萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

第53話 夏衣act.4―another,side story「陽はまた昇る」

2012-08-24 23:58:38 | 陽はまた昇るanother,side story
想い、時を越えて抱きしめ



第53話 夏衣act.4―another,side story「陽はまた昇る」

まるい実を充たした籠から、ふわっと初夏が香りたつ。
笊に青梅と熟した黄色の実を簡単に分けていく、そのたび香は空気を染めて甘くなる。
あまずっぱく瑞々しい梅の香は馥郁として、台所の空気のいろが変えられる。

「周太、佳い香だな?」

端正な笑顔が幸せに咲いて、隣で作業を手伝ってくれる。
この香を悦んでくれることが嬉しい、嬉しさと周太は微笑んだ。

「ん、いいでしょ?俺、この香が好きなんだ、」

ざあっ、

水道水を盥に充たして、笊の実を漬けていく。
こうして水に漬けこんで灰汁を抜かせる、それから調理に使う。
たくさんの実をどれだけ何に使おうかな?そう考えながら蛇口を止めると英二が尋ねた。

「周太、お母さんに手帳を見せるの?」
「ん、そう…あのね、お母さんに渡そうと思うんだ。お父さん喜ぶかな、って、」

答えに微笑んで、周太は婚約者を見上げた。
あなたは何て想う?そう目で訊いた問いかけに、綺麗な低い声は穏やかに微笑んだ。

「うん、そうだな。それが一番、お父さんが喜ぶかもしれないな、」

同じように想ってくれるんだ?
嬉しくて周太は綺麗に笑いかけた。

「英二もそう思う?…だったら俺、間違っていないよね、」
「ああ、お母さんの所に帰らせてあげるのが、いちばん良いかなって思うよ。お母さんも本当のこと、知りたいだろうから」

きれいな笑顔の言葉たちが背中を押してくれる。
ほんとうは少し迷っていた、あの手帳は決して無残では無いと言えないから。
けれど、あの母なら真実を知りたいと本当は願っている。そして父も本当は知ってほしかった、そう想うから。
そんな想い微笑んで周太は、大好きなひとへ頷いた。

「ん、ありがとう…じゃあ俺、お母さんの部屋に行ってくるね?」
「行ってらっしゃい、周太、」

すっと優しい笑顔が近づいて、やさしいキスが唇ふれる。
その感触がなんだか安らかなのは、ここが家だからだろう。
本当は警察学校でこうされる瞬間は胸が痛い、けれど今はただ幸せが優しい。

…好きなひとに自由にふれられるの、いいな…

ほっと安堵のよう心に想いこぼれだす。
そして自覚が胸を刺す、こんな自分は本当に警察官など向いていない。
そんなことは何度も考えてきた、警察学校に入った時からずっと。けれど今、この初任総合の期間に尚更と気付かされる。
唯でさえ警察官は危険が多くて、なかでも適性を問われる部署への配属を望むことは、自分に向いている訳が無い。
それでも自分は引き返す心算も止めることも出来ない、今日も手帳に誓ったばかりだから。

誓って、また覚悟した「2度目の異動後」に自分がどう生きるべきか。

きっと苦しみが多い、けれど目的を果たすまで生きぬくには、仕方ない。
そんなふうに目的のため諦めることは、きっと自分は出来るはず。
諦めることは苦しいけれど、諦めることすら無いゼロよりずっと良い。

だから今この瞬間が愛しい、自由にふれられる幸せが温かい。
この今を記憶に刻みこんでおきたい、1つでも多く温もりを憶えていたい。
そしていつか諦めることを終わらせる瞬間まで、記憶の温もりに抱かれていられるように。
そんな想いにキスは離れて、きれいな笑顔が尋ねてくれた。

「周太、俺も後で、お母さんとすこし話して良いかな?」

英二も手帳のことを母に話してくれる?
そんな予想をしながら周太は素直に頷いた。

「ん、もちろん…コーヒー淹れる時間もあるし、お母さんも時間あると思う、」
「そっか、良かった、」

笑ってくれる切長い目は優しくて、温かい。
この笑顔を見ていたくて、その為に自分は何でも出来るとまた、想いが育つ。
この想いのために勇気ひとつ抱いて今日まで来た、この想いは何があっても変えたくない。

…この人のためなら、罪でも背負えるから

そっと心に呟きながら微笑んで、周太はステンドグラスの扉を開いた。
ホールは深として静謐が安らいでいる、階段を昇る軋みが軽く木の音を鳴らす。

ぎっ…ぎっ…

経年の木の音はどこか優しいのは、曾祖父や祖父たちの温もりが踏んだから?
そんな想いに見上げる踊場のステンドグラスから、青と赤の光が揺らいで降りそそぐ。
すこし今、風が吹いている?そうガラスから外透かすと、木々の梢たちは柔らかに風そよぐ。
この樹木たちも家族たちが植えて、育ってて、大切に守ってきた。
その人たちのことを今日、すこし知ることも出来た。
そのことも母に話してあげたいな?そんな想いと自室に入ると、机の抽斗から白い封筒を取りだした。

「…ん、」

古い封筒へ小さく頷くと、すぐ踵返して廊下に出る。
そして母の寝室をノックすると、やさしい声が応えてくれた。

「はい、どうぞ?」

声に扉を開くと、パンツとカットソーに着替えた母は窓辺に佇んでいた。
いつも見慣れた姿なのに緊張してしまう、今から見せる物への反応を想うから。
そんな緊張に見つめる先で母は笑って、チェストの上から畳紙をベッドに降ろしてくれた。

「見て、周太?」

笑いかけ母は畳紙を開いてくれる。
開かれた白い紙包みを覗きこむと、藍の鰹縞が鮮やかに映りこんだ。

「きれい…浴衣、絹紅梅だね?」
「そう、英二くんに作ってみたの。どうかな、」

言いながら博多織の角帯を包みから出して、合わせてみてくれる。
白地に紺と深紅が華やいだ帯は、藍染めの浴衣に映えて美しい。
こういう心遣いをしてくれる母の心が温かい、嬉しくて周太は母に笑いかけた。

「素敵だね、きっと似合うよ?ありがとう、お母さん、」
「でしょう?英二くん背が高くてスタイル良いから、大きな縞も着こなせると思って、」

楽しそうに笑って畳紙を閉じると、帯と一緒に置いてくれる。
きっと似合うだろうな?そんな楽しい想像の後、周太はひとつ呼吸して口を開いた。

「お母さん、俺、今日は安本さんに会ったでしょう?それで預ってきたものがあるんだ、」

闊達な黒目がちの瞳が、すこし大きく瞠られる。
きっと聡明な母は「安本に預かった」でどういう物かを理解した。
その理解を黒目がちの瞳に見つめて周太は、白い封筒を差し出した。

「お父さんの手帳だよ、お母さん…安本さんが、預ってくれていたんだ。いつか俺に渡そうって思って」
「…そう、」

ため息のよう呟いて、母は微笑んで封筒を受け取ってくれた。
窓辺に封筒を見つめる黒目がちの瞳が、すこし潤んでいく。それでも母は周太に笑いかけてくれた。

「座っていいかな、周?」
「ん、」

促されて、窓際のソファに母子並んで腰を下した。
ゆるやかな光がオレンジを帯びて、足元を照らすよう射してくる。
穏やかな光のなかで母は、静かに白い封筒から手帳を出した。

焦げた穴の開いた、古い手帳。
この手帳の記憶は周太にもある、よく父は息子との予定も書きこんでくれたから。
あのころ日常だった幸福を見つめながら、静かに口を開いた。

「これ、銃弾の痕なんだ…だから焦げてるの、それでね、これ、」

話しながら、そっと手帳のページをめくる。
開かれた弾痕の開いた白ページ、古い写真と2枚の花びらを示して、周太は微笑んだ。

「俺の写真をね、お父さん、いつも持っていてくれたんだ…いつも安本さんに自慢してくれていたんだって、教えてくれたよ?
お母さんのお蔭で、俺が良い子なんだって話していたんだ、お父さん…すごく幸せそうに自慢してくれたんだって、言ってたよ?」

母の瞳が、古い写真を見つめている。
古い写真は黒い染みに染められて、焼け焦げた穴が穿たれ当日の無残を伝えてしまう。
それでも写真の背景には、満開の桜はなやぐ山頂が、今も鮮やかに遺されていた。

「ね、お母さん?…これって、丹沢の山だよね?…家族三人で、一緒に登りに行った時のでしょう?」
「ええ、そうよ…ここがね、お父さんとお母さんの、初めてデートした山なの、」

答えてくれる母の横顔は、透明な笑顔を湛えて写真を見つめている。
その視線の先で、2枚の古い花びらが此方を見つめるよう、黒い染みのある白いページに佇んだ。
その花びらの意味を周太は、穏やかに笑って口にした。

「お母さん、この花びらはね?あの日、お父さんが園遊会の警護をしていたとき、掌に載った花びらなんだって。
全部で3枚、掌に載ってね?1枚を安本さんにあげたんだ…そしてね、この2枚は俺と、お母さんへのお土産なんだって。
ね、見て?きれいな押花になってるでしょう?…それでね、この黒い染みなんだけど、写真とページにもついてるんだけど、これ、」

言いかけて、言葉が咽喉にひっかかる。
瞳から熱がこみあげかける、それでも今はまだ泣きたくない。
今は、きちんと父の想いと真実を母に伝えなくてはいけない、それは二人の息子である自分の義務で権利だ。
だから泣くことを自分に赦したくない。ひとつ、想いと一緒に息呑みこんで、周太はありのままを言葉に変えた。

「これはね、おとうさんの血なんだ、ね、お母さん?お父さんはね、帰って来たかったんだよ…だから手帳に名残をつけたんだよ。
いつも持っていた手帳にも、お土産の花びらも、おれのしゃしんにも…おとうさんのちをつけてね…うちにかえってきたかったから」

声が、ふるえだす。
涙はもう際まで迫り上げて、けれどまだ泣きたくない。
また息を呑みこんで、ゆっくり瞬いて、そして周太は明瞭に想いを伝えた。

「お父さん、幸せだから帰りたかったんだよ、お母さんと俺との家が幸せだったから。この血も、生きていた証拠に残してくれたんだ」

きっとそれが、父の想い。

父の想いを最後に綴った、父の血痕。
きっとこれが父の最期のメッセージ、自分の血で想いを染めてある。
たしかに血痕は意図して付けられるものじゃない、それでも、これが偶然の結末の姿だとしても父の意志だと信じたい。

この想いを母は、なんて想ってくれるだろう?
そう見つめた横顔はゆっくり振向いて、周太に美しい笑顔を見せてくれた。

「そうよ、お父さん、すごく幸せだったのよ?この家で私と周太と過ごして、三人で山に登って、幸せに笑ってた、」

母も、同じように想ってくれた。
きっと、きちんと父の想いを伝えられた。それが嬉しくて心ほぐれだす。
つい大きく迫り上げかける嗚咽呑みこんで、周太は母に笑った。

「ん、そうだね?いつも三人で楽しくて、幸せだったね、お父さんも、お母さんも俺も、」
「ええ、ほんとにそうね、」

周太の言葉に母も頷いてくれる。
ふたり手帳を覗きこんで、そっとページを捲っていく。そこに文字を見て周太は指さした。

「ね、見て?」

開いた4月のページに、予定が書きこまれているのが読める。
その予定に懐かしさをつめて、周太は小さく笑った。

「お母さん、ここ。お母さんの旅行と、奥多摩に行く予定、書いてくれてあるね?」
「あら、ほんとね?お父さん、ちゃんと書いてくれたね?」

母も一緒に見つめて、笑ってくれる。
ページの殆どは血が染みて読めない、けれど、この予定は紺色のインクも鮮やかに残されていた。
ほら、こんなことからも父は想いを伝えてくれる。この伝えられた想い素直に周太は言葉に変えた。

「ね、お母さん?お父さんは約束を守りたかったね、帰ってきて約束を守ろうってしてくれてた…ね、」

語尾がすこし詰まってしまう、もう瞳は涙あふれる準備をしだす。
今にも泣いてしまいそう?けれど父の想いが温かで、嬉しくて微笑んだ先で黒目がちの瞳が微笑んだ。

「ええ、そうよ。お父さんは絶対に約束は守りたい人だもの、あの日も帰って来たかったわ、」

お母さんも、そう想ってくれる?
同じよう母も想ってくれる、それならきっと、これは父の真実と本音。

そう確信が心を温めて、ゆっくり瞳の熱が涙へ変わりだす。
すこしずつ紗に覆われていく視界のなか、白い手はそっと手帳を閉じた。
その手は捧げるよう手帳を包んで、静かに母の胸へと抱きしめる。そして穏やかなアルトの声は、時を越えて微笑んだ。

「おかえりなさい、馨さん、」

ふたり、黒目がちの瞳から、窓ふる光に涙こぼれた。



コーヒーを淹れるセッティングを済ませると、周太は静かに扉を開いた。
そっと扉を閉めたホールに、かすかな話し声がテラスから聞こえてくる。
綺麗な低い声と、やさしい穏やかな声、どちらも大切な人たちが話す声。

…やっぱり、しばらく終わらないね?

もうすこし話が続きそうな気配に微笑んで、周太は2階へとあがった。
静かに書斎の扉を開けると、ほろ苦く甘い、深い香が頬を撫でてくれる。この香は父の匂い、14年経っても気配と一緒にここに居る。
こうして遺された父の欠片たちに何度、自分は慰められてきたのだろう?

「おとうさん、聴いてくれる?」

書斎机の写真に笑いかけて、周太は書架の前に立った。
すぐ紺青色の背表紙を見つけ、手を伸ばす。厚みの割に軽い本を手に取ると父の写真へ微笑んだ。

「お父さん、安本さんから手帳を預ったよ?ずっと大切にしてくれてたんだ…それでね、お母さんに渡したよ、」

紺青色の本を抱いて、書斎机の椅子に腰かける。
紅萼紫陽花ほころぶ影の下、父の笑顔は写真から見つめてくれた。

「ね、お父さん…お母さんね、お帰りなさいって泣いて、幸せに笑ったんだ…帰ってきて嬉しかったね、お父さんも、」

話しかける写真の向こうから、記憶の声が笑ってくれる。
もう14年も過ぎ去った時の彼方、けれど父の声はまだ心の深くから響きだす。
ほら、こんなふうに記憶の想いは色褪せない。だから英二との記憶だって大丈夫、そう思った途端に熱は瞳あふれた。

「おとうさん…おれ、がっこうなのに英二とね…キスしたりしてるの」

告白が、あふれだす。

こんなこと言うのも変かもしれない、けれど誰かに聴いてほしい。
でも誰にも言うことは出来ない、それでも父にだけなら言うことは赦される?
なによりもう、この心が胸が軋んでしまう、せめて今を弱虫のまま抱きとめてほしい。

「ダメだって解ってる、警察官なのに規律を守れないのはダメでしょう?…軽蔑されても仕方ない、でも俺、ダメなんだ。
もう今しかないって思うと、嫌だって言えない…だって俺の方こそ本当はしたいから…記憶がほしくて、1つでも多く覚えていたい。
ね、おとうさん?こんなのずるいって思うけど…男同士だから今も一緒にいられて、キスしたりできるね…幸せなんだ、今、でもね…」

涙が頬つたう、ほらまた自分は泣いている。
今日は新宿で安本の前でも泣いて、帰ってからも英二の前で泣いて、母の前でも泣いた。
そして今また父の前で泣いている、こんな泣き虫の癖に13年間は心ごと涙を閉じこめてきた。
それが今もう心の壁あふれて止まらない、こんな泣き虫が警察官として生き残れるの?そんな想いに周太は微笑んだ。

「キスしてくれるの幸せで…ベッドでしてくれるのも幸せで…でも本当はダメだって思うの痛い、友達に嫌われるかもって怖い。
それなのに俺、止められないの…英二が笑ってくれるの見ていたいの、英二の体温を感じていたい、できるだけ近く傍にいたい。
おとうさん、ほんとは1月に俺、もっとひどい規則違反…威嚇発砲したよね、それも光一に…あのとき本気で殺そうとも思ってた、
あれも英二のことでして…あんな馬鹿なことするほど自分勝手なの、今も同じに身勝手で、規則違反でも恋人として一緒にいたい、
ね、おとうさん、ほんとに酷いでしょ、俺って…こんなでも首席だなんて変だよね、俺ほど向いてない人いない、でもやめたくない、」

ほんとうに自分は、ひどい。

こんな自分の癖に父を追い掛けたくて、そのためだけに警察官になった。
そして英二のために今を生きたくて、英二の笑顔を見たいだけの理由で規律違反でもしてしまう。
こんなに個人的理由ばかりの自分は、本当は警察官になるべきじゃない。この想い正直に周太は微笑んだ。

「ね、警察官って社会のためっていう仕事だよね?でも俺は、お父さんのこと知りたいだけ…ほんとは社会なんてどうでもいいの。
もう俺、英二の笑顔が見られることが一番なの、ほんとに大好き…英二の笑顔が見られるなら、規則違反でも何でもしちゃうんだよ?
だから…今すぐ警察官を辞めて一緒にいたいっても思う…でも俺、お父さんのこと知りたいから止められないんだ、止めたら後悔する、」

涙また零れて、けれど周太は微笑んだ。
こんな息子で父は呆れている?それとも笑ってくれるだろうか?

「こんな俺なのにね…それでも、お父さんのいた場所に立ってみたい、そこで精いっぱいに自分が信じていることをやってみたいんだ。
それにね、英二がいるからこそ、お父さんのいた場所でも生きていけるんじゃないかって思うんだ…だから俺、異動したら志願するね」

きっと、夏の間には異動するだろう。
そして暫くしたら志願を問われる、そのレールは既に敷かれたろうから。
けれど自分はレールのままには動かない、自分には自分の意志がある。この意志に周太は微笑んだ。

「SATに志願するね、お父さん?俺には、お父さんみたいには任務を果たせない。きっと無理だって解ってるんだ、それでも行くよ?
だって俺は、お父さんが本当にしたかったことが出来るかもしれない。俺には英二が教えてくれたことがあるから、出来ると思うんだ、」

何を息子がするつもりなのか、父にはもう解かってるだろう。前にも少し話したから。
そんなふう父の理解と紺青色の本を抱きしめながら、周太は訊きたかったことを問いかけた。

「お父さん、曾おじいさんは山口から来たんだね?それで、おじいさんは学者だったんでしょう?それもフランス文学の偉い先生で。
お父さんもフランス語、上手だよね?…英語も上手で、本のことも詳しくて、ラテン語まで出来たよね…これ普通のレベルじゃないね?」

問いかけに、写真の笑顔は穏やかに見つめ返してくれる。
その笑顔は「警察官」だとは本当に思えない、もっと相応しい姿を周太は口にした。

「ね…お父さんも本当は、学者になりたかったんでしょ?おじいさんみたいに…それなのに、どうして警察官になったの?」

どうして?

あの屋上の雨のなか、泣きながら考え続けた疑問。
あのときの想いが今もあふれだす、そして涙と言葉がいっぺんに溢れだした。

「おとうさん、ほんとは自殺したんでしょ?殉職に見せかけて、自分で自分を裁いたんだよね?それくらい任務が嫌いだったね?
どうしてこの本まで切っちゃったの?これ、おじいさんの本なんでしょう?そんな大切なもの壊して、自分まで壊すほど嫌なんだよね?
おじいさんのこと何も話してくれなかったけど、大好きなんでしょ?…大切な人の本だから壊しても捨てられないんでしょ、ね…どうして?」

紺青色の壊れた本『Le Fantome de l'Opera』大切な祖父の本。

この本を壊した理由は「自殺の覚悟」だとしたら、「大切なものを壊すこと=自殺」なのだとしたら。
それほど大切に祖父のことも思っていた筈、なのに自分にも祖父のことを話さなかったのは、何故?
それくらい哀しい理由があったのだというのなら、その理由に想えることは今は1つしか浮かばない。

「ね、ほんとうは、おじいさんと同じ学者になりたかったんでしょう?でも警察官にならなきゃいけなかったの?
だから哀しくて、俺にもおじいさんの話をしなかったの?どうして学者にならなかったの、お父さんならなれたでしょう?
変だよ?どうしてSATになんか、狙撃手になんかなっちゃったの?なぜ、死んで償うほど嫌いなこと志願したの?ね、変だよ?
だって志願制でしょう?いくら選ばれたって断れたはずでしょう?警察官を辞めることだって出来るはずだよね、なのにどうして…っ」

かたい嗚咽が喉をつきあげる、けれど飲み下す。
涙の向こうに父の笑顔を見つめて、周太は哀しい疑問を問いかけた。

「ね、死んじゃうほど嫌なこと、どうしてしちゃったの?どうして逃げなかったの、逃げても恥ずかしいことなんかじゃない、
死んでしまうんなら逃げてよ、なぜ辞職しなかったの?ほんとうは警察官になりたくなかったんじゃないの?なのにどうしてなったの?
教えてよ、おとうさんっ…どうして警察官にならなきゃいけなかったの?自分から殉職を選ばなきゃいけないなんて、どうしてそんな」

静かに涙はあふれていく、もう今日は泣くのは4度目なのに涙は尽きない。
こんなに泣いてしまう自分は泣き虫の弱虫、けれど父の想いを受けとめたくて周太は、壊された本を抱きしめた。
きっと祖父が大切にしていた本、そして父が壊してしまった「ページの欠け落ちた」古い本。
この本に遺された祖父と父の想いは、どうしたら見つめられる?

『Le Fantome de l'Opera』

まるで空木の枝のように、芯が抜かれたフランスの本。
この欠け落ちたページの空洞には、どんな理由と秘密が隠されている?
この空洞を作りだした父の真実と姿は、想いは、どうして隠されなくてはいけない?

「おとうさん、おれは探すよ?…おとうさんが苦しいことを一緒に苦しみたいよ、一緒に泣きたいんだ、独りになんかさせない。
おとうさんを独りぼっちのまま死なせたの、ほんとに哀しくて苦しいよ?…だから、お願いします。お父さんの素顔を見せて下さい…」

願いと一緒に笑いかけた頬を、涙が伝っていく。
そのとき階下で扉が開く音がして、周太は涙を拭った。

「お父さん、聴いてくれてありがとう…俺、コーヒー淹れてくるね?…お母さんと英二、待たせちゃうから、行くね?」

涙を納めながら微笑んで、周太は立ちあがった。
もう一度だけ壊れた本を抱きしめて、書架へと戻し入れる。
そのまま書斎の扉を開いて廊下に出ると、そっと扉を閉じて洗面台へと向かった。





(to be continued)

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soliloquy 風待月act.3―another,side story「陽はまた昇る」

2012-08-24 04:12:10 | soliloquy 陽はまた昇る
恵みの木



soliloquy 風待月act.3―another,side story「陽はまた昇る」

まるい実は、あまやかな香に季節を知らす。

この香は春の花とよく似て、春よりも瑞々しい。
あまく爽やかに風もそまる、懐かしい記憶がそっとふれていく。

この香は留めておくことが出来る、色んな方法で。
氷砂糖や蜂蜜と一緒に焼酎で漬けこむと、食前酒にも薬酒にもいい。
あまく砂糖で煮込んで、甘露煮にすれば茶席の菓子にも、デザートにも使える。
それから、これは手間がかかるけれど梅干しにしたら、何年でも保存が出来てしまう。

…ほんと良いよね、梅って…

ストレートな想いに、梢のまるい実たちへ微笑んでしまう。
この梅の実は、台所を守る立場からも好ましいから。
いつも菓子にも料理にも使えて、長く重宝する。

そして梅の花は雪にも咲いて、春告げる。
奥多摩の梅も美しかった、この庭でも春に香って茶席にも季節を告げてくれた。

こんなふう梅は、春と夏と2度の季節に恵みをくれる。
どちらの梅の季も、あまやかな香に包まれ愛おしい。




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