萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

第52話 露籠act.2―side story「陽はまた昇る」

2012-08-06 22:31:22 | 陽はまた昇るside story
水鏡、もうひとりの



第52話 露籠act.2―side story「陽はまた昇る」

屋上の扉を開くと、湿った冷気が吹きこんだ。
開けた扉の向こう灰色の雲は垂れ籠めて、雨の気配を風に載せる。
吹き寄す風の彼方を見遣りながら、穏やかに英二は微笑んだ。

「もう奥多摩は、降っているかな、」
「たぶんね、」

からり笑って光一が答えてくれる。
底抜けに明るい目を風に細めながら、テノールの声は続けた。

「こっちも直き降るね、朝も降ったんだろ?」
「うん、静かな土砂降りだったよ、」
「土砂降りで静か、って変な表現じゃない?雨濯って言葉のが合うね、」
「うたく?初めて聴いたよ、俺」
「なにもかも押し流す位の雨、ってコト、」

話ながら歩いて、辺りを見渡せるポイントに並んで立つ。
濡れていない所を選んで手すりに凭れると、透明な目が英二を真直ぐ見つめた。

「ファイルのこと、ごめん、」

救急法と法医学をまとめた、あのファイルのことだろうか?
けれど、なぜ光一は謝るのだろう、どういう意味なのだろう?
不思議で見つめた先、軽く唇を噛んでから光一は口を開いた。

「もう解ってるよね?あの強盗犯の手首、狙ってやたってコト。アレが出来たのって、おまえのファイル読んだからなんだ。
あのファイル、おまえは人助けの為に作ったモンだろ?なのに俺、人間を傷つけるために、あのファイルのコト使ったんだよね」

告げて、ひとつ呼吸する。
そして英二を見つめたまま、光一は謝ってくれた。

「ごめん、おまえの誇りを俺、傷つけたよね?おまえのレスキューとしてのプライドが、あのファイルには詰まっている。
それなのに俺は真逆のコトに使った、おまえのプライドを傷つけたよね?だから謝りたかったんだ、それで今日は補佐に立候補した」

謝るために光一は英二に逢いたくて、吉村医師の補佐を務めてくれた。
本当は光一なら時間があれば山に登っていたいだろう、それでも英二の為に仕事を作って逢いに来た。
こういうのは素直に嬉しい、微笑んで英二は大切なパートナーに訊いた。

「俺に謝る為に光一、来てくれたんだ?」
「だよ?」

すこし困ったよう底抜けに明るい目が笑ってくれる。
そしてテノールの声が素直に謝ってくれた。

「あのファイルは、おまえの大切な時間が作ったんだ、睡眠時間も削ってさ。だから尊重したいんだよね、マジで。
おまえは俺のアンザイレンパートナーで唯ひとりの相手だ、それなのに、おまえの努力と誇りを裏切るようなコトして、ごめん、」

あのファイルは、卒業配置から今までの努力が作り上げた。
最高の山ヤの警察官になりたい、そんな男としての夢への想いと、もう1つの理由から自分は努力した。
この「もう1つの理由」に確かめたくて、英二は尋ねた。

「光一、正直に教えてほしい。あのファイルは、人間の体を破壊するのに有効?」

問いかけに、透明な目が大きくなる。
無垢の瞳は怯えたよう、見透かすよう英二の瞳を真直ぐ覗きこむ。
その目を受けとめ微笑んだ英二に、低くテノールは答えてくれた。

「有効だね。あのファイルは狙うポイントが解かりやすい、だから確実にヤれる…おまえも見た通りだよ、」

無垢のままに透明な目が、傷み隠しながら英二を見つめている。
この眼差しを裏切りたくない、真意を話す覚悟と英二は微笑んだ。

「良かった。それなら俺、あのファイルを作った甲斐があるよ、」

さあっ、

吹きつける湿った風が、額から髪を払った。
靡く前髪を透かした向う、透明な目が瞠られ射抜くよう見つめてくる。
グレーの空に雪白の額を晒しながら、テノールの声が英二に問いかけた。

「あのファイル…おまえ、周太の為に作ったね?」
「そうだよ、」

さらり答えて、英二は微笑んだ。

「いつか周太があの任務に就いた時、援けになる情報を集めて作ってある。そのためにも俺、山岳救助隊を志願したんだよ、」

これを誰かに言うのは初めてのこと、そして今が最後になるだろう。
このファイルの存在に唯一度だけ、英二は口を開いた。

「救助隊の現場は救命救急と死体見分が多いだろ?だから、人体について両方の面で学べるって考えたんだ。
人の生命を救う技術と、人間が死んでいく方法と原因。この2つを学んだら人間の体の弱点も解かる、そう思ってさ。
だから吉村先生と出会えたのは本当に幸運だった、俺が知りたい全てを先生はご存知で、しかも一番欲しいデータも採れたよ、」

この目的の為に自分は、山ヤの警察官になった。
こんな自分を山ヤとして光一は、どう判断するだろう?そう見つめた先でアンザイレンパートナーは口を開いた。

「弾道実験のコトだね?あのとき周太もテスト射手だった、おまえ…あのデータをコピーしたね?」
「したよ、」

短い返事に頷いて、英二は服務違反を認めた。
そんな英二に透明な目は深く問いかけに見つめて、テノールが訊いた。

「あのデータは警視庁の銃火器性能に関わっている、だから漏洩は厳禁だ。コピーなんて、ヤバいって解ってるよね?」
「ああ、解ってる、」

そんなことは最初から知っている、解っている。
それでも自分は「一番」を間違えてはいない、綺麗に笑って英二は口を開いた。

「実験データの処理をするとき、勝手に俺がコピーを作ったんだ。だから吉村先生は何も知らない、全ては俺の独断だよ。
あのデータが手に入って嬉しかった。射撃の癖と人体の構造を完全に把握できたら、正確な狙撃が出来るだろ?急所を外すこともね、」

正確な狙撃、急所を外す。

この言葉で光一は、ファイルの真意を理解するだろうな?
そう笑いかけた真中で光一は、すこし哀しげでも笑ってくれた。

「だね、きっと出来るね、周太なら…ほんとは、撃つこと自体を止められたらイイけどさ。あとは撃つポイントで、だね、」

本当は「撃つ」こと自体させたくない。
それが出来ないのなら撃つポイント、狙撃の位置を考えたら良い。この考えに英二は微笑んだ。

「あの任務、周太には無理だと思うんだ。だけど正確な位置で狙えたなら、殺害しないでも動きは封じられるだろ?
このあいだも光一は、犯人を殺さない代わりに体の自由を奪ったろ?あの任務でも同じように出来たら、目的は満たせる。
それで怪我をしても救急の技術があれば救けることも出来るだろ?それなら周太も相手も、命と心が救かる。そう思って作ったんだ」

周太が近い将来に就く任務、そこで負わされる責任と罪から周太を救いたい。
その救済策として自分はファイルを作りあげた、狙撃と応急処置と両方の面で活用できる知識と技術を周太に贈りたくて。
きっと周太なら知識さえあれば実戦に活用できる、そう信じて、周太に与えるべき知識を探してまとめた。
そんな想いと見つめた隣は、可笑しそうに透明な目を笑ませて言ってくれた。

「もしかしてさ?この間の逮捕で俺がヤったコト、おまえにとったら丁度いい現場実験みたいなモンってこと?」
「そうだな?光一が実践してくれたお蔭で、あのファイルが役に立つって良く解かったよ、」

ある意味で良い実験演習でもあったな?
そんな想いは少しほろ苦い、この苦み噛む微笑に光一は笑ってくれた。

「じゃあ俺、罪悪感を感じるのヤメていいよね?俺のこと、嫌っていないって想ってイイ?」
「嫌うわけないだろ?」

嫌うことなんか出来る訳が無いのに?
そう笑いかけた先で雪白の貌は微笑んで、落着いたテノールの声が教えてくれた。

「おまえが気にしていたヤツ、今のトコは白だって俺も思うよ?」
「それ、内山のこと?」

すぐに気付く見当に英二は訊き返した。
それに微笑んで頷くと、光一は言葉を続けた。

「ま、さっき授業中と終わった後に観察したダケなんだけどね?単に周太やおまえと話したいダケって感じする。
でも、あいつエリート志向だろ?そういうヤツって出世の為にヘタ扱く可能性がある、だから、この先どうなるかは何とも言えない、」

この先にどんな変化があるのか?
それは自分自身すら解からない、どんな状況に出会い影響されるか解らないから。
その哀しい可能性への覚悟も見つめて、英二は笑いかけた。

「うん、そうだな。でも俺、この先も今のままでいたいな、内山とも、」
「だね、」

底抜けに明るい目が微笑んで、白い指が伸ばされる。
こつん、指は額を小突いて、テノールの声は可笑しそうに笑った。

「ま、あいつはノンケっぽいけどさ?せいぜい周太のコト横恋慕されないよう、予防線がんばってね?俺のア・ダ・ム、」

そんな名前で呼んで、この場所でからかうんだ?
英二も可笑しくなって、自分の大切なパートナーへと笑いかけた。

「横恋慕されそうかな?そういうので気になるの、内山だけじゃないんだけどさ、」
「ふうん?大変だね、おまえもさ。ま、周太の癒しオーラって、ここじゃ余計に目立っちゃうからね、」

からり笑って答えて、透明な目は北西の空を見た。
同じ方を見遣りながら英二は、察しの良い相方に尋ねた。

「やっぱり周太、目立つ?」
「うん、相当ね。ま、周太は特別だからね、仕方ないよ、」

特別な人。
そんな言葉と笑って答えた雪白の笑顔は、どこか謎を含んで穏やかだった。
こんな貌する時の光一は「山の秘密」を想っている、だから訊いてはいけないだろう。
そして、こんな無垢の静穏を見せられたら懺悔の告白をしたくなる、その想い素直に英二は口を開いた。

「光一、ごめん。俺、今朝も危なかった。また周太のこと…殺したく、なりかけたよ、」

告げた言葉に無垢の瞳が、かすかに瞠られる。
すこしの驚きと、哀しみと、それから受けとめようとする想いが瞳に映りだす。
その瞳は英二の姿も映して真直ぐ見つめてくれる。

―鏡みたいだな、

美しい無垢の鏡、そんな想いが心に浮ぶ。
光一の洞察力が鋭いのは、無垢ゆえのフラットな視点が、真直ぐ事物の根幹を見抜くから。
この澄みきった瞳に鏡のよう自分を見つめて、ほろ苦い想いに英二は微笑んだ。

「朝、雨の音を聴きながら、ベッドで周太を抱きしめてた。静かで、雨の音と周太の寝息だけ聴こえてさ…想っていた。
もう雨は止まなくていい、この静かな世界にふたりきり眠っていたい。そんなふうに想って祈っていた、そして絶望したんだ。
ずっと離れないでいたい、でも、この願いは叶わない。もう夏が来れば、秋になれば、本当に引き離される時が来る。そう思って、絶望した」

今朝の、目覚めたばかりの優しいベッドの時間。
あの時間の幸福感が翻って、失う恐怖が絶望を呼びこんだ。あの瞬間の恐怖を英二は素直に口にした。

「俺、明日が怖い、」

この恐怖を自分は、今まで知らなかった。
この時の経過への想いを英二は、言葉に紡いだ。

「最近さ、周太の隣で幸せだって思うたびに、時間を止めたくなるんだ。失うことが怖くて、離れられなくなって、明日が怖い。
あと何回、明日が来たら引き離される瞬間が来るんだろう?そう考えてるんだよ、気がついたら、いつも。それで時間を止めたくて。
でも、なんとか我に返ってベランダに出たんだ。冷たい雨と風が吹いていて、ずぶ濡れになって、頭、冷やしたんだ。それで気付けた、」

今朝の雨と風にみた光景を、今のグレーの空に見る。
そして英二は穏やかに微笑んで、アンザイレンパートナーへと口を開いた。

「厚い雲が垂れ込めてる空だった、でも、太陽は雲の向こうにあるんだよな?今も空は曇ってるけど、最高峰の天辺は違う。
あの青と白の世界はここと違う時間が流れている、そう気づいたらさ。今は絶望しそうで苦しい時間でも、いつか終わるって思えた。
晴れない雲は無いし、止まない雨も無い。だから終わらない絶望も無い、太陽みたいに希望はいつもある。そんなふうに今朝は想えた、」

時の流れが運ぶのは、絶望の瞬間だけじゃない。
いつか、明日が積まれていく時の涯には、哀しみが終わる瞬間も必ず運ばれてくる。
そんなふうに見つけた希望に、光一は笑いかけてくれた。

「うん、そうだね?いつか終わるよ、人間は限りがある生きものだからね?おまえが諦めなければ、運命もひっくり返るね、」

『運命』

この言葉に記憶の傷みが強く抉られる。
この数日前、雲取山で聴いた言葉が『運命』に甦っていく。

“周太は道を間違えば殺される、この連鎖から逃れるのは難しい…銃で殺せば銃で殺される、それがアノ家のメビウスリンクだ”

それが周太の運命だと、山っ子は自分に告げた。

あの日は金曜日で、華道部の女性警官に告白される周太を見た。
華奢な彼女と周太は揃って白い花を持っていた、それがお似合いに見えて。それで自分は身を引いた方が良いのかと迷った。
そんな英二に光一は怒りを示して運命を告げた、その告げられた『運命』は、残酷で、けれど嬉しかった。

―…周太の立場は普通じゃない。もし周太が普通に女と恋愛して、結婚して、幸せになれるって、本気で思うワケ?
 本気で周太と連れ添うなら普通じゃ無理だ。同じ男で同じ警察官でなきゃ難しい、なにより本気で愛してなきゃ無理だね
 全部を投げ出しても自分自身を盾にしてでも護って、周太を愛そうってくらいでなきゃ無理だ…おまえしか周太のこと護れない

あのとき「おまえしか周太のこと護れない」と言われて、嬉しかった。
そして、言ってくれた光一の想いが哀しくて切なくて、どうにもならない傷みを心深く刻み込んだ。

―…はっきり言ってやる、おまえしか周太のこと護れないんだよ。
 だから俺は、おまえを周太から奪うことも、出来ないんじゃないか。おまえも周太も大切なんだ。だから邪魔したくないんだよ、
 だから俺、結局は独りになるって覚悟もしてんだ。結局、俺は本気で好きなヤツとは結ばれない、連れ添うことは出来ない
 だから俺は、おまえと『血の契』が出来たの、嬉しかったんだ

あれから考えて、ずっと見つめて、光一の痛みを自分に刻んでいる。
ずっと共に山へ登る約束をした、けれど傷みは終わらないまま今も痛んで、この痛みの分だけ光一が愛しくて。
あんなふうに言える光一こそ本当に「全部を投げ出してでも」想ってくれている、それが哀しいのに嬉しくて愛しい。
それなのに自分は今朝もまた、心折れそうになった。あの傷みを深く刻んだ自分、それなのにまだ迷ってしまう自分は、弱い。
こんな弱さが赦せない、そして無垢な『血の契』への懺悔に英二は口を開いた。

「ごめんな、光一。このあいだ言われたばっかりなのに、もう迷ってる俺は弱いよ。たぶん、この先も何度も迷うよ?
こんな自分の弱さが俺は赦せない、迷うほど光一も周太も苦しめるって解ってるのに、迷う自分が赦せないんだ…ごめん、こんな俺で、」

最後の「ごめん」に目の底から熱が零れ落ちた。
こんなふうに泣いてしまう自分は、かっこ悪くて子供で、情けない。けれど今の自分の限界は、素顔はこれなのだろう。
こんな仕方なさに微笑んだ英二の頬を、伸ばされた白い指はそっと涙拭ってくれた。

「おまえはよく耐えてるよ、大したモンだね。だから謝んないでよね?」

止まらない涙拭いながら、底抜けに明るい目が温かに笑んでくれる。
真直ぐ見つめて微笑んで、そして透明なテノールは言ってくれた。

「普通ならね、とっくに心が折れてるトコだよ?それくらい周太のコトは重たいよ、だから責められない。おまえ、良く頑張ってるね、」

やさしいテノールが心に沁みて、温かい。
大らかな温もりの懐を持つ光一、その一面は冷厳な苛烈であっても優しさは大きくて。
そんな姿は本当に「山」みたいだな?この想いに英二は涙と微笑んだ。

「ありがとう、光一。お前に言われると、なんか自信もてるよ、」
「そっか、良かったよ。でも涙、止まんないね?まあ、ちょっと今は仕方ないかな、」

温かに無垢の瞳が笑んで、白い手が頬から離れていく。
その白い手を伸ばすと英二の肩を包みこんで、そっと抱き寄せてくれた。

「ほら、泣いちゃいな?…英二、」

名前を呼んで、制服の肩に頭を抱き寄せてくれる。
ふわり花の香が頬撫でて心ほどかれる、ほっと息吐いた英二に透明なテノールが微笑んだ。

「今は存分に泣いてさ、その後は笑いなね?でさ、周太をいっぱい笑わせてやってよ、それが出来たら充分だ、」

こんなふうに本当は今、誰かに受けとめられて、泣きたかった。
この初任総合が始まって溜まり始めた不安と、絶望と、諦めたくない想いが涙にあふれだす。
静かにこぼれだす涙が青い制服を濃く染めていく、すこし青空に似た色彩を見つめながら英二は、綺麗に微笑んだ。

「うん、ありがと、光一。ちょっと泣かせてくれな…」

涙と微笑んだ声が、すこし嗚咽に掠れる。
腕を回して、長い指の掌を肩にかけて、縋るように抱きしめる。
そして英二は、唯ひとりのアンザイレンパートナーの肩に顔を埋めて、グレーの空の下に泣いた。
その空の向こうに希望が輝くことを祈りながら。




(to be continued)

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one scene 或日、学校にてact.6―another,side story「陽はまた昇る」

2012-08-06 04:26:37 | 陽はまた昇るanother,side story
もし言えるのなら、



one scene 或日、学校にてact.6―another,side story「陽はまた昇る」

歩いていく廊下は、静謐に眠っている。
まだ誰も目覚めていない日曜の朝、学校の寮は人の気配も少ない。
ゆるやかな暁が回廊を照らす、その陽射しは静かな空気へと光の梯子を描いた。

…ちいさな天使の梯子、だね?

光のラインへと、嬉しく周太は微笑んだ。
空の雲から大きな光のラインが大地へ降りることがある、それを「天使の梯子」だと父は教えてくれた。
そんな希望のような光のシグナルが、今、この目の前でも輝いてくれる。

この警察学校に初めて入った時は、ただ孤独に蹲まっていた。
殉職した父の軌跡だけを見つめて、周囲への想いも視線も全てを閉じて、もう迷わないようにしていた。
ほんとうは泣き虫で弱虫の自分だから、怖くなって逃げ出す分岐点を、自ら絶ってしまいたかった。
そんな日々の想いはただ哀しくて、切なくて、孤独の痛みが蝕んだ。そんな自分を救ってくれたのは、英二だった。

だから今、この「天使の梯子」に唯ひとつの俤を、つい見てしまう。
この警察学校での出逢いが、本当に自分にとって「天使」との出逢いのようにも思えるから。

「…英二、まだ中庭にいるかな?」

ひとりごと微笑んで、光の廊下を歩いていく。
明けていく朝の輝きはガラス窓を透して眩しい、けれど優しい。
ふる光の向こう、中庭への出口まで来ると周太は、そっと扉を押し開いた。
そして開かれた扉の向こう側、光の朝に白いシャツ姿がこちらを振向いた。

…ほんとうに、天使みたい

真白なシャツに光を弾く、ふりそそぐ暁に白皙の肌まばゆい笑顔を見せてくれる。
濡れたダークブラウンの髪には瑞々しい艶が、朝陽の輪冠を象ってきらめく。
白い輝きと光の冠、綺麗な笑顔。こんな姿は絵本で見た天使のまま、美しい。
素直に見惚れながら周太は、中庭の天使へと名前を呼びかけた。

「英二、」

スニーカーの足を中庭へと降ろすと、足首ふれる朝露に肌から目を覚ます。
生まれたばかりの空気が木々の香に心地いい、清澄な朝に呼吸しながら緑を横切っていく。
そして大好きな人の隣に立つと、見上げて周太は笑いかけた。

「おはよう、英二…追いかけてきちゃった、」

ベッドで目覚めたとき、隣がいなくて寂しかった。
たしかに眠り落ちる瞬間は、綺麗な幸せな笑顔を見つめていたのに?
それなのに消えていたから夢だったのかと哀しくなって、けれどデスクの置手紙に嬉しくなった。
その嬉しい気持ちのまま今すぐ逢いたくて、探しに来てしまった。

…こんなふうに追いかけるのは、恥ずかしいかな?

そんな想いに首筋が熱くなってしまう。
けれど英二は嬉しそうに微笑んで、長い腕を伸ばし抱き寄せてくれた。

「おはよう、周太。追いかけてくれて嬉しいよ、」

素直な笑顔に笑って英二は、そのまま横抱きに周太を抱きあげた。
頬ふれる白皙の肌がなめらかで優しい、ふわり樹木のような香に包まれ安らいでしまう。
そんなふう心ほぐされて、さっき目覚めた時の孤独が朝陽へと消えていく。

…やっぱり、英二の胸が安心できる…ね、

そっと心思ったことに、ふと気恥ずかしさが熱に変わる。
もう首筋は赤い?そんな心配をしながら周太は、ダークブラウンの髪にふれた。

「英二…濡れた髪も、きれいだね、」

冷んやりと瑞々しい感触がゆるく指に絡まる。
ふれるまま掌の髪を掻き上げると、英二は幸せに微笑んだ。

「周太の手に触られるの、気持いいな。もっと触ってよ、」

嬉しそうに言いながら、中庭から廊下へと入っていく。
静かな廊下を周太を抱えて歩いてくれる、その行く先々には光の梯子が降りそそいでいた。
さっきより増えた「天使の梯子」たちを今、本当に天使のような英二に抱えられて、通っていく。

…こんなこと、なんだか不思議だね?

気恥ずかしさと幸せに、微笑はこぼれた。
この幸せをくれるのは唯ひとりだけ、他になんて居ない。
この唯ひとりは、きっと自分にとっては「天使」なのだと想ってしまう。

光一とは「山桜のドリアード」を通して大切な絆がある、けれど英二とは違う。
美代と植物学の夢に見つめる友情は温かく優しい、けれど英二への想いとは全く違う。
どちらの2人も本当に大切な存在、けれど英二はもう自分の一部にすら感じてしまう。
こんなこと烏滸がましいかもしれない、でも、本音の底で感じている。

英二が哀しいと、自分のことより哀しくて。
英二が嬉しいと本当に嬉しくて、もっと喜んでほしくなる。
そして英二が幸せに笑ってくれる時、この自分こそが幸せになってしまう。
そんなふうに英二はいつも、周太に沢山の想いを贈ってくれる。

“あなたは、唯ひとりの天使”

こんなこと気恥ずかしくて言えない、けれど本当の気持ち。
こんなふうに想う事すら、ほら、もう気恥ずかしくて、優しい幸せが温かい。
こんなに自分を幸せで包めるのだから、自分の唯ひとりの天使だと想ってしまう。
だからどうか、永遠に幸せに笑っていてほしい。

どうか願いを叶えて、俺の天使?
どうか、あなたは永遠に幸せに笑っていて?
あなたの笑顔を見ることが、自分には何よりの幸せで、喜びなのだから。

こんなこと気恥ずかしくて言えない、けれど、もし言えるのなら。
もしも笑わずに聴いてくれるのなら、本当は言ってみたい。
けれどまだ伝える勇気が無くて、言ったことは無いけれど。




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