新石器時代から進歩しているのかね、と思うことがしばしばである。 いや、人のことではない。自分のことである。進歩したなぁって思うことは全くないからである。他人にご迷惑をおかけしておりますからなぁ。。。。\(__ )
けふはあまりに疲れてしまったので、一日中じっとしていた。木曜日は、他に仕事もあるんで、なかなかこれでも忙しいのである。なにしろ「勤労学生」でありますから。
今日は、レヴィ・ストロースのことを考えていた。野生の思考について関連する文章を読み、考えていたら、おおいなる誤解をしていたことに気がついて愕然となった。主として贈与論中心に理解していたのだ。なんという浅い理解であったのだと自省した。
いつもながらのことである。同じ作者でも、再読すると違って見えることがある。これもまた老いて読書することの楽しみである。ただし、愚生は作家論とか、作品論に手を出さない。実に怖いからだ。巾が広すぎる。アタマの悪い愚生にはとうてい不可能なことだ。作家論なんかやったら、毎日書き換えなくちゃならんし。その時の一瞬の理解でしかないではないかと思うからである。
我々人間なんて、新石器時代の思考形態からちっとも変わっていないのではないかということを思ったのである。それを一度覆したのが、一神教である。それまでの文化や習慣をいったん否定したところからスタートしたのが、一神教であろうから。さらに二度目の改革があって、それを担ったのが科学であると説くところではたと困ったのである。三度目はなにによるのか、それはわからないが。
自分たちの生きているこの現代は、過渡的な性格を持っている。
なんだか知らないが、日本書記とか古事記の神話的世界を否定することをもって、進歩的とする人もいる。それは、いかがなものかと思っている。古代の世界から、意識とか思考において、どれだけ進歩したというのであろうか。
道徳的にも進歩したとは言えないのであろう。戦争好きという人類の欠点も進歩して平和愛好家になったということをついぞ聞かない。騒いでいるクニもあるし。
「私は考える。だから私はある」としたのが、デカルトで、理性への限りない信頼がある。しかし、ほんとうにそうだろうか。我々の理性はそんなにすばらしいものとなったのであろうか。新石器時代の思考形態から一歩も進歩していないのではないのか。
ゴータマ・ブッダは、「私は考える。だから、私は幻影の中にある」と説いた。ブッダは、個人の思想は個人が生み出したということも否定した。むしろそれは七代前の覚者から伝わってきたとした。論文を書いて、オレのオリジナルだとか言っちゃったら、各時代の覚者たちにしかられっちまうですなぁ。所詮、今、生きているオレの言語体系だって、祖先達からの文化・文明のたまものであったのだから。
さらに、人間の原始性というのも、変わってはいない。愚生なんか、酒を呑んでは酔っ払うし、相変わらず原罪を背負っている。悟りとかの世界には永遠にいけないのだ。反省ばかりしている。美人が美人に見えてしまうのだ。どうしても骸骨が歩いているとは思えないのである。悟れないのである。
現役時代には、競争心理に毒されていた。他者、他校に影響されていた。競争社会で生き残ることが最も重要な課題であった。それはそれで良かったのであろうが、ちっともおもしろくなかった。そんな競争世界が、なにになったのであろうか。
今は、なんの組織の影響もない。まったく肩の荷を下ろしてしまった。これが、先祖返りなのかもしれないと思っている。新石器時代への。
いい一日であった。
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