AKB48とかなんとかというタレントのことをようやく覚えた。否、ひとりひとりの名前でない。そういうグループが存在するってことを認知した。ようやくである。まったく関心がなかったのが、この冬は寒いのでこたつに入っている時間が多かったから。テレビも時々見るようになった。
そしたらCMに登場してくる。まぁどれも同じようなお顔をしていて、誰が誰だか区別がつかない。ファンもいっぱいいるだろうから、これくらいにしておく。別にアタシャ、美人が嫌いなわけではないから、鑑賞はさせていただくからである。はははははである。
突然であるが、ボヘミアン的な思考というもの。。。。。今日はこのことを考えていた。この言葉の意味はよく知られていて、AKB48よりも誰でも知っているのだろう。カラオケの歌(「ボヘミアン」葛城ユキちゃん=還暦だってよん)にまで出てくるからよけいである。もとはチェコ語であって、普通の近代ヨーロッパ語ではあまり良い意味では使われなくなる。
「習俗を無視した生活や行動をしつつ、芸術または知的な仕事にかかわっているようなふりをしている人」
「習慣にとらわれない自由奔放な生き方をしている人」
「ジプシーのような放浪的な生活をする人」
「類語にバガボンドがある」
と、いうような説明がなされる。
これは誰でもあるんだろう。特に、最初の
「習俗を無視した生活や行動をしつつ、芸術または知的な仕事にかかわっているようなふりをしている人」という表現には笑わされる。
こうやって皮肉っぽく生きている人もいるんだろうなぁと思ったら、それはアタクシ自身ではないのかと気がついたのである。AKB48を見ていて。「ふりをしている」というその一点において。
要するに、ボヘミアンは、歴史というか、組織というかそういうものの外部に生きようとする人であり、ボヘミアン的というと、そういう生き方を好んでしてしまう根本のものをさしている。やむにやまれずである。粗雑な実社会の様々なシステムというもの、あるいは政治体制とか、イデオロギーとかのぶつかりあいから、可能な限り外に出ようとしているのが、ボヘミアンである。
彼らの思考は、この世界を作り上げている「習俗」や、システムの網の目から脱出して、もっと小さな微少な世界をつくり上げている分子的な規模の力の方に魅力を感じて、それに自分たちの思考をあわせてきたのだ。
ボヘミアンたちに理論を語っても無意味であろう。自己のしゃべっていることは、常に逆説の視点から戦いを挑まれるし、まともな神経なら耐えられない。ボヘミアンたちは、徹底的に自由である。さらに、彼らは、明晰である。理屈をこねながら、自称理論家の裏をかくのにすぐれているのだ。やっつけたと思っても、彼らは爆弾をしかけて、きれいに逃げ去ってしまう。
ひねりのきいた探究を彼らはしている。
実は愚生もそうやりたい。「ふり」をしてみたい。研究者のふりをして、いろいろな学説に挑戦したいのである。(ふりをする資格もないけどねぇ・・)しかも、まわりは不真面目なことの大嫌いな、しかめっつらした方々がたくさんいる。
なんだかそういうことである。自分の立ち位置というのがだんだんわかってきたと感じるからである。たいしたことはないし、人生に残された時間も乏しいし、再就職の道も無い。ナイナイ、ナイナイである。(^0^)
ボヘミアン的にやってみますか、これからも。
(^_-)-☆
※ボヘミアンの歌を歌っている葛城ユキさんのYoutubeを下にリンクかけてあります。ご鑑賞を。パワーいただけます。