淡路島の民俗メモ
明日は淡路島に行く。
そのために、宮本常一先生の「旅の手帳 愛しき島々」 八坂書房からメモを以下に書いてみた。最近は、ほんとうに島の文化への関心が強くなっている。おもしろいくらいに。もっとも、おもしろいから行くんですケドね。(^0^)
淡路一ノ宮である淡路伊佐奈岐神社にも当然行く。
楽しみです。楽しみ。
1、 史的変遷
一島で一国を形成
早く海人によって開拓
多くの海人が住んでいた 日本書紀で知られる
奈良朝には朝廷に海産物を貢納
島内は、早くから津名と三原の二部に別れていた
倭名抄によると
津名郡には、津名、志筑、賀茂、平安、物部、広田、都志、育波、来馬、郡家の10郷
三原郡には、倭文、幡多他、義宜、榎並、神稲、阿万、賀集の7郷
大化の改新によってできた
50戸をもって一里(郷)とした 一戸は10人から20人
大化当時すでに8500人
海人は数のうちに入っていない
だから、少なくとも一万人はいた
以後「倭名抄」の時代には人口も倍増
水田面積は2650丁歩
神社の数は13座
津名郡 淡路伊佐奈岐神社 伊勢久留麻神社 石屋神社 築狹神社 賀茂神社
由良湊神社 志築神社 岸河神社 河上神社
三原郡 笑原神社 湊口神社 大和大国魂神社 久度神社
淡路伊佐奈岐神社は今多賀神社 淡路一ノ宮
奈良に入ると仏教も島に
三原町国分寺には、国分寺が建立 しかし、今は荒廃
この島には八幡宮が多い
宇佐からの直接勧請も多い 他に石清水からも
「淡路太田文」によると(1223年) 鎌倉時代には津名郡で郷保の名を残すもの7
荘園は15
三原郡で郷保6 荘園8
国司館のあとも残っている
鎌倉期には、この島にも守護や地頭は置かれた
紀伊・四国と共に、南海道に属していたので、官道も通じていた
16世紀の終わりころまでは、島であるが故に、戦争にも巻き込まれず古代以来の生活
戦国時代の天正9年(1581年)豊臣秀吉に由良に城を構えていた安宅氏を滅ぼした
以来秀吉の支配下に入る
蜂須賀至鎮が大阪夏の陣の功労によって家康から淡路を与えられる
城代として稲田氏により幕末に至る
旧家はそのまま残っている 戦いによるものではなく、中央政府の命令によるもの
旧家は多くは土居と呼ばれていた
2 産業の変遷
農業の発達
漁業の発達
漁民は男が舟 女は海に出ない
女は農耕をしない 手職を持った 最も多いのは木綿紬
大阪平野は近世時代は綿をたくさん作った
それを淡路に送って糸を紡いだ
農家の娘達は、大阪平野の綿作りや綿摘みに出かけた
あるいは町屋の女中奉公にも
島内では瓦の生産
タマネギの生産も盛ん
柑橘や桃も