萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

第53話 夏至act.2―side story「陽はまた昇る」

2012-08-26 23:20:54 | 陽はまた昇るside story
“ Dryad ” 時を止めても



第53話 夏至act.2―side story「陽はまた昇る」

公園の道、光と影の明滅がコントラストゆれている。
まだ朝と言える時間、けれど足元の翳はあざやかで気温がジャケットを脱がす。
いま左手に提げている2つの缶も涼やかに思える、こんなふうに冷たい感触が心地いい時になった。
もう夏は近い、その兆しを梅雨晴れの空に仰いで英二は、ふっと嗤った。

―夏にも、秋にもなればいい

そう想えている自分が可笑しくて、気持ちいい。

夏が来て秋迎えるころには、周太は遠く引き離される。
そのレールを今頃も「法の正義」の許に敷き詰めていく人間たちがいて。
そんな一人が今、この新宿にもいる。他の仲間も一緒になって今頃は、一度目の異動書類でも作っているだろう。
自分たちの正義を信奉して跪いて、裏肚は利己の心で舌なめずりしながら、人柱を捧げる支度に勤しんで。
きっと彼らは自分たちの成功を疑わない、そして勝ち組になったツモリでいるだろう。

けれど、自分がいる。
馨と違って周太には、自分がいる。

馨は誰の援けも望めないまま、独り死を選んで「鎖」を解こうとした。
けれど「鎖」は諦めることなく、馨の息子に絡まりつき警察組織へと惹きこんだ。
きっと幼い周太が警察官の進路を選んだことは、「鎖」にとって正義の女神が微笑んだと思ったろう。
晉や馨の時のような、強引に誘導する手間が省けたのだから。

それとも、周太が警察官を選んだこと自体が、彼らの意図だったのだろうか?

「…もしかして、」

新しい考えに、頭脳が動き出す。
いま浮んだ可能性への事実関連、誘発するチャンスはあるだろうか?考え廻らしてすぐ答えが浮んだ。

―通夜と葬式だ、

馨の葬儀には、多くの警察関係者が弔問に訪れている。
あのとき周太と接触することは容易い、そして幼い心に暗示を懸けることも。
幼い子供が大好きな親のことを、それも失ったばかりの傷に言われたら一途に信じこむのではないか?

『お父さんの名誉を守るなら、君が射撃の優秀な警察官になれば良い。きっとお父さんは喜んでくれる、君になら出来るよ、』

こう言われたら幼い子供は、ひたむきに信じる可能性が高い。
これは単純すぎる方法だろう、けれど効果がゼロとは言い切れない。
それどころか深層心理の世界で時を経るごと、深く強く食いこんでいく可能性が高いだろう。
この自分自身も、似たようなものだったから。

―よく言われてた、お祖父さんや父さんみたいな、立派な法律家になれって、

父は、外資系自動車メーカーで法務を司っている。
余暇には弁護士として、法律相談のボランティアを区の寄託で務めてきた。
祖父は検事を務めていたと聴いている、退官後は事務所を開き弁護士をしていた。
そういう祖父や父の背中を見つめながら、ことあるごと親族達に言われてきた。

「英二も法律家になりなさい、お父さん喜ぶよ。お祖父さまもね、」

そんな言葉に包まれながら法学部を選んだ、そこに違和感は無かった。
よく父も英二に法律の話をしてくれていた、それを面白いと聴いている自分だったから。
そして学んだ法律の世界は興味深くて、知識試しに受けていく検定や資格の試験も順調に合格した。
けれど、法治国家の矛盾に自分はぶち当たった。

『法律は人間の良心を援けるために生まれた』

そう自分は信じている、祖父も父もそう教えてくれた。
けれど現実社会のなか「法の正義」には「犠牲の存在」が隠されていると気付いてしまった。
そして法を管理する体制の矛盾が透けだした、いつまでも草案のまま放置される法改正も疑問を助長した。
そういう矛盾と有耶無耶さに呆れて嫌になって、馬鹿らしくなった自分がいた。
だから、司法試験ではなく警察官採用試験を選んでしまった。

なんとか家を出て母から離れたい、それなら全寮制の職種を選べばいい。
それが一番の動機だった、とっくに母の理想の息子を演じることに疲れていたから。
求められるまま演じてしまう恋愛ごっこも面倒になっていた、表面的な恋のフリにすら縋る自分の孤独が疎ましかった。
もう「仮面」を被ることに倦んで生きる理由も見失っていた、それを変えたくて厳格な規律の世界に自分を放りこみたかった。
こんなこと達も警察官採用試験を選んだ動機だった、公務員なら母も文句は言わないだろうと計算もあった。

そして警察の世界は法治の最前線でもある。
そこで法治国家の矛盾を眺めてみたい、そこで自分が何を出来るか考えたい、そんな動機が本当はあった。
こんなふうに「法治国家の矛盾」を真面目に考えすぎた動機は、誰にも言うことなく警察学校に入った。
そして出逢った周太は「法治国家の矛盾」そのものだった。

英二が父と同じ法律の道を選んだように、周太も馨と同じ警察官の道を選んだ。
この共通点に今、ひとつの疑念と事実の可能性が現れだしていく。

もし「父親と同じ道を目指す」という動機を育てた原点が、幼い頃の「言葉」にあるとしたら?

14年前の春の夜は、警察関係者が周太に接触するチャンスだった。
あのとき弔問客として周太に近づくことは、誰も疑うはずがない。
もしかしたら幼い周太を慰める顔で「彼」は囁いた?

「…そうかもしれない、」

ぽつり独り言こぼれて、古い写真の染みが「連鎖」と一緒に映りだす。
もしも本当に14年前「彼」が周太に吹きこんだなら、周太の選択は「連鎖の意図」だ。
それが事実だったとしたら、10歳に満たない子供まで「鎖」に縛りつけたことになる。
まだ判断力も育たない未発達の自我、そこに暗示を懸けたら容易く縛されやすい。
もしこの推測が正解なら、惨酷な結論が導き出されてしまう?

周太が警察官の道を選んだこと、それは「父親たちを殺した犯人への従属」になる?

誇り高い周太にとって、これは残酷すぎる侮辱だ。
そんな侮辱が事実なら自分は赦せない、それも幼い子供の傷につけこんだなら尚更に。
この惨酷な侮辱が「事実」である可能性、そのパーセンテージを知ることなら容易く出来る。
いま纏めた考えに英二は立ち止まると、右手で携帯電話を開いた。

「おつかれ、光一。業務時間にごめんな、なにしてるとこ?」
「いま巡回中だね、天狗岩のトコ。おまえがコンナ時間に電話って、なに?」

からっと答えてくれるテノールの向こう、山風の聲が聴こえてくる。
いま風吹きぬける山の、葉裏に光る陽光が幻のよう心へ映りこむ。

―山に帰りたい、

ふっと願いがこみあげる、いま人間の醜悪を見ていたから尚更に。
けれど今、ここで為すべきことを自分に課していたい。その肚に英二は微笑んだ。

「11時半頃に周太へ電話してくれる?ちょうど昼休憩だよな、」
「まあね、今日は早めの予定だけどさ…ふうん?なんか事実確認に気付いたね、おまえ、」

相変わらず察しがいい、自分のパートナーは。
この信頼に笑って英二は正直に口を開いた。

「当たり、ちょっと周太には聴かれたくないんだ。そっちに戻ったら光一に話したい、」
「了解だね、電話するよ。20分くらい時間あればイイ?」
「そうだな、それくらいあると助かるな?」

20分あれば、確認したいことの全部が聴けるだろう。
そして多分、安本も英二に話がある。そんな予想に微笑んだ向こう、テノールが笑ってくれた。

「じゃ11時15分に架けるよ、事情聴取よろしくね、ア・ダ・ム。お姫さまの護衛もね、」
「うん、ありがとう、光一。おまえも巡回とか気を付けろよ、」

笑い合って通話を切ると、英二は再び歩き出した。
歩いていく道のむこう、ひとつのベンチが見えてくる。
豊かな常緑樹が緑蔭くるむベンチには、小柄なスーツ姿が座っている。
膝に広げた本のページめくる、穏やかな時が木洩陽ふるもと優しい静謐に佇んで。
こんなふうに樹の傍で過ごす時間を周太は愛している。そんな隣の安らいだ空気に自分は恋して、愛している。

こんな周太には拳銃も、警察も、闘争も似合わない。
たとえ訓練でも立たせたくない、現場など尚更に行かせたくない、このまま樹影に佇ませていたい。
ほら、願いが心締めあげ軋んでいく、憎悪と哀しみが同時に瞳を披いて本音を見透かしてくる。
この愛する空気を壊そうとする存在へ、叩きつけたい感情が肚に墜ちていく。
そして唇は微笑んで、つぶやきが嗤った。

「簡単だ…俺が勝てばいい、」

自分が勝利者になれば良い、答えはそれだけ。
14年前の馨は独りきり斃れた、けれど周太には自分がいる。
この違いにも意図にも彼らは気付かない、もし知る時は多分、この世の涯だろう。

―赦せない、俺には

昨日の夕方にも見つめた想いが、また自分を見つめてくる。
この想いはきっと終わらない、全てを終えて周太を解放する瞬間まで、ずっと。
いま歩くごとに想いは覚悟へ変貌する、木洩陽ふる道を大切なひとに近づいていく。
ほら、そろそろ声が届く位置だ?こっちを見つめてほしくて英二は、恋する名前を呼んだ。

「周太、」

やわらかな髪がゆれて、顔をこちらに向けてくれる。
きれいな笑顔が幸せに咲いてくれる、黒目がちの瞳は今きっと自分を映している。
いま視線を独り占めしている瞬間が嬉しくて、すこし足早に英二は木蔭を踏んだ。

「周太、お待たせ。すこし眠った?」
「ん、すこし寝てたみたい…気持ち良かったよ、」

木洩陽あわい笑顔は、いつもより肌を透かせて美しい。
やわらかい黒髪も緑翳ふらせて艶やかな緑にみせている。
微笑んだ瞳ふちどる睫が長く翳おとす、その陰翳は清楚な艶に心惹きこんでしまう。
こんなふうに樹影に佇むとき、周太はいちばん美しい。

「きれいだ、周太、」

本音が言葉になって、隣の首筋を赤く染めていく。
ほら、こんな恥ずかしがりの色彩も樹影の緑に映えて、薄紅の花ほころぶと想わせる。
こういう姿を昔、幼い日に読んだ絵本で見たかもしれない?ふと記憶の扉が開いて英二は、単語を口にした。

「ドライアドみたいだな、周太は。髪も光で、きれいな緑になってる」

“ Dryad ” ドライアド、美しい緑の髪つやめく樹の精霊。

ショートヘアの美しい精霊は、宿る樹木と運命を共にする。
だから宿る樹木が枯れてしまう時は、共にその命を閉じるという。
この精霊に恋されたなら樹木の中、ふたり時を過ごして外界と違う永遠を見つめることになる。
その時の流れは長く短くて、樹木のなかでは一瞬でも外は何百年もの時が経過していく。

「…どらいあど?あ…」

つぶやいた周太の声が、すこし途惑う。
黒目がちの瞳が大きくなる、なにか驚かせたのだろうか?そう見つめて思い当たって、英二は笑いかけた。

「木の妖精のことだよ。もしかして周太、知ってた?」
「ん、しってる…詩の本で読んでもらったから、」

黒目がちの瞳がすこし途惑うよう見つめてくれる。
なんだか可愛らしい様子に英二は微笑んだ。

「きれいな緑の短い髪で、小柄で可愛くて木を愛している。周太と似てるだろ?それに、もっと同じとこあるし、」
「…おなじとこ?」

冷たいココアを掌に持ったまま、首傾げこむ姿に心が留められる。
木洩陽の緑ゆれる髪は香って、艶やかに無意識の誘惑を投げかけてしまう。
ほら、そんなところも似ているな?見つめて英二は綺麗に笑いかけた。

「ドライアドは、恋した相手と木の中で過ごすだろ?その木の中での時間は1日でも、外の世界では何百年も経っている。
そういう時間の感覚がさ、周太とベッド中にいる時みたいだなって思うよ?いつも俺、何時間経っても短いって思うから、」

ふたりきり過ごす、ベッドの時間。
いつも短く思えてしまう、もっと時間が欲しいと貪欲な身勝手に起きれなくなる。
そんな勝手な心のまま昨夜も学校寮で、宥めようとする周太からシャツを奪って、素肌に抱きしめて眠りにつかせた。
心に隠しこむ怒りに規則違反を嘲笑わせて、そんな苛立ちも恋するひとの体温に安らがされた。
体を繋げるまではしなかった、それでも肌ふれあう時間は短くて愛しくて、永遠に離したくない。

―ほんとに、木の中にでも攫いこんでほしいな?

本音が心つぶやいて、自嘲してしまう。
昨日も光一と話したように「そんなことしても周太を本当の意味で救けたことにならない」目を背けても終わらないと解っている。
それでも本音はふたりきり幸せの時間を止めてしまいたい、ただ一緒に眠れたらそれで良いのに?
そんな想いと見つめる隣で、薄紅の花は首筋から頬へ額へと昇りだす。

「…そういうこといわれるとはずかしいから…でも、うれしい、ね、」

恥ずかくて堪らない、そんな貌で長い睫が伏せられる。
こういうところが初々しくて愛しくて、また惹かれて好きになっていく。
幸せな想い微笑んで、周太の手からココアの缶を取ると英二は、そっと唇をつけた。
あまい香が冷たく喉をすべりこむ、その香に微かなオレンジが優しい。この香に充たされた唇を離すと、英二は悪戯に微笑んだ。

「ほんとはキスしたいけど、間接キスで我慢しとくな?これから安本さんと会うのに周太、キスは恥ずかしいだろ?」
「…いまもうじゅうぶんはずかしいです…」

言ってくれる頬はもう、真赤になっている。
木蔭に赤い花が咲いたな?笑って英二は恋人の肩に頭を凭せかけた。
ふれたスーツの肩がすこし震えて、けれど黒目がちの瞳が幸せに笑ってくれる。
そっと頭こちらに傾けて緑の髪が頬ふれる、近づいた眼差し嬉しくて英二は綺麗に笑った。

「愛してるよ、周太、」

言葉に想いを伝えて、瞳を見上げる。
黒目がちの瞳はやわらかに微笑んで、その向こう交わす梢に青空がのぞく。
もう空の青は夏、そんな感覚にまた肚へと密やかな声が微笑んだ。

―夏が来て秋になればいい、勝つのは俺だから



予約したダイニングの個室は、いつもどおり静かだった。
扉を閉めてしまえば音は遮断される、店員も無闇と来ないから安心して話しやすい。
場所柄この店のプライベート配慮は行き届いている、だから今日の場所に選んだ。

「良い店だな、宮田くんは何度か来てるんだ?」

良い店、この言葉に2つの意味が笑いかける。こうした所は人の好い安本とはいえ、本職の刑事らしい。
この大先輩に笑いかけながら、英二はメニューを渡した。

「はい。父と一緒だと、昼はここが多いんです、」
「そういうの羨ましいな?今日はご馳走させて貰うよ、好きなものを好きなだけ頼んでくれ、」

人の好い笑顔が気さくに提案してくれる。
けれど隣から周太は、遠慮がちに口を開いた。

「ありがとうございます、でも、悪いです…俺、前もご馳走になりましたし、」
「いや、良いんだよ。ご馳走させてほしいんだ、」

答えながら安本は温かに目を笑ませた。
そして懐かしそうに微笑んで、馨の旧友は教えてくれた。

「湯原と約束したんだよ、いつか息子さんと呑ませてくれってね。まあ今日も酒抜きだけどな、俺にとって大事な約束なんだ。
息子と飯を食うの憧れなんだけど、俺は娘ばっかりでさ。だから湯原に約束させたんだ、息子がいる幸せを俺にも分けろってな、」

『いつか息子さんと呑ませてくれ』

この約束は当時、10年以上後への約束になる。
そんな約束を馨はしていた、この事実に馨の意志と本音が見えて、ことんと心が明るんだ。

馨は、生きることを諦めたくはなかった。
生きて、息子の成人を祝う酒の席で、親しい友人に自慢したかった。
そんな馨の想いと本音が温かい、そして怒りが肚底で燻り覚悟を炙りだす。
馨のささやかで偉大な願いと約束、それを踏み躙っても裁かれることのない「法の正義」への怒りが、熱い。

―赦さない、

また心につぶやき毀れて、けれど隣の笑顔に喜びと幸せは優しい。
この笑顔を見つめ続けたい、護りたい、そっと心祈る想いに周太は素直に頷いた。

「ありがとうございます、じゃあ遠慮なくご馳走になりますね?」
「ああ、そうしてくれたら嬉しいよ。宮田くんも好きなだけ頼んでくれ、」

楽しそうに笑って安本は奨めてくれる、そんなストレートな厚意が温かで嬉しい。
けれど自分が「好きなだけ」この店で頼んだら、いくらランチタイムでも大変だろうな?
なんだか楽しくて可笑しくて、この人の好い大先輩に笑いかけた。

「俺の好きなだけは相当ですよ?」
「お、ガタイが良いだけあるんだな?いいぞ、今、覚悟したからな。存分に食ってくれ、」

本当に大丈夫だよ?そんなふう実直な笑顔が楽しげにほころんだ。
こうまで言われたら受け入れないと失礼だろう、それに「品数を多くする」ことに安本の意図がある?
そう見た先で刑事の目は「気づいたかい?」と微笑んだ。

―やっぱり、俺に話があるな

今日は10時の約束で待ち合わせた、早めのスタートは「時間が多くほしい」という意思表示だろう。
そして今も示された意図に笑って、英二は素直に頷いた。

「じゃあ遠慮なく、」
「ああ、遠慮するなよ?宮田くんには借りがあるし、少しはここで返させてほしいよ、」

そんなふう笑って安本もオーダーを選び始めた。
やはり安本は「借り」を気にするような硬骨タイプらしい、こういう男は信頼を築きやすいだろう。
そんなことを考えながら食事を決めて、店員を呼ぶとオーダーを済ませた。
そして扉が閉じられ静謐が戻ると、周太は安本の目を真直ぐ見て尋ねた。

「安本さん、教えてください。父は、あのときボディーアーマーを着ていましたか?」

―…当日の様子だろ?なら、装備じゃない?

光一の予想が、当った。
そして自分も考えていた「ボディアーマーの着用有無」を周太なら訊きたがるはずだ。

周太も馨と同じように、拳銃射撃の術科特別訓練員として新宿署で任務に就いている。
だから交番勤務の時は必ず拳銃携行と制服内のボディアーマー着用を命じられている、いつでも狙撃任務に就けるように。
そういう周太の勤務状況なら、「馨の意思確認」を目的として、この質問を考えつくだろう。

護身用装備であるボディーアーマーを着たのなら、生存への意志がある。
だからそれを確認すれば馨が「殉職という自殺」をどう考えていたのか、その意思を垣間見れる。
そういう図式を頭に描くことは、周太にとって自然の成り行きだろう。
そんな想いに見つめる向う側で、人の好い笑顔は穏やかに口を開いた。

「ああ、もちろん着ていたよ、活動服の中にね。あの日、湯原は御苑の園遊会で警護に当ってくれた。だから当然、着ていたよ」

答えに、周太の肩から力が一息に消えた。
黒目がちの瞳は水の帳が張られだす、唇はゆっくり解かれるよう動いて、問いを重ねた。

「…ほんとですね?…撃たれた時も父は、ボディーアーマーを着ていたんですね?」
「もちろんだ。真面目なやつだからね、君のお父さんは。でも、それでも銃弾は防げなかったんだ、」

穏やかでも明確なトーンが、肯定してくれる。
真直ぐで実直な眼差しが「本当だよ」と見つめてくれる、その目は真実を言っている。
その真実を黒目がちの瞳は真直ぐ捉えて、父親の最期を見つめた目に問いかけた。

「それなら、父は、あの夜も生きたいと、家に帰りたいと思っていた。そう考えても良いのでしょうか?」

いちばん馨に近い友人で同じ警察官、馨の最期を見て遺志を繋いだ男、彼は真実を何と言うのだろう?
そんな想いと見つめる安本の目は、実直なまま温かに笑んだ。

「もちろんだ。あの夜も湯原、俺に周太くんの写真を見せてくれたよ。それでな、桜の花びらを2枚、手帳に挟んでいた、」

あの日、馨は桜の園遊会で警護に当たっている、そのとき咲いていた桜だろう。
その桜は馨が最愛のひとに出逢った、大切な桜の木が贈ったものかもしれない。
馨と周太の母は、新宿御苑の桜の下で恋に墜ちたから。

「あの夜もね、湯原と新宿署のベンチに座って休憩していたんだよ。俺はコーヒー、あいつはココア。いつもの定番だった。
あのときも手帳を開いてな、君の写真と、桜の花びらを3枚見せてくれたよ。花吹雪があって3枚、ちょうど掌に乗ったって言ってた。
湯原、きれいだろって笑ってな、1枚を俺にくれたんだ。きっと2枚は周太くんと、お母さんへの土産にするつもりだったよ、あいつ」

話しながら懐かしそうな眼差しが、周太を見つめてくれる。
その目は真直ぐ温かに誠実で、けれど少し寂しげなのは親友の死への自責だと知っている。
昨秋に武蔵野署で聴いた安本の本音は今も心で泣いている、今話してくれる目に隠す想いと一緒に安本は教えてくれた。

「あの日も湯原、大切な息子と奥さんのことを想いながら任務に就いていたんだ。本当はあの夜、君に話すべきだった。
でも、言えなかったんだ。その手帳も、写真も、花びらも、遺品として渡せなかった。でも今日、受けとって貰えるだろうか?」

ワイシャツの胸ポケットから安本は、白い封筒を取りだしてくれる。
そして封筒は静かに、周太の掌へと渡された。
封筒はすこし古びて、けれど丁寧に保管されていたことが解かる。
すこし震える手が封筒を開く、そこには焦げた穴の開いた手帳が納められていた。

―銃弾の痕だ、

心つぶやき脳裏へと1月に見た光景が映りこむ。
吉村医師のサポートで立会った弾道鑑識調査、あのとき何度も見たものと同じ姿が今、傷ましい。
そして、あの実験で得た周太の狙撃データを思い起こす。そんな思考に、ほろ苦い声が言った。

「それは銃弾の痕なんだ、中に写真と花びらもある、」

ひとつ呼吸すると周太は、手帳を開いた。
その手元を覗きこんだ視界には、予想通りの色彩が映りこんだ。

―お父さんの血だ、

開かれた白紙ページには、どす黒い染みが大きく広がっている。
挟まれた写真も血に染められ弾痕が無残な傷痕を残していた、けれど可愛い笑顔と背景の山桜はあざやかで。
2枚の桜の花びらにも黒い染みがある、けれど綺麗に押花になった姿には馨の本音が微笑んでいる。

―お父さん?帰りたかったんですね、愛する家族のもとへ

見つめる視界の姿たちに、そっと英二はワイシャツの胸元にふれた。
ふれる指先には布地透かして合鍵の輪郭が伝えられる、この鍵のように今、手帳が帰ろうとしている。
馨の約束への願いと、意思と、遺志が籠められた手帳は今、息子の手に渡されて妻の待つ家に帰る。
14年前の春の夜、銃弾にあふれた血潮と祈りを吸いあげた手帳。帰ってくる今、何を伝えたい?

「この血は、父のものですね?」

落着いた声が周太の唇から問いかける、その瞳は潤んでも堪えているのが解かる。
その前に座る安本の目も熱に耐えて、正直に答えてくれた。

「ああ、湯原の血だ。あいつ、手帳ごと胸を撃たれてな。惨くて渡せなかったんだ、あいつの気持ちも伝えられなかった。
あいつの帰りたい気持ちが銃弾に壊されたみたいで、悔しくて哀しくて。だから俺が預らせて貰ったんだ、いつか君に渡そうって、」

いま、告白される14年前の真実に、心が納得へ温められる。

生きていたい、けれど命を懸けても尊厳と誇りを貫きたい。
この矛盾の狭間に佇み続けた馨は、一瞬で信念に殉じ逍遥と死に赴いた。
そして16年間の彷徨を終わらせた、望まない名前『Fantome』を拒み贖罪と自由を死に見つめて、逝った。
きっと馨は、大切にしていた息子の写真への想いも、最愛の妻への想いも抱いて、幸せに死へと抱かれたのだろう。
まるで山ヤたちが山に抱かれる死へと微笑んで眠りにつくように、馨は摩天楼に奥多摩の山影を見たかもしれない。
自由に夢へと輝いた、紺青色の日記に遺した日々の幸福と、愛する二人の俤を見つめて、愛した山の懐へ眠りに逝ったろうか。

「写真、いつも持ってくれていたんですね、父は、」
「そうだよ、いつも持ってた。しょっちゅう俺に自慢してたよ、可愛くて優秀で、すごく良い子だって。奥さんのお蔭だってね、」

馨の息子と親友の対話に、語られる想いと本音が浮びだす。

もし、殺人の罪が無かったなら。
きっと馨は生きることを選び、大切な約束たちを叶えて、幸せに笑った。
あの夜も庭の桜を眺めたかった、愛する人と記憶を綴りたかった、大人になった息子と友人たちと酒を酌みたかった。
あの瞬間まで馨が遺した約束は全て真実の願いと真心、そして祈りの結晶だったろう。
この想いがワイシャツ越しに合鍵を温める、その隣から周太が端正に頭を下げた。

「教えて下さって、ありがとうございます、」

…ぽつん、

微かな音が周太の膝に、雫の跡をふりこぼす。
あとから後から雫の跡は落ちていく、周太の顔は上げられない。
“父の笑顔は真実だったのか?” 自分たち母子と、家族と共に生きて父は幸せだったのか?
その問いかけに還ってきた応えが今、周太の心をほどいて涙に変わって墜ちていく。

―この今、存分に泣かせてあげたい、

この今、14年間ずっと抱え込んだ涙をとかして笑顔にしてあげたい。
きっと安本も今、ひとり泣きたいだろう。だから独りにしてあげたい、馨の友人にも泣かせてあげたい。
本当は14年間いちばん泣きたくて泣けなかったのは、馨を最期に引留められなかった安本なのだろうから。
こんな想いごと婚約者の肩を抱いて、そっと英二は微笑んだ。

「周太、おいで?」

ゆっくり体を支えながら立たせると、俯いたまま周太は立ちあがってくれる。
ふるえる肩を抱きかかえて、英二は安本へと笑いかけた。

「安本さん、中座をすみません。すぐ戻りますから、待っていて下さいますか?」
「もちろん、遠慮しないでくれ、な…、」

穏やかに答えてくれる声が、かすかに詰まっている。
組んだ掌に半顔を埋めるよう頬杖ついて、安本は微かに光る眼で微笑んでいた。
この14年間を馨の手帳と向き合ってくれた、その実直な贖罪と純粋な友情への哀惜が涙に解かる。
こういう友人が馨に居たことは、どれだけ救いになっていただろう?

―14年間、本当にありがとうございました

感謝に微笑んで会釈すると、英二は周太を支えながら廊下に出た。
静かな廊下を歩いていく、支えた肩は小刻みに震えるまま両手で顔を覆っている。
そして奥の洗面室に着くと、静かに英二は木戸を開いて入った。

かたん、

そっと木造の引戸を閉めると、静寂が洗面室に空間を作る。
その途端、周太は英二の胸に抱きついてくれた。

「…っえいじ!」

ただ一声、名前を呼んで周太は泣き出した。
呼んだ名前が引金のよう、涙も嗚咽もあふれだしワイシャツを温もりに濡らしだす。

「うっ…う、うっ…あ、…っ、」

こんなふうに泣き虫で、子供のように純粋な周太。
それなのに父の現実を探し求めて、危険にも退かない誇り高い勇気を抱いている。
いま抱きしめている肩の骨格は華奢で、どんなに筋肉で鎧っても芯の可憐が隠しきれはしない。
この骨格のまま繊細で優しい穏やかな周太、本当に危険になど立たせたくはない、ただ樹影のもと幸せに笑っていてほしいのに?

―赦せない、

燻っている怒りと哀惜が灼熱になる、矛盾への苛立ちが冷静を呼び起こす。
どうしたら連鎖の呪縛を叩き潰せるだろう、最も手酷い方法で相手を傷めつけられる?
冷酷が怒りの熱に煽られて温度を下げていく、透徹されていく頭脳に計算と予測が動き出す。
そして心はただ最愛の恋人に添って、優しい涙ごと抱き寄せた。

「泣いて、周太…俺がいるから大丈夫、」

馨は独りだった、誰にも救い求めることが出来ないまま、最期の一瞬に息子への愛を親友に託して逝った。
けれど周太には自分がいる。この体も心も、能力も全てを懸けて周太を護りたい自分がいる。
きっと護ってみせる、周太の願いを叶えて、馨の真実と祈りを独りにはさせない。晉の屈辱も敦の無念も全て自分が背負いたい。
そして必ず「法の正義」の畸形連鎖を破壊に堕とす、もう誰も捕まえさせない。

―赦さない、絶対に俺は諦めない、だから、

だから自分は「力」を手に入れたい。
彼らが触れることの叶わない存在に自分は成りたい、そして支配を覆してやりたい。
自分が愛する人に、家族に絡みついた連鎖の呪縛『Fantome』を壊すため、きっと自分はここに居る。

そしていつか時の止まる日々に生きたい、Dryadの恋の呪縛に囚われたまま永遠の幸福を抱きしめて。




(to be continued)

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soliloquy 風待月act.4―another,side story「陽はまた昇る」

2012-08-26 04:49:57 | soliloquy 陽はまた昇る
透明の青に



soliloquy 風待月act.4―another,side story「陽はまた昇る」

水浅葱、水の色、二藍、青、青藍、勝色、青たちのグラデーション。

グラデーションは『鰹縞』とても粋な縦縞の織。
縞の幅や濃淡で印象は大きく変わる、なかでも大きな縞は粋だと思う。

けれど自分には似合わない、小柄には大胆な意匠は似合わないから。
けれど、恋人にはよく似合う、そういう華やかな意匠の衣たちは。
だから嬉しくなる。
好きな意匠を好きな人が纏えば、見惚れる幸せが生まれるのだから。

軽やかに透ける、絹紅梅の織。
ブルーの濃い淡いに透明度も豊かな、美しい夏の衣。
白皙の肌を透かす夏衣の青は、水と深い風まとうように惹きつける。
ひろやかな背中は暁から夜を統べての空、懐の深みは海のよう佇んで抱きとめる。
どこか懐かしい藍の香は、ふるい遠くの記憶を優しい眠りから覚まさせて、ほら大好きな俤に重なりだす。

藍染めの透かす向こうには、幸せの瞬間が垣間見る。
ふるくて新しい夏の記憶、藍の香と透ける青色の優しい想いたち。
この青い薄絹へ交ぜ織られ続ける、どの瞬間も想いも、ただ幸せが愛おしい。




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