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ベネディクト十六世、ジェンダー・イデオロギーとLGBT運動の「破壊的な」嘘を暴露する:結婚と性についての真理は、特に同性愛を根本的に排除するものである

2023年03月20日 | プロライフ

ベネディクト十六世、ジェンダー・イデオロギーとLGBT運動の「破壊的な」嘘を暴露する:結婚と性についての真理は、特に同性愛を根本的に排除するものである

同性間の関係は非常に倒錯したものであるため、結婚の影にさえも「絶対的に」似ていない。不毛で、罪深く、補完性を欠き、結婚と家庭についてのいかなる定義的特性をも欠く。

Benedict XVI exposed the ‘destructive’ lies of gender ideology and the LGBT movement

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、聖ヨゼフの祝日おめでとうございます!

今日の混乱の危機において、ベネディクト十六世の教えは、ジェンダーと性的指向(sexuality)に関して切実に必要とする明瞭さを与えています。この記事の日本語訳が、日本におけるカトリック教会の司教さま方と、カトリック新聞を編集される方々と購読者の皆さまの参考資料としてお役に立てれば幸いです。

ベネディクト十六世、ジェンダー・イデオロギーとLGBT運動の

「破壊的な」嘘を暴露する

レイモンド・ウルフ

2023年1月23日(月曜日) 米東部標準時間午後9時間54分

(LifeSiteNews)―ジェンダーと性のイデオロギーは、社会のほぼすべてのレベルでかつてないほど飽和状態に達しており、それにどう対処するかについての指針はほとんどないように思えます。

カトリック教会においてさえ、LGBTに好意的な高位聖職者たちがバチカンを支配しており、以前は疑いようのなかった性倫理に関する教理を、公然と否定する司教が増えています。

人間の本性と道徳という最も基本的な事実に関するこの混乱の危機において、教皇ベネディクト十六世の教えは、ジェンダーと性的指向に関して切実に必要とする明快さを与えています。

ベネディクトは、1963年には早くもジェンダー・イデオロギーがもたらす脅威を認識していました。当時、ミュンスター大学での【教授】就任講義で、「男と女の違いの廃止」や、「最初から備わっていた人間の本性」に対する攻撃を断罪しました。

教皇聖ヨハネ・パウロ二世の下での教理省(CDF)のトップとして、同性愛に関する書簡(1986年)や、同性同士の結合に対する断罪(2003年)フェミニズムに対する断罪(2004年)など、性的指向に関する聖伝のカトリックの教えを擁護する、今でも適切な文書をいくつか書きました。

ベネディクト十六世は、教皇として、真理の擁護および生きる権利の擁護と並んで、結婚とキリスト教人間学の推進を教皇職の主要な優先事項としていました。

このバイエルン人の教皇ほど、ジェンダー・イデオロギーやLGBT運動に対抗して雄弁に、そして情熱的に世界を舞台に語った人はほとんどいません。この事実は、国際的左翼の不滅の憎しみを買ったのです。

「男女の正しい関係という問題は、人間存在の本質的な核心に根ざしています」と、彼は教皇選出直後の激しい演説で述べました。その問題に対する間違った答えの中には、同性「結婚」や、「肉体の発見で通用するものの、実際には肉体を卑しいものとする二元論」であるその他の形態の「性的放縦」があります。

ベネディクトは、ジェンダーと性的指向に関する自分の教えの根拠を、創世記にある記述、自らが「創造主の結婚に関する計画の三つの基本的要素」と呼ぶものに置きました。それは、天主は人を男と女に創造し、彼らの間に婚姻を成立させ、生命を伝達する使命を与えた、というものです。

彼は、これらの基本的な真理を損なうイデオロギーは、文明の未来と「人類社会全体の善」に対する重大な脅威だとみなしました。これらのイデオロギーを打ち負かし、結婚と家族の聖性を促進するための戦いにおいて、彼の教えはかけがえのない資源です。

ベネディクト十六世:ジェンダー・イデオロギーは「存在という概念そのものを攻撃している」

ベネディクト十六世は、男女の実在を否定するジェンダー論を、人間を真理から切り離し、「自己破壊」に導く相対主義の一形態であると特定しました。

ベネディクトは教理省長官だったとき、世界のカトリック司教たちに宛てたフェミニズムに反対する2004年の書簡で、ジェンダー論の主張を解体しました。

「この観点によれば、人間の本性は、それ自体で絶対的な形で特性を持つわけではないとされる。すべての人は、その本質的な構成に関連するあらゆる事前決定から自由であるため、好きなように自分を構成できるし、そうすべきだ、とされる」と、彼は書いています。

「『ジェンダー』という言葉でしばしば表現され理解されるものは、結局のところ、被造物と創造主から人間を自己解放する試みだと分かる」。

ベネディクト十六世は、左翼メディアのヒステリックな反発を招いた2008年のローマ教皇庁でのクリスマスの発言のように、教皇としてジェンダー論への批判を新たにしています。

「教会が人間の本性を男と女として語り、この創造の秩序を尊重するよう要求するとしても、これは時代遅れの形而上学ではありません」と、彼は宣言しました。

「『ジェンダー』という言葉でしばしば表現され理解されるものは、結局のところ、被造物と創造主から人間を自己解放しようとする試みだと分かります。人間は自分自身の主人になろうと欲し、自分に関することはすべて自分一人で、常にかつ独占的に、決定しようと欲しているのです」と述べました。

しかし、これは不可能なことだとベネディクトは説明しました。自分が創造された本性をもっているにもかかわらず、自分自身を「決定」しようとするならば、人間は「真理と対立し、創造主の霊と対立して生きる」のであり、最終的には「人間自身の自己破壊」という結果になるからです。

それは、先見の明がある観察でした。数年のうちに、欧米では「性別移行」(gender transitions)が爆発的に流行し、何万人もの子どもたちが「性別の肯定、確認」(gender affirmation)の名の下に去勢し、肉体を切除することになるからです。

性別とジェンダーに関する混乱が急増する中、ベネディクトは2012年のクリスマスに行った別の力強い講話で、ジェンダー論が「存在という概念そのもの」を攻撃していると非難し、その断罪をさらに強めました。

彼は、性別が「もはや与えられた自然の要素ではない」とする「この理論の明白」かつ「深い虚偽」を非難しました。彼は、フェミニスト作家のシモーヌ・ド・ボーヴォワールの「人は女として生まれるのではなく、女になる」という宣言を取り上げました。

ボーヴォワールのフェミニズムには過激な「人間学的革命」が含まれており、人間からその本性を奪い取り、人間を単なる「抽象的な人間存在」に貶めてしまっている、とベネディクトは述べるのです。

「人々は、自分には肉体のアイデンティティーによって与えられた、人間を定義する要素となる本性を人々が持つという考え方に、異議を唱えます。彼らは自分の本性を否定し、それは以前から与えられていたものではなく、自分自身で作り出したものだと決めつけます。(…)【彼らによると】創造された現実としての男と女、人間の本性としての男と女は、もはや存在しない、とされます。人間は、自分の本性に疑問を投げかけます。これからは、人間は単なる精神と意志にすぎないとされます。今日、私たちの環境に関する分野で、私たちは自然の操作を嘆いています。しかしこの自然の操作こそが、今や、人間自身に関する分野では、基本的な選択となっているのです」。

二つの性別は現実のものであり、霊魂と肉体の両方を定義する

ベネディクト十六世は、ジェンダー・イデオロギーという嘘に対抗して、二つの性別という現実を、啓示された真理として強調しました。両性は、流動的な「社会的に作られたもの」ではなく、不変で内在的に異なるものであり、人間生活のあらゆる面を形作っていると、説きました。

「男と女は創造の最初の瞬間から別個の存在であり、永遠にそうあり続けるでしょう」と、ベネディクトはフェミニズムに反対する書簡の中で書きました。

彼は、「天主はご自分にかたどって、人間をつくり出された。人間を天主のかたどりとし、男と女につくり出された」(創世記1章27節)という、創世記の「すべてのキリスト教的人間学の不変の基礎」を引用しました。

男であることと、女であることは「存在論的に創造に」属する、「それゆえ、現在の時を超えて永続するように定められている、もちろん、変容した形で永続する」

「それゆえ、正に最初から、人類は男性と女性の関係で明確に表現されている」と彼はコメントしています。「これこそが人類であり、性によって区別され、これが『天主のかたどり』と明確に宣言されている」。

ベネディクトはまた、性別は、肉体だけではなく、霊魂にも適用されることを明確にしました。

性別による差は、「肉体的なレベルだけでなく、心理的、精神的にも男女を特徴づけており、表現の一つ一つにその痕跡を残している」と、彼はバチカンの指針を引用して書いています。「それは、単なる重要性のない生物学的な事実に矮小化することはできず、むしろ『人格の基本的な構成要素であり、存在、発現、他者との意思伝達、感情、表現、人間愛を生きる様式の一つである』」。

男性であるか女性であるかは、「人間という被造物の本質に付随する。この二元性は、天主によって定められたように、人間であるということのすべてに関する本質的な側面の一つである」と述べました。

性の区別は、人間の本性に非常に深く刻まれているため来世でも存在する、とベネディクトはさらに説明します。男であることと女であることは「存在論的に創造に」属するものであり、「それゆえ、現在の時を超えて永続するように定められている、もちろん、変容した形で存続する」と述べ、黙示録にある「小羊の花嫁」である女性的エルザレムのイメージを指し示しました。

ベネディクト十六世が宣言した性別に関するキリスト教の真理は、ジェンダー・イデオロギーに矛盾対立します。しかしこの真理は、事実、生物学的な現実と一致しています。

現代の生物学は、性別は受胎時に決定され、個人のDNAと全身の何兆個もの細胞にコード化されることを示しています。性別による差は、「神経科学のあらゆるレベルで」脳に影響を与え、病気のリスクから、認知プロセスや感情のプロセスに至るまで、あらゆる面で男女間の相違点をもたらしていると示しています。

米国小児科医師会によると、「遺伝性疾患を除いて、女性は、有核体細胞中に2本のX染色体を有し、男性は有核体細胞中にX染色体とY染色体を有しています」。「人の性的な外見を変えても、その人の遺伝情報を変えることにはなりません」。

男性と女性:互いのために造られた

ベネディクトは、二つの性による違いを強調する一方で、その基本的な補完性も強調しました。これもジェンダー論やその関連イデオロギー、特にLGBTイデオロギーによって脅かされている人類学上の基本的な事実です。

性による補完性を否定することが、結婚に性別は関係ない、男女は充足のためにお互いを必要としないという前提に基づく同性間の「結婚」の考えの支えとなっています。

ベネディクトは、このような誤謬に対して、自らの教えの中で反論し、男女は同性同士ではなく、明確に互いの完成のために創造されたということを強調しています。


天主から与えられた本性によれば、男と女は「肉体的、心理的、存在論的な補完性」を持っている

彼は、最初の回勅「神は愛」(Deus Caritas Est)の中で、男女の補完性を再確認し、再び創世記に言及しました。創世記で、天主はこう宣言しています。「人間が一人きりでいるのはよくない。私は、彼に似合った助け手を与えよう」(創世記2章18節)。

「他のすべての被造物の中には、人間が必要とする助け手となることができるものは誰もいない」と、ベネディクトは書いています。「そこで天主は、人間のあばら骨から女をつくられた。アダムは、自分が必要としていた助け手を見つけた。『これこそ、わが骨の骨、わが肉の肉』」(創世記2章23節)。

ここで、聖書の中には「異性との交わり(communio)においてのみ、人間は『完全』になりうるという思想」があると教皇は述べました。

ベネディクトは、フェミニズムを糾弾する書簡の中で、同じテーマを長く論じています。

「天主によって形作られ、自分が耕さなければならない園に置かれ、今でもアダムという総称(種の表現)で呼ばれる男は、動物たちが存在していても克服できない孤独を経験した。男には、自分のパートナーとなる伴侶(helpmate)が必要である。ここで、この言葉(伴侶)の意味は、劣った者ではなく、不可欠な助け手のことだ。これは、アダムの人生が、自分との不毛な出会いとなり、最後にはそれが破滅の出会いにならないためである」。

「同じ『肉』からつくられ、同じ神秘に包まれた女だけが、男の人生に未来を与えることができる」と、彼は記しました。

天主から与えられた本性によれば、男と女は「肉体的、心理的、存在論的な補完性」【男と女の二人は補完しあって一つとなる】を持っており、その結果、「『一致・二元性』(uni-duality)という調和のとれた関係」をもたらしている、とベネディクトは述べています。原罪は、その関係に不調和と欲情をもたらしましたが、その関係の本質的な秩序と善を破壊するものではありませんでした。

ベネディクトが中心となって発展させた「カトリック教会のカテキズム」も同様に、「男と女は『相互のために』造られ」、天主の意志によって「相互の交わりのため」、「男性、女性としては補い合うものです」と教えています【同カテキズム372】。

結婚の真理は「人間の精神」の中に刻まれている

互いを完成させるために天主によって造られた男女は、気軽で表面的な関係のためでもなく、結婚のため、つまり、自分を完全な贈り物とし、精神と肉体が一体となって解消のできないようになるために造られています。

ベネディクト十六世は、一人の男と一人の女の間でなされ、出産を目的とする結婚の本性を断固として擁護しました。彼の結婚についての神学は、再び、結婚が男女の本性に固有のものであると断言する創世記から始まります。「それゆえ、人はその父と母を離れ、妻と結ばれ、二人は一つの肉となる」(創世記2章24節)。

「神は愛」の中で、このことについてベネディクトはこう書いています。「アダムは女性を見つけるために『母と父を捨てる』探究者であり、二人が一緒になって初めて完全な人間を表し、『一つの肉』となる」。

「創造の立場から、性愛(eros)は人間を結婚に向かわせ、唯一で決定的な絆に向かわせます。こうして、またこうすることによってのみ、その最も深遠な目的を果たす」と彼は付け加えました。

創世記はまた、結婚が基本的に出産に向けられていることを明らかにしている、とベネディクトは説明しました。

「天主は、男と女の結合を、天主の創造のみわざに特別にあずからせることをお望みになった。こうして、天主は『産めよ、増えよ』という言葉で男と女を祝福された(創世記1章28節)。それゆえ、創造主の計画では、性的な補完性と出産をもたらすことは結婚の本性に属する」。

子どもの多い結婚も同様に、両性の本性に属する。ベネディクトは、性別による差は「聖書にあるように、男女が一つの肉となることによって、生命の伝達に開かれた人々の真の交わりを実現し、それによって、新しい人間の出産のために天主と協力するという愛の形を表現している」と書いています。

「天主は、私たちを男と女に造られた。両者は、尊厳においては平等だが、同時に、それぞれの補完的な特徴を持っており、それは、両者が互いのために贈り物となり、互いを大切なものとし、愛と命の共同体を実現させるためである」と、彼は2012年の世界家庭会議の説教で述べています。

最近では、名誉教皇として、「男女の共同体と生命の伝達に開かれていることが、結婚と呼ばれるものの本質を決定する」と、彼は書きました。

社会運動やイデオロギーが結婚の原理を攻撃することはできても、人間の本性からそれらを根絶することはできない、とベネディクトは主張します。

「いかなるイデオロギーも、結婚は一組の男女の間にのみ存在するという確信を人間の精神から消し去ることはできない。男女は、固有で排他的な互いの個人的な贈り物によって、互いの人格の交わりに向かう傾向がある。このようにして、彼らは、新しい人間の命の出産と育成において天主と協力するために、互いに完成させる」。

同性の間の結合は、自然法と、天主の結婚の設計に「絶対的に」反する

結婚と性についての真理は、特に同性愛を根本的に排除するものである、とベネディクト十六世は教えました。

枢機卿として、そしてローマ教皇として、彼は、同性の肉体関係が本質的に悪であり、無秩序であることを再確認しました。彼の言葉によれば、その関係は、決して結婚や結婚に「ほんのわずかであっても」似たものを構成することはできない、です。

「同性間の結合を、天主の結婚と家族に関する計画と似ているもの、あるいは、ほんのわずかであっても類似していると考える根拠は全くない」と、彼は同性の結合の法的承認に対する2003年の教義信仰省の厳しい断罪文書の中で書いています。

同性の関係は「結婚と家族の生物学的、人類学的要素」や「人間的で秩序ある形の性のありかたを表す夫婦の次元を欠いている」と、彼は付け加えました。

ベネディクトは、「結婚は聖なるものであり、一方、同性愛の行為は自然の道徳律に反し」、「出産と人類の生き残りに適切な形で貢献する」ことはできない、と強調しました。

言い換えれば、同性間の関係は非常に倒錯したものであるため、結婚の影にさえも「絶対的に」似てはいないのです。不毛で、罪深く、補完性を欠き、結婚と家庭についてのいかなる定義的特性をも欠いている、と言います。

母親や父親を奪われ、そのような環境で子どもを育てることは、「実際にこれらの子どもたちに暴力をふるうことを意味する」と彼は書きます。

そのような関係は当然、本物の愛を反映することはできません。それは「本質的に身勝手(self-indulgent)」であり「本当の愛情と性的補完性とから出るものではない」のです。ベネディクトは、1986年に出された教理省の「同性愛者の司牧に関する書簡」の中で「同性愛の行為は生命を伝達することのできる補完的な結合ではない。従って、福音がキリスト教的生き方の本質であると述べている自己犠牲的な形の生活への呼びかけを妨害するもの」と書いています。

そのため、ベネディクトは、同性同士の「結婚」を、「正当な家族」とは対照的な「疑似結婚」であるとしました。そのような環境で、母親や父親を奪われた子どもたちを育てることは、「実際にこれらの子どもたちに暴力をふるうことを意味する」と書いています。

また、同性愛の傾向そのものも、賞賛すべきものとは程遠く、「客観的に見れば、無秩序なもの」であると明確にしました。

ベネディクト十六世は教皇在位期間中、同性間の関係を法的に認めることに反対して厳しい言葉で警告し、この関係を「重大な誤謬」であり、「共通善に対する今日の最も陰湿で危険な脅威」の一つであると非難しました。

ベネディクトは2008年の世界平和の日のメッセージの中で、「たとえ無意識であっても、家族という制度を避ける者は、国内的であろうと国際的であろうと、社会全体の平和を弱めているのです」と述べています。

ベネディクトはまた、同性愛とジェンダー・イデオロギーの間にある明確な関連性を指摘し、両者とも、人間の本質の基盤そのものを攻撃し、壊滅的な結果をもたらすものであるとしました。

同性愛という生活様式は、それを実践する人々を「破壊しようと常に脅かしています」と、1986年の教理省の書簡で書き、同性愛の生命を脅かす危険性とともに、重大な罪による霊的な害を指摘しました。

LGBT活動家グループが反映しているのは「唯物論的イデオロギー」であり、これはジェンダー論とは異なり「人間の人格の超越的な性質と、各個人の超自然的な召命を否定する」と教皇は述べました。

ベネディクトは、ジェンダー論が、LGBT運動を生み出し、LGPT運動の「多様な形態の性別を持つ新しいモデル」を実際に生み出した、と述べ、このモデルは、同性愛と異性愛とを「事実上同等」としている、と指摘しました。

「もし、創造において、あらかじめ定められた男女という二元性がないとすれば、家族もまた、もはや創造によって確立された現実ではなくなってしまいます」と、彼は2012年のクリスマス講話の中で述べました。

また、ジェンダー論と同様に、同性愛は、「人間が自分自身に対して好きなことをすることができる」という自由についての誤った感覚を反映している、とベネディクトは2005年のローマ教区大会の講話で述べました。「この疑似的自由は肉体を貶めることに基づいており、それには人間を貶めることが伴うのは避けられません」。

今日、カトリックの反体制派が同性愛に関する教理の変更を求めて騒いでいますが、ベネディクトは、この問題に関する教会の教えが決定的に定まっていることを繰り返し明らかにしました。

「教会は、天主の計画に従って(マテオ19章3-9節参照)、結婚と家庭はかけがえのないものであり、他の選択肢を許さないということを宣言するのをやめることができません」と、ベネディクトは教皇としての最初の書簡の一つの中で宣言しました。

同性愛に反対する現代のカトリックの教えは、「聖書の観点および自らの不変の聖伝と有機的に連続している」と、同性愛に関する1986年の教理省の書簡の中で、彼は書きました。

「カトリック教会のカテキズム」は、これを繰り返して、こう述べています【同カテキズム2357】。「同性愛行為を重大な堕落としている聖書に基づき、聖伝はつねに、『同性愛の行為は内在的に秩序を乱すもの』であると宣言してきました」。「どのような場合であっても、このことを認めることはできません」と付け加えています。


ルフェーブル大司教を擁護する:第二バチカン公会議後の困難な時代においてルフェーブル大司教の持っていた超自然的な賢明さ

2023年03月19日 | カトリックとは
ルフェーブル大司教を擁護する:第二バチカン公会議後の困難な時代においてルフェーブル大司教の持っていた超自然的な賢明さ

In defence of Archbishop Lefebvre
2023年3月4日 FSSPX.NEWSサイト



愛する兄弟姉妹の皆様、

フランソワ・レネ神父(聖ピオ十世会)によるとても良い記事を日本語でご紹介します。これは、「イテ・ミサ・エスト」(Ite Missa Est)【聖ピオ十世会英国・スカンジナビア管区の雑誌】の2023年3・4月号に掲載された論文です。

はじめに

数カ月前まで、私はニュージーランドにいて、教会に関する論争の最前線から遠く離れていました。しかし今は、英国で新しい任務に就いており、ある同僚から、当会の教会法上の地位と教会との関係に関する疑念に悩まされている信者たちを助けることはできないだろうかと依頼されました。そのため、ここに省察をいくつか記しました。天主の聖寵により、それが信者の皆さんの助けになればと願っています。

聖ピオ十世会に対する態度は、活動のやり方に関する軽い意見の相違から、ルフェーブル大司教を異端そのものだと非難するような、中傷(重大なことで誰かを非難するが、しかし虚偽の非難)に終わる敵意まで、さまざまなものがあります。私は、このような非難がいかに虚偽であるかを示し、第二バチカン公会議後の困難な時代における大司教の超自然的な賢明さを、読者の皆さんに納得していただければと願っています。

1.少し歴史を振り返る:1960年代の典礼革命

信者席の信者、敬虔な信者にとって、1960年代はすべてが変わり始め、特に典礼において混乱が支配した時代でした。それは真の典礼革命でした。まず、少しの俗語【各国語】、次に、ここそこで俗語が増えていき、次に、あれやこれやの祈りの削除(例えば最後の福音)、次に、立ったままの聖体拝領、次に、逆向きの祭壇、次に、いくつかの場所での手による聖体拝領、次に…、次に…、次に、…、信者は、次の主日にはどんな新奇なものが出てくるのか分かりませんでした。ミサ典礼書はA、B、C年の週報【日本では「聖書と典礼」】に取って代わられました。信者の持っていた古いミサ典礼書は、価値がなくなってしまいました。より敬虔な信者たちは、新しいミサ典礼書を買いました。しかし、小教区ごとに異なっていたため、あまり役に立ちませんでした…新しいミサは、他の多くの改革の中の一つにすぎなかったのです。

私の経験では、信者たちがさらにショックを受けたのは、敬虔に捧げられた新しいミサそれ自体よりも、信者たちの信仰と信心にとって嫌悪すべきもの、手による聖体拝領でした(信者たちには、カルメル神父(ドミニコ会)といった司祭のように、それを研究する真の方法がなかったからです。「イティネレール誌」(Itinéraires)にある同神父の記事を参照)。

教会を愛するすべての良き信者にとってはつらい現象は、手による聖体拝領と同じぐらい重大で悲しむべき、あらゆる種類の新奇なものを導入した不従順な司祭たちが、「長上から」の支持を受けていたため、自分たちの不従順はとがめられることがなかったのですが、一方で、良き教理を説き、自分の小教区では手による聖体拝領を許さず、ミサでギターを使わせずグレゴリオ聖歌を使う忠実な司祭たち、これらの忠実な司祭たちは、その地位を追われ、降格され、時には早期の引退に追い込まれたということです。同じことが今日でも起こっています。例えば、フランスのトゥーロン教区のレイ司教は、自分の教区で(規模に比例して)フランスのどの教区よりも多くの召命を得ていましたが、昨年6月にローマから、司祭叙階を延期して未定にするよう求められました。

私の【出身地の】小教区、ルーアン近郊のビオレルにある天使の聖母教会では、主任司祭は市内の別の小教区の第二助任司祭とされ、助任司祭は教区のはずれに送られました。2人とも良き司祭であり、説教は正統的で、スータンを着続け、手にご聖体を授けることはせず、ノブス・オルドのグレゴリオ聖歌の本がない時期にはクレゴリオ聖歌の聖歌隊を守り、テキストが朗読と合わないにもかかわらず(!)聖伝のテキストのままをよく歌ったものでした。その小教区からは、5人の聖伝の召命が生まれました(4人はルフェーブル大司教によって叙階されました)。

この2人の司祭が新奇なものから小教区を守ってきましたが、彼らの後任は「移行期の司祭」であり、その新奇なものをすべて持ち込みました。そこで、脱出が始まりました。私の家族はその小教区を離れ、再び聖伝のミサを見つけるまで、保守的な司祭を探しました。母は当時、こう言っていました。「それまでの変化は、崖の上からゆっくりと降りてくるようなもので、聖伝のミサを再び見つけたときは、自分が崖の下にいて(ルーアン近くのセーヌ川の北岸には高い崖があります)、見上げてみて、自分が実際にどれだけ降りてきたかを実感したように思ったのよ」と。

1975年の私の家族のように、早くから聖伝のミサを見つけていた信者もいれば、もっと早かったり、もっと遅かったりした信者もいます。しかし、そのすべての人にとって、聖伝のミサを見つけることは、「これこそ、私たちが奪われてきた宝だ!」という目を開かせる体験だったのです。今日でも、多くの人々が、聖伝のミサを発見すると、同じ反応を起こします。1970年以降に生まれた人々でさえもそうです。それは、しばしば人生の転機となります。聖伝のミサは、教会の中心であり、教会の最大の宝であり、荘厳さと実りのすべてにおいて実践に移されたカトリック信仰なのです。

2.もう少し歴史を振り返る:聖ピオ十世会の始まり

この混乱が、単に典礼の領域にとどまるものではなかったということを記しておくのは、重要なことです。それ以上に重要なのは、それは信仰の問題だったということです。聖職者にとって、公会議は、曖昧さをもって、時にはあからさまな誤謬をもって、しばしば信仰を希薄にするという、この世に対する開放性を導入しました。その開放性は、霊魂に計り知れない損害を与えることになる「『自らを天主とする人間』の宗教への好感」(パウロ六世、1965年12月7日)を持つことを奨励したのです。

【注:パウロ六世の公会議閉会の言葉「"人間となった天主"の宗教は、『自らを天主とする人間』の宗教(なぜならこれも宗教のひとつですから)と出会いました。…限りない好感が公会議全体を侵略しました。…私たちの新しい人間中心主義を認めることを知りなさい。私たちも、誰にもまして人間を礼拝するものなのです。」】

信者のレベルでは、60年代後半に、カトリックの教理から大きく逸脱したカテキズム(オランダのカテキズムなど)や、単に基本的な教理を教えないカテキズムが登場し始めました。今日の「カトリック信者」の若者で、基本的なカテキズムを知っている人がどれだけいるでしょうか? 本当に多くの若者が、正しく教えられたことのない信仰を離れていることに驚く必要はないでしょう。1969年、私が8年生【12歳。フランスでは6歳になる年に小学校に入学する】のとき、司祭が、私たちカテキズムのグループを自分のオフィスに連れて行き、「私に何について話してほしいですか?」とだけ言ったのを覚えています。私は行くのをやめました…カトリックの学校で教師をしていた私の父は、子どもたちに基本的なカテキズムを学ぶことができるように、自分たちでカテキズムを教えることを組織した親たちのグループの一員でした。父は司教から「教会法上の派遣(canonical mission 教会法的身分)」を与えられてはいませんでしたが、カトリック信者の父親としての義務を果たしていたのです(天主は、5人の子どもたちから3人の司祭を出すことで父を祝福してくださいました)。

同時に、神学校の状況もひどいものでした。近代主義者たちは追い風を受けて、限界を知りませんでした。正統信仰を守ろうと望む人々は脇に追いやられ、しばしば神学校を去っていきましたが、いずれにせよ、神学校は、召命に欠けていたため、すぐに閉鎖されてしまいました!

本当に多くの人々が破壊を行っている一方で、ルフェーブル大司教は教化活動をしていました。1969年、シャリエール司教の下でフリブールに学び舎を開設し、1970年にはワリス州(ヴァレー州)(スイス)のシオン教区のアダム司教の認可を得て「霊性の家」としてエコンを開設、翌年には同じ司教からエコンを本格的な神学校とする認可を得ています。ルフェーブル大司教が1970年に初めてアダム司教に認可を求めたとき、アダム司教はこう答えました。「私たちの教区にはまだ三つの神学校がありますから、エコンを神学校として認可することはできません。しかし、少し異なる『霊性の家』はありませんから、エコンを『霊性の家』として認可します」。

しかし、(新しいミサが導入されたばかりの)1970年にフリブールのカトリック大学の状況が悪化し、良い教師と悪い教師が混在していたことから、ルフェーブル大司教は良い教師だけを選んでエコンに連れて来ることにし、そのためエコンが本格的な神学校になることを認めるようアダム司教に再度依頼しました。アダム司教はこう答えました。「昨年、神学校の許可を出さなかったのは、教区にまだ三つの神学校があったからです。昨年、二つの神学校が閉鎖されました。ですから、今年はエコンを本格的な神学校にする許可を出します」。私はこの事実を、関係者のすべてを非常によく知る1970年代初頭の神学校の校長、カノンであるベルト神父から聞きました。

この小さな出来事は、ともて重要でした。新奇なものを導入すれば衰退につながり、聖伝に忠実であれば生命と成長につながるのです。このパターンは、過去50年間、世界中の多くの場所で何度も何度も繰り返されてきたことが分かっています。

聖ピオ十世会は、認可されたから善だったのでしょうか、それともむしろ善だったから認可されたのでしょうか? 正しいトミズム的な答えは、ある行為の第一にして本質的な善はその客体から来る、というものです。外的な認可は、ある種の外来的な善を加えますが、第一にして本質的な善を構成するものではありません。

その反対に、多くの神学校で行われている近代主義の教えは、たとえ教師が長上からの教会法上の派遣(missio canonica)をもって「認可」されていたとしても、客観的には悪のままにとどまります(多くの人の信仰を破壊しています)。教会法上の派遣は、全時代の信仰に反する教えをカトリック的にするものではありませんし、することもできません。

事業の最初がルフェーブル大司教から出たものではない、ということを記しておくのは重要なことです。著名なカトリック信者たち(聖職者や平信徒)が、ルフェーブル大司教に神学生のために何かをしてくれるように促しました。後に、大司教が神学生たちに与えている良い精神を維持するために、神学生同士のつながりを作ってくれるように大司教に促したのは、神学生たちでした。ですから、すべてのことが秩序に従って行われるようにと、大司教は教会法上の認可を求め、そして最初に、その認可を得たのです。

ルフェーブル大司教は、真の教会人として、シャリエール司教を通じて、聖ピオ十世会が教会から正式に認可されることを常に重視していました。大司教の表現はこうでした。「nous sommes d'Eglise――私たちは教会に属しています」、教会の子として、教会の肢体として、教会という木にしっかりと接ぎ木された生ける枝として、ということです。聖ピオ十世会の廃止を常に無効と考えていたからこそ、大司教はその仕事を続けたのです。もし大司教が廃止を有効だと考えていれば、大司教は続けなかったことでしょう。見かけ上は廃止は有効であるかのようでしたが、真実においてはそうではなく、天主の御目にはそうではなかったのです。

3.聖ピオ十世会の認可に関する教会法についての若干の考察

聖ピオ十世会の会憲は、第1条でこう言っています。「兄弟会は、誓願のない共同生活をする司祭会である…」。聖ピオ十世会は、単なるピア・ウニオ(敬虔な団体 pius union)であったと言う人々もいます。彼らの反論は、この混乱が記されているシャリエール司教の書簡に由来するもので、書簡は、聖ピオ十世会はピア・ウニオ(敬虔な団体)として教区に建てられていると言っています。どう考えればいいでしょうか?

私の意見では、この問題を最もうまく扱っているのは、トマス・グラバー神父(教会法博士)です。以下は彼の中心となる主張です。

1.事の性質上、ピア・ウニオ(敬虔な団体)は、会員を、彼らの活動の一部、ある種の特別な善行(祈りなどを含む)のために縛る。誓願のない共同生活の会は、誓願よりも低い絆で、会員が福音的完徳に向かうのを助けるために、会員の全生活を縛る。

2.教会法は、平信徒に関する第三部で敬虔な団体(pious union)を扱っているのに対し、誓願のない共同生活の会に関する条項は、修道者に関する第二部にあり、二つの全く異なる章にある。

3.シャリエール司教は、聖ピオ十世会が誓願のない共同生活の会であることを正確に記した会憲を認可し、こうしてその地位を認可した。

しかし、シャリエール司教が認可した聖ピオ十世会の実態は、単なる「敬虔な団体」(pia unio)ではなく、むしろ会憲で正しく定義されていたもの、すなわち「誓願のない共同生活の会」だったのです。

さらに、もし聖ピオ十世会が単なるピア・ウニオ(敬虔な団体)にすぎなかったとすれば、廃止行為は使徒座の介入を要求することはなかったでしょう(ただし、不服申し立てを聴くことは除く)。さらにまた、教区長が確実性のために使徒座の助言を求めたとしても、ピア・ウニオ(敬虔な団体)はその部門には属さないため、修道者聖省(Sacred Congregation for Religious)はその権限を有さなかったでしょう。モンシニョール・マミーが修道者聖省に相談したという事実そのものによって、彼は聖ピオ十世会が誓願のない共同生活の会であることを暗黙のうちに認めたのです。

もう一つ、非常に重要な法の原理があります。「favorabilia sunt amplianda odiosa restrigenda――好ましいことは広く解釈されるべきであり、好ましくないことは厳格に解釈されるべきである」。なぜ、シャリエール司教の意図を、彼ができる限り認可しないように意図したかのように、最小限にするのでしょうか? その反対に、法の原理は私たちに、彼ができる限り良き仕事を支援したがっていたと解釈するように義務づけています。それ以外の態度は、新約の法の中心である愛徳ではなく、ルフェーブル大司教と彼の聖ピオ十世会に対する悪意を示しています。

4.聖ピオ十世会の違法な廃止:1975年

ルフェーブル大司教は、1969年に9人の神学生から始め、5年後には約90人になりました。フランスの司教たちは心配し始め、伝統的な方法で訓練された司祭を望まず、エコンが「野良犬神学校」(séminaire sauvage)であるかのような中傷キャンペーンを始めたため、バチカンは視察を命じ、それは1974年の秋になされました。バチカンからの視察者たちは、視察した内容に満足したと言いましたが、視察者たちは、何人かの神学生との会話の最中に、主の復活の教義に対する疑いやその他のつまずきを与えるような意見を述べました。そのため、ルフェーブル大司教は1974年11月21日、美しい宣言を発表したのです。

1975年2月、大司教は3人の枢機卿(タベラ、ライト、ガロンヌ)からなる委員会に招集され、視察について「おしゃべり」しました。会話はすべてルフェーブル大司教がした宣言に関すること向けられました。

そして、1975年5月6日付のモンシニョール・マミーの書簡が届き、彼は同日までに、自らの権限で「前任者の行為と譲歩を撤回する」と述べました。教会法は、彼はその権限を持っていないと言っています。司教は、誓願のない共同生活の会を廃止する権力を持ってはいません。司教は、認可することはできますが、いったん認可されれば、それを廃止できるのはローマだけなのです。

同日付の3人の枢機卿からの書簡は、マミー司教は自分が行ったことを行う権利を持っているが、それは客観的に見て教会法に反することである、と宣言したにすぎません。

ルフェーブル大司教は6月5日、この手続きに対して不服申し立てを行いました。6月10日、スタッファ枢機卿は、教皇がこの問題については自らの権限とした、という口実のもと、この不服申し立てを却下しました。6月14日、ルフェーブル大司教は2度目の不服申し立てを行い、この件の文書を要求しました。ヴィヨ枢機卿がスタッファ枢機卿に回答しないように命じたため、大司教は、この2度目の不服申し立てに対する回答は得られませんでした。

それ以来、この2度目の不服申し立ては係争中であり、教会法によれば、このような不服申し立ては「保留状態」(suspensive)となります。つまり、聖ピオ十世会を廃止する決定は、不服申し立てに答えるまで保留されているのです。したがって、現実には廃止はなく、廃止のように見えるだけなのです。

しかし、廃止のように見える以上、大司教はあらゆるところで、いかなる支援も拒否されることに直面しました。

5.善きサマリア人のジレンマ

ルフェーブル大司教は、このような反対に直面した場合、戦いを放棄し、すべての神学生を自宅に戻し、すべての仕事を閉鎖することも十分に可能でした。大司教は、自分のためだけに、信仰とミサを維持することができたでしょう。神学生たちと、すでに大司教を助けていた数人の司祭に、自分たちの面倒は自分たち見させればよかったのです。もし、他の多くの司教が神学校で聖伝に忠実に若者たちを育成していたなら、大司教は喜んでそうしていたことでしょう。しかし、1975年に、大司教は、これらの若者をどこに送ることができたというのでしょうか?

キリストの愛が大司教をしめつけていました(コリント後書5章14節)。大司教は、多くの霊魂が聖伝の教理と典礼を守る良き司祭を必要としていることを十分に認識していました。善きサマリア人(ルカ10章30-37節)のように、大司教は、教会の危機によって傷ついたこれらの霊魂が、道端に半死半生で放置されており、その地の司祭やレビ人は通り過ぎ、世話をしなかったのを見ました。大司教は、その霊魂たちにとってはよそ者でした。大司教は、自分の世話は自分でするようにと彼らを見捨てたのでしょうか、それとも、彼らが請い求めている助けを提供したのでしょうか? 大司教は彼らの世話をしたのです!

ルフェーブル大司教を理解するためには、善きサマリア人の模範を把握することが不可欠です。教会の教父たちはしばしば、私たちの主ご自身がこの善きサマリア人のようであった、と述べています。主の家は天国であり、主は私たちにとってはよそ者として、地上に来られました。旧約の司祭やレビ人は、傷ついた人の世話をしませんでしたが、主は世話をなさいましたし、さらに、ぶどう酒(主の尊き御血の象徴)と油(聖霊の賜物の象徴)をお与えになり、傷ついた人を教会の象徴である宿に連れて来られました。

それ以降、ルフェーブル大司教が聖ピオ十世会を継続させたのは、本質的に言えば、善きサマリア人の愛の答えだったのです。つまり、傷ついた霊魂に手を差し伸べ、自分が受けた賜物、司祭職だけでなく後には司教職さえも、他の人々に伝え、これらの霊魂を新しいセクトではなく、唯一のカトリック教会に導くということだったのです。

彼はその地域の裁治権を持っていなかったのではないか、と大司教を非難する人々がいます。後ほど、その疑問に戻りますが、そのような反論は、あたかも司祭とレビ人が戻って来て善きサマリア人をとがめ、ユダヤでは何の権利もないよそ者だったと非難するようなものです。

6.ミサの問題:1976年

当時、ミサをめぐる戦いは激しくなっていました。ブニーニは、「パウロ六世のローマ・ミサ典礼書の義務的性質に関する通達」(1974年10月28日)を、すべての司教協議会に宛てて発表しました。この通達の中で(そして他の文書の中でも)、聖伝のミサを捧げることを明確に禁止しており、例外は75歳以上の司祭で、その場合は一人の侍者と二人きりで私的に捧げることとしていました。この通達は「使徒座公報」(Acta Apostolicae Sedis)に掲載されることはありませんでした。この通達には、教会法上の価値はありません。自らの至高の使徒継承の権威の全ての重みを行使して、すべての司祭に「永久に」聖伝のミサを捧げる権利を保証した教皇聖ピオ五世の教書「クオ・プリームム」(Quo Primum)を、一人の単なる秘書が、このような小さな通達で、どうして覆すことができるというのでしょうか? できるはずがありません。

しかし、多くの司教はこの小さな通達を使って、聖伝のミサを守ってきた司祭を追及し、小教区から追放するなどしました。私は思い出しますが、シドニーのフォックス神父が、50周年記念ミサの説教の際、「ラテン語ミサは禁止される」(Latin Mass forbidden)という見出しのついた、当時のシドニー・モーニング・ヘラルド紙の一面を見せ、こう付け加えました。「私はそのミサを守りました!」と。私の教区では5人、祖父の教区では4人など、そのミサを守った多くの良き司祭がいました。フランスや多くの国々にそのような司祭が何百人もいましたが、割合的にはほんの一握りで、それでも彼らは、ミサを求める信者のためにそのミサを与える勇気を持っていました。教皇ベネディクト十六世は、「スンモールム・ポンティフィクム」(Summorum Pontificum)の中で、聖伝のミサは決して禁止されていないと明確に述べ、こうして、勇気ある司祭と信者の正当性を証明しました。

しかし当時、多くの霊魂はひどく見捨てられたと感じていました。「子どもたちがパンを求めても、裂いて与える者はない」(哀歌4章4節)。「私の目は涙につぶれ、私のはらわたは煮えたぎり、民の娘の傷を見て、私の肝は地に注ぎ出される。彼らは『小麦とぶどう酒はどこにあるの』と尋ねる。彼らは、町の広場で弱りはて、母のふところの中で、息絶える」(哀歌2章11-12節)。

善きサマリア人のように、傷ついた霊魂に手を差し伸べた司祭たちは幸せです! 「あなたたちは、私が飢えていたとき食べさせ、渇いていたときに飲ませ、…病気だったときに見舞ってくれた…まことに私は言う。あなたたちが私の兄弟であるこれらの小さな人々の一人にしたことは、つまり私にしてくれたことである」(マテオ25章35-40節)。

ルフェーブル大司教は、神学校で私たちにこう述べました。「私は、審判の日に私たちの主が私に対して、『おまえは、他の者たちと一緒に私の教会を破壊した!』と言われるのを聞きたくなかったのです。もし神学校を閉鎖していたなら、私は教会の破壊に加担することになったことでしょう」。教会が破壊されるのはあり得ませんが、このような新奇なものによって多くの霊魂が失われてしまったのです。

ですから大司教は仕事を継続しました。1976年には司祭叙階予定者が13人になりました。その後、彼に対する圧力は強まり、叙階を行わないよう促されました。国務長官代理のモンシニョール・ベネリは、大司教に対して教皇の名で6月25日付の書簡を書き、「公会議の教会への」忠実さを要求しました。この「公会議の教会」(conciliar church)という表現は、この書簡に由来するものです。ルフェーブル大司教はこう述べました。「その教会とは何でしょうか? 私は『公会議の教会』など知りません、私はカトリックですから!この表現が意味する現実とは何だったのでしょうか?それは間違いなく、カトリックの精神とは異質で、キリストの神秘体の中にいるウイルスのような新しい精神です。第二バチカン公会議のあらゆる新奇なものを、疑うことを知らないカトリック信者に押し付けようとするものでした」。

大司教は、1976年6月29日の叙階式の説教で、こう説明しています。「もし、客観的に言って、私たちにこれらの叙階を行わないよう求める人々を動かしている真の動機を探し求めるならば、…それは、彼らが全時代のミサを唱えることができるように、私たちがこれらの司祭を叙階しているからです…それははっきりしています、エコンとローマの間のすべてのドラマが、ミサの問題にかかっていることは明らかです…実際、ローマから派遣された、私たちに儀式の変更を求める人々の主張が、まさに私たちを怪訝に思わせています。そして、このミサの新しい典礼は、新しい信仰を表現しており、まさに私たちの信仰ではない信仰、カトリックの信仰ではない信仰だという確信を持っています。この新しいミサは、新しい信仰の、近代主義の信仰の象徴であり、表現であり、かたどりなのです。

いとも聖なる教会が、聖ピオ五世によって列聖された聖なるミサの典礼という、教会が私たちに与えたこの貴重な宝を何世紀にもわたって守ろうと望んだとすれば、それは決して目的がなかったわけではありませんでした。それは、このミサの中に、私たちの信仰全体、すなわちカトリック信仰全体が含まれているからです。至聖なる三位一体への信仰、私たちの主イエズス・キリストの神性への信仰、私たちの主イエズス・キリストの贖いへの信仰、私たちの罪の贖いのために流れ出た私たちの主イエズス・キリストの御血への信仰、ミサの聖なるいけにえから私たちにもたらされ、十字架から私たちにもたらされ、すべての秘跡を通して私たちにもたらされる超自然の聖寵への信仰です。

これこそ、私たちの信じているものです。これこそ、私たちが、全時代のミサの聖なるいけにえを捧げるときに信じているものです。これこそ、信仰の教訓であると同時に、私たちの信仰の源泉であり、私たちの信仰があらゆる方面から攻撃されているこの時代の私たちにとって欠くことのできないものです。私たちには、私たちの霊魂を聖霊と私たちの主イエズス・キリストの強さで本当に満たすために、この真のミサが、この全時代のミサが、この私たちの主イエズス・キリストのいけにえが必要なのです。

さて、新しい典礼は、私がそう言えるとすれば、カトリックの宗教とは別の概念、すなわち別の宗教を仮定していることは明らかです。ミサの聖なるいけにえを捧げるのは、もはや司祭ではなく、集会なのです。さて、これがプログラムの全体、つまり全プログラムです。今後、教会の権威に取って代わるのは集会でもあります…ゆっくりと、しかし確実に、プロテスタントのミサの概念が聖なる教会に導入されているところなのです」。

7.最初の制裁

当時のメディアは、ルフェーブル大司教の事件を大きく取り上げていました。メディアは大司教の破門を推し進めていたようですが、1976年7月22日に聖職停止の処分が下されただけでした。このこと自体が、ルフェーブル大司教を当時から離教者であったと告発する人々に反論するものです。それが本当であれば【離教者であれば】、その時に与えられた罰は意味がないものになってしまいます。

その罰について、ルフェーブル大司教は次のように述べています。「それは、聖なるミサを捧げ、秘跡を授け、聖別された場所で説教するという、すべての司祭、さらにはすべての司教に固有の権利を私から奪っています。つまり、私は新しいミサを捧げ、新しい秘跡を授け、新しい教理を説教することを禁じられているのです」。

大司教はこの罰に従いませんでしたが、その理由は、その罰が聖ピオ十世会の廃止を前提としていたものであり、廃止は手続きの欠陥のために無効だったからです(上記の2回の不服申し立てを参照)。さらに、大司教は、基本的な自然の正義が欠如していると述べました。つまり、法廷はなく、正確な告発はなく、弁護の権利はなく、第三者の利益を損なっていた、などです。しかし、根本的には、超自然のレベルにおいては、聖ピオ十世会に対して取られた措置を動機づけていたのは、大司教が教会の教理的・典礼的聖伝に愛着を持っていたことと、新奇なものに反対してそれらを拒絶していたことでした。そのため、まさにその根底において、これらの措置は法的に無効であり、したがって存在しなかったのです。

1976年の叙階式に関するすべての報道は、御摂理的なものでした。不変のカトリック信仰に愛着を覚える世界中の多くの信者や司祭が、大司教の模範によって大いに励まされました。以前は、彼らにとって非常に暗い状況でした。年配の司祭たちによって行われる聖伝のミサは、その司祭たちが死んでいなくなれば、その後どうなるのでしょうか? しかし、その後、一人の司教がいて、自分たちのためにミサを守ってくれることになる若い司祭たちを訓練してくれていることを、彼らは知ったのです! 大司教は、彼らに希望を与えたのです。ここで、クローヴィス・アレウイの証言をご紹介したいと思います。彼は、ニューカレドニアの奥地に住むカナック族(グアラウイ町)の族長です。彼は1976年にルフェーブル大司教のことを聞きましたが、彼の反応はこうでした。「あの司教のどこが間違っているんだろうか? 彼は聖伝のミサを唱えているのだから、良い司教に間違いない!」。その後、ヌメアの司教座聖堂でスキャンダルがあった後(1980年頃)、彼はエコンに償いのミサを求める手紙を書き、その手紙の最後にこう記しました。「あなたは聖伝のミサを唱える司祭を養成なさっています、あなたは私たちの希望です!」。その頃までに、ルフェーブル大司教は、世界中から召命を受け入れていました。私は1976年10月にエコンに入学しましたが、19カ国もの国籍の人々がいました。神学校は満員でした。

このように、ルフェーブル大司教が、断罪【破門】されたように思われるときでも活動を続けた根本的な理由は、カトリック信仰への忠実さでした。自分のために聖伝を守るだけでなく、教会の多くの霊魂が信仰を守るのを助けるためだったのです! 大司教はこう書いています。「隷属的で盲目的な従順によって、教会を破壊する彼らの仕事に私たちを協力させたがっていた人々のゲームに、どうして私たちが協力できるというのでしょうか?…したがって、私たちは、何があってもカトリックの司祭職を復興させる私たちの活動を継続させるという固い決心を立てました。教会、教皇、司教、そして信者に、これにまさる奉仕はできないと確信しています」。

8.真の従順と偽りの従順

三大対神徳である信仰、希望、愛は、過剰になることはあり得ません。人は、啓示された真理を固守しすぎることも、天主の御助けを信頼しすぎることも、天主を愛しすぎることもあり得ません。他のすべての徳は道徳的な徳であり、それらの徳は不足と過剰の間の適切な度合いにあります。剛毅の不足(弱さ)があったり、剛毅の過剰(暴力や軽率さ)があったりすることはあり得ます。このことは、特に従順の徳に当てはまります。真の従順の徳は、合法的な命令を実行しない不従順という不足と、違法な命令に従う隷属という過剰の間の適切な度合いにあります。隷属の典型例は、聖なる幼子を殺害した兵士たちです。

聖トマスは、この問題を明確に取り扱っています。「目下はすべてのことにおいて長上に従う義務があるか」。彼は明確に「いいえ!」と答えています。「こう書かれている(使徒行録5章29節)。『私たちは人よりも天主に従うべきである』。さて、時には、長上によって命じられたことが、天主に反することもある。それゆえ、すべてのことで長上に従うべきというわけではない」。そして、こう説明しています。「目下がすべてのことにおいて長上に従わなければならないとは限らない理由が二つある。第一に、さらに高い権力者の命令を理由にする場合。第二に、目下は、長上が自分を権限の下に置いている範囲以外のことをするように命じた場合。その時、長上に従う義務はない」。

さて、教会においては、すべての権威は、一つの目的にために、キリストから来ています。「主が滅ぼすためではなく建てるために私に賜うた権威」(コリント後書13章10節)、「聖徒たち、聖職の働きのためキリストの体を建てるために整え」(エフェゾ4章12節)るためです。これは、聖パウロの書簡の中で16回出てくるテーマです。さて、この建てること(edification)がどのようにもたらされるかは、それぞれの教皇の恣意的な気まぐれによるものではありません。それは、信仰によって建てること(エフェゾ4章29節)と愛によって建てること(エフェゾ4章16節)です。ブニーニがその通達で行っていたように、また現在、「トラディティオーニス・クストーデス」(Traditionis Custodes)が行っているように、聖伝のラテン語ミサを徹底的に破壊しようとする努力は、確かに「建てるため」ではなく、むしろ「滅ぼすため」であり、したがってそれは、いかに高いものであっても、キリストによって与えられた教会の権威の目的そのものに反しています。したがって、それは何の拘束力も持ちません。

聖ピオ十世会で行っていることは、何世紀にもわたって、すべての良き司祭が行うことを許されてきただけでなく、要求されてきたことです。教皇ベネディクト十六世の言葉で言えば、「過去の人々にとって神聖だったものは、わたしたちにとっても神聖であり、偉大なものであり続けます。それが突然すべて禁じられることも、さらには有害なものと考えられることもありえません。わたしたちは皆、教会の信仰と祈りの中で成長してきた富を守り、それにふさわしい場を与えなければなりません」。

司祭がそれを行うことは、たとえ司教から禁じられているとしても、不従順ではありません。なぜなら、司教の権威が与えられているのは「滅ぼすためではな」いからです。司教が司祭を育成し、司祭を叙階することによって、ミサの将来に備えることは、たとえ教皇に禁じられているとしても(他にそれを行う司教がいない場合)、不従順ではありません。なぜなら、教皇の権威でさえ、キリストから来る目的があり、その目的は「滅ぼすためではなく建てるために」であるからです。

【参考】教皇ベネディクト十六世の全世界の司教への手紙-1970年の改革以前のローマ典礼の使用に関する「自発教令」の発表にあたって(カトリック中央協議会)

ルフェーブル大司教は、しばしばこう述べていました。「誰も私たちのカトリック信仰を弱めるよう命じることはできません!」。そうすることは、教会の権威の目的そのものに真っ向から反することになります。カトリックの信仰は、最新の公会議の神学者たちが気まぐれに作り上げて変更できるものではなく、むしろキリストと使徒たちに由来し、何世紀にもわたって私たちに伝えられてきたもの、つまりカトリックの聖伝なのです。

9.権威の所有と権威の行使

従順は、不足を避け、かつ過剰を避けるという同じ徳に属するものです。それゆえ、聖ピオ十世会の廃止に対するルフェーブル大司教の抵抗もまた、真の従順の徳の行為なのです。

特定の命令を遵守することは、権威の行使に応えるものです。もしある命令が悪であるならば、そのような命令は、権威の適切な行使というよりも権威の濫用であり、権威そのものは善のままです。それゆえ、そのような命令に抵抗することは、権威そのものへの服従、すなわち、権威から来るあらゆる正当な命令に従う意志の用意があることと共存することは、十分に可能です。

命令に従う場合であっても、自分の意志に従う者(それが自分を喜ばせるがゆえに)と、より高い権威への従順、究極的には天主への従順から、権威の濫用に抵抗しつつ、あらゆる正当な命令に従う用意のある者との間には、大きな違いがあります。前者は、従ったものの本当は従順ではなく、後者は、従わなかったものの本当は従順なのです。近代主義者たちがその変更に従ったのは、従順からではなく、この変更が自分たちの望むものであったからこそです。彼らは、本当は従順ではなかったのです。しかし、これらの変更に抵抗したルフェーブル大司教は、天主というより高い権威への従順から、権威の濫用に抵抗するという従順の徳を、まさに実践していたのです。大司教はこう言っていました。「サタンの熟練の技は、従順の名の下に、多くの人々を聖伝への不従順へと至らせることでした」。

10.教会との一致に必要なものとは何か?

すべてのカトリック神学者は、教皇の特定の命令に抵抗しても(たとえ正当な命令であっても)、教会との交わりを断ち切ることはないと認めています。聖トマスは、離教についての非常に正確な定義を与えています。「離教者とは、教皇に服従すること、かつ、教皇の至高性を認める教会の成員との交わりを保持することを拒否する者である」。服従を拒否することは、教皇の命令する権利を認めないことを意味します。ルフェーブル大司教は、そのこと【教皇の命令する権利を認めないこと】を完全に拒否しました。大司教は、実践上の命令(例えば、神学校を閉鎖すること)には疑問を呈しましたが、教皇の命令する権利には決して疑問を呈しませんでした。大司教は、権威の所有ではなく、権威の行使に疑問を呈し、いかなる正当な命令にも従うという意志の用意を常に維持していました。ピオ十二世の下でだけでなく、パウロ六世やヨハネ・パウロ二世の下でさえも、大司教の理想は「教皇に仕える」ことでした。ですから、1974年の宣言の中で、大司教はこう言っているのです。

「このため、私たちは、いかなる反抗心も皮肉も恨みもなく、時を超えた教導権を私たちの指針として、司祭を育成するという仕事を追求するのです。私たちは、聖なるカトリック教会、教皇、そして後世に対して、これ以上の奉仕をすることはできないと確信しています」。

これは離教者の言葉ではありません! 大司教の立場を特別なものにしているのは、第二バチカン公会議と公会議後の改革による教会の危機の中で、ローマ教皇庁と教皇自身によって推し進められている新しい方向性が存在する、ということです。それは、神学、典礼、カトリック以外の宗教との関係、この世との関係(キリストの社会的王権の否定。コロンビアなどの国に対して、カトリック国であるとする憲法の第一条を取り去るように求めたのは、教皇パウロ六世自身でした!)において、聖伝に反する方向性です。その新しい方向性は、公会議終了時の教皇パウロ六世の演説の中に、非常に明確に表れています。

「恐ろしい反聖職者的な実態を明らかにした世俗的な人間中心主義は、ある意味で公会議に反抗しています。"人間となった天主"の宗教は、『自らを天主とする人間』の宗教(なぜならこれも宗教のひとつですから)と出会いました。何が起こったのでしょうか。衝突でしょうか。紛争でしょうか。排斥でしょうか。これらが起こり得ました。しかし、これらはありませんでした。…限りない好感が公会議全体を侵略しました。人間の必要を発見し(そしてこの地上の子がますます自分を偉大とするに従って、この必要はますます大きくなるのです)それが私たちの公会議の注意をまったく奪い取りました。現代の人間中心主義者である皆さんも、少なくともこの功績を公会議に認めてください。あなた方は最高の諸現実の超越性を放棄していますが、私たちの新しい人間中心主義を認めることを知りなさい。私たちも、誰にもまして人間を礼拝するものなのです。」【参考】パウロ六世の言葉

パウロ六世が本当に善きサマリア人の精神を持っていたならば、現代人を礼拝するのではなく、治療したはずです。キリストの御血(善きサマリア人のぶどう酒が意味するもの)を、キリストのいけにえの御血を、人間の傷に注いで治療し、回心を促して教会に導いたはずですが、そうはしませんでした。その演説には、十字架については一言もないのです。

それゆえ、教会の聖伝の活動を継続して行うことで、ルフェーブル大司教は、いくつかの個々の濫用的な命令だけでなく、この新しい方向性全体に抵抗するようになりました。すると、ルフェーブル大司教の前に壁が立ちはだかりました。大司教の反論は――【新しく押し付けられている】新奇なものについては無視して――「従順」の名のもとに一蹴されたのです。ラッツィンガー枢機卿の要請で、大司教はローマに一セットの「疑問点」(Dubia)を提出しました。1987年、大司教は回答を受け取りましたが、それは基本的に全く回答になっておらず、ただ一つの主張つまり「従順」があっただけでした。ルフェーブル大司教の回答は単純で、教皇の権力に関する第一バチカン公会議の教義憲章を思い起こさせることでした。「聖霊がペトロの後継者に約束したのは、聖霊の啓示によって新しい教義を知らせるためではなく、聖霊の援助によって、使徒たちが伝えた啓示、すなわち信仰の遺産を信心深く守り、忠実に説明するためである」。この聖霊の援助は、教皇の一つ一つの行為が信仰の遺産の忠実な説明であることを保証するという「自動的」なものではなく、教皇の協力を必要とします。ですから、教皇が新奇なものを推進するとき、それは聖霊の働きではありません。教皇ヨハネ・パウロ二世でさえ、第二バチカン公会議には新奇なものがあると認めているのです。

第二バチカン公会議と公会議後の改革がいかに新しいものであるかを、単に知らない人々がいます。これらの新奇なものは「連続性の中に」あって「連続性の解釈法」を推進する、と主張する人々もいます。しかし、真実は、時には直接的な矛盾があるものの、ほとんどの場合、完全な方向転換なのです。それは、「人間の方への」方向の転換、教皇パウロ六世自身が言ったように、すべてが人間中心となっており、このことは、新しい典礼の中に明白に現れています。

カトリックの聖伝への忠実さから、これらの新奇なものを拒絶することは、教会の交わりからの断絶でないのは確実です! もし断絶があるとすれば、それは方向を転換した人々の側、キリストの神秘体の中の霊魂たちに非常に大きな損害を与える新奇なものを導入した人々の側です。分裂は、忠実さの、全時代の信仰・全時代の典礼・諸聖人の模範への忠実さの結果ではありません。

11.教会の一致とは何か?

教会との交わりを、教皇への従順に矮小化する傾向のある人々がいます。これは確実に、カトリックの教理からかけ離れています。

聖トマスは神学大全の単一の問題で教会について語り、教会のかしらとしてのキリストを語っています(第III部 第8問題 第3項目 異論第2への回答を参照)。彼の教えによれば、教会の一致とは、キリストとの一致、キリストの神秘体の一致であり、また、それ【教会の一致】は成聖の聖寵(ここ地上では信仰、希望、愛、そして天国では栄光)によるものです。しかし、別の教会博士の聖ロベルト・ベラルミーノは、教会に関する代表作の中で、教会をこう定義しています。

「われわれの定義はこうである。二つの教会ではなく、唯一の教会があり、この唯一にして真の教会とは、同じキリスト教の信仰を告白し、同じ秘跡の交わりによって結びついた人間の集まりであり、正当な牧者たちの統治、特に地上でのキリストの唯一の代理人であるローマ教皇の統治の下にあるものである。したがって、この定義には三つの部分がある。つまり、真の信仰の告白、秘跡の交わり、正当な牧者であるローマ教皇への服従である」。

これら二人の聖人にして博士は、互いに対立するどころか、互いに補完し合っています。人間は肉体と霊魂から成り立っているため、内的な一致と外的な一致があります。それは、霊魂を一致させる肉体ではなく、肉体を一致させる霊魂であり、そのため、二つのレベルがあります。教会の内的な一致は、間違いなく、さらに重要であり、もう一つの一致の原因です。この内的な一致において、霊魂の生命そのものがあり、「愛に根ざし、愛に基を置くあなたたちの心に、信仰によってキリストが住まわれ」(エフェゾ3章17節)、「私は生きているが、…私を愛し、私のためにご自身をわたされた天主の子への信仰の中に生きている」」(ガラツィア2章20節)。天主への愛が私たちの隣人の上に溢れるように、キリストとの一致の絆は、キリストの神秘体のすべての成員に及ぶのです。

内的な信仰の徳が、いかに信仰の告白につながるかを容易に理解することができます。「『私は信じた。だから話した』と書き記されているとおり、私たちも同じ信仰の精神をもって信じ、そして話している」(コリント後書4章13節)。

内的な希望の徳は、祈り(つまり礼拝)につながり、また、天国へ行くための助けを得るための秘跡を受けること、つまり秘跡の交わりにつながります。

愛の徳は、従順につながります。「あなたたちは私を愛するなら、私の掟を守るだろう」(ヨハネ14章15節)。「私の掟を保ち、それを守る者こそ、私を愛する者である」(ヨハネ14章21節)。キリストへの従順は、天主の民を支配するためにキリストによって任命された人々への従順につながります。しかし、その従順は、聖ヨハネが書いているように、常に聖伝への忠実さの中にあります。「愛は掟に従って歩むことにある。あなたたちは初めから聞いたとおり、掟に従って歩まねばならぬ」(ヨハネ第二書1章6節)。「あなたたちは、初めから聞いたことにとどまれ。初めから聞いたことにとどまるなら、あなたたちは、御父と御子の中にとどまる」(ヨハネ第一書2章24節)。

信仰の優先順位に注目することは重要です。信仰は、まさに第一の内的な絆であり、唯一の真の信仰の表明は、第一の外的な絆です。教会の一致の中心としての教皇の重要性は、私たちの主イエズス・キリストが教皇に、兄弟たちを信仰において固める義務を与えたという、まさにその事実に由来します。信仰を二次的なものとして脇に置くことはできません。

したがって、三重の内的な絆は三重の外的な絆に対応し、内的な絆は外的な絆の源であり霊魂です。三つの内的な絆に三つの外的な絆を加えれば、教会の一致には六つの要素があることになります。この六つの要素のうち、最も重要なもの、それがなければ救いがないものは、愛なのです。天主への超自然の愛は天主への超自然の知識の後に来るため、信仰のない愛はあり得ませんが、愛のない信仰は死んでおり、救いのためには不十分です。また、愛のない外的な一致も、何の価値もありません(コリント前書13章1-3節)。「愛は完徳のかなめ【絆】である」(コロサイ3章14節)。

さて、いくつか要素が欠如していたらどうなるのでしょうか? 教会(凱旋の教会ではなく戦闘の教会)の内には義人と罪人が混在しているというのが(ドナトゥス派に対抗する)信仰の教義です。したがって、教会との絆を(完全に)断ち切ることなく、愛が欠如することさえあります。絆は確かに傷つき、不完全ですが、それでも残っています。また、水の洗礼がない場合、血の洗礼や望みの洗礼によって救われることがあるというのが教会の一致した教えであり、それらは秘跡でないにもかかわらず、教会との真の絆を生み出します(殉教者は超自然の愛の行いと信仰告白を所有しています。求道者も愛の中におり、洗礼を待つという教会への従順の行いを所有しています)。

聖ロベルト・ベラルミーノ自身、第三の要素である正当な牧者への服従が欠落している例を挙げています。

もしも受けた破門が不当であったなら、破門された人が、洗礼、信仰告白、正当な高位聖職者への服従を保持し、その結果、天主の友であり得ます、また、破門された者が赦免を受ける前に悔悛し、上記の三つ(洗礼、信仰告白、従順)を保持し直すこともあり、そうすれば、まだ破門されたままでも、教会にいることになります。このような人は、霊魂によって、すなわち欲求によって、教会にいるのであって――これが救いのためには十分である――、まだ体によって、つまり外的な交わりによって、教会にいる――これが固有の意味で言えば地上の目に見える教会の成員とする――のではない、と私は答えます。

実際、「正当な牧者への服従」には二つの側面があると考えるべきでしょう。それは、目下による長上の認識と長上による目下の認識です。前者は絶対に必要です。実際、教皇を最高位と認めることを拒否することは、聖トマスが説明しているように、まさに離教の罪です。しかし、後者は、目下ではなく、長上の過失によって欠けることがあります。典型的な例は、コーション司教による聖ジャンヌ・ダルクの破門です。目に見える形では、彼女は【神秘体の】外にいましたが、実際にはキリストの神秘体である教会と非常によく一致していたのです。

聖アウグスティヌスは「真の宗教について」(De vera religione)6.11の中でこう書いています。

「時には、天主の御摂理は、良き人々であっても、肉欲的な人々の側からの乱れや不和の発生によって、キリスト教共同体から追放されることを許すであろう。彼らが教会の平和のためにこのような侮辱や傷害を我慢するという無尽蔵の忍耐を示し、離教や異端という方法で新奇なことを企てないならば、彼らは私たちが天主に仕えるべき心からの忠誠と本物の愛を私たち全員に教えてくれるであろう。したがって、このような人々の意図は、嵐が鎮まれば、自分の帰るべき道を見つけるだろうことは確実である。しかし、もし、それが許されないならば(同じ嵐が続いているので、あるいは、彼らが戻ってきたらさらに野蛮な嵐が始まったりするので)、彼らは、扇動や問題を起こした人々の利益さえも喜んで考え続けるだろうし、自分自身の分離した団体集会を立ち上げるなどはせず、彼らが知っているカトリック教会で宣言されている同じ信仰を自分たちの証言によって擁護し、支援するのを続けるであろう。『隠れたことを見られる父』(マテオ6章4節)は、隠れてこれらの人々に冠を授けられるであろう。このような人々はめったに見られないが、それでも、その例は欠けることはない。実際、あなたたちが想像する以上にたくさんいる。このように、天主の御摂理は、霊魂を癒やすために、霊的な人々を確立するために、あらゆる種類の男女とその模範を利用する」。

もし彼らが「御父によって冠を授けられる」とすれば、それは彼らがキリストの神秘体の中にいるからです(そうでなければ、「教会の外に救いなし」[extra Ecclesiam nulla salus]を否定することになります)。彼らは内なる絆を持ち、第三の半分を除く外的な絆を持っています。彼らは、その長上によって認可を(不当に)拒否されているのです。

聖ピオ十世会については、私たちには、少なくとも最初の五つと、目下の長上への服従があることは明らかです。長上による目下の認可については、聖ピオ十世会全体について明確な宣言はありません。1988年の罰は、もしそれが有効ならば、せいぜい聖別した司教2人と聖別された司教4人に適用されるだけです。なぜなら、「不利なものは厳格に適用されるべし」(odibilia sunt restringenda)――不利な要素は厳格に解釈すべきであり、すべての人に適用されるものではないからです! 私が、もしそれが有効であったならと言うのは、教会法自体が、必要な場合、少なくとも主観的な場合には、自動的に罰せられることはないと言っているからです。ヨハネ・パウロ二世は特別な罰則を課したわけではなく、単に教会法が適用されると言っただけであるため、教会法を適用するなら罰則はないのです!

結論。聖ピオ十世会はカトリック教会の中にあります。私たちにとって欠如しているのは、正規の教会法上の立場ですが、その欠如は私たちの責任ではありません(私たちは確実に、聖ピオ十世会の元の見かけ上の廃止を決して望んでいませんでした)。私たちはその立場が修正されることを望んでいますが、信仰を犠牲にはしません。正規の教会法上の立場が欠如していることは、私たちを教会の外に追いやるものではありません。なぜなら、その立場の欠如は、権威を認めることの拒否を意味するわけではないからです。法は秩序を定め、秩序は善です。教会の使命は秩序あるものであるべきであり、それゆえ、それは教会法によって支配されているのです。今日、近代主義の嵐のために無秩序がありますが、それは教会と聖ピオ十世会の絆を壊すものではありません。

12.さらなる反論:要求される「教会法上の派遣(missio canonica)」についてはどうか?

私たちは皆、あらゆるレベルの聖職者において、教会の仕事が秩序正しく行われるように、教会法上の派遣(missio canonica)が必要であることを認めています。しかし、そのような missio (派遣・使命) にはさまざまな種類があります。

例えば、司教が助任司祭に告解を聴くことや特定の司祭としての仕事のために与える「ab homine 人からの」派遣(使命)があります。

「ab officio 職務からの」という派遣(使命)があります。例えば、司祭を主任司祭に任命することは、主任司祭のすべての義務とそれに必要な権限を含んでいます。これは、典型的な司教区の司教の使命です。ある司教区に司教を任命することで、教皇はその教区の羊たちの世話をする使命と、それに伴うすべての権限を与えます。教皇は、これらの権限の一部を制限する権利(例えば、留保された罪)を持っていますが、教区司教の職務と義務の本質そのものは教皇がつくったものではなく、むしろこれらの義務(完全な信仰を教える責任、聖伝に忠実な礼拝と秘跡を与えることなど)を確立したのは、私たちの主なのです。教皇は、教会の基本構造(constitution)を変更する権利を持ってはいません。

しかし、「a iure 法によって」の派遣(使命)と呼べるような場合も存在します。教会法が明確に想定しているのは、通常の裁治権または派遣(使命)を持たない司祭が、信者の何らかの必要性に直面していて、霊魂の救いが最高の法であるがために教会法が司祭に派遣(使命)を与えるという、ある種の場合です。なぜそれが可能なのでしょうか? (1)このような場合、裁治権は必要ないのでしょうか? あるいは、(2)法そのものが裁治権を与えるのでしょうか、あるいは、(3)教皇が教会法を認可することで裁治権を与えるのでしょうか、あるいは、(4)キリストがすべての仲介者を迂回して、御自ら裁治権を与えられるのでしょうか? 教会法自体は、このことがどのように起こるかについての問題を解決していませんが、間違いなく、裁治権が与えられる(これは、「ad casum その個々の特別な場合のため」という或る教会法上の派遣を意味します)と述べています。また、この裁治権または派遣(使命)は、教皇のパーソナルな行為なしに与えられることも明らかです。これはある人々が主張する、天主の法による規定として、教会法上の派遣のためには教皇の明確な意志が要求される、との説を論駁するものです。

この説明の中で、最高のものは第三のものと思われます。つまり、教会法を認可することにより、また、教皇として存在するという意志そのものにより、従って、それほど高められた身分に応じた義務を果たすという意志により、教皇は、そのような場合のための教会法上の派遣(missio canonica)と裁治権を与える、という説明です。教皇は、それぞれの場合を知る必要はなく、特定の場合に同意さえしないかもしれませんが、キリストの群れの善のために世話をするという義務は、霊魂の救いのために必要なものを与えるよう教皇に義務づけているため、教皇は、そのような教会法上の派遣を与えることを望んでいるとみなすことができます。例えば、ヴォイティワ枢機卿【後のヨハネ・パウロ二世】は、カザローリ枢機卿とチェコの共産主義政府との間の【チェコ人を司祭に叙階しないという】合意にもかかわらず、チェコの司祭たちを叙階したことが記録されています。このような場合、たとえ教皇パウロ六世が、これらの叙階を認可しなかったとしても、ヴォイティワ枢機卿は霊魂たちのために行動し、そのような教会法上の派遣を帯びていたのです。しかし、それは法の文言の中にあるのではなく、法の原理から出て来るものです。

実際、聖トマス・アクィナスは、賢明の徳には八つの「不可欠な部分」があると説明しています。そのうちの一つは「intellectus――知性」、つまり、行動を正しく導くために必要とする適切な原理を理解することです。神学校で、ルフェーブル大司教がこの原理を説明していたのを私は覚えています。大司教は、教会法の文言から、教会の法を導く原理を引き出し、何よりも霊魂の救い(salus animarum)が最高の法であると説明しました。

「あなたの言う状況は法の文言の中にはありません」と反論する人々もいます。しかし、教会の現在の状況は、公会議と公会議後の改革による新奇なものと新しい方針のために、新しい状況でもあります。教会の精神に忠実にとどまるためには、法の原理を考慮する必要があります。「文字は殺し、霊は生かす」(コリント後書3章6節)。教会の精神が善きサマリア人を模範としているのは確実であり、それは傷ついた霊魂たちの命のためです。

《追記》教会法の通常の文言の外に、教会法上の派遣(法的身分)または裁治権が存在し得ることは、教皇フランシスコが聖ピオ十世会に告解の裁治権を与えたというまさにその事実によって、簡単に証明できます。これは、通常の教会法には当てはまらない方法です!

13.婚姻裁判所とは何か?

聖ピオ十世会には、教会の裁判所はありません(教皇から委任された案件を除く)。婚姻裁判所とは、厳密には通常の裁判所ではありません。裁判所においては、裁判官は当事者に罰則やその他の義務を課す権限を持っていますが、そのような権限を持つためには、当事者に対する正規の権限を持つ必要性があるからです。しかし、結婚の裁判所は、単に客観的な真実についての問題を判断するのであって、いかなる罰則も新たな義務も課すことはありません。結婚の裁判所は、ある特定の婚姻の儀式が有効な婚姻だったか否かを判断するだけです。ここで、権威が判断の真実性【判断が正しいか否か】に影響を及ぼすのではなく、誰にそのような判断を下す責任があるかだけです。

聖ピオ十世会の婚姻裁判所をもたらしたものは、公会議後に婚姻無効の数が大幅に増加したことです。そのため、婚姻無効の判決を「カトリック的離婚」と呼ぶ人もいるほどでした。なぜ、このようなことが起こったのでしょうか? これらの婚姻無効の多くは、「あるべき慎重さに欠けていたため」という事由で許可されました。

教会法の条文の第1095条第2項にはこう書かれています。「(以下に掲げる者は、婚姻契約を締結する能力を有しない。)相互に授受さるべき婚姻上の本質的権利及び義務に関する判断力に重大な欠陥を有する者」。

しかし、この曖昧な「判断力に重大な欠陥」を広く適用すると、結婚が軽率であった場合、しばしば無効と判断されることになります。裁判官の中には、普通の夫婦が何年も結婚生活を続けてもほとんど達成できないような成熟度を、結婚前に実質的に要求した者もいました。その結果、多くの信者が混乱しました。結婚が離婚に終わって、「婚姻の無効判断を受ければいいんだよ!」と言われた人々もいました。しかし、彼らの良心はこれを疑問に思いました。彼らは、結婚したとき、結婚したかったからこそ、必要だったことを本当にしたんだということを思い出したのです。婚姻無効となった後に聖伝を知った人々の中には、再婚が有効かどうか疑問に思う人もいました。婚姻無効を受けたとき、彼らの良心は、それほど明確ではなかったのです。

今、困難な状況が要求している犠牲を払うためには、例えば、合法的な配偶者に捨てられた場合、確固とした確証が必要であり、疑いやためらいは、これらの犠牲を払う勇気を失わせがちです。多くの信者が、このような婚姻無効の問題に関して、地元の聖職者を信頼できなかったことに気づき、私たちのところにやって来て、こう尋ねました。「私の結婚は有効だったのでしょうか?」「私の婚姻無効は有効だったのでしょうか?」「私の再婚は有効なのでしょうか?」と。

そのような問題は、事実の問題にすぎません。司祭は、この問題について個人的な意見を述べることができますが、そのような意見はあまり重みを持たず、真の良心の平和を得るために必要な確証を確立したり、一人でいなければならない場合に必要な犠牲を払ったりするのに十分なものではありません。実際、常に、言いなるになる司祭を探すこともできます…常に見つけることも可能でしょう――しかし、その場合、良心は安心してはいられないでしょう。

通常の状況であれば、これは婚姻裁判所の目的そのものです。司教が裁判官を選ぶために取るべき、また裁判所が法の適切な予防措置に従うことを確実にすべき努力が、判決が信頼できるものであるという保証を提供します。しかし、先に説明したように、公会議後の多くの裁判官の新しい態度は、このような婚姻裁判所をもはや信頼できないものにしてしまいました。

多くの婚姻裁判所に信頼性がないことによって深く影響を受けた信者の必要を満たすことは、信者に対するいかなる権威をも主張することではなく、むしろ、善きサマリア人のように、傷ついた霊魂の世話をすることです。良い裁判官を注意深く選び、教会が伝統的に要求する通常のプロセスを提供することによって、私たちは、信者が良心の平和と、時には(配偶者に捨てられたときなど)犠牲の人生を送る勇気を見いだすことができる信頼ある判決を提供することができるのです。

14.ルフェーブル大司教を異端と告発する人々がいる

この告発はあまりに信じがたいため、最後に残しました。その告発の理由は、1989年に定められた信仰告白を拒否することにより、ルフェーブル大司教と聖ピオ十世会は異端者になっているというものです。

このような告発をする人々は、深刻な信仰の危機があることに気づいていないように思えます。この危機においては、あらゆる教義が、非常に多くの現代の神学者によって再解釈され、それによって、しばしばその意味が完全に無となっています。たとえば、原罪の教義が、しばしば彼らの再解釈の標的となります。実際、彼らは進化論を信じているため、最初の男アダムと最初の女エワが存在したとは信じていません。彼らが原罪をどのように考えて解釈し直すのか、それは皆さんがお考えください。言うまでもなく、それは、聖パウロが教えたこと、そして聖パウロ以後のすべてのカトリックの聖伝とはほとんど関係ありません。聖伝は、「一人の人によって罪が世に入り、また罪によって死が世に入って、すべての人が罪を犯したので、死がすべての人に及んだように(一人の人によって救いが行われた)」(ローマ5章12節)。

このような信仰の危機は、第二バチカン公会議自体の中に見られる新奇なものと、公会議が取った新しい方向性に部分的に起因しているものです。ところでこの危機を考慮すると、新しい信仰告白の危険性は、その最後の段落の中にあります。明らかなことですが、信経を受け入れることと、不可謬の(ex-cathedra)の教導権の明確な教えと、通常および普遍的な教導権の明確な教えを扱う最初の二つのパラグラフを受け入れることには、何の問題もありません。しかし、この第三のパラグラフは、私たちが受け入れている普遍的で通常の教導権による非定義的な教理と、私たちが受け入れることのできない第二バチカン公会議による、公会議後の司教たちによる新奇なものを、「真正な」教導権という名前の下で一緒にしているのです。第三パラグラフは、このような教えを支配すべき基準、すなわち、聖伝との適合性をまったく考慮していません。

定義された教会の教導権は絶対的な同意を必要とし、定義されていない教導権は絶対的な同意を必要としません。それ【定義されていない教導権】が要求するのは宗教的な同意であり、これは絶対的ではありません。つまり、教えられた教義が新しく、過去の変わらない教理と対立する場合、同意を保留しなければならないという可能性を取り除くことはありません。

この新しい信仰告白は、第二バチカン公会議の新奇性という事実を基本的に無視しており、その新奇性があたかも完全にカトリック的であるかのように、すべての人にそれをのみ込ませようと望んでいます。

私たちがこの第三パラグラフの不正確さを拒否するのは、不変のカトリック信仰に対する真の忠実さからです。

15.最後のポイント:ルフェーブル大司教の行動を正当化するのに奇跡は必要か?

異論はこう言います。「役務者が特別な使命を持っていることを証明するために、教会は常に、その役務者に奇跡を起こすように要求してきた」。これは、例えばルルドやファチマにも当てはまります。ベルナデッタや3人の子どもたちは、幻視とメッセージを得ていると主張しました。教会当局は、正しく奇跡を求め、奇跡は両方のケースで現れ、その結果、幻視とメッセージの両方を本物だと認証しました。

しかし、これは普遍的な原理ではありません。例えば、確実に特別な使命を持っていた聖ジャンヌ・ダルクが、王子(dauphin)のもとに行ってオルレアンのための軍隊の派遣を求めたとき、王子は、彼女をポワチエ大学の神学博士たちに調べさせただけでした。その結果、彼女の信仰と道徳が健全であることが分かりました。博士たちが「天主が勝利を与えようとお望みであれば、兵士は必要ない」と問うたとき、彼女はただこう答えました。「兵士は戦い、天主が勝利を与え給う」と。歴史の流れを変えたオルレアンの勝利は奇跡ではなく、天主は通常の二次的な原因【兵士】を迂回されることなく、むしろ望ましい結果になるようにそれを動かされたのです。

しかし、ルフェーブル大司教の場合は全く違います。大司教には特別な使命はありませんでした。大司教は【エコンの】神学校に、自分に対して好意的だったり反対だったりして接触してきていた幻視者たちに引っかからなかった理由を説明してくれました。大司教の説明はこうです。「私たちの信仰は、天主である私たちの主イエズス・キリストの証言に基づいており、その教えは、カトリックの聖伝を通して忠実に伝えられることによって私たちに届くものです。私たちが天主と直接つながる必要があるとしてしまうのは、信仰についての間違った概念です。そうすることは、教会を迂回することになってしまい、結果として、私たちの主が確立されたことに反することになります。私たちが、私たちの主イエズス・キリストの賜物、教理、秘跡を受けるのは、教会において、何世紀にもわたる忠実な伝達を通じてなのです」と。

このように、大司教の摂理的使命は、まさに聖伝に忠実であるという使命でしたから、大司教がそれを奇跡で迂回しなかったのは適切でした(奇跡による迂回であったのならば。それは私たちにとってあまりにも簡単なことだったでしょう…)。

ミサに関する三つのカトリックの真理:ミサ聖祭は罪の償いのための犠牲、ホスチアにはイエズス・キリストがまことに現存する、叙階の秘蹟を受けた司祭だけがミサ聖祭を捧げる役務者

2023年03月18日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、
2023年2月23日、札幌で聖伝のミサを捧げましたが、その後で講話「ミサとは何か」を行いました。

今回は「ミサとは何か(その二)」のメモをご紹介いたします。メモなので、語調が統一されていません。その二では、ミサに関わるいくつかの真理のうち次の三つの点をお話ししました。
(1)ミサ聖祭は天主に捧げられる、罪の償いのため(天主の正義をなだめるため)の犠牲である。
(2)ホスチア(いけにえ)は、キリストご自身で、パンとブドウ酒の形色(外観)のもとにイエズス・キリストがまことに現存する。
(3)叙階の秘蹟を受けた司祭だけがミサ聖祭を捧げる役務者。

ミサとは何か(その二)

2)ミサに関わるいくつかの真理

(1)ミサ聖祭は天主に捧げられる本当の犠牲。罪の償いのため(天主の正義をなだめるため)の犠牲。
御聖体は、秘跡であると同時に新約の永遠の犠牲です。イエズス・キリストは、司祭の手を通して天主に捧げるためにこの犠牲を教会にお残しになりました。【犠牲とは、目に見える供え物を天主にささげ、破壊することによって、人間をはじめ全ての物の最高主である天主の支配を認めることです。】新約の犠牲は、ミサ聖祭と呼ばれます。ミサ聖祭とは、十字架上の犠牲を記念して、パンとぶどう酒の外観のもとに祭壇上でささげられる、イエズス・キリストの御体と御血の犠牲です。
この犠牲によって主が天主の正義をおなだめになり、救いに必要な功徳をすべて得られ、人間の罪のあがないを成就して下さったという点から見れば、十字架上の犠牲は新約唯一の犠牲です。十字架上で御自分をささげられたのも、祭壇上で聖務者である司祭の手を通してささげられるのも、同じイエズス・キリストですから、十字架上の犠牲とミサ聖祭とは、実体的には同じものです。

犠牲であることがよくわかる部分:

■奉献(offertorium)の祈り:
◎「聖なる父、全能永遠の天主よ、不肖のしもべである私が、活ける真の私の天主なる御身に、私の数知れぬ罪と侮辱と怠りとの為、又、ここに列席する全ての人々の為、さらに生存している、かつ死亡した全てのキリスト信者の為に捧げるこの汚れなきホスチアを受け容れ給え。。願わくは、これが私と彼らとの永遠の命への救いに役立つものとならんことを。アメン。」

◎「主よ、我らは御身に救いのカリスを御身に捧げ御身の慈悲を願い奉る。願わくは、これが、天主なる御身の御稜威の御前に、我らと全世界との救いの為に甘美な香りと共に昇らんことを。アメン。」
Offerimus tibi, Domine, calicem salutaris, tuam deprecantes clementiam, ut in conspectu divinæ Majestatis tuæ, pro nostra et totius mundi salute, cum odore suavitatis ascendat. Amen. 【解説】ミサ聖祭は救いの源。人類を聖化し、天主へと導く。天主を賛美し、栄光を帰す。
イエズス・キリストの御血は、聖心から流れ出た。主は、全世界の救いのために御血を流すことを望まれた。しかし、現実には贖いを拒む人がいる。
ゲッセマネの園で、主は祈り、苦しまれ、血の汗を流された。天主としては至福直感を受けていた。同時に私たちの罪のために、この世がイエズス・キリストを拒絶するために、主は苦しまれる。
罪とは主から離れて被造物を愛すること。アダムとエワから始まった人類の悲しい罪の歴史。主は御血で贖う。それでも主を拒絶する。それを見て私たちの心も苦しむ。霊的な殉教を感じる。私たちも祈り、苦しみ、隣人たちの救いのために自分を捧げる。イエズス・キリストだけが私たちの贖い主、救い主。イエズスという名前以外に天上天下私たちが救われる名前はない。
ミサは、文明の源。キリスト教文明は祭壇を中心に成立した。愛徳の精神、犠牲の精神、真理を愛する精神、正義の精神、弱者を保護し自分を犠牲と捧げる精神。十字架の精神。ミサ聖祭を生きる。十字架が私たちの御旗、祭壇(カルワリオ)、ミサ聖祭、ミサの聖堂、教会がキリスト教世界のしるし。
「キリスト教世界とは、発明するものではない」(聖ピオ十世)。キリスト教世界とは、イエズスの御受難、御神性から流れ出るもの。イエズスの模範、聖寵、聖徳から帰結するもの。

◎「主よ、謙遜の精神と、痛悔の心とにおいて、我らが御身に受け入れられんことを。天主なる主よ、御前において、我々の犠牲が、今日、御身に嘉せられんことを。聖とならしめ給う全能の御者、永遠の天主よ、来給え。御身の聖なる名に準備されたこ犠牲を祝し給え。」

■司祭の聖体拝領の前の祈り
◎「活ける天主の御子、主イエズス・キリストよ、御父の思し召しに従って、聖霊と共に御身は、その御死去によって、世に生命を与え給うた。至聖なる御体と御血とによって、私を全ての罪と悪より救い出し給え。私を、いつも御身の掟に従わせ、御身より離れることのないようにはからい給え。同じ父なる天主と聖霊と共に、世々に生き且つ治め給う主よ。アメン。」

■ミサの最後
◎「聖なる三位一体よ、しもべなる私の聖役を嘉納し給え。不肖の私が、敢えて御稜威の御前に捧げ奉ったこの犠牲を喜び給い、私と私がこれを捧げた全ての人々との為に嘉納せられるものとならせ給わんことを。我らの主、キリストによりて。アメン。」

【解説】
ミサは感謝の犠牲、賛美の犠牲だけではなく、罪の償いの犠牲、天主の正義を満足させる犠牲。
従って、ミサには次のものが必要。
◎石の祭壇(←→新しいミサでは食卓になっている)
◎祭壇石(殉教者の聖遺物入り)
◎跪き、多くの十字架のしるし、敬礼(←→新しいミサではほとんど全て省略)
◎三枚の祭壇布(←→新しいミサでは一枚のテーブルクロス)
◎司祭は東方を向く、イエズス・キリストに向き合う(←→新しいミサでは会衆の方を向く)
◎ホスチアはパテナの上にある(←→新しいミサではコルポラーレの上に直接置く)
◎特別のホスチア(←→新しいミサでは普通のパンが使われることもある)
◎貴金属のカリス(←→新しいミサではよく普通の容器が使われる)
◎祭壇上の十字架(←→新しいミサではよく十字架なしのテーブルだけ)

◎ミサは犠牲、十字架の犠牲だから、私たちは十字架のもとに生活すべき。いけにえに参与する。十字架に参与する。私たちは罪に死ぬべき。私たちは自分を犠牲にすべき、自分を屠る。十字架を求める。(←→御言葉を分かち合う、パンを分かち合う。苦しみのない喜びや楽しみだけを追求する)
◎美しい聖堂、教会、バジリカ、上から見ると十字架の形をしている。祭壇はその中心。(←→新しいミサでは集会が強調されるた場所)

◎聖変化の言葉によって全実体変化が起こる。秘跡的に屠られる。秘跡と犠牲とは分かつことができない。カルワリオの犠牲が再現する。(←→プロテスタントは、いけにえであることを否定、犠牲ではない、感謝の祭儀、犠牲ではない御聖体だけ、食事だけ過去の記念だけ)

(2)ホスチア(いけにえ)は、キリストご自身で、パンとブドウ酒の形色(外観)のもとにまことに現存する。真の現実の実体的な現存。全実体変化。
◎多くの跪きがある。跪くというのは聖書的な態度。(←→新しいミサでは立ったまま。日本では跪きの禁止)
◎聖伝のミサでは司祭の聖変化の言葉が発せられた直後、司祭が奉挙する前に跪く。(←→プロテスタントでは奉挙の後、信者の信仰によって現存する。霊的な現存、しるし・象徴としての現存にすぎない。プロテスタントによると、ホスチアを奉挙して信徒が信仰を起こすと、パンの意味が変わって体となる。プロテスタントには司祭がいない。)
◎礼拝する。礼拝の態度を示す。御聖体には、御神性【天主の本性】がある。(←→プロテスタントでは主の記念のパン)
◎御聖体は教会の中心(←→新しいミサでは御聖体が脇祭壇におかれ、聖書がよく中央におかれている)
◎跪いて口による聖体拝領をする。天使たちもひれ伏して礼拝している、畏れ多く震えている、天にある者たちも地にある者たちも地の下にある者たちも膝をかがめる唯一の御名(←→新しいミサでは手による拝領:たんなる食事であるかのように)
◎司祭だけが聖体をさわり配る(←→新しいミサでは叙階を受けなくても誰でも奉仕者になれる)
◎どんなに小さな破片にも主は現存する、聖体拝領盆、指を閉じることや指とカリスの清め(←→新しいミサではよく無視される)
◎ファチマの天使が子供たちに教えた祈り:ひれ伏し(←→日本では跪きの禁止)

(3)叙階の秘蹟を受けた司祭だけがミサ聖祭を捧げる役務者。
ミサ聖祭の第一の主たる奉献者はイエズス・キリストです。司祭は、イエズス・キリストの名においてこの犠牲を永遠の父なる天主にささげるのです。
■叙階の秘跡を受けた司祭の司祭職:霊魂に霊の刻印をうける:聖変化を行い能動的にミサを執行する。御聖体に対する権能。罪を赦す権能。御聖体を配る権能、その準備をさせる権能、従って神秘体に対する権能。(←→新しい「司祭職」は福音宣教。人々に対する働きかけ。ミサや御聖体は福音宣教の手段。)

■平信徒は、受動的にいけにえを捧げる。参与する能力をもつ。霊的に自分の祈りと犠牲を捧げる。イエズス・キリストの犠牲の功徳を受ける。
◎告白の祈りは、まず司祭、次に信徒がする。Confiteor 私は告白する。(←→新しいミサでは司祭は信徒と一緒に告白する。司祭は司会に過ぎない、中心は信徒、会衆が司式する、集会が執行する、信徒の「能動的」参加)
◎司祭(聖職者)だけが聖書を読み、説教し、御聖体を配る(←→新しいミサでは叙階を受けていなくとも聖体奉仕者、聖書朗読者となる。万民司祭論の影響を受けている)
◎イエズス・キリストは男性で一人で十字架にかかった。司祭は男性で一人でミサの犠牲を行う、会衆のいないミサ、聖なる階級秩序、権威は天主から来る(←→新しいミサでは共同司式が行われる。会食だから。女性の侍者もある。民主主義的、会食、皆で食す。バチカンの聖ペトロ大聖堂で一人のミサは禁止された、権威は人民から来るという考えが背後にある。団体主義)

3)結語

■ミサ聖祭は、カトリック信者の、カトリック司祭の生活のプログラム、指針、模範。
ミサが違うと、信仰生活のプログラムも異なってしまう。
私たちの人生は天国を目指す十字架の生活(祭壇でいけにえを捧げる)か、それとも、この地上のことだけに目を向けて生活する(食卓をかこんでパンを分かち合う)のか。
イエズス・キリストとの一致をまず第一に目指す(司祭はキリストを向く)のか、それとも、周りの人々のことを第一に気にかける(司祭は会衆の方を向く)のか。

■ミサは、生きている公教要理。私たちにカトリック信仰を教えてくれる。
使徒信経、天主の十戒、秘跡、徳、聖徳、主の祈り、罪、永遠、主の愛について教えてくれる。
使徒信経:天主が私たちを愛してくださっていることをうたう歌。天主の愛の詩(ポエム)とも言える。
聖変化:カルワリオでのいけにえ。天主の愛の私たちへの実現。愛の掟の実現。天主の十戒の実現、律法と預言の完成。

■イエズス・キリストは私たちに御自分の命を与える。贖いのため、霊魂の救いと聖化のために御血を流された。これがミサ聖祭。天主の十戒の完全な実践。私たちのための模範。
御聖体によって私たちと一致される。私たちを天国に導かれる。
信仰、希望、愛徳がミサ聖祭に含まれている。
信仰を教えられ、十字架において希望を与えられ、御聖体拝領は愛徳の業。御自分を全て与え尽くして私たちを養われる。


御降誕によって主の愛が私たちの目に見えるほどになった。この主の愛を聖母も聖ヨゼフも考えていたに違いない。

2023年03月17日 | お説教・霊的講話

2022年12月24日 大阪 説教

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。御降誕の前日のミサを行っています。

今日このミサの直後に、今年最後の、ここでの御聖堂での最後の御聖体降福式があります。その後に洗礼式がある予定です。受洗者のためにお祈りください。

今日は夜の9時から朝課があります。イエズス様のご降誕の準備をお祝いします。真夜中にミサがあります。25日の真夜中、そして25日の夕方の6時にミサがあります。
26日の朝の6時半からもミサがあります。

今日は、イエズス様の御降誕の前日。ですから、マリア様とヨゼフ様に、私たちの思いを馳せることにいたしましょう。

天の王、全能の天主、天地の創造主、全宇宙の所有者、王の王、世界の皇帝、無限の永遠の天主が、今、私たちのために天から降りて、マリア様の御胎内におられ、今お生まれになろうとされています。

いまマリア様の御胎内におられる方がどのような方かということを、マリア様はよくご存知でした。聖ヨゼフ様もよくご存知でした。今日の福音にもあります。聖ヨゼフは天主からの告げを受けて、これは救い主、キリストと呼ばれる方である……と。この二人はよく知っていました。

ですから、この天主のために、御子キリスト、イエズスのために、最もふさわしい場所を、いま一生懸命探しておられます。寒いベトレヘムの夜、風の吹きすさむ外で、マリアさまはどれほど凍えておられたことでしょう。旅をして疲れて、もちろんシャワーもなければ、暖かい暖(だん)を取ることもできなかったこのお二人。いま、ご自分たちのことよりも、生まれてくるべき王について考えておられます。

聖母の胎内におられるイエズス様も、御自分が考えておられるのは、私たちのことでした。人類のために、ご自分の光と祝福と恵みを与えようとして、自分の富を与えようとして、来られようとします。目に見えない天主の愛は、こうやって目に見える形になりました。

もちろん、主は私たちを永遠の昔から愛しておられます。愛によってこの全宇宙を作りました。
しかし、この御降誕によって、主がどれほど愛しておられるかということが、私たちの目に見えるほどになりました。この主の愛を、聖母マリア様も聖ヨゼフも考えていたに違いありません。

天主の全能の愛は、私たちを無から有へと引き出しました。弱き小さき者となった全能の愛は、私たちが滅びないように、私たちを罪から引き出そうと、天主の至福へと導びき出そうとされます。
全能の愛は御言葉だけで私たちを創造しました。人間となられた天主の愛は、苦しみと労働と苦悩によって私たちを超自然の命へと再創造されます。
全能の愛は、御自分の強さにおいて私たちを創りあげました。同じ天主の愛は、御自分の弱さにおいて私たち探し求め愛そうとされます。

天主が人となって、私たちのためにお生まれになろうとする。
預言をすべて成就して、お生まれになる方は救い主キリストである。
全人類が待ち望んでいたその方が、いまお生まれになろうとする。
天使は、喜びの声を上げて歌を歌うことでしょう。

しかし残念ながら、人類は、人々は、この救い主を受け入れようとしませんでした。多くの人は知りませんでした。多くの人は知っていても、それを拒否しようとしていました。ベトレヘムの宿屋の家の持ち主たちは、みな、知りませんでした。イエズス様とその聖家族のために、その場所はありませんでした。

ヘロデは、イエズス・キリストがどなたかを知っていたにも関わらず、あえてそれを排除しようとしました。自分の都合が悪いと思ったからです。
あるいは、ポンシオ・ピラトもそうでした。弱さのために、罪なきイエズス・キリストを十字架に付けます。現代の人々はもう多くが、残念ながらイエズス様を知らないか、あるいは知っていても自分の都合が悪いとその愛を受けようとしません。

聖家族のマリア様と聖ヨゼフ様の御悲しみはどれほどでしょうか。イエズス様の悲しみはどれほどでしょうか。

ですから、愛する兄弟の皆さん、今日はぜひ聖家族のマリア様にヨゼフに「私の胸に来てください」とおっしゃってください。イエズス様にぜひ胸を大きく開けて、イエズス・キリストが私たちをどれほど愛しておられるかを黙想なさってください。
「イエズス様、どうぞ来てください。他の人々が信ぜず、礼拝せず、希望せず、愛さなかったとしても、私は御身を愛します。信じます。礼拝します。希望します。」
おっしゃってください。

マリア様に、ぜひイエズス様に私たちの愛を伝えてくださるようお祈りいたしましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


人の空しい言葉にだまされるな。 それがアメリカ大統領でも,ユネスコでも, 国連でもWHOであってもです。

2023年03月16日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、2023年3月12日は四旬節第三主日です。

「テレワーク」方式ではありますが、皆様にYouTubeで「四旬節第三主日説教」の動画をご紹介いたします。

この動画が気に入ったら、お友達にもご紹介くださいね。

SSPX JAPAN聖ピオ十世会日本にチャンネル登録もお願いいたします。

天主様の祝福が豊にありますように!

トマス小野田圭志神父

 


婚姻と家族についてのキリストとサタンの王国との決定的な対立の時が来るでしょう。婚姻と家族のために働く人々は艱難と迫害を被るでしょう。しかし、恐れないでください。

2023年03月15日 | お説教・霊的講話

【書評5】谷口幸紀神父の書評「『LGBTとキリスト教―20人のストーリー』を読んで」を読んで(5)

アヴェ・マリア・インマクラータ!

【天主の愛の計画】

婚姻という枠組みの中だけに子供の出産とそれに関する全ての行為を認めるというのが天主の計画だ。人間はそれに逆らうことができない。逆らえば不幸になり死に直面するだけだからだ。人間の子供の出産には男性と女性が必要だ。子供の教育には、父親と母親が必要だ。全ての子供たちは、自分の父親と母親とが一緒に愛し合って生活することを望んでいる。平和な家庭を望んでいる。私たちは愛し愛されつづけることを望んでいる。天主によってそのように造られたからだ。

【キリストとサタンとの最後の戦い】

人間が本当に幸せであるためには天主の御旨(みむね)に従うことが必要だ。何故なら、私たちは被造物だからだ。堕天使は、天主に逆らって、永遠の幸せを失い、地獄に堕ちた。

ファチマの聖母を見た子供たちのうちの一人、シスター・ルチア・ドス・サントスは、死ぬ前にキリストとサタンとの間で繰り広げられる最後の戦いについて預言していた。最後の戦いは、婚姻と家族に関することである、と。シスター・ルチアは、このことをボローニャの大司教であったカルロ・カファラ枢機卿に手紙で書いていた。2017年、カファラ枢機卿は、ローマ生命フォーラム2017(Rome Life Forum 2017)で、次のように発言した

「こう書いてありました。婚姻と家族についてのキリストとサタンの王国との決定的な対立の時が来るでしょう。婚姻と家族のために働く人々は艱難と迫害を被るでしょう。しかし、恐れないでください。聖母はすでにサタンの頭を踏み砕いたからです。

Esse dicevano: verrà un tempo in cui lo scontro decisivo fra Cristo e il regno di satana sarà il matrimonio e la famiglia ; che loro che lavoreranno per il matrimonio e la famiglia subiranno tribolazioni e persecuzioni; ma, Padre, lei non abbia paura, perche Nostra Signora gli ha già schiacciato la testa. 

カファラ枢機卿は言葉を続けて、今日、シスター・ルチアの言葉はすでに成就していると断言した。特に、それは堕胎と同性婚の合法化のためだ。

Fatima visionary predicted 'final battle' would be over marriage, family

(Exclusive) Cardinal Caffarra: “What Sr. Lucia wrote to me is being fulfilled today”

17世紀にはエクアドルのキトーで「善き出来事の聖母」が次のようなメッセージを告げている。カトリック教会はこの御出現を正真正銘だと認可した。

「19世紀の終わりから20世紀の中葉のおわりまで、悪しき情念が爆発し、道徳の完全な混乱があるでしょう。キリストとその教会との一致を意味する婚姻の秘跡は、攻撃を受け深く世俗化させられるでしょう。フリーメーソンはその時権力を持ち、この秘跡を消滅させ、誰でも簡単に罪のうちに生活し、教会の祝福なしに私生児たちをつくらせようという目的で邪悪な法律を制定するでしょう。教会のとって緊急のもっとも厳しい時に、声を上げなければならない人が沈黙を守るでしょう。」

(この項 了)

LGBTQ+運動などの性革命については、書評ではなく、機会を見つけて別の記事を書きたいと思っています。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

Photo Credit


ヨゼフ様とマリア様の心に合わせて、主の御降誕を準備する

2023年03月14日 | お説教・霊的講話

2022年12月23日 大阪 説教

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

二つお知らせがあります 。

一つは、今朝5時30分頃、イグナチオさんが、霊魂を天主にお返しになりました。お亡くなりになりました。皆さんのお祈りをお願いします。ロザリオを愛する祈りの霊魂で、終油の秘跡を授けることができました。Requiescat in pace. 

もう一つは、明日はご降誕の前日で、聖伝によれば、大小斎を守る日です。義務はなくなってしまったのですけれども、もしもできればお捧げいたしましょう。

ついに、主の御降誕、あと二日です。おそらく昨日、ナザレトにおられたヨゼフ様とマリア様も、ローマ皇帝チベリウスの勅令を耳にしたことでしょう。

ローマの伝えが田舎のナザレトにも伝わって、各人自分の故郷に行って自分の名前を届け出なければならない、ローマ皇帝は自分の支配下にいる人々の全ての名前を知りたい、その人数を数えたいと思っている、世界支配がどれほど上手くいっているかを知りたい、ということでした。

異教のローマ皇帝が支配するユダヤの国、またユダヤの国もそれぞれ分国王が立てられて、そしてリトリア人が ヘロデが支配していた時でした。

その時、聖ヨゼフは何を思ったでしょうか。

この産気付いている私の妻マリア、天使のお告げによれば、救い主が宿っている。しかし、このマリアを連れて、この寒い白いものが降っている、ちらついている、風の強い今、長旅ができるだろうか。何日も、たとえロバに乗せて旅行するにしても、寒い冬に耐えられるだろうか。宿はどうだろうか。ここに、安全な家に残していた方がよいではないか。私は確かにベトレヘムにダヴィドの子孫として王家の子孫として名前を届けなければならないけれども、しかしマリアは今このような事態だから、私が代わりに届けるので良いのではないか。

非常に迷われたことだと思います。どうするべきなんだ。
マリア様にきっとご相談なさったことでしょう。

するとマリア様は、聖書の言葉を、預言をよく知っていました。「童貞が子供を産む。それはエンマヌエルと呼ばれるであろう。」また、生まれるメシアは、いつ、今この生まれる時が来ている。しかもベトレヘムで生まれなければならない。なぜならば、ダヴィドの街であるから。

だからといって、マリア様はその天主の御摂理に先走ったことはしませんでした。ナザレトにおられてずっと御旨を行うことを待っていました。すると、ローマ皇帝からの勅令が出て、名前を届けなければならない。おそらくマリア様はこれを主の御旨とだと思われたことでしょう。救い主は、なぜかと言うとベトレヘムで生まれなければならないからです。

そこでマリア様は、ヨゼフ様に仰ったに違いありません。

「ヨゼフ、天主の、主の御摂理を信じましょう。何も恐れないでください。私も行きます。一緒に行きましょう。」
「マリア、しかし、この寒い冬、大丈夫か。」
「ヨゼフ、何も心配しないでください。」

この二人の愛と尊敬に満ちた会話を想像いたしましょう。黙想いたしましょう。

主の御摂理を信頼して、旅に出るこのお二人、そのお二人は救い主を待ち望んでいました。天地の創造主、天主の御言葉、永遠の御言葉が人となって、マリア様の御胎内におられます。生ける御聖櫃、生ける契約の櫃となられたマリア様。私たちに救い主を与える、この使命を果たそうと、今ベトレヘムへと寒いなか、旅をされています。

マリア様はもちろん、この旅の時にお疲れになり、あるいはいろいろな心配もあったことでしょう。お金もなかったでしょうし、何が起こるか、どうすれば良いのか、しかしすべて主に任せていました。

ヨゼフ様とマリア様の心に合わせて、私たちも主の御降誕を準備いたしましょう。

主よ、私たちのために来られる主よ、私の心に来てください。私の貧しい胸に生まれてください。

マリア様、ヨゼフ様、イエズス様が私の心に生まれるのを手伝ってください。私のもとに来てください。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


イエズスがどのようにお生まれになったかを見ると、イエズスの愛がどれほど深かったかがわかる

2023年03月14日 | お説教・霊的講話

2022年12月18日 名古屋 説教

聖父と聖子と聖霊の御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、

あと一週間で、私たちは御降誕を迎えます。私たちの主イエズス・キリストがお生まれになります。

【イエズス・キリストがお生まれになる:歴史の中心点】
では、イエズス様がお生まれになるという意味は何なのでしょうか。これは私たちの人類の歴史の中で、まさに中心、一番の中心点となる出来事でした。なぜかと言うと、この全宇宙を作った全能・永遠の天主・創造主・三位一体の御ひとり子が、人間となった、そして私たちのためにお生まれになった、その日であるからです。ですから、いま西暦2022年、イエス様の御誕生から数えて2022年、お恵みの年2022年を数えるのは全く理に適っている数え方です。なぜかというと、この主の御降誕ほど偉大な人類の歴史の中心点はないからです。

【イエズス・キリストがお生まれになる:私たちに永遠の命を与えるため】
では、一体何が起こったのでしょうか。天主が人間となった。お生まれになった。いったい何のために。それは私たちに永遠の生命(いのち)を与えるためでした。私たちが今地上に生きているのは、この地上でエンジョイするためではありません。なぜかと言うとこの地上でいくら幸せがあったとしても、たった60年、もしかしたら皆さんは健康で100年、もしかしたら長寿に恵まれて130年、あるいはもしかしたら医学の進歩によって150年、長生きされるかもしれません。でもその後でどうなるのでしょうか。

イエズス様は私たちに永遠の生命を、不老不死、限りのない生命の喜びを私たちに与えるために、天主でありながら人間となって、死を受けるために人間となって、お生まれになりました。これは私たちを、ただひたすらにお愛ししてくださったからです。

考えても見てください。王様が、最も偉大な王様が私たちにその富を与えるために、乞食となった、ということを考えてください。イエズス様がなさったことはさらに大きなことです。

【イエズス・キリストがお生まれになる:私たちを愛するため】
最後に、イエズス様がどのようにお生まれになったかという事をもう少し考えてみると、イエズス様の愛がどれほど深かったかということがわかります。

どんなに貧しい人でも、どんなにお金がない子供でも、生まれてくる家があります。どんなに貧しくても、暖房はちょっとはあります。きれいな布団もあります。しかし、もしも王様の王子様がお生まれになったとしたら、どれほどきれいなベッドで、きれいな清潔に洗濯したお布団で、あるいは暖かいお布団で、電気毛布もして、それからストーブも焚いて、それからお付きの人もついて、先生もついて、看護婦さんもついて、それからきれいにお部屋が飾られて、赤ちゃんが産まれるのを、王子様が生まれるのをお姫様が生まれるのを楽しみに、皆さんが歓迎して喜んで待っているではないでしょうか。

しかし王の王、全能の天主、この宇宙のすべてを支配する方、所有している方、私たちの全てを握っている統治している方がお生まれになる時には、旅人でした。その方がお生まれになる時には、部屋もありませんでした。ベッドもありませんでした。暖房もありませんでした。暖房だったのは、動物の吐く息だけでした。寝る所は動物が食べる餌の上でした。藁(わら)の上で、動物の体から出るいろいろな汚いものが入っていたかもしれません。マリア様とヨゼフ様が一生懸命きれいにされたかもしれません。しかし寒い凍える冬の中で、王子様が、王、天主様が、イエズス様がお生まれになりました。

イエズス様がこれで何を私たちに教えているかというと、私たちを愛するがためにどんな苦しいことでも喜んで受けたい、私たちを愛するがためにもう狂ってしまった、そこまでめくらになってしまった、ということ意味しています。

【イエズス・キリストがお生まれになる:私たちの罪を償い、私たちを豊かにするため】
イエズス様はこのことを通して、人間は傲慢と肉欲と驕りで罪を犯したからそれを償うために喜んで私は苦しみを受けますよ、とおっしゃっているかのようです。イエズス様がお生まれになった時からお亡くなりになるまで、十字架の上でお亡くなりになるまで、毎日苦しみの連続でした。なぜでしょう。それは私たちを愛していたからです。なぜかと言うと私たちが苦しまないために、自分がすべてその苦しみを受けになったからです。私たちが永遠の生命を受けることができるように、ご自分は死を喜んで受け取りました。私たちが豊かになることができるように、あえて自分は貧しくなりました。まぐさ桶に、ベトレヘムの馬小屋に横たわっている可愛い赤ちゃん、まことの天主、全能永遠の天主、人となったイエズス・キリスト、このイエズス様は私たちに、どれほど私たちのこと愛しているか、ということをお生まれになって見せております。

まぐさ桶、十字架、そして御聖体御聖櫃、この三つは、イエズス様が私たちへの愛をどれほど深いかということを見せることができる私達に知らせている三つの場所です。イエズス様はベトレヘムでお生まれになることによって、ああ愛するお前たちも旅人だ、天国に歩んでいる旅人だ、だからあんまりこの地上のことに愛着しなくてもいいよ、お前の究極の辿り着くところは天国だから、私が天国に導いてあげるから、あんまりこの必要でない地上のことで罪を犯して喧嘩をしたり嘘をついたり盗んだりしなくていいよ、もっと本物の宝を目指して生活しなさい、とイエズス様は仰っています。

もしも私たちが寒い!イヤだ!つらーい!という時は、凍えて泣いているイエズス様をご覧になってください。イエズス様は私たちのためにこれほど苦しんでおられるのですから、私たちもイエズス様のために犠牲をお捧げいたしましょう。

【遷善の決心】
最後に、マリア様にお祈りいたしましょう。マリア様の御取り次ぎで私たちが、イエズス様がどれほど私たちのことを愛しておられるかということを、少しでも理解することができますように。なぜかと言うとイエズス様の私たちへの愛はあまりにも多いので、それを本当に知ったら、あまりにも感謝と幸せで気絶して、もう死んでしまうかもしれません。でも私たちが知ることができるのはほんのたった少しだったとしても、あまりにも大きな愛なので、私たちは感謝してもしきれません。マリア様にその恵みを請い求めましょう。またマリア様が私達に御取次ぎをして、イエズス様をお愛しすることができるようにお祈りしましょう。特に私たちは、イエズス様に対する愛で罪を憎みます。イエズス様をもう悲しませないようにするお恵みを、請い求めましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


御降誕の目的と、御降誕が私たちに教えている主の愛と謙遜について

2023年03月14日 | お説教・霊的講話

2022年12月18日 主日 大阪 説教

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様。

いくつかのお知らせがあります。
来たる土曜日12月24日、御降誕の前日は、聖伝によると大小斎を守る日です。今では、その義務がなくなってしまいましたが、しかし、もしもできれば皆さん是非それを捧げてください。聖ピオ十世会の会員はそれを捧げる義務があります。
来たる主日はクリスマス、御降誕です。私たちの守るべき義務の祝日です。主日と重なっております。また来たる土曜日には、この御御堂で洗礼を受ける方がいらっしゃいます。どうぞその方のためにお祈りください。

来年の1月の28日の土曜日には、ここでフェレー司教様が聖伝の典礼に従った堅振の秘跡を授けてくださいます。七つの秘跡は、第二バチカン公会議後、全部変えられてしまいました。ミサのみならず洗礼その他、叙階すべての儀式が変えられてしまいました。その内で一番多く変わったのは、司教の聖別の儀式です。次に堅振の秘跡です。堅振の秘跡を有効なものとして捧げるために、ルフェーブル大司教様は世界中を回って堅振の秘跡を授けようとされておりました。それで聖伝のやり方によって堅振の秘跡を受けようという方は、来年の1月28日に司教様が、フェレー司教さまがいらっしゃいます。その時によい準備をして申し込みをするようにしてください。

最後に、クリスマスの時が近づいてきましたが、私たちはできれば東京での御聖堂を得ることができるようにと望んでおります。今は仮の場所ですけれども、できれば新しい場所があることを望んでいます。もしも聖ピオ十世会の東京の御聖堂のためにご協力できる方がいらっしゃれば、クリスマスの特別献金としての皆様の寛大なご協力を感謝いたします。 

愛する兄妹姉妹の皆様

【天の国】
洗者聖ヨハネは、現代に生きる私たちにも声を響かせています。「悔い改めよ。天の国は近づいた。」今日、福音で洗者聖ヨハネの声を聞きましたが、まさに天の国が近づいた、天の国、これこそがクリスマスの御降誕の目的です。

なぜならば、イエズス・キリストは、私たちが天の国を得ることのためにお生まれになるからです。私たちが今生きているこの理由は、たったひとつしかありません。この世をエンジョイすることではなくて、永遠の命を生きることです。そのためにお生まれになったキリストが、そのために私たちに与えようとされたお生まれになった、天の国に入るためです。これが、キリスト教の存在理由です。

では、いったいイエズス様の御降誕の目的というのは何だったのか、つぎに、イエズス様の御降誕が私たちに教えていること、つまり主の愛と謙遜を、一緒に黙想いたしましょう。

【御降誕の目的は何か】

人間は、罪のために全てを失ってしまいました。永遠の生命(いのち)を、天の国を、失ってしまいました。幸せを失ってしまいました。もしも私たちが今死ななければならないとしたら、苦しまなければならないとしたら、病を持ち、悲しみに打ちひしふさがれて涙を流すとしたら、寒い暑い苦しいとしたら、これは罪のせいです。もしも罪がなかったら、そのようなことは一切ありえませんでした。

そればかりか、罪のために私たちは天主との友情関係を失ってしまいました。地獄に落ちるべき身となってしまいました。永遠の火に燃やされてしまう身分となってしまいました。しかし、主は無限のあわれみと愛とをもって、私たちをこの苦しみから救おうとされました。私たちに不老不死を、永遠の生命を与えようと、もう1度チャンスを与えようと思われました。私たちに永遠の幸せを得るチャンスを与えようと思いました。そのために壮大な、全宇宙をひっくるめた、私たちの救いの大計画がうちたてられました。

それは天主の御ひとり子が 永遠の天主の御言葉が、人間となった、私たちのためにお生まれになる、ということです。何でお生まれになるのでしょうか。それは私たちの代わりに苦しんで、死を受けて、そして私たちにその引き換えに、幸せと生命を、天主の生命を与えるためでした。

ご自分が死を受けるために、お生まれになろうと、天主が人間になろうと、されました。

【御降誕は何を教えているか:主の愛を教える】
第二のポイントは、御降誕はいったい何を教えているのでしょうか。御降誕は、私たちに永遠の命を与えるため…でもこれはいったい、これはなぜでしょうか? 私たちに主を引き寄せる程の何か良いところがあったのでしょうか? いえ、私達をただお愛しされたので、 私たちはその価値がなかったにもかかわらず、私たちを憐れんでくださり、愛されたので、主は人となりました。

考えても見てください。無限の永遠の天主、この全宇宙の創造主が、ちっぽけな人間となるという、赤ちゃんとして生まれてくるということ、ここに主の無限の愛が表れています。

【御降誕は何を教えているか:謙遜を教える】
第3のポイントは、今日は特に人間が罪を犯したその原因が傲慢であり、目の欲・肉の欲・生活の驕(おご)りであったので、主がそれを打ち砕くために、人間に謙遜を教えるために、特別に手段を取りました。それは、主が清貧のうちにお生まれになったということです。

真冬に、馬小屋でお生まれになります。動物の餌(えさ)を置くまぐさ桶に置かれて、眠っておられます。考えても見てください。この世の金持ちたちは、あるいは政治家たちは、あるいは王様は、一体どこで生まれるのでしょうか。綺麗な清潔なお部屋で、綺麗なベッドがあって、そして電気毛布があって、暖房があって、それから召使いもいて、看護婦さんもいて、あるいは下僕がいて、暖かいところでお生まれになるんではないでしょうか。王子さまですから。お坊っちゃまですから。お嬢様ですから。よっぽど世の中でどのような貧しい子供も、やはり家で生まれます。あるいは、人間らしいところで生まれます。

しかし天主は、この世の創造主は、絶対の王なる王の御ひとり子は、そのような場所はありませんでした。宿屋にも場所がなく、あったのはただ洞窟の動物のいるところでした。暖房もありませんでした。寒い冬に風吹かしのところで、雪もチラチラ降る中で、暖かかったのは動物の吐く息だけでした。綺麗な服はどこにあったでしょうか。マリア様は、産湯をイエズス様につかわせ、そして固い藁のまぐさ桶に、動物の食べる餌の上に置かれました。誰がお供についたでしょうか。マリア様とヨゼフ、だけです。あとは動物。

私たちに主は何を教えているのでしょうか。私たちは、この世に裸で生まれてきて、そして何も持たずにこの世を去るから、私たちはこのようなものに愛着してはいけない。イエス様がちょうどローマ皇帝の命令を受けて、ベトレヘムに人口調査のために旅立ったように、私たちも天国への旅人に過ぎない。この地上に永遠の住家を築く、宮殿を築くものではない。あっという間に過ぎる旅をしている、天国への旅をしている巡礼者だ!ということを教えたかったのではないでしょうか。

イエズス様はこうやってお生まれになって、最後は十字架の上で苦しみのうちになくなります。イエズス様の人生は、最初から最後まで苦しみの連続でした。

偉大な方であったにもかかわらず、小さなものとなりました。私達が天で偉大な者となりますように。
主でありながら下僕のようになりました。私たちが天国を支配することができるように。
罪がない御方でありながら、私達が受けるべき罰を全て、苦しみを全て、お受けになりました。それは私たちが永遠の罰を受けないためです。
強いお方でありながら、か弱いものになりました。それは私たちに力を与えるためです。
至福の方でありながら、天で何一つ不足するものがない御方であったにも関わらず、私たちのために進んで苦しみをお受けになりました。それは私たちに至福を与えるためです。
いと高き御方でありながら、最も低い者となりました。奴隷のようになられました。服従するものとなりました。それは私たちが天主に服従することができるように教えるためです。

【遷善の決心】
では、愛する兄妹姉妹の皆さま、私達はこのクリスマスにイエズス様にプレゼントをお捧げいたしましょう。これほどの愛を持って、狂ったような正気を失ってしまったかのような愛を持って、私たちのために人間となり、貧しさのうちにお生まれになった、それでも喜んで私たちを愛しておられる、このイエズス様に私たちも愛のプレゼントをお捧げいたしましょう。愛の黄金、祈りをお捧げいたしましょう。 

イエズス様に、来たるべきイエズス様に「イエズス様、愛しています。感謝しています。イエズス様、私の心に来てください。」と申し上げましょう。そしてイエズス様を悲しませる私たちの犯した全ての罪を心から痛悔して、忌み憎み、それを打ち捨てる、痛悔の念を請い願いましょう。マリア様にその愛と痛悔の心を求めましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


夕焼けに照らされる富士山

2023年03月13日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、
今日、新幹線から見えた夕焼けに照らされる富士山です。
天主様の祝福が愛する兄弟姉妹の皆様の上に豊かにありますように!




聖ピオ十世会 カトリック聖伝のミサの報告【東京】【大坂】 Traditional Latin Mass in Japan SSPX Japan

2023年03月12日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日、四旬節第三主日、東京のミサに来られた方は、子供達も入れて合計113人でした。
今日初めて東京でのミサに与った方は、聖歌隊がサンクトゥスを歌う時あまりにも美しくて感動して涙がでた、とおっしゃってくださいました。
今まで主日のミサのライブ配信をFacebookで行っていましたが。今回の主日のミサは、YouTubeの聖ピオ十世会のチャンネルを通して行いました。愛する兄弟姉妹の皆様のしもべの操作の間違いなどがあり、ご不便をおかけしてしまいましたが、テストは成功しました。愛する兄弟姉妹の皆様の応援に感謝申し上げます。
東京の来週のミサの会場は入谷ホールです。お間違えの無いようお願いいたします。聖ピオ十世会の聖ヨゼフに対する奉献を更新いたします。

大阪では32人でした。外国や国内旅行に出られた方々がおおくおられました。
聖母の汚れなき御心聖堂は、日本キリスト教団の教会から長椅子を譲り受けました。私たちは今日からそれを使ってミサに与り、長椅子を無償でくださった兄弟姉妹の皆様に感謝しつつ、心からこの兄弟姉妹の方々のために祈りました。
明日の早朝6時半からのミサをYouTubeでライブ配信する予定です。



広島では、3月21日(春分の日)に佐伯区楽々園で聖伝のミサが捧げられます。

【お知らせ】
一般社団法人日本聖ピオ十世会の銀行口座が開設されました。
御寄附や四旬節の献金、また教会維持費などのためにお使いくだされば幸いです。
愛する兄弟姉妹の皆様の暖かいご支援を感謝申し上げます。

銀行名:住信SBIネット銀行
金融機関コード(銀行コード):0038
支店番号-口座番号:106-1951537
漢字氏名:一般社団法人日本聖ピオ十世会
カナ氏名:シヤ)ニホンセイピオジツセイカイ

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【報告】
Shown below are the number of attendees at the masses in Tokyo today. The total number of attendees at the masses in Tokyo today was 111 including children.
In Osaka we got 32 people. A family went to abroand for holidays. Several were in travel.

Sincerely yours

09:00 mass
M: 31 (incl. 7 children)
F: 35 (incl. 10 children)
Total: 66 (incl. 17 children)

11:30 mass
M: 21 (incl. 2 children)
F: 29 (incl. 2 children)
Total: 50 (incl. 4 children)

Total of 2 masses (excl. 3 persons who participated in multiple masses)
M: 50 (incl. 17 children)
F: 63 (incl. 4 children)
Total: 113 (incl. 21 children)

SSPX JAPAN聖ピオ十世会日本

 


札幌での講話のメモ「ミサとは何か」その一:旧約時代の出来事はミサ聖祭の前兆であった

2023年03月11日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、
2023年2月23日、札幌で聖伝のミサを捧げましたが、その後で講話「ミサとは何か」をお昼の休憩をはさんで行いました。愛する兄弟姉妹の皆様に「ミサとは何か(その一)」のメモをご紹介いたします。メモで、語調が統一されていません。その一では、旧約時代の出来事が、ミサ聖祭の前兆であったということを示そうとしています。聖伝のミサこそ、旧約の全ての律法と預言の完成であることを、ここで垣間見ようとしています。

ミサとは何か(その一)

1)ミサの核心:始めに
イエズス・キリストの犠牲は、教会の中心、私たちの救いの中心、全人類の歴史の中心、私たちの霊魂の中心。
ミサの犠牲、ミサ聖祭に関わることは、私たちに深くかかわる。
旧約は、ミサ聖祭を予告していた。前兆であった。
ミサ聖祭は、私たち一人ひとりに個人的に深い関係がある。
私たちの霊魂の救いのために主の犠牲に、ミサ聖祭に与らなければならない。
秘跡を受けることは、主の贖いの御血の功徳を受けること。
洗礼を受けることは、主の御血で罪が洗われること。
御聖体を受けることは、主の御体をうけること。

四旬節は、主の贖いの業を思い起こして一致する聖なる時期。
ミサ聖祭に与ること、御聖体を拝領することは、最高の手段。
ミサ聖祭のことを考えることは、御聖体を拝領するための最高の準備。
イエズス・キリストの犠牲は、人類の歴史において、最大の愛徳の業。これ以上はありえない。
無限に聖なる天主が、罪人の私たちのために人となって、罪人の私たちの代わりに苦難と死を受けた。「愛するもののために自分の命を与えるよりも大きな愛はない。」(ヨハネ15:13)

イエズス・キリストの御托身の目的は、十字架の上でご自分を捧げることだった。それ以外の何物でもなかった。
ミサ聖祭は、十字架の継続、続き、延長。イエズス・キリストはミサ聖祭を通して、世の終わりまで十字架の犠牲を続ける。ミサ聖祭こそ最高の祈り、最高の信心業、最高の行い、教会の最も主要な基礎的な信心。
イエズス・キリスト御自身が私たちに下さる最高の贈り物、プレゼント。
十字架のいけにえに取って代わりうるものはない。ミサ聖祭に代わるものはありえない。

1)ミサは旧約の完成

旧約聖書の前兆:イエズス・キリスト
聖パウロはこう言います。「アダムは、来るべきお方の前兆であった。」(ローマ5:14)イエズス・キリストは旧約の全てを解き明かし、完成されました。
旧約の意味、人類の歴史の意味を知る鍵は、イエズス・キリストです。まずイエズス・キリストという本物・原型があって、それを映し出すシルエットとして、旧約が成立しました。「はじめにみことばがあった」(ヨハネ1:1)のです。聖ヨハネはこう言います。「万物はかれ(みことば)によってつくられた。つくられた物のうちに、一つとしてかれによらずにつくられたものはない。」(ヨハネ1:)

例えば人祖アダムについていえば、イエズス・キリストこそが実体であり、アダムはその影にすぎませんでした。言い換えるとイエズス・キリストが典型であり、ひな形です。アダムはその写し、劣化コピーです。
歴史的には、人祖アダムが最初に来ました。イエズス・キリストは歴史的には第二のアダムと呼ばれています。私たちの主は、御自分のことを「人の子」と呼びます。つまりヘブライ語によれば「アダムの子」です。しかし、天主の創造の順序としては、意向・設計図・ブループリントであるイエズス・キリストがまずあり、それに従ってアダムが造られたのです。

【アダム】
イエズス・キリストは実体であり、アダムはその影にすぎませんでした。イエズス・キリストこそが典型であり、原型であり、ひな形です。アダムはその写し、劣化コピーです。
なぜ天主はエワをアダムと同じように土から造らなかったのか。天主は、アダムが起きていたとしても、もしも必要ならば、痛みもなく肋骨をとることができたではないか。なぜアダムは眠りにつかなければならなかったのか、…聖ボナヴェントゥラは言います…これはキリストの死を意味するためにわざと天主がそうしたのだ。なぜエワがこのあばら骨から取られたかというと、十字架の上で死の眠りについた、そして三日目に目をさます、第二のアダムのわき腹から水と血が出て、それが第二のエワ、キリストの花嫁だ、教会を意味するためにわざとそうしたのだ、教父たちは説明しています。
人となったみことばであるイエズス・キリストがなさろうとする人類の贖い、愛と従順による御受難と死とを通した人類救いの事業を映し出すイメージとして、裸のアダムは眠りにつかされました。十字架の上で死の眠りにつくイエズス・キリストの心臓(つまり聖心)が貫かれた時、わき腹から、水(洗礼)と血(御聖体)がでて、キリストの唯一の花嫁である教会が生まれました。カトリック教会です。教会の唯一性を表すために、天主は眠るアダムの脇の骨からエワを造ります。天主は男と女とに作りました。それ以外ではありません。創世記には、男と女としかないことが、何度も繰り返してそれが強調されています。今のエキュメニズム運動は、自然界のレベルにおけるLGBTQ+推進運動に対応しています。
アダムが最初の罪を犯した時から、全宇宙は人間に逆らい始め、大地さえも逆らいました。大地からは茨が生え出て、そして額に汗をして、労苦して、糧を得なければならなくなりました。その茨をイエズス様は自分の頭(かしら)に、額に受けました。イエズス・キリストはまさに茨の冠を被ることによって、贖いの王となるべきでした。
かつて楽園にいた王、第一のアダムは、罪によってその王国を失ってしまいました。エデンの園から追放されてしまいました。地獄に落ちる身となってしまいました。第二のアダムは、その王国を回復するために十字架の木を使います。十字架の木によって王として私たちを支配します、統治します。王国へと導きます。

【カインとアベル】
カインは大地の恵み労働の実りをささげ、アベルは小羊を捧げた。しかし天主はアベルの犠牲だけを嘉された。カインは嫉妬してアベルを殺害する。

【ノエ】
イエズス・キリストは、御父に従順でした。「私が父を愛しており、父の命令のままにおこなっていることを、この世は知らねばならない。」(ヨハネ14:31)「私は父の掟を守り、その愛にとどまった」(ヨハネ15:10)「父よ…、私はあなたがおこなわせようとおぼしめしたわざをなしとげて、この世にあなたの光栄をあらわしました。」(ヨハネ17:7)このイエズスの従順と柔和を映し出すイメージとして、旧約のノエは「天主が彼に命じたことを全て行った」(創世記6:8, 22, 7:5)のです。
イエズス・キリストは、まことのぶどうの木です。「私はぶどうの木で、あなたたちは枝である。」(ヨハネ15:)キリストが教会を造るという原型を表すコピーとして、ノエは、箱船を作り、大洪水の後に箱船から出て、ぶどう畑を作ります。聖イエロニモによると、この箱船もぶどう畑も、来るべき教会を意味します。
イエズス・キリストが御受難というブドウ酒に酔い、自分の民族であるユダヤ人たちの手にかかり、天主の本性ではなく人間の本性の弱さを見せて裸になって苦しまれます。それのあらかじめ示す影として、前兆として、ノエは自分のぶどう畑から作ったブドウ酒に酔って自分の天幕の中で裸になって寝てしまいました(聖アウグスチヌス De Civitate Dei XVI, 2)。ノエの三人の子供たち(セム、カム、ヤフェト)は、全人類を表しています。ノエの二人の息子は、後ろ向きに歩いて裸の父親のノエに被せます。過去となったキリストの御受難は、御聖体というベールに隠される、という意味です。ノエの裸の眠り(キリストの十字架における御受難)を大切にするか、あるいはあざ笑うかによって、祝福を受けるか、あるいは呪われるかが決まります。

【メルキセデク】
アブラハムの願いによって、大司祭メルキセデクがパンとブドウ酒を主に捧げました。これはイエズス・キリストにおいて成就します。キリストは「聖化すべきすべての人々を完全なもの」(ヘブライ10:14)にすることができる、「メルキセデクの位にひとしい永遠の司祭」だからです。

【アブラハムとイサアク】
アブラハムが、ヤーヴェからイサアクを生贄に捧げるようにと命じられた時に、その通りにしました。アブラハムがイサアクを屠(ほふ)ろうとしたその瞬間、ヤーヴェからストップの声が掛かります。その代わりに茨に頭が絡まっていた雄羊がみつかり、これを代りに捧げろと、言われました。


私たちの代わりに捧げられる子羊には茨の冠が被せられなければなりませんでした。天主の小羊である主が茨の冠を被るべきことは、すでに予告されていたのです。
尊者ベーダによると、イサアクはキリストの御神性を意味し、雄羊はキリストの御人性を意味していた。イサアクは屠られなかったが、雄羊だけが屠られた。キリストの御人性だけが苦しまれた。

【ヤコブ】
キリストは御托身により人間となり、天から地上に降りて来られました。地上では、ベトレヘムで御降誕され、エルサレムで御受難を苦しまれ、御昇天されました。この地上での旅路は、御自分の唯一の花嫁である教会を作るためでもありました。それを映し出すかのように、ヤコブは、花嫁を探してベエルシェバからハランに行きます。アブラハムは、天主から呼ばれてハランからベエルシェバに行きますが、もしこれがキリストの御托身を意味するとすれば、アブラハムの孫であるヤコブの道のり(ベエルシェバ→ベトレヘム→エルサレム→ベテル)は、御降誕→御受難→御昇天(ベテル)を意味していると言えます。この旅の途中、ヤコブは或るところ(後にベテルと名づけられる)で、石を枕にして眠りにつきます。すると夢の中で天に上る階段を見ます。階段には天使たちが天に昇ったり天から下りたりしています。ヤコブが頭を置いた岩は祭壇と同時にキリストご自身を意味します。聖イレネオは、階段は十字架の前兆を意味すると言います。十字架だけが天国に行くことを許す階段だからです。

【ヨゼフ】
旧約の太祖ヨゼフを見てみます。ヨゼフは父親のイスラエルから特別に愛された子供でした。天主御父は、イエズス・キリストの洗礼の時、またタボル山でも、証言しています。「これは私の愛する子である」と。

ヨゼフの前で「だれもが跪かなければならない」(創世記41:43)。ヨゼフは「計り知れなく寛大に」(創世記41:49, 54-55)パンを与えて、「多くの人びとを救った」(創世記50:20)ので、「世の救い主」(創世記41:45)とも言われています。
イエズス・キリストも、「救い主」(マテオ1:21)と呼ばれ、「イエズスのみ名のまえに、天にあるものも、地にあるものも、地の下にあるものもみな膝をかがめ、すべての舌が、父なる天主の光栄をあがめ、「イエズス・キリストは主である」と言いあらわす」(フィリッピ2:10)のです。主は私たちに「日用のパン」(マテオ6:11)として御自分の体を「この世の命のために」(ヨハネ6:52)御聖体として与えます。

ヨゼフは、兄弟たちの嫉妬により井戸に投げ入れられ(殺害)ます。
エジプトではポチファルの妻は、ヨゼフを誘惑します。「私と一緒に寝よう」と。しかしヨゼフはそれを拒絶して、つかまれた服をそのまま脱ぎ去っても彼女から逃げ去ります。しかし正にヨゼフは、彼女に拒否したそのことを理由に、偽証の陥(おとしい)れるところとなり投獄されます。
イエズス・キリストもユダヤの衆議所(サンヘドリン)から誘惑を受けます。衆議所は世俗の国家権威であるローマ当局(ポチファル)のもとにありました。衆議所と一緒になって、ユダヤがローマから独立するように、政治的な王とならないか、と。イエズス・キリストはローマ皇帝に政治的に対抗して反乱することを拒否します。しかし、まさに、御自分が拒否したそのことを理由に、十字架につけられます。衆議所は、イエズスがモーゼの律法を破り、また、神殿を破壊すると言ったとして、イエズスを告発します。しかし、衆議所自身が、イエズスを裁判にかける時モーゼの律法に背いて行い、イエズス・キリストの体という本当の天主の神殿を破壊します。

ヨゼフは、子供のころ父親のもとにいて高価な「色とりどりの服」を着ていました。次に奴隷の服を着せられ、これさえも奪われます。最後にはファラオから「絹の服」を与えられます。これは、イエズス・キリストが、最初天主御父の懐におられたとき、天主の栄光を楽しんでおられます。次に「本性として天主であったが、天主と等しいことを固持しようとはせず、かえって奴隷の姿をとり、人間に似たものとなって、自分自身を無とされた。」(フィリッピ2:7)最後に、主は復活され、昇天され、人間として最高の栄光を受けられます。主の体は、腐敗せず栄光に輝いています。

イエズス・キリストは十字架の上で死の眠りにつきます。イエズス・キリストの太祖ヨゼフは父のもとで眠って夢を見ます。また牢屋で夢を解釈します。ヨゼフだけが見る夢であり、ヨゼフだけが夢を解釈することができました。

【モーゼ】
キリストの制定するミサ聖祭の前兆として、イスラエルの子たちがエジプトからの脱出の記念としてささげられた旧約の過越(出エジプト記12:1以下)が命じられました。

私たちの主イエズス・キリストは、二人の盗賊の間に十字架につけられ、十字架の上で両手を広げて祈りつつ、私たちのために御自分をお捧げになりました。十字架の功徳によって、私たちは罪と悪との戦いに勝つことができます。それを映し出すかのように、ヨズエがアマレク人と戦っているとき、モーゼは両腕を広げて祈りました。モーゼが(あたかも十字架につけられて)両手をあげて祈っている間は、ヨズエの軍隊は勝ちますが、モーゼがつかれて手をおろしてしまうと、ヨズエは負け始めます。そこで、アアロンとフルの二人は、モーゼの両手を支えて十字架の姿を取り続けるようにさせます。ヨズエはキリスト者である私たちの前兆です。ヨズエの大勝利の後、モーゼは自分の立っていたところに記念として祭壇を作ります。これはミサ聖祭を意味する遠いイメージです。

【サムソン】
イスラエルの判事であるサムソンは、イエズス・キリストの御誕生、御生涯、御死去を映し出す影です。サムソンの母親は、天使のお告げにより奇跡的な懐妊が告げられました(判事13:3)。最高に強い男で民の救いのために敵に対して必ず勝利していました。生涯の最期に敵は彼を殺害することを企み、サムソンの眠っている間に討とうとします。しかしサムソンは眠りに打ち勝ち目覚めて、自分が付けられていたドアや門や柱(みな木でできていました)を、全て肩に背負って丘の上まで持っていきます。

【ヨナ】
嵐でもまれる船の中で眠る人がいるとすれば、それはイエズス・キリストと旧約のヨナだけです。イエズスは嵐を叱って「静まれ!」とひとことで凪にさせます。ヨナは自発的に海に投げ入れられることによって嵐を静めます。イエズス・キリストは、人類を沈没させる死の嵐を、御自分の自発的な御受難によって克服しますが、ヨナはその原型の写しでした。
「ヨナは三日三晩、海の怪物の腹の中にいたが、同様に人の子は三日三晩、地の中にいる。審判の日に、ニニヴェの人は、今の代の人とともに立ちあがり、今の代を罪に定めるだろう。なぜなら、かれらは、ヨナのことばをきいてくいあらためたからである。しかも、ヨナにまさる者が、ここにいる!」(マテオ12:39)

【マラキア】
マラキア預言者を通じて予告したいけにえ、それを供える者の側からの欠点または罪悪によってけがされることができない清い捧げ物が、諸国民の間で偉大な主の名に、主の名のためにささげられる(マラキア1:11参照)とも予告されていました。


2023年3月21日(火)春分の日:広島で聖伝のミサが捧げられます(ドモルネ神父さま)

2023年03月10日 | 聖伝のミサの予定

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2023年3月21日(火)春分の日に、広島市佐伯区楽々園で、ドモルネ神父さまにより聖伝のミサが捧げられます。愛する兄弟姉妹の皆様をご招待いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!


聖ピオ十世会が聖ヨゼフに奉献されて10周年:聖会の保護者なる聖ヨゼフに向かいて聖ピオ十世司祭兄弟会を奉献する祈り

2023年03月10日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2013年3月19日、聖ピオ十世会は、公式に聖ヨゼフに奉献されました。今年の3月19日は、その10周年です。「聖会の保護者なる聖ヨゼフに向かいて聖ピオ十世司祭兄弟会を奉献する祈り」の日本語訳に少し修正を入れましたので、改めてご紹介します。

今年はこの奉献の更新式が全世界の聖ピオ十世会で行われます。

聖ヨゼフ、我らのために祈り給え!

Act of Consecration of the Priestly Society of St. Pius X to St. Joseph, Patron of the Universal Church 聖会の保護者なる聖ヨゼフに向かいて聖ピオ十世司祭兄弟会を奉献する祈り 2013年3月19日
O glorious St. Joseph, Spouse of the Immaculate Virgin, Foster Father of the Son of God, appointed Head of the Holy Family and raised up as Heavenly Patron of the Universal Church; おお、栄(は)えある聖ヨゼフ、無原罪の童貞女の浄配、天主のおん子の養育者よ、御身は聖家族の長に任じられ、全地にあまねき聖会の天の保護者として挙げられたり。
Thou whose faith triumphed over doubt, whose justice was as great as thy chastity, whose obedience was the servant of thy wisdom, whose strength went hand in hand with thy prudence and whose magnanimity vied with thy humility; 御身の信仰は疑いを克服し、御身の正義はその貞潔と等しく偉大なり。御身の従順は上智に奉仕し、御身の力強さは賢明と共に働き、御身の寛大さ(magnanimitas)は謙遜と競い給えり。
Thou model of those devoted to labor, assurance of those in the midst of battle, terror of the demons unleashed against the work of the Redeemer; 御身は労働に打ち込む人々の模範、戦いのさなかにある人々の保証、贖い主のみわざに反対して解き放たれた悪魔の恐れなり。
Thou who didst employ all thy virtues in saving the God-man from grave perils, and who from on high dost protect His Mystical Body, subjected to the ever-renewed attacks of its enemies; 御身は、そのあらゆる徳を使いて、人となりし天主イエズスを由々しき危険より救い給いたり。また、御身は天の高きより、主の神秘体なる公教会を保護し、つねに新たにされる敵からの攻撃から守り給う。
Cast thine eyes upon this little portion of the flock of Jesus Christ, which an inscrutable plan of God has raised up to safeguard the Catholic priesthood and the Catholic Faith. 願わくは御身、イエズス・キリストの群れのこの小さき部分、天主のはかり知れ得ぬご計画が、カトリック司祭職とカトリック信仰とを守護せんがために立て給うたこの共同体【聖ピオ十世会】にまなこを注ぎ給え。
Conscious of its nothingness and enlivened by a boundless confidence in thy powerful patronage, O Blessed Patriarch Joseph, the Priestly Society of St. Pius X consecrates itself to thee, with all its members and all its undertakings, in order to magnify thy glories and thy virtues. 自らの無力を自覚し、御身の力強きご保護に対する限りなき信頼に力をえて、おお幸いなる太祖ヨゼフよ、聖ピオ十世司祭兄弟会は、御身の栄光と徳とをいや増さんがため、その全ての会員と全ての事業とともに自らを御身に捧げ奉る。
Deign in return, O most generous Steward of the King of Glory’s bounty, to grant to this little family the same benefits that thy paternity obtains for the entire Church: deign to make it thine own, to keep it faithful to its statutes, to make it live and propagate the Sacrifice of the Altar, to enrich it with spiritual life, to establish its members in the sanctity and chastity proper to their state, to strengthen it in its holy apostolic labors, to lead it in the combat for the Faith, to thwart the traps of the Enemy and to make it serve the interests of the Church. おお、栄光の王の恵みのいとも寛大なる管理者よ、願わくは、返答として、この小さき家族に、御身の父性が全教会のために獲得せるその同じ恩恵を、かたじけなくも与え給え。当会を御身の所有となさしめ給い、その会憲に忠実にたらしめ、祭壇の犠牲【ミサ聖祭】を生きかつ伝播せしめ給え。霊的生命もて当会を豊かならしめ、当会会員らを自分の身分に固有な聖性と貞潔とのうちに確立させ、聖なる使徒的労働において当会を強め、信仰のための戦いにおいて当会を導き、敵の罠を挫(くじ)き、教会の利益のために当会が仕えるようにせしめ給わんことを謹んで願い奉る。
Deign also, O our faithful Intercessor, to make of this humble legion of restorers a firm support for the Roman Pontiff in his mission to confirm his brothers in the clear and entire profession of Faith of St. Peter: Thou art Christ, the Son of the living God. おお、我らが忠実なる仲介者よ、さらに、この卑しき復興の軍隊をして、ローマ教皇の堅固なる支えとなさしめ給え。すなわち「御身はキリスト、生ける天主のおん子なり」との聖ペトロの明白かつ完全なる信仰告白において、兄弟らを固めるという教皇の使命における支えとなさしめ給え。
O thou who wast providentially placed at the side of Mary our Queen, grant that we, through thine irresistible intercession with Jesus, Sovereign Priest and King of Eternal Glory, may live and preach in all their most concrete consequences the divinity, the priesthood, and the royalty of this same Jesus Christ, Who with the Father and the Holy Ghost liveth and reigneth, God, world without end. Amen. おお、御身は、み摂理により、我らの元后マリアのかたわらに配され給うた。願わくは、最高司祭かつ永遠の栄光の王なるイエズス・キリストにとって拒むことの出来ない御身の取り次ぎにより、我らが、この同じイエズス・キリストの持ち給う御神性と司祭職および王権、その全てが意味する最も具体的な結論において、生きかつ説教するを得んことを。おん父と聖霊とともに世々に生き、かつ統治(しろしめ)し給う天主なるイエズス・キリストによりて。アーメン。

全人類が知るべき喜びの永遠の生命の不老不死の秘密

2023年03月10日 | お説教・霊的講話

2022年12月17日(土)大阪 説教

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、

昨日、私達は、クリスマスの核心が永遠の生命(いのち)を与えるために来られた天主であることを黙想しました。キリスト教の目的は、存在理由は、まさにここにあります。永遠の生命を私たちに与えることであり、この世の楽しみや快楽を追求するのを助けるためではありません。ご利益のための宗教ではありません。永遠の生命のための宗教です。言葉を言い換えると、私たちが天主のようになる、その天主の生命を生きるための宗教です。これが第一のポイントです。

第二のポイントは、昔、アダムとエワは蛇にサタンに騙されたということです。おそらく、アダムが命じられた時にエワは造られていなかったので、まだ存在していなかったので、エワはアダムの言葉を聞いただけだったからかもしれません。

サタンは、蛇の姿を取って、エワに言いました。
「なぜ、あの善と悪の知識の実を食べてはいけないのか。」
エワは単純に「それを食べると死ぬから」といいます。
すると蛇は言います。「いや、それは嘘だ。死なない。あなたは目が開けて神々のようになる。永遠に生きる。全能の力を持つ。全てを。」

するとエワは、もしかしたらそうかもしれない…と天主の言葉ではなく蛇の言葉を信じ始めました。
そして罪を犯して、木から実を取って、奪い取って、盗んで、してはいけなかったその木の実を食べて、この世に死をもたらしました。苦しみと病気と悲しみを持ち込んでしまいました 。

現代社会は、同じような誘惑を受けています。
キリスト教は、私たちにこう言います。
「私たちは、この十字架の上につけられた実を食べなければならない。」つまり「ご聖体をいただかなければならない。」 「十字架の生贄であるミサ聖祭で、私達は恵みを受けなければならない。」
「ここにしか救いがない。」

しかし、現代のサタンは蛇の形ではなくて、おそらく、コンピューターの形を、あるいはテレビの形をとって「嘘だ」と言うかもしれません。
「いや、あなたたちは苦しむ必要はない。死ぬ必要もない。この地上で楽園を作ることができる。十字架なしに、おもしろおかしく楽しむことができる。科学の進歩があれば、苦しまない。死なない。不死、長寿を得ることができる。それが現代のトランスヒューマニズムというものだ。」
人間の脳に、あるいは身体に、機械をつけて、死を避けようと、苦しみを避けようと、永遠に生きようとしています。

しかし私たちは答えを知っています。それはできません。それは失敗に終わります。人間はかえって苦しんで、終わります。何故かと言うと、罪のために死が入ったので、その死はもはや避けることができないからです。苦しみを、私達はどうしても避けることができないからです、罪のために。 
人間の科学がいくら進歩しても、科学技術でそれを避けることはどうしてもできないのです。

しかし、クリスマスには、私たちに不死の永遠に生きる方法を与えるために天主が人間となりました。私たちに、苦しまずに永遠の幸せを与えるために、天の御父の懐におられる天主の御子がすべての栄光と自由と光とをそのままにして、自由を失いながら全く小さくなって子供となって自分一人では何もできないようになって、しかも人々から捨てられながら貧しく馬小屋で動物の間で、私たちのためにお生まれになります。

いったいなぜ、なぜ天主はこんなにも小さくなって、全能の天主が弱々しくなって、お生まれにならなければないのでしょうか。

それは、私たちに永遠の生命を与えるためです。私たちの苦しみの引き換えに、幸せを与えるためです。ご自分が死を受けることによって、私たちに天主の生命を与えるためです。

全人類はこの本当の解決策を、本当の秘密を知らなければなりません。ですから、今年のクリスマスは私たちにとって、本当の喜びの日です。なぜかと言うと、全人類が知るべき喜びの永遠の生命の不老不死の秘密が、まさに私たちに与えられるために、天主がお生まれになるからです。私たちにそれが与えられるからです。

マリア様にお祈りいたしましょう。マリア様は、その最初の瞬間から罪に打ち勝った方です。サタンの頭(かしら)を踏み砕いた方でした。ですから、マリア様の御取り次ぎで、私たちもいつもサタンの嘘に、No! 嘘だ! と、見分けることができる恵みを祈りましょう。本物の生命イエズス・キリストをいつも受けることが出来るお恵みを請い求めましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

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