光明、彷徨わす想いへ
第63話 残照act.4―side story「陽はまた昇る」
遠く響きだす振動に、眠りの底から浮上する。
あわい夢の通い路は鎖され俤が腕から消えてゆく。
いま確かに抱きしめていた温もりも、懐かしい香も快楽も全身から遠ざかる。
―まだ傍にいて、離れないでよ?
夢言に呼びかけ腕を伸ばす。
もう少しだけ幸福を抱きしめていたい、その願いに瞳を見つめて求めを乞う。
けれど睫は開かれるまま目覚めの視野は薄暗い天井を英二に映しこんだ。
「…は、」
ため息に寝返り打った狭いベッドの隣、ただシーツの薄闇が冷たく広がらす。
幸せな夢の余韻はいつも嬉しくて、けれど醒めた孤独が蝕むよう痛くて、なのに夢だけでも逢いたい。
そんな願いにため息ごと微笑んだ頬にコール音の振動ふるえて、英二は携帯電話に手を伸ばし開いた。
まだ夜明け前の刻限を体感が知らせる、その感覚通りの時刻と発信人名を光る画面に見て息を呑んだ。
「…光一?」
今は未だ4時すぎ、カーテンの向こうは昏く太陽は目覚めの前。
そんな時間に光一が電話を架けるなんて普通は無い、その非日常に鼓動が止まる。
―周太に何かが起きた、
瞬時ひらめく異常に息継ぎして心臓を掌が押えこむ。
いま夢で逢った俤を追う心が泣きそうになる、手が冷たく強ばりだす。
それでも右手は受話ボタンを押し、英二は声を押し出した。
「光一、周太に何が起きた?」
「おはよ、の前にもう質問?」
飄々とテノールがひそやかに笑ってくれる。
そのトーンに直ぐの危険ではないと解って、ほっと息吐きながら英二は起きあがった。
「ごめん、おはよう光一。こんな時間に電話なんて珍しいから、ちょっと混乱してるんだ、」
「だろね?でも当たりだよ、」
さらり笑った声に、背筋から緊迫が締め上げる。
いったい何があったのだろう?その宣告を待つ向うでアンザイレンパートナーは微笑んだ。
「昨日、周太は祖父さんの小説を手に入れたよ、祖父さんがオヤジさんに贈ったヤツをね。当時を聴けるオプション付きでさ、」
告げられた言葉が、運命の廻りを宣告する。
宣告に意図も予測も崩れ出す、その崩落音に英二はつぶやいた。
「…どうやって手に入れられる?」
あるはずが無い、そんなこと不可能なはず。
その不可能を語る過去を英二は口にした。
「あの本を馨さんは東大の図書館に寄贈したはずだ。そう日記にも書いてある、周太も書庫から出してもらって読んだって言ってた。
あの本は貴重書の扱いで、図書館の書庫にしまわれて閲覧だって簡単じゃないはずだ。それをどうやったら周太が手に入れられるんだ?」
出来るはずが無い、貴重図書を容易く図書館が手離すなど考えられない。
それも著作者の息子の意志で納めた本なら尚更だ、そんな常識に縋りたい想いをテノールの声は絶ち切った。
「オヤジさんの友達で祖父さんの教え子って教授が今、祖父さんの研究室やってるんだ。その人にオヤジさんは本を預けて寄贈したんだよ。
で、周太その人の手伝いしてさ、お礼に教授は本を取戻してプレゼントしたってワケ。寄贈した本人で教授職なら大学図書館も断れないよね、」
聴かされる現実に、危険の跫が最愛の俤にまた近づく。
こんなことになると思わなかった、まさか周太があの本を手に入れるなんて?
―周太は農学部だ、ジャンルもキャンパスも違う、なのに4ヶ月でどうしてもう辿りつける?
東京大学農学部の聴講生になりたい、そう周太に聴かされた最初はまず嬉しかった。
本当は樹医になる夢を周太は持っていた、その道へ戻してあげられるならと嬉しかった。
それでも晉と馨にまつわる大学だと危惧も見て、けれど学部もキャンパスも別ならと判断した。
しかも周太の担当教員になる青木樹医は四十代だった、その世代なら晉や馨が在校した32年前とは交錯しない。
学部もキャンパスも違う、担当教員の世代も異なる、聴講生なら通学も多くて月3回。
この条件ならば周太が学内で関係者と接触する可能性は低い、それでも通学が常態化すれば話は変る。
おそらく周太が過去の真相と出会うのは大学院進学の前後だろう、その猶予期間は最短1年あるはず。
そう判断したから周太を東京大学に送りだしてしまった。
この猶予期間に最初の決着を着ければ良い、その後なら過去を幾らか知られても良い、そう考えていた。
けれど現実は今たった4ヶ月で周太は核心を、あの哀しい過去と連鎖の記録を手にしてしまった?
―なぜだ、俺は何を見落とした、なぜ外された?
なぜ自分の予測が外された?この迂闊が心臓を咬んで驕りを笑う。
傷ついた倨傲が喘ぐまま英二は問いかけを投げつけた。
「なぜ周太が仏文の教授を手伝うことになった?学部もキャンパスも違うのにどうやってつながれるんだよ…何があったんだ、」
「語学力が鍵だね、」
テノールの短い解答に、すぐ状況が顕われ把握される。
大学の教員なら講義以外は何をするのか、そこで語学はどう遣う?この現実に英二は言葉なぞった。
「周太、青木先生の論文を手伝ったのか?英語に訳す手伝いをして、それで周太の語学力が仏文の教授にまで知られたのか、」
「正解、その青木先生ね、論文を読むチャンスをあげたくって周太に翻訳させたみたいだね。で、例の教授は青木先生の部活OBってワケ、」
電話の向こうから返る答えに、善意と運命の相克が聳え立つ。
こんなふうに厚意と意志は想わぬ方へ人間を運んでしまう、その力に抗うよう英二は問いかけた。
「でも仏文なら学生で他にいるはずだろ、なぜ農学部の周太が選ばれるんだ、」
「周太がトライリンガルだからだね、」
英語とフランス語、両方を周太は読み書きヒアリング出来る。
この語学力が惹き起した現実を静かな声が英二に告げた。
「フランスの詩を1時間で日本語と英語に翻訳しなきゃなかったらしいよ。それもテキストに使う訳文だってさ、そうなるとハイレベルだろ?
で、周太は英語も日本語も文章がキレイって褒められたらしい、帰国子女なのかって訊かれるくらいにね。専門用語も周太は解かるっぽいよ、
この間もオヤジさんが大学に寄贈したっていう本借りてきてさ、イギリスで書かれた歴史学の専門書で原書だったね。だから選ばれるんだ、」
幼い頃から周太はフランスとイギリスの原書を読んで育っている。
その書籍はどれも卓越した仏文学者と英文学生が選び、秀才を謳われた馨が自ら読み聞かせた。
最高の学者になれた男が一流の本で育んだ才能、それが大学社会で燦然と目立つことは当然かもしれない。
そんな方程式すら自分は見落した、この落度が暴いた自分の傲慢を直視して英二は唇を噛んだ。
―俺が、周太の力を甘くみた所為だ、
愛する人の才能を、正しく理解し認めていなかった。
この驕った迂闊に恋慕は心臓ごと咬みつかれ、自分の真中が悲鳴をあげてゆく。
あの本が、過去の真相と記録が周太をどこに連れてゆく?その可能性に縊られた恋慕に声こぼれた。
「…俺のせいだ、もし周太が全てを知って、そして、」
そして真相を知った周太が、馨と同じ道を選んだら俺のせいだ。
そう言いかけて恐怖が息を呑む、そんな可能性が声帯を束縛して頭脳が停止する。
自分の力に驕った陥穽が最愛の存在をとりこぼす、この驕慢とミスがあの人を攫わせる?
思考は止まったまま絶望に蝕まれだす、けれど英二は左掌をあげ思い切り頬を引っ叩いた。
ばんっ、
大きく頬が啼いて痛覚が意識ゆさぶり醒ます。
ひろがる潮と鉄の香に唇ふれると指先に鮮血が付く、それが冷静を引き戻す。
いま呵責に狼狽えている暇はない、その自覚ごと唇から血を舐めた向こうで光一が笑ってくれた。
「またド派手な音だねえ、ソンダケ引っ叩いたら頭しゃっきりしたね?」
「ああ、落着いたよ。ごめんな、」
答えながらふれた頬がすこし腫れだした、けれどすぐ退くだろう。
そんな計算の余裕ごと血の香に微笑んで英二はパートナーに尋ねた。
「馨さんの本、なにか特徴的なところってある?」
「フランス語のメッセージが書いてあったよ、祖父さんの肉筆だって周太が教えてくれたね、」
いつもの口調で応えるテノールに確信が響きだす。
晉が遺した小説は何を意味するのか、その推測へ山っ子の声が教えてくれた。
「 Je te donne la recherche、探し物を君に贈る、って意味だよ、」
“Je te donne la recherche”
この探し物は何を意味するのか、それを贈りたい相手は誰なのか?
このメッセージに籠めた晉の意図に推測は事実へ姿を変えて、穏やかに英二は微笑んだ。
「やっぱり小説は晉さんの遺書なんだな、馨さん宛ての、」
自分の息子へ遺した「遺書」それが晉の小説の真意だろう。
そんなメッセージの向うからアンザイレンパートナーは微笑んだ。
「周太はね、自分宛てでもあるって言ってたよ。祖父さんの孫は自分しかいないから、自分への伝言なんだって、」
教えられた台詞に周太の覚悟と想いが伝わらす。
この気持を何ひとつ解っていなかった、その懺悔に英二は肯った。
「そうだな、晉さんの孫は周太だけだ。あの本を正確に読み解けるのは周太だけかもしれない、」
「だね、周太って相当タフだからさ?」
応えてくれる声が可笑しそうに笑っている。
何かあったのだろうか?怪訝に首傾げた向こうで悪戯っ子が教えてくれた。
「周太、おまえのコト殴るらしいよ?おまえと美代の為に本気でね、」
周太が自分を殴る、その理由はすぐ解かる。
そして電話相手への気まずさに困りながらも、素直に英二は尋ねた。
「ごめん、昨日のこと聴いたんだろ?」
「周太が美代に電話したんだよ、定期便のメールが来なかったからさ、」
からり笑ってくれる言葉に自分が美代に与えた傷が思われる。
ただ困惑しか本音は無くて、それでも昨夜に感じた正直を言った。
「追いかけるとか出来ないし何も言えなかった、でも今までの女の子たちと全然違うんだ。どうでも良い相手じゃないから何も言えない。
もし今日も美代さんに会ったとしても特別な事は何も言えない、いつも通りに話すしか出来ない。友達として正直に話すしか俺には出来ない、」
これしか自分は美代に出来ない、特別な約束も言葉も何ひとつ残せない。
こんなにも女の子ひとりに途惑う自分は不甲斐なくて、こんな初めての自分に途惑い微笑んだ向こうから親友は笑ってくれた。
「ホント不甲斐ない男だね、不器用でクソ真面目でさ?そういうオマエだから美代は惚れたんだよ、だからそのまんまでイんじゃない?」
ほら、光一は自分を理解して受け留めてくれる。
こんな大らかな優しさが好きだ、こんな男だから憧れ追いかけて今も想いは尽きていない。
それでも二度と恋愛に交わらないと知っている、だからこそ護る想いごと英二は綺麗に笑いかけた。
「ありがとな、そのまんまで今日もいられる自信もらえたよ。周太の気持も知れて嬉しかった、」
「おまえを殴るって言った周太の貌、ホント優しくって強くて、綺麗だったよ。俺は見惚れちゃったね、」
愉しげにテノールが笑ってくれる、その明るいトーンにほっとする。
きっと周太も光一と同じよう想ってくれている?そう恋する相手の心透かす想いへパートナーが微笑んだ。
「そういう周太だからさ、どんな過去でも最後は受けとめ切れるって俺は想うよ。周太が言う通りアレは周太への遺言なんだ。
だから本もめぐり廻って周太に戻ってきたね、それが祖父さんの意志だからさ。おまえがドンダケ賢くっても敵わないの仕方ないね、」
光一が通りだろう、きっと晉の意志が周太の許へ本を届けさせた。
そしてもう一人だけ晉が宛てた相手がいる、この事実を初めて英二はパートナーに告げた。
「その通りだって想うよ、でも晉さんが宛てた相手はもう一人いる。俺の祖母に贈った本もメッセージが書かれてるんだ、」
告げた言葉の向こう側、軽く吐息かすかに伝わる。
驚きと納得と、そんな気配からザイルパートナーは問いかけた。
「先月、祖母さんトコに周太を連れて行った時に見たんだね。なんて書いてあった?」
「英語で一言だけだよ、」
唯ひとつの言葉だけ、祖母に宛てた本に遺される。
そこに晉が刻みこんだ祈りを見つめながら、英二は伝言を声にした。
「Confession、それが祖母へのメッセージだよ、」
“Confession“ 告解、懺悔と有罪の自白。
この言葉に籠めた晉の願いへ微笑んで英二は口を開いた。
「周太のお祖母さんは一人っ子なんだ、だから従妹にあたる俺の祖母を実の妹みたいに可愛がってくれてさ、祖母も姉だと今も想ってる。
だから Confession 、大切な姉を巻きこんだ罪を祖母に懺悔してくれたんだ。そして罪の告発を託したんだよ、祖母の夫は検事だったから、」
祖母の夫で自分の祖父は検事だった、この事実も初めて光一に告げる。
けれど今は知っているだろう、来月からの上司として部下の経歴すべてを把握しているはずだ。
それでも光一は知って黙ってくれていた、この信頼に微笑んだ向こうパートナーは微笑んだ。
「おまえの祖父さん、検事の定年後は敏腕弁護士だったらしいね?ナンカおまえと似てそう、」
「雰囲気とか似てるって言われるよ、」
やっぱり解ってくれている。
こうした理解に笑いかけて英二は言葉を続けた。
「晉さん、俺の祖父に検事として真実を暴いてほしかったんだと思う。全てを明白にすることで、息子の馨さんを自由にしたかったんだ。
でも全部は懸けだったと思うよ、俺の祖母が気がつくか気がつかないか、五分と五分の可能性に自分の告発を委ねたんじゃないかと思う。
祖母まで巻き込みたくないから絶縁状態にして、それでも告白をしたくて祖母に本を贈ったんだよ。たった一つの単語に全てを懸けてね、」
晉が告解したかった唯一の相手は亡くした愛妻の従妹。
その血縁に繋がる真実に微笑んで、英二は共犯者へ宣言した。
「晉さんが懺悔と告白を宛てた相手は俺の祖母だけだ。祖母の孫は俺と姉しかない、だったら長男の俺には全部を受継ぐ資格がある。
周太に探し物を遺したように、俺にも告白と告発を遺したんだ。真実を俺に教えて、あの男を告発して、罪ごと全てを解放してほしいんだよ、」
これが晉の遺したもう1つの意志、そう信じているから尚更に周太を離せない。
だからこそ努力も時間も、この心も体も惜しむつもりはない。この誓約に英二は笑いかけた。
「だから俺、全力でがんばるよ?あの男に対抗できる力を早く手に入れたいんだ、救急救命士のことも絶対に評価を勝ちとるからな、」
「昨日、後藤のおじさん話したらしいね。期待してるよ、」
答えてくれるトーンは、いつものよう明るく笑っている。
透けるよう明るい声のまま、真直ぐなトーンが英二に告げた。
「遺された言葉が “Confession” 告解ってお似合いだね。天使で悪魔の男には懺悔と告発って、ピッタリだよ、」
天使で悪魔、相反する二つの言葉が向けられる。
こんなふう昨夜も言われた、そして今も言われて納得できる。
きっと自分は常に二つの道がある、そんな過去とこれからを見つめて英二は微笑んだ。
「いちばん俺に似合うだろ?このためにも俺は生まれて、あの家に呼ばれたんだからさ、」
自分にしか似合わない、そんな自信に微笑んだ視界で窓も明るみだす。
この自信に自分の存在を認めたい、そこに自分の生きる意義と意味も見つめている。
勿論この為だけに生きるのでは無いだろう、それでも自分の核心には護るべき存在を抱きしめたい。
自分の全てと抱きあえる唯ひとりを笑わせたい、その願いは生まれる前からの約束と信じている。
―きっと俺にしか出来ない、だから周太と出逢ったんだ、すべてこの為に、
想いに見つめる窓から一条、今日最初の光は射して登山ザックを明るます。
その中には救命具セットのケースが納められ、そこに罪と罰の証は隠される。
WALTHER P38 太平洋戦争に従軍した晉の遺物。
あの戦争が晉の、その家族の運命も狂わせた発端だった。
もしも晉が従軍せず拳銃を手にすることが無かったら、50年前の惨劇は無い。
けれど哀しい50年の連鎖を惹き起したトリガーは今、奈落の眠りから自分の掌に醒めた。
だからこそ自信を核心に抱いている、晉の求める告解に応えるのはきっと、自分しかいない。
すべて護るために、あの罪から解放するために自分は今、ここにいる。
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第63話 残照act.4―side story「陽はまた昇る」
遠く響きだす振動に、眠りの底から浮上する。
あわい夢の通い路は鎖され俤が腕から消えてゆく。
いま確かに抱きしめていた温もりも、懐かしい香も快楽も全身から遠ざかる。
―まだ傍にいて、離れないでよ?
夢言に呼びかけ腕を伸ばす。
もう少しだけ幸福を抱きしめていたい、その願いに瞳を見つめて求めを乞う。
けれど睫は開かれるまま目覚めの視野は薄暗い天井を英二に映しこんだ。
「…は、」
ため息に寝返り打った狭いベッドの隣、ただシーツの薄闇が冷たく広がらす。
幸せな夢の余韻はいつも嬉しくて、けれど醒めた孤独が蝕むよう痛くて、なのに夢だけでも逢いたい。
そんな願いにため息ごと微笑んだ頬にコール音の振動ふるえて、英二は携帯電話に手を伸ばし開いた。
まだ夜明け前の刻限を体感が知らせる、その感覚通りの時刻と発信人名を光る画面に見て息を呑んだ。
「…光一?」
今は未だ4時すぎ、カーテンの向こうは昏く太陽は目覚めの前。
そんな時間に光一が電話を架けるなんて普通は無い、その非日常に鼓動が止まる。
―周太に何かが起きた、
瞬時ひらめく異常に息継ぎして心臓を掌が押えこむ。
いま夢で逢った俤を追う心が泣きそうになる、手が冷たく強ばりだす。
それでも右手は受話ボタンを押し、英二は声を押し出した。
「光一、周太に何が起きた?」
「おはよ、の前にもう質問?」
飄々とテノールがひそやかに笑ってくれる。
そのトーンに直ぐの危険ではないと解って、ほっと息吐きながら英二は起きあがった。
「ごめん、おはよう光一。こんな時間に電話なんて珍しいから、ちょっと混乱してるんだ、」
「だろね?でも当たりだよ、」
さらり笑った声に、背筋から緊迫が締め上げる。
いったい何があったのだろう?その宣告を待つ向うでアンザイレンパートナーは微笑んだ。
「昨日、周太は祖父さんの小説を手に入れたよ、祖父さんがオヤジさんに贈ったヤツをね。当時を聴けるオプション付きでさ、」
告げられた言葉が、運命の廻りを宣告する。
宣告に意図も予測も崩れ出す、その崩落音に英二はつぶやいた。
「…どうやって手に入れられる?」
あるはずが無い、そんなこと不可能なはず。
その不可能を語る過去を英二は口にした。
「あの本を馨さんは東大の図書館に寄贈したはずだ。そう日記にも書いてある、周太も書庫から出してもらって読んだって言ってた。
あの本は貴重書の扱いで、図書館の書庫にしまわれて閲覧だって簡単じゃないはずだ。それをどうやったら周太が手に入れられるんだ?」
出来るはずが無い、貴重図書を容易く図書館が手離すなど考えられない。
それも著作者の息子の意志で納めた本なら尚更だ、そんな常識に縋りたい想いをテノールの声は絶ち切った。
「オヤジさんの友達で祖父さんの教え子って教授が今、祖父さんの研究室やってるんだ。その人にオヤジさんは本を預けて寄贈したんだよ。
で、周太その人の手伝いしてさ、お礼に教授は本を取戻してプレゼントしたってワケ。寄贈した本人で教授職なら大学図書館も断れないよね、」
聴かされる現実に、危険の跫が最愛の俤にまた近づく。
こんなことになると思わなかった、まさか周太があの本を手に入れるなんて?
―周太は農学部だ、ジャンルもキャンパスも違う、なのに4ヶ月でどうしてもう辿りつける?
東京大学農学部の聴講生になりたい、そう周太に聴かされた最初はまず嬉しかった。
本当は樹医になる夢を周太は持っていた、その道へ戻してあげられるならと嬉しかった。
それでも晉と馨にまつわる大学だと危惧も見て、けれど学部もキャンパスも別ならと判断した。
しかも周太の担当教員になる青木樹医は四十代だった、その世代なら晉や馨が在校した32年前とは交錯しない。
学部もキャンパスも違う、担当教員の世代も異なる、聴講生なら通学も多くて月3回。
この条件ならば周太が学内で関係者と接触する可能性は低い、それでも通学が常態化すれば話は変る。
おそらく周太が過去の真相と出会うのは大学院進学の前後だろう、その猶予期間は最短1年あるはず。
そう判断したから周太を東京大学に送りだしてしまった。
この猶予期間に最初の決着を着ければ良い、その後なら過去を幾らか知られても良い、そう考えていた。
けれど現実は今たった4ヶ月で周太は核心を、あの哀しい過去と連鎖の記録を手にしてしまった?
―なぜだ、俺は何を見落とした、なぜ外された?
なぜ自分の予測が外された?この迂闊が心臓を咬んで驕りを笑う。
傷ついた倨傲が喘ぐまま英二は問いかけを投げつけた。
「なぜ周太が仏文の教授を手伝うことになった?学部もキャンパスも違うのにどうやってつながれるんだよ…何があったんだ、」
「語学力が鍵だね、」
テノールの短い解答に、すぐ状況が顕われ把握される。
大学の教員なら講義以外は何をするのか、そこで語学はどう遣う?この現実に英二は言葉なぞった。
「周太、青木先生の論文を手伝ったのか?英語に訳す手伝いをして、それで周太の語学力が仏文の教授にまで知られたのか、」
「正解、その青木先生ね、論文を読むチャンスをあげたくって周太に翻訳させたみたいだね。で、例の教授は青木先生の部活OBってワケ、」
電話の向こうから返る答えに、善意と運命の相克が聳え立つ。
こんなふうに厚意と意志は想わぬ方へ人間を運んでしまう、その力に抗うよう英二は問いかけた。
「でも仏文なら学生で他にいるはずだろ、なぜ農学部の周太が選ばれるんだ、」
「周太がトライリンガルだからだね、」
英語とフランス語、両方を周太は読み書きヒアリング出来る。
この語学力が惹き起した現実を静かな声が英二に告げた。
「フランスの詩を1時間で日本語と英語に翻訳しなきゃなかったらしいよ。それもテキストに使う訳文だってさ、そうなるとハイレベルだろ?
で、周太は英語も日本語も文章がキレイって褒められたらしい、帰国子女なのかって訊かれるくらいにね。専門用語も周太は解かるっぽいよ、
この間もオヤジさんが大学に寄贈したっていう本借りてきてさ、イギリスで書かれた歴史学の専門書で原書だったね。だから選ばれるんだ、」
幼い頃から周太はフランスとイギリスの原書を読んで育っている。
その書籍はどれも卓越した仏文学者と英文学生が選び、秀才を謳われた馨が自ら読み聞かせた。
最高の学者になれた男が一流の本で育んだ才能、それが大学社会で燦然と目立つことは当然かもしれない。
そんな方程式すら自分は見落した、この落度が暴いた自分の傲慢を直視して英二は唇を噛んだ。
―俺が、周太の力を甘くみた所為だ、
愛する人の才能を、正しく理解し認めていなかった。
この驕った迂闊に恋慕は心臓ごと咬みつかれ、自分の真中が悲鳴をあげてゆく。
あの本が、過去の真相と記録が周太をどこに連れてゆく?その可能性に縊られた恋慕に声こぼれた。
「…俺のせいだ、もし周太が全てを知って、そして、」
そして真相を知った周太が、馨と同じ道を選んだら俺のせいだ。
そう言いかけて恐怖が息を呑む、そんな可能性が声帯を束縛して頭脳が停止する。
自分の力に驕った陥穽が最愛の存在をとりこぼす、この驕慢とミスがあの人を攫わせる?
思考は止まったまま絶望に蝕まれだす、けれど英二は左掌をあげ思い切り頬を引っ叩いた。
ばんっ、
大きく頬が啼いて痛覚が意識ゆさぶり醒ます。
ひろがる潮と鉄の香に唇ふれると指先に鮮血が付く、それが冷静を引き戻す。
いま呵責に狼狽えている暇はない、その自覚ごと唇から血を舐めた向こうで光一が笑ってくれた。
「またド派手な音だねえ、ソンダケ引っ叩いたら頭しゃっきりしたね?」
「ああ、落着いたよ。ごめんな、」
答えながらふれた頬がすこし腫れだした、けれどすぐ退くだろう。
そんな計算の余裕ごと血の香に微笑んで英二はパートナーに尋ねた。
「馨さんの本、なにか特徴的なところってある?」
「フランス語のメッセージが書いてあったよ、祖父さんの肉筆だって周太が教えてくれたね、」
いつもの口調で応えるテノールに確信が響きだす。
晉が遺した小説は何を意味するのか、その推測へ山っ子の声が教えてくれた。
「 Je te donne la recherche、探し物を君に贈る、って意味だよ、」
“Je te donne la recherche”
この探し物は何を意味するのか、それを贈りたい相手は誰なのか?
このメッセージに籠めた晉の意図に推測は事実へ姿を変えて、穏やかに英二は微笑んだ。
「やっぱり小説は晉さんの遺書なんだな、馨さん宛ての、」
自分の息子へ遺した「遺書」それが晉の小説の真意だろう。
そんなメッセージの向うからアンザイレンパートナーは微笑んだ。
「周太はね、自分宛てでもあるって言ってたよ。祖父さんの孫は自分しかいないから、自分への伝言なんだって、」
教えられた台詞に周太の覚悟と想いが伝わらす。
この気持を何ひとつ解っていなかった、その懺悔に英二は肯った。
「そうだな、晉さんの孫は周太だけだ。あの本を正確に読み解けるのは周太だけかもしれない、」
「だね、周太って相当タフだからさ?」
応えてくれる声が可笑しそうに笑っている。
何かあったのだろうか?怪訝に首傾げた向こうで悪戯っ子が教えてくれた。
「周太、おまえのコト殴るらしいよ?おまえと美代の為に本気でね、」
周太が自分を殴る、その理由はすぐ解かる。
そして電話相手への気まずさに困りながらも、素直に英二は尋ねた。
「ごめん、昨日のこと聴いたんだろ?」
「周太が美代に電話したんだよ、定期便のメールが来なかったからさ、」
からり笑ってくれる言葉に自分が美代に与えた傷が思われる。
ただ困惑しか本音は無くて、それでも昨夜に感じた正直を言った。
「追いかけるとか出来ないし何も言えなかった、でも今までの女の子たちと全然違うんだ。どうでも良い相手じゃないから何も言えない。
もし今日も美代さんに会ったとしても特別な事は何も言えない、いつも通りに話すしか出来ない。友達として正直に話すしか俺には出来ない、」
これしか自分は美代に出来ない、特別な約束も言葉も何ひとつ残せない。
こんなにも女の子ひとりに途惑う自分は不甲斐なくて、こんな初めての自分に途惑い微笑んだ向こうから親友は笑ってくれた。
「ホント不甲斐ない男だね、不器用でクソ真面目でさ?そういうオマエだから美代は惚れたんだよ、だからそのまんまでイんじゃない?」
ほら、光一は自分を理解して受け留めてくれる。
こんな大らかな優しさが好きだ、こんな男だから憧れ追いかけて今も想いは尽きていない。
それでも二度と恋愛に交わらないと知っている、だからこそ護る想いごと英二は綺麗に笑いかけた。
「ありがとな、そのまんまで今日もいられる自信もらえたよ。周太の気持も知れて嬉しかった、」
「おまえを殴るって言った周太の貌、ホント優しくって強くて、綺麗だったよ。俺は見惚れちゃったね、」
愉しげにテノールが笑ってくれる、その明るいトーンにほっとする。
きっと周太も光一と同じよう想ってくれている?そう恋する相手の心透かす想いへパートナーが微笑んだ。
「そういう周太だからさ、どんな過去でも最後は受けとめ切れるって俺は想うよ。周太が言う通りアレは周太への遺言なんだ。
だから本もめぐり廻って周太に戻ってきたね、それが祖父さんの意志だからさ。おまえがドンダケ賢くっても敵わないの仕方ないね、」
光一が通りだろう、きっと晉の意志が周太の許へ本を届けさせた。
そしてもう一人だけ晉が宛てた相手がいる、この事実を初めて英二はパートナーに告げた。
「その通りだって想うよ、でも晉さんが宛てた相手はもう一人いる。俺の祖母に贈った本もメッセージが書かれてるんだ、」
告げた言葉の向こう側、軽く吐息かすかに伝わる。
驚きと納得と、そんな気配からザイルパートナーは問いかけた。
「先月、祖母さんトコに周太を連れて行った時に見たんだね。なんて書いてあった?」
「英語で一言だけだよ、」
唯ひとつの言葉だけ、祖母に宛てた本に遺される。
そこに晉が刻みこんだ祈りを見つめながら、英二は伝言を声にした。
「Confession、それが祖母へのメッセージだよ、」
“Confession“ 告解、懺悔と有罪の自白。
この言葉に籠めた晉の願いへ微笑んで英二は口を開いた。
「周太のお祖母さんは一人っ子なんだ、だから従妹にあたる俺の祖母を実の妹みたいに可愛がってくれてさ、祖母も姉だと今も想ってる。
だから Confession 、大切な姉を巻きこんだ罪を祖母に懺悔してくれたんだ。そして罪の告発を託したんだよ、祖母の夫は検事だったから、」
祖母の夫で自分の祖父は検事だった、この事実も初めて光一に告げる。
けれど今は知っているだろう、来月からの上司として部下の経歴すべてを把握しているはずだ。
それでも光一は知って黙ってくれていた、この信頼に微笑んだ向こうパートナーは微笑んだ。
「おまえの祖父さん、検事の定年後は敏腕弁護士だったらしいね?ナンカおまえと似てそう、」
「雰囲気とか似てるって言われるよ、」
やっぱり解ってくれている。
こうした理解に笑いかけて英二は言葉を続けた。
「晉さん、俺の祖父に検事として真実を暴いてほしかったんだと思う。全てを明白にすることで、息子の馨さんを自由にしたかったんだ。
でも全部は懸けだったと思うよ、俺の祖母が気がつくか気がつかないか、五分と五分の可能性に自分の告発を委ねたんじゃないかと思う。
祖母まで巻き込みたくないから絶縁状態にして、それでも告白をしたくて祖母に本を贈ったんだよ。たった一つの単語に全てを懸けてね、」
晉が告解したかった唯一の相手は亡くした愛妻の従妹。
その血縁に繋がる真実に微笑んで、英二は共犯者へ宣言した。
「晉さんが懺悔と告白を宛てた相手は俺の祖母だけだ。祖母の孫は俺と姉しかない、だったら長男の俺には全部を受継ぐ資格がある。
周太に探し物を遺したように、俺にも告白と告発を遺したんだ。真実を俺に教えて、あの男を告発して、罪ごと全てを解放してほしいんだよ、」
これが晉の遺したもう1つの意志、そう信じているから尚更に周太を離せない。
だからこそ努力も時間も、この心も体も惜しむつもりはない。この誓約に英二は笑いかけた。
「だから俺、全力でがんばるよ?あの男に対抗できる力を早く手に入れたいんだ、救急救命士のことも絶対に評価を勝ちとるからな、」
「昨日、後藤のおじさん話したらしいね。期待してるよ、」
答えてくれるトーンは、いつものよう明るく笑っている。
透けるよう明るい声のまま、真直ぐなトーンが英二に告げた。
「遺された言葉が “Confession” 告解ってお似合いだね。天使で悪魔の男には懺悔と告発って、ピッタリだよ、」
天使で悪魔、相反する二つの言葉が向けられる。
こんなふう昨夜も言われた、そして今も言われて納得できる。
きっと自分は常に二つの道がある、そんな過去とこれからを見つめて英二は微笑んだ。
「いちばん俺に似合うだろ?このためにも俺は生まれて、あの家に呼ばれたんだからさ、」
自分にしか似合わない、そんな自信に微笑んだ視界で窓も明るみだす。
この自信に自分の存在を認めたい、そこに自分の生きる意義と意味も見つめている。
勿論この為だけに生きるのでは無いだろう、それでも自分の核心には護るべき存在を抱きしめたい。
自分の全てと抱きあえる唯ひとりを笑わせたい、その願いは生まれる前からの約束と信じている。
―きっと俺にしか出来ない、だから周太と出逢ったんだ、すべてこの為に、
想いに見つめる窓から一条、今日最初の光は射して登山ザックを明るます。
その中には救命具セットのケースが納められ、そこに罪と罰の証は隠される。
WALTHER P38 太平洋戦争に従軍した晉の遺物。
あの戦争が晉の、その家族の運命も狂わせた発端だった。
もしも晉が従軍せず拳銃を手にすることが無かったら、50年前の惨劇は無い。
けれど哀しい50年の連鎖を惹き起したトリガーは今、奈落の眠りから自分の掌に醒めた。
だからこそ自信を核心に抱いている、晉の求める告解に応えるのはきっと、自分しかいない。
すべて護るために、あの罪から解放するために自分は今、ここにいる。
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