けふは、小見川というところ(城山)に、桜の精に誘われて行ってきました。
こういう時間もまた大切なことであります。(^-^)/
ご堪能あれ。
また来年も行きたいものであります。
元気で。
けふは、小見川というところ(城山)に、桜の精に誘われて行ってきました。
こういう時間もまた大切なことであります。(^-^)/
ご堪能あれ。
また来年も行きたいものであります。
元気で。
無明を精一杯生きる
今日から新年度ですね。
フレッシュマンがそれぞれの組織で活躍されることでしょう。その準備も始まります。ご苦労様でございます。人それぞれ、置かれた場所でやるしかないのであります。どうか、頑張ってくださりませ。
愚生の在籍校でも明日入学式です。大学院の博士後期には何人くらい入学されるのでしょうか。まったく知りませんが。それよりも、シラバスが若干変更されていて、学会での発表がないと単位を習得できないと書かれておりました。良かった。昨年三度ほどあちこちの学会で発表させていただきましたが、今年もやるっきゃない。そんなに世の中、甘くはござんせんなぁ。明日の午後から院生のオリエンテーションがありますけれども。楽しみです。師匠に会えるかもしれないからです。
モチベーションが高まらないというのが、愚生の唯一の悩みでして、どうにも年齢が高くてどうもならんのです。これから就職できるわけでもないし、精一杯働いてきたので余暇というか、老後を楽しみながら学問だけはやっていきたいというのが基本的なスタンスでありますから。これが収入に直結するというのでもないですからねぇ。ただし、チャレンジだけはしてみたいからやっているだけで、ダメならダメでリセットして新たに生涯学習でやるしかない。
今朝の朝刊に市の広報誌が入ってきて、新年度のいろいろな学習講座が紹介してありました。まだ、そっちの方には生徒としてお世話になりたくはないのであります。在籍校を退学したら、わかりませんが。まだまだチャレンジしていきたい分野がごまんとありますので。それに、10代のころからやっている印度哲学系の勉強も不十分であります。まだまだであります。完成なんかオレにはありません。だから、偉そうに人に教えるなんてできないわけであります。経験を語ったり、共に学ぶということならできそうですがね。なんてったってオレには実力がない。むむむとうなるしかない。
居住地に県立の大図書館があります。さらに在籍校にも同程度の大図書館があります。幸運です。Mailで書籍を予約して、なんでもお借りすることが可能です。一部貸し出し不能を除いては。両方の図書館に足繁く通っています。茅屋にもコピーを設置してありますから、ホントウに助かります。全部実費で購入することはできないからです。人文科学系は、読書量と、資料の優劣でその後の歩みが決まるでしょうから。これもまた真剣であります。
それも愚生が死ぬまでのことでしかないのですけれども。死んでも学ぶことはできないでしょうから。愚生のご臨終の朝まで、愚生は読書し、ノートをとっていたいとマジに思っています。それが愚生の執着です。お笑いくださいませ。
本来、大学進学なんてできない貧しい家庭に生まれ、それでも新聞配達までして進学をしてしまった無知蒙昧なる男であります。能力を顧みず、であります。オヤジは町役場の小役人、オフクロは一介の田舎教師でしたから、貧しい家庭でとてもとても大学進学なんて所詮ムリでした。それでも、能力もねぇのに進学をしてしまいました。高校の同級生たちが、愚生の時で、国立大学に180名くらい現役で進学していったから、影響されたんでしょう。たぶん。オレも大学っていうところに行ってみたいって、身分不相応の高望みをしちゃったわけです。それを執着と言えば、確かに執着でありましょう。いまなお、「無明」を生きている老兵でございますよん。悟れないのであります。ははははと笑っているしかない。
来月、郷土史の研究誌が出ます。愚生の研究論文が掲載されています。ここから新年度がスタートします。在籍校とは別の大学研究紀要にも、論文が出ます。道徳教育です。こちらは在籍校とは関係ありません。拙ブログではこっちの大学のことはまったく書いていませんが、そういうことです。そういうこと。
原稿書きが猛烈に始まります。あちこちと暴れまくる覚悟です。なにしろ、こっちは最低のところからスタートしているんです。やってもやらなくても誰にも期待されていませんが、オノレの道はオノレで歩いていくしかないようであります。茨の道でありますがねぇ。
今日は、そういうところから新年度の再スタートであります。還暦人生ここにありであります。
じゃぁ!
(^_-)-☆
馬頭観音像 初の全市調査 登別(北海道新聞) hokkaido-np.co.jp/news/chiiki/45… 市内の馬頭観音像の位置や建立年を調査し、報告書をまとめた。41基を確認し、最古は1901年(明治34年)だった。
友人の母上に提供頂いた戦前の中津川宝生会資料。宝生宗家素謡会番組。中津役場で来聴250名。戦前の宝生会能楽堂はラジオ中継設備があった。akの謡曲番組の人選は昭和4年には戦前わんや書店が代行していたと新聞にある。声の有名人が全国制覇した pic.twitter.com/N9KT7JEXbS
春巡業がスタート!本日、3月31日(日)は、伊勢神宮奉納相撲です。→jingukaikan.jp/kaikan/topics1… #sumo pic.twitter.com/CwAz8YI4ZR
日本の芸能の発生は、「辻・道・門・庭・奥」の順に成立。辻々に集まる辻芸能が道を一列に行道する道中芸能に、それが、一軒一軒の門に立ち止り門付芸能になり、門の中に入り中庭を舞台に(柴の上で)芝居をし、断片化して内側に取り込まれて奥の座敷芸になると。(参考: 松岡正剛『日本数寄』)
「あそぶ」が神の行為を意味する語であったことは、のちの貴人の行為が、すべて「遊ばす」という語で示されることからも知られる。音楽、酒宴など貴人の行為が遊ばすという言葉で表現されるのは、そのような行為がもと、神に近い次元のものとして理解されたため。
大学院をやめました id.fnshr.info/2013/03/30/yam… @f_nisiharaさんから
唐招提寺梵天・帝釈天像:本来、本尊の盧舎那仏の左右に安置されていたもので、向かって右に梵天、左が帝釈天である。古代インドの護法神で、一対で造像される。両像とも鎧の上に裳をまとい、沓を履き、梵天は、さらに袈裟をつけた姿となっている。twitpic.com/9h52p0
自分が行うすべてのことを、神をお喜ばせすることに集中し、自分自身を含めたすべてのことを忘れることのできる人です。快活さは、犠牲を捧げる生活、神との絶え間ない一致を、しばしば覆い隠すマントです。
東大寺梵天・帝釈天立像:梵天は、帝釈天と一対として祀られることが多く、両者を併せて梵釈と呼ぶ。通常は甲を着けた像の方を帝釈天、着けない像を梵天と呼ぶが、法華堂の場合は逆になっているので、後世に名称だけ入れ替わった可能性がある。twitpic.com/9h50rd
今日は天候があまりよくないですね。花見に最適だと言われていたのですが、愚生は図書館に本を返して、また借りてきて、それだけ。
明日から新年度ですか。ふむふむ。現役の方々はまた新規で頑張るしかないんでしょうなぁ。頑張ってくださいませ。また、今月で退職した方々もご苦労さまでした。我が千葉県知事は、退職者に歌を歌って贈ったそうですが、なかなかたいした知事です(^-^)/
【週刊知事】さらば涙と言おう 千葉・森田健作知事 - MSN産経ニュース sankei.jp.msn.com/region/news/13…
千葉県知事は、こうやったそうです@式典では、俳優時代の主演ドラマの主題歌「さらば涙と言おう」を熱唱。そして最後にこう声を張り上げた。 「最後の知事命だ。元気でいろよ。じゃあまたな」