与る事ができるようになった。天主の玉座に着く事ができるようになる」という事ですから。

その為にこそ、私たちのこの命が与えられています。限られた命が与えられています。殉教者はこの命を守る為に、超自然の命を守る為に、この自然の命さえも放棄してしまったほどです。

愛する兄弟の皆さん、どうぞ今私たちが命を守る、その「なぜ命を守るのか」という事をよく深く知って下さい。

天主の姿で、像であって、そして天主の永遠の命を生きる者となる為です。それほどの高みを、高い高貴な使命を受けた、高い命まで高められる事ができる人間の生命であるからこそ、私たちは更に守らなければなりません。

もしも、罪のある人間の命が守られますように、と色々な人々が運動しているのであれば、更に私たちは、超自然の命が守られるように、と奮発しなければなりません。

その為にこそ、「罪の無い命が、特に母親の胎内にいる命が守らなければならない」と主張しなければなりません。


⑶では最後に、マリア様の汚れなき御心にお祈り致しましょう。

私たちには特に、今日のミサに集う私たちには、今生きている、というその命の恵みが与えられて、更に超自然の御恵みさえ与えられている、特別の高みまで上げられている、その最高の価値が与えられている、という事を感謝致しましょう。

私たちが今、私たちのこの天主の子供という高い身分は、マリア様とイエズス様が二人で、十字架の苦しみを受けて、そしてその御血の無限の功徳によって、勝ち得た身分です。その高貴さです。第二のアダムとエワであるイエズス様とマリア様のお陰で天主の永遠の本性に与る事ができています。その事を感謝致しましょう。

そして願わくは、この地上に生まれてくる子供たち、そして今生きている多くの方々が、特に日本にいらっしゃる方々が、この命の大切さに目覚めますように。

特に、罪の無い、お母さんの胎内にいる赤ちゃんたちの大切さに、かけがえのなさに、天主様から望まれた命である、という事に気が付きますように。

この命を守るように、全力を尽くしますように。

そしてその霊魂、赤ちゃんたちが、今生きている人たちが、更に天主の命の高みまで上げられますように、マリア様に是非お祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


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待降節第四主日(一級祝日 紫)の聖伝のミサの羅和対訳テキストを紹介します

2019年12月22日 | カトリックとは

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

待降節第四主日(一級祝日 紫)の聖伝のミサの羅和対訳テキストをご紹介いたします。

ミサ聖祭(指定巡礼聖堂。十二使徒の大聖堂)昔は、今日のミサを行わなかった。なぜなら、四季の土曜日の典礼と叙品式とが、土曜日の夜から日曜日にかけて行われたからである。それで、本日のミサの典礼のほとんどは、他のミサから取ったものである。<書簡>は、前日の叙品式を思い出させ、司祭たちに向かって、言葉と秘蹟という聖なる奥義を行って天主の下僕となったことを記憶させる。また、一般信者に向かって、司祭たちを批判しないようにと勧める。これはすべて、主の間近き来臨に結びついている。

Dominica Quarta Adventus 待降節第四主日
I classis 一級祝日
Statio ad Ss. duodecim Apostolos 指定巡礼聖堂。十二使徒の大聖堂
Ant. ad Introitum. Is. 45, 8. 入祭文 イザイア45ノ8
Roráte, cæli, désuper, et nubes pluant iustum : aperiátur terra, et gérminet Salvatórem. 天よ、上から露をしたたらせよ、雲は義人を降らせよ、地は開かれて救い主を出さんことを。
Ps. 18, 2. 詩篇18ノ2
Cæli enárrant glóriam Dei : et ópera mánuum eius annúntiat firmaméntum. 天は天主の光栄を語り、天空は主の御手の業を告げる。
V/.Glória Patri. V/. 願わくは聖父と・・・(栄誦)。
Roráte, cæli, désuper, et nubes pluant iustum : aperiátur terra, et gérminet Salvatórem. 天よ、上から露をしたたらせよ、雲は義人を降らせよ、地は開かれて救い主を出さんことを。
Oratio. 集祷文
Excita, quǽsumus, Dómine, poténtiam tuam, et veni : et magna nobis virtúte succúrre ; ut per auxílium grátiæ tuæ, quod nostra peccáta præpédiunt, indulgéntia tuæ propitiatiónis accéleret : Qui vivis et regnas. 主よ、願わくは、御力を奮い起こして来給え。大いなる御力をもってわれらを助け給え。そは、御身の聖寵の助けを通して、われらの罪が妨げる[=救い]が、御身の慈悲の赦しによりて、加速せんがためなり。聖父なる天主と共に、(…)。
Lectio Epístolæ beati Páuli Apóstoli ad Corinthios 使徒聖パウロのコリント人への書簡の朗読。
1 Cor. 4, 1–5. コリント前書 4ノ1-5
Fratres : Sic nos exístimet homo ut minístros Christi, et dispensatóres mysteriórum Dei. Hic iam quǽritur inter dispensatóres, ut fidélis quis inveniátur. Mihi autem pro mínimo est, ut a vobis iúdicer aut ab humano die : sed neque meípsum iudico. Nihil enim mihi cónscius sum : sed non in hoc iustificátus sum : qui autem iúdicat me, Dóminus est. Itaque nolíte ante tempus iudicáre, quoadúsque véniat Dóminus : qui et illuminábit abscóndita tenebrárum, et manifestábit consília córdium : et tunc laus erit unicuique a Deo. 兄弟たちよ、私たちを、キリストのしもべ、また天主の奥義の管理者だと皆は考えよ。管理者に要求されるのは、忠実ということである。私としては、あなたたちによって、また人間の審判によって、裁かれることを意としない。そればかりか、自分で自分を裁くこともしない。私の良心には何のやましいところもないが、そのために私は義とされるのではない。私を裁くのは主である。だから、主がこられるまでは、先走った裁きをするな。主は、闇に隠れたものをてらし、心の企てをあらわされる。そのとき、それぞれ天主からほまれを受けるであろう。
Graduale. Ps. 144, 18 et 21. 昇階誦 詩篇144ノ18,21
Prope est Dóminus ómnibus invocántibus eum : ómnibus, qui ínvocant eum in veritáte. 主は、主を呼び求める全ての人々に、真実において主を呼び求める全ての者らにとって近くまします。
V/. Laudem Dómini loquétur os meum : et benedícat omnis caro nomen sanctum eius. V/. 私の口は主の讃美を話し、すべての肉[=人]は、主の聖い御名を祝し奉らんことを。
Allelúia, allelúia. V/. Veni, Dómine, et noli tardáre : reláxa facínora plebis tuæ Israël. Allelúia. アレルヤ、アレルヤ。 V/. 主よ、来給え、遅れ給うな、御身の民なるイスラエルの罪を赦し給え、アレルヤ。
+ Sequéntia sancti Evangélii secundum Lucam. ルカによる聖福音の続誦。
Luc. 3, 1–6. ルカ 3ノ1-6
Anno quintodécimo impérii Tibérii Cǽsaris, procuránte Póntio Piláto Iudǽam, tetrárcha autem Galilǽæ Heróde, Philíppo autem fratre eius tetrárcha Iturǽæ et Trachonítidis regionis, et Lysánia Abilínæ tetrárcha, sub princípibus sacerdotum Anna et Cáipha : factum est verbum Domini super Ioannem, Zacharíæ filium, in deserto. Et venit in omnem regiónem Iordánis, prǽdicans baptísmum pæniténtiæ in remissiónem peccatórum, sicut scriptum est in libro sermónum Isaíæ Prophétæ : Vox clamántis in desérto : Paráte viam Dómini : rectas fácite sémitas eius : omnis vallis implébitur : et omnis moris et collis humiliábitur : et erunt prava in dirécta, et áspera in vias planas : et vidébit omnis caro salutáre Dei. ティベリオ・チェザル在位の第十五年目、ポンツィオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤ分国王、その兄弟フィリッポがイトゥラヤとトラコニティス分国王、リザニアがアビレネ分国王、アンナとカヤファが大司祭だったとき、荒れ野で、ザカリアの子ヨハネの上に、天主のみことばがくだった。そこでヨハネは、ヨルダンの全地方に行き、罪のゆるしのためのくいあらための洗礼を教えた。それは、預言者イザヤのことばの書に、「"主の道を準備し、その小道を正しくせよ。すべての谷はうめられ、山と丘とはみなならされ、曲りくねった道はまっすぐに、でこぼこ道は平らにされ、人はみな天主の救いを見るであろう"と荒れ野に叫ぶ声がする」と書かれているとおりである。
Credo 信経
Ant. ad Offertorium. Luc. 1, 28. 奉献文  ルカ 1ノ28
Ave, María, gratia plena ; Dóminus tecum : benedícta tu in muliéribus, et benedíctus fructus ventris tui. めでたし、恩寵充ち満てるマリア、主御身と共にまします。御身は女のうちにて祝せられ、ご胎内の実も祝せられ給う。
Secreta. 密誦
Sacrifíciis præséntibus, quǽsumus, Dómine, placátus inténde : ut et devotióni nostræ profíciant et salúti. Per Dóminum. 主よ、願わくは、現前のいけにえらに、嘉して[御眼差しを]注ぎ給え。そは、これらがわれらの信心と救いとに益とならんがためなり。天主として、(…)。
Præfatio de sanctissima Trinitate  序誦 三位一体と主日との序誦
Vere dignum et justum est, æquum et salutáre, nos tibi semper et ubíque grátias ágere, Dómine sancte, Pater omnípotens, ætérne Deus: Qui cum unigénito Fílio tuo, et Spíritu Sancto, unus es Deus, unus es Dóminus: non in uníus singularitáte persónæ, sed in uníus Trinitáte substántiæ. Quod enim de tua glória, revelánte te, credimus, hoc de Fílio tuo, hoc de Spíritu Sancto, sine differéntia discretiónis sentímus. Ut in confessióne veræ sempiternǽque Deitátis, et in persónis propríetas, et in esséntia únitas, et in majestáte adorétur æquálitas. Quam laudant Angeli, atque Archángeli, Chérubim quoque ac Séraphim: qui non cessant clamáre quotídie, una voce dicéntes:  Sanctus, ... 聖なる主、全能の父、永遠の天主よ、われらが御身に、いつもどこにても感謝を捧げるのは、実にふさわしく正しいこと、義務と救いである。御身は、御独り子と聖霊と共に、唯一の天主、唯一の主にて在す。すなわち、御身は、一の位格の唯一にて在すのではなく、唯一の実体の三位にて在す。これを、御身が啓示し、御身の御光栄について、信じ奉る。これを聖子について、これを聖霊について、差別なく、分離せず、信じ奉る。真の永遠の天主の本性を告白において、位格における区別と、本性における唯一性と、御稜威における等しさが礼拝されるためである。これを、天使らと大天使らは、智天使も熾天使も、讃美し、絶え間なく声を上げ、日々声をあわせてこう言う。聖なるかな、…
Ant. ad Communionem. Is. 7, 14. 聖体拝領誦 イザイア 7ノ14
Ecce, Virgo concípiet et páriet fílium : et vocábitur nomen eius Emmánuel. 見よ、童貞女は子を孕(やど)し産むだろう。その名は、エマヌエルと呼ばれるであろう。
Postcommunio. 聖体拝領後の祈
Sumptis munéribus, quǽsumus, Dómine : ut, cum frequentatióne mystérii, crescat nostræ salútis efféctus. Per Dóminum. 主よ、受けた賜物により、われらは御身に乞い願い奉る。この奥義にしばしば与ることにより、われらの救いの効果が増大せんことを。天主として、(…)。




O Rex Gentium おお、異邦人らの王

2019年12月22日 | グレゴリオ聖歌
アヴェ・マリア・インマクラータ!

12月22日の晩課のマニフィカトのアンティフォナです。

日本語訳:

おお、異邦人らの王、彼らの願い求める者、角の親石よ、御身は両者を一つにし給う。来たりて、御身が塵から形作り給うた人間を救い給え。

O Rex gentium, et desideratus earum, lapisque angularis, qui facis utraque unum: veni, et salva hominem, quem de limo formasti.





O Oriens おお、昇る[太陽]よ!

2019年12月21日 | グレゴリオ聖歌
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日の晩課のマニフィカトのアンティフォナの日本語訳をご紹介します。

おお、昇る[太陽]、永遠の光の輝き、正義の太陽よ、来たりて、闇に、死の影に座っている者らを照らし給え。

O Oriens, splendor lucis aeternae, et sol iustitiae: veni, et illumina sedentes in tenebris et umbra mortis.

Oriens とは、太陽が昇りつつあることであり、つまり、東である。聖伝によれば、ミサ聖祭は、昇る太陽に向かって ad Orientem 捧げられていた。旧約のエルサレムの神殿の祭壇が西を向かっていた ad Occidentem のとは対照的である。何故なら、新約では、来たるべき救い主の方を向かなければならないからだ。

今日は北半球のほとんどのところでは冬至だ。太陽の日照時間が最も短い日である。しかし、明日からは光を受ける時間が増加する。

世の光であるイエズス・キリストが来る日は近い。





無原罪の御孕りというのは一体、どんな御恵みだったのか?無原罪の御孕りは一体何の為であったのか?私たちに一体どんな意味があるのか?

2019年12月20日 | お説教・霊的講話
2019年12月7日(初土)聖母の汚れなき御心の随意ミサ(大阪)
聖ピオ十世会司祭 小野田神父説教


聖母の聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2019年12月7日、聖アンブロジオの祝日です。また12月の最初の土曜日、つまり初土曜で、マリア様の汚れなき御心の随意ミサを行なっています。

今日は初土(はつど)ですので、このミサが終わりましたら初土の信心を致しましょう。特にマリア様と共に、御聖体の前で、15分の黙想を致します。聖ピオ十世会と日本をマリア様の汚れなき御心に奉献を更新致しましょう。また、明日の大祝日の準備の為のノベナも致しましょう。

明日は夕方の18時から、フォルティン神父様がミサをして下さいます。

12月は、22日の主日から29日まで、1週間ミサがあります。
フォルティン神父様がなさって下さいます。クリスマスにもミサがあります。

2つ目のお知らせです。私たちの御聖堂に数年間、一生懸命通って公教要理を勉強してきた私たちの姉妹が、クリスマスに「マリア・フィロメナ」という洗礼名を受けて、天主様の娘となるという予定です。この姉妹が良い準備を続けて、立派なマリア様の良い、ますます良い娘となりますように、特別の熱いお祈りをお願いします。

そしてまたここにいらっしゃる、今洗礼の準備をされている兄弟の為にも、皆さんのお祈りをお願いします。マリア・フィロメナが洗礼を受けると、日本では今年、15名が洗礼を受ける事になります。たくさんのお祈りをお願い致します。


“Ecce mater tua.”
「汝の母を見よ。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日福音でイエズス様が、聖ヨハネを通して私たちに、荘厳に宣言されました、マリア様を指して、「汝の母を見よ。」

今日、無原罪の御孕りの大祝日というその前に、ぜひ「無原罪の御孕りというのは一体、どんな御恵みだったのか?」
明日、フォルティン神父様が素晴らしく説明して下さいますが、無原罪の御孕りを少し垣間見る事に致しましょう。

⑴無原罪の御孕りは一体何の為であったのか?

⑵私たちに一体どんな意味があるのか?

⑶最後に、遷善の決心を立てる事に致しましょう。


⑴愛する兄弟の皆さん、「天主が人となった」、「私たちが天主の高みに上げられた」というのは、私たちの想像を絶するほどの、ものすごい高貴なものです。

私たちがたとえ、もしも「日本の天皇家の皇族になった」と言っても、それは「私たちが天主の命に参与するようになった・与るようになった」という事に比べれば、何でもない事です。

なぜかというと、私たちが上げられた天主の本性とは、無限の高みにまで上げられたことだからです。

このすべての被造物の、最も高貴な、最も素晴らしい善、最も価値のあるものであったとしても、天主のその永遠の善、無限の富、命、その泉、根源と比べれば、何でもありません。なぜならば、全てのこの地上の、この全宇宙の善・美・真理は、天主から由来するからです。この地上の全てを超越する御方であるからです。制限のない善であるからです。その天主の本性を、私たちが、私たちのものとする事ができるのです。天主の本性を私たちが受けました。

ただ私たちにとっての悲劇は、最初の先祖が、私たちの人類の頭が、そのとてつもない御恵みを、ドブに捨ててしまった事です。それを拒否してしまった事です。

しかし天主はイエズス・キリストは、私たちにそれを、「もう一度回復させよう」と望まれました。その為にこそ、私たちの人間の本性をとって、クリスマスに御生まれになります。その為にイエズス様は、特別の母親を準備しました。マリア様です。

使徒信経で言われるように、「聖霊によりて宿り、童貞マリアより生まれ」る為に、聖霊によりて人となり、童貞マリアから生まれる為に、マリア様を特別に準備されました。これは使徒の時代から、私たちに伝えられた真理であって、教皇ピオ九世が今から約150年前、1854年に荘厳に宣言した事です。

アダムとエヴァが、ものすごいとてつもない贈り物を、高貴な身分を足蹴にして捨ててしまった時に、天主はアダムとエヴァに約束しました。「救い主を送る」と。

そして「私は、この女の子孫とお前の子孫(蛇)との間に、敵対を置く。彼女はお前の頭を踏み砕くだろう。」

教会の古代からの聖人や教父や、聖書を深く研究していた人は、声を揃えて言います、「この約束された女性というのは、マリア様の事である。マリア様と蛇の間には、絶対的な敵対関係がある。」

これはどういう事かというと、マリア様と蛇は一度も、その一部になった事がないという事です。

つまり「マリア様は一度も、悪魔と罪の支配下に置かれた事がない、一瞬たりとも無い」という事です。

旧約聖書の色々なところには、マリア様を預言するような記事がたくさんあります。例えば有名なソロモンの雅歌には、「谷間に咲く綺麗な、棘の中に咲くけれども、決して傷付けられない百合」、あるいは「全く浄い鳩」、あるいは「お前は全く美しい」と、花婿が花嫁に対して言っているその言葉、などがあります。

あるいはゲデオンの毛衣。ある時にはその毛衣だけが濡れて、大地は全く乾いていた、その翌日には、その毛衣だけが露で濡れずに、大地が露に濡れた。これはマリア様の無原罪の御孕りを預言していたものでした。

その他、数え切れないほどの旧約聖書の預言が、マリア様と悪魔との敵対関係の成就に繋がっています。「マリア様が悪魔との支配下に落ちなかった」という事はつまり、「一度も罪の汚れを知らなかった」という事です。

ちょうど全人類の歴史がこの祭壇のカーペットだとすると、それを遥かに超越する永遠の天主は、来たるべきイエズス様の、無限の十字架のいけにえの功徳を見通して、それを既に先取りして、マリア様に、マリア様がそのお母様聖アンナの胎内に孕るその瞬間に、マリア様がこの地上に存在し始めるその瞬間に、それを適用させました。

そこでマリア様の霊魂は、その存在の瞬間から、その最初から、聖寵の充満を受けていました。

天使たちが、あるいは天国で私たちが、その事実を知れば知るほど、その霊魂の美しさに、その太陽の燦然と輝くようなその美しさに、その霊魂の清さに、きっと恍惚としてしまって、えも言われないその美しさに、全天国は讃美と喜びの讃歌を歌うに違いありません。

もしも大自然の、私たちが大自然の山に登って、あるいは紅葉を見て、あるいは雪の美しさを見て、あるいは綺麗な澄み通った海を見て、あるいは太陽、あるいは星を見て、「あぁ、どれほどこの自然は美しいのか!」と思うのならば、感嘆して詩人は俳句を書き、あるいは歌を歌うとしたら、マリア様のその最初の瞬間の美しさは、大自然のどのような美しさも比較にならないほど、更に美しく、更に神々しく、更に輝いているものです。

それを見て、天主聖父は、このような霊魂を創造した事をどれほど御喜びになった事か。
天主聖子は、この美しい霊魂を自分の母とするという事をどれほど御喜びになった事か。
天主聖霊は、この美しいマリア様の霊魂に於いて、聖子の御託身というものすごい大奇跡を、天地を驚かせるようなこの御託身の奇跡を起こすという事を、どれほど嬉しく思った事か。
そしてこの三位一体の大傑作を、天国ではものすごい讃美を以て祝っている事かを、私たちは想像するに難くありません。


⑵一体、これが私たちの少し垣間見るマリア様の霊魂の浄さ、罪の汚れの無さ、その美しさですけれども、言葉をいくら尽くしても足りません。しかし、もしもそのような口で言い尽くす事ができない、永遠があってもそれを讃美し尽くす事ができない、そのマリア様の霊魂の美しさ、無原罪の御孕りは一体、何の為にあったのでしょうか?

まずそれは、イエズス様が、マリア様を御自分の母とする為です。汚れの無い御方を御自分の母とし、そして自分の神殿とする為です。御聖櫃とする為です。

それだけではありませんでした。マリア様を第2のエヴァとして、私たちの優しい、私たちの為にいつも心を砕いて執り成しをして下さる、そして私たちの為に何でもする準備がある、全く良い、憐れみの母を、私たちに下さる為でした。

日本では有名なフォークソングや歌があります。
「お母さんが夜なべをして、冬は寒いだろうからと言って、毛糸で何かを編んでくれた。あぁ、そのお母さんの庵の匂いがして、これはお母さんの心が伝わって、ありがたい。あぁ、お母さんの事が思い出される」等々。

いろいろな歌がありますけれども、しかしマリア様の母心は、その世界中の全ての良い母親と比べれば、それを全て合わせても、足りないほどです。

決して悪魔に負けた事がない、悪魔の支配下に落ちた事がない、悪魔の恐れであるマリア様が、またイエズス様に対して命令を下す事ができる母であるマリア様が、実は私たちの母として、しかも優しい、憐みの、私たちの事を弱さをよく理解して下さる母として、私たちを助ける為に与えられた。その無原罪の御孕りとはまさに、その「私たちの母」の準備でもあったのです。

その天主様の憐れみとその心遣いに、私たちは感謝をどのようにしてよいか分かりません。たとえこの世で一番力のある王様や、あるいは天皇陛下、あるいは大統領のお母さんが、私たちの実は母だ、このお母さんが言えば何でも聞く、だとしても、マリア様には及びません。

「天主の母が、私たちの母となる」これほどのプレゼントがあるでしょうか。


⑶この無原罪の御孕りを、マリア様の、私たちの母の、その汚れの無さを、私たちは讃美しつつ、明日の大祝日を準備致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


Photo Credit

O Clavis David おお、ダヴィドの鍵よ O Antiphona

2019年12月20日 | グレゴリオ聖歌
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日の晩課のマニフィカトのアンティフォナは、O Clavis David おお、ダヴィドの鍵よ、です。

日本語訳は次の通りです。

おお、ダヴィドの鍵、イスラエルの家の笏(しゃく)よ、御身が開けると誰も閉じることなく、御身が閉じると誰も開けることがない。来たりて鎖の家から闇に座る繋がれた者を導き出し給え。





飛行機

2019年12月20日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様!

こんにちは!先日、飛行機に乗る機会がありました。

離陸の時間になったのですが、先方の空港が混んでいるので、そちらに何時何分に到着するように、羽田空港を何時何分に離陸するように指示があったそうです。

すると、その時間になるまで待っていた飛行機は動き出し、他の飛行機たちを追い越してピタリとその時間に滑走し離陸しました!

すごいものです。先方の空港にもピタリとその時間に着陸しました。

天の国にもピタリと行くことができますように!

天主に感謝!

















輪廻転生が無いこと

2019年12月19日 | 質問に答えて
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

輪廻転生が無いことについて質問をされましたので、お答えします。

私たちが生きているこの世界をよく観察すると、私たちの考えている外の世界が秩序づけられて存在しています。数多くの種の動物や植物があります。

これらは、あまりにも素晴らしく完成されたデザインによって目的にかなうように作られています。鳥が羽ばたいて飛ぶのも、昆虫が飛ぶのも、花が咲いて実を付けるのも、人間の知性を超える知恵深い構造をしています。

私たちは世界が偶然ではなく、創られて存在したと知っています。全宇宙を無から有にあらしめたその方を、私たちは天主と呼んでいます。

この天主は、私たちを含めてすべてを無から創造しました。つまり、この天主は、私たちが永遠の命の至福を得るために、この地上での短い生活をするように人間を創造しました。

元来は、短い地上の生活の後に天上での生活に移されるはずでした。しかし、人間が死ぬようになったのは原罪のせいです。

人間は、この地上での生活の終わりに死を迎えることになりました。死とは肉体と霊魂との分離です。

霊魂は、この肉体を離れた後には、最後の審判の時に肉体ともう一度合体するまで、分離したままです。固有の霊魂には、固有の肉体があり、この体がなければ霊魂はこの地上の命には戻れません。言い換えると、輪廻転生はありません。

天主による世界の創造、創造の目的、人間だけが持っている理性による行動、天主が人間となって贖いの業を成し遂げたこと、などを考えると輪廻転生はあり得ません。

●人間は、ただ一回きり、この世で生活します。今、この人生を、良く、正しく送らなければなりません。失敗はできません。もしも、何度もチャンスがあるのなら、天主の聖寵の貴重さ、人間の自由の大切さが、どうでもよくなります。次があるのですから。

●人間の赤ちゃんをみると、生まれた時は何の記憶もありません。言葉から少しずつ、全て学んでいかなければなりません。「前世」の記憶の話しをする人は、確かめることが出来る証拠もなく話しています。現在に至るまで前世に生きていたと証明することが出来るような証拠をもって主張する人は一人も存在していません。
(In 1952 Virginia Tighe was put under hypnosis; she claimed to be the reincarnation of one Bridey Murphy, a woman who had lived in Cork, Ireland. Her story was turned into a best-selling book, but Virginia Tighe was exposed as a fraud decades ago. To this day, not a single verifiable example exists of a person being regressed to a former life.)

●別の人に生まれ変わるというような輪廻転生があるとすると、天主による永遠の命への救いという究極の目的がありえなくなります。

●別の動物に生まれ変わるというような輪廻転生は、不可能です。何故なら、動物と人間ではあまりにも違いすぎるからです。

●輪廻転生の考えは、肉体を罰や牢獄であるかのように軽蔑しています。

●肉体は、個人の霊魂によって形成されます。人間の霊魂は二つと同じものがないかけがえの無い存在です。肉体が車のシャーシで、霊魂がエンジン、どれでもよく交換可能というわけではありません。

●輪廻転生は、カースト制度の差別と深いつながりがあります。例えばヒンズー教では、身分の低いカーストに生まれた人々は、前世の罪のせいなので、彼らを助けてはならないとされます。いま残酷に惨めに死ねば来世において高いカーストに生まれ変わるだろう、と。天主から愛されている人間が、憐れみを受けずに、人間として取り扱われないことになります。非道なことです。

これを書くのに次のサイトを参考にしました。
Why not Reincarnation?

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


O Radix Jesse おお、イェッセの根よ!

2019年12月19日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日のO antiphon の日本語訳です。

おお、イェッセの根よ、御身は民々の印として立ち、それについては王たちは自分の口を閉じるだろう、御身を異邦人らは祈り求めるだろう。我らを解放する為に来たり給え、もはや遅れることなかれ。

イザヤ書11:1:「イェッセの根から芽が出て、その根から花が登るだろう。」
イェッセの根からの枝は聖母マリアだ。その花はキリスト。聖母マリアはこの世にキリストをもたらす。

枝は生命の木とななり、民々の印となる。十字架の木だ。
地上の王たちは、この印を仰ぎ見て沈黙する。
ヨハネ12:33「私が地上から挙げられた時、私は全ての人々を私に引き寄せるだろう。」












晩課のマニフィカットのアンティフォナ「おお、アドナイ」O Adonai!

2019年12月18日 | グレゴリオ聖歌
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、
今日の晩課のマニフィカットのアンティフォナは「おお、アドナイ」でした。

おお、アドナイ(主)、イスラエルの家の導き手よ、御身はモーゼに赤き炎の火において現れ給い、彼にシナイ山において法を与え給えり。伸ばした腕において我らを贖う為に来たり給え。






イエズスの愛の本当のありのままの姿をもしも私たちが知ったなら・・・

2019年12月17日 | お説教・霊的講話
「イエズスの愛の本当のありのままの姿をもしも私たちが知ったなら・・・」
2019年12月6日(初金)御聖体降福式にて
聖ピオ十世会司祭 小野田神父


御聖体の内に真に在し給うイエズスの聖心、私たちを深く愛し、世の終わりまで御聖体の内に閉じ込められ給う愛の聖心、私たちの目の前に、こうして在し給う私たちの天主、救い主、贖い主、王、イエズス様の聖心の前で、礼拝と、感謝と、讃美を御捧げ致しましょう。

全宇宙を、愛を以て支配して、統治されている全能の天主。

天群の天使たち、何万何億何兆の天使たちが目の前に平伏し、讃美し、「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」讃美の褒め歌を絶え間なく歌っているその天主、イエズス・キリスト。

私たちを一人一人、愛を以て無から創造された天主。私たちをその御血を以て贖って下さったその天主。

聖父と聖子と聖霊と共に、私たちの霊魂に住まいを築かれている天主、イエズス・キリスト。

無限の愛、全能の王、支配者、その御方が、パンの形をとって、私たちを愛するがあまり、御聖櫃の内に隠れて、私たちの前に、愛を、礼拝を、御待ちでいらっしゃいます。

これほど愛する天主のイエズスの聖心の愛は、多くの人によって無視され、無関心と、冒瀆と、冷淡とによって、お礼をされています。

イエズス様が流されたその御血、苦しまれたその御苦難、担がれたその重い十字架、打たれたその鞭打ち、辱め、屈辱、悪口、暴言、全ては、私を愛する為でした。

永遠があっても、感謝しきるには足りません。

イエズス様の愛の、本当のありのままの姿を、もしも私たちは知ったら、嬉しさと感謝のあまり、私たちはここで、息が絶えてしまうに違いありません。


おお、智慧よ!O Sapientia ! antiphona

2019年12月17日 | グレゴリオ聖歌
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様!

今日から、クリスマス前の有名なO アンティフォナが始まりました。

おお、智慧よ、御身はいと高き者の口から出(いで)て、極みから極みまで到達し、力強くかつ優しく全てを整え給う。我らに賢明の道を教えるために、来たり給え。







--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
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