Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

永遠の命を信じます。死は命の終わりではありません。I believe in everlasting life.

2023年04月18日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、2023年4月16日は白衣の主日です。

「テレワーク」方式ではありますが、皆様にYouTubeで「レネー神父様の白衣の主日の説教」の動画をご紹介いたします。

この動画が気に入ったら、お友達にもご紹介くださいね。

SSPX JAPAN聖ピオ十世会日本にチャンネル登録もお願いいたします。

天主様の祝福が豊にありますように!

トマス小野田圭志神父


「罪の機会を避けない」危険性について|悪魔は私たちよりも前に私たちの罪の機会 の周りにいて私たちを狙っているのです

2023年04月18日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、2023年4月16日は白衣の主日です。

「テレワーク」方式ではありますが、皆様にYouTubeで「白衣の主日の説教」の動画をご紹介いたします。

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トマス小野田圭志神父


【ヴィガノ大司教】聖金曜日の黙想:キリストよ、われら御身を礼拝し、御身を賛美し奉る。御身、尊き十字架によりて世を贖い給うたがゆえなり

2023年04月15日 | カトリック・ニュースなど

聖金曜日の黙想

キリストよ、われら御身を礼拝し、御身を賛美し奉る。御身、尊き十字架によりて世を贖い給うたがゆえなり

2023年4月7日

MEDITATION for Good Friday

カルロ・マリア・ヴィガノ

Popule meus, quid feci tibi?
わが民よ、われ、なんじに何をしたか?

わが民よ、われ、なんじに何をしたか? 何をもってなんじを悲しませたか? 私たちが聖なる十字架の木を礼拝する準備をするとき、インプロペリア(Improperia)すなわち「咎めの交誦」の言葉が私たちの心にこだまします。この言葉は、ご自分の民や私たち一人一人に向けられた、悲痛な咎めの言葉、主の耐え難い苦悩の言葉なのです。私たち一人一人を救うために人となられ、最も不名誉な拷問によって死なれた天主の御言葉、ゲッセマネにおいて、あらゆる時代、あらゆる人の多くの罪を恐怖の目で見つめ給うた天主の御言葉です。

ハギオス・ホ・テオス、ハギオス・イスキュロス、ハギオス・アタナトス・エレイソン・イマス(Άγιος ο Θεός, άγιος ισχυρός, άγιος αθάνατος ελέησον ημάς)。
サンクトゥス・デウス、サンクトゥス・フォルティス、サンクトゥス・イモルターリス、ミゼレレ・ノビス(Sanctus Deus, Sanctus Fortis, Sanctus Immortalis, miserere nobis)
[聖なる天主、力ある聖なる天主、聖なる不滅の天主、われらをあわれみ給え]。
キリストの人性は御父に対してそう叫び、人類の主として、神秘体のかしらとして、世の罪を御自ら背負われた天主の小羊として、私たちの名において赦しを請い願われます。そして、この悲痛な叫びには、何度も何度も報われることのない無限の愛、利己主義によって辱めを受けた熱烈な愛、そして、私たちが受けた限りなく素晴らしい賜物を前にしながらも、私たちが忘恩であることを承知しておられることが、すべて含まれています。

私たちの主のいと尊き御血は、ただの一滴であっても、この世全体を救うのに十分なものだったのです。cujus una stilla…【御血の一滴だけで、(世のすべての罪を償うことのできるお方)[賛歌アドロ・テ・デヴォーテの一節]】。しかし、天主の愛は、天主ご自身である愛は、測り知れないものであり、怒りの子である私たちを贖うために、ご托身になった御子の命をお与えになるほどだったのです。聖なる御顔に何度も唾を吐きかけ、茨の冠をかぶせられ給うた聖なる頭を葦で叩き、その至聖なる肉体を鞭で裂き、その尊き御手に釘を打ち込んだのは、私たちなのです。

Opprobrium hominum et abjectio plebis(人々にそしられ、民にあなどられる)(詩篇21篇6節)命のない贖い主を見つめましょう。王の中の王は、奴隷のためにある処刑台に上げられました。人の子の中で最も美しいお方が、見分けがつかなくされ、衣をはぎ取られ、嘲笑と侮辱にさらされました。それは誰のためでしょうか? 【私たちの】乾いた霊魂たちのため、石のような心のため、反抗的な精神のためです。

しかし、人間にして天主なるお方の死を証しするために、自然を巻き込こんで空を暗くし大地の深淵を揺り動かすという、この聖なる描写の中においては、私たちに、天主のみに可能な神聖なる愛の深淵を、垣間見させてくれさえします。敵対者【悪魔】はあわれみを理解しません。なぜなら、彼は愛を理解せず、愛することも、愛することを選択することもできないからです。天主の御稜威(みいつ)が罪の存在をお許しになる唯一の理由は、それが悔い改めと回心の機会となるからだということ、また、真理と愛の完全な一貫性、正義とあわれみの完全な一貫性が現れているのは、罪深い人類を贖うために御自らをお捧げになるまでに至った天主の御あわれみにおいてこそだということを、彼は理解しないからです。

十字架上の天主を殺すことによって天主を打ち負かしたという妄想的な錯覚の中で、サタンは自らの断罪に署名したのです。O mors, ero mors tua. Morsus tuus ero, inferne(コリント前書15章55節、ホゼア13章14節)[死よ、私はおまえの死となる、地獄よ、私はおまえの滅びとなる!]。Ut unde mors oriebatur, inde vita quoque resurgeret; et qui in ligno vincebat, in ligno quoque vinceretur:【聖十字架の序誦】[それは、死が始まったところから、そこから生命がまたよみがえり、木において勝ったもの(悪魔)が、(十字架の)木においてまた敗れるためであった]。拷問と死のかの道具は、命の主の王座となり、主はその上で統治しておられます。Regnavit a ligno Deus.【天主は木によって統治する】。何という底知れぬ神秘でしょうか!

また、何という聞く耳を持たない利己主義の深淵でしょうか、それはサタンの深淵、盲目の傲慢の深淵、最も光り輝く天使の失われた永遠を貪り食う無言の怨念の深淵です。【サタンと】同じあわれな「ヒュブリス」(ὕβρις、思い上がり)、同じ全能感による錯乱が、地上の邪悪な者たちを動かし、キリストと教会の敵を動かし、万軍の主を打倒できると信じさせ、御子が死によって彼らから買い戻し給うた霊魂を御子から奪い取ることができると信じさせているのです。

サタンの憎しみは無限ではなく、その力も無限ではなく、この世のかしらの国も永遠ではありません。しかし、天主の愛は無限であり、天主の全能は無限であり、天主の御国は無限に永遠です。天主の愛は無限であり、私たちあわれな被造物を愛する愛の炎であらゆる罪と欠点を焼き尽くし、もし私たちが赦しと助けを必要とする罪人であることを認識して自らを明け渡しさえすれば、天主の永遠の至福と栄光にあずかることができるのです。私たちは、愛し、愛されるために創造されました。それは、私たちが功徳なしに受けたすべてを、私たちの無でお返しするためです。私たちが太陽によって暖め、照らしてもらうように、子どもが父親に押しつぶされることを恐れずに強い腕に抱いてもらうように、天主によって愛していただくためです。

Misericordiam volo, et non sacrificium(マテオ9章13節)[私が望むのはあわれみであって、いけにえではない]と主は私たちに言われます。なぜなら、天主の御あわれみは、御父の永遠の御子のいけにえにおいて現れ、私たちはそれをミサの中で血を流さない形で永続させるからです。私たちは、この天主の愛の奇跡にお応えするために、私たちの最も犠牲となるもの――自己愛、エゴ、実際には私たちが持っているすべてのものを負っているのに何かを自分の功徳で得たという主張――をお捧げし、兄弟姉妹にあわれみを示し、「自分の友人のために命を与える以上の大きな愛はない」(ヨハネ15章13節)と知って、そのようにすべきなのです。

これは天主の神秘であり、すべてを包み込んで燃え上がらせる熱烈な愛です。そして、mysterium iniquitatia(悪の神秘)は、この愛に屈することができないことに、負け戦を頑なに続けることに、悪が善に勝ち、嘘が真理を覆い隠し、闇が光を圧倒し、被造物が創造主に打ち勝つことができると妄想することにあります。

十字架の前にひれ伏して礼拝し、私たちがすでに知っていても、その意味を完全に理解しつくすことができないであろうこの言葉を繰り返しましょう。Adoramus te, Christe, et benedicimus tibi: quia per sanctam Crucem tuam redemisti mundum.[キリストよ、われら御身を礼拝し、御身を賛美し奉る。御身、尊き十字架によりて世を贖い給うたがゆえなり]

+大司教カルロ・マリア・ヴィガノ

Feria VI in Parasceve
2023年4月7日
聖金曜日


英語版 MEDITATION for Good Friday 

イタリア語版 Monsignor Viganò / Meditazione nel Venerdì di Parasceve - Aldo Maria Valli


2023年4月15日土曜日 修道院でのミサはいつもの通り午前11時00分です

2023年04月14日 | 聖伝のミサの予定
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2023年4月15日土曜日 修道院でのミサはいつもの通り午前11時00分です。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田神父

トマス・アクィナス神学校のロザリオの聖母のイコン


今年も4月23日(復活後第二主日)の良き牧者の主日には、アジア管区の神学生たちのための特別献金をお願いいたします

2023年04月14日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

今年も4月23日(復活後第二主日)の良き牧者の主日には、聖ピオ十世会アジア管区の全ての教会やミッション・チャペルで、アジア管区の神学生たちのための特別献金をお願いすることになっております。

現在、アメリカの聖トマス・アクィナス神学校とアルゼンチンのラ・レハにある共贖者聖母の神学校で計4名のアジア管区の神学生たちが司祭職を準備しています。

聖ピオ十世会の神学校で学ぶ神学生たちのための特別献金のために「第二献金箱」が、ミサの会場の出入り口に用意されます。愛する兄弟姉妹の皆様の寛大なご支援をよろしくお願いいたします。心から感謝いたします。

日本の青年たちが霊魂の救いのために働く意欲をもって、多くの若人たちが司祭職を目指しますように、お祈りください。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

On April 23rd, a second collection will be done, in all our chapels of the Asia district, for the benefit of our seminarians. Thank you for your kind generosity.


アメリカの聖トマス・アクィナス神学校の一年生たち


イエズスのご復活がなぜ私たちのカトリック信仰にとって非常に重要なのか、洗礼がどのようにして私たちを復活したキリストのようにするのか

2023年04月10日 | お説教・霊的講話

イエズスの復活の重要性についての説教

ドモルネ神父 2023年4月9日

はじめに

復活祭は、一年のうちで最も重要な祝日です。なぜ、復活祭はそれほど重要なのでしょうか? それは、私たちの主イエズス・キリストのご復活をお祝いするからであり、また、このご復活が、私たちのカトリック信仰にとって根本となる出来事であるからです。聖パウロはこう言っています。「キリストが復活しなかったなら、私たちの宣教は空しく、あなたたちの信仰も空し(い)」(コリント前書15章14節)。今日はまず、イエズスのご復活が、なぜ私たちのカトリック信仰にとって非常に重要なのかを説明し、次に、洗礼が、どのようにして、私たちを復活したキリストのようにするのかを説明したいと思います。

1)復活の根本的な重要性

自分自身に命を与える人はおらず、命は受けるものです。すべての人は両親から命を受けますが、究極的に言えば、「最初の存在」、つまり天主から命を受けます。天主だけが御自ら命を持っておられ、最初の男と女に命をお与えになったのは天主です。ですから、人が死ねば、自分も、両親も、どんな被造物も、その人を生き返らせることはできません。天主だけが、その人に、命を再び与えることがおできになるのです。このため、復活は、天主のみわざであることの誤り得ないしるしなのです。

私たちの主イエズス・キリストは、ご自分の天主としての御力を証明するために、死者を、ラザロのような腐敗しつつあった死者でさえも、復活させられたのです。しかし、御自ら復活されることで、ご自分が天主の御力によって行動なさっただけでなく、ご自分が天主そのものであるという、驚くべき証明をなさったのです。なぜなら、主はなくなられる前にこう言われたからです。「私が命をふたたびとりもどすために、自分の命をあたえる。その命は、私からうばうものではなく、私がそれをあたえるのである。私にはそれをあたえる権利があり、またとりもどす権利もある」(ヨハネ10章17-18節)。自分の命をあたえること、そして自分の力でそれを取り戻すこと、このようなことができるのは天主だけです。実際、私たちの主イエズス・キリストは、聖金曜日に十字架上で死んで、復活の主日の朝によみがえられました。イエズスは、非常に多くの証人に復活したご自分をお見せになりましたが、それは、誰もこの復活という現実を合理的に疑うことができないようにするためです。復活によって、イエズスはご自分のお言葉が真理であることを証明されました。イエズスは、ご自分の命をあたえて、ご自分の望むようにそれを取り戻されます。ですから、イエズスは天主でいらっしゃるのです。ですから、永遠の幸福を得るために何を信じ、何をすべきかについて、イエズスが私たちに教えられたことは、すべて真実なのです。ですから、イエズス・キリストによって創立されたカトリック教会における、主の使徒たちとその後継者たちの教えは真実なのです。私たちのカトリック信仰は、決してむなしいものではありません。

イエズスのご復活が、私たちのカトリック信仰にとって非常に重要である、もう一つの理由があります。イエズスのご復活は、私たちの罪の赦しのための十字架上のイエズスの犠牲が、天主によって受け入れられたことを証明しています。実際、肉体の死が、罪の結果、罪のしるしであるように、肉体の復活は、罪の赦しの結果、罪の赦しのしるしなのです。イエズスが私たちの罪を償われたのは、十字架上でご自分の命をお捧げになることによってであり、イエズスの犠牲の持つ贖いの効力をはっきりと現されたのは、死からよみがえられることによってでした。ですから、聖パウロは、「主は私たちの罪のために渡され、私たちを義とするためによみがえられた」(ローマ4章25節)と言っています。

イエズスのご復活が私たちにとって非常に重要である、第三の理由があります。イエズスのご復活は、私たちのキリスト教の希望が真実であることを証明しています。私たちのキリスト教の希望とは、私たちがいつか復活し、イエズス・キリストを通して天主の命と永遠の幸福の中に入ることです。この希望は、決してむなしいものではありません。イエズスが死者の中からよみがえられたのならば、イエズスが私たちを死者の中からよみがえらせられることは、どれほど容易なことでしょうか! 聖パウロは、聖ティモテオにこう言いました。「次のことばは信じるに足るものである。『私たちがキリストとともに死んだなら、またかれとともに生きるであろう』」(ティモテオ後書2章11節)。私たちがイエズスの教えと模範に従い、天主をお怒りさせるより死ぬ方がいいというまでの覚悟があるならば、私たちはよみがえり、イエズスとともに永遠の命にあずかることでしょう。

2)洗礼は私たちをご復活のキリストのようにする

イエズス・キリストは、その死と復活によって、私たちの肉体的かつ霊的な復活の功徳を獲得されました。私たちの主は、世の終わりに、私たちを肉体的に復活させられるでしょう。主は、洗礼の秘跡を通して、私たちを霊的によみがえらせられます。洗礼は、イエズスの死と復活の効果を私たちに伝えるために、イエズスによって制定された手段です。このため、聖パウロはこう言っています。「キリスト・イエズスにおいて洗礼を受けた私たちは、みな、かれの死において洗礼を受けたのであることを、あなたたちは知らないのか。私たちは、その死における洗礼によって、イエズスとともに葬られた。それは、おん父の光栄によってキリストが死者の中からよみがえったように、私たちもまた、新しい命に歩むためである」(ローマ6章3-4節)。洗礼は、私たちをご復活のイエズスのようにするのです。

私たちの主は、不死という賜物をもって、死者の中からよみがえられました。主は、もはや死なれることはありません。イエズスは洗礼を通して、ご自分の不死性を私たちに伝えられます。実際、洗礼を通して、主は、私たちを原罪とすべての個人的な罪から清め、地獄という永遠の死から解放し、天主と和解させ、天主の永遠の命にあずかるように私たちを招いておられるのです。

私たちの主は、もはや苦しむことはないという無痛性の賜物をもって、死者の中からよみがえられました。ある意味で、イエズスは洗礼を通して、その無痛性を私たちに伝えられます。洗礼の後、私たちはもう苦しまないというわけではありませんが、天主への愛のために、すべてを耐え忍び、すべてを苦しむことができるようになるのです。イエズスは洗礼を通して、私たちをご自分と一致させ、私たちにご自分の天主としての御力を伝えられるのです。殉教者たちの例を思い出してください。

私たちの主は、繊細さの賜物をもって、死者の中からよみがえられました。主は、あらゆる物理的な必要性から解放され、霊のように、あらゆるところに浸透していかれます。ある意味で、イエズスは洗礼を通して、その繊細さを私たちに伝えられます。実際、洗礼を通して、イエズスは私たちに、私たちの霊魂に宿って私たちを霊化させる聖霊を送られます。聖霊は、私たちに天主の実在を味わわせ、肉の情欲に打ち勝つ力を与えられ、私たちがこの世の財物を軽蔑するようにしてくださるのです。

私たちの主は、敏捷性の賜物をもって、死者の中からよみがえられました。主は、霊のように速く、ある場所から別の場所へと物理的に移動されます。ある意味で、イエズスは洗礼を通して、その敏捷性を私たちに伝えられます。実際、イエズスは洗礼を通して、私たちを私たちの罪とその結果から解放し、私たちを間違った情欲という奴隷状態から解放し、内的な平和と、真、善、美を容易に選択する能力を私たちに与えることによって、私たちを霊的に解放させられるのです。

私たちの主は、明晰さという賜物をもって、死者の中からよみがえられました。イエズスは、美と栄光に輝いておられます。イエズスは洗礼を通して、その明晰さを私たちに伝えられます。実際、イエズスは洗礼を通して、私たちの知性を主の真理で照らし、私たちの霊魂を成聖の恩寵と徳で飾り、私たちを愛で輝かせられるのです。

結論

親愛なる信者の皆さん、この復活の主日に、心の底から喜びましょう。サタンと罪に対する私たちの主の勝利を喜びましょう。主の永遠の栄光を喜びましょう。主が私たちを永遠の幸福にあずかるように呼んでくださっていることを喜びましょう。イエズスとマリアが私たちのためにしてくださったすべてのことに対して、お二人に感謝しましょう。そして、聖パウロの次の勧めを覚えておきましょう。「さて、あなたたちがキリストとともによみがえったのなら、上のことを求めよ。キリストはそこで、天主の右に座しておられる。あなたたちは、地上のことではなく、上のことを慕え。あなたたちは死んだものであって、そのいのちは、キリストとともに天主の中に隠されているからである」(コロサイ3章1-3節)。


私たちはどのように互いに愛し合わなければならないのか? 主イエズスは、私たちの間にどのような愛を望んでおられるのか? なぜこの愛がイエズスの弟子の特別なしるしなのか?

2023年04月09日 | お説教・霊的講話

隣人への愛についての説教(聖木曜日)

ドモルネ神父 2023年4月6日

はじめに

あと数分で、洗足の儀式が行われます。司祭は、最後の晩餐のときに私たちの主ご自身がなされたことを再現します。イエズスは、この素晴らしい謙遜の行為を行い、使徒たちへの愛を示された後、こう言われました。「私は新しい掟を与える。あなたたちは互いに愛し合え。私があなたたちを愛したように、あなたたちも互いに愛し合え。互いに愛し合うなら、それによって人はみな、あなたたちが私の弟子であることを認めるだろう」(ヨハネ13章34-35節)。

今晩は、このイエズスのみ言葉についてお話しします。私たちは、どのように互いに愛し合わなければならないのでしょうか? 私たちの主イエズスは、私たちの間にどのような愛を望んでおられるのでしょうか? そして、なぜこの愛が、イエズスの弟子であることの特別なしるしなのでしょうか?

1. 自分のように隣人を愛すること:その意味

私たちの主イエズスは、私たちが互いに愛し合わなければならないと言われ、その方法を教えてくださいます。それは「私があなたたちを愛したように」です。しかし、ここで、私たちは少し混乱してしまうかもしれません。実際、イエズスは私たちに、福音の他の箇所で、こう言われました。「隣人を自分と同じように愛せよ」(マテオ22章39節)。しかし、他の箇所で、イエズスは、私たちが自分自身を憎まなければならないことも教えておられます。「私のもとにきても、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そして自分の命までも憎まないなら、私の弟子にはなれない」(ルカ14章26節)。私たちの主のこれらのみ言葉は、矛盾しているように思えます。では、私たちは、どのようにして、互いに愛し合わなければならないのでしょうか?

この疑問に答えるには、第一に、自分自身について、区別を行う必要があります。原罪以来、私たちは、自分自身を愛すると同時に、憎まなければなりません。私たちは、天主の像と似姿に造られ、ついには顔と顔を合わせて天主を見て、天主の永遠の命にあずかるように運命づけられている、天主の被造物としての自分自身を、愛さなければなりません。要するに、自分自身を愛するということは、私たちの内におられる天主を愛することなのです。逆に、私たちは、天主に対立する自分自身、つまり、天主のご意志に対立する自己意志を憎まなければなりません。私たちは、自分自身の罪や、私たちの内にあって、私たちを天主から遠ざけるすべてのものを、憎まなければなりません。要するに、自分自身を憎むということは、私たちの内にある天主でないものを憎むことなのです。

ですから、キリストが、隣人を自分のように愛さなければならない、と言われるとき、キリストは、私たちが自分の内におられる天主を愛するように、隣人の内におられる天主を愛さなければならない、という意味で言っておられるのです。私たちは、自分自身のために永遠の救いを望むように、隣人にも永遠の救いを望み、この目的のために私たちにできることなら、それが何であっても、しなければならないのです。

しかし、イエズスは、私たちにそれよりもっと多くのことを望まれます。イエズスはこう言われました。「私があなたたちを愛したように、互いに愛し合え」。ですから、私たちの基準と模範は、イエズスの愛なのです。私たちに対するイエズスの愛とは、どのようなものだったでしょうか?

2. 隣人を愛すること:いくつかの特徴

愛するということは、第一に感傷的な感情を抱くことではなく、本質的に言えば、人のために良いことをしたいと思うことです。愛とは、第一に意志の行いであり、感情ではありません。感情は、意志の行いと共にあることもありますが、必ずしもそうではありません。例えば、イエズスの友人ラザロが死んだときのイエズスを思い出してください。イエズスは泣かれました。イエズスの愛には感情が伴っていました。しかし、オリーブ園での苦悩のときのイエズスも思い出してください。私たちに対するイエズスの愛は、まったく感傷的ではありませんでした。イエズスは、私たちの救いのためにどれほど苦しむことになるかをすべて予見なさって、激しい苦悶の状態で、血の汗を流されていました。しかし、そのご意志の強さをこめて、こう祈られました。「父よ、おぼしめしならば、この杯を私から遠ざけてください。しかし、私の意のままにではなく、あなたのみ旨のままに」(ルカ22章42節)。イエズスの愛は、私たちを救うという固い決心にあったのです。しかし、その決心が、イエズスを感覚的に大変苦しめることとなったのです。

第二に、隣人を愛することは、隣人の言動や行動に同意することではなく、逆に、隣人が悪から離れて善を行うように助けることです。例えば、私たちの主イエズスが神殿から商人たちを追い出されたことを思い出してください。イエズスは彼らを愛し、彼らの永遠の救いを望んでおられたため、彼らの悪しき商売をやめさせられたのです。また、聖ペトロが主のご受難を思いとどまらせようとしたとき、イエズスが聖ペトロに言われた強い言葉も思い出してください。イエズスはペトロを愛しておられましたが、ペトロにこう言われました。「サタン、ひきさがれ!あなたは私の邪魔をするのか」(マテオ16章23節)。また、イエズスがファリザイ人をどのように呼ばれたかを思い出してください。「偽善者よ…盲目の案内人よ…愚か者、盲目よ…蛇よ、まむし族よ…」(マテオ23章)。イエズスはファリザイ人を愛し、彼らの永遠の救いを望んでおられました。しかし、彼らはあまりにも罪に凝り固まっていたため、イエズスは彼らが罪から抜け出せるようにと、彼らの悪事を強く糾弾なさらなければならなかったのです。

第三に、隣人を愛するとは、個人的な利益を求めずに、隣人の善を求めることを意味します。私たちに対するキリストの愛は、私たちの救いのために死を覚悟した、至高の慈愛に満ちた愛でした。「友人のために命を与える以上の大きな愛はない」(ヨハネ15章13節)。イエズスには、私たちのために死ぬ義務がなかったことを思い出してください。私たちに対するイエズスの愛は、私たちに過去の功徳があったから、というわけではありませんでした。それどころか、私たちはイエズスの敵だったのです(ローマ5章10節参照)。ですから、イエズスが私たちに、「私があなたたちを愛したように、互いに愛し合え」と言われるとき、イエズスは私たちに、すべての人に対して、それが私たちに何も良いことをしてくれなかった人であっても、たとえ敵であっても、私たちが慈愛に満ちた愛を持つことを命じておられます。私たちの愛は、隣人の永遠の救いのために必要であれば、肉体的な死をも覚悟するほどのものであるべきです。囚人収容所で餓死の刑を宣告された人の身代わりになった、聖マキシミリアノ・コルベの例を思い出してください。彼は、この人や他の囚人たちの霊魂が救われるように、自分が肉体的に死ぬことを決心したのです。

3.愛はキリストの弟子の持つ特別なしるしである

ここで、私たちの主イエズスの、次の言葉を考えてみましょう。「互いに愛し合うなら、それによって人はみな、あなたたちが私の弟子であることを認めるだろう」。なぜ、私たちの間の愛が、私たちがキリストの真の弟子であることを識別するための特別なしるしなのでしょうか? その答えは単純です。私たちは、イエズスだけが与えることがおできになる成聖の恩寵と、超自然の徳である愛がなければ、イエズスがなさったように、隣人を愛することはできないからです。

率直に言えば、完璧な男も完璧な女も存在しません。私たちは皆、原罪と自罪の影響を受けています。私たちが他人の欠点に耐えることは困難で、他人が私たち自身の欠点に耐えることも困難です。すべての人が私たちの友人というわけではありません。私たちの人生において、あらゆる種類の不正や不義が、私たちに対してなされる可能性があります。

私たちの知性が、信仰という超自然の徳によって強められなければ、私たちの敵を、キリストの血によって贖われ、永遠の命に召された天主の被造物と見ることが、どうして私たちにできるでしょうか? 私たちの意志が、愛という超自然の徳によって強められなければ、私たちの敵の永遠の救いを確実にするために、自分の死を覚悟するほど敵を心から愛することが、どうして私たちにできるでしょうか? イエズスを自分の心に抱かなければ、私たちは、イエズスが私たちに望まれるように、隣人を愛することはできません。

結論

親愛なる信者の皆さん、この聖木曜日に、私たちの主から私たちに与えられた愛の掟を思い出しましょう。私たちの気質の違い、好き嫌いの違い、私たち一人一人に固有の欠陥や霊的な惨めさを超えて、私たち共通の存在目標、すなわち永遠の命に心を集中させ、イエズス・キリストとの一致を保ち、またイエズス・キリストにおいて、互いに一致を保ちましょう。私たちの主イエズスから、主の教えや模範、恩寵から、互いに愛し合うことを学びましょう。


聖ピオ十世会 カトリック聖伝のミサ 聖週間と復活祭の報告【東京】【大坂】 Traditional Latin Mass in Japan SSPX Japan

2023年04月09日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、
私たちの主の御復活、おめでとうございます。主イエズス・キリストはまことに復活されました。

ミサの報告を申しあげます。
東京の聖木曜日のミサに来られた方は、子供達も入れて合計52人でした。大阪では21人でした。
東京の聖金曜日の典礼に来られた方は、子供達も入れて合計55人でした。大阪では24人でした。
東京の聖土曜日の復活の徹夜祭に来られた方は、子供達も入れて合計59人でした。大阪では26人でした。
東京の復活の主日のミサに来られた方は、子供達も入れて合計154人でした。大阪では58人でした。復活祭の日中のミサには、212人が与るお恵みを受けました。天主に感謝いたします。復活祭のミサでは、東京でも大阪でもはじめて聖伝に与られた方々がおられました。

大阪では、復活の徹夜祭に一人の成人男性が洗礼の恵みを受けました。Deo gratias! 大阪の復活の主日の日中のミサのあとに、復活祭のパーティーが食べ物の持ちより分かち合いで行われました。その後、2時30分ごろに聖体降福式をおこないました。それは本当に幸福な式でした。

聖週間の素晴らしい典礼を東京で捧げてくださったドモルネ神父さまに心から感謝いたします。また、聖週間の典礼を最高のものとするために、準備や練習など労苦を惜しまずに協力してくださった、侍者の方々、香部屋の準備片付けして下さった方々、聖歌隊の方々、事務の方々、心から感謝申し上げます。東京でも大阪でも、聖週間の特別な儀式がとても荘厳に執行することができました。感謝!感謝!感謝!

復活された主イエズス・キリストが、愛する兄弟姉妹の皆様の皆様の仕事や疲労を何十倍にして報いてくださいますように!どうぞ良き復活の八日間をお過ごしください。

【報告】【聖木曜日】
Dear Fathers:

Shown below are the number of attendees at the Maundy Thursday mass in Tokyo today. The total number of attendees at the Maundy Thursday mass in Tokyo today was 52 including children.

18:00 mass
M: 24 (incl. 5 children)
F: 28 (incl. 3 children)
Total: 52 (incl. 8 children)

【報告】【聖金曜日】
Dear Fathers:

Shown below are the number of attendees at the Good Friday liturgy in Tokyo today. The total number of attendees at the Good Friday liturgy in Tokyo today was 55 including children.

18:00 via crucis + good Friday liturgy
M: 29 (incl. 3 children)
F: 26 (incl. 5 children)
Total: 55 (incl. 8 children)

【報告】【聖土曜日】
Dear Fathers:

Shown below are the number of attendees at the Easter Vigil in Tokyo today. The total number of attendees at the Easter Vigil mass in Tokyo today was 59 including children.

18:00 mass
M: 31 (incl. 5 children)
F: 28 (incl. 4 children)
Total: 59 (incl. 9 children)

【報告】【復活の主日】
Dear Fathers:

Shown below are the number of attendees at Easter Sunday masses in Tokyo today. The total number of attendees at Easter Sunday masses in Tokyo today was 154 including children.

09:00 mass
M: 47 (incl. 6 children)
F: 51 (incl. 10 children)
Total: 98 (incl. 16 children)
11:30 mass
M: 27 (incl. 2 children)
F: 35 (incl. 3 children)
Total: 62 (incl. 5 children)

Total of 2 masses (excl. 6 persons who participated in multiple masses)
M: 70 (incl. 8 children)
F: 84 (incl. 13 children)
Total: 154 (incl. 21 children)


[聖骸布]の最新研究:福音書のキリストの御受難,御死去,御復活が写し出されている [聖骸布]は21世紀の私たちのためのもの。

2023年04月09日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、主のご復活のお慶びを申し上げます。

2023年4月9日は復活祭です。

「テレワーク」方式ではありますが、皆様にYouTubeで「復活祭の説教」の動画をご紹介いたします。

この動画が気に入ったら、お友達にもご紹介くださいね。

SSPX JAPAN聖ピオ十世会日本にチャンネル登録もお願いいたします。

天主様の祝福が豊にありますように!

トマス小野田圭志神父

【ご要望がありましたので、ビデオを文字にしたものをご紹介いたします。】

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、今日は2023年4月9日、御復活の主日です。私たちの主イエズス・キリストの御復活のお喜びを申し上げます。私たちの主イエズス・キリストは、約束した通りまことによみがえりました。御自分の天主の力で、死から肉体を伴ってよみがえりました。

1.多くのことは、主の復活を語っている。
イエズス・キリストはご自分が天主であることを宣言して、それを証明するために、死者の中から復活することを約束していました。主の御死去と復活が確実であるのは、数多くの理由があります。私たちのもっている信仰は、盲目的なものでも感傷的なものでもありません。
私たちが主の復活を信じているのは、それは極めて高い信憑性があるからです。全ての客観的な出来事は、主が復活していることを指し示し、たとえそれをこの目で見なくとも、復活したとしなければ説明できないことがあまりにも多くありすぎるからです。

イエズス・キリストが御死去されたことは、主が受けた残酷な拷問、むち打ちなどによる大量の出血、十字架上の釘付け、飢えや渇き、苦しみと痛み、心臓が槍で貫かれたこと、ローマ当局の公式の確認、聖母の確認、新しい墓に埋葬された事実など、その他多くが証明しています。

主が御復活されたことは、ユダヤ当局がそのローマ兵士によって主の墓を警備させたことにもかかわらず、しかも、使徒たちが主の復活を信ぜずに逃亡して隠れていたにもかかわらず、三日目の朝早く、婦人たちや弟子たちは主の墓が空になっているのを目撃しました。墓には御体がなくなっており、残っていたのは主を包んでいた布だけでした。

主は、その直後にマリア・マグダレナとその他の婦人たちに現れ、また使徒たちにも現れてご自分の傷痕を示して「共に語り、共に食し」(ルカ 24:39-43)ご自分が復活されたことを証明されました。エンマウスへの途上の二人の弟子と共に歩いてそしてパンを割く様子から、二人は確かに主であると認めました(ルカ 24:35)。

キリストの復活をまったく信じようとはしなかった弟子たちが、キリストの復活が否定できない事実であるということを確認せざるをえませんでした。否定することができない自明の証拠を目の前に突き付けられたからです。彼らは「キリストは、約束のごとく復活し給うた、まことの天主である」と確信したのです。彼らは主の復活を見て、態度をがらりと変えてしまいました。

主が御復活したのでなければ、説明できないことが多くあります。そのようなことがらの一つに聖骸布があります。ちょうど裁判官が、ある事件について、多くある証人や事由を調べて、どうしても事件の事実の認定をしなければならなくなった証拠物件のうちの一つのようなものとして聖骸布があります。

2.聖骸布とは。
現在、北イタリアのトリノというところには、聖骸布と呼ばれている上等な亜麻布が保存されています。亜麻布というのは麻ではありません。杉綾織(すぎあやおり)と呼ばれる織り方で織られた純粋な亜麻布です。この織り方は中世ヨーロッパにはありませんでした。

トリノにある聖骸布の大きさは、長さ441センチ、幅113.3センチで、埋葬された人の前と後ろの姿が映っています。その姿には輪郭がありません。顔の部分と後頭部の部分が向かい合っていて、足は正面と背なかとで反対方向を向いています。この映っている方の身長は180センチから185センチです。聖骸布は、私たちの主イエズス・キリストを包んだ布として、血まみれの布であるにもかかわらず現在まで大切に保存されて伝えられてきました。

聖骸布ほど、世界中の科学たちによって調査・研究されたものはありえません。過去30年だけでも、2000人以上の科学者が研究し、そのうち無神論者だった研究者のうち、研究を終えたのち95%がキリスト教を信じるようになりました。

1898年5月28日にセコンド・ピアという人が聖骸布の写真を撮ったところ、写真のネガに写っていた姿がポジだったということを発見しました。つまり聖骸布の姿は、実際は白いところが黒く映り、黒いところは白く映っていて、白黒が正確に反転しているのです。つまり聖骸布というのは、写真機なしでできた等身大のネガが写っていたのです。

聖骸布に映った姿をこれから分析してみます。すると、十字架の刑を受けた姿が映っていることがわかります。法医学・解剖学・生理学の立場から、聖骸布に写っている傷痕がどのようにできたのかということを研究すると、足や手首、これは手のひらではありません、足や手首にある傷、流れた血の跡があること、膝が曲がっていること、膝と腰が浮いていることなどから、十字架の刑を受けた人の姿といえます。つまり聖骸布には十字架上でそのまま亡くなって、硬直状態となった体が写っているのです。

聖骸布を見ると、十字架を背負った傷も見えます。右肩の上と左肩の下に重いものを運んだためにできたような広いかすり傷がついています。また、足や膝や鼻のあたりには細かい土が付着しています。ですから裸足で歩き、地面に膝や顔をついたということがわかります。この土を分析するとエルサレムの土壌を覆っているアラゴナイトと同じ成分だということがわかります。

また、鞭打ちを受けた姿で映っています。背中や太もも、胸、体中の至る所に鞭を受けた傷痕があります。傷や流れる血の方向によって、打つ人は両側に一人ずついたということが分かります。120回ほどの鞭打ちを受けた痕があります。ユダヤ人にはむち打ちの限度がありそれは40回でしたから、鞭を打ったのはユダヤ人以外の人だったはずです。

また聖骸布には茨の冠を受けた姿が映っています。額と後頭部には、茨が刺したと思われる痕跡がたくさんついています。額に見える血の痕は、血の色と濃さが場所によって違っています。額の真ん中の数字の3の反対のような血は粘っこく、そして額の横を流れる血は薄い血です。これは動脈の血が濃く、そして静脈の血が薄いというのに対応しています。解剖学的には、額の中央に動脈があり、横に静脈があるのと一致しています。これは偽造のできないものです。

また暴行を受けた痕も写っています。顔には虐待を受けた痕が多く見られます。右目は打撲で腫れあがっています。鼻の線も曲がっています。強い打撃で軟骨がへし折られてしまった姿です。右の頬も膨らんでいます。

足の骨は折られていないということもわかります。イエズス・キリストと一緒に十字架にかかった二人の盗賊の足は、ローマ兵士によって折られました。しかし主イエズスはもう死んでいたので足の骨は折らなかったのです。旧約の規定によれば、過越しの生け贄の小羊の骨は折ってはなりませんでした。私たちの過越しである天主、天主の小羊イエズス・キリストの骨もおられてはなりませんでした。

胸の傷もついています。胸の右側の第五と第六の肋骨の間には、4センチ掛ける1.5センチの大きな傷がついています。その傷から大量の血が流れ出ていて、背中にも広がって聖骸布に付着しています。黒っぽいところと明るい部分があり、血清と血餅が分離していることがわかります。これは死後の血です。また開いたまま残っている傷も死後受けた傷であるということを示しています。

血液も解剖学的には血痕は血の痕はすべて正しい位置にあります。これは塗料で描かれたものではなく、傷口から直接布に移ったものです。胸の傷から流れた血だけは死後の血ですが、その他の傷の血は生前に流された血でした。聖骸布の血液は本物の人間の血液で、AB型でした。ビリルビンという赤い色素が多く含まれています。これは虐待を受けたときに赤血球が敗れてビリルビンが血液の中に入りこみますが、そのまま残って付着したものです。

また聖骸布をよく見るとこれは長い間使われなかったということがわかります。通常ならば数日で死体は腐敗します。腐敗した体液だらけになるはずです。そして腐敗のために、血の痕も姿も見えなくなっていたはずです。ところが、聖骸布には腐敗の痕跡がまったくありません。つまり体は腐敗する前に、布から離れ去っていたのです。

姿はどのように映っているのか。聖骸布の裏には、血痕は血の痕はしみ込んではいても、人の姿は写っていません。聖骸布には絵具や塗料の跡は全くないのです。ただ繊維が変色しているので姿を映し出しているだけです。布の背後から光を当てて見ると、血の痕や水のシミが付いているところでは光をさえぎるのですが、姿が見えるところでは光を通しています。つまり塗料によっては描かれてはいないということです。

よく分析してみると、聖骸布に写った姿は、繊維のセルロースの化学変化による色の変化によってできたものです。つまり布が焦げついているのです。いいかえると繊維が酸化しているのです。布の表面の6ミクロン、つまり1ミリの1000分の6程度の繊維の変色があるんです。人間の髪の毛は、50~60ミクロンの太さがあります。つまり人間の髪の毛の十分の一の浅い場所の色の変化が繊維に起こっているということです。固まった血の膜をはがすと繊維は真っ白のままです。つまり人の姿が映っているのは、血の痕が血痕が布についてから後のことであるということが分かります。

イタリアの科学者らが聖骸布と似ている酸化変化を布に起こす実験をしたことがあります。強烈な紫外線を繊維に放射したところ酸化が起こり色が付きました。彼らの研究によると、聖骸布の大きさのイメージを作りだすためには、400億分の一秒という極めて瞬時に、数十億ワットという巨大なエネルギーを発出されることが必要であるとわかりました。つまり主の御復活の瞬間、体からあっという間に輝き出た強力な栄光の力が、主の体を包んでいた布の繊維に変化を起こさせた、ということができるでしょう。

聖骸布はイエズス・キリストの体の全てに触れていたわけではありません。じかに触れていた部分もあれば、隙間が空いていたところもあります。しかし聖骸布には体全体の姿が写っています。しかも、聖骸布を紫外線で観察してみると、レントゲンのように、主の折ってある親指も透けて見えます。指の骨も写っていることがわかります。紫外線で観察すると傷跡から血が流れている痕も見えます。現代では聖骸布に移されたデータをもとに、立体の像、つまり3Ⅾの実物大の像を作ることにも成功しています。

結論。聖骸布には、福音に記録されているそのままのイエズス・キリストの御受難、御死去、そして御復活のあとが写し出されているということができます。これにはもう疑いの余地がありません。福音書が私たちに伝えている事実の、科学的な証拠物件の一つです。21世紀の科学技術が解明するまで、2000年間、先ほど述べてきたようなことは知られていませんでした。聖骸布の深い秘密は、21世紀の私たちのために、秘密のうちに隠されていました。つまり私たちが信じているカトリック信仰が、まぎれのない真理であるということを確認するために、明らかに私たちのために、現代のために取っておかれた秘密です。

愛する兄弟姉妹の皆さま、私たちの主イエズス・キリストはまことによみがえりました。イエズス・キリストは全世界の創造主、まことの天主です。カトリックの信仰は、昨日も今日も変わらず真理です。私たちにご自分の復活の命を与えるために主は今日復活されました。

復活祭の今日、特に聖母に、主への信仰を、復活への希望をいつも私たちが保ち続けることができるように祈りましょう。

われらは、キリストが真に死からよみがえり給うたのを知る。勝利の王よ、御身、われらをあわれみ給え、アメン。アレルヤ。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

 


2023年の聖週間のミサと典礼の予定をお知らせいたします

2023年04月08日 | 聖伝のミサの予定

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様
2023年の聖週間のミサと典礼の予定をお知らせいたします。

***大阪***

4月06日(木)聖木曜日(1級)ミサは白 ミサ 18:00
【朝課:午前9:30】
4月07日(金)聖金曜日(1級)典礼行為は黒 典礼 18:00
【朝課:午前9:30、十字架の道行き:16:30】
4月08日(土)聖土曜日(1級)復活の徹夜祭 18:30【開始時間にご注意ください】
【朝課:午前9:30】
4月09日(主)復活祭(1級及び1級の八日間付き)白 10:30

***東京***
(会場が変則的になっていますのでご留意ください。)

4月3日(聖月曜日)【修道院】ミサ 7:15
4月4日(聖火曜日)【修道院】ミサ 7:15
4月5日(聖水曜日)【修道院】ミサ 6:50 【少し早くミサが始まります】
4月6日(木)【入谷ホール3階】聖木曜日(1級)ミサは白 ミサ 18:00
【修道院では公式の典礼はありません。夕方の入谷ホールでのミサのみです。】
4月7日(金)【入谷ホール3階】聖金曜日(1級)典礼行為は黒 十字架の道行き 18:00、その後に典礼(19:00ごろ)
【修道院では公式の典礼はありません。夕方の入谷ホールでの典礼のみです。】
4月8日(土)【入谷ホール2階!】聖土曜日(1級)復活の徹夜祭 18:30
【修道院では公式の典礼はありません。夕方の入谷ホールでの典礼のみです。】
4月9日(主)【入谷ホール2階!】復活祭(1級及び1級の八日間付き)白 9:00, 11:30

*** OSAKA ***

April 06, The Lord's Supper (Maundy Thursday) (I class) Violet,
Matins: 9:30
Mass 18:00

April 07, The Passion and Death of Our Lord, (Good Friday) (I class) Black in Liturgical Action, Violet in Communion,
Matins: 9:30
Stations of the Cross 16:30, Liturgy 18:00

April 08, Holy Saturday (I class) Violet in Office and White in Paschal Vigil,
Matins: 9:30
Easter Vigil 18:30

April 09, The Sunday of the Resurrection of Our Lord Jesus Christ (I class with octave of I class) White, Mass 10:30

*** TOKYO ***

Maundy Thursday (April 06)
At Iriya Hall 3F: 18:00

Good Friday (April 07)
At Iriya Hall 3F: 18:00

Holy Saturday (April 08)
At Iriya Hall 2F: 18:30

Easter Sunday (April 09)
At Iriya Hall 2F: 09:00, 11:30


ヴィガノ大司教の枝の主日のメッセージ:キリストの御受難とキリストの神秘体について観想し、眠りから目覚め、罪の奴隷状態から抜け出る

2023年04月05日 | カトリック・ニュースなど

ヴィガノ大司教の枝の主日のメッセージ:

キリストの御受難とキリストの神秘体について観想することが、私たちを眠っている状態から立ち上がらせ、私たちを罪の奴隷状態から救い出し、私たちを聖性のヒロイズムに駆り立てることができますように。

2023年4月2日(主日)

Viganò’s Message on Palm Sunday

カルロ・マリア・ヴィガノ

Improperium exspectavit cor meum et miseriam; 
et sustinui qui simul contristaretur, et non fuit; 
et qui consolaretur, et non inveni.
Et dederunt in escam meam fel, et in siti mea potaverunt me aceto.

そしりは私の心を砕き、私は気力を失い、
あわれんでくれる人を待ったがいなかった。
慰めてくれる人を待ったがいなかった。
彼らは私に苦きものを食わせ、渇いた私に酢を飲ませた。―詩篇68篇21-22節

Israël es tu Rex, Davidis et inclyta proles.
(御身はイスラエルの王、ダヴィドの高貴な血筋なり)。
王たるキリストへの古代の賛歌のこの荘厳な言葉に、聖なる教会がイスラエルと、天主の民が選ばれた民と同一視されているのが分かります。

Plebs Hebræa tibi cum palmis obvia venit: cum prece, voto, hymnis, adsumus ecce tibi:(棕櫚の枝を手に持って、ヘブライ人の民は御身を迎えに出る。祈り、祈願、賛美をもって、われらも御身を迎える)。

ダヴィドの子としてエルザレムに歓迎され、主の名によって来たる御者として出迎えられ給うたキリストの凱旋が、【聖金曜日になると突然】わずか数時間のうちに、総督官邸の外に立つ群衆の激しい騒動へと、叫びと侮辱へと、御受難の苦しみへと、そして最後に十字架の木の上のユダヤ人の王の死へと変わってしまうことは、失望を起こさせるはずです。群衆は、最高法院(サンヘドリン)や民の長老たちに操られやすい性向があり、主が通られる道沿いに広げられた栄誉の捧げ物、オリーブや棕櫚の枝、衣服などを、まるで何も起こらなかったかのように簡単に忘れてしまうという、群衆がいかに変わりやすいかという考察から生まれる失望です。

「ヘブライ人の子ら」(pueri Hebræorum)の中に、後に十字架上で死にゆき給う救い主をあざ笑った人々がいたかどうかは、私たちには分かりません。しかし、大司祭、律法学士、神殿の番兵がユダヤ人だったように、イエズスが彼らの前で立って、鞭打たれ、茨の冠をかぶせられ給うたときに、「十字架につけろ!」と叫んだ人々がユダヤ人だったことは分かります。また、キリストを三度否んだシモン・ペトロがユダヤ人で、キリストのために泣いた敬虔な婦人たちもユダヤ人で、キレネのシモンもユダヤ人で、アリマタヤのヨゼフもユダヤ人だったように、逃げた使徒たちもユダヤ人でした。

しかし、ユダヤの民の一部が、預言や旧法の下での天主のご介入にもかかわらず、約束されたメシアを死に追いやったとすれば、キリストの時代のファリザイ人や最高法院の指導者たちのように、今日でも「Crucifige」(十字架につけよ)と叫び、「Qua non novi hominem」(私はそんな人を知らぬ)(マテオ26章72節)と繰り返すカトリック信者を、そして位階階級のメンバーをも見るとき、この裏切りが、新しいイスラエルである教会の一部で繰り返されているのではないかと私たちは自問すべきです。

民とは、ラテン語のpopulus(自らに法を与え、それを遵守する社会)の意味ではなく、むしろvulgus(つまり、アイデンティティーがなく、権利や義務の自覚がなく、操られやすく、自分たちの遺産や運命が何であるかを知らない民、聖なるものに対する感覚のないprofanum[不敬者])の意味です。

教会に起こっていること、教会を悩ます危機、位階階級と信者を堕落させる背教を見るなら、枝の主日の出来事は忘れられたように思える一方で、私たちの目の前に生きている御受難と十字架という恐怖が見えます。

かつてキリストの凱旋を祝い、キリストの福音を宣教した教会は、今日、冒涜したとして天主の御子を非難する最高法院と、キリストの死を求める大司祭たちによって、日食で覆われてしまったように思えます。かつてキリスト教的だった社会は、今や「彼を連れて行け、連れて行け」と叫び、救い主の顔に唾を吐きかけ、彼を苦しめる者たちをあざ笑い、彼の抹殺を求めているのです。今日の律法学士やファリザイ人は、自分たちが嘘つきであるのを暴露することになる教会の復活を避けるためであるかのように、教会が横たわっている墓を監視するために番兵を配置することを決意しているように思えます。主の弟子たちは逃げ、隠れて、排除や疎外されないために、流れに逆らわないために、権力者に逆らわないために、主を知っていたことを否んでいます。そして同時に、多くの敬虔な婦人たち、多くのキレネ人たち、多くのアリマタヤのヨゼフたちは、嘲笑され侮辱されながらも、教会が十字架を荷うのを助け、聖母と聖ヨハネとともに教会の足元に留まり、神秘体の復活を待ちつつ、神秘体を横たえる場所を探し求めています。

今日の裏切りは、私たちの主がお苦しみにならなければならなかったものに劣らず深刻なものであり、「教会の受難」(passio Ecclesiæ)は、教会のかしらの御受難に劣らず悲しみに満ちたものであり、教会自身の役務者から辱めにさらされた「異邦人の女主人」(Domina Gentium)【教会】を見つめる人々の荒廃と落胆は、「悲しみの御母」(Mater Dolorosa)【聖母】の苦しみに劣らず悲惨なものです。なぜなら、当時の処刑人たちを動かした憎しみは、今日の処刑人たちを動かす憎しみと同じものであり、当時のメシアを認識した善きユダヤ人たちの愛は、今日でも続くメシアの苦悶を見る善きキリスト信者の愛と同じものであるからです。

「われ、なんじをエジプトの奴隷状態から解放したのに、なんじ、救い主を十字架につけて報いた」と、私たちは「咎めの交誦」で歌います。

われ、なんじにミサを与えたのに、なんじ、それを、われを辱め、信者を遠ざける儀式に置き換えている。われ、なんじに司祭職を与えたのに、なんじ、それを、異端と姦淫の役務者で冒涜している。われ、なんじを敵に対して堅固にしたのに、なんじ、城塞の扉を開け放ち、敵に向かって駆け出し、敵がなんじを滅ぼそうと準備する間に、敵をほめたたえている。われ、なんじに信仰の真理を教えたのに、なんじ、世を喜ばそうと、それに混ぜ物をし、あるいは、それについて沈黙を守っている。われ、なんじにカルワリオの王道を示したのに、なんじ、滅びの道、快楽の道、倒錯の道を歩んでいる。

Popule meus, quid feci tibi? aut in quo contristavi te? responde mihi!(わが民よ、われ、なんじに何をしたか。何をもってなんじを悲しませたか。われに答えよ!)。

この言葉は、多くのカトリック信者、多くの高位聖職者たち、そして、主がヘブライの民になさったように、何千、何万回と熱烈な愛を示された多くの霊魂に当てはまらないでしょうか? 私たちは、キリストの血を流さないいけにえを私たちの祭壇に永続させるキリストとキリストの教会への裏切りの、世の終わりまでキリストの無限の功徳の役務者にして分配者である教会への裏切りの、キリストの奇跡の証人、キリストのみ言葉の宣教者、キリストの真理の守護者である教会への裏切りの共犯者になるかもしれないと考えるだけで、震え上がるべきではないでしょうか?

親愛なる友人の皆さん、世界を根底から揺るがすこの熾烈な戦いにおいて、私たちの不滅の霊魂がどの立場にいるのかを、よく考えましょう。私たちは、贖い主のいとも神聖なる肉体に拷問を加える悪党どもの中にいるのでしょうか、それとも代わりにその崇むべき御体を迎えるために心を開くのでしょうか? 私たちは、神性の宣言に衣を引き裂くのでしょうか、それとも代わりに私たちのために死んでくださる救い主の前にいる百卒長のように腰をかがめるのでしょうか? 私たちは、天主の御子に対して暴徒を扇動する者たちの中にいるのでしょうか、それとも代わりに天主の栄光ある復活を証言する者たちの中にいるのでしょうか? なぜなら、私たちの主が御血を流し、御命を与え給うた私たちのこの霊魂は、楽園の永遠なる至福の中であっても、地獄の永遠なる苦しみの中であっても、不滅であり続けるからです。

キリストの御受難とキリストの神秘体について観想することが、私たちを眠っている状態から立ち上がらせ、私たちを罪の奴隷状態から救い出し、私たちを聖性のヒロイズムに駆り立てることができますように。なぜなら、私たちのために注がれた御血は、断罪するものとして私たちに降りかかるのではなく、恩寵を与える救いの泉として私たちに降りかかるものだからです。アーメン。

+大司教カルロ・マリア・ヴィガノ

2023年4月2日
御受難節の第二主日または枝の主日
Dominica II Passionis seu in Palmis

英語版 Viganò’s Message on Palm Sunday

イタリア語版 Monsignor Viganò / Omelia nella Domenica II di Passione o delle Palme - Aldo Maria Valli


西暦1592年に日本人によって描かれた、現存する日本最古の聖母と御聖体への信仰を表す宗教画「ご聖体の連祷と黙想の図」

2023年04月05日 | カトリックとは

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

明日は聖木曜日です!私たちの主が御聖体を制定された聖なる日です。
私たちの祖国日本では、キリシタン時代から御聖体に対する信心が極めて盛んでした。

西暦1592年に日本人によって描かれた、現存する日本最古の聖母と御聖体への信仰を表す宗教画(「ご聖体の連祷と黙想の図」)が、今でも現存しています。

Photo Credit

■「ご聖体の連祷と黙想の図」(澤田美喜記念館所蔵)は、12枚の和紙を継いだ長さ320センチ、幅22センチの薄手の和紙に、墨で文字と絵が描かれた巻物です。最後に西暦1592年パウロとの署名(奥書)があります。

■澤田美喜の伝記によると、これは彼女が1957年ごろ生月島のかくれキリシタン信徒から譲り受けたものです。紙を炭素同位体を使用したAMS年代測定法で調査したところ、この紙は1557年から1632年に伐採された木からできたものと判定されています。コピーではありません。

■聖母子像図:ラファエロの「システィーナの聖母」とそっくりの聖母子像が描かれています。聖母子像を取り囲むように、ポルトガル語で「至聖なる御聖体は賛美せられさせ給え」(Lovvado seia o santissimo sacramento)が上と下に書かれています。

■ポルトガル訛りのラテン語祈祷文をかな書きにしたご聖体の連祷前半

文字の部分は、ラテン語をポルトガル語訛りに発音した「ご聖体の連祷」を変体仮名で書き留めたものが書かれています。「ご聖体の連祷」は、日本国内では他に大阪府茨木市で見つかった1例しかありません。
きりゑれいそん きりしてれいそん(Kyrie eleison, Christe, eleison)
きりゑれいそん きりしてれいそん
きりしてあうぢのす きりしてゑ(Christe, audi nos. Christe exaudi nos.)
はあてるでせり DS(デウス)みせれれ なうひす(Pater de caelis, Deus, miserere nobis.)
すぴりつさんと DS(デウス)みせれれ なうひす(Spiritus Sancte Deus, miserere nobis.)
たんたとりにたすうぬす DS(デウス)みせれれ なうひす(Sancta Trinitas, unus Deus, miserere nobis.)
ぱあにすびぶすきでせろでせんぢ 同(Panis vivus, qui de caelo descendisti, miserere nobis.)
でうすあうすこんぢとさうばあとる 同(Deus absconditus et Salvator, miserere nobis.)
・・・
びいぬんせなんすびるぢぬん(Vinum germinans virgines)
・・・
おぶらしよむんだ(Oblatio munda)
あくぬすあふすけまあくら(Agne absque macula)
べるぶんかろはくつ・・・(Verbum caro factum, habitans in nobis)
おすちあさんた(Hostia sancta)
かありすべんぢしおにす(Calix benedictionis)
みすてりうんひいでい(Mysterium fidei)

■ロザリオの十五玄義図(喜びの玄義・悲しみの玄義・栄えの玄義)、

御復活の玄義に描かれた男性は、日本刀を腰からぶら下げて、刃の部分を下にして帯刀しています。これは江戸時代よりも前、騎乗での戦闘が日常的だった時期の太刀の佩き方なのです。もしもこれが江戸時代に書かれたものであれば、大小2本の刀を刃を上にして帯に差しているはずでした。

■奥書「御出世以来千五百九十二年 者う路(はうろ)」。

岡美穂子は「天草パウロ良印」の可能性を提起している。天草パウロ良印は 1553 年頃、天草生まれの日本人修道士。1577 年にイエズス会に入会し、五島などののキリシタン布教のパイオニアとして活躍した。禁教により、慶長19年(1614)に国外追放となった高山右近と共にマニラへ渡り、同時期に死亡したと思われる。

■1615年にラテン語で出版された「種々の聖なる連祷 毎日の短い敬虔な信心業付き」("Sacrae Litaniae Variae, cum Brevi Piaque Quotidiana Exercitatione", Apud Franciscum Du Bois, 1615)には、「御聖体の連禱」が掲載されています。モーツァルトも1772年にこの連祷の作曲をしています。Wolfgang Amadeus Mozart: Litaniae de venerabili altaris Sacramento, K. 243(1772)

■以下、御聖体の連祷のラテン語と日本語訳をご紹介いたします。

Litaniae de Sanctissimo Sacramento 御聖体の連祷
   
Kyrie eleison, Christe, eleison 主あわれみたまえ。キリストあわれみ給え。
Kyrie eleison, Christe, audi nos. Christe exaudi nos. 主あわれみたまえ。キリストわれらの祈りを聴き給え。キリストわれらの祈りを聴き容れ給え。
Pater de caelis, Deus, miserere nobis. 天主なる御父、われらをあわれみ給え。
Fili, Redemptor mundi, Deus, miserere nobis. 天主にして世のあがない主なる御子、われらをあわれみ給え。
Spiritus Sancte Deus, miserere nobis. 天主なる聖霊、われらをあわれみ給え。
Sancta Trinitas, unus Deus, miserere nobis. 唯一の天主なる聖三位、われらをあわれみ給え。
   
Panis vivus, qui de caelo descendisti, miserere nobis. 天からくだられた生けるパン、われらをあわれみ給え。
Deus absconditus et Salvator, miserere nobis. 隠れたる天主にして救い主、われらをあわれみ給え。
Frumentum electorum, miserere nobis. 選ばれた者たちの小麦、われらをあわれみ給え。
Vinum germinans virgines, miserere nobis. 童貞女たちを生み出すぶどう酒、われらをあわれみ給え。
Panis pinguis et deliciae regum, miserere nobis. 肥えたパンかつ王たちの美味、われらをあわれみ給え。
Iuge sacrificium, miserere nobis. とこしえの犠牲、われらをあわれみ給え。
Oblatio munda, miserere nobis. 清き捧げもの、われらをあわれみ給え。
Agne absque macula, miserere nobis. 汚れなき子羊、われらをあわれみ給え。
Mensa purissima, miserere nobis. いと清き食卓、われらをあわれみ給え。
Angelorum esca, miserere nobis. 天使たちの食べ物、われらをあわれみ給え。
Manna absconditum, miserere nobis. 隠れたるマンナ、われらをあわれみ給え。
Memoria mirabilium Dei, miserere nobis. 天主の驚くべき記念、われらをあわれみ給え。
Panis supersubstantialis, miserere nobis. 日用の糧【超実体的なパン】、われらをあわれみ給え。
Verbum caro factum, habitans in nobis, miserere nobis. われらのうちに住み給う、人となった御言葉、われらをあわれみ給え。
Hostia sancta, miserere nobis. 聖なるホスチア、われらをあわれみ給え。
Calix benedictionis, miserere nobis. 祝福のカリス、われらをあわれみ給え。
Mysterium fidei, miserere nobis. 信仰の神秘、われらをあわれみ給え。
Praecelsum et venerabile Sacramentum, miserere nobis. いとも高き敬うべき秘跡、われらをあわれみ給え。
Sacrificium omnium sanctissimum, miserere nobis. すべての中で最も聖なる犠牲、われらをあわれみ給え。
Vere propitiatorium pro vivis et defunctis, miserere nobis. 生ける人々と死せる人々とのためのまことの罪の償い、われらをあわれみ給え。
Caeleste antidotum, quo a peccatis praeservamur, miserere nobis. それによりて我らが罪から守られる、天の薬、われらをあわれみ給え。
Stupendum supra omnia miraculum, miserere nobis. すべてを超える驚くべき奇跡、われらをあわれみ給え。
Sacratissima Dominicae Passionis commemoratio, miserere nobis. 主の御受難のいとも聖なる記念、われらをあわれみ給え。
Donum transcendens omnem plenitudinem, miserere nobis. すべての充満を超越する賜物、われらをあわれみ給え。
Memoriale praecipuum divini amoris, miserere nobis. 天主の愛の特別の記念、われらをあわれみ給え。
Divinae affluentia largitatis, miserere nobis. 天主の寛大さの激流、われらをあわれみ給え。
Sacrosanctum et augustissimum mysterium, miserere nobis. 神聖にして犯すべからざるいとも偉大なる神秘、われらをあわれみ給え。
Pharmacum immortalitatis, miserere nobis. 不死の薬、われらをあわれみ給え。
Tremendum ac vivificum Sacramentum, miserere nobis. 身震いすべき、命を与える秘跡、われらをあわれみ給え。
Panis omnipotentia Verbi caro factus, miserere nobis. 御言葉の全能により、パンとなった肉体、われらをあわれみ給え。
Incruentum sacrificium, miserere nobis. 無流血のいけにえ、われらをあわれみ給え。
Cibus et convivia, miserere nobis. 食べ物にしてかつ友なる客、われらをあわれみ給え。
Dulcissimum convivium, cui assistunt Angeli ministrantes, miserere nobis. 天使たちが仕えて同席する、いとも甘美なる宴、われらをあわれみ給え。
Sacramentum pietatis, miserere nobis. 敬虔の秘跡、われらをあわれみ給え。
Vinculum caritatis, miserere nobis. 愛徳の鎖、われらをあわれみ給え。
Offerens et oblatio, miserere nobis. 捧げる者【司祭】にしてかつ捧げられたもの【犠牲】、われらをあわれみ給え。
Spiritualis dulcedo in proprio fonte degustata, miserere nobis. 固有の泉から味わった霊的な甘美さ、われらをあわれみ給え。
Refectio animarum sanctarum, miserere nobis. 聖なる霊魂たちの回復、われらをあわれみ給え。
Viaticum in Domino morientium, miserere nobis. 主において死す人々の旅路の糧、われらをあわれみ給え。
Pignus futurae gloriae, miserere nobis. 将来の栄光の保証、われらをあわれみ給え。
   
Agnus Dei, qui tollis peccata mundi, parce nobis, Domine. 世の罪を除き給う天主の小羊 主われらを赦し給え。
Agnus Dei, qui tollis peccata mundi, exaudi nobis,Domine. 世の罪を除き給う天主の小羊 主われらの祈りを聴き容れ給え。
Agnus Dei, qui tollis peccata mundi, miserere nobis. 世の罪を除き給う天主の小羊 主われらをあわれみ給え。
   
V. Panem de caelo praestitisti eis, (T.P. Alleluia) 御身は天からのパンを彼らに与え給えり。(アレルヤ)
R. Omne delectamentum in se habentem. (T.P. Alleluia) すべての楽しみをその中に含ませ給えり。(アレルヤ)
Oremus; 祈願:
Deus, qui nobis sub Sacramento mirabili Passionis tuae memoriam reliquisti; tribue quaesumus, ita nos Corporis et Sanguinis tui sacra mysteria venerari, ut redemptionis tuae fructum in nobis iugiter sentiamus. Qui vivis et regnas in saecula saeculorum. Amen 天主よ、御身は驚くべき秘蹟のもとに御身の御受難の記念を我らのために残し給えり。願わくは、我らをして御身の御体と御血の玄義をかくも崇敬し、御身の贖いの実りをわれらにおいて常に感ずるをえんことを。御身は代々に生き、かつしろしめし給う。アメン。

至聖なる御聖体は賛美せられさせ給え!Lovvado seia o santissimo sacramento! 


2023年4月5日は、4月の初水曜日(月の初めての水曜日)です 聖ヨゼフ!我らのために祈り給え

2023年04月05日 | カトリック・ニュースなど

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日、2023年4月5日は聖水曜日、聖ヨゼフの月である4月の初水曜日(月の初めての水曜日)です。聖母の汚れなき御心と聖ヨゼフとの取り次ぎを通して、私たちの主の御聖体に対する冒瀆的な取り扱いに対する償いを捧げましょう。

初水曜日ですからいつものように「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」について黙想することをご提案します。


聖ヨゼフはこの世で天主イエズス様と浄配なる聖母マリア様を最も良く知り、愛された御方であり、その隠れた徳ゆえに偉大なる御方、イエズス様とマリア様の最大の命の恩人であられました。

また、聖ヨゼフは、この世では、全てを天主の栄光のために、隠れてその生涯をささげられたが故に、天にて聖母の次に最大の栄光をあたえられていらっしゃいます。

聖伝では、水曜日は聖ヨゼフに捧げられた曜日であり、月の最初の水曜日を聖ヨゼフに捧げることで、聖ヨゼフを讃え、その御取次に信頼し、その御徳に倣って、聖ヨゼフを通して、天主イエズス様とマリア様をお愛しすることができますように。

初土曜日の「聖母の汚れ無き御心」への信心にならって、この「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」のどれかを「15分間黙想」することにいたしましょう。

聖ヨゼフの帯の信心については、下記リンクをごらんください。
聖ヨゼフの帯 cingulum Sancti Joseph

聖ヨゼフの御取次ぎにより、聖母の汚れ無き御心とイエズスの至聖なる聖心ヘの愛をますます与えてくださいますように!
聖ヨゼフの御取次ぎにより豊かな祝福がありますように!

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


聖ヨゼフの7つの苦しみと喜び

1 ああいと潔き御母マリアの浄配、栄えある聖ヨゼフよ、御身のいと清き妻を失なわんと心に思い煩いし時の苦しみはいと大いなるものなりき。
されど天使が御託身の玄義を御身に伝えられし時の喜びは、またひとしお大いなりき。この苦しみ、この喜びにより、今も臨終の時も我らの心を潔き良心の喜びと、イエズス、マリアのうちに自我を滅する尊き御身の心を示し、我らを慰め給え。



2 ああいと幸いなる保護者聖ヨゼフよ、御身は人となり給いし御言葉の潔き養父の位にあげられたれども、御身は幼きイエズスがいと貧しき中に生まれ給うを見て大いに悲しみ給いしが、
天使らのたえなる歌声を聴き、その輝ける夜の栄えを見給うや、その悲しみは天的の喜びと変じたり。御身のこの悲しみ、この喜びによりて、我らもまたこの世の歩みを終えたる後、天使らの賛美の歌声を聴き、天的光栄の輝きを受け得んことを願い奉る。



3 ああ御摂理にいと従順なしもべなる、栄えある聖ヨゼフよ、幼きイエズスが割礼にて流されたる尊き御血は御身の心を苦痛もて貫きたれども、
イエズスと命名されるや御身の心は喜びに満たされたり。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らをこの世の悪徳より離れしめ、イエズスのいと尊き御名を心から唱えつつ心満たされてこの世を去るを得しめ給え。



4 ああいと忠誠なる聖ヨゼフよ、御身は救世の玄義の成就に身をもって大いなる役を果たされしが、シメオンの預言によりイエズスとマリアが受け給うべき苦難を予知せられ苦しみ給いたれど、
数限りなき人々の霊魂がこれによって救わるるとの預言によりて、天的喜びに満たされたり。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らがイエズスの功徳と聖母マリアの御取次ぎにより、終わりなき栄えを得てよみがえる人々のうちに数えられる御恵みをとりなし給わんことを願い奉る。



5 ああ人となり給いし天主の御子のいとも注意深き保護者なる栄えある聖ヨゼフよ、御身はいと高きものの御子を養い給い、これに仕えるために多くの辛酸をなめられたり。わけてもそのエジプトへの逃避はいと苦しきものなりしが、
御身が常に天主御自身と共におられし喜び、またエジプト人らの諸々の偶像が地に落とされしを目の当たりに見られし時の安心はいと大いなりき。この御身の辛酸と喜びとによりて、我らが地獄的暴君より免れて、わけても危険なる機会より逃避する事を得しめ、我らの心のうちに地上的執着が落とされ、ひたすらイエズスとマリアに仕え奉りつつ日々の生活を送り、この世を幸いに終わる事を得しめ給え。



6 ああこの地上の天使なる栄えある聖ヨゼフよ、御身は御身の心を天の王に全く捧げられたり。御身がエジプトより戻られる喜びは、アルケラウスに対する憂慮にて不安の闇となりしが、
天使は再び御身にイエズスとマリアと共にナザレトにて楽しく住み給う事を約束せられたり。御身のこの苦しみ、この喜びによりて、我らの心を深い恐怖より免れしめ、潔き良心の平和を楽しみ、イエズスとマリアと共につつがなく世を送り、臨終においてはイエズスとマリアの御手に我らの霊魂を捧ぐる事を得しめ給え。



7 ああ全ての徳の鑑なる栄えある聖ヨゼフよ、御身は御身の誤りにあらずして幼きイエズスを見失い、三日の間苦しみもて捜し求められたり。
されど神殿の中に博士らに取り巻かれたるイエズスを見出されし時の喜びはいかに大いなりや。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らが大罪を犯しイエズスを失いたりせば、たゆまず彼を捜し求め、遂に再び巡り会えるよう、わけても臨終の時に彼と共にありて天国に至り、御身と共に天主の終わりなき御恵みを賛美し奉るようとりなし給わんことを心から願い奉る。



交唱 イエズスが教えをはじめたりしは三十歳ごろなり、人々、イエズスをヨゼフの子なりと思いたり。(ルカ3:23)

V 聖ヨゼフ、我らの為に祈り給え。
R キリストの御約束に我らをかなわしめ給え。

祈願 天主、御身のかしこき御摂理のうちに祝せられたヨゼフを至聖なるマリアの浄配に選び給いたれば、願わくはこの世の我らの保護者として崇め奉る彼が、我らの天のとりなし手となり給わんことを。 アーメン。

参考リンク
サンタフェ~奇跡の階段 コラレス通り1丁目 この記事に昔の階段の様子の写真があります。

聖ヨゼフの階段(アメリカのニューメキシコ、サンタ・フェにあるロレット・チャペル)



英語ではこちら。
THE SEVEN DOLOURS AND SEVEN JOYS.

i. St. Joseph, pure spouse of most holy Mary, the trouble and anguish of thy heart were great, when, being in sore perplexity, thou wast minded to put away thy stainless spouse: but this joy was inexpressible when the archangel revealed to thee the high mystery of the Incarnation.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee comfort our souls now and in their last pains with the consolation of a well-spent life, and a holy death like unto thine own, with Jesus and Mary at our side.
Pater, Ave, and Gloria.

ii. St. Joseph, Blessed Patriarch, chosen to the office of Father of the Word made Man, the pain was keen that thou didst feel when thou didst see the Infant Jesus born in abject poverty; but thy pain was changed into heavenly joy when thou didst hear the harmony of angel-choirs, and behold the glory of that night when Jesus was born.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee obtain for us, that, when the journey of our life is ended, we too may pass to that blessed land where we shall hear the angel-chants, and rejoice in the bright light of heavenly glory.
Pater, Ave, and Gloria.

iii. St. Joseph, who wast ever most obedient in executing the law of God, thy heart was pierced with pain when the Precious Blood of the Infant Saviour was shed at His Circumcision; but with the Name of Jesus new life and heavenly joy returned to thee.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us, that, being freed in our life from every vice, we too may cheerfully die, with the sweet Name of Jesus in our hearts and on our lips.
Pater, Ave, and Gloria.

iv. St. Joseph, faithful Saint, who wast admitted to take part in the redemption of man; the prophecy of Simeon foretelling the sufferings of Jesus and Mary caused thee a pang like that of death; but at the same time his prediction of the salvation and glorious resurrection of innumerable souls filled thee with a blessed joy.
By this thy sorrow and thy joy, help us with thy prayers to be of the number of those who, by the merits of Jesus and his Virgin Mother, shall be partakers of the resurrection to glory.
Pater, Ave, and Gloria.

v. St. Joseph, watchful Guardian, friend of the Incarnate Son of God, truly thou didst greatly toil to nurture and to serve the Son of the Most High, especially in the flight thou madest with Him unto Egypt; yet didst thou rejoice to have God Himself always with thee, and to see the overthrow of the idols of Egypt.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us grace to keep far out of the reach of the enemy of our souls, by quitting all dangerous occasions, that so no idol of earthly affection may any longer occupy a place in our hearts, but that, being entirely devoted to the service of Jesus and Mary, we may live and die for them alone.
Pater, Ave, and Gloria.

vi. St. Joseph, angel on earth, who didst so wonder to see the King of heaven obedient to thy bidding, the consolation thou hadst at His return was disturbed by the fear of Archelaus, but nevertheless, being reassured by the angel, thou didst go back and dwell happily at Nazareth, in the company of Jesus and of Mary.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us, that, having our hearts freed from idle fears, we may enjoy the peace of a tranquil conscience, dwelling safely with Jesus and Mary, and dying at last between them.
Pater, Ave, and Gloria.

vii. St. Joseph, example of all holy living, when, though without blame, thou didst lose Jesus, the Holy Child, thou didst search for Him for three long days in great sorrow, until with joy unspeakable thou didst find him, who was as thy life to thee, amidst the doctors in this Temple.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee with our whole heart so to interpose always in our behalf, that we may never lose Jesus by mortal sin; and if (which God avert) we are at any time so wretched as to do so, that we pray thee to aid us to seek Him with such ceaseless sorrow until we find Him, particularly in the hour of our death, that we may pass from this life to enjoy Him for ever in heaven, there to sing with thee His divine mercies without end.
Pater, Ave, and Gloria.

Ant. Jesus Himself was about thirty years old, being, as was supposed, the son of Joseph.

V. Pray for us, holy Joseph.
R. That we may be made worthy of the promises of Christ.

Let us pray.
O God, who in Thine ineffable providence didst vouchsafe to choose blessed Joseph to be the husband of Thy most holy Mother; grant, we beseech Thee, that we may have him for our intercessor in heaven, whom on earth we venerate as our holy protector. Who livest and reignest world without end. Amen.


聖ピオ十世会 カトリック聖伝のミサの報告【東京】【大坂】 Traditional Latin Mass in Japan SSPX Japan

2023年04月03日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2023年の枝の主日に、東京のミサに来られた方は、子供達も入れて合計113人でした。大阪では40人でした。イエズス・キリストを賛美する、すべての国と、民族と民と、ことばとの、数えきれない、おびただしい大群衆にまじって、私たちも王たるキリストを賛美申し上げました。

聖月曜日には、今年の復活の徹夜祭に受洗予定であった方が、病院で緊急洗礼を受けました。聖寵の命に生まれ変わったこの方の健康の回復のために、愛する兄弟姉妹の皆様のお祈りをお願いいたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)












【報告】
Dear Fathers:

Shown below are the number of attendees at the masses in Tokyo today. The total number of attendees at the masses in Tokyo today was 113 including children.

09:00 mass
M: 32 (incl. 5 children)
F: 33 (incl. 8 children)
Total: 65 (incl. 13 children)

11:30 mass
M: 22 (incl. 3 children)
F: 27 (incl. 3 children)
Total: 49 (incl. 6 children)

Total of 2 masses (excl. 1 person who participated in multiple masses)
M: 54 (incl. 8 children)
F: 59 (incl. 11 children)
Total: 113 (incl. 19 children)


聖ピオ十世会のアメリカの神学校で、韓国人の副助祭が誕生しました!

2023年04月01日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

聖ピオ十世会のアメリカの神学校で、韓国人の神学生が副助祭に叙階されました。天主に感謝します!


日本からも、多くの聖なる召命が輩出しますように祈りましょう!
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田神父

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
【最新情報はこちら、年間予定一覧はこちらをご覧ください。】