萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

第64話 富嶽act.3―side story「陽はまた昇る」

2013-04-11 22:37:49 | 陽はまた昇るside story
天津風、この祈り駈けて 



第64話 富嶽act.3―side story「陽はまた昇る」

登山靴に岩を踏み、樹木と土の香が頬なでる。

吹き下ろす風に大気ゆらして葉擦れざわめく、梢が鳴る音が共鳴する。
ヘッドライトの薄闇は明けの風に払われて、ゆく道の彼方へ曙光が射しこんだ。

「おう、しっかり夜が明けるな、」

深い声が愉しげに笑って足を速める、その歩幅に呼吸を英二は合せた。
見る間に樹林帯を抜けて視界ひろやかに開け、東方から光の梯子が降りそそぐ。
大らかに明るみだす砂岩の山肌は荒々しくも温かい、いま夏の富士が見せる貌に英二は笑った。

「夏も綺麗ですね、冬とは別人みたいだ、」
「だろう?いろんな貌の美人さんだな、」

笑ってくれる声も日焼の笑顔も元気に明るい。
話すトーンも呼吸に乱れが無い、その安堵に英二は提案と微笑んだ。

「後藤さん、すこし休憩しませんか?ここで馴化しておくと後が楽です、」
「ああ、宮田が言うならそうしようよ、」

素直に後藤は頷いて足を止めてくれた。
標高2,300mを越えた世界は気温が下界より13度程下がる、いま8月末の朝風は涼しい。
登りに籠った熱のクールダウンに瞳細めた隣から、深い目が笑いかけてくれた。

「おい、どうせ順化するなら歩こうじゃないか?おまえさん、お中道は歩いたことが無いんだろう?」

やっぱり後藤に山で止まっていろと言う方が無理らしい。
その楽しそうな笑顔と提案に英二は答えながら微笑んだ。

「はい、お中道は未体験です。でも後藤さん、その前に体調チェックさせて下さいませんか?」
「検温なら今は要らんよ、登り中じゃあ熱があがっとるのが普通だ。咳も今日は出ていない、息継ぎ回数も酷くないだろう?」

大らかな笑顔がセルフチェック済みだと笑ってくれる。
やっぱりこの人は山岳救助隊副隊長、山岳レスキュー最前線の指揮官らしい様子に嬉しくて英二は笑った。

「はい、仰る通りです。じゃあ行きましょうか?」
「ああ、行こう、」

深く太い声が笑って西へ歩きだす、その足取りは軽やかに頼もしい。
いま楽しくて仕方ない、そんな様子は自分のアンザイレンパートナーと似ている。

―光一、そろそろ山に行きたいって周太に言ってるんだろうな、

光一が第七機動隊に異動してじき一ヶ月、その間は訓練場のトレーニングだけらしい。
現場のクライミング、いわゆる本チャン好きの光一は我慢もそろそろ限界に近いだろう。
それを周太が聴いて慰めているかもしれない、そんな二人の時間を想いながら東の空を仰いだ。

明け初めた太陽は高度と輝度を上げてゆく、金色の虚空はるかな風に雲は旗を翻す。
光彩は天から降りそそいで樹林も砂岩も照らして辿る天地分ける境界線にも光きらめく。
いま高峰ひろやかな蒼穹へ光に満ちる、その色彩と光の移ろう山と空の貌に記憶の詩が描かれた。

The innocent brightness of a new-born Day Is lovely yet;
The Clouds that gather round the setting sun
Do take a sober colouring from an eye That hath kept watch o’er man’s mortality;
Another race hath been,and other palms are won.
Thanks to the human heart by which we live. Thanks to its tenderness,its joys,and fears,
To me the meanest flower that blows can give Thoughts that do often lie too deep for tears.

  生まれた新たな陽の純粋な輝きは、いまも瑞々しい
  沈みゆく陽をかこむ雲達に、謹厳な色彩を読みとる瞳は人の死すべき運命を見つめた瞳
  時の歩みを経、もうひとつの掌に勝ちとれた
  生きるにおける人の想いへの報謝 やさしき温もり、歓び、そして恐怖への感謝
  慎ましやかに綻ぶ花すらも、私には涙より深く心響かせる

遠い異国の詩人が謳う光景に、自分は幾度も佇んできた。
それは今一緒に歩いてくれる背中を追い、尊敬と親しみに見あげた時間だった。
訓練する時、救助要請に応え任務に就く時、いつも後藤は信じて見守りチャンスを与えてくれた。

Thanks to the human heart by which we live. Thanks to its tenderness,its joys,and fears,

生きることの報謝、温もりと歓び、恐怖による戒め。
この全てを自分が学べたのは青梅署山岳救助隊で過ごした11ヶ月だった。
山の美しさを見つめる瞬間、山の恐怖を知る瞬間、この生と死の廻らす世界に立つ今は誰が導いたのか?
それを誰よりも自分が知っている、そして今も本来望むべくもない幸運を自分は与えられている。

―後藤さんが俺を青梅署に呼んでくれたんだ、それがチャンスの全てだ、

蒼いウィンドブレーカーの背中が雪山に立つ写真。
あの写真を警察学校で見て憧れて、山ヤの警察官に夢と理想を見つけ進路を定めた。
あの写真があったから山岳レスキューになる道は、周太を救う為だけでは無く自身の誇りになった。
あの背中は光一、それを撮影したのは後藤、光一を警視庁山岳救助隊員に育てたのも後藤だった。
そして光一のザイルパートナーに英二を選んでくれたのも、最後は後藤の決断だった。

『国村さんは山ヤの世界じゃ別格なんだ、警視庁山岳会では救世主ってカンジでさ』

昨日の朝、原が教えてくれた光一の評価は現実だ。
国内ファイナリストクライマーの両親に光一は生まれ、天才と呼ばれた雅樹に技術を教わった。
この3人ともが山ヤの世界では伝説なのだと今の自分は知っている、その全員に愛される存在は別格で当然だ。
そんな光一のザイルパートナーとして無名どころか経験零で未知数の英二を選んだことは、後藤の大きな決断だった。

後藤がいなかったら自分は、山ヤにも救助隊員にもなれなかった。
救命救急の世界に生きることも無く、山の峻厳を知らぬまま何者にも成れない。
そうしたら自分には夢も誇りも見つけられなかった、周太を援けることも出来ないだろう。
この山ヤが自分を「山」に呼んだから全てがある、そんな想い微笑んで山肌を踏みしめ山を靴裏に噛みしめる。

ざぐっ、ざぐっ、

砂と岩の混じる固い道はあまり経験が無い。
火山特有の山肌は荒涼にも見えて白銀まばゆい冬富士と別の貌でいる。
この姿のように富士は夏と冬で難易度も全くの別次元、そして左手の山頂側と右手の麓側でも姿が違う。
いま境界たどってゆく浮遊感のまま石畳に入ると深い声が愉しげに教えてくれた。

「お中道はな、天地の境と呼ばれてるんだ。富士講の盛んなころは神と人間の境といわれたもんだ。聖域ってやつだなあ、」

朗々と歌うよう深い声が言う、その言葉に辺りを見渡して英二は呼吸ひとつ呑みこんだ。






(to be continued)

【引用詩文:William Wordsworth『ワーズワス詩集』「Intimations of Immortality from Recollections of Early Childhood」XI】


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