萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

第51話 風伯act.6―another,side story「陽はまた昇る」

2012-08-03 22:27:36 | 陽はまた昇るanother,side story
風、想う



第51話 風伯act.6―another,side story「陽はまた昇る」

開いた携帯の通話を繋ぎながら、周太は扉を押した。
戸外は街路樹の木洩陽が影絵のよう揺れる、その緑陰に身を寄せたとき声が繋がった。

「周太…今、どこ?」

透明なテノールが、哀しい。
こんなトーンの光一を知っている、あれは剱岳の帰りに2人が川崎に来た時だった。
あのとき光一は独り四駆の運転席で泣いていた、この同じトーンを見つめて周太は微笑んだ。

「新宿のブックカフェの前にいるよ?光一はJA会館の辺り?」
「解かるんだ、周太…」

ほっとテノールが微笑んで、電話の向こうが和んでくれる。
やっぱり思った通りだったな、穏やかに笑って周太は提案をした。

「光一、迎えに来てもらってもいい?今、鞄を取ってくるから、」
「うん、解かった…あのさ、美代には言わないでくれる?」」

すこし嬉しそうに微笑んで、けれど哀しげなままテノールが訊いてくれる。
そんな光一の想いが解かってしまう、店へと引き返しながら周太は微笑んだ。

「ん、言わないよ?用事がある、って言うから大丈夫、」
「ありがとう…ごめんね、周太、」

声は、哀しい。
いつも明るい光一の声が、ずっと靄に籠るよう揺れている。
この哀しみの原因を自分は解かっているだろう、そんな想いに携帯を繋いだまま、周太は店内へと戻った。

「ごめんね、美代さん、内山。俺、用事があるの忘れていたんだ、先に帰らせて貰っていいかな?」
「もちろんよ、思い出せてよかったね?」

すぐに美代が笑って答えてくれる、その笑顔に笑いかけて周太は鞄を手に取った。
そしてココアの代金を美代に預けると、内山が言ってくれた。

「なんか悪いな、湯原。忙しいのに時間、作ってもらったりして、」
「ううん、こっちこそごめん、内山。事例研究の話、出来なかったし…明日の夜に談話室でもいい?」
「それでいいよ、」

笑って頷いてくれながら、精悍な笑顔がすこし気恥ずかしげになった。
なんだろうな?そう笑いかけると内山は素直に微笑んだ。

「今日、誘ってくれてありがとうな、湯原。また明日な、」
「こっちこそ、ありがとう。また明日、内山…美代さん、また電話するね?」

内山と美代に笑いかけて踵を返すと、周太は店の外へ出た。
まばゆい陽射しに目を細めて歩き出す、その向こうに奥多摩ナンバーの見慣れた四駆が佇んでいた。
フロントガラス越し、運転席に秀麗な微笑がこちらを見ている。その貌に心哀しくなって、周太は四駆へと駆け寄った。

かたん、

助手席の扉を開いて、中へ乗り込む。
こちら振向いた雪白の貌は微笑んで、透明なテノールが言った。

「すこし、走ってもイイ?」
「ん、」

微笑んで頷くと、周太はシートベルトを締めた。
走りはじめて運転席を見ると、光一は制服の上に私服のパーカーを着こんでいる。
きっと仕事合間に脱け出してきた、そんな様子に周太は尋ねた。

「光一、今日は勤務?」
「うん…あいつは吉村先生の手伝いに入ってるから…JAの用事作って、脱け出してきた、」

テノールの声は、どこか元気がなくて途惑っている。
いま何から話して良いのか解らない、そんな途惑いが切なげで哀しそうで。
こんな様子で、それも仕事合間に無理をしても周太に逢いに来るなんて、普段の光一ならしない。

…本当に今、光一は追い詰められて、苦しんでる

この苦しみの理由は昨夜も思った通りだろう。
だから容易く慰められる訳ではないと解っている。
それでも、少しでも元気づけてあげたくて、お願いに周太は微笑んだ。

「光一?ちょっと寄ってほしい所があるんだけど…次の信号を左折してくれる?」
「うん、」

小さく笑って頷くと、光一は周太のナビゲーション通りに車を進めた。
すぐ目的の場所に辿り着いて、シートベルトを外しながら周太は笑いかけた。

「すぐ戻るからね、待ってて?」

そう言って降りると周太は、すっかり来馴れた店の扉を開いた。
ふわり芳ばしいあまい香が頬撫でる、トングとトレーを手に取ると手早く選んでレジに置いた。
それを袋に詰めてくれながら、顔なじみの店員が周太の格好を見て微笑んだ。

「こんにちは、今日はスーツなのね?」
「こんにちは、ちょっと用事があって…あの、これは袋を別にしてください、」
「かしこまりました、お分けしますね。こちらの新商品、人気なんですよ?」

挨拶と言葉を交わしながら財布を出し、会計を済ませていく。
こんな会話も最初のころは気恥ずかしくて、けれど最近は自然と微笑んで話せる。
こういう事は幼い頃は出来ていた、それが父の死を境に無口になって、いつか忘れてしまっていた。
こんなふうに、13年の歳月に失ったものを取り戻していく「今」が愛おしい。そして「今」に導いてくれた人が恋しくなる。

…英二、今頃は診察室にいるのかな

そっと心に呟いて、微笑んでしまう。
英二は喜んでくれるかな?そんな考えに、運転席で待っている人の想いが切なくなる。
きっと光一は今、自分自身に傷ついているから。

…昨夜に思ったことは、当たり…かな、

考えながら大小の紙袋を受けとり店から出ると、助手席の扉を開いた。
芳ばしい香ごと詰まった袋を抱えて乗り込むと、ふわり香が広がって光一が微笑んでくれた。

「いい匂いだね、あいつの夜食?」

まだ光一には、外泊を取り止めたことは言っていない。
けれど察しの良い光一には解るのだろう、素直に周太は頷いた。

「そうだよ、あと、光一の分もね?」

笑いかけて、小さいほうの紙袋を運転席に示して見せる。
それに透明な目がすこし大きくなって、そして嬉しそうに微笑んでくれた。

「ありがとう、周太…やっぱり君は優しいね、大好きだよ?」
「ん、喜んでくれるなら良かった、」

笑って答えた先、透明な目が泣きそうになっている。
すこしでも今は笑わせてあげたくて、周太は話しかけた。

「でも、好みのパンじゃなかったら、ごめんね?…適当に選んじゃったから、」
「なんでも嬉しいよ、どんなラインナップ?」
「ん、そうだね…開けてのお楽しみ、にしたら?」
「そっか、なんだろね?俺、好き嫌いは基本ないけどね、」

笑ってくれながらハンドルを捌いていく。
そんなふうに30分ほど走って、四駆は広い公園の駐車場に停まった。

「ここね、学校から割と近いんだ、」

教えてくれながら運転席から降りると、長身を思い切り伸ばした。
そんな様子はいつもどおりで、けれど哀しさが透明な目に烟っている。
ただ真直ぐ見上げた周太に透明な目は笑んで、テノールが微笑んでくれた。

「あっちにベンチがあるんだ、行こ?」
「ん、」

促されるまま並んで歩きだすと、ふっと草の香が頬撫でていく。
ゆっくり進んでいく道は緑豊かで、ゆれる木洩陽に自然林の趣が優しい。
どこか奥多摩の森を想わせる雰囲気に、周太は幼馴染へと尋ねた。

「ここ、学校の頃に来ていたの?」
「うん、よく来たね。山が恋しくなったら、ここに来てた、」

そう言って細い目は悪戯っ子に笑ってくれた。
すこしだけ元気になった眼差しが嬉しい、嬉しくて周太は笑いかけた。

「放課後に来ちゃった、ってこと?」
「ソレは言えないけどね、ま、常連だったよね?」

飄々と笑って光一は、森の奥にあるベンチに腰を下した。
周太も並んで座ると、ふわり樹木の馥郁が涼やかな風に心地いい。

…こんなところがあるの、知らなかったな

ほっと微笑んで周太は隣を見た。
その視線を受けとめた透明な目は微笑んで、そして涙ひとすじ零れた。

「…周太、俺…もう、あいつに怖がられたかも…嫌われたかもしれない…」

哀しげなテノールが、ふるえる。
ふるえる声と真直ぐな無垢の瞳を見つめて、周太は微笑んだ。

「俺は嫌わない、怖がらないよ?…だから聴かせて?」
「うん、…ありがとう、」

すこし透明な目が笑ってくれる。
そして視線をそのままに山っ子は口を開いた。

「昨夜、強盗犯を逮捕したのはね、あいつと俺なんだ。それで…俺、犯人の手を、砕いたんだ、」

手を砕いた?

すこし驚いて周太は幼馴染の目を見つめた。
見つめた先、ゆっくり無垢の瞳は瞬いて、テノールの声が話しだした。

「犯人の凶器はね、ピッケルだったんだ。ブレードんトコ、血が付いていてね、それを見た瞬間に俺、赫となった。
大切な山の道具で誰かを傷つけるなんて、赦せない…「山」で、それも俺の生まれた山で、血を流させたんだ、そいつ。
赦せないから警棒で手首を砕いてやった、麻痺して動かなくなるようにね。ピッケルが二度と、握れないようにしてやったんだ、」

大切な山の道具で、山を穢した。それも、光一が生まれた雲取山に連なる山で。
それは光一の逆鱗を全て逆撫でしたようなものだ、この傷み映るよう周太の心も傷みだす。
大切な存在、敬愛する存在への冒涜が哀しい、だから怒る。
その怒りの傷が、透明な目に哀しい。

…光一の怒りは、哀しみなんだ…だから苛烈にもなって…

光一は「山」に真理を見つめて敬愛する。
その愛情が深い分だけ「山」への冒涜を赦さず、冒涜する罪を哀しみ傷む。
だから今も光一はピッケルを握った犯人へ怒り、哀しんで、それを「制裁」に示してしまった。
この「制裁」への想いに光一は、ひとすじの涙をこぼし微笑んだ。

「俺は躊躇しなかった、今だって悪いコトしたとか全然思えないね、当然のコトだって思ってる…それでも解ってる。
体の一部をダメになんて行き過ぎている、そう考えるのが常識だろうって、解かってはいるんだよね…でも俺、後悔していない、」

こんなふうに光一が泣くのは、冬富士の雪崩の後もそうだった。
あのときも英二が周太にした行為が哀しくて、哀しみの涙に光一は怒っていた。
あんなに光一が怒ったのは「山」を周太に見、愛してくれているからだと知っている。
それなら、この涙も「山」への愛情から生まれたものならば、自分が「山」の代わりに受けとめたら良い?
そんな想いに周太は、静かに微笑んだ。

「光一、哀しかったね?昨夜からずっと、本当に哀しかったね?…辛かったね、」
「…うん、哀しかった…っ、」

かすかな嗚咽がこぼれかけて、光一は呑みこんだ。
穏やかに透明な目を笑ませてくれる、けれど溜息のようテノールは言った。

「周太は、解かってくれるね…でも…あいつは怖がっているかもしれない…きっと、あいつは気づいているだろうから。
ワザと犯人の手首を砕いた、ってこと…だって俺、あいつのファイルで覚えたからね、人間の体のコト…骨とか筋肉の位置とか。
あいつが人助けの為に作ったファイルを、俺は人間を傷つけるのに使ったんだ…こんな俺を、怖がって、嫌うの…仕方ない…よね、」

無垢の瞳から涙、こぼれだす。
あふれおちる雫が白い頬を伝っていく、滂沱のなかテノールの声が泣いた。

「あいつ、昨夜もいつも通り一緒に寝てくれた、優しかったよ?でも…ほんとうは……っ、俺、よく解かったんだよね、もう。
どうして俺はあいつに恋してもらえないのか、解かったんだ…よね……こういう俺だからだよね、キレるから…怖いから…ね?
俺のコト、あいつ…ほんとうはどう想ってるのかな?…ねえ、嫌われるの怖いよ、どうしてこんなに怖いのかな…こんなの解んない、よ」

ずっと「山」を見つめてきた山っ子が、人間への恋愛に泣いている。

ずっと光一は「山」を一番の基準にして、人間の範疇を外から見ていた。
そんな光一が人間の英二を本気で恋して愛して、それが今「山の掟」を護る想いと対立して、光一を裂いている。
この傷み哀しみを受けとめたい、願いに微笑んで周太は光一の目を見つめた。

「大丈夫だよ、光一。英二はそんなことで、嫌いにならないよ?…だって、俺のことを英二は嫌っていないでしょう?」
「…そりゃね、あいつ…君のことは大好きだから…」

涙こぼしながら微笑んで透明な声は答えてくれる。
その声に周太はきれいに微笑んだ。

「英二はね、俺と比べられない位に光一のこと、大好きだよ?それに…俺なんてね、本気で人を殺そうとしたことあるから…
お父さんを殺した犯人のことを…それを止めてくれたのは英二だよ、でも英二はその後も変わらない。光一にもそうでしょう?
それに英二はね、そういう真直ぐな光一のことが好きだよ?全部が好きだから、だから…きすだっていっぱいしちゃうんじゃないの?」

訊きながらも最後は恥ずかしくて、声が小さくなってしまう。
こんな「きすだっていっぱいして」なんて2人のことに口出したみたい、それが恥ずかしい。
けれど光一は嬉しそうに、すこし気恥ずかしげに笑ってくれた。

「あいつ、本当にそうかもね?だったら嬉しいよ、俺…ありがとね、周太に言ってもらえて嬉しかった、」
「ん、よかった、」

少しは受けとめてあげられた?そう見つめた先で、透明な目に底抜けの明るさが戻ってくる。
そして明るんだ目は悪戯っ子に笑って、光一は言ってくれた。

「周太には悪いけどね、確かにあいつ、すごいキスしてくるよ?ほんとエロいね、あいつって。周太にはもっとエロいんだろ?」
「…そういうこときかされてもなんていえばいいの?」

本当になんて言えばいいのだろう?
そう困ってしまう首筋が熱くなってくる、こんなの困ってしまうのに?
もう俯きかけてしまう、そんな耳元にふわり花の香ふれて透明なテノールが笑ってくれた。

「色々ありがとう、周太…山桜のドリアード、大好きだよ、」

そう言ってくれた笑顔は、幸せに明るかった。



警察学校の前で四駆を降りると、周太は運転席の窓へと笑いかけた。
そんな周太にガラス越しから微笑んで、光一も窓を開けてくれる。
空間を隔てる窓が降りると、雪白の貌は大らかに笑ってくれた。

「あいつの前で、たくさん笑ってやってね?周太が笑うと、あいつは最高に良い貌するから、」

周太が笑うと最高に。

そんな言葉の意味と想いは優しくて、けれど優しいからこそ哀しい。
この気持ちのまま正直に周太は口を開いた。

「ありがとう、光一。でも英二はね、山の頂上での笑顔が本当に素敵だよ?」

いつも光一が撮ってくれる、山頂での英二の写真たち。
あの高峰で輝いた笑顔は、本当に宝物のよう美しく眩しい。
あの笑顔を現実に見ることは周太には難しい、だから願いたい。微笑んで周太は言葉を続けた。

「最高峰の英二の笑顔、隣で見られるのは光一だけだよ?だから、また写真に撮って俺にも見せてね、」

最高峰の笑顔、その隣に自分は立てない。
だから最高峰での笑顔なら、光一は英二を独り占め出来る。

…光一だけだよ、英二の夢の隣に立てるのは

英二が夢を叶える唯一のパートナーは、光一だけ。
そのことを信じていてほしい。このことを忘れないでほしい、そして自信を持って欲しい。
だからお願い、もう泣かないで?そう笑いかけた真中で、底抜けに明るい目が微笑んだ。

「うん、また撮ってくるね?あいつの最高の貌、周太に見せたい、」

そう言ってくれた山っ子の貌は、幸せが笑っていた。




(to be continued)

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one scene 某日、学校にてact.5―side story「陽はまた昇る」

2012-08-03 04:40:39 | 陽はまた昇るside story
言わせてほしい、だけど、



one scene 某日、学校にてact.5―side story「陽はまた昇る」

どこからか賑やかな声が聴こえる廊下は、なにか温かい。
そう思えてしまう感覚も今、隣を歩いてくれる人のお蔭かな?
そんな想いに微笑んだ隣を、周太がスリッパの音を立てながら歩いていく。

たん、…たん、…たん、

ゆったりとしたトーンの歩調は、背筋を伸ばし端正に歩いていく。この端正な歩き姿も自分は好きだ。
いま洗い立ての髪の艶も綺麗で、爽やかで穏やかな香が頬を撫で優しい時間の記憶を起こしてしまう。
歩いていく横顔は湯上りに熱って、黒目がちの瞳は真直ぐ前を見つめている。
その首筋そめる薄紅がきれいに心を惹きこんでしまう、今はまだ廊下なのに?

―早く部屋に戻りたいな、そうしたら

心裡に本音こぼれて、我ながら苦笑してしまう。
ほんとうに自分はいつも、こんなことばかり考えて?
これでは本当に犯罪者になりそう?そんな心配に笑ってしまった英二を、隣から黒目がちの瞳が覗きこんだ。

「どうしたの、英二?…なにか面白い?」
「うん、ちょっと自分のことが面白かったんだ、」

笑って答えた英二に首傾げて「なにが面白いの?」と瞳が訊いてくれる。
そんな純粋な瞳で訊かれると、ちょっと罪悪感を感じてしまうのに?
そう思いながらも反応が見たくて英二は口を開いた。

「周太のこと見てると俺、痴漢しそうでさ?こんなの犯罪者みたいで拙いな、って可笑しくてさ、」

言われた隣、首筋から頬へと薄紅が色濃く昇りだす。
そして真赤になった貌で周太が、素っ気なく言い放った。

「こんなとこでなにいってるの?えいじのえっちばかへんたいっ、」

ちょっと怒った顔、可愛いです、もっと言って?

そんな心の声が嬉しげに笑ってしまう。
こんなことを思ってしまう自分は、確かに周太が言う通り「えっちばかへんたい」だろうな?
そんな納得に笑って英二は、長い腕を伸ばして小柄な体を抱え込んだ。

「ごめん、周太。そんなに怒らないで?周太の所為なんだからさ、」
「っ、しらない、おろしてばかばかっへんたいっ」

真赤になったままの周太が腕から降りようともがきだす。
こんな様子も可愛くて仕方ない、余計に煽られてしまうのに?
嬉しい気持ちと一緒に恋人を抱え込むと、英二は廊下を歩き始めた。

「おろしてってば?えっちへんたいっばかえいじっ」
「ダメだよ周太、夕方の約束を忘れたの?」

言って顔をのぞきこむと、黒目がちの瞳がひとつ瞬いた。
あの約束を想い出してくれたかな?微笑んで英二は言葉を続けた。

「移動するときは抱えさせてよ?飯のときや、風呂のときとかも。そう言ったよな、俺?それで周太もOKしてくれたよな?」

今日、図書室に寄った前後での会話。
このこと忘れてなんていないよね?そう見つめた先で真赤な顔が困ったよう俯いた。

「…ん、」

そんな素直に俯かれたら、ちょっと困るんですけど?

どうしよう、これはツンデレ女王さまモードだ?
これになった周太には弱い、ほら心臓が鼓動にひっくり返りだす。
この音が聴かれてしまいそうで尚更に、もう首筋も熱くなりだした、ときめいてしまう。

―このままだと、消灯前に押し倒しそうだ?

ちょっと困ったことになってきた?
どうしようか途方にくれながらも幸せで、大切に抱え込んだまま歩いていく。
そして談話室を通りかかったとき、快活な声に呼び止められた。

「おう、宮田。ちょうど良いところに来た、」

ちょうど良いところかよ?

ぼそっと心裡で呟いて、また我ながら可笑しい。
周太を抱え込んだ肩越しから声に振向くと、英二は微笑んだ。

「なに、関根?」
「いいからさ、こっち来いって、」

快活な笑顔で手招きされて、とりあえず体ごと向きを変えた。
けれど本当は部屋に戻りたい、元はと言えば周太の体調が心配で「搬送トレーニング」をしているのに?
そして本音を言ってしまえば、自分の気分と体の都合から早く部屋でふたりきりになりたい。
そんな願望に英二は綺麗に笑って、関根に断った。

「ごめん、関根。周太が体調、いまいちなんだ。だから早く、部屋に戻りたいんだけど、」
「お、そっか。ごめん、」

素直に関根は謝って、引っ込もうとしてくれる。
けれど腕の中から周太が微笑んで答えてしまった。

「大丈夫だよ、俺。皆と今日、あまり話していないし、寄って行きたいな?」

俺は寄って行きたくありません。

そんな本音が心で顔を顰めてしまう。
君の体調が悪いのは哀しいけれど、こんな時こそ君を独り占め出来るチャンスなのに?
だから寄り道しないで部屋に戻りたい、でも本人に言われたら断る口実が難しい。それでも英二は宥めるよう恋人に微笑んだ。

「ダメだよ、周太?まだ熱が少しあるんだし、湯冷めしたら困るだろ?」
「ん、そうだけど…、」

残念そうな声で言いながら、黒目がちの瞳が寂しげに見つめてくる。
そんな顔されると申し訳なくなってしまう、お願いだから言うこと聴いてほしいな?
こんな自分勝手なお願いを心に思ったのに、純粋な瞳は英二に微笑んだ。

「でも、少しだけ寄りたいな?お願い、英二、言うこと聴いてほしいな?」

お願いされたら降参です。

今の言葉に省略された「愛しているなら」が聴こえてしまったから、お願い叶えずにはいられない。
それに本当は部屋に戻りたいのは、君を独り占めしたいっていう自分勝手な願望だから。
ちょっと心に溜息こぼしながら、それでも英二は綺麗に微笑んだ。

「じゃあ、10分だよ、周太?」
「ん、ありがとう、英二。わがまま言ってごめんね、」

黒目がちの瞳が嬉しそうに微笑んでくれる、その純粋な眼差しに良心が呵責する。
たった10分に区切ってしまうのは自分のワガママ、そんな自分に「ありがとう」なんて?
こんな自責をぐるっと廻らしながら、嫌々ながら英二は恋人を腕から降ろして床に立たせた。

「ほら、周太。風呂の道具、持つよ?」
「大丈夫だよ、自分のくらい持ってく、」

微笑んで答えながら、英二の腕から温もりが離れてしまう。
もう離れる瞬間から恋しくて、温もりを今すぐ引き留めてしまいたくなる。
それでも1つ呼吸して納めると、一緒に談話室へと入った。

「お、宮田。ここ座って?」

松岡に手招きされて英二は、素直に指定の席に座った。
その前には関根が座り、肘を机に立てている。この姿勢はそういう事だろうか?
ちょっと笑って英二は思ったままを口にした。

「もしかして、腕相撲しろってこと?」
「そういうこと。ほら来いよ、宮田、」

愉しげに関根は手を構えている。
気がつくと机のぐるりを皆が囲んで、勝負予想を始めだした。

「ここは関根だろ?もと自動車修理工だし、腕力あるよな、」
「宮田は現役の山岳救助隊じゃん、あそこってパワー系だよ、」
「背筋300超えてたもんな、宮田、」
「でも握力はどうなんだ?修理工ってスパナとか使うしさ、」

なんだか皆、結構真剣に予想を考えている。
そんな雰囲気に英二は、膝の上で手を組んだまま尋ねた。

「あのさ、ひょっとして、何か懸けてる?」

もしそうだったら拙いだろう?
ここは警察学校だし自分達は取り締まる側の警察官だから、当然そうした事はNGだ。
そんな考えに首傾げた英二に、関根はさらっと笑った。

「おう、懸けてるよ、」
「じゃ、俺やらない、」

即答で立ち上がりかけた英二に、関根の貌が驚いた。
それを横から留めて瀬尾が、笑って教えてくれた。

「宮田くん。懸けてるのはね、明日の朝の掃除場所だから。賭博じゃないよ、」
「あ、掃除の分担か、」

それくらいなら良いかな?
微笑んで英二は座り直すと、机に右肘をついて関根の手に右手を組んだ。
そして組んだ手を松岡が軽く掌で押さえて、英二と関根に笑いかけた。

「じゃあ、いくよ?3、2、1、はいっ、」

最後の声と同時に、ぱっと松岡の手が離された。
途端、関根の右手が強靭な力で英二の掌を握りこんだ。

「っ、」

瞬時に右肩から腕、掌まで筋肉に緊張が走る。
上腕二頭筋と上腕三頭筋に腕橈骨筋が硬くなって、三角筋と上腕筋が支えこむのが解かる。
こういう時は筋肉の稼働が解かりやすいな?そんなことを考えながら関根の力を押えこむ。
向かいでは快活な貌が愉しげに赤くなっていく、きっと力を精一杯こめているのだろう。

―やっぱり関根、力があるな?

そう感心しながらも光一に比べると腕の力自体が違う。
幼い頃から毎日を農作業と山で鍛えた光一の握力や腕力は、ずば抜けてパワーが違っている。
それでも関根の力も相当に強いな?そんな感想と見ている関根の向こう側で、内山が周太に話しかけた。

「湯原、昨日から体調が悪いんだってな?立っていて大丈夫か?」

なに話しかけてんだよ?

ぼそっと心に呟いた音の無い声が、やたらに不機嫌だと自覚してしまう。
でも同期の体調を心配する位は普通だろう?そんな納得を自分にさせていると、周太が微笑んだ。

「ん、大丈夫…今日も夕方はゆっくりしたから、」
「そうか、なら良かったけど。でも、顔が赤いぞ?」

言いながら内山が周太の顔をのぞきこんだ。
そして大きな掌が、スローモーションのよう周太の額へと近寄りだす。

「熱があるのかな?湯原、ちょっとごめん、」

熱を看るつもりかよ?

そう気づいた瞬間、右腕の筋肉が一気に奔って稼働した。
間髪入れず右掌の握力へ荷重がかかる、広背筋が動き大胸筋から力加えられる。
そして関根の右腕は机に抑え込まれ、どよめきが上がった。

「うわ、宮田の勝ち、」

どよめきに内山がこちらを見、大きな掌が動きを止める。
その隙に英二は、真直ぐ周太へと笑いかけた。

「お待たせ、周太。もう、部屋に戻らないとな?」

絶対に触らせたくないんです、君のこと。他の誰にも触れさせない。






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