萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

第64話 富嶽act.5―side story「陽はまた昇る」

2013-04-15 22:47:38 | 陽はまた昇るside story
真実と真想、その言伝 



第64話 富嶽act.5―side story「陽はまた昇る」

「なあ宮田、周太くんと宮田のことを俺がなぜ驚かないでいられるのか、解かるかい?」

深い声の問いかけが、登山靴の跫に響く。
いま自分が考えていたことを言葉にされる、そんな予感に口が鎖される。
自分と周太のことを後藤が擬える相手は誰なのか?そんなことは限定的すぎて気づけてしまう。

―俺が聴いて良いのか解らない、何より今ここで話すなんて、そんなのまるで、

心ひとり呟く想いが今、途惑いに泣きたくなる。
光一と雅樹の真実は秘密に護ってあげたい、その願いが聴きたくないと耳を塞ぐ。
なによりも今、ここで後藤が語ろうとする意図が解かってしまう、それが哀しくて苦しい。
こんな想いに16年前の生き証人が語りだす、そんな瞬間へ黙りこんだ英二に篤実な山ヤは微笑んだ。

「やっぱり解ってるんだな、おまえさん。ありがとうよ、」

ありがとう、ただそう告げて後藤は山頂を見上げた。
その横顔は大らかなまま沈黙する、そんな静かな時間へふたり登ってゆく。
一歩ずつフラットに踏み出す登山靴に富士の素肌が鳴る、この砂岩質の荒涼は遥か天へ昇ってゆく。

ざぐっ、ざぐっ…

跫だけが響く山道は、夏の喧騒を終えた閉山の静寂に佇む。
ゆるやかな風は髪を梳いてゆく、そして山を駈け下り中道を越えて森ゆらす。
いま来た道が眼下に広がり豊穣の森は彼方へ遠くなる、そうして一歩ずつ頂へ近づく。
そんな静かな道行きに告げられかけた言葉が廻る、それを告げかけた男の裡が想われて溜息こぼれた。

「…後藤さん、今、全部を話そうってしないでください、」

ため息に本音こぼれて、瞳から熱が墜ちてゆく。
もう人前で泣かないと決めていた、それでも今ここで泣きたい。
ここで今、この男にだけは涙を見せてしまいたい。そんな本音に英二は微笑んだ。

「今なんでも急いで話そうって後藤さんにされたら俺、辛いです。だって俺は今、本当はとんでもない事をしていますよね?
昨日の検診で肺気腫だってもう解かった所じゃないですか、本当は三千メートルの標高なんて危ないって解ってるじゃないですか?
そんな時に全部を話そうとされたら、今日が最後だって言われているみたいです。そんな遺言みたいなこと今、俺にしないで下さい、」

危ない、その危険を承知で自分は登頂を希う。
この希求が孕む責任と覚悟と、そして願いに涙ひとつ綺麗に笑いかけた。

「いま俺は後藤さんの命と山ヤのプライドを背負っています、娘さんの気持も背負っています、吉村先生の気持だって背負ってるんです。
警視庁山岳会のこともです、救急救命士の資格をとる事だってそうです、光一の未来もです、全部が後藤さんの命と山ヤの力に掛かっています。
どれも俺には大切です、だから自分が背負いたくて今も登っています、危険も覚悟しています、でも最後じゃないって信じてるから出来るんです、」

どんなに危険だとしても、絶対に今を最後になんてしない。
その意志に微笑んで英二は敬愛する山ヤに言った。

「後藤さん、俺、雅樹さんの作った資料のコピーを頂いたんです。肺気腫の手術のことや予後や、リハビリの事が書いてあります。
どうしたら手術後にも高い山に登れるのか、その可能性を雅樹さんは研究してレポートを纏めてあるんです。それを俺、勉強します。
吉村先生も同じことを考えています、後藤さんが今までと同じに登れる可能性を作るために今、先生も調べているところです、だから…っ」

涙ごと詰まる声を呑んで、深呼吸ひとつで英二は微笑んだ。
どうか自分の希望をこの山ヤにも一緒に見てほしい、そう願うまま綺麗に笑いかけた。

「だから後藤さん、今日も無事に登って無事に帰りましょう。全員無事に帰還しろって、いつも後藤さん仰ってるじゃないですか?」

全員無事に帰還だぞ?

そう言って遭難救助の現場に送りだしてくれる笑顔は、いつも希望をくれる。
あの希望を今日も後藤は抱いているのか確かめたい、そう笑いかけた英二に山ヤは言ってくれた。

「すまんなあ、宮田。おまえさんに俺はつい甘えてしまうんだよ、でも、これじゃあ丸投げみたいでいかんなあ?」

からり笑ってくれる日焼顔はいつものよう明るくて、悲壮感の欠片も無い。
それでも深い覚悟はそこにある、それが解かるからこそ告げた本音に後藤は応えてくれた。

「俺は今、本当に安心しきってるんだよ。俺が居なくても宮田がなんとかしてくれるだろうってな、まあ、ご隠居気分があるんだよ。
宮田は警察も山もまだ2年目だ、短い期間だがな、期待に全部応えてくれてるだろう?だからこの先も大丈夫って信じてしまってるよ、
だからつい丸投げで任しちまうんだな、山岳会のことも救助隊のことも。だから今もな、遺言ってツモリじゃないんだって解かってくれるかい?」

話すことは遺言じゃない、自分も諦めてはいない、そう後藤は告げてくれる。
その言葉が素直に嬉しくて英二は笑って頷いた。

「はい、ありがとうございます。すみませんでした、俺、変なこと言ったりして、」
「あははっ、変なことじゃないよ、おまえさんが心配するのは当たり前だ。色々と気を遣わせて悪いなあ、」

可笑しそうに笑いながら歩いてくれる、その呼吸と胸部の変化に目を走らせる。
もう三千の標高を越えた、その荷重に心配が起きるけれどまだ支障は無さそうでいる。
このまま山頂まで行けたら良い、そんな願いにクライマーウォッチの高度計を見ながら祈った。

―どうか馨さんも力を貸して下さい、こんなこと周太には怒られるかもしれないけど、

周太には怒られるかもしれない、こんな無茶なことは。

今日が最後じゃないと自分も後藤本人も信じている、けれど人間なんて一秒後も解らない。
あと一歩標高を上がれば急変するかもしれない、そのとき自分だけの処置では当然限度があると解っている。
そして標高三千からの救助要請なんてすぐには応えてもらえない、そのリスクを知りながら自分も後藤も山頂へ向かっている。
後藤の娘も吉村医師もリスクを解かっているのに今、後藤が望む通りに登らせて無事に帰ると信じて自分に託してくれた。
光一だって全て解っている、きっと今頃は第七機動隊舎から祈ってくれているだろう、登頂と無事を願って信じている。
そうして信じる分だけ全員が覚悟して自分に背負わせてくれた、それを誇らしいと想うから今も登ってゆく。
こんな全てをこんな自分が背負うことは無茶だと解っている、それを周太なら本気で心配して怒るだろう。

―ごめんな周太、でも俺だって後藤さんと同じ選択をするよ?だから俺は全部背負いたいって想うんだ、ただ一緒に登りたいんだ、

ただ後藤と今を一緒に登りたい、たとえこれが最後になってリスクを背負うとしても後悔しない。
もし今ここで諦めていない後藤を下山させたら後悔する、それしか自分には解らないから登るしかない。
だから一歩ずつ一緒に笑って最高峰の点を見上げている、それを自分の伴侶は解かってくれるだろうか?

―周太、こんな大事なこと何も言わないで勝手して、ごめん。でも本当に俺、何の計算も無く後藤さんと一緒に山頂を踏みたいんだ、

ごめん、そう心で謝りながら一歩ずつ登ってゆく。
今日は後藤と夏富士を登る、それしか周太には話していない、後藤の体調を話すことは出来ないから。
それでもいつか今日の本当の意味を笑って話せるだろうか?そう信じて月を映した玄武岩の山を登っていく。

『噴煙や雲がよくかかるのは薬を焼いた煙が月に還ろうと昇るからだって伝説があるんだ』

さっき後藤が教えてくれた伝説が、いま登る背を押してくれる。
不老不死の妙薬を抱く霊峰富士、その物語を真実と信じ伝えてきた気持が今なら解かる。
こんなふうに大切なひとの生命を祈りたくて、その生きる力を享けとりたくて人は富士へ登って来た。
そんな気持を裏付けるかのようこの山には祠が多く祀られる、こうした祈りを一年前の自分は未だ知らなかった。

そんなことは迷信だ、お伽話だ?
そんなふう嘲笑う気持が自分にはあった、けれど今は違う。
こうして人々が信じて祈ろうとすることは、山に想いを懸ける願いは、この自分のなかにもある。
この想いのまま素直に登り、山頂を仰ぎ見て英二は母なる最高峰へと願いを声無く告げた。

―富士の山、聴いてくれますか?俺が信じていなかった分だけ今、後藤さんに願いを叶えさせて下さい。俺を山ヤにしてくれた人だから、

後藤が居なかったら自分は今頃、一般の警察官だった。
山岳経験がゼロに等しかった自分だった、それでも後藤が山岳救助隊に自分を呼んだ。
周太の滑落事故から山岳救助隊を知った自分は、救急法とトレーニングセンターのクライミングを努力した。
そんな自分を遠野教官は見て機動救助技能検定を勧め取得させてくれた、それだけの実績しか当時の自分には無い。
そういう自分を警視庁山岳会のエースで次期会長を嘱望される光一のパートナーに後藤が選んだ、そして自分は山ヤになれた。

―この人のお蔭で俺は貴女に登れています。もし俺の頬の傷が貴女の祝福だと言うのなら、今、後藤さんに祝福を下さい、お願いします、

どうか山、自分の祈りを聴き届け許してほしい。
そしてもう1人に祈りたい、自分にその資格があるのか解らなくても、祈らせて欲しい。

―雅樹さん、後藤さんの体を護って下さい、願いを叶えて下さい、

心が叫ぶよう俤を見つめて、それでも顔は笑って後藤と登っている。
いま瞬間へ登りつめていく後藤の横顔に微笑んで、英二は願いを続けた。

―俺があなたに願いを言える資格なんて本当はありません、光一を傷つけた俺はあなたに憎まれて当然です、それを今は解っています。
  それでも信じて下さい、俺の山ヤとして生きる時間の全ては光一をビレイヤーとして支えるためと約束します、一生を懸けるから願いを今、

懺悔と願いを一歩に籠めて足を運び、英二は山頂を仰いだ。
夜の明けた空は青く輝いて白雲をひるがす、そこに霊峰は佇んで自分を見下ろす。
踏み出す足を雄渾の素肌さらして山は受け留めてくれる、いま近づく頂点に蒼いウェアの俤が心へ映る。
自分と似ている顔立ち、けれど全く違う魂を抱く男が自分に微笑む。その微笑を見つめ登らす隣から後藤が笑った。

「宮田、3月の雪崩の時は本当にありがとうよ、」
「え、」

意外な「ありがとう」に驚いてしまう、あの遭難事故になぜ感謝を言われるのだろう?
不思議で見つめた思いの真中で、稀代の山ヤは大らかに笑ってくれた。

「あのとき光一はな、自分だけで救助に行くって言い張ったろう?それを俺が許可したのはな、あいつの後悔を癒してやりたかったんだ。
光一はな、雅樹くんの遭難死を自分に責めてきたんだよ。でも雅樹くんと似てる宮田を自力で救助出来た、それが光一の傷を少し癒せたんだ。
だからあいつ、自分の両親の墓参りにも、雅樹くんの墓参りにも宮田のこと連れて行ったろう?おまえさんは光一にとって救いでもあるからだよ、」

自分が光一を癒した、そんな言葉に呆然が見つめてしまう。
本当は自分こそが光一の傷を深くした、光一の真実を気づかぬまま踏み躙ってしまった。
この哀しみが喉を突きあげそうになる、それでも、言ったところで誰が何を救われると言うのだろう?

―誰も楽になれない、俺が自己満足するだけだ…すみません、雅樹さん、

光一との夜を後悔なんて欠片も出来ない、あの時間に自分は幸せだったから。
あの貌が見られて嬉しかった、香も温度も快楽も全て美しくて愛しい、だからこそ尚更に光一を護りたいと願う。
けれどこの幸福感は自分だけの独りよがりだと解っている、もう光一は二度と自分と恋愛に抱きあうことは望まない。
それでも、ひと時でも必要だと求めて貰えた事が嬉しくて、こんなふう想ったことは初めてで、だから自分の本音が解かる。

―光一、雅樹さんには敵わないけど俺だって本気でおまえを愛してるよ、だから秘密も嘘も抱けるよ、おまえを護る為になら、

ほら、もうとっくに覚悟なんか自分にも坐っている。
それを改めて気づける瞬間に深く息吐いて、英二は敬愛する山ヤに微笑んだ。

「ありがとうございます、でも後藤さん?俺は全く雅樹さんには敵いません、そう解るから俺は雅樹さんに嫉妬しながら憧れてます、」
「ははっ、おまえさんらしい考え方だなあ、」

可笑しそうに笑って後藤は軽やかに登ってゆく。
その足取りに喜びを見つめて微笑んでしまう、その想いに後藤は言ってくれた。

「今の言葉を雅樹くんが聞いたらな、真赤に恥ずかしがって笑うだろうよ?そういう純粋な雅樹くんだから光一は純粋に惚れぬいてるんだ、」

さらり、真実を告げて思慮の瞳が笑ってくれる。
間髪もない鮮やかな告白に心が響く、そこに後藤の真情が誰にも温かい。
雅樹が自分の言葉を笑ってくれる、そう伝えられ解かされる懺悔から英二は笑った。

「雅樹さんが純粋って解ります、光一の目って本当に純粋で明るいから、」
「だろう?あいつの目はな、いつも雅樹くんを見つめて育ってるんだ。佳い男を視てきたから、あんな佳い目になったんだろうよ、」

いつものよう深い声は朗らかなまま、早逝を悼む想いと賛辞を明るく語る。
きっと後藤にとっての雅樹は息子とも似た存在だった、そう想うまま英二は1つの名前に微笑んだ。

「後藤さんの息子さん、岳志さんもきれいな目をされているんでしょう?」

生後一週間だけを共に過ごした後藤の息子、岳志。
たった一週間、それでも一週間を後藤は愛する息子の時間を抱けた。
その早逝を哀しむよりも誕生の喜びを今、この霊峰を辿る道の記憶に贈ってあげたい。

―どんなに短くても岳志さんが生きたことは真実なんだ、その幸せな記憶を今、この山で話させてあげたい、

どうか息子の自慢話を心ゆくまでしてほしい。
それが父子共に登りたかった夢を少しでも後藤に近づけてくれるだろう。
そう願って笑いかける先で深い目は三十年前の瞬間を映し、幸せに笑ってくれた。

「ああ、岳志は佳い目をしてるよ。紫乃の目は俺に似てるがな、岳志は女房と似て大きな可愛い目だよ、目の他は俺似だって言われるがな、」

俺と息子は似ているんだ、そんな言葉が誇らしく笑ってくれる。
こんなふうに親から笑ってもらえたら子供は幸せだろう、いま幸せな笑顔へと英二は微笑んだ。

「紫乃さんは目の外はあまり後藤さんと似てないですね、背は同じように高いけど、」
「だろう?あいつは女房と似てるんだよ、性格も華奢な感じもな。まあ肌はちょっと俺に似て黒いが結構美人だろう?」

語りながら細める瞳が優しくて、こんな貌に後藤の子供たちへの愛情が解かる。
こういう貌が後藤は温かい、嬉しくて英二は素直に相槌を打った。

「はい、綺麗な方ですね、」
「あっはっは、こんどその台詞、紫乃に直接おまえさんから言ってやってくれんか?きっと喜ぶよ、」

大らかな笑い声を上げてくれる元気に嬉しくなる。
いま閉山中の富士は五合目の山小屋しか開かず静寂に佇む、ただ吹いてゆく薄雲に声はめぐって温かい。
いつのまにか9合目を過ぎて山頂直下にさしかかる、それでも笑い声をあげるほど順調な様子が嬉しい。

―これなら後藤さん、御鉢周りも出来るかもしれない、

思案しながら隣の様子を観察し、一歩ずつ登ってゆく。
八合目過ぎからペースを落としても後藤の足取りは普通より速い、その胸元も正常な呼吸でいる。
もう40年近い山の経験値が体調に合せたコントロールは正しい、そう解る姿に今改めて賞賛を笑いかけた。

「後藤さん、胸突き八丁でも順調ですね、」
「おう、俺も伊達に長く登っちゃいないからなあ、疲れにくいコツがあるんだよ、」

明るく笑って答えてくれる貌に楽観が明るます。
やはり警視庁山岳会のトップだけはある、この見上げる想いに鳥居を潜ると空気が変った。







(to be continued)


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