宮沢賢治をどう読むか
宮沢賢治をどう読むかという問題は、実に深いことを要求してきます。あの有名な「雨にも負けず」を、ただ単なるセンチメンタリズムという観点からのみ、読解していこうとすると間違ってしまいます。
宮沢賢治は、深い。立ち位置が違っています。東京から遠い土地にいたから、あるいは童話という形でしか作品を発表できなかったから生前は世に知られることがありませんでした。科学と、農民の知恵と、大いなる宗教心と全部ミックスしたような一人の智慧者であったような気がしてならないのです。
小川未明とかの童話作家たちとまったく違う立ち位置にあります。小川未明は子供たちのために書いていました。ところが、宮沢賢治は違う。哲学者でもない。あるいは音楽の芸術家でもない。ある意味非常に深い思想家の面もあり、偉大な宗教家の面もあり、複雑な体系をもった科学者でもあり・・というように簡単には規定できない人ではなかったのかと思うからです。
通常の童話作家たちよりも、宮沢賢治の体験の方が、もっと深い層の意識に足をつっこんでいたために、あれだけの作品群を残すことができたと思います。死のすれすれまでいっていますから、むしろ愚生のような老人にならないと理解不可能な部分もあるのではないかと、ここのところ読書ノートを抱えながら考えておるのであります。
宮沢賢治は、通常の意識世界を描いたのではなかった、意識の下へ下へと描いていったのだと思うといちいち納得が伴います。あ、そうか、そうだったんだ、へぇ・・・っていうような具合にです。下へ下へと降りていくと、人間も動物もみんな一緒になって語りかけてきます。それが彼の作品群で登場してくる人間と動物たちのある種の物語にあります。たとえば、セロひきのゴーシェとかにです。
対立がない。AとBとを本質的に敵対関係にあるものとして、非対称のものとして考えていない。ここのところが宮沢賢治のおもしろいところでして、農業を教えている科学者でもあったのですから、そこのところでなぜ、融合的な非対称ではない「対称」の関係でもって関係性をみることができたのかと思うと、ひじょうに興味がわいてきます。
「銀河鉄道の夜」という有名な作品があります。愚生も相当入れ込んだ時期があって、好きな作品です。
ところが、この作品は奇妙なところがたくさんあります。ちょっと、こりゃどういうこっちゃ?と何度も考えさせられます。
はじめ、母と息子の物語としてスタートします。ある意味では、ずっと母性原理の支配する物語でもあります。しかし、チェロのような声をした男の声が聞こえてくる。いろいろ物語は進展して、最後はお父さんの帰ることをお母さんに知らせなくちゃというところで物語は終わります。
ところがマンガの「銀河鉄道999」では、ずーっとお母さんの物語になっています。ここのあたりが、誤解の始まりで、宮沢賢治は男性の原理もかなり導入をしているのにも関わらず、我々はそういうように理解を迫られているのです。
確かに、あの鉄道がふらふらと宇宙空間を飛んでいるのだか、走っているんだかわからない動きをしながら、存在している宇宙というのは、母性そのものでありましょう。読んでいると、あるいはマンガを見ていると、さらにはテレビアニメになったものを見ていると、落ち着きを感じます。母親の胎内にあるような安心感というものはこのようなものではなかったのかとも思います。さらに、無数の星たちも描かれている。曼荼羅的な意図を感じてしまいます。
いわゆるオタクと呼ばれる人には、身につまされる体験的読み方しかできないのではないかとも思います。あの主人公は、オタクそのものですから。包まれているような安心感の中で、なにを感じるのかということは、それこそ人それぞれでいいんでしょう。しかし、母性として見るから、読むから反発も感じるのでしょう。俺はこんなんじゃないっていうような言い方で。
でも、宮沢賢治はそこのところを突破しているのです。
若くして亡くなりましたから、これからどんな作品を書いたのであろうかと思うと、全体像を明らかにすることは至難の業であります。だから作家論というのは、難しいと思っているのですが、このことは、一つの作品だけで、あるいは一つの視点だけで書けるようなものでもありません。
言葉足らず。
これです。もっともっと書いていきたいことが愚生にはたくさんあります。書かねばならないこともたくさんあります。それでも、愚生の言いたいことは書けない。全体像も書けない。才能もない。むむむ、、、アタマも悪い。アタマがいいとかという観点からは、東台系の大学を出ている研究者・学者しか、全体像を書くことはできないのかも知れません。しかし、変わった性格であるから、誰にも期待されずとも、いつまでも駄文を書いていくんでしょう。
これくらいにします。また宮沢賢治のことは、書いてみたいものであります。