萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

第52話 露花act.1―another,side story「陽はまた昇る」

2012-08-07 22:51:17 | 陽はまた昇るanother,side story
※4/5あたり念のためR18(露骨な表現はありません)

空ふる慈雨、花よ咲いて



第52話 露花act.1―another,side story「陽はまた昇る」

これは、雨の香?

どこか懐かしい記憶の香が涼やかに頬ふれて、周太は目を覚ました。
ゆっくり披いた視界には、白いシーツと壁が前髪を透かして映りこむ。
そこに映るはずの笑顔が無い、ちいさく瞳を瞠って周太は辺りを見回した。

「…えいじ?」

名前を呼んで見回す部屋に、隣で眠っていた人はいない。
誰もいない部屋は微かな時計の音と、窓を敲く雨だけが響いていく。
けれど、カーテンが開かれている。ガラス窓も少し開かれて、そこから雨の香は吹きこんでいた。
そっと、透明に吹きこんでくる香へ惹かれるまま、周太は起きあがった。

…英二、ベランダにいるのかな?

心つぶやいて床に降りながら窓を周太は見つめた。
けれど、ガラス窓は水滴に濡らされ烟って、外が良く見えない。
それでもガラスの向こう側には、佇んでいる白い影が目に映りこんだ。

「…ん、いた、」

良かった、そう微笑んで周太は気がついた。
いま外は雨が降っている、それなのに英二はベランダに立っているのだろうか?
確かに雨に濡れるのは気持ちが良い、けれど本降りのなか英二はどの位の時間を立っているの?

「風邪ひいちゃう、」

ひとりごとに押されるようクロゼットからタオルを出す。
そしてベランダへの窓を開こうとして、周太は立ち止まってしまった。
綺麗だったから。

灰色の空を見上げる白皙の貌は、強い意志に凛とまばゆい。
ダークブラウンの髪は雨に煌めいて、掻き上げる白い指に雫をこぼす。
降りそそぐ雨を浴びた白いシャツは肌を透かして、しなやかな肢体に絡みつく。
シャツ透かして浮かびだす流線が見事で、逞しい体の美しさを風雨に惜しみなく晒して見せる。

…きれい、雨の花だね?

心こぼれる独り言に、3月の庭を想い出す。
春雨ふる庭で見た白澄椿の花、露ふくんで凛と空に咲く白い姿。
優雅なのに強靭な、美しい雪山にも似た姿が今、ベランダで夏の雨に咲いている。

高潔に咲く清雅の花ならば。
春弥生は白澄椿、今の風待月なら夏椿。

夏椿は沙羅とも呼ぶ、実家の庭では苔むす緑に白花をこぼし咲く。
この花は「沙羅双樹」の言葉でよく知られているだろう、有名な古典の冒頭文にも咲く花だから。

祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり
沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理を現す

こんなふうに沙羅の花は「理」現す花に語られる。
夢幻のよう美しい、盛と衰を廻らす勁い花として描かれる。

沙羅の花は一日で落花する、その儚さは死に墜ちる命と似ている。
けれど蕾はまた披く、一日の時を花は精一杯に輝いて、見る人の心を微笑ます。
そして花は落ちて、樹の足元で眠りながら土へ還り、水に運ばれ幹を昇って梢をまた繁らせていく。
そうして花は一年の星霜を廻らし、また盛りの瞬間を迎えて空仰ぐよう咲き誇る。

優雅な清楚な花の姿は嫋やかで、ひと時の幻のよう一日で墜ちていく。
けれど、花の命めぐらす樹は細やかな姿に剛健を秘め、強靭な生の力あふれて逞しい。
幻と現を共に備えた高潔な花木、そんな姿は強靭に撓やかな背中を想わせる。

なめらかな肌に絡む白いシャツは、慈雨に愛でられる花びらのよう。
真直ぐに佇む広やかな背中、逞しい肩に腕、その強靭な立姿は美しく勁い樹幹のようで。
北西の空仰ぐ白皙の横顔は意思が輝いて、炎天にも微笑む花と似て美しい。

なんて綺麗なんだろう?
ほんとうに綺麗で見惚れてしまう、ずっと見つめていたい。
けれど大切な体が冷え切ってしまう事が心配で、そっと周太は窓を開いた。

…ほんとにずぶ濡れ、だね

窓を開いた先、静かな大雨に英二は微笑んでいる。
露こぼす髪は白皙の額に頬に絡みつく、シャツも含んだ水に素肌を透かしてしまう。
こんなに濡れるまで外に立っているなんて、どうしたのだろう?驚いて周太は声をかけた。

「えいじ?どうしたの、ずぶぬれだよ?」

声に振向いてくれる、その貌は清々しい微笑が綺麗だった。
濡れた髪を掻き上げる白く長い指に、ダークブラウンが艶やかに絡まる雫が綺麗で。
こんなにずぶ濡れで髪も服も濡れ切っている、それなのに英二は綺麗だった。

…ほんとに雨の花みたい…あ、気恥ずかしくなりそう?

だって、あんまり綺麗すぎてしまう。
濡れたシャツ透かす肌が艶めかしくて、寧ろ素肌よりも気恥ずかしい。
困りながら驚きながら見つめている周太に、英二は綺麗に笑いかけてくれた。

「おはよう、周太。いつもの水被るやつ、今朝は空のシャワーにしただけだよ?」

“空のシャワー”

童話みたいな表現が、なんだか微笑ましくなってしまう。
こんなに綺麗な人なのに子供みたい?可笑しくて愛しくて周太は微笑だ。

「ん、雨に濡れるのも楽しいよね?…でも、風邪ひくといけないから、こっちに来て?拭いてあげるから、」
「周太が拭いてくれるの?嬉しいな、」

幸せそうに笑って英二は、部屋の中へと戻ってくれた。
静かに窓を閉めた長い指の手は、そのままカーテンもひいて外を遮ぎってしまう。
そして英二は水滴るシャツのボタンを外し始めた。

「周太、濡れた服だけど床に置いてもいい?」

綺麗な低い声が訊いて、長い指は次々ボタンを外していく。
その指を気にしながら周太は頷いた。

「洗濯かごに入れて?一緒に洗っちゃうから…」
「ありがとう、」

綺麗な微笑を見せて英二はシャツから肩を抜いた。
濡れた布が消えて肌が露になる、その白皙が艶やかに瑞々しい。

…きれい、

ほっと心裡ためいき零れて、見惚れてしまう。
雨に洗われた肌透かす血潮が、紅あわく咲くよう浮かびだす。
まるで薄紅の花ひらくような肌の、清らかな華やぎが視線ごと心惹いてしまう。
惹かれるまま見つめる想いの真中で、長い指はコットンパンツのボタンに指を掛けた。

「え、?」

したもぬいじゃうの?

意外な動きに意表つかれて、目が大きくなる。
けれど濡れている服は脱ぐのが当然だろう、そう考えても驚いた顔は直らない。
驚いた目のままで見つめる先、迷わずコットンパンツは降ろされて、長い脚は素肌を晒した。

「悪い、周太。タオル貸して?」

綺麗な低い声に言われて、周太は1つ瞬いた。
あらためた視界の真中で、しなやかな肢体が惜しみなく白皙の艶を晒す。
綺麗な艶に見惚れかけた時、ボクサーパンツだけの裸身がこちらを向いて、長い腕を伸ばすと周太の手からタオルを取った。

「周太?悪いんだけど、部屋から着替えを取って来てくれる?」

タオルを腰に巻きながら英二が笑いかけてくれる。
そんな仕草にも筋肉が動いていく様子が綺麗で、つい見惚れてしまう。
ただ見つめて立っている周太に、切長い目が瞳を覗きこんだ。

「どうした、周太?」
「…あ、はい、」

瞳に焦点を戻して、周太は返事をした。
そんな周太の手に部屋の鍵を渡しながら、英二は悪戯っ子のよう囁いた。

「パンツも持ってきて?びっしょりなんだ、あのときみたいに、」

あのときってなんのことですか?

言われた言葉が理解できない、でも雰囲気なら解かる。
きっとそういう意味なの?そんな考えにキャパシティが超えてしまう。
いま何て言われたのかな、なんでそんなこと言うの?解からないまま周太は素直に頷いた。

「…ん、持ってきます…」
「よろしくな?クロゼットの抽斗にあるから、」

可笑しそうな笑顔に見送られて廊下へ出ると、周太は隣室の鍵を開いた。
クロゼットからジャージとTシャツを出して、言われた通りに抽斗を開ける。
そこから下着を出そうとした手を、思わず周太は引っ込めた。

「…なんかはずかしいね?」

英二の下着を触ることは、初めてではない。
川崎の家で英二が静養したとき、もちろん英二の洗濯もしているから。
けれど、こんなふうに「選ぶ」ことは初めてで、なんだか途惑ってしまう。

…でも、持って行かないと英二、困るよね?

よく解からないけれど周太は、一番手前のものを手にするとTシャツに重ねて隠しこんだ。
そして戸締りをするとまた自室に周太は戻った。

ぱたん、

扉を閉じて鍵を掛けると周太は部屋に振向いた。
振向いた視線の先、カーテンの隙間から外を眺める背中が綺麗で、ついまた見惚れてしまう。
ほっとため息吐いたとき、美しい背中はこちらに向き直って端正な貌が微笑んだ。

「お帰り、周太、」
「ん、ただいま…あの、ここに置くね?」

応えながらも気恥ずかしくて、英二を正視出来ない。
だって洗濯籠には、1つ洗濯物が増えている。

…えいじいま、たおるだけってことだよね

そう思うと恥ずかしくて見られない。
いつも浴室でも困っているけれど、それ以上に今もっと困ってしまう。
どうして部屋だと尚更に恥ずかしいのだろう?もう首筋まで熱くて俯いた周太に、長い腕が伸ばされた。
そっと肩を抱き寄せられるままベッドの傍らに立つと、その前に英二は腰掛けながら微笑んだ。

「周太、拭いてくれるんだろ?」
「あ、…はい、」

さっきの約束へ素直に頷くと、周太はクロゼットからタオルを出した。
手に広げたタオルを見て英二が幸せそうに微笑んでくれる、その笑顔が嬉しいまま周太は英二の髪を拭った。
艶やかなダークブラウンの髪は水気に冷んやりとして、けれど透かすよう熱も伝わってくる。
いま夜明け時の部屋にはタオルが髪を拭く音と、雨の音が静謐をやさしく奏でていく。
こういう静けさは好きだな?そう微笑んだ周太に綺麗な低い声が笑ってくれた。

「周太に拭いてもらうの、気持いいな、」
「そう?よかった…」

髪を拭き終えて、首筋に光る雫を拭いとる。
そのまま背中を拭こうとした時、長い指の手が周太の掌を握った。

「周太、」

名前を呼んで、掌が惹きこまれるまま白皙の胸に倒れ込む。
そして長い腕に抱きしめられて、唇に温かな唇が重ねられた。

…あ、

心こぼれる吐息が、ほろ苦く甘い。
ふれる熱が唇から忍びこんで絡みつく、甘くて熱くて心が奪われていく。
なんだか解からなくなりそうな意識に、抱きしめてくれる白皙の肌が熱潤んでシャツを透かす。

「…周太、好きだよ」

綺麗な低い声が囁いて、素肌の胸に抱きしめられる。
そのまま白皙の体はベッドへ倒れ込んで、シーツへと周太を埋めこんだ。

「…えいじ?」

名前を呼んで見上げた切長い目の、まなざしが熱い。
こんな目をするとき英二が求めるものは?そんな問いかけを見た周太に、綺麗な低い声が微笑んだ。

「まだ5時前だよ?みんな眠ってる、雨も降ってる…声は聞えないから、周太…」

告げながら白皙の体が周太を抱込めて、唇はキスに封じられていく。
シャツ1枚を隔てる肌がふれあって熱が伝わってしまう、いま何をされるのかが解かる。
その予想に周太は切長い目を見つめて、キスのはざま問いかけた。

「えいじ、あの…」
「嫌?」

短い問いかけに、切長い目が微笑む。
もう微笑むひとは全身の肌を晒して、周太のシャツに長い指を掛けている。
その指がボタンを外しだす、この感触に鼓動が響きだして周太は吐息をこぼした。

「…あ、」
「嫌じゃない、って言って?周太…気持ちよくして、って命令してよ?」

綺麗な低い声の微笑に、長い指はボタンを1つずつ外していく。
ひとつ、またひとつボタン外れるごと肌に空気がふれて、肌を隔てる衣が消えていく。

「周太、命令して、俺に…」

言葉と一緒にキスが唇に熱を移しこむ。
ほろ苦く甘い熱に唇ほどかれて、周太は命令を言葉にした。

「…声、なんとかしてくれるなら…きもちよくして、」

言いながら掌を白皙の頬に添える。
その掌に手を重ねて、そっとキスで触れると英二は綺麗に微笑んだ。

「命令の通りにするよ、周太…だからさせて、お願いだから…痛くないようにするから、」

告げながらキスは唇を封じ込む。
シャツの最後のボタン外れて、コットンパンツのボタンも外される。
長い指がウエストに掛けられる、下着ごと引き降ろされて素足に肌がふれあいだす。

「…周太、」

名前呼ばれる瞬間、シャツも絡み取られて肌が晒される。
そして隔てるもの消えた素肌は重ねられて、全身の熱が触れ合った。
雨に濡れたばかりの肌は瑞々しくて、ふれるごと吸いつくよう肌を融かす。
見つめる肩は火照りだす熱に、白皙を透かして咲くよう血潮の紅匂いたつ。

…ほんとうに、花みたい

心そっとつぶやく想いに微笑んで、花の体に抱きとられていく。
抱きしめてくれる胸は深い森のような香を燻らせ、穏やかに謎めくよう香たつ。
この香に今、抱かれてしまったなら今日は一日を香のなか過ごすことになる。
それはいつも気恥ずかしい、そして疼きだす自責が香と締めつける。

ほんとうは今、この警察学校の寮ではしてはいけない。
本当は今を恋人の時に過ごすことは、抱かれることは禁じられている。
それなのに今、この瞬間に心の深くから歓びは湧き上がる、幸せはほら、こんなに温かい。
なによりも今、この目の前に見せてくれる笑顔が嬉しくて、見つめていたくて拒めない。

あなたの笑顔が咲いてくれる、この瞬間が愛しくて。



ふる雨の音が、止んでいく。

素肌のまま抱きしめられて、微睡む温もりが愛おしい。
白いベッドは名残の乱れにシーツの波を見せる、その襞にうすくブルーの翳が鎮まり滲む。
優しい青と白に横たわる時を雨音が包んで、けれど音はすこしずつ融けるよう消えていく。

「雨、止みそうだな。また降りそうだけど、」

綺麗な低い声が微笑んで、そっと腕に力こめてくれる。
やさしい温もりのまま体添わせて、素肌の気恥ずかしさに周太は微笑んだ。

「ん…せんたく、かんそうき使うね?」
「あ、乾燥機?そうだな、ははっ、」

答えてくれながら抱きしめて、可笑しそうに英二は笑いだした。
どうしてそんなに笑うのかな?変なことを言ったのかな?
よく解からなくて周太は、素直に尋ねた。

「…あの、なんでそんなに笑うの?」
「だって周太、このタイミングなんだもんな?可愛くって困るよ、」

可笑しそうに幸せそうに笑って、温かな懐に抱きこんでくれる。
なにがそんなに「可愛くって困る」のだろう?そう不思議で見つめた先、綺麗な低い声は幸せに答えてくれた。

「いまセックスしたばかりなのに洗濯のこと気にするなんてさ、本当に奥さんみたいだね?周太、」

“したばかり、奥さん”

言われた言葉がぐるり廻って、熱が額まで駆け昇る。
すごく自分は恥ずかしいことを言ってしまった?はしたなかった?
そんな疑問に頭がぐるぐるしてしまう、ほらもう熱が出てしまいそう、きっと赤くなっている。
こんなの恥ずかしくて困ってしまう、困り果ててブランケットを掻きよせた周太に、英二は笑いかけてくれた。

「周太、照れてる?今、すごく可愛い貌してるよ、」

照れています、恥ずかしいです、当たり前です。

本当に恥ずかしくて困る、いつもこうだ。
もう、なんてことを英二は言うのだろう?どうして恥ずかしがらせるの?
あんまり恥ずかしくてもう拗ねてしまいたい、この気分に正直なまま周太は口を開いた。

「しらない、ばか。えいじのばかばか、いつもえっちなことばっかいってしらないばか」
「怒らないで、周太?でも、怒った顔も大好きだよ、」

すこし困ったよう、けれど幸せなまま綺麗な笑顔が笑いかけてくれる。
こんな貌されると拒めない、でも恥ずかしくてブランケットに顔埋めた周太を、優しい懐は抱きしめてくれた。

「全部好きだよ、周太。全部大切だよ、ずっと大切にするから、ずっと傍にいて?」

そんな台詞はちょっと反則です。

そんなふうに言われたら怒れなくなる、嬉しくて微笑んでしまう。
こんなのは少し悔しい、けれど嬉しくて、嬉しいまんま約束したくて周太はブランケットから顔を出した。

「…ほんと?ぜんぶすきなの?すねてもおこっても?」

きっと「Yes」って答えてくれる?
そんな期待と不安とを見つめた先で、切長い目は幸せに微笑んでくれた。

「うん、どんな時も全部好きだ、でも笑顔がいちばん好きだよ。だから周太、ずっと俺の隣で幸せに笑っていて?」

そう言ってくれる笑顔は幸せに綺麗で、雨ふれた後の花のよう輝いていた。





【引用出典:『平家物語』】


(to be continued)

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one scene 某日、学校にてact.7 驟雨―side story「陽はまた昇る」

2012-08-07 04:30:34 | 陽はまた昇るside story
言っても良いのなら、



one scene 某日、学校にてact.7 驟雨―side story「陽はまた昇る」

久しぶりの公園は静かだった。

いつものベンチへ翳す緑陰は、変わらずに優しい。
スーツのジャケットを脱いでネクタイを緩める、その衿元に緑の風が涼を運ぶ。
この場所に座ることは久しぶり、ここは都心なのに奥多摩の森と似た深い緑が懐かしい。

「はい、英二、」

隣から周太が笑いかけて、渡してくれた缶コーヒーの水滴が掌に心地いい。
ここに座るとき周太はいつも、こんなふうに缶コーヒーを英二にくれる。
ここに最初に座った時も同じだった、それ以来ずっと続いている習慣に英二は微笑んだ。

「ありがとう、周太。冷たいのにしてくれたんだ?」
「ん、今日、ちょっと暑いかなって…良かった?」
「うん、喉渇いていたから嬉しいよ、」

話しながらプルリングを引くと口付けて、喉を冷たい芳香が降りていく。
ほろ苦く甘い香が空気に流れて、その香りに幾つかの記憶が蘇えってしまう。
このベンチでコーヒーを飲むのは、もう何度目になるのだろう?そんな疑問に英二は、並んで座る横顔に笑いかけた。

「周太、」
「ん?…」

短い返事に振向いてくれる黒目がちの瞳は、穏やかに澄んでいる。
このベンチに座って見つめる、この瞳の瞬間が懐かしく切ない記憶を呼び起こす。
あのとき自分は何を想ったのか?そんな記憶辿る道を見つめながら英二は微笑んだ。

「このベンチ、こうして一緒に座るのは何回目になるかな?」
「ん…もう二桁なのは確実だね?」

考え込むよう首傾げこむ、その微笑みは最初の時とは別人のよう美しくなった。
いま掌に包むのも周太はココアの缶、それも最初の時とは違っている。
この2つの変化とも幸せで愛おしい、嬉しいまま英二は笑いかけた。

「周太、その本は何?」
「これはね、山の植物について書いてあるんだ…標高や緯度、地質の差が影響するって…あと風向きとかも、」

嬉しそうに微笑んで、本の内容を話してくれる。
その内容が植物学なことが嬉しくさせられる、今、周太は大好きな植物の世界に夢を見始めているから。

―このまま好きな事だけを見つめて、笑っていてほしいのに?

そんな願望が心刺すよう傷んでしまう、それでも今を見つめていたい。
そんな想いと見つめる隣では、丁寧に本のページを繰って周太が説明してくれる。

「でね…北岳のことも、載ってるよ?読んでいると、行ってみたくなるね。夏の花が咲くとき、行ってみたいな、」

北岳、「哲人」の異称を持つ本邦第2峰。

あの山は英二にとっても心惹かれるものが強い。
あの山を、この愛しい婚約者にも見せることが出来たら、嬉しいだろうな?
そんな想い素直に笑って、英二は約束と恋人を見つめた。

「それなら周太、一緒に登りに行こう?夏の休暇とか、どこかで時間作るから、」
「ほんと?…英二が連れて行ってくれるの?」

嬉しそうに黒目がちの瞳が微笑んでくれる。
やわらかな黒髪のした、幸せそうな笑顔が木洩陽に輝いて、きれいで見惚れてしまう。
こんな貌で笑って貰えるのなら、なんだって出来てしまう。そんな願いに英二は微笑んだ。

「うん、俺が連れて行くよ?光一と練習で登りに行くから、その後ならコースもちゃんと解かるしさ、」
「うれしいな…楽しみにしてるね、」

楽しそうな笑顔が綺麗で、ずっと見ていたくなる。
こんなふうに木蔭のベンチに座って、愛しい瞳を見つめている。こういう時の幸せは優しい。
そんな想いと見つめていた笑顔の向こう側が、急に紗がひかれるよう色彩が変わった。

「…ん、雨?」

穏やかな声が呟いて、木蔭の向こうを黒目がちの瞳が見つめる。
その視線の先で雫ひとつ地面を打って、瞬く間に雨音が世界を浸した。

…さああ、さあああっ、…

やわらかで絶え間ない水の音が、白く視界を染めていく。
天から降る紗に包まれていく、そして公園の世界からすらベンチは遠くなる。
優しい雨のベールに隠され籠められていく、そんな静謐に周太がそっと笑った。

「…夕立だね?驟雨、っても言うけど…すぐに止むと思う、」

雨音に融けるよう穏やかな声が、微笑んで教えてくれる。
その横顔はあわい緑陰と、やわらかな雨の靄に輪郭がけぶって、いつも以上に優しい。
どこか優美にすら想える空気のなか、隣の横顔は瑞々しいベールに包まれ、優しい空気が綺麗で。
この情景に心深くから、終った夏の記憶が目を覚ました。

―…今の方が、いいよ…宮田、前よりも良い顔してる

初めての外泊許可日、周太が言ってくれた言葉。
あのときも今日の様に本屋に行って、ラーメン屋に行って、服を買って。
それからこのベンチに座って、雨が降り出した。そして英二に周太は声をかけてくれた。
あのとき周太の隣が好きだと気がついて、そして、恋を初めて知った。

『隣の空気を俺は好きなんだ』

そんな言葉が心に墜ちて、もう、恋に墜ちていた。
無言でいても居心地の良い隣、それが得難い場所だと気付いて離れられなくて、立てなくなった。
あの瞬間が自分の初恋、あの初恋のまま自分は今、この隣に座っている。

―あのとき、言いたかったな?

ふっと心独り言に、英二は瞳を閉じた。
閉じられた視界の底に響くよう、やさしい驟雨の音が梢を地面を濡らしていく。
あのとき泣きたかった、けれど泣けない涙を呑みこんで耐えて、ひとつ覚悟を肚に落とした。
きっと、あの瞬間から自分は、この恋に殉じて生きることを決めていた。言えない言葉を心の底に見つめながら。

「英二?…こんな所で寝たら、風邪ひくよ、」

優しい声に、瞳が披く。
開かれた視界の真中で、黒目がちの瞳が顔を覗きこんでくれる。
あのときも、同じだった。懐かしくて英二は、あのときと同じよう答えた。

「寝てないよ、」
「ん、よかった、」

黒目がちの瞳が微笑んでくれる、その表情はあの瞬間より綺麗で明るい。
この瞳への恋しさも、愛しさも、あの瞬間よりずっと強く深く、熱い。
この熱の想いに、あのとき言えなかった言葉を告げたくなる。

もう、今なら言うことは赦される。

そんな想いと見つめた先、雨に淡く煙る樹林の緑は横顔の輪郭をやわらかく縁取る。
この横顔を振向かせて、今、想いを告げてしまいたい、あの日の願いを叶えたい。
あの瞬間と今の想いを重ねて、英二は恋しい名前を呼んだ。

「周太、」
「ん?」

ほら、今なら振向いて微笑んでくれる。
この今が嬉しくて、英二は腕を伸ばすと大切な婚約者を抱き寄せた。

「周太、君が好きだ。君に恋して愛してる、だから、俺のことだけ見つめて?…」

告げる想いのままに、唇を重ねてキスをする。
ふれるキスのはざまオレンジの香が甘くて、あの頃の想いが切ない。
あの頃も徹夜明けに見つめた寝顔は、いつも吐息がオレンジの香に甘くて、その甘さを知りたかった。
けれど警察学校の規則違反と同性愛の枷を負わせたくなくて、じっと耐えて、見つめるだけで幸せだと納得して。
それでも迫ってくる卒業式が、別離の時が切なくて、いつも本当は泣きたかった。

あの日に叶わなかったキス、叶わなかった告白。
知ることの赦されなかったオレンジの香、出来なかった約束。
その全てが今なら、叶えて、赦されて、約束ごと心も体も繋げることが出来る。
この今の瞬間が、愛おしい。

この愛しさを抱きしめたまま、そっと唇を離す。
そして見つめた首筋は紅潮昇らせて、黒目がちの瞳は羞んで長い睫を伏せてしまう。
淑やかな睫の象る翳がゆかしい艶になる、また惹きこまれるよう見つめて、そっとキスをする。
やわらかな温もり微笑んで、離れて、そして黒目がちの瞳は見上げて周太が応えてくれた。

「英二が好き…ずっと見ていたいよ?英二の笑顔は、俺の宝物だから、」

ほら、あの日の願いが今、叶った。






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