蹴鞠のことを
蹴鞠というのはやったことがない。相当に難しいのではないかと思っている。あれは、柔軟な身体を持ち、さらに柔軟な思考ができなくては、とてもじゃぁないができない。愚生のような運動音痴にはムリである。しかし、楽しそうである。なにしろ鞠を落っことしてはならぬから、八面六臂の活躍が期待される。こいつはなかなかの運動神経を要する。
単純な動きではなさそうだし、相手の動きも当然予想しなくてはならぬ。まさに神のごとき神経を持っていないとならない。そんなの到底愚生にはできやしない。
しかしである。蹴鞠の精霊というものが存在したらしいとなると話は別である。おもしろそうではないか。しかもそれが、顔は人間、手と足、そして身体はサルとなると。愚生はこういうのが好きなのである。動物と人間がからんで、それがしかも精霊と関係があるとなると、まさにおとぎ話のような気がしてしまう。
できれば、桜の花でも愛でながら、一献一献また一献というように美酒を味わいたいもんである。酒の名前は美少年とか。わははは。サルどのも、オイラも、真っ赤な顔をして呑んだら楽しいでしょうなぁ。あ、サルどのは、最初から顔が赤いか。
成通卿口伝日記という古典があって、群書類従の巻354に載っているのだが、すこぶるおもしろいものなのだ。藤原成通という1097年ころの蹴鞠の名人が登場してくる。あんまり上手なので、「鞠聖」とも呼ばれたのだそうな。白川上皇の取り巻きの中でも才能豊かな人物であったらしい。
この方が、あるとき祝いをやっているときに、(その祝いというのも千日蹴鞠をやるというたぐいのもの)先に述べた顔は人間、手と足と身体はサルという童子たちが登場してくる。3~4歳くらいの。「御鞠の聖」とも言い、名前をそれぞれ春楊花、夏安林、秋園という。
この童子たちは、昔から多くの人々が、中世芸能や技芸の守宮神として崇めてきたということである。守宮神というのは、造園、大工、細工師、金属の技術者、染織家などの技を見守る神でもあったし、精霊でもあった。むろん、猿楽や田楽の芸人もそうであったのだ。
守宮神は、シュグジ、シュクジン、シャグジなどと読まれている。中性的な神で宿とも書かれる。能の翁という作品もこれまた宿の顕現の姿とされていて、愚生なんかには実に興味深い。
それがサルという形をとって現れてくるというのも、実に楽しいではないか。動物たちに囲まれて、ひとつの芸能を行うというのは、まさしく古生代の、あるいは土着の神々たちの姿を現しているようであるから。
昨日の晩に、NHKのドラマがあった。蝦夷を攻める大和朝廷と、その蝦夷のアテルイという主人公との闘いであった。奈良時代の後期に設定されていたが、実に興味深く拝見させていただいた。NHKの番組紹介には、「奈良時代末期、東北を舞台に活躍した英雄アテルイの生涯を描く。朝廷の侵略から自らの土地を、民を守るためにアテルイが立ち上がる。空前のスケールで描く古代史ロマン。」とあったが、ためになった。縄文時代は、神々がどうやって祀られていたのだろうかと思うからである。愚生の興味・関心はそこのところにあるからである。
ともかく、中世時代はおもしろい時代である。とてつもなく大きな世界でもある。
そんなことを今日は書かせていただいた。