From these remembrances 時交わす聲
第71話 渡翳act.6-side story「陽はまた昇る」
ゆるやかな陽射に林檎がまだ香る。
あまやかに爽やかで温かい、そんな香に水道の音きゅっと鳴る。
洗い上げたマグカップと匙を水きり籠に置いてハンドタオルで手を拭いてゆく。
拭き終えて、ちょうど沸いた白湯を湯呑に注いで携えると英二はリビングに入り、本音こぼれた。
「…可愛い周太、」
明るい大きな窓辺の光、佇んだ浴衣姿が純白まばゆい。
天鵞絨の緑深いカーテンとガラスのはざま黒髪やわらかく艶めかす。
微笑んだ横顔の透けるような肌あざやかで、見惚れるまま振り向いて笑ってくれた。
「英二、洗物ありがとう…お白湯まで持ってきてくれたの?」
「うん、薬飲まないとな?」
笑いかけて薬袋を湯呑を渡すと素直に受けとってくれる。
きちんと飲下してくれる喉元がすこし赤くて、やわらかな紅潮の肌が惹きこむ。
―ちょっとだけ許してくれないかな、周太?
ほら、もう自分勝手な願いが見つめる肌に映りだす。
それでも幾らかの自制心と心配に英二は笑いかけた。
「周太、ちょっとベッドで休もうな?本屋に行くって言ってたから祖母もゆっくりして来ると思うんだ、俺たちものんびりしよう?」
「ん、ありがとう…湯呑おいてくるね、」
素直に頷いてスリッパの足が絨毯を歩いてゆく。
その足元ゆれる白い裾は清らかで、くるぶし翻す仕草が瑞々しい。
こんな姿も静かな部屋の空気も久しぶりで心解かれる、ただ寛ぐまま佇んだ窓は木洩陽まぶしい。
―静かだな、周太の気配だけで…こういうの良いな、
小さな付属寮の部屋は扉ひとつ向こうに足音がある。
いつもどこかに緊張感は往来して出動の声を聞き逃さない。
そんな生活に一年を過ごして日常になっている、けれど今こうして家庭に立てば安らぐ。
その感覚に気づかされる、自分は家庭を「安らぐ」と感じたことは今まで何度あったろう?
―この家に来るまで殆ど無かったな、周太とこうなるまで、
自分の両親が作った家庭は、自分の居場所が見つからなかった。
姉だけは何でも話せる、けれど父と肚から話したのは一年前の夜が初めてだった。
そして母とは本当の本音から話したことなど今まで一度でもない、この先もあるだろうか?
―剱岳でも想ったんだよな、父さんと母さんにちゃんと向きあってほしいって…夫婦として、親子として、
厳冬期の雪原と高峰、そこから見た青と白の世界に自分は願った。
はるかな蒼穹の点に立ち、その足元の雪すらいつか海になって雲となる世界は悠久の変転が見える。
その視界とナイフリッジの風に佇んだ雪山の頂点、あの場所から水廻らす悠久に両親の氷壁の解凍を願った。
あれから季節は移ろい山ヤとして二度めの秋を迎える、そんな季節ふらす窓辺へ優しい足音を聴いて振向いた。
「周太、」
名前を呼んで笑いかけて、腕を伸ばし捕まえる。
木洩陽まばゆい純白の肩を惹きよせて、紫紺の帯ゆれる腰を抱えて、近づく瞳を覗きこむ。
見つめた黒目がちの瞳すこし驚いて見上げて、その貌に笑って抱きあげると英二は幸せに微笑んだ。
「周太をお姫さま抱っこするのって俺、ほんと幸せ、」
本当に今が幸せ、そう想うまま笑いかけて額よせる。
こつん、軽くふれる前髪ごしの温もりが嬉しくて微笑んで、けれどオレンジかすかに甘い。
この香が前は大好きだった、それなのに今は気管支の罹患を思い知らされて鼓動を抉られる。
―いつも俺はそうなんだ、周太の本当の傷みを気付けない…どうして、
いま香らすオレンジに自分の愚かさを知らされる。
何も知らず気づかず唯好きだと想っていた、その向こうに在る現実の傷に気づけない。
こんなふうに自分は過ちだらけだろう、それでも護りたい願いごと廊下に出た懐から声が羞んだ。
「…おれもしあわせ、」
いま、なんと仰って下さいました?
「周太、お姫さま抱っこが幸せって言ってくれたの?」
「…ん、」
かすかに、けれど頷いて長い睫を伏せてくれる。
気恥ずかしくて仕方ない、そんな仕草に本当だと伝わらす。
「お姫さま抱っこ嬉しいって周太、俺こそ嬉しいよ?」
本当に今、嬉しい。
こんなスキンシップを喜んでもらえると有頂天になりそう?
そんな想いごと階段を昇って部屋の扉を開いて、つい英二は施錠した。
かちん、
小さな金属音が鳴って、鼓動ひとつ打ってしまう。
この施錠音を聴かれてしまったら下心が透けて気づかれる?
そんな心配ごと抱きあげている視線が気になって、けれど穏やかな声やわらかに微笑んだ。
「風が気持ちよさそう…英二、窓を開けていい?」
「周太、窓を開けてって命令してよ?命令なら開けてあげる、」
笑いかけながら栗色深い木床を踏んで、その足元に光の格子が艶めく。
明るい午前の光ゆるやかに照らす部屋はアンティークの家具も優しい、この古く清らかな空気が自分は好きだ。
―周太の部屋だ、前と同じに、
久しぶりの空間、けれど変わらない静謐は穏やかに優しい。
紺青色きらめかすカーテンの天鵞絨は同じに深い空を映す、壁のアイボリーも清雅なまま温かい。
フォルム優しいクラシカルな勉強机は花一輪、翡翠色の葉と茎に純白の花が綺麗で英二は微笑んだ。
「周太、机の花きれいだな、名前なんだっけ?」
「ん…秋明菊だよ、」
やわらかなトーン応えてくれる笑顔は朝よりも清明に見上げてくれる。
これなら熱が落着いたのかもしれない?そんな予想ごとベッドに抱きおろすと額に額をつけた。
ふれた肌から温もりを感じとってゆく、その温度感覚が嬉しくて黒目がちの瞳へ幸せに笑いかけた。
「周太、熱だいぶ落ち着いた感じだな、気分どうだ?」
「ん、大丈夫…さっきも自分で立って外、見てたでしょ?」
穏やかに応えてくれる笑顔は明晰で熱の気配が薄れている。
きっと一眠りと林檎と薬が効いた、この復調は嬉しくて、嬉しい分だけ期待してしまう。
―熱も退いたんなら少しくらい大丈夫だよな、機嫌も良さそうだし、
ひとり下心を廻らせながら黒目がちの瞳を見つめてしまう。
見あげてくれる眼差しは羞んだよう微笑んでブランケットを引寄せる。
アイボリーやわらかに持つ手は幾らか華奢で前より白い、そんな指先に外出の少なさが見えて傷む。
―室内にずっといるからだ、訓練場か講習室か…朝から晩まで、
自由な外出も許されない生活。
そんな時間が周太の2週間だったろう、そして漸く帰れた家で倒れてしまった。
きっと帰郷までは緊張で張らせた心が体も支えている、けれど、無理に支えた分だけ折れ方は深い。
だから考えてしまう、約束の一年間が後悔することになるのかもしれない?
『一年は喘息のこと内緒にして?お父さんのこと一年だけ追いかけたいんだ』
一年、そう言って周太は約束してくれた。
けれど一年間を耐えきれる保証なんてどこにも無い、そんな現実に声が出た。
「周太、さっきした一年間の約束だけど」
約束の期限は一年、だけど短くしてほしい。
この願い言葉に続けようとして、それなのに黒目がちの瞳が微笑んだ。
「ん…来年の夏は一緒にどこか行きたいね?」
来年の夏は一緒に、どこかに。
来年の夏は一年後よりも短い、その約束を告げて笑ってくれる。
この笑顔と願いに慰められてしまう、そして優しさの分だけ覚悟は深いと思い知らされる。
深い分だけ揺るがない、もう止められないと思い知らされて鼓動は軋んで、感情が涙へ墜ちた。
「周太、来年の夏は北岳に行こう…約束どおりに、」
北岳、あの山に約束を重ねた温もりが頬を伝う。
ひとすじ静かに辿らす軌跡が想いを奔る、この聲に英二は微笑んだ。
「北岳草を見せるって約束したろ?来年、6月の終わりに一緒に登ろうな、」
北岳草、世界で唯一ヶ所にしか咲かない純白の花。
今夏に自分も初めて見た、あの花に唯ひとり見つめた想いは今も変わらない。
遥かな太古から咲いて繋がれる小さな花、あの耀く命を見せたい瞳に笑いかけた。
「北岳草はな、周太?北岳の山頂直下で三日間だけ咲くんだ、北岳の空気と土と氷河にしか咲かない花だよ?世界に唯一で一瞬の花なんだ、
だけど周太、氷河の時代から咲き続ける永遠の花でもあるんだよ?だから俺、周太と見たいんだ…ずっと一緒にいたいのは周太だけだから、」
時も場所も、唯一瞬の花。
ただ三日間が最盛期の花は世界で唯一ヶ所だけに咲く、その命は短く儚い。
本当に短い花の季、けれど悠久の時間に咲き続ける花を見せたくて願ってしまう。
唯ひとり見せたくて約束を重ねたくて、罪も罰も幸福も未来も見つめて英二は笑いかけた。
「周太だけなんだ、俺が本当に帰りたいって泣きたくなるのは周太だけだよ?この2週間ずっと周太に逢いたくて、帰りたかった、
今夜も周太から離れた瞬間に俺は帰りたくなるよ…きっと50年後の俺も周太に帰りたい、ずっと…想うのは周太が初めてで、唯ひとりだ、」
君だけに帰りたい、今も未来も唯ひとり君を求めている。
唯ひとりの君だから唯ひとつ咲く花を共に見たい、この願いごと愛しい掌そっと繋ぐ。
いまブランケットに横たわる体は儚く見えて、それでも未来の笑顔を信じるまま笑いかけた。
「周太、俺は周太をおんぶしても北岳草を見に連れて行くよ?だから喘息ちゃんと治してくれな、いまの職場でも無理するなよ?
毎日、飯は何食って何時間ちゃんと寝たって、メールや電話で毎日ちゃんと俺に教えろよ?でないと俺、心配で周太を捉まえに行くよ、」
心配で、こんなに誰かを心配した事なんて自分は無い。
今は後藤の手術も心配で考えてしまう、それ以上に唯ひとりの相手に意識は掴まれる。
だからこそ強引でも身勝手でも毎日の約束がほしい、そう願う真中で綺麗な瞳が笑ってくれた。
「出来るだけするのじゃダメなの?…毎日じゃないと英二、捉まえに来ちゃうの?」
「そうだよ、毎日じゃないと捉まえに行く。どこにいったって俺は周太のこと見つけ出す、絶対だ、」
絶対に自分は君を捉まえる、この自信だけはある。
だから今も約束を温もりに結んでほしい、その願いに祈るよう笑いかけた。
「周太、俺は思った通りしか出来ない身勝手なやつだってこと、もう周太は知ってるだろ?いつも俺が自分勝手だから周太を哀しませるんだ、
それでも俺のこと周太が少しでも好きだって想ってくれるなら、俺は絶対に周太を探して捉まえる。だから毎日ずっと構ってよ、今…キスしてよ?」
毎日ずっと構ってほしい、そして北岳草の約束を叶えさせてほしい。
こんな自分でも愛してくれるなら約束のキスをして?そんな願いごとに優しい声が呼んだ。
「英二…」
名前を呼んで、繋いだ掌そっと握りしめてくれる。
見あげる瞳が自分を呼ぶ、その眼差しに微笑んだ頬にもう一つの掌ふれてくれる。
やわらかな温もり静かに頬ひきよせて、惹かれるまま陽だまりのベッドに肩寄せて、そっと唇ふれた。
―オレンジが甘い、
あまい、その香に鼓動が刺されて、けれど温もりは優しい。
オレンジの香はのど飴の香、この飴ふくむ理由が心臓を掴んで現実を揺さぶらす。
この香を前は大好きだった、大好きな人の吐息くゆらす甘さを幸福の香だと信じていた。
けれど本当は生と死の別離すら呼ぶ病の気配なのだと、ずっと気づけなかった自分が大嫌いだ。
―どうして気づかなかったんだ、周太の時間をもっと大事にすればこんなに…こんなに追い詰めるまで俺は、
重ねたキスに後悔は廻って傷む、傷む分だけ今この瞬間が愛おしくて離れたくない。
温もり離れられなくて、けれどキス優しい唇の境を超えてしまう資格があるのか今解らない。
ただ唇ふれるだけの優しいキス、変わらない淑やかな接吻けの恋人は静かに離れて、そして微笑んだ。
「英二…お祖父さんの小説、英二も持ってるんでしょう?俺と同じに…読んで、知ってるよね?」
ほら、今キス交わした唇がもう過去からの現実を予告する。
問いかける声は穏やかに微笑んで、けれど見つめる眼差しは逃がしてくれない。
真直ぐに凛と自分を映す瞳の鏡は純粋なまま勁くて、そして音の無い聲が自分を捉まえる。
ただ見つめて微笑む瞳も唇も優しい、言葉も問いかけるだけで命令じゃない、それなのに鼓動から囚われる。
こんな聴き方は自分の弱点、だから想ってしまう、問いかけよりも命令してくれたら反抗も出来るのかもしれない。
「思ったままを言って、英二…お祖父さんの小説から何を読んだの、何を…本当だと、英二は思う?」
いま贈られたオレンジの香は唇に残る、あまい接吻けごと未来が自分に聲を聴かせて今、答えるべき言葉の行方は?
(to be gcontinued)
【引用詩文:William Wordsworth「The Prelude Books XI[Spots of Time] 」】
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