萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

第64話 富嶽act.2―side story「陽はまた昇る」

2013-04-10 23:11:24 | 陽はまた昇るside story
想い、頂点へ   



第64話 富嶽act.2―side story「陽はまた昇る」

賑わう話し声、味噌汁の香と生姜焼きの甘辛い匂い、それから前と横の笑う会話。
いつもの音と香を感じながら、いつもの席で前にする夕食の窓は月が南中に差し掛かる。
今は午後20時すぎ、約一時間ごと変化するから明日は21時すぎが南中時刻になるだろう。
そのとき自分は富士の山小屋にいる、ちょうど4ヶ月ぶりの山に微笑んだ前から藤岡が笑った。

「宮田、もう富士に登ってんだろ?」
「わかる?」

素直に笑った英二に陽気な笑顔が頷いてくれる。
この青梅署に卒業配置されてからこの貌といつも食事してきた。
そして学んだ自分の弱点を警戒して汁椀をトレイに戻すと、隣から原が訊いてくれた。

「出るのは何時だ?」
「3時半、後藤さんのご自宅に4時なんです、」

元は前夜に出発の予定だった、けれど当日朝に変更してある。
その理由は吉村医師と自分と、光一しか知らない。来月には地域部長の蒔田も知るだろう。
他には一切の他言は出来ない、この秘密を隠し微笑んだ英二に低い声がすこし笑った。

「5時半スタートか、副隊長と宮田なら午前中で折り返しだろうな、」

確かに前ならそうだった、けれど今回は違うだろう。
この現実に痛みと微笑んで英二はいつものよう穏やかに答えた。

「はい、でも俺、富士の色んな話を聴こうって思ってます。だからタイムは遅くなるかもしれません、」
「副隊長のガイドか、贅沢だな、」

丼飯を片手に低い声が笑って精悍な瞳も愉しげに見てくれる。
ほんとうに自分には贅沢すぎる富士登山だろう、そんな想いに英二は笑いかけた。

「ほんと贅沢です、警視庁最高の名ガイドを独りじめですから、」

奥多摩は都心から近いため皇族などVIPが山行に訪れることもある。
その警衛とガイドを後藤は長く務めてきた、その後継になれるのも光一だろう。
奥多摩出身として山を熟知し英仏2ヶ国語を遣える、こんな適任は他に考えられない。
どうして後藤が光一を警視庁に入れたがったのか改めて思う隣から、低い声が言ってくれた。

「贅沢なレポート、また聴かせろよ?」

贅沢なレポート、そんな言葉に原の後藤に対する敬意が解かる。
そんな後任者に大切な上司のことを話しておきたい、この想い微笑んで英二は提案した。

「だったら明後日の夜、飲みながら話しますか?きっと長いレポートになるし、」

明後日の午後に富士山から戻ってくる、その三日後に自分は第七機動隊へ異動する。
そうしたら原と同じ部署になる次があるのか解らない、それは藤岡とも同じことだ。
だから一緒に飲める機会を大切にしたい、そんな想いに精悍な瞳も笑って頷いてくれた。

「土産は山梨の酒だな、」
「はい、一升瓶と帰ってきます。藤岡も明後日は柔道なかったよな?」
「うん、夜稽古は無いからさ。いつものポテチ買っとくな、」

愉快そうに笑って藤岡も頷いてくれる。
その大きな目で英二を見、いつもの朗らかなトーンで言ってくれた。

「なんかさ、あと宮田と飲めるの2回って変な感じだな?異動してもたまには飲もうな、」
「おう、御岳の剣道会に稽古で来るから、また声かけるよ、」

毎週土曜か水曜の稽古に休日が重なれば帰ってくる。
その予定と笑った英二に原が訊いてくれた。

「おまえ、青梅署じゃなくて地元の剣道会なんだ?」
「うん、国村に入れられたんだ。御嶽神社の奉納試合で人数が足りないって、」
「ほんと仲良いな、」

さらっと短く言って笑ってくれる日焼顔は温かい。
こんな貌をしてもらえると初対面では想えなかった、この今が素直に嬉しい。
微笑んで味噌汁に口付けた椀の向こう、人の好い同期は愉しげに笑って言った。

「原さんと宮田も仲良くなったよなあ、国村が妬きそうだよな、イヴを差し置いてヒドイわぁとか湯原に言い、うわっ?」

だから藤岡、そのネタは噴いちゃうから止めろよ?

そう言って止めたかったけれど、藤岡の献立すべて味噌風味に変更された。
どうしていつも結局こうなんだろう?これでは異動当日の朝食まで油断ならない。
そんな予想に笑いたくなりながら噎きこむ英二と藤岡の境に、ティッシュボックス差出し原が笑ってくれた。

「ふはっ、あんたホント噎せるよな?藤岡も災難だな、」
「ほとんど食べ終わってるし大丈夫だよ、でも俺、ほんとよく宮田にはぶっかけられてるよなあ、」

からっと笑いながらティッシュでトレイを拭いている、その手つきもすっかり慣れている。
もう習慣化したような自分の失態に困りながら、けれど恨み半分コップの水ごと飲み下してから英二は謝った。

「ごめん、藤岡。いつも色々噴いて、」
「平気だよ、火傷とか無いものばっかだしさ。でも宮田、七機では先輩とかに噴かないようにしろよ?」

人の好い笑顔で言ってくれる言葉に本当はツッコミ入れたい。
おまえの言い方と話題の所為で噴いてんだけど?そんな言葉飲みこんだ隣から原が質問した。

「あのさ、イヴを差し置いてってどういう意味だ?」

その質問には何だか答えさせたくない。
遮りたくて口開きかけて、けれど朗らかな声が機先を制し笑った。

「宮田は国村のアダムなんだよ、で、山の雪原が楽園なんだってさ、な?」

な?とかって同意求めてくんなよ。

そう言い返したくなるのも可笑しくて笑い込みあげてしまう。
コップを片手に笑いだした英二の隣で原も丼飯を片手に笑ってくれた。

「宮田、愛されてるな、」
「ほんと愛されてるよ、だから原さんと仲良いの国村が知ったら嫉妬して、七機で宮田のこと面白半分イビりそうだなってさ。あははっ、」

あっけらかとした藤岡の口調、なのに内容がやや物騒だ。
あのアンザイレンパートナーなら面白半分でやりかねない、そんな予想に困りながら英二は丼飯のお替りに立った。



午前4時、夜明けの風は車窓から肌吹きつけて心地いい。
起きぬけに浴びた水ふくんだ髪は冷気に梳かれる、この体感に意識がクリアになる。
今日の山行は今までと似ていて違う、その責任への想いが中心から背筋を伸ばさせる。

―後藤さん、今、どんな想いでいるんだろう?

稀代の山ヤは今、母国最高峰へ何を想う?
今回が最後になるかもしれない富士登頂を前に、後藤は今どんな想いで待つのだろう?
つい廻らす想いとハンドル捌いてゆく頬を夜気は冷やしてかすかな風切音が耳元を掠めゆく。
吹きぬける音と風を聴きながらパワーウィンドウを閉め、カーナビ示す目的地点へ最終カーブを曲がる。
まだ薄暗い住宅街、けれど一軒だけ明り灯らす玄関が静かに開いて笑顔がふたつ現われた。

「おはよう、宮田。出迎え悪いなあ、ありがとうよ、」
「おはようございます、朝早くすみません、」

ドア開き笑いかけた先、後藤の元気そうな笑顔に嬉しくなる。
運転席から降りて登山ザックを受けとると、広やかな肩の隣から華奢な女性が微笑んだ。

「おはようございます、宮田さん。娘の紫乃です、父がお世話になりますがよろしくお願いします、」

優しい声であいさつしながらショートカットの頭を丁寧に下げてくれる。
この初対面に恐縮しながら英二も頭を下げ、彼女へ綺麗に笑いかけた。

「こちらこそ後藤さんにお世話になっています、いつもすみません、」
「あら、」

小さく声をあげると紫乃は瞳ひとつ瞬かせた。
父親と似た深い色彩の目は英二を見あげて、その視線が物言いたげでいる。
この眼差しの言葉を聞きとって英二は穏やかに微笑んだ。

「やっぱり俺、雅樹さんと似ていますか?」
「はい、」

隠さず素直に頷いてくれる率直な微笑も父親譲りに温かい。
おそらく紫乃は三十前後だろう、年格好からも雅樹の記憶があって不思議は無い。
きっと父親同士が親しい分だけ話す機会もあったろうな、そう理解に微笑んだ英二に後藤が笑ってくれた。

「すまんなあ宮田、紫乃は雅樹くんに憧れてたもんだからな、ぽーっとしても許してやってくれ、」
「やだ、お父さんたら余計なこと言ったりして?でも図星なの、ごめんなさい宮田さん、」

朗らかに謝ってくれる紫乃の顔は懐旧にも明るい。
こういう人柄が山岳レスキューの最前線に立つ父親を支えてきたのだろう。
そしてきっと母親のことも支えていた、そんな彼女の生き方を笑顔に見つめながら英二は綺麗に笑った。

「俺も雅樹さんのことは嫉妬しそうなくらい憧れています、だから似ているって言われると光栄です、」

嫉妬するほど憧れる、それほど雅樹は目標でもある。
あんなふうに生きられたら良い、そう何度も見つめている想い微笑んだ前で紫乃も笑ってくれた。

「本当に宮田さんって正直で誠実なのね、すごく笑顔も綺麗で。お父さんが大好きになるの解かるわ、」
「だろう?こんな弟がいたら良いなあって、紫乃も岳志も思うだろう?」

愉しげに深い声が笑ってくれる、その言葉に心止められる。
いま娘の名前と呼んだもう1つの名前、そこに籠る願いを見つめる向うで紫乃は明るく笑った。

「うん、たけちゃんも思ってるわね、きっと今日もお父さんと一緒に登るんじゃない?」
「そうだなあ、きっと一緒だな?じゃあ行ってくるよ、」

娘に笑いかけて後藤は助手席にまわりこんだ。
その扉閉まる音が静かに鳴って、紫乃は英二を見上げ言ってくれた。

「宮田さん、父の最後の富士をよろしくお願いします、」

いま「父の最後の富士」と言った、その言葉に息を呑む。
きっと後藤なら家族の心配を考える、だから自身の病状を話していないと思っていた。
けれど娘にだけは話したのだろうか?すこし意外な想いに佇む英二を見上げ、山ヤの娘は穏やかに微笑んだ。

「父はまだ何も話してくれていません、でも様子を見ていれば解かります、胸がどこか悪いのでしょう?」

もう紫乃は気がついている、けれど父を止めない。
それくらい父親を理解し受けとめようとする娘の真心に、英二は正直なまま頷いた。

「はい、まだ内密の事ですが、」
「そうでしょうね、きっと父もぎりぎりまで家族にも言わないと思うわ、」

穏やかに笑って言ってくれる、その声に乱れは欠片も無い。
きっと父親と同じに懐の深い人柄なのだろう、そう思いながら英二は尋ねた。

「どうして後藤さんの体のこと、俺は知ってるって思ったんですか?」
「吉村先生の助手もされると伺っているからです、応急処置が素晴らしいと先生からも聴いています、」

なんでもないふう答えて紫乃は穏やかに微笑んだ。
深い瞳で英二を見上げ、彼女は穏やかな声のまま続けた。

「吉村先生のご信頼が篤い宮田さんが一緒だから、先生も今日の登山を許可してくれたのでしょう?だからご存知だと思いました、」

全て理解した上で紫乃は父親を笑顔で見送ろうとしている。
まだ三十前後と若いはず、それでも揺るがない深く朗らかな声は言ってくれた。

「この一ヶ月、今日の富士を父は本当に楽しみにしていました。どうか出来る限り願いを叶えてやってください、よろしくお願いします、」

朗らかで深みある声は微笑んで、けれど黒い瞳はひとしずく涙こぼす。
この涙に山ヤの娘の覚悟と想いが解かる、その全てを背負わせて欲しくて英二は綺麗に微笑んだ。

「はい、俺の方こそ今日は楽しませてもらいます。後藤さんと富士に登れるなんて、俺たち山ヤにとったら光栄なんですよ?」

本当に光栄なことだ、そう肚の底から想っている。
山岳経験が1年も無い人間がファイナリストクライマーと登らせてもらう、こんな幸運は普通無い。
この幸運も家族たちの想いも自分が抱きとめていたい、そう率直な想いに笑った英二に紫乃も涙払って笑ってくれた。

「ありがとうございます、本当に宮田さんって良い人ね。無事に山を楽しんできてください、」
「ありがとうございます、行ってきます、」

礼を告げ頭を下げると英二は運転席に乗り込んだ。
パワーウィンドウを下げながらシートベルトする、その窓へ後藤が軽く手を振り笑った。

「ほうい、紫乃。広岳と緑によろしく伝えてくれよ、高広くんにもな、」
「ええ、伝えておくわ。行ってらっしゃい、」

深い瞳を細めた見送る笑顔も、そんな娘を見上げる笑顔も、ふたり共に優しく明るい。
お互いさり気なく穏やかで明るい笑顔、けれど深く揺るがない信頼と覚悟が息づいている。

―紫乃さんは帰りのことを言わない、後藤さんも行ってくるしか言わないんだ、

山は美しい、けれど厳しい。
それを熟知する父とその娘は「帰ってくる」とはどちらも言わずに、ただ笑っている。
ただ信じるまま再会は心だけで祈りあう、こんな笑顔を父娘は幾度交わしてきたのだろう?
そして今は後藤にもう1つの理由があるからこそ尚更に「無事に帰る」と二人とも言わない。
この父と娘に通う想いが温かい、それを自分も見せてもらえる今が切なくて嬉しくて、そして想う。

―俺も周太に紫乃さんと同じ覚悟をさせているんだ、美幸さんにも、姉ちゃんやお祖母さんや、父さんたちにも、

後藤に紫乃たち家族があるように、自分にも周太と家族がある。
もう自分は分籍して実家から法律上断絶した、それでも心の縁までは切れない。
何よりも自分は既に一度遭難して負傷している、きっと本当は誰も心配しているだろう。
そのことを今あらためて感謝と想いながらハンドルを捌く隣、愉しげに稀代の山ヤが笑った。

「なあ宮田、紫乃は俺の病気を気づいてるだろう?」

後藤も娘をよく解っている。
この相互理解が温かで、なにか嬉しくて英二は素直に微笑んだ。

「はい、胸がどこか悪いでしょうって訊かれました、」
「ははっ、我ながら良く出来た娘だよ、あれは女房似だからなあ?」

深い声が笑ってくれる、その眼差しはフロントガラス越しにも温かい。
こんな笑顔の父親がいたら家庭は幸福だろう、その幸せの分だけきっと喪いたくない。
それでも見送った紫乃の想いを見つめる隣から、気丈な娘の父親は幸せそうに教えてくれた。

「女房もなあ、さっきの紫乃みたいにいつも笑って見送ってくれたよ。帰りの事は何も訊かないで、可愛い笑顔で行ってらっしゃいってな。
それで帰ると風呂がちゃんと沸いてて浴衣とタオルも揃えてあってな、熱い飯がいつも待っててくれたよ。その通りに紫乃もしてくれる。
きっと明後日も同じように待っていてくれるよ、ただ今回はいつもより覚悟してくれてるなあ、胸の事を気付いても黙って見送ったんだ、」

いつもの朗らかで深い声が、夜明け前の車内を穏やかに響く。
かすかなエンジン音の相槌を聴きながら、熟練の山ヤは幸せに微笑んだ。

「女房は体が弱かったがな、娘は俺にも似てくれて普通に健康なんだ。おかげで紫乃も山は少しやってるんだよ、富士も夏は一緒に登ってな。
それに紫乃は助産師でな、医学ってヤツを幾らか解ってる。だからな、胸をやられている俺が三千級に登るリスクをちゃんと解ってるんだよ、
それでも止めないで送りだしてくれたんだ、それだけ俺が山ヤだってことを尊重して、信じて、馬鹿なオヤジをよく解って受けて留めてるんだ、」

語られる言葉と想いは篤いけれど軽やかで、逞しい。
こんなふうに自分もいつか誇りを懸けて、家族に見送られ山へ向かう日があるのだろうか?
そんな想いごと英二はフロントガラス越しに敬愛する男へ笑いかけた。

「カッコいいです、後藤さんも娘さんも、奥さんも、」
「おう、カッコいい娘と女房だろ?俺はまあコンナだがなあ、」

深い目が衒いなく微笑んでくれる、その大らかな笑顔が映るフロントガラス遥かに暁の高峰が見えた。







(to be continued)

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