secretly 秘匿
第74話 傍証act.4-side story「陽はまた昇る」
Gaston Leroux 『Le Fantome de l'Opera』
邦題『オペラ座の怪人』は劇場の地下「奈落」に棲む一人の男の物語。
彼は建築の天才、彼は音楽の寵児、けれど醜い崩れた顔を仮面に隠して生きる。
その姿を見られることを彼は厭い、素顔を晒さず生きるために築いた地下宮殿の闇に棲む。
そんな彼の姿を人が見ることは稀、だから「Fantome」と彼は呼ばれ、その名のままに生きて消えた。
“ Fantome ”
亡霊、幽霊、
痩せ衰えた人間、有名無実の存在、
過去の幻影、追憶、幻想、そして妄想。
そんな言葉たち孕んだ名前、その全て負わされる存在は過去から現在まで命脈に運ばれる。
「英二、私が知る“Fantome”は今話した限りだ、それ以上は知らんよ、」
深く響く声が微笑んでワイングラス口つける。
じき日中南時、そんな高い陽射しを透かせて英二は微笑んだ。
「それ以上が“Fantome”にはあるんですか?」
「どうだろうな、」
もう話し足りた、その乾き癒すよう黄金あわく飲下す微笑は4年前と変わらない。
それでも会話の内容は4年前から遠くて、その距離だけ近づいた素顔に問いかけた。
「なぜ俺に話してくれたんですか?」
「さっき言った通りだ、」
短く応えて銀髪すこし傾げてみせる。
高くなる陽の明るいテラス、元官僚の男は安楽椅子に寛いで酒を飲む。
そんな容子と語られた記憶たちのアンバランス見つめるまま祖父は愉しげに笑った。
「英二なら巧く遣えそうだから教えたのだ、私にも後継者は必要だろう?私の周りにとってな、」
後継者、そんな言葉に祖父の立場が示される。
もう官職を辞して二十年以上が経つ祖父、それでも現在に繋がる過去へ問いかけた。
「俺が警視庁に入ったこと、ご希望通りですか?」
警視庁は祖父の眼鏡に叶う、それくらい自分にも今は解る。
この理解のままワイングラスとった手許、スーツジャケット着たままの袖越し祖父が笑った。
「ストレートに警察庁なら尚良かったが、前例を超えることは喜ばしかろう。英二なら派閥など無くても昇りつめられる、望むならな、」
端正な貌ほころばす眼差しが自分を見る。
そこにある4年前と違う満足に顔だけ笑いかけた。
「どうして俺のこと、そんなに期待してくれるんですか?」
四年前、二十歳の自分には「満足」された記憶が淡い。
こんな貌は今初めて見せられる、その瞳が愉しげに笑った。
「清廉潔白な検事は美しいな、だが泥の中でも立てる男の方が美しいと私は思っている、だから私もそう生きただけだ、」
泥、そんな表現に笑った瞳が自分を映す。
この眼差しすら多分似ているのだろう、そんな想い見透かすよう祖父は笑った。
「そういう生き方が出来る男は少ないだろうよ、私とて自分自身が美しいのかは知らん、だからこそ英二に期待したくなるんだろうよ?」
美学、なんて言葉があるけれど祖父の言葉はそれだろう。
こんなふう話してくれることは四年前に無かった、この相違に英二は微笑んだ。
「山岳救助隊はいつも泥まみれですよ、」
泥、
そう告げた祖父の意味と自分の泥は違う。
それでも本質は同じなのかもしれない、そんな理解に陽射しのなか祖父は笑った。
「山の泥は高潔なのだろうな、それも好い禊ぎだろう、官庁の泥を落すのに調度いい、」
愉しげに笑った唇がグラスをふくむ。
あわい黄金色が消えてゆく、その最後が尽きるまま問いかけた。
「官僚であることは、泥でしたか?」
泥の中でも立てる男の方が美しいと私は思っている、だから私もそう生きただけだ。
そんなふう祖父は今、言った。
あの言葉の真意に見つめた向こう、銀髪の微笑が答えた。
「泥が無ければ草も生えん、醜いようで役に立つものだ。官僚に限らず高潔に生きられる者など、稀だ、」
醜いけれど役に立つ、
そんな言葉を祖父が言うことは納得できる、けれど意外にも想えてしまう。
いつも自信あふれる男、そんな祖父が「醜い」と自身を言う現実へ問いかけた。
「だから宮田の祖父に憧れますか?」
「本当に稀な人だからな、」
愉しげに笑ってワイングラス卓上へ戻される。
ことん、小さな音と入れ替えに英二は自分のグラス口つけた。
―こんなこと話すの初めてだけど、短いのか…もう、
もう短いのかもしれない、祖父の時間は。
今年で九十歳を迎えようとする、その長い星霜いつ尽きても不思議はない。
だからこそ今この孫へと期待もする?そんな一人の人間らしい願いが真昼のテラスに笑った。
「宮田君は、おまえの祖父になる男は肚底から美しい男だ。あんな生き方は真似出来ない、おまえにもソックリ真似するなど難しかろう。
そう思うと検事にならなかったことは英二の幸せかもしれん、京大に行って検事になれば宮田君と同じ道だ、比較されるのは当然だったろう、
それが英二にとって重荷かもしれんぞ?おまえは私と似て計算高くて狡猾だが宮田君と同じ生真面目がある、その真面目が苦しんだかもしれん、」
祖父ふたり、同じ官僚でも全く違う道を生きる。
そこにある相違ふたつ自分は内蔵すると告げて端正な貌が微笑む。
その微笑にある真意を見つめる足許、寄添わす黒い犬の頭そっと撫でて英二は笑った。
「宮田の祖父と似ていると、よく言われます。でも、あなたと似ていると言われたのは今が初めてです、」
この祖父と自分は似ている、そう指摘されたことは一度も無い。
けれど自分自身はずっと知っていた、そしてもう一人知っていた存在は微笑んだ。
「そうだろうよ、英二は仮面を被ることも私とそっくりに巧い、」
仮面を被っている。
そんな告白に笑って白皙の手がワインボトルを掴む。
片手器用にグラスへ注ぐ、ゆらり金色あわくガラス満ちてゆく。
その光彩が懐かしい俤と家の風景を呼んで、親しい声が記憶に笑った。
『英二くんなら話せるわ、周だと真赤にさせちゃうもの?』
やわらかなアルトの声、黒目がち澄んだ瞳、ゆるいウエーブの肩掛かる髪。
あの笑顔と交わしたワイングラスの時間は楽しかった、だから護りたいと想ってしまう。
あの笑顔と、あの笑顔が愛する夫と息子と、その全てを護るために今この場所に自分は座っている。
あの場所で自分は仮面など要らない、だから帰りたくて祈るまま英二は微笑んだ。
「仮面が同じだから後継者だと言うんですか?でも、ノンキャリアで私大出身の俺とあなたでは違い過ぎます、」
「英二には学歴派閥など要らんだろう、それだけの才覚と気概があるならな、」
微笑んで答える深い声が明るいテラスに響く。
朗々、けれど豊かな低いトーンは聴く人を惹きつける。
それなのに自分から遠いと感じたくて、それでも近い男が全て知るよう笑った。
「英二、私から聴く前に“Fantome”のことは知っていたのだろう?どうやって知ったのだ、普通のノンキャリア2年目なら不可能だろうが、」
やっぱりその質問はするんだな?
きっと訊かれると思っていた、訊かないはずが無いだろう。
この予想通りの問いかけに微笑んで足元の犬すこし撫で、英二は答えた。
「警察官として知ったのだと、お考えですか?」
「ふん?…警官として、」
小さく考えこむよう頷いてグラス口つける。
だいぶ呑んでいるだろう、それでも酔いの気配なにも見せない微笑は答えた。
「内務省に列なる男として知る運命なのかもしれんな、こうして私に訊きに来ることも含めて、英二が望まなくても後継者になるべくして、」
内務省、
その言葉に自分へも連鎖を見てしまう。
この一年間ずっと追い続けてきた「50年の畸形連鎖」それは周太に纏わる事だった。
けれど本当は自分にも手繰りよせられ絡まりつく束縛がある、その現実に向きあう今へ微笑んだ。
「俺は警視庁山岳救助隊員です、山に生きるだけの男ですよ、」
「ははっ、そういう生き方も爽やかで良いだろうよ、」
愉しげな笑い声が深く透らせテラスに響く。
こんな空気はガラス向こうならば祖父と孫の団欒だと見えるのだろう。
それなのに想い交わることなど無い、それだけは4年前と同じままに祖父は笑った。
「英二が山を目指すなど意外だが似合うだろう、山が好きか?」
「はい、」
短い肯定、けれど想い全てに答えて分かれる。
山が好き、そんな生き方は祖父の道とは遠く離れてあるだろう。
その距離が誇らしい、それでも微かな寂寞のまま立ち上がり笑いかけた。
「お邪魔しました、」
「なんだ、食事していかないのか?」
引留める言葉に笑って、けれど安楽椅子から祖父は動かない。
それでも追いかける眼差しに微笑んだ傍、共に立った黒い犬をそっと撫で答えた。
「先約があります、あなたに誘われると思わなかったので、」
「ふん、」
吐息のよう微笑んでワイングラス口つける。
ひとくち飲みこんで、ほっと息吐くと端正な唇がそっと笑った。
「私も一人の人間だ、たまには家族と食事もしたい、」
たまには家族と。
そんな言葉が鼓動やわらかに軋ませだす。
こんな言葉を祖父が言うなんて思わなかった、この予想外に英二は問いかけた。
「征彦伯父さん達は来ないんですか、由美さんや昌志さんが来ない事は無いでしょう?鷲田の名前が大切な人達なら、」
母の兄、その娘と婿なら来ないはずが無い。
この祖父の名前を必要とする、それなら通わない訳にはいかないはず。
そこにある血縁と利害関係を思案した向こう側、可笑しそうに祖父は笑った。
「家族は血縁と名前だけで楽しめるわけじゃない、それは英二にも解かるだろう?」
なぜ、この祖父がこんなことを言うのだろう?
この祖父がこんな台詞を言う、その理由が解らない。
それでも見上げてくる眼差しは愉快なまま寂寞が哭く、そんな瞳にまた想ってしまう。
この男と自分は確かに「似ている」そんな自覚ほろ苦く笑いかけた。
「あなたが家族を求めるなんて、意外です、」
あの母がなぜ冷たいのか?その根源が家族を求めたがる。
それは意外で、けれど納得できる寂寞のまま祖父が笑った。
「ははっ、私も意外だ、」
可笑しそうに笑ってワイングラス傾ける。
その黄金色ゆれて消えてゆく、そして尽きた酒を見届けて英二は微笑んだ。
「お元気で、」
元気で、いてくれるなら再会もある。
今はそれしか言えない、そんな本音のまま踵返す視界に祖父の瞳が映る。
その眼差しは多分きっと、自分が周太を見つめる瞳とも似ているかもしれない。
―あのひとが周太に逢ったら、何を想うんだろな、
祖父が周太に逢ったら、後悔ひとつ出来るだろうか?
あの真直ぐな凛とした眼差しを見たら祖父は「泥」に何を想うだろう。
もう九十になる長い人生の多くを懸けた生き方、そこにある陰翳たちに懺悔ひとつ出来るだろうか。
“ Fantome ”
亡霊、幽霊、痩せ衰えた人間、有名無実の存在、過去の幻影、追憶、幻想、そして妄想。
全ては祖父にとっても過去の幻影かもしれない、懐かしい追憶の存在のひとつかもしれない。
それでも自分と周太にとっては今この現在にあるリアルで、哀しく傷む連鎖の束縛に絡みつく。
そんな現実が今も生き続けることを祖父は知っているだろう、けれど、自分の孫が何をしているのか知らない。
「英二さん、もう行かれますか?」
落着いた声かけられた向こう、スーツ姿が笑ってくれる。
さっき言った通りに「様」を省いてくれた、その気さくに笑いかけた。
「はい、急にお邪魔してすみませんでした、」
「いいえ、いつでもお帰り下さい、」
さらり笑って言われた言葉に、心留められる。
「…帰る?」
この家に自分が「帰る」なんて発想は無かった。
それなのに言われる意味は何だろう?そんな問いに家宰は微笑んだ。
「この家は英二さんの家です、そう克憲様が決められました、」
「あのひとが?」
問い返しながら探ってしまう。
なぜ祖父が自分にこの家を遺すのだろう、その疑問を家宰が解いた。
「英二さんが分籍されたと知って遺言を書き直されたのです、宮田の家を捨てるなら鷲田の財産を遺してやりたいと言われて、」
自分が分籍したことを祖父は知っていた。
その意外に考えこんだ前、穏やかに家宰は笑ってくれた。
「今年で九十になられます、いつ死んでも悔いの無いように遺言を書こうとされて、戸籍も確認されたんですよ?それで分籍も解りました、」
穏やかな笑顔に告げられる現実は、知らない愛情ひとつ知らされる。
こんな覚悟と想いを祖父は抱いていた、それを何ひとつ知らぬまま今の時間を過ごしてしまった。
―だから秘密も俺に話したのか、
『Fantome のことを教えてやろう、英二なら巧く遣えそうだ、私の後継者に成り得るのならな?』
後継者、そんな言葉に込められた意味は「家」だけじゃない。
それくらい解かっている、けれど祖父の感情までは何ひとつ解らない。
あの笑顔は仮面なだけだ、そう想っていた向う真実を探るように英二は尋ねた。
「それで俺に、この屋敷を遺すって決めたんですか?征彦伯父さん達が承諾しないでしょうに、」
「その辺りもきちんと考えられていますよ、克憲様は、」
なんでもない顔で笑って家宰が扉を開けてくれる。
ふわり外の風ゆるく吹きこます、その黄金ゆれる木洩陽に靴を履きかえ一歩出る。
かたん、レザーソール鳴った足許に黒い犬も寄りそい並んだ姿に家宰もポーチへ立ってくれた。
「英二さん、ヴァイゼも私もお帰りを待っています、克憲様もお待ちです、だから次は食事にお戻りください、」
私も一人の人間だ、たまには家族と食事もしたい。
そう告げた祖父の笑顔は仮面じゃ無かった、それが家宰と犬の姿に知らされる。
こんな現実も自分にはあった、そんな想い鼓動ゆるく噛まれるまま英二は綺麗に笑った。
「ありがとう、また来ます、」
帰ります、と今はまだ言えない。
そんなふう言えたら良いのだろう、けれど言うことが出来ない。
そんな本音のまま笑いかけた銀杏の木洩陽、スーツ姿は朗らかに笑ってくれた。
「本当に佳い貌になられましたね、次お会いする時が楽しみです、」
佳い貌になった、なんて初めてこの相手に言われた。
この初めては素直に嬉しい、そんな喜びのまま笑って英二はネクタイ翻がえし鞄ひとつ、携え歩きだした。
(to be continued)
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第74話 傍証act.4-side story「陽はまた昇る」
Gaston Leroux 『Le Fantome de l'Opera』
邦題『オペラ座の怪人』は劇場の地下「奈落」に棲む一人の男の物語。
彼は建築の天才、彼は音楽の寵児、けれど醜い崩れた顔を仮面に隠して生きる。
その姿を見られることを彼は厭い、素顔を晒さず生きるために築いた地下宮殿の闇に棲む。
そんな彼の姿を人が見ることは稀、だから「Fantome」と彼は呼ばれ、その名のままに生きて消えた。
“ Fantome ”
亡霊、幽霊、
痩せ衰えた人間、有名無実の存在、
過去の幻影、追憶、幻想、そして妄想。
そんな言葉たち孕んだ名前、その全て負わされる存在は過去から現在まで命脈に運ばれる。
「英二、私が知る“Fantome”は今話した限りだ、それ以上は知らんよ、」
深く響く声が微笑んでワイングラス口つける。
じき日中南時、そんな高い陽射しを透かせて英二は微笑んだ。
「それ以上が“Fantome”にはあるんですか?」
「どうだろうな、」
もう話し足りた、その乾き癒すよう黄金あわく飲下す微笑は4年前と変わらない。
それでも会話の内容は4年前から遠くて、その距離だけ近づいた素顔に問いかけた。
「なぜ俺に話してくれたんですか?」
「さっき言った通りだ、」
短く応えて銀髪すこし傾げてみせる。
高くなる陽の明るいテラス、元官僚の男は安楽椅子に寛いで酒を飲む。
そんな容子と語られた記憶たちのアンバランス見つめるまま祖父は愉しげに笑った。
「英二なら巧く遣えそうだから教えたのだ、私にも後継者は必要だろう?私の周りにとってな、」
後継者、そんな言葉に祖父の立場が示される。
もう官職を辞して二十年以上が経つ祖父、それでも現在に繋がる過去へ問いかけた。
「俺が警視庁に入ったこと、ご希望通りですか?」
警視庁は祖父の眼鏡に叶う、それくらい自分にも今は解る。
この理解のままワイングラスとった手許、スーツジャケット着たままの袖越し祖父が笑った。
「ストレートに警察庁なら尚良かったが、前例を超えることは喜ばしかろう。英二なら派閥など無くても昇りつめられる、望むならな、」
端正な貌ほころばす眼差しが自分を見る。
そこにある4年前と違う満足に顔だけ笑いかけた。
「どうして俺のこと、そんなに期待してくれるんですか?」
四年前、二十歳の自分には「満足」された記憶が淡い。
こんな貌は今初めて見せられる、その瞳が愉しげに笑った。
「清廉潔白な検事は美しいな、だが泥の中でも立てる男の方が美しいと私は思っている、だから私もそう生きただけだ、」
泥、そんな表現に笑った瞳が自分を映す。
この眼差しすら多分似ているのだろう、そんな想い見透かすよう祖父は笑った。
「そういう生き方が出来る男は少ないだろうよ、私とて自分自身が美しいのかは知らん、だからこそ英二に期待したくなるんだろうよ?」
美学、なんて言葉があるけれど祖父の言葉はそれだろう。
こんなふう話してくれることは四年前に無かった、この相違に英二は微笑んだ。
「山岳救助隊はいつも泥まみれですよ、」
泥、
そう告げた祖父の意味と自分の泥は違う。
それでも本質は同じなのかもしれない、そんな理解に陽射しのなか祖父は笑った。
「山の泥は高潔なのだろうな、それも好い禊ぎだろう、官庁の泥を落すのに調度いい、」
愉しげに笑った唇がグラスをふくむ。
あわい黄金色が消えてゆく、その最後が尽きるまま問いかけた。
「官僚であることは、泥でしたか?」
泥の中でも立てる男の方が美しいと私は思っている、だから私もそう生きただけだ。
そんなふう祖父は今、言った。
あの言葉の真意に見つめた向こう、銀髪の微笑が答えた。
「泥が無ければ草も生えん、醜いようで役に立つものだ。官僚に限らず高潔に生きられる者など、稀だ、」
醜いけれど役に立つ、
そんな言葉を祖父が言うことは納得できる、けれど意外にも想えてしまう。
いつも自信あふれる男、そんな祖父が「醜い」と自身を言う現実へ問いかけた。
「だから宮田の祖父に憧れますか?」
「本当に稀な人だからな、」
愉しげに笑ってワイングラス卓上へ戻される。
ことん、小さな音と入れ替えに英二は自分のグラス口つけた。
―こんなこと話すの初めてだけど、短いのか…もう、
もう短いのかもしれない、祖父の時間は。
今年で九十歳を迎えようとする、その長い星霜いつ尽きても不思議はない。
だからこそ今この孫へと期待もする?そんな一人の人間らしい願いが真昼のテラスに笑った。
「宮田君は、おまえの祖父になる男は肚底から美しい男だ。あんな生き方は真似出来ない、おまえにもソックリ真似するなど難しかろう。
そう思うと検事にならなかったことは英二の幸せかもしれん、京大に行って検事になれば宮田君と同じ道だ、比較されるのは当然だったろう、
それが英二にとって重荷かもしれんぞ?おまえは私と似て計算高くて狡猾だが宮田君と同じ生真面目がある、その真面目が苦しんだかもしれん、」
祖父ふたり、同じ官僚でも全く違う道を生きる。
そこにある相違ふたつ自分は内蔵すると告げて端正な貌が微笑む。
その微笑にある真意を見つめる足許、寄添わす黒い犬の頭そっと撫でて英二は笑った。
「宮田の祖父と似ていると、よく言われます。でも、あなたと似ていると言われたのは今が初めてです、」
この祖父と自分は似ている、そう指摘されたことは一度も無い。
けれど自分自身はずっと知っていた、そしてもう一人知っていた存在は微笑んだ。
「そうだろうよ、英二は仮面を被ることも私とそっくりに巧い、」
仮面を被っている。
そんな告白に笑って白皙の手がワインボトルを掴む。
片手器用にグラスへ注ぐ、ゆらり金色あわくガラス満ちてゆく。
その光彩が懐かしい俤と家の風景を呼んで、親しい声が記憶に笑った。
『英二くんなら話せるわ、周だと真赤にさせちゃうもの?』
やわらかなアルトの声、黒目がち澄んだ瞳、ゆるいウエーブの肩掛かる髪。
あの笑顔と交わしたワイングラスの時間は楽しかった、だから護りたいと想ってしまう。
あの笑顔と、あの笑顔が愛する夫と息子と、その全てを護るために今この場所に自分は座っている。
あの場所で自分は仮面など要らない、だから帰りたくて祈るまま英二は微笑んだ。
「仮面が同じだから後継者だと言うんですか?でも、ノンキャリアで私大出身の俺とあなたでは違い過ぎます、」
「英二には学歴派閥など要らんだろう、それだけの才覚と気概があるならな、」
微笑んで答える深い声が明るいテラスに響く。
朗々、けれど豊かな低いトーンは聴く人を惹きつける。
それなのに自分から遠いと感じたくて、それでも近い男が全て知るよう笑った。
「英二、私から聴く前に“Fantome”のことは知っていたのだろう?どうやって知ったのだ、普通のノンキャリア2年目なら不可能だろうが、」
やっぱりその質問はするんだな?
きっと訊かれると思っていた、訊かないはずが無いだろう。
この予想通りの問いかけに微笑んで足元の犬すこし撫で、英二は答えた。
「警察官として知ったのだと、お考えですか?」
「ふん?…警官として、」
小さく考えこむよう頷いてグラス口つける。
だいぶ呑んでいるだろう、それでも酔いの気配なにも見せない微笑は答えた。
「内務省に列なる男として知る運命なのかもしれんな、こうして私に訊きに来ることも含めて、英二が望まなくても後継者になるべくして、」
内務省、
その言葉に自分へも連鎖を見てしまう。
この一年間ずっと追い続けてきた「50年の畸形連鎖」それは周太に纏わる事だった。
けれど本当は自分にも手繰りよせられ絡まりつく束縛がある、その現実に向きあう今へ微笑んだ。
「俺は警視庁山岳救助隊員です、山に生きるだけの男ですよ、」
「ははっ、そういう生き方も爽やかで良いだろうよ、」
愉しげな笑い声が深く透らせテラスに響く。
こんな空気はガラス向こうならば祖父と孫の団欒だと見えるのだろう。
それなのに想い交わることなど無い、それだけは4年前と同じままに祖父は笑った。
「英二が山を目指すなど意外だが似合うだろう、山が好きか?」
「はい、」
短い肯定、けれど想い全てに答えて分かれる。
山が好き、そんな生き方は祖父の道とは遠く離れてあるだろう。
その距離が誇らしい、それでも微かな寂寞のまま立ち上がり笑いかけた。
「お邪魔しました、」
「なんだ、食事していかないのか?」
引留める言葉に笑って、けれど安楽椅子から祖父は動かない。
それでも追いかける眼差しに微笑んだ傍、共に立った黒い犬をそっと撫で答えた。
「先約があります、あなたに誘われると思わなかったので、」
「ふん、」
吐息のよう微笑んでワイングラス口つける。
ひとくち飲みこんで、ほっと息吐くと端正な唇がそっと笑った。
「私も一人の人間だ、たまには家族と食事もしたい、」
たまには家族と。
そんな言葉が鼓動やわらかに軋ませだす。
こんな言葉を祖父が言うなんて思わなかった、この予想外に英二は問いかけた。
「征彦伯父さん達は来ないんですか、由美さんや昌志さんが来ない事は無いでしょう?鷲田の名前が大切な人達なら、」
母の兄、その娘と婿なら来ないはずが無い。
この祖父の名前を必要とする、それなら通わない訳にはいかないはず。
そこにある血縁と利害関係を思案した向こう側、可笑しそうに祖父は笑った。
「家族は血縁と名前だけで楽しめるわけじゃない、それは英二にも解かるだろう?」
なぜ、この祖父がこんなことを言うのだろう?
この祖父がこんな台詞を言う、その理由が解らない。
それでも見上げてくる眼差しは愉快なまま寂寞が哭く、そんな瞳にまた想ってしまう。
この男と自分は確かに「似ている」そんな自覚ほろ苦く笑いかけた。
「あなたが家族を求めるなんて、意外です、」
あの母がなぜ冷たいのか?その根源が家族を求めたがる。
それは意外で、けれど納得できる寂寞のまま祖父が笑った。
「ははっ、私も意外だ、」
可笑しそうに笑ってワイングラス傾ける。
その黄金色ゆれて消えてゆく、そして尽きた酒を見届けて英二は微笑んだ。
「お元気で、」
元気で、いてくれるなら再会もある。
今はそれしか言えない、そんな本音のまま踵返す視界に祖父の瞳が映る。
その眼差しは多分きっと、自分が周太を見つめる瞳とも似ているかもしれない。
―あのひとが周太に逢ったら、何を想うんだろな、
祖父が周太に逢ったら、後悔ひとつ出来るだろうか?
あの真直ぐな凛とした眼差しを見たら祖父は「泥」に何を想うだろう。
もう九十になる長い人生の多くを懸けた生き方、そこにある陰翳たちに懺悔ひとつ出来るだろうか。
“ Fantome ”
亡霊、幽霊、痩せ衰えた人間、有名無実の存在、過去の幻影、追憶、幻想、そして妄想。
全ては祖父にとっても過去の幻影かもしれない、懐かしい追憶の存在のひとつかもしれない。
それでも自分と周太にとっては今この現在にあるリアルで、哀しく傷む連鎖の束縛に絡みつく。
そんな現実が今も生き続けることを祖父は知っているだろう、けれど、自分の孫が何をしているのか知らない。
「英二さん、もう行かれますか?」
落着いた声かけられた向こう、スーツ姿が笑ってくれる。
さっき言った通りに「様」を省いてくれた、その気さくに笑いかけた。
「はい、急にお邪魔してすみませんでした、」
「いいえ、いつでもお帰り下さい、」
さらり笑って言われた言葉に、心留められる。
「…帰る?」
この家に自分が「帰る」なんて発想は無かった。
それなのに言われる意味は何だろう?そんな問いに家宰は微笑んだ。
「この家は英二さんの家です、そう克憲様が決められました、」
「あのひとが?」
問い返しながら探ってしまう。
なぜ祖父が自分にこの家を遺すのだろう、その疑問を家宰が解いた。
「英二さんが分籍されたと知って遺言を書き直されたのです、宮田の家を捨てるなら鷲田の財産を遺してやりたいと言われて、」
自分が分籍したことを祖父は知っていた。
その意外に考えこんだ前、穏やかに家宰は笑ってくれた。
「今年で九十になられます、いつ死んでも悔いの無いように遺言を書こうとされて、戸籍も確認されたんですよ?それで分籍も解りました、」
穏やかな笑顔に告げられる現実は、知らない愛情ひとつ知らされる。
こんな覚悟と想いを祖父は抱いていた、それを何ひとつ知らぬまま今の時間を過ごしてしまった。
―だから秘密も俺に話したのか、
『Fantome のことを教えてやろう、英二なら巧く遣えそうだ、私の後継者に成り得るのならな?』
後継者、そんな言葉に込められた意味は「家」だけじゃない。
それくらい解かっている、けれど祖父の感情までは何ひとつ解らない。
あの笑顔は仮面なだけだ、そう想っていた向う真実を探るように英二は尋ねた。
「それで俺に、この屋敷を遺すって決めたんですか?征彦伯父さん達が承諾しないでしょうに、」
「その辺りもきちんと考えられていますよ、克憲様は、」
なんでもない顔で笑って家宰が扉を開けてくれる。
ふわり外の風ゆるく吹きこます、その黄金ゆれる木洩陽に靴を履きかえ一歩出る。
かたん、レザーソール鳴った足許に黒い犬も寄りそい並んだ姿に家宰もポーチへ立ってくれた。
「英二さん、ヴァイゼも私もお帰りを待っています、克憲様もお待ちです、だから次は食事にお戻りください、」
私も一人の人間だ、たまには家族と食事もしたい。
そう告げた祖父の笑顔は仮面じゃ無かった、それが家宰と犬の姿に知らされる。
こんな現実も自分にはあった、そんな想い鼓動ゆるく噛まれるまま英二は綺麗に笑った。
「ありがとう、また来ます、」
帰ります、と今はまだ言えない。
そんなふう言えたら良いのだろう、けれど言うことが出来ない。
そんな本音のまま笑いかけた銀杏の木洩陽、スーツ姿は朗らかに笑ってくれた。
「本当に佳い貌になられましたね、次お会いする時が楽しみです、」
佳い貌になった、なんて初めてこの相手に言われた。
この初めては素直に嬉しい、そんな喜びのまま笑って英二はネクタイ翻がえし鞄ひとつ、携え歩きだした。
(to be continued)
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