高学歴社会になって、教えることを専らにしている人たちのオーラは、下がったとよく言われてマスコミでも喧伝される。誰しも教育問題について語ることができるし、事実、体罰問題ではそれこそ実に多くの意見が出された。ただし、識者のいうことにある程度の一般化の見られたのはいかがなものか。誰でも同じことを言っていた。法規で禁じられているからというのが、好例である。また、今をときめく有名教育評論家は、テレビの討論番組で、体罰を加えたくなったら抱きしめてやりなさいと発言して、テレビの出演者に失笑を買っていた。
教育って誰しもが経験しているから、身体に馴染んでいる。体験から来て居るから、ステレオタイプにならざるを得ない。
この数ヶ月、マスコミによる意図的な教育問題報道のされ方を興味深く見ていた。教育問題で、ある困った問題が起きたという場合、それにどう対処するかが、識者にも本当はわかっていないのだ。最初の状況分析についてどのような当事者たちの思案があったのかということが、まったく報道されない。だから、他者にはわからない。識者たちは、非常に通念的な見方を振り回して、かえって混乱に拍車をかけている。いわゆる通念が正しいのかどうか。大マスコミは自信たっぷりに書いているが、はたしてそうなのか。報道のされ方がすべて正しいのかと愚かなアタクシは、いつも思ってしまうのである。
つまり、最初に問題が起きたという状況がある。そして、その状況をどう理解し、分析していくのかについて考えていきたいのである。さらに「批判的に」考えていきたいのである。起きたことについて、原因を表面的に分析することで事たれりとしていないのだろうか。たいていは政治システムのせいにして、あるいは個人の責任にして終わりでは真の状況がわからないではないか。
このことの好例が、柔道の全日本監督の問題である。監督が責任をとってそれで終わりではないであろうに。未だに、あの問題は何を言いたいのかしっくりこない。裏があると感じる。状況がよくわからないからである。その報道もない。隠されていることがないのか。訴えた方の当時者がまったく出てこないのはなぜか。わからないことばかりである。
何を言いたいかというと、「理解」できないことが多いということを言いたいのである。
体罰問題がそうである。法律でなんとやらというのだったら、犯罪である。それでもう結論は出ている。それをいろいろと分析するなら、もう少し理解できるように状況を説明していただきたいのである。Aという状況ならどうなのか。あるいはBという状況ならどうなのか。はたまた、Cという状況の場合はどうなのかとやってほしいのだ。なんと言ってもアタクシは、アタマが悪いのである。説明を、報道をきちんとしていただかないとなりませんぞ。自称エリート様は。
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柔道監督の報道では、原理原則が見えてこない。両方とも何を言いたいのか、なにをしたいのかということがである。勝ちたいのか、好き勝手に練習したいのか、監督を女性にすれば全部解決するのか、それとも全柔連のお偉いさんをやりたいのか・・・・なんだかさっぱりわからない。
こういうような世間の有り様を、子どもたちは見ているのである。愚生は、もう二度と子どもたちの前に立って授業をやることはないが、もし幼い彼らに質問されたらどうするのか。状況をなんと説明するのか。その状況の中から、どのような原理を見いだし、行動に移すのかということが説明できない。
わからないことばかりである。
状況をどう理解し、そこから原理・原則を見いだし、どのように行動するのかということは、高学歴社会であっても、非常に大切なことなのではないのか。知識だけ教えていれば学校はそれでいいのではない。マシーンではないのだから。
これもあれですか、冒頭に書いたように高学歴社会になったから、と~まのようなオーラのない元一介の高校教師風情は黙っておれということなのですかねぇ・・・・ははははは。
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