萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

第52話 露花act.3―another,side story「陽はまた昇る」

2012-08-10 23:25:51 | 陽はまた昇るanother,side story
空ふる雫よ、どうか教えて



第52話 露花act.3―another,side story「陽はまた昇る」

「先生、本のページをわざと抜きとるのは、どういう気持ちだと思いますか?」

周太の問いかけに、足音が2つ重なって歩いていく。
足音が廊下に響く向こう、放課後の喧騒が聞えてくる。
どこか遠いざわめきと灰色の空映る窓を背景に、吉村医師は穏やかに微笑んだ。

「本のページをわざと抜きとる、それはどういった事例ですか?」
「英二が事例研究の授業で話してくれました、青梅署管轄の扼殺事件です。先生が検案を担当されたと伺いました、」

率直に尋ねて周太は医師へと笑いかけた。
受けとめる切長い目も静かに笑んで、落着いた声が答えてくれた。

「はい、私が担当しました。あの本について、私は医師の立場でしか見解を申し上げられませんが、それでも宜しいですか?」
「もちろんです、先生のお考えを聴かせてください、」

話してくれるだろうか?
そう見た先で吉村医師は記憶をたどるよう目を細め、まず遺体の検分を述べた。

「人間は脳への血流が止まると3秒以内に意識がなくなります、これが自死で成功した場合に定型的縊死と呼ばれる状態になります。
この定型的縊死では、頸の4本の動脈が一瞬で絞められる事で脳への血流が即時停止され、意識もすぐに消えて表情も安らかです。
ですが扼殺の場合は、睡眠薬などで意識を失っているケースで無ければ被害者が抵抗するために、この動脈を絞める圧力がずれます。
このために意識が一瞬では消えず、苦悶の表情が残ります。けれど、あのご遺体はとても安らかなお顔で、抵抗の痕跡が無かったのです」

このことは英二が事例研究の時に話してくれた。
あのときの記憶と一緒に頷いた周太に、吉村医師はすこし微笑んで続けてくれた。

「まるで定型的縊死に見える扼殺遺体、このケースと似ているのは自殺幇助のご遺体です。ご本人が死を望むから当然抵抗もしない、
だから自死のように見えるのです。こうした状態だと行政見分では自死と判定されることも多いのです、遺書も自殺だと書きますから」

ほっと息を吐いて医師は周太に微笑んでくれる、その笑顔は温かで眼差しが深く優しい。
この眼差しは多くの生と死を見つめてきたのだろうな、そんな想いの真中で吉村医師は口を開いた。

「あの本は『春琴抄』という恋愛小説でした。男性が女性に尽くして、最期は自分の視力まで捧げてしまう。そんなストーリーです。
ページの抜き方は丁寧でね、本の中身と表紙を取り付けてある喉布から、背に糊付けされている『のど』を綺麗に切り外してありました。
残されたページは冒頭とラストの部分だけ、これが本の状態でした。そして死因は頸部を絞める扼殺です、それも自死と間違うような、」

喉首を絞め上げる扼殺と「のど」を落とされた小説。
この言葉の連想に周太の鼓動が一拍、心を敲いて余韻を残す。
この連想から医師は何を推測したのだろう?想いと見つめる先で吉村医師は寂しげに微笑んだ。

「不思議でしょう?『のど』を切り落とされた本と、自死のように扼殺されたご遺体。喉と首、これでは符号のようですよね?
ですから私には、ご本人が殺されることを望んだと想えてしまいました。加害者が自殺幇助をするよう仕向けたのではないかとね、」

『加害者に自殺幇助をするよう仕向けた』

ごとん、心に何かが墜ちた。
墜ちた衝撃に、2つの言葉が記憶から目を覚ます。

“あの警察官はね、本当は俺を先に撃てたんです、けれど撃たなかった…怯えていた俺は、そのまま撃ってしまった”
“あの本ってページがごっそり抜けていただろ?…脱け出したくて切り落としたのか…未練があるから切り落とした”

秋に聴いた、14年前の事件への証言。父を殺害したラーメン屋の主人が語った、父が撃たれる瞬間の光景。
そして先月に聴いたばかりの、「ページが欠けた本」に対する藤岡の見解。
この2つが指し示していること、そして吉村医師の見解。

この3つが示すことは何だろう?
書斎に遺された『Le Fantome de l'Opera』の欠落、そこに示される父の想いは、何?

父は、なぜ、撃たれた?



曇空の駐車場では光一と英二が先に待っていた。
あわい陽射しのなかミニパトカーに凭れた長身は、同じような背格好で長い影を落としている。
黒髪とダークブラウン、雪白と白皙の肌、それぞれに端正な顔立をした個性の異なる好一対。
ふたり楽しげに話している横顔は寛いでいる、そんな様子が嬉しくて周太は微笑んだ。

…良かった、仲直り出来たんだね、

ふたりとも直情的な面がある、そのままに思うことを言い合えたのだろう。
これで大丈夫だろうな?そう安堵すると同時に「遠い」と想う心が透けていく。
この遠さは今、抱いてしまった父の想いへの推測。この傷みが2人からの距離を生んでしまう。
そんな想い見つめて歩み寄っていく先、底抜けに明るい目が笑って、光一は吉村医師に提案してくれた。

「先生、5分待って頂けますか?周太とも少し話したいんですけどね、」
「はい、どうぞ?私も宮田くんと話したいですし、」

気さくに頷いて吉村医師は、英二に笑いかけてくれる。
ふたり話し始めたところを背にすると、光一は周太の許に来てくれた。

「周太、あの木蔭のトコ行こう?」

誘われるまま少し離れた植込の翳に立つと、梢の向こうは雲が張り出していく。
風は湿り気を含んで冷ややかに吹く、やはり今夜も雨が降るのだろうか?
そう見上げた隣から、透明なテノールが微笑んだ。

「あいつにファイルのこと謝れたよ、それから、あいつを泣かせてきた、」
「ん、ちゃんと話せたなら良かったね…英二を泣かせたの?」

光一が英二を泣かせた、その意味に周太は首を傾げた。
どういう理由で泣いたのかな?そう見つめた周太に細い目は温かに笑んだ。

「ちょっと涙が溜まっちゃってるんだよね、あいつ。理由は、周太も解かってるだろ?」
「ん…」

頷いて周太はちいさく微笑んだ。
やっぱり光一には英二の今が解かるだろう、だからこそ光一に傍にいてほしいと願っている。
どうか今日の様に英二の涙を受けとめていてほしい、この願いに見上げた先で光一は訊いてくれた。

「周太、君は怖くないの?このまま進んだら例の部署に行くんだろ?…あいつと離れることになるよね、嫌じゃないの?」

例の部署、離れること、怖い

この単語を並べられたら、もう確信してしまう。そして「遠い」とまた心が呟いてしまう。
けれど想いを瞳深くに沈めこみ微笑んで、周太は正直に答えた。

「ん、ほんとは怖いし、嫌だよ?でも決めたんだ、逃げていたら終わらないから、」

逃げても何も終わらない。
それは父への贖罪、あの日の自分への後悔、それから春の夜に見た父の冷たいデスマスクと手錠の感触。
あの瞬間たちは今も心の映像になって、ともすれば廻りだす。このリンクは目を逸らせても終わらない。

「だね、終わらない。君の言う通りだよね、周太、」

透明な目が周太を見つめて、ゆっくり頷くよう瞬いた。
哀しげで、けれど勁い眼差しが山っ子の目をきらめかす。ほら、そんな目をするなら解ってしまうのに?
もう知っているのだと、自分より先に「父の真実」を光一は気づいたのだと解ってしまう。
そして想う、どれだけ自分はこの美しい幼馴染の心を、哀しませてきたのだろう?
きっと光一は気づかれないよう周太を護って、ずっと英二を支えて来てくれた。

…光一?いつも、知らないうちに支えてくれるね?俺のこと、護ってくれてるね

再会の約束を信じて14年の時を待ち続けてくれた光一。
その間も周太の無事を祈ってくれていた、そして再会した今は気付けば護られている。
この、大らかに優しく強い幼馴染にどうやって報いたら良い?どうしたら少しでも幸せに出来る?
この願いに微笑んで、周太は大好きな初恋相手に笑いかけた。

「でもね、光一?俺は頑固でワガママだからね、決めたことは必ず終わらせるんだ、だから心配しないで?」
「…周太?」

名前呼んで、透明な目がゆらぐ。
光一には周太の「変化」を読み取られただろうか?
この今に起きていく「変化」を悟られた、そんな雰囲気が透明な目に見える。けれど明るく笑って周太は促した。

「光一、先生が待ってるよ?今度は7月のお盆の時に、家に来てくれるんだよね?」

言葉に透明な目がひとつ瞬いて、温かに笑んでくれる。
そして透明なテノールが優しいトーンで言ってくれた。

「うん、行かせて貰うよ。おふくろさんに、よろしく伝えてね、」
「ん、伝えておくね?…日曜は少し、会えるよね?」
「だね、夕方には戻んなきゃないけどさ、周太の顔を見てから帰りたいね、」

話しながらミニパトカーの方へ一緒に歩いていく。
隣から笑ってくれる笑顔は無垢のまま明るくて、子供の頃と変わらずに温かい。
けれど、あの頃と今とでは、なんて笑顔の距離が遠く感ずるのだろう?

…でも、後悔しない。お父さんの真実を知ってどうなっても、後悔なんてしない

きっと、父の死の真実を、自分は知りかけている。
この真実が今、隣歩く人との距離を隔て始めていく、そして歩く先に待つ人の笑顔とも。

「周太、」

綺麗な低い声が名前を呼んで、笑いかけてくれる。
笑いかける綺麗な笑顔は変わらずに美しくて、けれど遠い。
たった今、気付き始めた1つの真実が、ほら、こんなにも大きな距離になっていく。

「吉村先生、また、」
「はい、おふたりとも体に気を付けて。またコーヒー淹れてくださいね?」
「コーヒー、俺にもよろしくね?じゃ、またね、」

ほら、3人の会話は目の前のこと。
それなのに遠い世界のよう聴こえてしまう、それでも自分は微笑んでいる。
ほら微笑んで見送って、手を振って、いつもの通りに振る舞えている。
こんなふうに今も、体と心の水面は凪いでいる。

「周太、部屋に戻ってから、トレーニングルーム行く?」

綺麗な笑顔で笑いかけて、この後も一緒にいようと提案してくれる。
こんなふう言ってくれるのは嬉しい、けれど周太は婚約者に小さな嘘を吐いた。

「ん、行く。でも俺、忘れ物しちゃったんだ。すぐ追いかけるから、先に行っていて?」
「じゃあ俺も一緒に行くよ、周太」

やっぱり英二は、一緒に来ようとしてくれる。
きっとそうだと想っていた、それでも周太は小さく首を振って微笑んだ。

「図書室で調べものしたいんだ、1人で集中すると早く終わるから、先にトレーニングに行ってて?ランニングマシーン使いたいな?」

おねだりをしたら、きっと英二は断れない。
そう見上げて笑いかけた先で婚約者は、優しい笑顔で頷いてくれた。

「解かった、先に走ってるな?鞄、持って帰っておくよ。その方が図書室で身軽だろ?」
「ん、ありがとう…じゃあ、」

素直に鞄を渡して笑い合って別れると、周太は図書室の方へと歩き始めた。
廊下の角を曲がりしな振向くと、ひろやかな背中が逆方向へと曲がり消えていく。

…ごめんね、英二。うそついて…

そっと微笑んで、周太は屋上への階段を昇り始めた。
ゆっくり昇って行く階段は、薄い陽射しが窓から天使の梯子をかけている。
晴れていたら明るい筈の空間は今、すこし薄暗いのはガラズ窓透かす曇天の所為だろう。
静かに昇り終えた頂上で扉を押し開く、ふっと湿った風が頬撫でて、額かかる髪を吹き払った。

「…ん、雨の匂いがするね?」

ひとりごと微笑んで出た屋上は、誰もいない。
ただモノトーンの空がひろやかに腕を広げるよう、そこに周太を迎えてくれる。
歩いていく革靴のソールがコンクリート響く音も、吹きぬけていく風に攫われて、喧噪も遠い。

ほら、世界はもう、どこか自分と隔てるよう遠い。
ついさっき気がつき始めた真実が、もう、自分を孤独へと惹きこみ始めた。

いつか、こんな瞬間が訪れることを、ずっと覚悟していた。
だから、この瞬間の傷を減らすために、誰も近づけないように孤独の壁を作った13年だった。
誰かの隣の温もりを知ったなら、本当に孤独になった瞬間が尚更辛いから、そして隣の誰かも苦しめるから。
だから孤独の壁を作ったのに、それなのに自分は孤独を崩して英二も、光一までも、隣に置いてしまった。
そして、やっぱり今、ふたりを苦しめ始めている。

「…ごめんね、」

言葉と一緒に、涙、ひとつ零れ落ちる。
コンクリートに雫こぼれて、涙の跡が記される。
歩くごと涙こぼれてコンクリートに墜ちて、涙の軌跡が屋上へと描かれていく。
そうして涙の軌跡の涯に隠れた場所へと辿り着いて、鉄柵に腕組むと凭れこんだ。

「…ごめんね…えいじ、…こういち、」

呼んだ名前に涙がこぼれてしまう。
滲んでいく視界はグレーの雲が、ゆっくり流れて形を変えていく。
止まらない雲の流れ、それと一緒に透明なテノールが、ゆっくりとリフレインする。

―…ちょっと涙が溜まっちゃってるんだよね、あいつ。理由は、周太も解かってるだろ?
  君は怖くないの?このまま進んだら例の部署に行くんだろ?あいつと離れることになる

本当は怖い、死ぬかもしれないから。
この死は肉体的なものだけでも怖い、それ以上に精神的な死が本当は怖い。
たった今、気がついてしまったかもしれない「父の死の真実」が、自分自身の現実になる可能性が怖い。
そして、この可能性をきっと英二も光一も知っている、だから英二は「涙が溜まっている」程に哀しんでいる。

この「知っている」可能性は、英二の事例研究での態度から解ってしまう。
英二は扼殺事件の物証『春琴抄』のことを「ページが抜け落ちた」本であるとは言わなかった。
その理由は『Le Fantome de l'Opera』の「ページが抜け落ちた」理由を周太が知ることを怖がっているから。
父の死と『Le Fantome de l'Opera』の落丁は関わりがあるから、だから怖がって周太に言わない。
そして別離の恐怖に怯えて、今、英二は周太との心中を望む瞬間がある。

…英二は涙が溜まっちゃってるって、言ったね、光一?…聴いたんだね、英二が俺を殺そうとしたことも

そんなにも英二が怯え、哀しみに沈む理由がもう今なら解る。
どうして英二が「別離」を、周太の異動を恐れているのか解ってしまう。
もう英二は「父は、なぜ、撃たれた?」のかを知っている、だから周太も同じに結末を迎える可能性を恐れて、泣いている。

『怖くないの?このまま進んだら例の部署に行くんだろ?あいつと離れることになる』

光一が言った「離れる」は可能性の1つの道だと今は解る。
父は強く優しい男だった、それでも「撃たれた」という結果がある、そして家族と離れていった。
あの父ですら「離れる」道を選んでしまった、だから弱虫の自分がその選択をしない自信なんて無い。

…きっと英二も光一も、前から知ってるね?…お父さんが「撃たれた」理由と、意味を

ふたりはいつから、知っているのだろう?どうやって知ったのだろう?
なぜ息子の自分でも辿り着いていない「父が撃たれた」その真実を先に知ったのだろう?
あの紺青色のページが欠けた本だけで、ふたりは先に真実に辿り着いたと言うのだろうか?

“あの警察官はね、本当は俺を先に撃てたんです、けれど撃たなかった…怯えていた俺は、そのまま撃ってしまった”
“あの本ってページがごっそり抜けていただろ?…脱け出したくて切り落としたのか”
“ご本人が殺されることを望んだと想えてしまいました。加害者が自殺幇助をするよう仕向けたのではないかと”

加害者は言った「父は撃たなかった、けれど撃ってしまった」と。
警察官は言った「ページを抜いたのは、ページに記された世界から脱出したくて切り落としたのだ」と。
警察医は言った「本人は死を望み、加害者が自殺幇助するよう仕向けた」と。

この3つの証言から、父の死の真実は、どんな答えが導き出せる?

「…お、とうさん…っ、」

愛する者の名がこぼれだす、涙あふれおちる。
その涙にひとつぶ天から雫が降って、雨音がグレーの雲から降り注いだ。

「おとうさんっ、どうし、て…っ、…自殺な、んて…したのっ!」


父の死は、自殺。


父の死は「殉職」という名の自殺だった。
犯人に狙撃され死ぬことを選んだ、不作為の自殺幇助による自死だった。

それが3つの証言から導かれる答え。
威嚇発砲もせず狙撃を避けなかった事実、ページが切り取られた本の遺品、そして自殺幇助の見解。
この2つの事実と1つの見解が、「殉職」に秘められた父の真実と想いを示して、心に刺さる。

「どうしてっ…しんじゃったの…ぉ!…っ、なんでしななくちゃいけなかったの?…っ」

雨音に、叫ぶ声が呑まれていく。
髪を肩を打つ雨に頬の涙も融けこんで、周太は泣いた。

「ど、して…おとうさんっ…避けなかったの?…どうして撃たなかったの、いかく、はっぽうだけでも…うってたら、」

たった一発の銃弾だった、それを威嚇でも撃っていたなら、きっと父は死ななかった。
たった一発の銃弾だったのに父は撃たれた、避けることもせずに、ただ被弾して死んだ。
どうして父は撃たずに、ただ撃たれて死んでしまったのだろう?

「どうして?…どうして、本のページを切ったの?ね…っ、ぅ…あの本になんの意味があるの?なぜ捨てなかったの?」

紺青色の『Le Fantome de l'Opera』の欠けたページに記されるのは『Fantome』が暗躍する姿。
もしも「ページに記された世界から脱出したくて切り落とした」のだとしたら、父が抜け出したい世界は『Fantome』のこと。
オペラ座に棲む『Fantome』の世界から脱出する、その意味は何なのだろう?
なぜ父は本を手離すのではなく、ページを切り取っても手許に置いたのだろう?

あの本と同じように「ページが欠けた本」を持って死んだ女性は「加害者が自殺幇助するよう仕向けた」と言う。
それなら父も「本人は死を望み、加害者が自殺幇助するよう仕向けた」のだろうか?

「おとうさんっ、おれたちのことおいていっちゃったの?…ねえ、そ、うなの?…どうしてっ、」

どうして父は、自分と母を置いて、逝ってしまったのだろう?

いつも家での父は穏やかに微笑んで、幸せで自分を包んでくれた。
いつも母を見つめる父は綺麗な笑顔で、嬉しそうに母の笑顔を見つめていた。
だから信じられる、父は家族を愛していたのだと、幸せな家だと想っていたと信じられる。

それなのに、なぜ、父は死んだのだろう?

「おとうさんっ、どうして!…どうして俺を、おかあさんを、選んでくれなかったのっ、どうして死ぬことを選んだの?…ぉ、っ」

叫ぶ声が、ふる雨を遡るようモノトーンの空へ吸いこまれる。
どうして?ただ父への疑問が心から叫びあげて、声になって、昏い雨雲へと呑まれていく。

「答えて!おとうさんっ、おとうさんっ…俺のこと、愛してるなら答えてよっ…さいごになまえよんだ、っ…んなら…っ、」

父の最期の言葉は「周太」だった。
だから信じられる、父は最期の一瞬まで自分を愛してくれていた、想ってくれていた。
それなのに、なぜ、父は死を選んでしまったのだろう?なぜ父は愛している者との永遠の別離を選んだ?

愛する者との幸せを選ばずに、父が選んだものは何なのだろう?

「おとうさんっ、おとうさんが死んだ理由は、なんなのっ…俺とお母さんより選んだ、りゆうを教えてよ…答えてよっ…」

この声をどうしたら、父に届けられるのだろう?
この想いをどうしたら父に、解ってもらえるの?

「…ぅっ、と、うさ、ん…ぅあ…あああああっ、」

嗚咽が慟哭になって喉を突き上げる。
ただ泣き叫ぶ声だけになって、屋上から仰ぐモノトーンの空から雨が顔にふる。
ふる雫は瞳から涙を拭って頬伝い、顎から首から滴りおちてコンクリートを打ちつける。
もう、コンクリート流れる雨に涙の軌跡も消されてしまった、慟哭の聲も雨に抱きとめられて誰にも聴こえない。

「…あああっ…ぅあっ…ぅっ…あああああっ……」

泣いて、泣いて、雨に打たれて体ごと冷えていく。
冷たい雨に打たれる心には、涙の熱と一緒に冷静な思考が廻りだす。
そして気づいても蓋をしていた事実が、ゆっくりと目を覚まして自分を見つめだす。
父が死を選んだ理由、父が「世界から脱出したくて切り落とした」その世界は、どんな真実なのか?

「…お、とうさん?狙撃手だったんでしょ…人を、殺したんだよね?…そう、でしょ…」

ずっと考えていた父の真実が、声になる。

父が警察組織で何をしていたのか?
その答えになる可能性を幾つか調べてきた、父の適性を考えながら。
その最有力候補になる部署へと配属を望んで、自分も努力を積み重ねてきた。

特殊急襲部隊 “Special Assault Team” 通称SAT

そこには狙撃班というチームがある。
そこに父は所属していただろう、だって父は射撃のオリンピック選手だった。
日本一の射撃の名手が警察に所属したのなら、狙撃手に指名されない筈がない。

けれど父が「狙撃」=「殺人」を犯したのかは、未確認だった。
たとえ狙撃班に所属していても、当番に当らなければ狙撃の任務には就かない。
そして現実には狙撃をする機会など多くは無いから、在任中に狙撃を行うとは限らない。

でも、父は自殺した。
だから解ってしまう、きっと父は「狙撃」を、人を殺してしまった。

父は情熱を穏やかな空気で包んだような人、正義感が強くて、そして優しさも大きい。
いつも目の前の人の幸せを祈る、そんな父だった、その想いと誇りに警察官としても生きていた。
そういう父だからこそ、自分を撃った犯人さえも救われてほしいと、最期の望みに託して死んだ。

そんな父が、任務であっても人を殺すことを、耐えられただろうか?

…耐えられるわけがない、だから死んだんだ、お父さんは…

SAT狙撃手は合法的殺人を任務とする。
それは裁かれることのない殺人罪を犯すと言うこと。
この「裁かれない罪」を、正義感の強い父が自身に赦すことなど出来る訳が無い。

「…おとうさん…自分のこと、自分で、死刑にした…そうでしょ?じぶんで、じぶんを、裁いたんでしょ…」

だから父は、自分と母を置いて、逝ってしまった。
だから想ってしまう、自分の育てられた意味と父の想いを考えてしまう。
もし父の行いが、任務が罪だったというのなら?この定義への2つの疑問が湧きあがる。

父の罪を糧に育てられた自分は、罪にならないのか?
死を以て裁くほど任務を忌んだ父、なのに何故、父はSATに所属していたのだろう?

この2つの疑問に、自分は孤独になっていく。
もし自分が罪に育てられたというのなら、あの美しい人の婚約者でいられるの?
いつも命の救助に駆けていく人には罪など似合わない、それなのに自分が婚約者でいいの?
もし父が望まぬ任務に就かされていたのなら、その理由を知ることは危険に過ぎる。だから自分以外に背負わせられない。
だから想う、あの美しい人に自分を背負わすことを、自分は肯うことが出来るというの?

…やっぱり、お父さんを知ることは孤独になる道、かもしれない…

それでも止めることは出来ない、父の真実を知りたい。
死で贖うほど嫌った任務に父を唯ひとり、孤独に死なせてしまった。それは息子の自分にとって罪だから。
だから自分の罪を償うために、父の孤独を抱きとめるために、父の真実を知りたい。

「なぜ?…なぜ、おとうさんは嫌なのに、そこにいたの…どうして?」

『Le Fantome de l'Opera』

欠けたページに記されるのは『Fantome』が暗躍する姿。
ページに記された世界から脱出したくて切り落としたのなら、父が抜け出したい世界は『Fantome』のこと。
そして父が自らの死によって脱け出した世界は“Special Assault Team”、合法殺人の狙撃手であること。

それなら『Fantome』の意味は、狙撃手?
それとも、もっと深い意味が隠されているのだろうか?

「…ね、おとうさん…『Fantome』って、なに…?」

疑問こぼれ落ちる、その唇が凍え始めている。
雨うたれる肩も腕も、冷えて雫の感触が消え始めていく。
背すじを伝う雫が冷たい、もう鉄柵を掴んだ掌も冷えて、頬ふれる髪も冷たく重い。

寒い、

腕が脚が震えて、ゆっくりと体が鉄柵から滑り落ちていく。
ずるり、背中を掴まれるよう沈んでいく体が、コンクリートへと崩れてしまう。
ふる雨に滑る鉄柵を掴んだままに掌も降りていく、掌に凭れるよう体は沈んで視界が霞んでいく。

…これって、低体温症、かな…

英二の贈ってくれた救急法のファイルが、懐かしい。
あのページに記されていた「低体温症」は、コアの体温が35度以下になると発症すると書いてあった。
これが32度になれば中枢神経の抑制が発症し、判断力の低下と意識障害、そして震えが止まる。
それから、コアが28度を下回ればもう、意識が消える。

…まだ、ふるえてるから…32度よりはあるね?

まだ動けるはず、けれど体はコンクリートの水たまりへと横倒れに崩れていく。
冷たい水のなかへ掌が墜ちて、飛沫と水音が頬ふれて零れて墜ちる。
そして倒れこんだままの全身に、空ふる雫が降りそそいだ。

「…おとうさん、」

微かな声に呼んで、小さく周太は微笑んだ。







(to be continued)

blogramランキング参加中!

人気ブログランキングへ

にほんブログ村 小説ブログへにほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

one scene 某日、学校にてact.8 驟雨―side story「陽はまた昇る」

2012-08-10 04:35:07 | 陽はまた昇るside story
本音を言ったら、



one scene 某日、学校にてact.8 驟雨―side story「陽はまた昇る」

雨後の空気は、水の香が懐かしい。

清澄な風とゆれる街路樹は、梢に陽射しが翻る。
水たまり避けて歩いていく道、並んで歩く隣の髪にも陽光きらめいていく。
ふわり風に髪払われて聡明な額が露になる、眩しそうに睫伏せる翳が綺麗で。
こんなふうに「きれいだ」と並んで歩いた1年前は、切なかった。

きれいだと、隣を想う。
そのたびに触れられない切なさが痛くて、哀しくて。
あの瞬間の傷みを知っている、だから尚更に今も瞬間が愛しい。
この愛しさに微笑んで、英二は隣を歩く人に笑いかけた。

「周太、ちょっと寄り道していい?」
「ん、いいよ?」

黒目がちの瞳が見上げて笑ってくれる。
この笑顔をずっと見ていたい、そしてもっと笑ってほしい。
あのときと変わらない「笑顔を見たい」この願いに笑って英二は、いつもの店の扉を開いた。

「こんにちは、お久しぶりですね、」

馴染みの店員が迎えてくれる。
ラーメン屋でも久しぶりだと言われたけれど、確かに新宿を歩くことは暫くなかった。
このところ忙しかった時間を想いながら英二は微笑んだ。

「こんにちは、夏服もう入ってますよね、」
「はい。ごゆっくり、ご覧くださいね、」

笑顔で彼女はカウンターで服を畳みながら見送ってくれた。
いつも英二は自分で服を選ぶから、そのことを彼女は知って構わないでいてくれる。
これが英二としては嬉しい、彼女に感謝しながら英二は2階へと上がった。
明るいコーナーを見まわすと涼しげな服が並んでいる、その中から何点か目に着いたものを手早く英二は選んだ。

「ほら、周太。これどうかな?着てみて、」

試着室の壁に服を掛けながら振向くと、困ったよう黒目がちの瞳が見つめてくれる。
どうしたのかなと笑いかけた英二に、遠慮がちに周太は口を開いた。

「あの、英二、それ着てみるけど…でも、今日は俺、自分で買うね?」

よく英二は周太の服を買う、こんな服を着てほしいと思うから。
そのことを周太は申し訳ない様に思ってくれるけれど、何も遠慮してほしくない。
だから今も正直に英二は婚約者へ笑いかけた。

「ダメだよ、周太。周太の服は俺がプレゼントしたいんだ、言うこと聴いて?」
「…でも、いつも悪いから…」

困ったよう言って見つめてくれる貌が可愛い。
こんな貌するから余計に服を買いたくなる、笑って英二はすこし屈んで恋人を覗きこんだ。

「俺が選んで贈ったものを着て欲しいんだ。そうしたら周太、いつも俺のこと忘れられないだろ?そうやって独り占めしたいだけ」

独り占めしたい、これが本音。
だから言うこと聴いてほしいな?そう見つめた周太の頬がゆるやかに赤くなっていく。
あと一押しで言うこと聴いてくれるかな、英二はすこし悪戯な気持と一緒に笑いかけた。

「それに自分で贈った服を脱がすのって、俺、嬉しいんだけど?」

言葉に、さっと周太は額まで真赤になった。
この赤くなる所が可愛くて好きで、つい恥ずかしがらせたくなる。
嬉しくて見つめていると周太は少し唇噛んで、すぐ口を開くと素っ気ない言葉を英二に投げつけた。

「っ、えいじのばかえっちへんたいっどうしてすぐそういうこというの?」
「えっちで変態だからだろ?周太限定でね、」

即答して笑いかけると、黒目がちの瞳が大きくなった。
困ったよう眉がしかめられて、大きくなった瞳が睨むよう見上げてくる。
けれど、くるり踵返すと周太は試着室に入って、ざっと勢いよくカーテンを引いてしまった。

―怒らせちゃったかな?

やりすぎたかな?そんな反省と一緒に英二はソファに腰掛けた。
いま引かれたカーテン一枚に隔てられている、こういうシーンをどこかで読んだ?
そんな考え廻らして、記憶の抽斗から出た答えに英二は微笑んだ。

「…そっか、『天の岩戸』だな?」

太陽の女神が怒って洞窟に隠れてしまう、そんなシーンの話。
あのとき残された者たちは困って、女神が出てくるよう宴会をして気を惹いた。
太陽が現われなければ、万物は枯れてしまうから。そんなストーリーに想い重ねて英二は微笑んだ。

―俺にとったら、太陽の女神は周太だな?

周太が笑ってくれないと哀しい。
周太がいないと心が空っぽになって、虚しさが心覆ってしまう。
周太に出逢う前の自分は「生きている」ことにすら迷っていた、けれど今は夢までも抱いている。
そんな自分にとって「周太」は歓びで、自分の全てで、想うだけで明るく温かい。
こんな自分はもう「周太無し」だと枯れてしまう、太陽を浴びない花の様に。

だから失うことが怖くて。
周太にとっても自分を必要な存在にしたくて、すこしも自分を忘れてほしくない。
だから今も服を買いたい、着ているとき想い出してくれるように、そのたび「好き」だと想ってほしくて。
そして今みたいに困らせたくなる、構ってほしくて見つめてほしくて。

周太は今、怒ってる?
それとも困ってるだけかな、また俺に困らされてる?
俺に怒って困って、けれど俺が選んだ服に着替えながら、俺のことばかり考えてくれている?

こんなふう自分のことで頭を廻らせていて欲しい、他の誰かを考える暇がないくらいに。
そんな想いと見つめて待っているカーテンの向こう側、静かに気配が動いている。
そろそろ着替え終るかな?そんな期待と見つめたカーテンがゆっくり開いてくれた。

「…着たけど、」

ぼそっと言った顔が、恥ずかしげに頬赤い。
あわいブルーの半袖パーカーに明るいカーキのカーゴパンツ、その裾がすこし長い。
やっぱり着替えてくれたのが嬉しい、嬉しくて笑いかけながら英二は恋人の足元に膝まづいた。

「ちょっと裾、短めに折ると可愛いよ?」

言いながら足首が出るまで裾を折り上げる。
この辺と思うところへ折ると、立ち上がって眺めた。そのストレートな感想が勝手に口から微笑んだ。

「…かわいい、」

パンツの裾から出ている足首が、なんだかすごく可愛いんですけど?

こういう「裾が短い」格好は考えたら初めて見る、周太は足が綺麗だから出てると可愛いんだ?
今まで気付かなかった、つい見惚れてしまう、こんな予想外かなり嬉しいどうしよう?
やっぱり短パン買うべき?膝小僧とか可愛いだろな、でもそれだと露骨すぎる?
っていうか他のヤツに見せすぎるのも嫌だな、どうしよう?

「英二?どうしたの?」

声に我に返ると、黒目がちの瞳が不思議そうに見つめてくれる。
ほら、こんな貌も可愛いのに、こんな格好でされるとちょっと困りそう?
こんな自分に笑って英二は、クロップドパンツを選んで試着室に上がりこんだ。

「周太、こっちも履いてみて?」
「ん、…あの、英二?」

クロップドパンツを受けとりながら周太が首を傾げこんだ。
なんか問題があるのかな?そんなふう笑いかけて英二は一緒に首傾げてみせた。
そんな英二を見つめて周太は困ったよう訊いてくれた。

「どうして英二も試着室に入ってるの?」
「ダメ?」

ダメに決まってるんだけどね?
でも、もしかしたら目の前で着替えてくれるかな、なんて期待したんだけどね?
そんな内心と笑って英二は、素直に試着室から降りるとカーテンを閉めた。

―きっと周太、今、真赤だろうな?

いまの英二の行動に、きっと周太は困っている。
困らせる位は解かってやったことだし、困っている様子を見てみたかった。
本当はそのままカーテンの内側に居たい、こんな少しの時間すら離れていたくない、ずっと傍で見つめていたい。
こんな自分はワガママで駄々っ子みたいだ?けれど今は駄々っ子でも赦してほしい、だって今しかないかもしれない。
いつか離れる時間が訪れる、その向こう側に再び共に過ごせる時間があるとしても、別離の時間は怖い。
だから「今」一緒にいられる時間であるならば、少しでも一緒に過ごしていたい。

本当は「今」ちょっとの間も離れていたくない、少しでも多く君の時間を独り占めしたいから。
本当はずっと自分の体で君を抱きしめていたい、けれど出来ないから、代わりに自分が贈った服で君の素肌を包みたい。
そして許される時には服を脱がせて、自分の素肌で君を包んでしまいたい。

本当は自分の懐から君を出していたくない、誰の視線にすら触れさない、独り占めに体温を感じていたい。
こんなの酷いワガママ勝手で君の自由を奪うと知っている、それなのに閉じ込めて離したくない、それが本音。
これが今の本音、とてもワガママで自分勝手だけれど、本音だから仕方ない。
もしこの本音を言ったら君は、なんて答えてくれるだろう?

こんなワガママでも赦してくれる?





blogramランキング参加中!

人気ブログランキングへ

にほんブログ村 小説ブログへにほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする