新・遊歩道

日常の中で気づいたこと、感じたこと、心を打ったこと、旅の記録などを写真入りで書く日記です。

『ザムザ氏の散歩』とカフカ『変身』

2007年06月21日 | 美術館&博物館

Zamuza4  「日曜美術館30年展」で見た八木一夫氏の『ザムザ氏の散歩』が、1週間経っても、時おり現れては頭の中でぐるぐる回り「散歩」を始めます。以前写真で見たことはあっても、意識してみることがなかった陶芸でしたが、目の当たりにするとその凄みは全然違ってきました。そんなに大きい作品ではなく30cm四方ぐらいです。

触覚なのか足なのか、少し曲がったその先は今にもぴくぴくと動き出しそうで、グロテスクな有機体のような感じを受けました。でもよく見ると、あちこちの方角にバラバラに動こうとしている触角には愛嬌も感じられます。なにか去りがたい感情がに縛られて、とにかく圧倒される作品でした。(写真は「やきものネット」からお借りしました。)

会場にしつらえたテレビのモニターでは、この作品について司馬遼太郎氏が楽しそうに語っていました。『・・・人間の一番根性の悪いところをそのまま飾らずに形にしている・・・・。僕なんて他人の言葉で語っているようなもの・・・・』と。

帰宅して調べて知ったのですが、なんと「ザムザ氏」とはカフカ『変身』の主人公、グレーゴル・ザムザのことだったのです。

たしか息子の残していった書棚でこの本を見たような・・・と、急いで探してみました。100ページ足らずの薄い文庫本です。若い頃、等身大の巨大な虫を想像して拒否反応を覚えた作品です。が、読み返してみると、「虫」氏の心情も肉親の心情もその場の状況も、実に客観的に冷静に正確に捉えているのに驚きました。「虫」氏の異常な状態に家族は何を思い、何を望むか、時間の経過とともに変わってくる心の動きの描写が実に見事です。読み進みながら、自分を家族に置き換えたときも、やはり同じ思いだろうと想像しました。

自分のエゴや『根性の悪さ』が表れても、それを見ないふりをしてもっともな言い訳を考える・・・。自分に突きつけられた命題のような気がして、何かとても重いストーリーでした。

『変身』の終わりに近いところに、『自分がもうまったく動けなくなっているのがほどなくわかった。―――― 感動と愛情とを持って家の人たちのことを思いかえす。自分が消えてなくならなければならないということにたいする彼自身の意見は、妹の似たような意見よりもひょっとするともっともっと強いものだったのだ。こういう空虚な、そして安らかな瞑想状態のうちにある彼の耳に、教会の塔から朝の三時を打つ時計の音が聞こえてきた。窓の外が一帯に薄明るくなりはじめたのもまだぼんやりとわかっていたが、ふと首がひとりでにがくんと下へさがった。そして鼻孔からは最後の息がかすかに漏れ流れた。』があります。

このくだりを読みながら、暮れになくなった飼い犬のことを思い胸が締め付けられました。痛いとも苦しいともいわず、うめき声も出さず、ただ力なく眼球だけを動かして私を見ながら、ひょっとしら犬はこんなことを考えていたのかもしれないと…。

本文からは、その虫を連想させる具体的な形は読み取れません。私はまったく別の虫を想像していました。「巨大な褐色の虫」の正体の答えは無数にあり、この作品もその一つだと思いました。

展覧会場でふと立ち止まった作品が、いろいろなことを考えさせてくれました。

コメント (5)