学びは続く
市役所で行っている学習講座にこれから申し込みに行く。昨日まだ枠があるということを℡で確認したからである。中国語講座である。在籍校でも留学生が多くて、少しは聞き取りだけでも可能になりたいと思っている。彼ら・彼女らは語学の天才であるとすら思っている。なんという努力ぶりであろうか。それで日本語で修士をとったり、学士をとったりしているのだから。やるっきゃないですな、愚生も。
日本語教育の専門家もクラスメイトにはいるし。中国の大学の先生方である。目の前に教材があるのだから、これはいい。まさにやるっきゃないですな。
今年度は、近代文学の批評というのも、講義を拝聴することとした。本来は、近代文学を44年前の学部入学のときにやっていたから、こっちが専門と言えば言えるのだが。もう、すっかりさび付いてしまった。椎名麟三とドストエフスキーをやっていたっけ。あれはあれで愚生の良い思い出にはなっている。
久しぶりに近代文学である。ついていけるかどうかが、一番問題である。しかし、やってみなくちゃわからない。
なんでもそうだ。やってみて、玉砕したっていいんだと思うことにシテいるのだ。積極性がなくちゃいかん。じっとして無為で生きるのもいいだろうが、愚生の性にはあわない。かなりの確率で失敗することもたくさんあったけれども。
学びってそういうことなんだろうと思う。チャレンジである。興味関心があったら、つっこんでいくことである。マジにそう思うことにしている。裏切られることも当然ある。こんなはずではなかったということもある。日常茶飯事である。もっとまともな人だと思っていたら、案外とつまらない人間だったというのは掃いて捨てるほどいる。そうした体験が自己を鍛えてくれるのだ。
それこそ、この方はすばらしい、弟子になりたいと思ったら即実行である。年齢の差はない。師匠が年下でもいいのだ。そんなことはやぁだとか言っていたらいい出会いはない。そういうことである。そういうこと。
だから個人への興味というものが、愚生の場合、優先しない。個人よりも、その方のもっている雰囲気とか、知識に憧憬するのだ。このことは間違っていなかったと思っている。だから、どんなに厳しく叱られても愚生はいじけたりしない。ブツブツ文句を言ったって、始まらないではないか。上司から叱責されてもそうである。同じである。なんも気にする必要はないのだ。
愚生なんか、誤字脱字もかなり多いから、かえってそういうことを指摘していただくと感謝である。ありがたいではないか。こんなつまらない文章を読んでくださるのだ。神や仏のような方々だ。合掌である。
拙ブログを読んでくださる方々もそう。神仏のような方々である。合掌である。
チ~ン・・・・
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