萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

第52話 露籠act.4―side story「陽はまた昇る」

2012-08-12 23:57:03 | 陽はまた昇るside story
選択、優しい嘘の真実



第52話 露籠act.4―side story「陽はまた昇る」

革靴のソールが廊下に荒い。
けれど雨音の激しさに音は呑まれて、自分にしか聞こえない。
放課後の喧騒すら遠すぎる寮は今、誰もいない廊下を自分だけが歩いていく。
大切な人を抱え込んで。

「周太っ、聞えるか、周太?」

呼びかけながら歩くけれど、横抱きの腕のなか応えてはくれない。
それでも濡れた制服を透かす体温が、少しずつ熱を戻していくのが解かる。
きっと英二の体温が周太の肌を復温させている、その肌から震えが伝わってくる。
抱えながら冷えた手首に当てた指には、弱くても規則正しい拍動が響いていく。

―低体温症だ、レベルは軽症から中等…

低体温症には大きく分けて軽症・中等症・重症の3段階があり、コアの体温が35度以下・32度以下・28度以下が数値の目安になる。
重症の28度以下であれば徐脈や呼吸数の低下といった生命兆候の低下、意識喪失、震えの消失と不整脈の恐れ。
中等症の32度以下なら方向感覚の喪失や体調への無関心、攻撃性など精神状態の変化、震えの停止。
軽症なら意識も清明で生命兆候の低下もなく、寒気の自覚と活発な震えが見られる。
そして28度より直腸体温が低下すれば仮死状態となり、凍死に至る。

周太は意識薄明でも生命兆候は現われ、脈も弱いけれど規則正しい。
おそらく中等から軽症の狭間、これなら自分の応急処置で治せる。確信しながら英二は自室の鍵を開いた。

がちゃ、とんっ

開錠音、すぐ扉を開いて背中で閉める。
小柄な体を抱えたまま、クロゼットからバスタオルを引き出し床に広げていく。
ずぶ濡れの体を静かに横たえて、濡れた制服を手早く丁寧に脱がせ始めた。

「周太、目を開けろっ、周太っ!」

呼びかける声に、微かに睫が動く瞬間がある。
けれど瞳は開かれないままに小柄な体は、震えだけを英二の腕に預けて動かない。
四肢を動かさないよう制服を脱がせて、Tシャツと下着は救急用具のハサミで切り脱がせていく。
中等症より重度の場合、手足に停滞していた低温・低酸素・高カリウムの血液が心臓に戻れば心室細動等を引き起こす。
それを防ぐため脱衣も場合により切り脱がせ、四肢の稼働を出来るだけ抑えて急激な還流を避ける。

「周太、眠ったらダメだ、起きろ、周太っ」

呼びかけながら静かに全身を拭っていく、その肌から震えが伝わる。
これは自発的な熱生産能力が残っている証拠、だから周太の症状は軽症レベルで間違いないだろう。
濡れた体をバスタオルに包みこんで水滴を拭う、そしてベッドに移した時、濡れた黒髪が動いた。

「周太?」

名前を呼んで、かすかに睫が披かれる。
けれどすぐ長い睫は伏せられて、枕へと横顔は落ちて眠りこんだ。
軽症なら意識は清明なはず、それなのに周太は眠るよう横たわり、でも震えの生理機能は生きている。
もし中等症以上になると熱生産能力など生理機能も障害されて消極的再加温、いわゆる保温のみで回復するのは難しい。
その場合は外部から温熱器具で暖める積極的表面再加温もリスクを伴う危険がある、しかし軽症なら加温が必要とされる。
周太の症状をどちらに考えるのか?その診断に英二は観察を始めた。

肌の色は蒼白、けれど呼吸は規則正しく異常はない。
袖を捲り感染防止グローブを手早く填めると瞼を開き、瞳の状態を見ると瞳孔散大は見られない。
口を開けさせて口腔から喉を確認していく、そこに異物や吐瀉物の存在も無い。

「問題無いな、」

つぶやきの確認にすこし微笑んで、今度は周太の左手を握ると手首を軽く反らせた。
親指側の手首に沿い、自身の右手で示指、中指、環指を当てる。
そして脈をみつけると15秒間を計測した。

「…16回、か」

一般成人の脈拍は毎分60~100回を正常値の範囲とする。
もし脈拍が100回を超えると「頻脈」、脈拍が60回未満の場合は「除脈」と呼び不整脈と診断される。
いま15秒計測で16回だから周太の脈拍は毎分64回、正常値と言っていい。これなら軽症の低体温症と考えて妥当だろう。
そう考えながらリフィリングテストに移って、周太の左手示指の爪先端を5秒間詰まんで、ぱっと放す。
その爪床の色調回復には2、3秒ほどかかった、やはり組織還流は微細だけれど影響を受けている。
それでもこのレベルなら重篤な問題ではない、英二は独り言に確認した。

「…これなら、軽症と考えて良さそうだな?」

けれど意識が薄明なことが気になる、疲労から眠りこんでいるだけだろうか?
ふれた額は平常温より少しだけ冷たい、発熱も無い様子の貌は幾らか赤みが戻り始めている。
体の震えは定期的に起きて熱生産の反応を示す、それに判断して英二は高熱原での加温を決めた。

グローブを外してクロゼットから自分のシャツを出すと、四肢を動かさないよう周太の体に着せる。
この場合の着衣は血流を妨げない事が肝要だから、大柄な英二の衣服は小柄な周太をゆったり包めて都合が良い。
そしてシャツの上から鼠径部と脇の下にカイロを当て、ゆっくりと中心部からの加温を始めた。

このとき四肢を動かすこと、入浴などで急激に体の表面を暖めることを避ける。
もし四肢の稼働や急激な加温を行うと、末梢血液が環流して冷えた手足の血液が急激に内臓や心臓に送られてしまう。
そうすると中心体温が低下するアフタードロップ現象や、末梢血管の拡張による血圧低下でウォームショックに陥ることがある。
その兆候に注意しながら周太の濡れた頭をタオルで包んでいく。頭部の放熱は50~80%、これを今は防いで保温する。
きちんと包み終えて寝顔を見つめると、英二は少し笑った。

「直腸検温はいらないよな、周太?」

低体温症で意識不明の場合、直腸検温でコア体温の確認をして重症度の確認をする方法もある。
もし中等症以上で循環動態が不安定ならば、医療機関で加温した輸液の注入や胃腸の温水洗浄など、積極的中心再加温を行う。
この直腸検温は文字通りに体温計を挿入して行うから、きっと周太なら真赤になって酷く恥ずかしがるに違いない。

―そんな興奮をさせる方が、逆効果になりそうだよな?

可笑しくて小さく微笑むと英二は、救急具ケースから耳式体温計を取りだした。
専用のプローブカバーを付け電源を入れ、周太の耳へと鼓膜に向けて深く挿しこむ。
体温計が動かないようスタートボタンを押して1秒でブザーが鳴り、そっと耳から出した。

「よし…35度5分、戻ってきたな?」

安堵に微笑んで英二は寝顔を見つめた。
表情も普段の眠りこむ顔と変わらない、呼吸も正常だろう。
すこし気管支系が弱いけれど周太は基本的に健康で体力もある、まだ23歳の年齢も手伝って回復も早い筈だ。
けれど万が一の心室細動などを考えると、ずっと今夜は経過を診た方が良い。

―寝ずに付添おう、今夜は

そう決めて、ほっと息吐いて英二は自分の格好に気がついた。
濡れたままの制服は肌に貼りついてTシャツまで浸みこみ、髪も濡れたままでいる。
とりあえず自分も着替えよう、英二は立ち上がるとクロゼットから着替えを出した。
濡れたままの制服から全部を脱いで、カットソーとジャージに着替えていく。
髪を拭きながらもベッドの様子に注視して、ふと窓の外を英二は見た。

窓の外は街燈が灯り出して、雨は降り続いている。
モノトーンの空は夜へ近づく気配を見せて、ガラス窓には雫が降りそそぐ。
もうじき光一と吉村医師は奥多摩に着くだろうか?考えながらカーテンを引いてルームライトを点けた。

ざああ…さあああ…

明るくなる白い部屋に、雨音が充ちていく。
降りそそぐ水の音へと微かな寝息が規則正しく洩れて、吐息が優しい。
ベッドサイドに座りこんで英二は、そっと布団を掛けなおし周太を包みこんだ。

「周太?そろそろ目、覚ましてほしいな?」

軽症の低体温症なら意識は清明、けれど周太は眠りこんでいる。
多分いつもの墜落睡眠なだけ、そう思っても不安になってしまう。
本来なら低体温症のときは眠らないようにするけれど、墜落睡眠の周太はまず目覚めない。

「…まさか、中等症じゃないよな?」

ひとりごとに耳式体温計をまたセットして、検温をする。
すぐ1秒で結果は出て、体温計のデジタルは35.8℃を示してくれた。
順調に体温は戻り始めているようだ、さっきより0.3度の回復に英二は微笑んだ。

「周太、こんな時なのに、眠っちゃってるんだね?…よっぽど疲れたんだね、」

きっと周太は今、疲れている。
きっと父親の「殉職」の真実を気付いて、精神的に打ちのめされて。
そして周太はきっと屋上で、独り雨のなか泣き叫んでいたのだろう。

「ごめん、周太、」

自責の聲が、言葉になる。
冷たい雨のなか、愛するひとを独りきり泣かせてしまった。
その自責が心を締め上げ傷みが抉られる、どうして自分はこんなに愚かなのだろう?
周太が泣いた原因は、周太が真相に気付いた原因は、全てが英二自身にある。

―事例研究で不用意に俺が話したこと…それが全ての原因だ、

あの事例研究の授業で『春琴抄』の案件を話さなければ良かった。
せめて「ページが欠けた本」だと正直に言えば良かった、それなら周太は英二に質問しただろう。
そうすれば「ページが欠けた本」に周太が疑問を持たないよう誘導して、気付かせない事も出来たのに?

けれど現実には、自分は話してしまった。
そして周太は藤岡に質問をして「ページが欠けた本」に気付き、吉村医師にも尋ねた。
もし青梅署の事例を聴けば周太なら、当然あの2人にも質問をして勉強しようとするだろう。
そうなる事は簡単に予測出来た、それなのに何故、自分は気付かなかった?この自責にまた想いはこぼれ落ちた。

「全部、俺のミスが招いたんだ…ごめん、」

呟いて、長い指がカットソーの胸元を握りこむ。
一枚のカットソーを透かす鍵の輪郭が、固く掌に触れてくれる。
この鍵に籠められている想いへの、責任と愛情の全てが今、自分を赦せなくて痛くて、熱い。
なぜ馨が「殉職」という自殺を選んだのか?この選択の傷みが心映りこんで、最期の日記を浮べた。

……

なぜ、命を生かす為に命を殺さなくてはいけないのか?

他に方法は無いのか?
罪を罪で制することしか出来ないのだろうか?
それならば、この世から罪が消えることなどできない、だからこそ私の罪は裁かれるべきだ。
父、祖父、そして曾祖父。この家に連綿と続く人殺しの遺伝子、そして殺せば殺される運命、それも拳銃で狙撃されて。
父が、私が射撃を始めたことを止めてくれた、あの時に父の言葉に従っていたのなら、この罪の連鎖は消えていた。

この愚かな私こそが裁かれるべきだろう。だから、いつか私は拳銃に殺されて命を終える。
もう私の代で終わらせなくてはいけない、この殺人を殺人で止めていく哀しい運命の歯車は。
だから密やかに願う、この私が裁きを受ける瞬間は、誰かの尊厳を守るために射殺され、すこしでもこの罪の贖罪が叶うことを。

与えられた『任務』に惑わされ堕ちていく、今の自分は『化物』と変わらない。
こんな今の自分には、美しい英文学の心を伝える資格があるのだろうか?きっと、無いだろう。
この罪に穢れた掌は、あの美しい言葉の記された本を開くには、相応しくないのだから。

私はただの幽霊、虚しい夢の残骸に過ぎない。
殺し殺されていく罪の連鎖の虜囚、これが私の現実。
けれど、この罪の贖罪が少しでも叶うなら、この忌まわしい運命への抗いになるだろうか?

そして私の英文学者の夢は、美しい幻想のままに掴めない。それが20年の答え。

……

法治のもと裁かれない「銃殺」の罪を、馨は同じ刑罰に自身を裁くことで運命に抗おうとした。
そしてきっと、家族には「自裁の自殺」だと気付かれたくなかったから、馨は狙撃される殉職を選んだ。
だから解ってしまう、14年前の春の夜の瞬間は、馨にとって待ち望んだ瞬間だったのだと。

―おとうさん、銃口を向けられた瞬間、笑ったでしょう?

この心裡の呼びかけに、掌の鍵を握りしめる。
きっと馨は、訪れた運命の瞬間に喜んだろう、これで運命への抗いが出来ると希望を見つめて。

―…あの警察官はね、本当は俺を先に撃てたんです、けれど撃たなかった…警察官の目が一瞬だけ合いました
  彼の目は、生きて償ってほしい、そう言っていると感じました…あのひとの目を、俺は一生忘れられません

馨を殺害した男が教えてくれた、馨の眼差し。
その眼差しは贖罪の叶う喜びに満ちて、けれど別離の哀しみに微笑んでいただろう。
そして自分を処刑してくれる男の「尊厳」を護りぬく誇りへと、馨は綺麗に笑っていた。

「周太?お父さんはね、きっと幸せだったんだ…なのに、ごめんな、周太、」

眠る顔へ微笑んで、そっと額にキスふれる。
ふれた額は温もりを戻している、もう呼吸も落着いて普段の寝息と変わらない。
いつものよう無垢の頬はすこし紅潮して、あどけない美しい寝顔がベッドで眠っている。
この無垢なる寝顔への自責に、握りしめた掌の鍵へと英二は瞳を閉じた。

―お父さん、すみません…あなたの想いを無にしてしまいました、周太に気付かせてしまいました

愛する家族には、愛する息子には「自殺」だと知られたくない。
もし自ら死を選んだとしたら、愛する人との時間を捨てたと思わせてしまうから。
そう思ったとき遺された者は、愛情の真実を見失い、哀しみを見つめるだろう。それが優しい馨には辛い。
だから殉職の姿を借りた「自殺幇助」の道を馨は選んだ。愛する者が自分の自殺に責めを負わないように。

自殺に見せない自殺、この選択は「優しい嘘」だ。

いつも誠実だった馨が、生涯で唯一度だけ吐いた嘘。
命を懸けた贖罪で愛する者を護りたかった馨の、優しい真実の嘘。

この嘘の優しさを自分は、壊してしまった。
いちばん馨が嘘を吐きたかった相手に、真実を気付かせてしまったのだから。
この罪こそ自分は償わなくてはならない、そして今、周太にどう話すのかを決めなくてはならない。

―どこまで話すか?

全てを話すことは出来ない、それは馨の意思ではないのだから。
それでも周太が「殉職」の真相に気付いた以上は、ある程度を話す方が良い。
まだ知るべきではない事実と、知らせるべき真実。この2つを間違えることは赦されない。
もう今すでに、自分はミスを犯して周太を追いこんでしまったのだから。

―どこまで周太が気づいたのか、それ次第だな…

書斎に遺された『Le Fantome de l'Opera』壊された本。
あのラーメン屋の主人の証言、藤岡の『春琴抄』への見解と、吉村医師の所見。
これらが今の時点で周太が得ているヒントになる、そこから周太はどこまで気付いたろうか?
これだけでも周太なら父親の真相に近づけただろう、聡明で繊細な周太は視点も思考も綿密だから。

―まず、周太が話してくれるのを待とう

そう心に決めながら、英二は愛する寝顔を見つめた。



ふっと腕にふれる温もりに、英二は目を開いた。
浅い微睡に座りこむ椅子で組んだ腕に、ベッドの上から白い袖が伸ばされている。
伸ばされた腕の掌が自分の腕にふれてくれる、その掌をそっと握って英二は微笑んだ。

「おはよう、周太。俺の花嫁さん、」

約束の名前を呼んで笑いかけた先、黒目がちの瞳はゆっくり瞬いてくれる。
そして穏やかに微笑んで、大好きな声が応えてくれた。

「おはよう、英二…はなむこさん?」

大切な約束の名前で、呼んでくれた。
この名前を呼んで貰えることが嬉しい、嬉しくて英二は綺麗に笑った。

「周太、具合はどう?寒いとかある」
「ん、大丈夫。温かい…」

微笑んで周太は唇を動かしてくれる。
この声がまた聴けて嬉しい、そう見つめる想いの真中で周太は尋ねてくれた。

「ね、俺…屋上にいたよね?」
「そうだよ、雨のなかで倒れたんだよ。周太、低体温症を起こしたんだ、」

答えながら耳式体温計を出すと、左掌で周太の頭を抱えて検温をする。
すぐ1秒でブザーが鳴って示される「36.5℃」に微笑んで、英二は婚約者に告げた。

「もう体温も落ち着いたな、ちょっと温かいもの買ってくるよ、」
「ん…ね、一緒に行ったらだめ?」

素直に頷きながら許しを訊いてくれる、その瞳がすこし潤んでいる。
この瞳は微熱の所為だろうか、それとも涙?それぞれの切なさに微笑んで英二は、恋人に応えた。

「周太、自分の格好を解ってる?そのままだと出られないよ、」

言われた言葉にひとつ瞬いて、周太は布団を少し捲った。
そして見た自分の姿に薄紅いろ頬染めて、黒目がちの瞳は羞んだ。

「…あの、はくものもってきてくれるかな、えいじ?…制服とかは?」
「制服は洗ったよ、もう部屋に吊るしてあるから、」

笑って答えながら英二は、周太の部屋から持ってきておいたコットンパンツと下着を出した。
それを見て赤くする貌が可愛い、こんな照れた貌も好きだと微笑んで英二は、布団のなかに手を入れた。

「…っ、えいじ?なにするの」
「周太にパンツ履かせるんだけど?」

さらり答えながら周太の脚へと通し、引き上げる。
下着を上げていく手にすべらかな肌ふれて、感触に誘惑されてしまう。
このまま素肌を存分に触れて、抱いてしまえたらいいのに?

―こんなときにまで俺、何、考えてんだよ?

内心の声に疼きを宥めて、こっそり苦笑してしまう。
本当に我ながら自分は恋に狂っている、今思うことを知ったら「えっちへんたい」と罵られるだろうに?
そんなこと考えながら綺麗な脚へコットンパンツも履かせて、見ると周太は額まで赤くなっていた。

「…それくらいじぶんでするのに、」
「俺が周太にしたいんだよ、いいだろ?」

笑いかけてクロゼットからカーディガンを出すと、そっと周太を抱えて着せかける。
抱き起した体はもう温かい、これなら大丈夫だろう。安心に微笑んで英二は、小柄な体を横抱きに抱え上げた。

「周太、抱っこで行こうな?安静にした方がいいから、」
「ん…はい、」

素直に抱かれる懐で頷いてくれる、その頭からタオルがほどけ落ちた。
やわらかな黒髪こぼれてデスクライトに艶めく、そのはざまに穏かで爽やかな香がふれる。
その瞬間に唇へ優しい温もりふれて、やわらかなキスは離れると微笑んだ。

「英二…救けてくれて、ありがとう、」

キスのお礼だなんて幸せです。

心は恋の奴隷モードになって微笑んでしまう。
嬉しくて英二は綺麗に笑った。

「周太からのキス、嬉しいよ?もう一度して?」
「…はい、」

気恥ずかしげな微笑が近寄せられて、そっと唇キスふれる。
かすかなオレンジの香が甘いキスは、自分の幸福の証のよう。
この今が幸せだと微笑んで、英二は婚約者に笑いかけた。

「ありがとう、周太。これからも、ずっと俺だけにキスしてくれな、」
「ん、…はい、」

頬染めながら素直に頷いてくれる、その動きに黒髪がゆれる。
ゆれる髪に穏かな爽香がまばゆい、この香を自分はずっと好きだ。
この香ふれられる幸せに微笑んで、英二は部屋の扉を開いた。

踏み出した薄暗い廊下は、消灯後の静謐に沈みこむ。
静かに歩いていく足音も、窓ふれていく雨音に消されて聴こえない。

「…雨、まだ降ってる?」
「うん、今夜はずっと降るかな?朝には止むかと思うけど、」

低い声で答えながら、そっと額に額付けてみる。
ふれる温もりは少しだけ熱い、やはり熱を出してしまったろうか?
さっきは36.5℃だったけれど、すこし動いて発熱したかもしれない?
そんな心配を心裡に留めながら自販機の前に着いて、英二は片腕に周太を抱えたまま小銭を出した。

「周太、温かいのでカフェイン無いやつな?」
「ん…じゃあ、ホットレモン?」
「そうだな、それ良いな?」

リクエスト通りにボタンを押して、熱いペットボトルを出すと手渡す。
見せてくれる嬉しそうな笑顔に微笑んで、英二もホットコーヒーを買った。
そして踵返し来た道を戻りだすと、穏やかに周太が微笑んだ。

「…静かだね?今、何時?」
「0時を回ったとこだな、」

時計も見ずに応えた英二に、黒目がちの瞳が笑ってくれる。
この時計無しの時間感覚は英二の特技でいる、多分、合っているだろう。
そう考えながら自室に戻ると、時計を見て周太は笑ってくれた。

「ん、英二、当たりだね?…すごいね、」
「そっか?ありがとな、」

笑いかけて静かにベッドへと周太をおろした。
壁に凭れるよう座らせて、布団とブランケットに体を包みこむ。
素直に包まれながらペットボトルの蓋を開けて、莞爾と周太は微笑んだ。

「ありがとう、英二…いただきます、」
「はい、どうぞ、」

笑って答えて、英二もベッドに座るとコーヒーの蓋を開けた。
ほろ苦く甘い香に柑橘の香が交わされる、その香に5月の川崎が思われた。

―夏みかんの菓子、作った時の香だな、

初夏の週末、庭の夏蜜柑で砂糖菓子を作る手伝いをした。
作業の後で周太はコーヒーを淹れてくれた、あのときの香が懐かしい。
この優しい時間の記憶に微笑んだとき、隣からレモンの香が静かに問いかけた。

「英二…お父さん、自殺だったのかな、」

問いかけに、覚悟していた心が溜息を吐く。







(to be continued)

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one scene 某日、学校にてact.9 驟雨―side story「陽はまた昇る」

2012-08-12 04:09:00 | 陽はまた昇るside story
言わないで、秘める願いに



one scene 某日、学校にてact.9 驟雨―side story「陽はまた昇る」

学校寮の自室は、あわい黄昏に染まり出していた。
カーテン透かすオレンジ色が優しい空間に、鞄を置いてスーツのジャケットを脱ぐ。
ネクタイを緩めながら窓際へ寄ると英二は、カーテンをすこし開いた。

中空はまだ、青い。
けれど街並み近い空の際はオレンジに輝いて、太陽のねむる瞬間を告げている。
大きく輝いて終わりを飾る、その光に惹かれるよう英二は窓の鍵を開いた。

がたん、

音がたって、ガラス戸が開かれていく。
ふっと懐かしいような香が風になって、頬を撫でていく。
この香は雨あがった後の、緑ふくんだような少し埃っぽい香。この香は好きだ。
どこか愛しい懐かしい空気に微笑んで、英二はベランダに出た。

「お、風、気持ちいいな、」

ひとりごと笑ってベランダの手すりにワイシャツの腕を組む。
遠く見渡すはるか彼方、微かに稜線が映るようで心切ない。
こんなにも山の世界が恋しくなってしまう、この今の自分の想いが嬉しい。

―俺、もう山ヤなんだな?

今の自分は山岳救助隊員、山ヤの警察官。
山を恋い慕い、山を護り山歩く人を援け、山に生きることを選んだ。
本当は周太を護る為に都合が良い?そんな目的もあって考えた道だったのに、今は夢すら山に見つめている。
そして願っていいのなら、その夢の世界に攫いたい人がいる。その人の名前に英二は微笑んだ。

「…周太、一緒に帰りたいよ?」

「はい、」

返事が聞えた?
驚いて声の方を見た隣、黒目がちの瞳が微笑んだ。

「ね、英二?…どこに一緒に帰るの?」

穏やかなトーンの声が楽しげに尋ねてくれる。
自分と同じようなワイシャツとネクタイ姿のまま、周太が楽しそうに隣で手すりに頬杖ついている。
いつのまに隣に来たのかな?嬉しくなって英二は綺麗に笑いかけた。

「うん、奥多摩に一緒に帰りたいな。いつか、あの家ごと引越してさ、周太と、お母さんと一緒に、奥多摩を帰る場所にしたい」
「ん、…春にしてくれた約束だね?」

黒目がちの瞳が幸せに微笑んで、すぐ隣から見上げてくれる。
こんな笑顔が見られる「今」が嬉しくて幸せで、この瞬間が愛おしい。
この愛しさへ正直に笑って英二は、婚約者の手をとると部屋に惹きこんだ。

「おいで、周太、」

微笑んで抱き寄せて、カーテンの翳に身を寄せながら、懐へと抱きこむ。
ふわり穏やかで爽やかな香が黒髪からやわらかい、この香に最初に気付いたのは1年も前だろう。
けれど、もっと前から知っている気もする、そんな香ごと温もり抱きしめて、英二は恋人の瞳を覗きこんだ。

「周太、いつか奥多摩に引っ越そうな?それで、毎日ずっと俺に飯を作って?毎晩一緒に眠ってくれる?」

どうかお願い、「Yes」って言って?
そんな願いごと微笑んで、黒目がちの瞳を覗きこむ。
覗かれて気恥ずかしげに長い睫をすこし伏せる、けれど幸せに瞳は微笑んで応えてくれた。

「ん、はい…ごはん作って待ってるね?おふとん干して、お風呂も沸かすから…いつも無事に帰ってきて?」

ほら「Yes」を聴かせてくれた。
こんな幸せな約束が嬉しくて温かい、もう何度でも約束を結びたい。
いつか叶う日にも、その後の日々にも、ずっと約束を何度も結んで重ねて、幸せの瞬間が続いてくれますように。
そんな願いの数々を籠めて、英二は婚約者の唇へキスをした。

「愛してるよ、周太。ずっと傍にいて…」

ふれるキスは、願いを籠めて交わす誓い。
この瞬間に生涯の祈りを籠めて、あなたを繋ぎとめてしまいたい。
そして永遠に離れないでと願いを籠めて、こっそりと赤い糸の束縛に結んでしまいたい。
祈るよう結わえつけるキスを残して、そっと離れた唇が羞むよう微笑んでくれる。
そして静かな優しい声が、言葉を返してくれた。

「…ん、傍にいるよ?英二、」

名前を呼んで、黒目がちの瞳は見つめてくれる。
その瞳に自分が映るのが見える、そっとオレンジの光の欠片が映して、瞳に自分の姿を閉じ込める。
ほら、こんなふうに自分のことを、あなたの瞳に残しておける?

「傍にいて、周太。ね、今、周太の目に俺が映ってるよ?」
「そうなの?…英二の目にもね、俺が映ってるね?」

楽しそうに見上げて、幸せな応えが微笑んだ。
こんなふうに互いの姿を瞳に、心に残しあいながら、ひとは想いを繋ぐのだろうか?
そんな考えに想ってしまう、この瞳に毎日ずっと自分を映して心ごと残したなら、もっと想ってもらえる?
もっと自分を好きになって想って、一緒に幸せを見つめてくれるだろうか?

もう幸せは、あなたの隣でしか見つめられない、この瞳の合わせ鏡に幸せも心も綴じ籠めて。
そしてこの腕の中に体ごと、あなたの温もりも香も閉じ籠めて。



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