異形の人々の登場
今日は朝から雨模様です。花粉症が小康状態です。これでやっと通常の生活になりました。しかし、まだまだですかなぁ・・参りましたね。
今朝は、言ってみればヴァルナの民というようなことを考えておりました。今日も早く起きてみたのです。早朝にこういうことを考えながら、ひとときを過ごすのもまた一興です。もの好きとも言いますがね。
愚生は、鎌倉時代から室町時代にかけた南北朝動乱の時代が好きで、いろいろと調べものをしているのです。特に後醍醐天皇という方が大好きです。なんというか、底知れぬパワーと、その生き方が、まさにこれは言い過ぎかもしれませんが、ヴァルナ的な王権を目指しておられたのではないかと思うとわくわくしてくるからであります。
反対側に東国武士団がいるわけです。鎌倉幕府の武士達です。平安後期に勃興してきた戦いを専門とする武装集団です。もっと言えば殺人を専門とする技術者集団というか、職人たちというか、それ専門で生きてきた人々です。東国にこのような武士団が勃興してきたのは、平将門あたりからだという書籍を読んだことがありましたが、そうかもしれません。将門が、その後の武家政権を誘導していったという側面はあるのでしょう。しかし、東国武士団と言えども、政権の正当化は自分たちだけでは出来なかったのであります。いつも西国文化の中心地である京都の支えがなければ、政権の安定は図れなかったのです。
そのことに気がついていた足利尊氏は、京都に住まいを定めたし、独立して武家政権を維持していったのではなく、貴族社会との共存共栄をはかったのです。徳川家康はそのあたりの基盤のもろさを嫌って、江戸に政権を作りましたが、これもまた明治維新で瓦解したのです。
つまり、東国武士団は権力全体の質を変えることはできなかったのであります。武士達は、自然にできた政権であることを主張できなかったし、その根拠もなかったのであります。天皇から託された政権であるというポーズをとることでしか、基盤の維持は無かったのです。
後醍醐天皇は、当時の王朝権力の危機を感じておられた。武家政権が跳梁跋扈して、鎌倉幕府は瓦解寸前だったし、足利尊氏もえらい勢いで制覇への道をたどっていたわけです。この二重性こそが、後醍醐天皇を立ち上がらせたと感じているのです。そもそもヴァルナ的な魔術への関心も高かった陛下です。密教への興味も相当深かったと言われています。伊勢の神道も当然追究されておられたし、同時に密教へもアタックしておられた。
宇宙と社会の秩序をつくりだそうとすることを考えておられた。まさにミトラの技の追究でありました。後醍醐帝は、ありとあらゆる社会の境界に生きている庶民達を組織化しようとされたのであります。たとえば、本質においてボヘミアン的な生き方をしているヴァルナの民を自分の周囲に配置された。その代表格は楠木正成でありましょう。
楠木正成は、東国武士団とは違う存在でありました。年貢とか税のために農耕を行わず、土地制度を基盤とした王権とは異なる仕方で、反鎌倉とか反中世的な生き方を志向しておりました。NHKの大河ドラマ「太平記」でも、武田鉄矢さんが演じる楠木正成が、傀儡を養っている場面がたくさん出てきました。しかも、妹は猿楽を演じている集団の女頭目をやっている。携帯電話のCMで有名な、おかあさん役の樋口可南子さんがそれを演じている。ま、そんなことはどうでもいいことですが、興味のあるのは、彼ら、彼女らがボヘミアン的な自由自在さを生きているということでありました。時代の流れに左右されず、ボヘミアン的なエートスを持っていた武闘派集団であったと感じるのです。
後醍醐帝は、そうした末端の庶民達に手を伸ばされた。このこと自体英明なる帝であったと思うのですが、さらに、帝は禅律僧たちをも巻き込まれた。愚生にはここのあたりが実におもしろいのであります。
知ってのとおり、禅宗には一元的な発想があります。すべては「無」であろうとします。ですから、現代の我々が二元論的発想から苦しんでいるそもそもの基盤を否定しようとしていると思うのです。禅僧たちは戦で亡くなっていった死体の処理も行ったし、死体が不浄であるとは考えませんでした。この姿勢こそが、社会の境界線で生きている庶民たちにぐんぐん接近していった最大の理由ではなかったのかと感じます。
律僧は、奈良西大寺が中核となっています。僧の叡尊(1201~90)が活躍したのですが、神道と仏教をくっつけようとされた方でもあります。曼荼羅思想によって、伊勢神道を理論化しようとされた方でもあります。また、仏教の中に日本的な大地信仰を結びつけ、修験道との関わりを持つようになるのです。そして、被差別の民に対する救済も律僧たちは行うようになります。社会のボーダーラインで生きている人々に直接触れるようになっていきます。
以上のような時代を背景として、異形の人々が登場してきます。
権力システムの中に、この異形の人々を登場させることができたのは、まさにヴァルナ的な王権のみが可能だったのです。彼ら異形の人々の登場を促したのは、ここにまた芸能、つまり能楽や猿楽の源流があるということなのだということであると思います。
異形の人々というのは、川の民、山の民、供御人、商人、禅律僧、密教者、悪党的武士、職人達、海の民等々であります。東国武士達だって、殺人を専らにする職人であったのでありますが、ま、このあたりはまた別の機会にいたしましょう。
さ、これから長い日曜日が始まります。
いい一日でありますように。
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