新・遊歩道

日常の中で気づいたこと、感じたこと、心を打ったこと、旅の記録などを写真入りで書く日記です。

原田マハ『たゆたえども沈まず』幻冬舎文庫

2020年08月22日 | 本・新聞小説
この本を知ったのは花水木さんのブログです。ゴッホファンの私としては見逃すことができず、すぐ買い求めました。



読んですぐ感想を書くには余りにも辛いゴッホの人生、弟テオの人生を引きずって、なかなかその気が起こりませんでした。
生きている間にはたった一枚しか売れなかった絵。弟テオの援助を受けながら画家生活を送った37年の短く激しい人生を思うとき、報われなかった人生を思うとき、心をかきむしるような痛みと寂しさと苦しさに襲われました。

小説の舞台はほとんどパリ。美術商「グーピル商会」のテオと
日本美術の販売を行う林忠正の会社の交流、社会状況を軸にしてゴッホとの関わりが書かれています。
テオの献身的援助が画家ゴッホを作り上げました。どうにかして兄ゴッホを盛り立てていこうとするテオの熱意は、新しい芸術を後押ししていくという彼の人生を賭けたものでもありました。
美しい兄弟愛ですが、二人ともお互いにすれ違う感情と葛藤にさいなまれ、どうしようもない孤独感に陥ります。
テオはゴッホとは正反対の様に見えて、実は近い気質の持ち主でガラスのように繊細でした。
今までそんな二人の心底を深く覗き込むイメージが湧かなかったのですが、その部分にストンと腑に落ち納得できました。

当時のブルジョワジーが求めるのは光あふれる絵、幸福感のある絵、孤独を感じさせない絵でした。暗い絵を描いていたオランダから、パリのテオのもとに移ったゴッホの色彩は劇的に明るくなりましたが、それでもパリに受け入れられなかったゴッホは、日本の絵のような清澄さを求めてアルルに移ります。パリでテオと同居したのが2年でした。

テオが陽光きらめく黄色の世界を描くゴッホに安心したのもつかの間、芸術の理想郷は失敗に終わり、精神の錯乱で自分の体を傷つけてしまいます。アルルの生活が1年。
それからはサン・レミの療養院で絵だけは驚くほどのスピードで描き続けました。この療養院で1年。
小康を得て再びパリに戻ると、穏やかになったゴッホはテオの家族に好意をもって迎えられ、その近くで療養することになりすべてがうまくいったかに見えました。そんなゴッホが命を絶ったのは2か月後でした。
テオには愛する家族、守るべき家族、幸せな家庭を作る希望もあります。イラついたテオがわがままなゴッホに投げた心ないひと言が繊細なゴッホを苦しめました。
テオを苦しめる自分がいない方がテオは幸せになれるのだと、描きかけの「草の根」をイーゼルに残したままピストルを自分に向けたのです。

テオは自分の心ないひと言がゴッホを死に追いやったと苦しみ、繊細なテオは持病とうつ病を併発し精神病院で半年後に命を落としました。
数えきれないほどの絵は、すべてテオの未亡人が引き取りました。その一点一点には題名と製作年、製作場所のラベルが張られていました。その作業はすべてテオがやりきったものでした。

この本の表紙は「星月夜」です。うねる糸杉、のたうちまわる夜空に不安が広がります。しかし輝く星と家々から洩れる灯りに救われる気がします。ゴッホはこんな灯りの漏れくる暖かい家庭を夢見ていたのではと思いました。

実在の「林忠正」のパリでの活動を具体的に知ることができました。日本の浮世絵や工芸品をヨーロッパに知らしめた人物という知識しかなかったので、ヨーロッパのジャポニスムにどういう風に関わったかがよくわかりました。

ゴッホのパリ生活を知る資料は少ないとのことで、そこは作家のイメージが大きく膨らむ余地があったことは否めませんが、書簡や参考文献がよく調べられているのに作者の並々ならぬ努力を感じます。
衝撃的な「耳切事件」は、耳を全部切り落とした様なイメージを持っていましたが、「小指大」程の大きさだった様で、そこは少しほっとしました。


これは「アルルのゴッホの寝室」のメモ帳です。陽光明るいアルルに来て、ゴッホの一番幸せなときだったと思います。短くてもこんな清んだ気持ちの時間も持てたのだといとおしくて、古くなったメモ帳でも捨てられません。

7~8年前、ゴッホの療養院での大作2作品が奇跡的に集められていることを知りました。「アルルの療養院の庭」「アルルの療養院の病棟」です。門外不出なら行くしかないとスイスのヴィンタートゥールまで飛びました。
うねる糸杉も、カラスもいない、むしろ静謐で穏やかな療養院の庭と病室の絵でした。精神状態も安定していたのでしょう。

同じコレクション室のルノワール「眠る浴女」。孫のジャンも絶賛の、何の不安もなく夢見るように眠る初々しい若き女性を描いた絵です。何の苦悩も見られません。「絵は楽しく美しく愛らしくなければならない」というルノワールの幸せの描き方に、尚更にゴッホの報われなかった人生が切なく偲ばれました。

たゆたえども決して沈むことのなかった描くことへの信念。いつかはきっと自分の絵が分かってもらえる日が来る!それだけを胸に必死に『自分だけのかたちを、色を、表現を希求』したゴッホ。数十億円で落札されるオークションを見下ろしながら、今天国で幸せでしょうか・・・。

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