伝える言葉、想い重ねて

第63話 残証act.6―another,side story「陽はまた昇る」
午後22時、第七機動隊付属寮の個室にデスクライトが灯る。
談話室での会話の余韻はまだ楽しい、その前の大学で過ごした時間はもっと楽しかった。
そして切なく温かだった過去の物語を見つめながら、周太は贈られた祖父の遺作を開いた。
“Je te donne la recherche”
ブルーブラックの肉筆が「探し物を君に贈る」と伝言する。
これを記した祖父の想いを「探し物」を父は見つけたのだろうか?
それとも意味が伝わらなかったから父は、この本を後輩に託してしまったのだろうか?
意味が解って手放したのか、意味を知らずに手放したのか?どちらなのかで父の意志は大きく変わる。
もし「探し物」の正体を知って手放したのなら、父は探し物を隠したかったことになる。
もし知らずに手放したのなら父は、祖父が伝えたかった意図を理解できずにいた。
知っていたのか、知らなかったのか?それは父の進路と関係するだろうか?
「…まず、探し物が何かを見つけることだよね、」
ひとりごとに見つめる見開きは、年古る紙の香とブルーブラックの筆跡あざやかに浮き上がる。
狭い寮室の備品机の上、祖父が書き遺した唯一の推理小説へとページを繰りかけたときノックが響いた。
その叩き方と扉向うの気配に来訪者が解かる、静かに紺青色の表紙を閉じると周太は立って扉を開いた。
「こんばんは、湯原くん。遅くにごめんね、今夜も盗聴器チェックさせてもらうよ、」
「はい、」
頷いて見上げた先で光一が笑ってくれる。
やはり今日は光一の訪問時間は遅い、きっと夜間訓練後の処理が色々あったのだろう。
小隊長はどんな仕事があるのか本当は聴いてみたい、けれど守秘義務を想って周太は光一の盗聴器探索を見守った。
その傍ら気になって携帯電話を開き受信チェックをすると、20時前に英二から届いたメールの後は何も無い。
―美代さん、いつもならメールくれるのに…受験勉強の質問、今夜は無いのかな?
毎晩21時過ぎの定期便が、今夜はまだ届かない。
今日は講義のときも研究室でも元気で、いつものよう楽しく勉強していた。
入学試験の書類も受けとれて嬉しそうだった、もしかして、その書類が家族に見つかったのだろうか?
―ご家族から叱られている真っ最中だったらどうしよう、それとも、まさか事故とかじゃないよね?
眺める携帯の画面に不安になる、いったい今夜の美代はどうしたのだろう?
それとも入学要項を読んだり願書の記入をしていて時間が過ぎている?
それなら良いのにと思う前からテノールが笑いかけてくれた。
「チェックOKだよ。周太、ナンか電話待ち?」
「ありがとう、あのね…電話待ちっていうか、」
答えながら幼馴染を見上げて、考えあぐねたまま笑いかける。
その視線に光一はレシーバとダイアル式ラジオをサイドテーブルに置きながら微笑んだ。
「英二なら飲み会だってメールきたよね、美代から連絡が無いとか?」
「ん、」
頷いて携帯の画面を眺めて、美代の今日をまたリフレインする。
帰りの電車でも笑っていた、祖父の書いた本を見てくれた、点法の約束を喜んでいた。
いつものよう穏やかに闊達だった美代、なのに定期連絡が無くてため息吐いた隣から光一が言ってくれた。
「ソンナに気になるんならね、周太から電話すりゃいいだろ?もう遠慮するような仲でも無いんだしさ、」
可笑しそうに笑ってくれる言葉に、小さく覚悟が決められる。
気になるなら電話すればいい、その言葉に押されるよう周太は綺麗に笑った。
「ん、そうだね。ちょっと電話していい?ファイルとか好きに見ていてね、」
「席外さなくってイイんだね、じゃノンビリさせてもらうよ、」
底抜けに明るい目が笑ってデスクの椅子に座ってくれる。
その様子に微笑んで周太はベッドの窓際に腰下すと、ときおり架ける番号を発信した。
きれいな旋律が流れだしコールする、その時間が長く感じた頃ようやく繋がって周太は微笑んだ。
「こんばんわ、美代さん。遅い時間にごめんね、」
笑いかけた電話の向こう、けれど答えない。
どうしたのだろう?心配と首傾げた耳を嗚咽が打った。
「…っ、ぅ…ゆはらく、んっ…」
涙のむ声が呼んでくれる、そのトーンが哀しく揺さぶらす。
いま大切な友達が泣いている、哀しい驚きに周太は呼びかけた。
「美代さん?今は部屋にいるの?」
「ん、…べっどでひざかかえてるの、っ…ぅ、ごめんね泣いて…」
泣き声でも話してくれる言葉は、本質の明るさがきちんとある。
誰かが亡くなったとかの不幸では無い、大学のことでも無さそう?
そんな容子を聴きとりすこし安堵しながら、穏やかに周太は尋ねた。
「ううん、大丈夫だよ?…ずっとなの?」
「夕方にちょっと泣いて…っ、いま湯原くんの電話きて、気が緩んでね…ぅ、なんかまた涙出てきて…おかしいね?」
泣きながらも少し笑ってくれる、その貌が見えるようで切ない。
穏やかでも芯は凛とした美代は滅多に泣かない、それでも美代の涙を2度見た事がある。
一度めは冬富士の雪崩に遭った光一のために、二度目は先月に異動を告げた周太の為に美代は泣いた。
それなら今、こうして美代が泣く理由は誰の為だろう?そう考えた答えに周太はすこしの覚悟と微笑んだ。
「美代さん、英二のことで何かあったの?」
問いかけに、電話の向こうが微笑んで涙を飲み下す。
そして優しい涙の声は穏やかに周太へ応えてくれた。
「当たり…夕方にね、宮田くんが異動するって聴いたの、それでっ…なんか涙、っ…」
声が途切れて、嗚咽が電話を透して伝わらす。
この涙と聲に美代の想いが解かる、きっともう、美代の想いは憧れだけじゃない。
―美代さん、本当に英二のこと好きになったんだね、
心裡に確信が降りてくる、それは自分だからこそ解かる。
自分も9ヶ月前には美代と同じ理由で泣いていた、その理由を周太は言葉に変えた。
「毎日会えてたのに、会えなくなるのは哀しいよね…俺も同じ気持だったから、」
警察学校の狭い寮室、そこに英二が居てくれる時間が自分には安らげる場所だった。
父が亡くなって13年間ずっと孤独に生きていた、その全てを受とめ温めてくれる懐だった。
そこから離れることは哀しくて、少しでも長く傍に居たくて、だから卒業式の夜に英二の求めに応えた。
―あのときの俺と同じ気持なんだ、美代さんは今…傍に居たくて、
御岳駐在所の英二を美代は、毎日のよう訪ねてくれた。
今日の試作品も差入すると笑っていた、それは英二に恋する前からの習慣だった。
いつも幼馴染の光一を訪ねて、光一が異動してからは英二を訪ねて様子を周太にも教えてくれた。
きっとその時間は美代にとって幸せだったはず、そう想う耳へと涙飲む声が聴こえて友達は微笑んだ。
「同じね、でも違うね?私は片想いだから、またねって約束とか…っぅ、っ…」
片想い、その言葉が美代と自分の間に横たわる。
自分は英二と再会の約束を、将来の約束を見つめあえた。
それが本当は出来ない約束だとしても、叶えたい想いを共に確かめ合う幸福があった。
この幸福が今まで自分を生かしてくれた、そして「今」この掌にある全てを与えてくれた。
たとえ同性の恋愛が周囲に認められなくとも、英二と想い交せる幸福は確かに自分へ贈られる。
けれど美代には無い、本当なら祝福されるべき男女の恋愛なのに、それなのに英二は選ばない。
こんなにも人の心はままならない、それでも1ヶ月後の現実を想い周太は願いごとを告げた。
「美代さん、またねって約束を英二として? 」
きっと英二の性格なら「またね」を美代に告げただろう。
その「またね」の意味が美代の想いとは違っていても、再会を約束してほしい。
だって今は違う意味だとしても、いつか同じ意味に変る瞬間が来るかもしれない。
―いつか美代さんの想いが叶うかもしれないんだ、英二なら…俺と光一を同時に想える英二なら、
きっと英二はまだ光一に恋している、たとえ光一が二度と応えなくても。
憧れの山ヤとして、才能ある男として、強く美しい人間として見つめている。
その想いは周太への恋愛とすこし違って、けれど全てを懸ける真摯な熱情は変らない。
だからこそ英二自身ずっと気づかぬフリをしていた、けれど認めてしまえば想いに涯は無い。
それが英二の誠実な恋愛だと自分こそ知っている、だから、その対象に美代が成らないとは限らない。
「ね、美代さん?英二もまた帰ってくるって言ってたでしょ、またねって約束してあげて?」
いつか英二は美代に恋して愛するかもしれない?
その可能性ごと微笑んだ向こうで呼吸ひとつ、涙の声が笑ってくれた。
「うん、また奥多摩に帰るって言ってた、でもね、その頃には私が本郷にいるって思うのよ?そうしたいんだもの、」
待っているばかりの私じゃない、そう告げる声が笑ってくれる。
こんなふう強く真直ぐ前を見つめられる、この美代だから自分は大好きになった。
だから自分の想い人もいつか彼女を想うかもしれない、そんな予兆ごと周太は綺麗に笑いかけた。
「そうだね、美代さんならきっと、そうだと思うよ?かっこいいね、」
きっと東大の学生になって先生になっているよ?
そう本当は言ってあげたい、けれど今この部屋にいる光一には秘密だから言えない。
そんな遠慮に暈かした表現にも友達は気がついて、明るく笑ってくれた。
「ありがとう、きっと大学の住人になってみせるね。ね、もしかして光ちゃんがいるの?」
「ん、いま俺の机で本読んでるみたい、」
答えながら見た視線の先、雪白の手は紺青色の本を開いている。
ページを追う眼差しは真剣に読み取っていく、そんな容子に幼馴染の特技を思いだす。
たしかフランス語も読めると前に話してくれた、きっと後で感想を聴かせてもらえるだろう。
それが楽しみになって微笑んだ電話の向こう、美代も楽しそうに笑ってくれた。
「ね、もしかして光ちゃんたら、湯原くんのお祖父さんの本を読んでる?光ちゃんフランス語も得意だし、」
「ん、当たり。後で感想とか聴いてみる、」
嬉しく笑って答えながら、今夜の美代の様子が解かる気がする。
きっと受験勉強もさっきまでしていない、けれどこの後はするかもしれない?
そう思うまま周太は大切な友達に笑いかけた。
「あのね、何時でも電話とかメールして良いからね?起きてたらすぐ返事するし、もし寝ていても朝には返信するから、」
勉強のことでも、なんとなくの哀しみでも、何でもいい。
自分の声ですこしでも笑ってくれるなら応えたい、そんな想いの先で美代も微笑んだ。
「ありがとう、今日は徹夜勉強もいいなって想ってたの、なんか眠れないし。でも湯原くんと話してほっとしちゃったから寝ちゃうかも?」
「ん、寝れるなら眠ってね?明日は日曜でお休みなんでしょ、せっかくの休日なんだから、」
笑って答えながら、やっぱり嬉しい。
自分と話してほっとした、そう言われると役立った想いに温められる。
こんなふう友達に言われることは幸せだ、嬉しく微笑んだ向こうから美代は訊いてくれた。
「うん、目の腫れがひいたら寝るね?明日は私、宮田くんに謝りに行かなくちゃいけないから、」
「ん?謝るようなこと、しちゃったの?」
美代が英二に謝るなんて、何をしたのだろう?
滅多にないことに不思議で尋ねた向こう、気恥ずかしげな声が微笑んだ。
「あのね、泣いて飛びだしちゃったのよ?異動しますって宮田くんに言われて私、涙が出ちゃって。それが悔しくて逃げちゃったの、」
悔しくて逃げちゃった、そんな発想が美代らしい。
こういう凛とした気丈さが自分は好きだ、嬉しくて周太は微笑んだ。
「悔しくて逃げちゃうなんて、美代さんらしいね。英二はどうしてたの?」
「うん、呆気にとられた貌で私を見てた。あんなに驚いてる宮田くん、初めて見たよ?」
ちょっと可笑しそうに笑ってくれる答えに、一緒に笑いかけて立ち止まる。
この後を英二はどうしたのだろう?気になって電話を持ち直した向こうから美代は笑ってくれた。
「人前で泣くなんて私、苦手でしょ?だからね、もし泣いてしまったら受け留めてほしいって気持ちがあるの、本当に我儘な涙なの。
だから本当は私、宮田くんにも受け留めてほしくて。そういう期待も悔しいって想っちゃって、自分に肚が立って逃げちゃいました、」
泣いたことにも、悔しいことにも、美代は自身に肚を立ててしまう、この凛と潔癖な強さが自分は大好きだ。
こんなふう強い美代を泣かせるには、英二がどんな貌で立っていたのか、どんな態度だったのか?
それが美代をどう傷つけたのか解かってしまう、そのとき自分が選ぶ行動を周太は告白した。
「ぼけっと立ってるだけなんて英二、不甲斐ないね。もし俺がいたら殴っちゃったよ、」
こんなに美代が泣いてしまうのは、きっと英二が何も応えようとしなかったから。
真剣な想いに肯定も否定も無く何ひとつ応えない、そんな態度は二人どちらにも誠実と言えない。
だからこそ自分もその場で美代の隣にいたかった、この素直な本音の向こうで美代が驚いた。
「湯原くんが宮田くんを殴っちゃうの?どうしてそんな…湯原くんがそんなことしちゃうの?」
どうして?そう問いかける声が途惑っている。
美代にとったら意外だろう、そんな今までを想いながら周太は微笑んだ。
「どうしても殴っちゃうと思うよ、俺ってけっこう短気なの。勝手に体が動いちゃう方なんだ、」
きっと自分は英二を殴ってしまった、そう本音から想う。
ちょうど1年ほど前にも英二は元彼女を泣かせた、あの記憶が今フィードバックする。
そして5時間ほど前の御岳駐在所で英二が何を想ったのか?その言葉と態度が見えてしまう。
そんな英二の心理を想うほど自分は殴ったろう、この確信と想いに美代が困ったよう言ってくれた。
「あの、ごめんなさい。私が勝手に泣いただけよ、なのにそんなこと言わせて本当にごめんなさい、余計なこと言ったね、ごめんね、」
「ううん、美代さんは何も悪くない。当然のことなんだから謝ったりしないで、今も言ってもらって良かったよ?」
今、ちゃんと言ってもらって良かった。
そう想うままを周太は言葉に変えて、大切な友達に微笑んだ。
「俺ね、英二の良いところも悪いところも、ちゃんと知っていたいんだ。悪いところも俺が向きあって、きちんと教えてあげたいの。
今日みたいなこともね、きちんと受け留めて考える方が英二に必要なんだって教えてあげたいんだ。美代さんが今言ってくれて良かった、」
英二は女性に冷たい、そうなった過去も理由も自分は知っている。
それは容易に超えられるものじゃない、けれど英二なら超えられると信じている。
だから今も英二に教えてあげたい、そしてもっと幸せな笑顔で英二に笑っていてほしい。
この願いごと祈り想いながら周太は、もう1つの本音に笑いかけた。
「それにね、俺もいちおう男なんだよ?大切な女の子が男に泣かされたらね、同じ男として相手を殴りたいってプライドがあるんだ。
だから俺ね、英二の婚約者として、美代さんの友達として、両方の立場から英二のこと殴らなくちゃいけないの。だからきっと殴ったよ、」
ふたりが大切だからこそ、英二を殴りたい。
ひとりの男として人間として向きあうからこそ、きっと英二を殴っている。
そんな本音に笑った耳元から、いつもの朗らかな声が嬉しそうに笑ってくれた。
「ありがとう、宮田くんのことも私のことも真剣に考えてくれて、すごく嬉しい。やっぱり湯原くんに話せてよかった、」
話せてよかった、そう友達が言ってくれる。
嬉しくて気恥ずかしくて首筋が熱くなってゆく、そっと首すじ掌で押さえた向こう美代は微笑んだ。
「また湯原くんのこと好きになりました。恋愛と違っても、やっぱり一番の男の子は湯原くんよ、」
「ん、ありがとう。俺も一番の女の子は美代さんだよ、」
電話向うへ笑いかけて嬉しくて、幸せに肚の底から温まる。
お互いに一番と言い合える女の子が自分にも居てくれる、そんな今が嬉しい。
この今に踏みだす扉を開けてくれたのは英二だった、だからこそ真直ぐ向きあい英二を全て受け留めたい。
次に逢う時にはこの事も話し合えたら良い、あの大好きな笑顔の記憶へ微笑んだ周太に美代は言ってくれた。
「明日は私、宮田くんに謝ってくるね。泣く相手を間違えたのよって笑ってくる、可愛くない言い方だけど、これが私なんだもの、」
穏やかで生真面目で優しい美代、けれどこんな負けず嫌いの気丈が眩しい。
これを素直じゃないと受けとるか、凛然の美を讃えるのか、それは人によって違うだろう。
こういう美代を英二はどう受け留めてくれる?どうか真直ぐに見とめてと願いながら周太は笑いかけた。
「その言い方、すごくカッコいいよ?そういう美代さんのこと俺、ほんとに綺麗だって想う、」
「綺麗って照れちゃうね、でもありがとう。殴っちゃう湯原くんこそ綺麗で、本当にカッコいいよ?」
お互いの健闘に笑いあう、こんな気持ちは共犯者のよう。
こういう相手だから互いに大好きでいられる、この信頼に微笑んで電話を切った。
このまま美代にゆっくり眠ってほしい、そして明日は英二と笑顔で会えたら良い。
そう願い微笑んで振り向いて、すぐ至近距離の笑顔に驚かされた。
「光一?いつの間にこんな近くに居たの?」
「もし俺がいたらきっと殴っちゃったよ、のトコからだね、」
ベッドの壁際、紺青色の本を抱えこんで光一が微笑み返す。
いつもの大らかな瞳、けれどいつもと違う雰囲気に気がついて周太は訊いてみた。
「あの、光一?いま怒ってるよね、ごめんね、」
「アレ?なんで周太が謝るワケ?」
可笑しそうに言いながらページを捲り、光一の目が周太に笑ってくれる。
その瞳に問われるまま周太は想う通りを素直に応えた。
「だって俺、英二のこと殴るつもりだったから。光一のアンザイレンパートナーに体傷つけるようなこと、ごめんなさい。
もし英二が怪我すれば山岳救助の任務にも差し支えるし、上司としても光一を困らせるのに。なのに勝手なこと言ってすみません、」
山ヤは体が資本と解っている、だから光一には謝りたい。
もしアンザイレンパートナーが怪我すれば光一のクライミング計画も狂わす、それは山岳救助の公務にも響くだろう。
公人としての責務を自分も同じ警察官として解かっている、いま同僚で後輩としても頭を下げた周太に光一は笑ってくれた。
「確かにアイツは俺のザイルパートナーで、一週間もすりゃ正式に部下で補佐官だね。でも俺が怒ってる相手は周太じゃなくて英二だよ、」
相手は自分じゃなく英二、そう言われて驚いてしまう。
けれど理由はすぐ解かる気がして、黙って見つめた先から光一は悪戯っ子に微笑んだ。
「俺も周太とおんなじ理由で怒ってるね、美代は俺にとっちゃ幼馴染で姉貴みたいなモンだからさ。それで前に俺、アイツに言ったんだよ、
美代は滅多にない佳い女だ、だからオマエに惚れても納得だけどイイカゲンな態度はするなってね。ソウいうの反故されたらムカつくだろ?」
隣同士でずっと一緒に育った、そんな相手を大切に想うのは当然だろう。
そんな光一に余計な事を聴かせてしまった、申し訳なくて、けれど率直な想いに周太は口を開いた。
「そうだね、光一も嫌だよね?…きっと英二も今ごろ自分で困ってると想うんだ、どうして良いのか解らなくて、」
「だね、ソレが解かるから俺も怒り続けらんないね、」
笑って答えてくれる瞳はもう大らかに優しい。
いつも通りの笑顔になって光一は、率直に言ってくれた。
「きっと今頃ね、アイツ自身で自分罰ゲームしてるよ。飲みながら悶々と真面目に悩んじゃって、また悩ましい別嬪になってるね、」
からり笑って底抜けに明るい瞳が笑ってくれる、その笑顔にほっとする。
やっぱり光一は英二を理解して受け留めてくれる、そういう光一だから英二を委ねたかった。
この信頼に嬉しく微笑んで、並んで壁際に坐りなおした周太に幼馴染は尋ねてくれた。
「この本、また大学の図書館で借りてきたワケ?」
「ううん、借りてきたんじゃないんだ、」
この話は自分からしたかった、それを先に訊いてもらえて何だか嬉しい。
嬉しく笑って周太は今日の出来事を大好きな幼馴染へ話し始めた。
「この本、俺のお祖父さんが書いた本なの。俺のお祖父さん東大の先生だったでしょ?それで教え子になる教授の方が俺にくれたんだ、」
「へえ、貰って来たんだ?でも図書館のタグついてるね、」
雪白の指が背表紙を示して尋ねてくれる。
その疑問へと周太は、この本に纏わる物語を語り始めた。
「この本はね、祖父が父に贈ったものなんだ。だけど友達にお願いして図書館に寄贈してあったの、その友達が祖父の教え子でね、
今は祖父の研究室を担当している田嶋教授っていう方なんだ。それで先生の翻訳の手伝いしたお礼にって図書館から戻して俺にくれたの、」
こんな偶然たちが重なって今、この本は自分のもとで佇んでいる。
この不思議な幸運に微笑んだ周太に優しい瞳が笑いかけてくれた。
「オヤジさんと祖父さんを知ってる人に会えたんだね、色んな話が聴けたワケ?」
「ん、色々教えてもらったけど俺ね、祖父の孫ってまだ言ってないんだ、気を遣わせそうだから…でも本の由来にって話してくれたの、」
答えながら笑って周太は指を伸ばし、そっと紺青色の表紙を撫でた。
古くても綺麗な布張の感触は優しい、なにか嬉しく微笑んで周太は父の軌跡を紡いだ。
「父はオックスフォードに留学が決っていたって教えてくれたよ、でも祖父がパリで亡くなって留学を辞退してね…それで警察官になったんだ。
それでも父は学問が大切だったから、この本も学問に役立ててほしくて自分が勉強した大学に納めたかったんだ…大切だから、手放したんだ、」
本を寄贈した当時の父は今の自分と同じ年齢だった。
そんな同じにまた願いと微笑んだ隣から、穏やかにテノールの声が尋ねた。
「じゃあこのメッセージって、祖父さんがオヤジさんに書いたものなんだ、」
問いかけながら表紙を開き、古い紙面を雪白の指が示す。
そこに綴られたブルーブラックの筆跡に、そっと周太は微笑んでうなずいた。
「そうだよ、でもね、祖父から俺にも伝えてくれる言葉でもあるんだ…祖父の孫は俺しかいないから、きっと俺への伝言なんだ、」
“Je te donne la recherche” 探し物を君に贈る
探し物を贈る「君」に宛てたメッセージ、それがこの本にある。
この想いと真実を伝えたいと祖父が願うのはきっと、唯一の子孫である自分。
そんな想いに見つめるブルーブラックの筆跡は今、三十数年の時を超えて沈黙のまま伝言を語る。
blogramランキング参加中!

にほんブログ村

第63話 残証act.6―another,side story「陽はまた昇る」
午後22時、第七機動隊付属寮の個室にデスクライトが灯る。
談話室での会話の余韻はまだ楽しい、その前の大学で過ごした時間はもっと楽しかった。
そして切なく温かだった過去の物語を見つめながら、周太は贈られた祖父の遺作を開いた。
“Je te donne la recherche”
ブルーブラックの肉筆が「探し物を君に贈る」と伝言する。
これを記した祖父の想いを「探し物」を父は見つけたのだろうか?
それとも意味が伝わらなかったから父は、この本を後輩に託してしまったのだろうか?
意味が解って手放したのか、意味を知らずに手放したのか?どちらなのかで父の意志は大きく変わる。
もし「探し物」の正体を知って手放したのなら、父は探し物を隠したかったことになる。
もし知らずに手放したのなら父は、祖父が伝えたかった意図を理解できずにいた。
知っていたのか、知らなかったのか?それは父の進路と関係するだろうか?
「…まず、探し物が何かを見つけることだよね、」
ひとりごとに見つめる見開きは、年古る紙の香とブルーブラックの筆跡あざやかに浮き上がる。
狭い寮室の備品机の上、祖父が書き遺した唯一の推理小説へとページを繰りかけたときノックが響いた。
その叩き方と扉向うの気配に来訪者が解かる、静かに紺青色の表紙を閉じると周太は立って扉を開いた。
「こんばんは、湯原くん。遅くにごめんね、今夜も盗聴器チェックさせてもらうよ、」
「はい、」
頷いて見上げた先で光一が笑ってくれる。
やはり今日は光一の訪問時間は遅い、きっと夜間訓練後の処理が色々あったのだろう。
小隊長はどんな仕事があるのか本当は聴いてみたい、けれど守秘義務を想って周太は光一の盗聴器探索を見守った。
その傍ら気になって携帯電話を開き受信チェックをすると、20時前に英二から届いたメールの後は何も無い。
―美代さん、いつもならメールくれるのに…受験勉強の質問、今夜は無いのかな?
毎晩21時過ぎの定期便が、今夜はまだ届かない。
今日は講義のときも研究室でも元気で、いつものよう楽しく勉強していた。
入学試験の書類も受けとれて嬉しそうだった、もしかして、その書類が家族に見つかったのだろうか?
―ご家族から叱られている真っ最中だったらどうしよう、それとも、まさか事故とかじゃないよね?
眺める携帯の画面に不安になる、いったい今夜の美代はどうしたのだろう?
それとも入学要項を読んだり願書の記入をしていて時間が過ぎている?
それなら良いのにと思う前からテノールが笑いかけてくれた。
「チェックOKだよ。周太、ナンか電話待ち?」
「ありがとう、あのね…電話待ちっていうか、」
答えながら幼馴染を見上げて、考えあぐねたまま笑いかける。
その視線に光一はレシーバとダイアル式ラジオをサイドテーブルに置きながら微笑んだ。
「英二なら飲み会だってメールきたよね、美代から連絡が無いとか?」
「ん、」
頷いて携帯の画面を眺めて、美代の今日をまたリフレインする。
帰りの電車でも笑っていた、祖父の書いた本を見てくれた、点法の約束を喜んでいた。
いつものよう穏やかに闊達だった美代、なのに定期連絡が無くてため息吐いた隣から光一が言ってくれた。
「ソンナに気になるんならね、周太から電話すりゃいいだろ?もう遠慮するような仲でも無いんだしさ、」
可笑しそうに笑ってくれる言葉に、小さく覚悟が決められる。
気になるなら電話すればいい、その言葉に押されるよう周太は綺麗に笑った。
「ん、そうだね。ちょっと電話していい?ファイルとか好きに見ていてね、」
「席外さなくってイイんだね、じゃノンビリさせてもらうよ、」
底抜けに明るい目が笑ってデスクの椅子に座ってくれる。
その様子に微笑んで周太はベッドの窓際に腰下すと、ときおり架ける番号を発信した。
きれいな旋律が流れだしコールする、その時間が長く感じた頃ようやく繋がって周太は微笑んだ。
「こんばんわ、美代さん。遅い時間にごめんね、」
笑いかけた電話の向こう、けれど答えない。
どうしたのだろう?心配と首傾げた耳を嗚咽が打った。
「…っ、ぅ…ゆはらく、んっ…」
涙のむ声が呼んでくれる、そのトーンが哀しく揺さぶらす。
いま大切な友達が泣いている、哀しい驚きに周太は呼びかけた。
「美代さん?今は部屋にいるの?」
「ん、…べっどでひざかかえてるの、っ…ぅ、ごめんね泣いて…」
泣き声でも話してくれる言葉は、本質の明るさがきちんとある。
誰かが亡くなったとかの不幸では無い、大学のことでも無さそう?
そんな容子を聴きとりすこし安堵しながら、穏やかに周太は尋ねた。
「ううん、大丈夫だよ?…ずっとなの?」
「夕方にちょっと泣いて…っ、いま湯原くんの電話きて、気が緩んでね…ぅ、なんかまた涙出てきて…おかしいね?」
泣きながらも少し笑ってくれる、その貌が見えるようで切ない。
穏やかでも芯は凛とした美代は滅多に泣かない、それでも美代の涙を2度見た事がある。
一度めは冬富士の雪崩に遭った光一のために、二度目は先月に異動を告げた周太の為に美代は泣いた。
それなら今、こうして美代が泣く理由は誰の為だろう?そう考えた答えに周太はすこしの覚悟と微笑んだ。
「美代さん、英二のことで何かあったの?」
問いかけに、電話の向こうが微笑んで涙を飲み下す。
そして優しい涙の声は穏やかに周太へ応えてくれた。
「当たり…夕方にね、宮田くんが異動するって聴いたの、それでっ…なんか涙、っ…」
声が途切れて、嗚咽が電話を透して伝わらす。
この涙と聲に美代の想いが解かる、きっともう、美代の想いは憧れだけじゃない。
―美代さん、本当に英二のこと好きになったんだね、
心裡に確信が降りてくる、それは自分だからこそ解かる。
自分も9ヶ月前には美代と同じ理由で泣いていた、その理由を周太は言葉に変えた。
「毎日会えてたのに、会えなくなるのは哀しいよね…俺も同じ気持だったから、」
警察学校の狭い寮室、そこに英二が居てくれる時間が自分には安らげる場所だった。
父が亡くなって13年間ずっと孤独に生きていた、その全てを受とめ温めてくれる懐だった。
そこから離れることは哀しくて、少しでも長く傍に居たくて、だから卒業式の夜に英二の求めに応えた。
―あのときの俺と同じ気持なんだ、美代さんは今…傍に居たくて、
御岳駐在所の英二を美代は、毎日のよう訪ねてくれた。
今日の試作品も差入すると笑っていた、それは英二に恋する前からの習慣だった。
いつも幼馴染の光一を訪ねて、光一が異動してからは英二を訪ねて様子を周太にも教えてくれた。
きっとその時間は美代にとって幸せだったはず、そう想う耳へと涙飲む声が聴こえて友達は微笑んだ。
「同じね、でも違うね?私は片想いだから、またねって約束とか…っぅ、っ…」
片想い、その言葉が美代と自分の間に横たわる。
自分は英二と再会の約束を、将来の約束を見つめあえた。
それが本当は出来ない約束だとしても、叶えたい想いを共に確かめ合う幸福があった。
この幸福が今まで自分を生かしてくれた、そして「今」この掌にある全てを与えてくれた。
たとえ同性の恋愛が周囲に認められなくとも、英二と想い交せる幸福は確かに自分へ贈られる。
けれど美代には無い、本当なら祝福されるべき男女の恋愛なのに、それなのに英二は選ばない。
こんなにも人の心はままならない、それでも1ヶ月後の現実を想い周太は願いごとを告げた。
「美代さん、またねって約束を英二として? 」
きっと英二の性格なら「またね」を美代に告げただろう。
その「またね」の意味が美代の想いとは違っていても、再会を約束してほしい。
だって今は違う意味だとしても、いつか同じ意味に変る瞬間が来るかもしれない。
―いつか美代さんの想いが叶うかもしれないんだ、英二なら…俺と光一を同時に想える英二なら、
きっと英二はまだ光一に恋している、たとえ光一が二度と応えなくても。
憧れの山ヤとして、才能ある男として、強く美しい人間として見つめている。
その想いは周太への恋愛とすこし違って、けれど全てを懸ける真摯な熱情は変らない。
だからこそ英二自身ずっと気づかぬフリをしていた、けれど認めてしまえば想いに涯は無い。
それが英二の誠実な恋愛だと自分こそ知っている、だから、その対象に美代が成らないとは限らない。
「ね、美代さん?英二もまた帰ってくるって言ってたでしょ、またねって約束してあげて?」
いつか英二は美代に恋して愛するかもしれない?
その可能性ごと微笑んだ向こうで呼吸ひとつ、涙の声が笑ってくれた。
「うん、また奥多摩に帰るって言ってた、でもね、その頃には私が本郷にいるって思うのよ?そうしたいんだもの、」
待っているばかりの私じゃない、そう告げる声が笑ってくれる。
こんなふう強く真直ぐ前を見つめられる、この美代だから自分は大好きになった。
だから自分の想い人もいつか彼女を想うかもしれない、そんな予兆ごと周太は綺麗に笑いかけた。
「そうだね、美代さんならきっと、そうだと思うよ?かっこいいね、」
きっと東大の学生になって先生になっているよ?
そう本当は言ってあげたい、けれど今この部屋にいる光一には秘密だから言えない。
そんな遠慮に暈かした表現にも友達は気がついて、明るく笑ってくれた。
「ありがとう、きっと大学の住人になってみせるね。ね、もしかして光ちゃんがいるの?」
「ん、いま俺の机で本読んでるみたい、」
答えながら見た視線の先、雪白の手は紺青色の本を開いている。
ページを追う眼差しは真剣に読み取っていく、そんな容子に幼馴染の特技を思いだす。
たしかフランス語も読めると前に話してくれた、きっと後で感想を聴かせてもらえるだろう。
それが楽しみになって微笑んだ電話の向こう、美代も楽しそうに笑ってくれた。
「ね、もしかして光ちゃんたら、湯原くんのお祖父さんの本を読んでる?光ちゃんフランス語も得意だし、」
「ん、当たり。後で感想とか聴いてみる、」
嬉しく笑って答えながら、今夜の美代の様子が解かる気がする。
きっと受験勉強もさっきまでしていない、けれどこの後はするかもしれない?
そう思うまま周太は大切な友達に笑いかけた。
「あのね、何時でも電話とかメールして良いからね?起きてたらすぐ返事するし、もし寝ていても朝には返信するから、」
勉強のことでも、なんとなくの哀しみでも、何でもいい。
自分の声ですこしでも笑ってくれるなら応えたい、そんな想いの先で美代も微笑んだ。
「ありがとう、今日は徹夜勉強もいいなって想ってたの、なんか眠れないし。でも湯原くんと話してほっとしちゃったから寝ちゃうかも?」
「ん、寝れるなら眠ってね?明日は日曜でお休みなんでしょ、せっかくの休日なんだから、」
笑って答えながら、やっぱり嬉しい。
自分と話してほっとした、そう言われると役立った想いに温められる。
こんなふう友達に言われることは幸せだ、嬉しく微笑んだ向こうから美代は訊いてくれた。
「うん、目の腫れがひいたら寝るね?明日は私、宮田くんに謝りに行かなくちゃいけないから、」
「ん?謝るようなこと、しちゃったの?」
美代が英二に謝るなんて、何をしたのだろう?
滅多にないことに不思議で尋ねた向こう、気恥ずかしげな声が微笑んだ。
「あのね、泣いて飛びだしちゃったのよ?異動しますって宮田くんに言われて私、涙が出ちゃって。それが悔しくて逃げちゃったの、」
悔しくて逃げちゃった、そんな発想が美代らしい。
こういう凛とした気丈さが自分は好きだ、嬉しくて周太は微笑んだ。
「悔しくて逃げちゃうなんて、美代さんらしいね。英二はどうしてたの?」
「うん、呆気にとられた貌で私を見てた。あんなに驚いてる宮田くん、初めて見たよ?」
ちょっと可笑しそうに笑ってくれる答えに、一緒に笑いかけて立ち止まる。
この後を英二はどうしたのだろう?気になって電話を持ち直した向こうから美代は笑ってくれた。
「人前で泣くなんて私、苦手でしょ?だからね、もし泣いてしまったら受け留めてほしいって気持ちがあるの、本当に我儘な涙なの。
だから本当は私、宮田くんにも受け留めてほしくて。そういう期待も悔しいって想っちゃって、自分に肚が立って逃げちゃいました、」
泣いたことにも、悔しいことにも、美代は自身に肚を立ててしまう、この凛と潔癖な強さが自分は大好きだ。
こんなふう強い美代を泣かせるには、英二がどんな貌で立っていたのか、どんな態度だったのか?
それが美代をどう傷つけたのか解かってしまう、そのとき自分が選ぶ行動を周太は告白した。
「ぼけっと立ってるだけなんて英二、不甲斐ないね。もし俺がいたら殴っちゃったよ、」
こんなに美代が泣いてしまうのは、きっと英二が何も応えようとしなかったから。
真剣な想いに肯定も否定も無く何ひとつ応えない、そんな態度は二人どちらにも誠実と言えない。
だからこそ自分もその場で美代の隣にいたかった、この素直な本音の向こうで美代が驚いた。
「湯原くんが宮田くんを殴っちゃうの?どうしてそんな…湯原くんがそんなことしちゃうの?」
どうして?そう問いかける声が途惑っている。
美代にとったら意外だろう、そんな今までを想いながら周太は微笑んだ。
「どうしても殴っちゃうと思うよ、俺ってけっこう短気なの。勝手に体が動いちゃう方なんだ、」
きっと自分は英二を殴ってしまった、そう本音から想う。
ちょうど1年ほど前にも英二は元彼女を泣かせた、あの記憶が今フィードバックする。
そして5時間ほど前の御岳駐在所で英二が何を想ったのか?その言葉と態度が見えてしまう。
そんな英二の心理を想うほど自分は殴ったろう、この確信と想いに美代が困ったよう言ってくれた。
「あの、ごめんなさい。私が勝手に泣いただけよ、なのにそんなこと言わせて本当にごめんなさい、余計なこと言ったね、ごめんね、」
「ううん、美代さんは何も悪くない。当然のことなんだから謝ったりしないで、今も言ってもらって良かったよ?」
今、ちゃんと言ってもらって良かった。
そう想うままを周太は言葉に変えて、大切な友達に微笑んだ。
「俺ね、英二の良いところも悪いところも、ちゃんと知っていたいんだ。悪いところも俺が向きあって、きちんと教えてあげたいの。
今日みたいなこともね、きちんと受け留めて考える方が英二に必要なんだって教えてあげたいんだ。美代さんが今言ってくれて良かった、」
英二は女性に冷たい、そうなった過去も理由も自分は知っている。
それは容易に超えられるものじゃない、けれど英二なら超えられると信じている。
だから今も英二に教えてあげたい、そしてもっと幸せな笑顔で英二に笑っていてほしい。
この願いごと祈り想いながら周太は、もう1つの本音に笑いかけた。
「それにね、俺もいちおう男なんだよ?大切な女の子が男に泣かされたらね、同じ男として相手を殴りたいってプライドがあるんだ。
だから俺ね、英二の婚約者として、美代さんの友達として、両方の立場から英二のこと殴らなくちゃいけないの。だからきっと殴ったよ、」
ふたりが大切だからこそ、英二を殴りたい。
ひとりの男として人間として向きあうからこそ、きっと英二を殴っている。
そんな本音に笑った耳元から、いつもの朗らかな声が嬉しそうに笑ってくれた。
「ありがとう、宮田くんのことも私のことも真剣に考えてくれて、すごく嬉しい。やっぱり湯原くんに話せてよかった、」
話せてよかった、そう友達が言ってくれる。
嬉しくて気恥ずかしくて首筋が熱くなってゆく、そっと首すじ掌で押さえた向こう美代は微笑んだ。
「また湯原くんのこと好きになりました。恋愛と違っても、やっぱり一番の男の子は湯原くんよ、」
「ん、ありがとう。俺も一番の女の子は美代さんだよ、」
電話向うへ笑いかけて嬉しくて、幸せに肚の底から温まる。
お互いに一番と言い合える女の子が自分にも居てくれる、そんな今が嬉しい。
この今に踏みだす扉を開けてくれたのは英二だった、だからこそ真直ぐ向きあい英二を全て受け留めたい。
次に逢う時にはこの事も話し合えたら良い、あの大好きな笑顔の記憶へ微笑んだ周太に美代は言ってくれた。
「明日は私、宮田くんに謝ってくるね。泣く相手を間違えたのよって笑ってくる、可愛くない言い方だけど、これが私なんだもの、」
穏やかで生真面目で優しい美代、けれどこんな負けず嫌いの気丈が眩しい。
これを素直じゃないと受けとるか、凛然の美を讃えるのか、それは人によって違うだろう。
こういう美代を英二はどう受け留めてくれる?どうか真直ぐに見とめてと願いながら周太は笑いかけた。
「その言い方、すごくカッコいいよ?そういう美代さんのこと俺、ほんとに綺麗だって想う、」
「綺麗って照れちゃうね、でもありがとう。殴っちゃう湯原くんこそ綺麗で、本当にカッコいいよ?」
お互いの健闘に笑いあう、こんな気持ちは共犯者のよう。
こういう相手だから互いに大好きでいられる、この信頼に微笑んで電話を切った。
このまま美代にゆっくり眠ってほしい、そして明日は英二と笑顔で会えたら良い。
そう願い微笑んで振り向いて、すぐ至近距離の笑顔に驚かされた。
「光一?いつの間にこんな近くに居たの?」
「もし俺がいたらきっと殴っちゃったよ、のトコからだね、」
ベッドの壁際、紺青色の本を抱えこんで光一が微笑み返す。
いつもの大らかな瞳、けれどいつもと違う雰囲気に気がついて周太は訊いてみた。
「あの、光一?いま怒ってるよね、ごめんね、」
「アレ?なんで周太が謝るワケ?」
可笑しそうに言いながらページを捲り、光一の目が周太に笑ってくれる。
その瞳に問われるまま周太は想う通りを素直に応えた。
「だって俺、英二のこと殴るつもりだったから。光一のアンザイレンパートナーに体傷つけるようなこと、ごめんなさい。
もし英二が怪我すれば山岳救助の任務にも差し支えるし、上司としても光一を困らせるのに。なのに勝手なこと言ってすみません、」
山ヤは体が資本と解っている、だから光一には謝りたい。
もしアンザイレンパートナーが怪我すれば光一のクライミング計画も狂わす、それは山岳救助の公務にも響くだろう。
公人としての責務を自分も同じ警察官として解かっている、いま同僚で後輩としても頭を下げた周太に光一は笑ってくれた。
「確かにアイツは俺のザイルパートナーで、一週間もすりゃ正式に部下で補佐官だね。でも俺が怒ってる相手は周太じゃなくて英二だよ、」
相手は自分じゃなく英二、そう言われて驚いてしまう。
けれど理由はすぐ解かる気がして、黙って見つめた先から光一は悪戯っ子に微笑んだ。
「俺も周太とおんなじ理由で怒ってるね、美代は俺にとっちゃ幼馴染で姉貴みたいなモンだからさ。それで前に俺、アイツに言ったんだよ、
美代は滅多にない佳い女だ、だからオマエに惚れても納得だけどイイカゲンな態度はするなってね。ソウいうの反故されたらムカつくだろ?」
隣同士でずっと一緒に育った、そんな相手を大切に想うのは当然だろう。
そんな光一に余計な事を聴かせてしまった、申し訳なくて、けれど率直な想いに周太は口を開いた。
「そうだね、光一も嫌だよね?…きっと英二も今ごろ自分で困ってると想うんだ、どうして良いのか解らなくて、」
「だね、ソレが解かるから俺も怒り続けらんないね、」
笑って答えてくれる瞳はもう大らかに優しい。
いつも通りの笑顔になって光一は、率直に言ってくれた。
「きっと今頃ね、アイツ自身で自分罰ゲームしてるよ。飲みながら悶々と真面目に悩んじゃって、また悩ましい別嬪になってるね、」
からり笑って底抜けに明るい瞳が笑ってくれる、その笑顔にほっとする。
やっぱり光一は英二を理解して受け留めてくれる、そういう光一だから英二を委ねたかった。
この信頼に嬉しく微笑んで、並んで壁際に坐りなおした周太に幼馴染は尋ねてくれた。
「この本、また大学の図書館で借りてきたワケ?」
「ううん、借りてきたんじゃないんだ、」
この話は自分からしたかった、それを先に訊いてもらえて何だか嬉しい。
嬉しく笑って周太は今日の出来事を大好きな幼馴染へ話し始めた。
「この本、俺のお祖父さんが書いた本なの。俺のお祖父さん東大の先生だったでしょ?それで教え子になる教授の方が俺にくれたんだ、」
「へえ、貰って来たんだ?でも図書館のタグついてるね、」
雪白の指が背表紙を示して尋ねてくれる。
その疑問へと周太は、この本に纏わる物語を語り始めた。
「この本はね、祖父が父に贈ったものなんだ。だけど友達にお願いして図書館に寄贈してあったの、その友達が祖父の教え子でね、
今は祖父の研究室を担当している田嶋教授っていう方なんだ。それで先生の翻訳の手伝いしたお礼にって図書館から戻して俺にくれたの、」
こんな偶然たちが重なって今、この本は自分のもとで佇んでいる。
この不思議な幸運に微笑んだ周太に優しい瞳が笑いかけてくれた。
「オヤジさんと祖父さんを知ってる人に会えたんだね、色んな話が聴けたワケ?」
「ん、色々教えてもらったけど俺ね、祖父の孫ってまだ言ってないんだ、気を遣わせそうだから…でも本の由来にって話してくれたの、」
答えながら笑って周太は指を伸ばし、そっと紺青色の表紙を撫でた。
古くても綺麗な布張の感触は優しい、なにか嬉しく微笑んで周太は父の軌跡を紡いだ。
「父はオックスフォードに留学が決っていたって教えてくれたよ、でも祖父がパリで亡くなって留学を辞退してね…それで警察官になったんだ。
それでも父は学問が大切だったから、この本も学問に役立ててほしくて自分が勉強した大学に納めたかったんだ…大切だから、手放したんだ、」
本を寄贈した当時の父は今の自分と同じ年齢だった。
そんな同じにまた願いと微笑んだ隣から、穏やかにテノールの声が尋ねた。
「じゃあこのメッセージって、祖父さんがオヤジさんに書いたものなんだ、」
問いかけながら表紙を開き、古い紙面を雪白の指が示す。
そこに綴られたブルーブラックの筆跡に、そっと周太は微笑んでうなずいた。
「そうだよ、でもね、祖父から俺にも伝えてくれる言葉でもあるんだ…祖父の孫は俺しかいないから、きっと俺への伝言なんだ、」
“Je te donne la recherche” 探し物を君に贈る
探し物を贈る「君」に宛てたメッセージ、それがこの本にある。
この想いと真実を伝えたいと祖父が願うのはきっと、唯一の子孫である自分。
そんな想いに見つめるブルーブラックの筆跡は今、三十数年の時を超えて沈黙のまま伝言を語る。
blogramランキング参加中!

