「銀の匙」の授業は優れたノウハウ学力の養成になっている
受験秀才というのは、コンテンツ学力に優れている。単調な暗記ものでも、計算でも、ひたすら勉強できるから学校秀才とか受験秀才というように言われることになるのである。それはそれで賞賛に値する。たいしたものであると正直愚生は思っている。
で、今日は、天下の学校秀才校である灘で行われたことで有名になった同校伝説の名物国語教師橋本武先生の「銀の匙」のことを書きたくなった。
知ってのとおり、三年間をかけて「銀の匙」をじっくり読み込むという授業である。中勘助作の実に薄い文庫本一冊である。200頁しかない。夏目漱石が、これほど美しい日本語はないと褒めた作品でもある。幼いひよわな子どもがたくましい青年に育っていく物語だから同年齢を重ねて育っている生徒には迫るものがあるだろうと思っているが。
問題は、これ一冊しかやらないということであろう。現代では縛りがきついから、とうてい出来ない相談であろう。学力というのは受験のためにあると思っている狭量な人種からは、総スカンをくらうに違いない。そんなのニーズにないという論理で。ま、これもまた仕方のないことであろう。コンテンツ学力しか視野にないからである。
2011年の週刊ポストに橋本先生の授業が紹介されている。土曜講座として、退職された橋本先生が灘の生徒達に希望者を募って公開授業を行ったのである。小学館の企画である。最初、講演になってしまうのではないかと小学館側は心配していたそうであるが、杞憂でしかなかった。
教室に入ってすぐ黒板に「あそぶ」と板書された先生が、「『遊ぶと学ぶ』このふたつに共通するものはなんですか?」と聞かれた。
は~いと言って手を挙げた生徒は、
「遊ぶのは好きだけど、学ぶのは嫌いです」
と言ったのである。難関校の灘ですらそうなのである。嫌いな学ぶを毎日、毎日強制されているのでは哀れである。遊ぶ感覚で学べばいいと橋本先生はよく言われていたが、これは上からの押しつけではいけない。遊んでいるつもりが自然に学んでいることになっていけばいいし、そういう方向に持って行くのがプロの教師であるとも言われる。さすがである。
橋本先生さらに続けられる。
「はい、ほかに気がついたことは」
「<あそぶ>も<まなぶ>も、仮名で三字です。どちらにも<ぶ>がついています」
「その通りだよ。このあたりまえのことに気がつく。これが大事なことなんだ」
「じゃぁ<あそぶ><まなぶ>から<ぶ>を切り離したらどうなる?<あそ>と<ぶ>。<あそ>って何だ?」
ここからが秀逸である。
<あそ>からは、阿蘇山、天の橋立の内海も阿蘇。日本語っておもしろいね、同じ言葉が山の名前になったり、海の名前になったりする、と言われる。橋本先生の真骨頂である。
さらに<まなぶ>である。<まな>って、何だ?<まな>は<ま>と<な>になる。<ま>は「真」という字を書いて、本物・上物ということ。じゃぁ、<な>は?・・・・ひとつは文字のこと、片仮名や平仮名のこと。あの仮名というのは仮の文字ということで、本物の文字は漢字であるというのがあって、だから漢字のことを「真名」という。それから<な>には、副食物という意味もある。菜っ葉の菜も同じ。
<ぶ>はどうだろう。<ぶ>コレクションを考えてみよう。<あそぶ><まなぶ>は動詞です。ほかにも<ぶ>のつく動詞は多い。どれくらい知っているか書き出してみよう。
以上、ちょっとだけ紹介させていただいたが、楽しい、楽しい。こういうことを、自分で調べて学習していったらあっというまに大学者になれるかもしれない。
横道にそれているだけじゃないかという批判があるかもしれない。しかしである。こういうように、自分で調べながら学習していくというのが最高である。なぜなら、学ぶことの「ノウハウ」がマスターできるからである。「コンテンツ学習」と「ノウハウ学習」の対峙である。どっちがいいとか、いけないと言っているのではない。両方できればいいのである。
実際、灘の生徒は、どっちも優れているから、あれだけの進学実績があるのである。たいしたもんである。
そう思いません?
愚生はどっちもそんな能力無いけどねぇ。毎度のことながら、コンテンツも、ノウハウも最初から無いから苦労しているんでしゅ~~。こんなこと書いているとしぼんじゃうな。絶対諦めないっていうのだけが取り柄なんだけど。
(^_-)-☆