と~ま君の部屋

楽しい老後を送りたいとやっています。所詮人生回り道。修士(人間学、仏教学)。ぼけ防止・脳のリハビリでやってるブログです。

サーカス小屋は胎蔵界か

2013年03月27日 18時55分04秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

 

中原中也の「サーカス」という詩は・・・・・・・

 

 

幾時代かがありまして
茶色い戦争がありました

幾時代かがありまして
冬は疾風吹きました

幾時代かがありまして
今夜此処でのひと盛り
今夜此処でのひと盛り

サーカス小屋は高い梁
そこに一つのブランコだ
見えるともないブランコだ

頭倒さに手を垂れて
汚れ木綿の屋根のもと
ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん

それの近くの白い灯が
安いリボンと息を吐き

観客様はみな鰯
咽喉が鳴ります牡蠣殻と
ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん


屋外は真ッ暗 暗の暗
夜は劫々と更けまする
落下傘奴のノスタルジアと
ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん

 

 

 とても良い詩である。国語の読解風には、拙ブログには書かない。もうそんなの卒業したのだから。愚生なりにどう考えるかってことを書かせていだたく。

 それはこの詩から、ザシキワラシの去った旧家のごとき趣を感じるからである。妖精が、ゆあーんゆよーんとなんだかわけのわからない言葉を唱えながら、サーカス小屋の上の方から降ってくるような気がするのだ。いつくもの戦争が通りすぎ、時代の疾風が吹き荒れていった現代のどこかに、サーカスの小屋が建っている。なかなか憎いような演出である。中原中也という人は凄い詩人である。ちなみに、我が師匠はこの詩人のことを必ず言われる。ゼミの時に。だんだんと愚生も好きになってきたんだが。

 

 サーカスの小屋というのは、考えてみれば奇妙な形をしている。あれはいったいどういう意味であんなふうな形をしているのだろうかと、思っていた。

 簡単な形状である。しかし、かなり頑丈でもある。そして、その中ではいろいろな芸能が展開されている。テントは、中で展開されている芸能を守っている母の胎内のようなものでもある。そうすると、胞子的な発想からあのテントは出来ているのではあるまいかと発想するのもまた楽しいものである。母の胎内で、繰り広げられるファンタジー。我々は、テントの中で年をとるのを忘れ、すばらしい技量の技を堪能する。現実の恨み辛みを一時でも忘れて、忘我の心境に至る。

 芸能の根本のような気がしてならない。田舎の寺院などにいくと、お堂があって、そのお堂の前で展開される郷土芸能を見るチャンスがある。そういうのを見るのが好きでけっこう出かける。数は少ないが、お堂の脇とか、後ろにももう一つの小さい祠みたいなものがある時もある。そうした祠に祀ってある神々は、むしろ土着信仰と結びついていて、立派なお堂の方は、後から建てられたものの方が多い。そんなことを大きくなってから知ることになって、愚生は、これはサーカス小屋と一緒だと感じていたのである。

 サーカス小屋も、古代から連綿と続いている土着信仰と後からきた日本神道や仏教勢力との習合みたいなもので、西洋文化とドッキングした新しい日本の芸能であると愚生は感じてしまう。規模が小さいほど、そんな感じがする。

 日本人の芸能を考えていくと、今のサーカス小屋とそんなに違いはなかったのではないかと思いついたのである。「守られた」「不思議な空間」で、まるで母の胎内にいるような安心感で芸能を楽しむ。ささやかな常民の喜びがそこにはあるのではないかと。

 明治維新による文明開化というものがもたらした西洋文化と日本の文化のドッキングが、テントによって外部の悪魔的世界から守られているということである。

 一昨年だったか見たシルクド・ソレイユとかいうまことに巨大なサーカス(と言ったら失礼になるのかな?)には、あまりに巨大すぎて、そんな感じはしなかったのだが。しかし、あれもまた大きなおっかさんに守られている胎児が愚生であると思えば良かったのかなとも思う。

 

 

(^_-)-☆

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3月26日(火)のつぶやき

2013年03月27日 05時10分33秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

世阿弥のことば「年々去来の花」「時時の初心を忘るべからず」="若い頃から年齢が高くなるまで、その時々に身に付けた藝を忘れないように"。世阿弥自身、少年時の連歌の教養を、後年になっても持ち続け藝論に生かした。世阿弥にとってもこのことばは、能の実演にかぎられたことばではなかった。

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世阿弥の藝論は、能楽の実演にかぎらず、いろいろなことに応用できると言われる。それもそのはず、世阿弥自身が「能の実演」だけを特別視して他から切り取ることがなかったのだ、ある戒めを能の実演だけでなくほかのことにも当てはめていたのだと気がついた。

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私自身、人を迷わせ翻弄させていないか、強弁していないか、「我を張って」いないか。「ほんとうのことは何か」「あなた(たとえば世阿弥)はどんな人か」から軸がずれなければ。「稽古は強かれ、情識はなかれ」という世阿弥のことばも、能を演じるときだけのことばではない。

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世の中に多い講演・講義も、「○○大学(大学院)教授」とか”有名な人"とか、"単純なわかりやすい話”とか"ビジュアル"とか、人々を迷わせ翻弄するものがほんとうに多いと感じる。でも講演・講義を聴く方々も「我」にとらわれずによく御覧になれば、"本物"かどうかはきっとわかる。

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研究作業で「締切に追われて忙しい」「人を説得できなくては」「何かこれを証明する資料がないか」こんなことを考えていたら、結局はうまく行かない。こんなことは「自分」の都合で、「我を張る」ことでしかない。これでは相手(研究対象)はこちらへやってきてくれない。傍にいても気がつかない。

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学問研究は、当たり前のことだけれど、常に誠実な態度で臨みたい。歴史的なことをするなら「ほんとうのことは何だったのか」をいつも忘れないように。目の前に翻弄されること、誘惑されることが多いのだから。

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生駒山の東山麓にある往馬神社の火祭り。2011年に県の無形民俗文化財。「いこま」なるほど(^^)/拝殿そばに咲く上溝桜(うわみずざくら)写真で見るとクリペッチンの花みたい。これも桜なんや!(今朝の朝日奈良版)

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イエスのことばを確実に理解することができるために、イエスへの渇きをいやすことができるために、イエスへの愛を満たすことができるために、イエスは御自分をパンとなさったのです。しかし、主はそうまでなされても、満足されません。主ご自身が飢える者となられたのです。

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東京新聞:川崎の郷土史研究家ら 謎の難読碑文 tokyo-np.co.jp/article/nation… 江戸末期、「桜田門外の変」の惨劇から逃れた彦根藩士が、現在の川崎市に残した碑文を、地元の郷土史研究団体が解読した。碑は小田急線向ケ丘遊園駅近くの広福寺(同市多摩区)にある。

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おはようございます。9:00です。さ、これから在籍校へ。キャンパス内の桜が散りかけていましたが、昨日。けふは大丈夫かなぁ。


しかし、はかないもんですなぁ。花のいのちは。オレのようにしぶとく生きていってほしいのだけれども。ムリか。


美しいものは、みんなはかない。残念ながら。美人もそうだけど、滅びていくものには哀愁があるなぁなんて思うのですよ。哀愁のある生き方をこれからしたいもんです。オレも滅亡していくんですからねぇ。あと、何年生きられるかわからんけれども。もっともオレは、美とは縁遠いけど。(^-^)/


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光こそ、すべての源という気がするのだが

柔道をやると~ま君

サンスクリット般若心経

高齢\(^_^)/