余暇をいかに活かしているか
いかなる動物も、楽になるために生きている。餌を本能的に求めるのも、酷な環境でいるよりは、満腹感で楽になりたいからである。しかし、生物たちは楽になりたくても次々と失敗していく。微生物から始まって、草食動物も肉食動物も連鎖して失敗していく。食うか食われるかの食物連鎖の関係にあるからである。さらに空腹は満たされても、すぐにまた空腹は襲ってくる。永遠に食うための努力は繰り返される。このことは、峻厳な事実である。
しょうがないと言えばしょうがないのだが。
それにどんな生き物も年をとる。老いていくのだ。人間だってそうなのだ。忘れている人間が実に多いけれども。あるいは、年をとるということから逃避している方も多い。さらにさらに、生き物は必ず死ぬ。これもまたどんな生き物でもそうなのである。たとえライオンでもそうである。老いて狩りができなくなったら、雄々しい雄ライオンだってハイエナの餌になるしかない。
だから動物たちには、楽を求めるための「余暇」がない。余暇を楽しんでいたら、食われっちまう。
人間は食物連鎖から免れた唯一の生き物である。楽になるためにどうしたら良いかということを考えるための時間的余裕、つまり「余暇」を可能性として得ることのできた生き物である。あくまで可能性としてである。つまり、余暇のことを有効活用していないのもまた人間であるからである。
もっともっと金がほしいと言ってはあくせくと働き、現状に満足できない。もっといい地位がほしいと言っては、あくせくと社内や学内で政治活動にいそしみ、もっと名誉がほしいと勲章のために時間を浪費している。レベルの低い「楽」のために、くだらない他人の噂話だけに気を取られ、娯楽にうつつを抜かしてしまう。まったく「時間」の浪費である。
せっかくの「余暇」をいただいているのに、結局無駄にしている。時間を無駄にしているということと同じ意味であるのだが。
すばらしいレストランで山海の美味に下鼓を打っても、それは我が舌の上を通り過ぎる一瞬の喜びでしかない。美人、美男との恋の語らいだって、時間はすばらしかった色彩を奪っていく。金や勲章は幻影にすぎない。そういうものは、けっして本当の「楽」を与えてはくれない。
ついでに言えば、現代は貨幣が神様の代わりになっていて、地球全体に君臨しているのが貨幣である。今、これだけドルが流通しているという世界の状況は、すべてをドルが支配しているということである。神様もドルも、どっちも「オラが永遠だ」って言っている。この世も、人間も、生き物も滅びていくのだけれども、貨幣は永遠だと言っている。貨幣は、滅びていくものを買うことができ、次々と交換もしていくことができるからだと言って。貨幣で買うことができるものは、滅びない、解体しないということで共通している。だから貨幣は神様といっしょになってしまう。これでいいのかね?
グローバルなんとかというのは、貨幣で作った紙の着物でも着ている神様が言っている戯言ではないのかって思うのだが。
元にもどろう。
余暇である。余暇がないと、自分を失う。つまり、夢幻のようなものを追いかけて、時間を無駄にして生涯を送っていて、それでいいんかねということである。ちょっとでも疑問を持たないといかんっちゅうことである。
スポーツだって、余暇がないとできない。余暇をどう活用していくかという観点からスポーツを考えなさいということを社会体育の指導者の講座で聞いたことがある。あれは真理であると思う。勉強だって、余裕の無い精神的に追い込まれた状態では成果があがらない。
死ぬ時も、愚生は楽に死にたい。死にそうになって横たわっていたら、猿やわんこや雀やリスがソバに来て一緒に泣いてくれるようなそういう調和ある世界で死にたい。・・・なんて書いていたら叱られるから、もうこれくらいにしましょう。非対称の対立の世界から、対立のない対称の世界を生きていきたいからである。
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