萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

第64話 富嶽act.6―side story「陽はまた昇る」

2013-04-20 14:46:48 | 陽はまた昇るside story
承継、この背に誇りを、



第64話 富嶽act.6―side story「陽はまた昇る」

黒い玄武岩質の天辺は、蒼穹の雲ゆるやかに奔りゆく。
シーズンを終えた霊峰は浄域に姿を戻し、無人の茫漠が風となって凪ぐ。
厳冬期の白魔も銀竜ここにいない、けれど高く澄んだ音が響くよう静謐が髪をゆらせて吹きぬける。

―神の世界だ、

響く感覚が今立つ場所の真実を告げてゆく。
白銀まばゆい冬富士の壮麗とは別の貌、けれど玄黒の砂岩に聳える荘厳は息を奪う。
足元から過らす薄雲は渺漠と虚空へ抜ける今、自分と天が近い。

「…すごい、」

ため息こぼれた想いに微笑んで、あたりをゆっくり見まわしていく。
雪の無い山頂には磐を積んだ岩屋が並び、この山を祀る浅間社の奥宮も鎮座する。
けれど閉山された今は誰もいない、静寂だけの棲まう高度三千の世界は無謬の風だけが訪う。

「どうだい、雪山も良いが岩山も悪くないだろう?」

静かなる風に深い声が笑う、そのトーンは愉しげに温かい。
この声と共に登ってこられた喜びに英二は綺麗に笑いかけた。

「はい、火山なんだって実感が出来ます、」
「あははっ、そうだなあ、富士は火山だったなあ、」

日焼顔ほころばせ相槌してくれる、その笑顔は明るく息の乱れも少ない。
これなら御鉢周りも出来るだろう、そんな見当に微笑んだ英二に後藤は言ってくれた。

「ありがとうよ、俺の馬鹿な真似に付合ってくれて。宮田と話しながら登れたお蔭で良い山行だった、満足で下界に戻れるよ、」

もうこれで充分だ、そんな笑顔が笑いかけてくれる。
いま笑っていても後藤は自身に限界を気付いた、その判断は尊重すべきだろう。
けれど自分はまだ終わらせるつもりはない、英二はその場に片膝ついてザックを開いた。

「後藤さん、これから俺の訓練に付合って下さいね、」

言葉と笑いかけながらザイルを取出してゆく。
その手元を見て深い瞳ひとつ瞬かせ、可笑しそうに後藤は訊いてくれた。

「こんなところでザイルかい?」
「はい、ザイルです、」

笑って答えながら英二はザイル両端を2mずつ余らせループに束ねた。
このループ状ザイルを二つに分けると後藤を見上げ、提案と微笑んだ。

「後藤さん、ザイルループの搬送訓練をお願いします。暫くやっていないので復習させて下さい、コースはお鉢周り一周3kmです、」

自分の背に後藤を担いで山頂を廻る。
これなら後藤の体力消耗を押えられ肺への負担も軽いだろう。
けれど最高の山ヤが自分に背負われて母国最高峰を廻ることを、好しとしてくれるだろか?

―こんな申し出は怒られても仕方ない、でも無理なく山頂の全てを楽しんでもらいたいんだ、

後藤の富士登頂は今日を最後にしたくない、そして「今」も存分に楽しんでほしい。
この二つの望みを叶えたくて自分なりに出した結論が搬送訓練だった。
ただ背負うのは後藤のプライドに申し訳ない、けれど訓練なら?
そう考えた提案に救助隊副隊長は笑ってくれた。

「まさに負うた子に負われるってヤツだなあ?おまえさんの背中なら喜んで背負われたいよ、いいかい?」
「はい、」

提案を受けいれられて嬉しい、微笑んで英二はループの片方を後藤の両脚に通した。
もう片方を自分の両肩に潜らせて、後藤の背中でエイトノットを作りザイルの端を肩から身体の前に回す。
その末端の途中を後藤の脇下あたりでループの下を潜らせ引き出し、小さな輪を作りザイル端を通して自分の前に出す。
そのまま自分の腹部でクロスさせた末端部を後藤の大腿に回して、ザイルと脚の間にタオルを挟みこむと自分の腰で本結びした。

「後藤さん、ザイルの締め具合はいかがですか、キツイ所とかありますか?」
「ちょうど良いよ、速いし巧いもんだ、」

日焼顔ほころばせ笑ってくれる、その笑顔に「合格」を見て嬉しい。
こうした技術を光一と後藤から教わってきて今がある、感謝に微笑んで英二は立ち上がった。

「今からスタートします、タイム計測お願いして良いですか?」
「おう、高度計もセットしたよ。足元が冬とはまた違う滑りやすさがあるから、気をつけてな?」

朗らかに深い声が笑ってくれるトーンが温かで嬉しくなる。
こういう後藤だから背負っても夢を叶えてあげたい、その望みに英二は一歩を踏み出し微笑んだ。

「はい、慎重に行きます。一周したらコーヒー淹れますね、インスタントだしぬるめで申し訳ないですけど、」
「ぬるいのも山頂の名物みたいなもんだ、楽しみだよ、」

嬉しそうな相槌が笑って背負われてくれる、その胸部の呼吸が背中越しに伝わらす。
こうして背負っていれば後藤の状態も触覚から解かりやすく、微妙な変化にも気づきやすい。
今の状態なら問題は無いだろう、そんな判断と一緒に英二は富士山火口の縁を進んだ。
久須志神社と4軒の閉じられた山小屋を見ながら時計回りに歩き成就岳に登る。
拓けた見晴に東を望みながら行く、その遥か彼方へ俤を想ってしまう。

―周太、ここに連れてきてあげたいよ。雲より高い世界を見せてあげたい、

今、第七機動隊舎にいる周太と自分の標高差は3,700m以上。
遥かな高度差からも想ってしまう俤は、この場所を見たら何を考えるのだろう?
その言葉を聞いてみたい、その瞳が映す世界と想いを一番近くから見つめてみたい。
そんな願いごと踏みしめる玄武岩質の道は茫漠とした隆起に聳えて威厳の風が流れゆく。

―この世界は静かで綺麗だよ、でも周太は花や木が無い世界は寂しいって思うかな、

いつも周太は植物を慈しむ。
警察官として勤めながらも樹木医に学ぶほど周太は植物の世界に憧れ生きている。
余暇には公園で木蔭のベンチに本を開き、自宅に帰った時には豊かな森を映した庭を手入れする。
周太が守る樹木たちは美しい花ほころばせ実を結ぶ、同じよう周太の母も家庭菜園や花壇を見事に作りあげる。
草木を愛する母子の横顔はいつも幸せに温かい、そんな二人を自分は愛して逢いたくて、帰り寛ぎたいと願っている。
けれどこの森林限界を超えてゆく世界に自分は惹きつけられ、憧れ、その同じ心を持つ山ヤを今も背負って砂礫の道に躍動を喜ぶ。

―周太、俺と周太は正反対の生き方をしているのかもしれないな?でも、愛してるんだ、

草木の消える世界を求めて登り、けれど樹木に生きる人を自分は愛している。
こんな自分の心にはさっき歩いた富士の中道、森林限界に奔る天地の際が思案するよう映りこむ。
富士五合目から廻らす黒と緑の世界二つに分ける道、そこを辿って見た大沢崩れの崩落音が記憶から問う。

遥かな蒼穹へ昇らす砂岩の道、そこへ憧れて草木は天へ梢を伸ばす?
豊穣の生命あふれる緑深き森、その寛容なる懐へ抱かれたくて山は崩れゆく?

玄武岩の高峰と深緑に広がらす樹海と、夏富士に二つの世界は交錯する。
そこを歩く想いには「山」が抱く二つの貌を見るようで、敬虔という想いに浸される。
こんな想いを冬富士の白銀では見られないだろう、そう気づいた背中から深い声が笑ってくれた。

「なあ、冬富士の白一色も良いが夏富士の茶と緑の二色も良いもんだろう?」

まるで自分の心を見透かしたよう?
そんな台詞が可笑しくて何か嬉しくて、英二は素直に笑った。

「はい、正反対の世界が同じ道で繋がってるって面白いです、砂と岩の山頂と森の山麓と、」
「はっはあ、正反対の世界か?なるほどなあ、」

楽しげな声が背中で笑ってくれる、その呼吸と心拍にほっとする。
こんなふう大笑い出来るほど後藤の肺はまだ健やかだ、その安心に微笑んだ英二に深い声が教えてくれた。

「そうだなあ、森と岩石の天辺は正反対の世界だな。だがな、麓の森が富士の土台を根っこに抱いて支えるから山が崩れないんだよ。
さっきの大沢崩れもそうだ、草が無い部分が崩れとったろう?支えの無い砂岩質の山は脆いもんだ、だから森林限界が上ってきたのかもな、」

富士の森林限界が上ってきた、その台詞に英二は振向いた。
肩越しに深い瞳は愉しげに英二を見、可笑しそうに微笑んだ。

「ほい、もう剣ヶ峰を登りきるぞ?あの天辺で続きは話すからな、足元に気を付けてくれよ、」
「はい、」

素直に応えて注意を戻し、富士最高点へと馬の背を登りきる。
日本最高峰富士剣ヶ峰、そう記す石碑の傍ら英二は後藤を背から下した。

「はっはあ、おまえさんに背負われてこの国最高峰に来れようとはなあ?ありがとうよ、」

明るい日焼顔ほころばせてくれる後藤は、いつもより少し呼吸が深い。
やはり標高3,700からの気圧は今の後藤には厳しい、そう見とりながらも英二は微笑んだ。

「俺の方こそ、ありがとうございます。この山で後藤さんを背負わせてもらえるなんて、俺には大逸れてます、」
「いやいや、俺の方こそ大逸れた願いを叶えてもらったよ、」

愉快に深い瞳を笑ませて後藤はウェアの内ポケットに手を入れた。
そこから透明なカードケースを取出すと、英二へ差出し最高の山ヤは微笑んだ。

「俺の家族写真だよ、女房と娘と、息子だ、」

写真のなか若い後藤の笑顔に寄りそう色白の清楚な笑顔と、日焼の元気な少女と真白い肌の赤ん坊が笑っている。
その赤ん坊はどこか後藤と似ていて、けれど母親似の透けるほど白い肌は儚さが切なく運命がもう兆して見える。
こんなふうに早逝の人はどこか透明感が儚いのだろうか?そんな想い抱きながらも英二は明るく微笑んだ。

「ハンサムですね、息子さん。紫乃さん可愛いです、元気いっぱいって感じで、」
「だろう?どうだ、俺の子供たちは可愛くって女房は美人だろ?」

嬉しそうに笑ってくれる後藤の瞳は明るくて、その明るさに愛惜と幸福が輝いている。
この写真の笑顔はもう2つ亡くなってしまった、その哀しみより温もりを言祝ぎたくて英二は笑った。

「はい、ほんとに幸せそうで羨ましいです、」

羨ましい、それが自分の率直な感想だ。
こんなふう両親が笑ってくれる写真なんて自分には無い、そして哀しみも無かった。
未知の幸福と哀切がいま掌の写真に笑っている、その羨望と哀しみに微笑んだ肩を大きな掌がそっと掴んだ。

「おまえさんなら望んだ分だけ幸せになれるよ、大丈夫だ、」

大丈夫だ、

そう告げた深い声の言葉の温もりに瞳の奥が熱くなる。
どうして今こんなにも響くのか解らないほど泣きたい、けれど泣きたくない。
そんな本音と意地の葛藤が心臓を軋ませ喉が詰まる、その全て呑みこんで英二は微笑んだ。

「ありがとうございます、」
「こっちこそありがとうよ、だがな、今は無理に笑わんでも良いぞ?」

笑いかけて後藤は測候所の傍らに腰をおろした。
そして英二を見上げた深い目は大らかに微笑んだ。

「なあ宮田、せっかく富士の天辺に来たんだ、俺に父親ゴッコをさせてくれないかい?」
「え…?」

どういう意味だろう?
そう見つめた英二に日焼顔は笑って、照れ臭げに言ってくれた。

「岳志は俺と山に登ったことは無いよ、でもなあ、同じように目が綺麗で色白の宮田が登ってる姿を見るとな、岳志そっくりだって想えてなあ。
おまえさんの両親には申し訳ないんだがな、岳志が生まれ変わって宮田になって、奥多摩に帰って来たんじゃないかって想っちまうんだよ、俺は、」

もしも自分が後藤の息子だったら、どんなに幸せだったろう?
そう何度も想ったのは自分の方だ、それを後藤も同じよう本気で想ってくれている?
そんな想いと見つめる先で深い瞳は大らかに笑って、いつものトーンで話してくれた。

「吉村もな、宮田のことを自分の息子みたいに想ってるよ。おまえさんは確かに顔立ちもクライミングスタイルも雅樹くんと似てるな。
だけどな、俺から見たら雅樹くんと全くの別人だよ。優しいがプライドが高い分だけ本当は我儘だ、だから緻密な努力で人も事も動かすよ。
おまえさんは光一のお目付け役だがな、本当は光一を振り回しているのは宮田の方だ。そういう所が俺と似てるなって、よく想うんだよ、」

自分と後藤が似ている、そう言われることは初めてだ。
すこし驚いたまま英二は笑いかけた。

「確かに俺は計算高い癖があります、でも後藤さんも同じタイプなのは意外です、」
「そうだろうよ?まあ、齢の甲ってやつだな、」

からり笑って答えてくれる、その笑顔は深く温かい。
こんな貌で笑われるから信じたくなる、この想いごと英二は後藤の隣に座り笑った。

「俺は自分の意志で山岳救助隊を選びました、でも後藤さんが俺を選んで、光一のパートナーにする為に仕向けたと考えても納得出来ます、」
「だろう?その通りだよ、向いているって思ったからなあ、」

向いている、そんな言葉で笑う瞳が明るい企みに閃かす。
その眼差しが英二に笑ってくれながら後藤は話しだした。

「前にも話したがな、俺は光一のザイルパートナーと補佐役になれる男を探していたんだ。でも光一がああいう性格だろう?
あいつは誰とでも仲良く出来るが肚の底から信頼する相手は少ないよ、俺が知ってる限り雅樹くん以外には美代ちゃんだけだった。
この二人は光一と生まれた時から信頼関係を築いた相手だ、その信頼にプラス共犯者になれる相手を光一の補佐役に欲しかったんだ、」

雅樹と美代、この二人は光一にとって別格の存在だろう。
それとはまた違う関係「共犯者」を後藤は探していた、その意図に深い声が微笑んだ。

「アンザイレンパートナーだけなら雅樹くんのような純粋一辺倒の男が良いよ、でも警察社会で補佐役なら強かな狡さが無いとダメだ。
一筋縄じゃいかない賢さと無欲な野心と、けれど山への純粋な情熱がある男がいちばん良い。この条件を考えて身上書を閲覧してなあ、
そうしたら1人だけ無欲な野心家になれそうな男を見つけられたよ、しかもなあ、その男の担当教官は運よく俺の知り合いだったんだ、」

無欲な野心家、

そんな言葉に後藤が自分の何から判断したのか解る。
その確認をしたくて英二は口を開いた。

「祖父の経歴と、俺の体力測定から判断したんですか?」
「そうだよ、あと採用試験のスコアもな、」

日焼顔ほころばせ後藤はポケットから箱を取出した。
慣れた片手でキャラメル一粒を口に放り込み、英二にも箱を差出しながら教えてくれた。

「宮田次長検事は清廉潔白な方だ、まさに無欲な野心家の見本だよ。で、おまえさんの写真を見たら雰囲気も似ているからな。
きっと祖父さん譲りの冷静な熱血があるって感じたよ、採用試験のスコアを見たら優秀で納得出来た。だから出身大学の落差に驚いてな、
能力は高いのに大学が低いなら鬱屈があるって思ったよ、その鬱屈を山に向けさせたら純粋な情熱になるって考えてなあ、俺は見学に行ったよ、」

語られる後藤の意図に「参った」と微笑んでしまう。
そこまで自分のことを理解して探してくれた、その降参と感謝ごとキャラメルを口に入れて英二は笑った。

「後藤さん、俺の見学にまでいらしてたんですか?」
「おう、講師で警学に行ったとき初任教養のおまえさんを見たよ。どこか中途半端で鬱屈してる貌だったなあ、」

言いながら後藤は可笑しそうに笑ってくれる。
いま笑って言われたことに困りながら英二は微笑んだ。

「あの頃は俺、自分が何をしたいのか見えていなかったんです。母親から逃げたくて全寮制の職種を選んだのが志望動機ですし、
あとは司法の現実を最前線で見てやろうって漠然とした目的しかありませんでした、後藤さんの観察と予想どおりに俺は動いています、」

幼い頃から目指した世界は母の妨害に潰された。
それを自分は認めたくなかった「母に自分が潰された」など思いたくない。
そんな「現実」を認めたくなくて逃げたくて、母の束縛ごと妨害された過去も捨てたかった。
だからこそ以前の自分には言えなかった真意を今、この最高峰で言葉に出来た隣から深い声は愉快に笑った。

「そうか、俺は宮田のおふくろさんに感謝せんといかんなあ。宮田が警察官になってくれんと俺は、今頃どうして良いか困ってたろうよ、」

自分が今ここにいる、それを後藤は感謝で笑ってくれる。
この今が嬉しい、そう想うごと母への悔しさが薄れて楽になる。そんな想いに後藤は言ってくれた。

「本当に俺はな、おまえさんが居なかったら困っていたよ?光一のことも任せられて山岳警察のことも引継げる相手なんて容易く居ないんだ、
だから俺は想ってしまうんだよ、そういう会い難い存在だからこそ余計にな、おまえさんに息子の姿も重ねて期待もして、山に引張りこんだんだ、」

逝った息子への期待が自分を「山」に導いてくれた。
それを今この場所で聴かせて貰えて嬉しい、その本音正直に英二は綺麗に笑った。

「後藤さん、俺の方こそ父親との理想を後藤さんに見ています。息子としてなら尚更、警察と山との両方で期待されたら嬉しいですよ、」
「そうかい、やっぱりなんだか似てるなあ、おまえさんは、」

可笑しそうに笑ってくれる、その息遣いが少し深くなる。
そろそろ先へ行く方が良いだろう、そんな判断に立ち上がりかけた英二に後藤は微笑んだ。

「宮田、本当はおまえさん、今は泣きたいことで一杯なんじゃあないかい?だったら俺の前でな、今ここで泣いてくれんか、」

どうして後藤はそんなことを言うのだろう?
その意図を知りたくて見つめた先、大らかに稀代の山ヤは笑ってくれた。

「さっきも言ってくれたな、おまえさんは色んなもんを背負って俺と登ってくれてるって。でも他にも沢山背負ってるんだろう?
だってなあ、周太くんの為に願い出た異動の時がもう近づいてるんだ。それは湯原の辿ってしまった道と戦う時が近いって事だろう?
それが軽く無いって位は俺も解っとるよ、その事情を俺に話せないとしてもな、我慢してる涙を吐きだすくらいなら俺でも良いだろう?」

馨の辿ってしまった「50年の束縛」の道は何も話せない。
その道の原点は今も登山ザックのなか救急用具に隠して、隠された罪ごと背負っている。
この秘密は誰の為にも明かせない、それでも明かせぬままに後藤は共に背負うと言ってくれる。

―こんなこと言ってくれる人が父親なら本当に幸せだ、そうでしょう、岳志さん?

いま写真で会ったばかりの相手にその幸運を羨んでしまう。
もし自分が岳志ならなんと答えるだろう?そんな想いごと英二は微笑んだ。

「この国の一番高い場所で、この国最高の山ヤの警察官の隣で泣くなんて贅沢ですね。でも、それ以上の贅沢をさせてくれませんか?」

笑いかけながら内ポケットに手を入れて、ひとつの箱を英二は取だした。
そのパッケージを開いて箱の隅を軽く叩き、煙草一本を後藤へ向けて微笑んだ。

「俺たちは今この国の誰より高い場所にいます、だから今、この国で最高の一服を一緒にする贅沢をさせてくれませんか?」

標高3,776m 富士山頂剣ヶ峰の一服。
それを山ヤとして警察官として最高の先輩と愉しみたい。

そう願いながらも今の現実は肺気腫を患う後藤にとって喫煙は禁忌でいる。
けれど後藤の願いは今が最期のチャンスかもしれない、だからこそ今この願いは贅沢すぎるだろう。
それでも後藤の願いに選択を委ねて笑いかける真中で、深い瞳は幸せそうに笑ってくれた。

「あっはっは、こりゃあ泣くよりも我儘な贅沢だなあ?でも俺もその贅沢はしたかったんだよ、」

笑って答えながら日焼けの指に煙草一本を受けとると、いつものライターを出してくれる。
いぶし銀のくすんだ艶に富士の太陽を煌めかせ、かちり、軽やかな音に炎は煙草の先へ灯された。
こなれた仕草でひとつ燻らせ後藤は笑い、英二へと宝物のライターを差し出してくれた。

「ほい、ライターどうぞ、」
「ありがとうございます、」

微笑んで受け取って、同じよう咥え煙草に火を灯す。
この火には後藤とその妻の喜びも哀しみも明るい、そんな想い微笑んで英二はライターを返した。

「本当に良いライターですね、掌にしっくりなじんで、」
「だろう?贈り主もそんな感じの女だったよ、」

答えながら熟練の山ヤは微笑んで、その掌に愛妻の想いとライターを握りしめ紫煙をのんびり燻らせた。
煙草の横顔は穏やかに明るく落着いている、どこにも病の影は見えない明るさに微笑んで英二は空を見上げた。









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