風、想う
第51話 風伯act.6―another,side story「陽はまた昇る」
開いた携帯の通話を繋ぎながら、周太は扉を押した。
戸外は街路樹の木洩陽が影絵のよう揺れる、その緑陰に身を寄せたとき声が繋がった。
「周太…今、どこ?」
透明なテノールが、哀しい。
こんなトーンの光一を知っている、あれは剱岳の帰りに2人が川崎に来た時だった。
あのとき光一は独り四駆の運転席で泣いていた、この同じトーンを見つめて周太は微笑んだ。
「新宿のブックカフェの前にいるよ?光一はJA会館の辺り?」
「解かるんだ、周太…」
ほっとテノールが微笑んで、電話の向こうが和んでくれる。
やっぱり思った通りだったな、穏やかに笑って周太は提案をした。
「光一、迎えに来てもらってもいい?今、鞄を取ってくるから、」
「うん、解かった…あのさ、美代には言わないでくれる?」」
すこし嬉しそうに微笑んで、けれど哀しげなままテノールが訊いてくれる。
そんな光一の想いが解かってしまう、店へと引き返しながら周太は微笑んだ。
「ん、言わないよ?用事がある、って言うから大丈夫、」
「ありがとう…ごめんね、周太、」
声は、哀しい。
いつも明るい光一の声が、ずっと靄に籠るよう揺れている。
この哀しみの原因を自分は解かっているだろう、そんな想いに携帯を繋いだまま、周太は店内へと戻った。
「ごめんね、美代さん、内山。俺、用事があるの忘れていたんだ、先に帰らせて貰っていいかな?」
「もちろんよ、思い出せてよかったね?」
すぐに美代が笑って答えてくれる、その笑顔に笑いかけて周太は鞄を手に取った。
そしてココアの代金を美代に預けると、内山が言ってくれた。
「なんか悪いな、湯原。忙しいのに時間、作ってもらったりして、」
「ううん、こっちこそごめん、内山。事例研究の話、出来なかったし…明日の夜に談話室でもいい?」
「それでいいよ、」
笑って頷いてくれながら、精悍な笑顔がすこし気恥ずかしげになった。
なんだろうな?そう笑いかけると内山は素直に微笑んだ。
「今日、誘ってくれてありがとうな、湯原。また明日な、」
「こっちこそ、ありがとう。また明日、内山…美代さん、また電話するね?」
内山と美代に笑いかけて踵を返すと、周太は店の外へ出た。
まばゆい陽射しに目を細めて歩き出す、その向こうに奥多摩ナンバーの見慣れた四駆が佇んでいた。
フロントガラス越し、運転席に秀麗な微笑がこちらを見ている。その貌に心哀しくなって、周太は四駆へと駆け寄った。
かたん、
助手席の扉を開いて、中へ乗り込む。
こちら振向いた雪白の貌は微笑んで、透明なテノールが言った。
「すこし、走ってもイイ?」
「ん、」
微笑んで頷くと、周太はシートベルトを締めた。
走りはじめて運転席を見ると、光一は制服の上に私服のパーカーを着こんでいる。
きっと仕事合間に脱け出してきた、そんな様子に周太は尋ねた。
「光一、今日は勤務?」
「うん…あいつは吉村先生の手伝いに入ってるから…JAの用事作って、脱け出してきた、」
テノールの声は、どこか元気がなくて途惑っている。
いま何から話して良いのか解らない、そんな途惑いが切なげで哀しそうで。
こんな様子で、それも仕事合間に無理をしても周太に逢いに来るなんて、普段の光一ならしない。
…本当に今、光一は追い詰められて、苦しんでる
この苦しみの理由は昨夜も思った通りだろう。
だから容易く慰められる訳ではないと解っている。
それでも、少しでも元気づけてあげたくて、お願いに周太は微笑んだ。
「光一?ちょっと寄ってほしい所があるんだけど…次の信号を左折してくれる?」
「うん、」
小さく笑って頷くと、光一は周太のナビゲーション通りに車を進めた。
すぐ目的の場所に辿り着いて、シートベルトを外しながら周太は笑いかけた。
「すぐ戻るからね、待ってて?」
そう言って降りると周太は、すっかり来馴れた店の扉を開いた。
ふわり芳ばしいあまい香が頬撫でる、トングとトレーを手に取ると手早く選んでレジに置いた。
それを袋に詰めてくれながら、顔なじみの店員が周太の格好を見て微笑んだ。
「こんにちは、今日はスーツなのね?」
「こんにちは、ちょっと用事があって…あの、これは袋を別にしてください、」
「かしこまりました、お分けしますね。こちらの新商品、人気なんですよ?」
挨拶と言葉を交わしながら財布を出し、会計を済ませていく。
こんな会話も最初のころは気恥ずかしくて、けれど最近は自然と微笑んで話せる。
こういう事は幼い頃は出来ていた、それが父の死を境に無口になって、いつか忘れてしまっていた。
こんなふうに、13年の歳月に失ったものを取り戻していく「今」が愛おしい。そして「今」に導いてくれた人が恋しくなる。
…英二、今頃は診察室にいるのかな
そっと心に呟いて、微笑んでしまう。
英二は喜んでくれるかな?そんな考えに、運転席で待っている人の想いが切なくなる。
きっと光一は今、自分自身に傷ついているから。
…昨夜に思ったことは、当たり…かな、
考えながら大小の紙袋を受けとり店から出ると、助手席の扉を開いた。
芳ばしい香ごと詰まった袋を抱えて乗り込むと、ふわり香が広がって光一が微笑んでくれた。
「いい匂いだね、あいつの夜食?」
まだ光一には、外泊を取り止めたことは言っていない。
けれど察しの良い光一には解るのだろう、素直に周太は頷いた。
「そうだよ、あと、光一の分もね?」
笑いかけて、小さいほうの紙袋を運転席に示して見せる。
それに透明な目がすこし大きくなって、そして嬉しそうに微笑んでくれた。
「ありがとう、周太…やっぱり君は優しいね、大好きだよ?」
「ん、喜んでくれるなら良かった、」
笑って答えた先、透明な目が泣きそうになっている。
すこしでも今は笑わせてあげたくて、周太は話しかけた。
「でも、好みのパンじゃなかったら、ごめんね?…適当に選んじゃったから、」
「なんでも嬉しいよ、どんなラインナップ?」
「ん、そうだね…開けてのお楽しみ、にしたら?」
「そっか、なんだろね?俺、好き嫌いは基本ないけどね、」
笑ってくれながらハンドルを捌いていく。
そんなふうに30分ほど走って、四駆は広い公園の駐車場に停まった。
「ここね、学校から割と近いんだ、」
教えてくれながら運転席から降りると、長身を思い切り伸ばした。
そんな様子はいつもどおりで、けれど哀しさが透明な目に烟っている。
ただ真直ぐ見上げた周太に透明な目は笑んで、テノールが微笑んでくれた。
「あっちにベンチがあるんだ、行こ?」
「ん、」
促されるまま並んで歩きだすと、ふっと草の香が頬撫でていく。
ゆっくり進んでいく道は緑豊かで、ゆれる木洩陽に自然林の趣が優しい。
どこか奥多摩の森を想わせる雰囲気に、周太は幼馴染へと尋ねた。
「ここ、学校の頃に来ていたの?」
「うん、よく来たね。山が恋しくなったら、ここに来てた、」
そう言って細い目は悪戯っ子に笑ってくれた。
すこしだけ元気になった眼差しが嬉しい、嬉しくて周太は笑いかけた。
「放課後に来ちゃった、ってこと?」
「ソレは言えないけどね、ま、常連だったよね?」
飄々と笑って光一は、森の奥にあるベンチに腰を下した。
周太も並んで座ると、ふわり樹木の馥郁が涼やかな風に心地いい。
…こんなところがあるの、知らなかったな
ほっと微笑んで周太は隣を見た。
その視線を受けとめた透明な目は微笑んで、そして涙ひとすじ零れた。
「…周太、俺…もう、あいつに怖がられたかも…嫌われたかもしれない…」
哀しげなテノールが、ふるえる。
ふるえる声と真直ぐな無垢の瞳を見つめて、周太は微笑んだ。
「俺は嫌わない、怖がらないよ?…だから聴かせて?」
「うん、…ありがとう、」
すこし透明な目が笑ってくれる。
そして視線をそのままに山っ子は口を開いた。
「昨夜、強盗犯を逮捕したのはね、あいつと俺なんだ。それで…俺、犯人の手を、砕いたんだ、」
手を砕いた?
すこし驚いて周太は幼馴染の目を見つめた。
見つめた先、ゆっくり無垢の瞳は瞬いて、テノールの声が話しだした。
「犯人の凶器はね、ピッケルだったんだ。ブレードんトコ、血が付いていてね、それを見た瞬間に俺、赫となった。
大切な山の道具で誰かを傷つけるなんて、赦せない…「山」で、それも俺の生まれた山で、血を流させたんだ、そいつ。
赦せないから警棒で手首を砕いてやった、麻痺して動かなくなるようにね。ピッケルが二度と、握れないようにしてやったんだ、」
大切な山の道具で、山を穢した。それも、光一が生まれた雲取山に連なる山で。
それは光一の逆鱗を全て逆撫でしたようなものだ、この傷み映るよう周太の心も傷みだす。
大切な存在、敬愛する存在への冒涜が哀しい、だから怒る。
その怒りの傷が、透明な目に哀しい。
…光一の怒りは、哀しみなんだ…だから苛烈にもなって…
光一は「山」に真理を見つめて敬愛する。
その愛情が深い分だけ「山」への冒涜を赦さず、冒涜する罪を哀しみ傷む。
だから今も光一はピッケルを握った犯人へ怒り、哀しんで、それを「制裁」に示してしまった。
この「制裁」への想いに光一は、ひとすじの涙をこぼし微笑んだ。
「俺は躊躇しなかった、今だって悪いコトしたとか全然思えないね、当然のコトだって思ってる…それでも解ってる。
体の一部をダメになんて行き過ぎている、そう考えるのが常識だろうって、解かってはいるんだよね…でも俺、後悔していない、」
こんなふうに光一が泣くのは、冬富士の雪崩の後もそうだった。
あのときも英二が周太にした行為が哀しくて、哀しみの涙に光一は怒っていた。
あんなに光一が怒ったのは「山」を周太に見、愛してくれているからだと知っている。
それなら、この涙も「山」への愛情から生まれたものならば、自分が「山」の代わりに受けとめたら良い?
そんな想いに周太は、静かに微笑んだ。
「光一、哀しかったね?昨夜からずっと、本当に哀しかったね?…辛かったね、」
「…うん、哀しかった…っ、」
かすかな嗚咽がこぼれかけて、光一は呑みこんだ。
穏やかに透明な目を笑ませてくれる、けれど溜息のようテノールは言った。
「周太は、解かってくれるね…でも…あいつは怖がっているかもしれない…きっと、あいつは気づいているだろうから。
ワザと犯人の手首を砕いた、ってこと…だって俺、あいつのファイルで覚えたからね、人間の体のコト…骨とか筋肉の位置とか。
あいつが人助けの為に作ったファイルを、俺は人間を傷つけるのに使ったんだ…こんな俺を、怖がって、嫌うの…仕方ない…よね、」
無垢の瞳から涙、こぼれだす。
あふれおちる雫が白い頬を伝っていく、滂沱のなかテノールの声が泣いた。
「あいつ、昨夜もいつも通り一緒に寝てくれた、優しかったよ?でも…ほんとうは……っ、俺、よく解かったんだよね、もう。
どうして俺はあいつに恋してもらえないのか、解かったんだ…よね……こういう俺だからだよね、キレるから…怖いから…ね?
俺のコト、あいつ…ほんとうはどう想ってるのかな?…ねえ、嫌われるの怖いよ、どうしてこんなに怖いのかな…こんなの解んない、よ」
ずっと「山」を見つめてきた山っ子が、人間への恋愛に泣いている。
ずっと光一は「山」を一番の基準にして、人間の範疇を外から見ていた。
そんな光一が人間の英二を本気で恋して愛して、それが今「山の掟」を護る想いと対立して、光一を裂いている。
この傷み哀しみを受けとめたい、願いに微笑んで周太は光一の目を見つめた。
「大丈夫だよ、光一。英二はそんなことで、嫌いにならないよ?…だって、俺のことを英二は嫌っていないでしょう?」
「…そりゃね、あいつ…君のことは大好きだから…」
涙こぼしながら微笑んで透明な声は答えてくれる。
その声に周太はきれいに微笑んだ。
「英二はね、俺と比べられない位に光一のこと、大好きだよ?それに…俺なんてね、本気で人を殺そうとしたことあるから…
お父さんを殺した犯人のことを…それを止めてくれたのは英二だよ、でも英二はその後も変わらない。光一にもそうでしょう?
それに英二はね、そういう真直ぐな光一のことが好きだよ?全部が好きだから、だから…きすだっていっぱいしちゃうんじゃないの?」
訊きながらも最後は恥ずかしくて、声が小さくなってしまう。
こんな「きすだっていっぱいして」なんて2人のことに口出したみたい、それが恥ずかしい。
けれど光一は嬉しそうに、すこし気恥ずかしげに笑ってくれた。
「あいつ、本当にそうかもね?だったら嬉しいよ、俺…ありがとね、周太に言ってもらえて嬉しかった、」
「ん、よかった、」
少しは受けとめてあげられた?そう見つめた先で、透明な目に底抜けの明るさが戻ってくる。
そして明るんだ目は悪戯っ子に笑って、光一は言ってくれた。
「周太には悪いけどね、確かにあいつ、すごいキスしてくるよ?ほんとエロいね、あいつって。周太にはもっとエロいんだろ?」
「…そういうこときかされてもなんていえばいいの?」
本当になんて言えばいいのだろう?
そう困ってしまう首筋が熱くなってくる、こんなの困ってしまうのに?
もう俯きかけてしまう、そんな耳元にふわり花の香ふれて透明なテノールが笑ってくれた。
「色々ありがとう、周太…山桜のドリアード、大好きだよ、」
そう言ってくれた笑顔は、幸せに明るかった。
警察学校の前で四駆を降りると、周太は運転席の窓へと笑いかけた。
そんな周太にガラス越しから微笑んで、光一も窓を開けてくれる。
空間を隔てる窓が降りると、雪白の貌は大らかに笑ってくれた。
「あいつの前で、たくさん笑ってやってね?周太が笑うと、あいつは最高に良い貌するから、」
周太が笑うと最高に。
そんな言葉の意味と想いは優しくて、けれど優しいからこそ哀しい。
この気持ちのまま正直に周太は口を開いた。
「ありがとう、光一。でも英二はね、山の頂上での笑顔が本当に素敵だよ?」
いつも光一が撮ってくれる、山頂での英二の写真たち。
あの高峰で輝いた笑顔は、本当に宝物のよう美しく眩しい。
あの笑顔を現実に見ることは周太には難しい、だから願いたい。微笑んで周太は言葉を続けた。
「最高峰の英二の笑顔、隣で見られるのは光一だけだよ?だから、また写真に撮って俺にも見せてね、」
最高峰の笑顔、その隣に自分は立てない。
だから最高峰での笑顔なら、光一は英二を独り占め出来る。
…光一だけだよ、英二の夢の隣に立てるのは
英二が夢を叶える唯一のパートナーは、光一だけ。
そのことを信じていてほしい。このことを忘れないでほしい、そして自信を持って欲しい。
だからお願い、もう泣かないで?そう笑いかけた真中で、底抜けに明るい目が微笑んだ。
「うん、また撮ってくるね?あいつの最高の貌、周太に見せたい、」
そう言ってくれた山っ子の貌は、幸せが笑っていた。
(to be continued)
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第51話 風伯act.6―another,side story「陽はまた昇る」
開いた携帯の通話を繋ぎながら、周太は扉を押した。
戸外は街路樹の木洩陽が影絵のよう揺れる、その緑陰に身を寄せたとき声が繋がった。
「周太…今、どこ?」
透明なテノールが、哀しい。
こんなトーンの光一を知っている、あれは剱岳の帰りに2人が川崎に来た時だった。
あのとき光一は独り四駆の運転席で泣いていた、この同じトーンを見つめて周太は微笑んだ。
「新宿のブックカフェの前にいるよ?光一はJA会館の辺り?」
「解かるんだ、周太…」
ほっとテノールが微笑んで、電話の向こうが和んでくれる。
やっぱり思った通りだったな、穏やかに笑って周太は提案をした。
「光一、迎えに来てもらってもいい?今、鞄を取ってくるから、」
「うん、解かった…あのさ、美代には言わないでくれる?」」
すこし嬉しそうに微笑んで、けれど哀しげなままテノールが訊いてくれる。
そんな光一の想いが解かってしまう、店へと引き返しながら周太は微笑んだ。
「ん、言わないよ?用事がある、って言うから大丈夫、」
「ありがとう…ごめんね、周太、」
声は、哀しい。
いつも明るい光一の声が、ずっと靄に籠るよう揺れている。
この哀しみの原因を自分は解かっているだろう、そんな想いに携帯を繋いだまま、周太は店内へと戻った。
「ごめんね、美代さん、内山。俺、用事があるの忘れていたんだ、先に帰らせて貰っていいかな?」
「もちろんよ、思い出せてよかったね?」
すぐに美代が笑って答えてくれる、その笑顔に笑いかけて周太は鞄を手に取った。
そしてココアの代金を美代に預けると、内山が言ってくれた。
「なんか悪いな、湯原。忙しいのに時間、作ってもらったりして、」
「ううん、こっちこそごめん、内山。事例研究の話、出来なかったし…明日の夜に談話室でもいい?」
「それでいいよ、」
笑って頷いてくれながら、精悍な笑顔がすこし気恥ずかしげになった。
なんだろうな?そう笑いかけると内山は素直に微笑んだ。
「今日、誘ってくれてありがとうな、湯原。また明日な、」
「こっちこそ、ありがとう。また明日、内山…美代さん、また電話するね?」
内山と美代に笑いかけて踵を返すと、周太は店の外へ出た。
まばゆい陽射しに目を細めて歩き出す、その向こうに奥多摩ナンバーの見慣れた四駆が佇んでいた。
フロントガラス越し、運転席に秀麗な微笑がこちらを見ている。その貌に心哀しくなって、周太は四駆へと駆け寄った。
かたん、
助手席の扉を開いて、中へ乗り込む。
こちら振向いた雪白の貌は微笑んで、透明なテノールが言った。
「すこし、走ってもイイ?」
「ん、」
微笑んで頷くと、周太はシートベルトを締めた。
走りはじめて運転席を見ると、光一は制服の上に私服のパーカーを着こんでいる。
きっと仕事合間に脱け出してきた、そんな様子に周太は尋ねた。
「光一、今日は勤務?」
「うん…あいつは吉村先生の手伝いに入ってるから…JAの用事作って、脱け出してきた、」
テノールの声は、どこか元気がなくて途惑っている。
いま何から話して良いのか解らない、そんな途惑いが切なげで哀しそうで。
こんな様子で、それも仕事合間に無理をしても周太に逢いに来るなんて、普段の光一ならしない。
…本当に今、光一は追い詰められて、苦しんでる
この苦しみの理由は昨夜も思った通りだろう。
だから容易く慰められる訳ではないと解っている。
それでも、少しでも元気づけてあげたくて、お願いに周太は微笑んだ。
「光一?ちょっと寄ってほしい所があるんだけど…次の信号を左折してくれる?」
「うん、」
小さく笑って頷くと、光一は周太のナビゲーション通りに車を進めた。
すぐ目的の場所に辿り着いて、シートベルトを外しながら周太は笑いかけた。
「すぐ戻るからね、待ってて?」
そう言って降りると周太は、すっかり来馴れた店の扉を開いた。
ふわり芳ばしいあまい香が頬撫でる、トングとトレーを手に取ると手早く選んでレジに置いた。
それを袋に詰めてくれながら、顔なじみの店員が周太の格好を見て微笑んだ。
「こんにちは、今日はスーツなのね?」
「こんにちは、ちょっと用事があって…あの、これは袋を別にしてください、」
「かしこまりました、お分けしますね。こちらの新商品、人気なんですよ?」
挨拶と言葉を交わしながら財布を出し、会計を済ませていく。
こんな会話も最初のころは気恥ずかしくて、けれど最近は自然と微笑んで話せる。
こういう事は幼い頃は出来ていた、それが父の死を境に無口になって、いつか忘れてしまっていた。
こんなふうに、13年の歳月に失ったものを取り戻していく「今」が愛おしい。そして「今」に導いてくれた人が恋しくなる。
…英二、今頃は診察室にいるのかな
そっと心に呟いて、微笑んでしまう。
英二は喜んでくれるかな?そんな考えに、運転席で待っている人の想いが切なくなる。
きっと光一は今、自分自身に傷ついているから。
…昨夜に思ったことは、当たり…かな、
考えながら大小の紙袋を受けとり店から出ると、助手席の扉を開いた。
芳ばしい香ごと詰まった袋を抱えて乗り込むと、ふわり香が広がって光一が微笑んでくれた。
「いい匂いだね、あいつの夜食?」
まだ光一には、外泊を取り止めたことは言っていない。
けれど察しの良い光一には解るのだろう、素直に周太は頷いた。
「そうだよ、あと、光一の分もね?」
笑いかけて、小さいほうの紙袋を運転席に示して見せる。
それに透明な目がすこし大きくなって、そして嬉しそうに微笑んでくれた。
「ありがとう、周太…やっぱり君は優しいね、大好きだよ?」
「ん、喜んでくれるなら良かった、」
笑って答えた先、透明な目が泣きそうになっている。
すこしでも今は笑わせてあげたくて、周太は話しかけた。
「でも、好みのパンじゃなかったら、ごめんね?…適当に選んじゃったから、」
「なんでも嬉しいよ、どんなラインナップ?」
「ん、そうだね…開けてのお楽しみ、にしたら?」
「そっか、なんだろね?俺、好き嫌いは基本ないけどね、」
笑ってくれながらハンドルを捌いていく。
そんなふうに30分ほど走って、四駆は広い公園の駐車場に停まった。
「ここね、学校から割と近いんだ、」
教えてくれながら運転席から降りると、長身を思い切り伸ばした。
そんな様子はいつもどおりで、けれど哀しさが透明な目に烟っている。
ただ真直ぐ見上げた周太に透明な目は笑んで、テノールが微笑んでくれた。
「あっちにベンチがあるんだ、行こ?」
「ん、」
促されるまま並んで歩きだすと、ふっと草の香が頬撫でていく。
ゆっくり進んでいく道は緑豊かで、ゆれる木洩陽に自然林の趣が優しい。
どこか奥多摩の森を想わせる雰囲気に、周太は幼馴染へと尋ねた。
「ここ、学校の頃に来ていたの?」
「うん、よく来たね。山が恋しくなったら、ここに来てた、」
そう言って細い目は悪戯っ子に笑ってくれた。
すこしだけ元気になった眼差しが嬉しい、嬉しくて周太は笑いかけた。
「放課後に来ちゃった、ってこと?」
「ソレは言えないけどね、ま、常連だったよね?」
飄々と笑って光一は、森の奥にあるベンチに腰を下した。
周太も並んで座ると、ふわり樹木の馥郁が涼やかな風に心地いい。
…こんなところがあるの、知らなかったな
ほっと微笑んで周太は隣を見た。
その視線を受けとめた透明な目は微笑んで、そして涙ひとすじ零れた。
「…周太、俺…もう、あいつに怖がられたかも…嫌われたかもしれない…」
哀しげなテノールが、ふるえる。
ふるえる声と真直ぐな無垢の瞳を見つめて、周太は微笑んだ。
「俺は嫌わない、怖がらないよ?…だから聴かせて?」
「うん、…ありがとう、」
すこし透明な目が笑ってくれる。
そして視線をそのままに山っ子は口を開いた。
「昨夜、強盗犯を逮捕したのはね、あいつと俺なんだ。それで…俺、犯人の手を、砕いたんだ、」
手を砕いた?
すこし驚いて周太は幼馴染の目を見つめた。
見つめた先、ゆっくり無垢の瞳は瞬いて、テノールの声が話しだした。
「犯人の凶器はね、ピッケルだったんだ。ブレードんトコ、血が付いていてね、それを見た瞬間に俺、赫となった。
大切な山の道具で誰かを傷つけるなんて、赦せない…「山」で、それも俺の生まれた山で、血を流させたんだ、そいつ。
赦せないから警棒で手首を砕いてやった、麻痺して動かなくなるようにね。ピッケルが二度と、握れないようにしてやったんだ、」
大切な山の道具で、山を穢した。それも、光一が生まれた雲取山に連なる山で。
それは光一の逆鱗を全て逆撫でしたようなものだ、この傷み映るよう周太の心も傷みだす。
大切な存在、敬愛する存在への冒涜が哀しい、だから怒る。
その怒りの傷が、透明な目に哀しい。
…光一の怒りは、哀しみなんだ…だから苛烈にもなって…
光一は「山」に真理を見つめて敬愛する。
その愛情が深い分だけ「山」への冒涜を赦さず、冒涜する罪を哀しみ傷む。
だから今も光一はピッケルを握った犯人へ怒り、哀しんで、それを「制裁」に示してしまった。
この「制裁」への想いに光一は、ひとすじの涙をこぼし微笑んだ。
「俺は躊躇しなかった、今だって悪いコトしたとか全然思えないね、当然のコトだって思ってる…それでも解ってる。
体の一部をダメになんて行き過ぎている、そう考えるのが常識だろうって、解かってはいるんだよね…でも俺、後悔していない、」
こんなふうに光一が泣くのは、冬富士の雪崩の後もそうだった。
あのときも英二が周太にした行為が哀しくて、哀しみの涙に光一は怒っていた。
あんなに光一が怒ったのは「山」を周太に見、愛してくれているからだと知っている。
それなら、この涙も「山」への愛情から生まれたものならば、自分が「山」の代わりに受けとめたら良い?
そんな想いに周太は、静かに微笑んだ。
「光一、哀しかったね?昨夜からずっと、本当に哀しかったね?…辛かったね、」
「…うん、哀しかった…っ、」
かすかな嗚咽がこぼれかけて、光一は呑みこんだ。
穏やかに透明な目を笑ませてくれる、けれど溜息のようテノールは言った。
「周太は、解かってくれるね…でも…あいつは怖がっているかもしれない…きっと、あいつは気づいているだろうから。
ワザと犯人の手首を砕いた、ってこと…だって俺、あいつのファイルで覚えたからね、人間の体のコト…骨とか筋肉の位置とか。
あいつが人助けの為に作ったファイルを、俺は人間を傷つけるのに使ったんだ…こんな俺を、怖がって、嫌うの…仕方ない…よね、」
無垢の瞳から涙、こぼれだす。
あふれおちる雫が白い頬を伝っていく、滂沱のなかテノールの声が泣いた。
「あいつ、昨夜もいつも通り一緒に寝てくれた、優しかったよ?でも…ほんとうは……っ、俺、よく解かったんだよね、もう。
どうして俺はあいつに恋してもらえないのか、解かったんだ…よね……こういう俺だからだよね、キレるから…怖いから…ね?
俺のコト、あいつ…ほんとうはどう想ってるのかな?…ねえ、嫌われるの怖いよ、どうしてこんなに怖いのかな…こんなの解んない、よ」
ずっと「山」を見つめてきた山っ子が、人間への恋愛に泣いている。
ずっと光一は「山」を一番の基準にして、人間の範疇を外から見ていた。
そんな光一が人間の英二を本気で恋して愛して、それが今「山の掟」を護る想いと対立して、光一を裂いている。
この傷み哀しみを受けとめたい、願いに微笑んで周太は光一の目を見つめた。
「大丈夫だよ、光一。英二はそんなことで、嫌いにならないよ?…だって、俺のことを英二は嫌っていないでしょう?」
「…そりゃね、あいつ…君のことは大好きだから…」
涙こぼしながら微笑んで透明な声は答えてくれる。
その声に周太はきれいに微笑んだ。
「英二はね、俺と比べられない位に光一のこと、大好きだよ?それに…俺なんてね、本気で人を殺そうとしたことあるから…
お父さんを殺した犯人のことを…それを止めてくれたのは英二だよ、でも英二はその後も変わらない。光一にもそうでしょう?
それに英二はね、そういう真直ぐな光一のことが好きだよ?全部が好きだから、だから…きすだっていっぱいしちゃうんじゃないの?」
訊きながらも最後は恥ずかしくて、声が小さくなってしまう。
こんな「きすだっていっぱいして」なんて2人のことに口出したみたい、それが恥ずかしい。
けれど光一は嬉しそうに、すこし気恥ずかしげに笑ってくれた。
「あいつ、本当にそうかもね?だったら嬉しいよ、俺…ありがとね、周太に言ってもらえて嬉しかった、」
「ん、よかった、」
少しは受けとめてあげられた?そう見つめた先で、透明な目に底抜けの明るさが戻ってくる。
そして明るんだ目は悪戯っ子に笑って、光一は言ってくれた。
「周太には悪いけどね、確かにあいつ、すごいキスしてくるよ?ほんとエロいね、あいつって。周太にはもっとエロいんだろ?」
「…そういうこときかされてもなんていえばいいの?」
本当になんて言えばいいのだろう?
そう困ってしまう首筋が熱くなってくる、こんなの困ってしまうのに?
もう俯きかけてしまう、そんな耳元にふわり花の香ふれて透明なテノールが笑ってくれた。
「色々ありがとう、周太…山桜のドリアード、大好きだよ、」
そう言ってくれた笑顔は、幸せに明るかった。
警察学校の前で四駆を降りると、周太は運転席の窓へと笑いかけた。
そんな周太にガラス越しから微笑んで、光一も窓を開けてくれる。
空間を隔てる窓が降りると、雪白の貌は大らかに笑ってくれた。
「あいつの前で、たくさん笑ってやってね?周太が笑うと、あいつは最高に良い貌するから、」
周太が笑うと最高に。
そんな言葉の意味と想いは優しくて、けれど優しいからこそ哀しい。
この気持ちのまま正直に周太は口を開いた。
「ありがとう、光一。でも英二はね、山の頂上での笑顔が本当に素敵だよ?」
いつも光一が撮ってくれる、山頂での英二の写真たち。
あの高峰で輝いた笑顔は、本当に宝物のよう美しく眩しい。
あの笑顔を現実に見ることは周太には難しい、だから願いたい。微笑んで周太は言葉を続けた。
「最高峰の英二の笑顔、隣で見られるのは光一だけだよ?だから、また写真に撮って俺にも見せてね、」
最高峰の笑顔、その隣に自分は立てない。
だから最高峰での笑顔なら、光一は英二を独り占め出来る。
…光一だけだよ、英二の夢の隣に立てるのは
英二が夢を叶える唯一のパートナーは、光一だけ。
そのことを信じていてほしい。このことを忘れないでほしい、そして自信を持って欲しい。
だからお願い、もう泣かないで?そう笑いかけた真中で、底抜けに明るい目が微笑んだ。
「うん、また撮ってくるね?あいつの最高の貌、周太に見せたい、」
そう言ってくれた山っ子の貌は、幸せが笑っていた。
(to be continued)
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