イカの眼は不気味である
NHKの番組で、ダイオウイカというのであったか、なんだか実に得体のしれない大きなイカのことを特集していたことがあった。愚生も見た。半端な興味でしかなかったが、なんと言っても国営放送の実力はあなどりがたい。十分楽しませていただいた。
あの時、ちょっと思っていたのだが、イカの眼って、とてつもなく不気味で恐ろしげであるということを考えていたのである。
けふは、ここから書いてみようと思う。書きながら、あっちふらふら、こっちふらふらと雑談が始まるのだが、ま、これもじじぃの駄文書きのトレーニンと思ってくだされませ。これから、午後は投稿論文書きを始めるので。採用されたら、拙ブログにも報告しますが、またヒミツでぇ~す。(^0^)
イカの眼は、愚生だけなのかもしれないが、なんだか人間の無意識の世界を表しているようである。太古の昔から、生命というもののシステムをじっと守り続けてきた生き物という感じがするのである。これは根拠がなくて言っているから、生物学を専門に勉強された方々からは失笑を買うのは覚悟の上で書いている。
そういう「得体の知れないもの、いかんともしがたいもの」が、愚生を引きつけてやまないものであるのだ。実証を根本とする歴史学の立場のような方々からは、そんなのインチキであると厳しく叱責されるのだろうが、10代のころから、愚生はそういう世界から離れられないのである。
だから、自称民俗の旅に出かけても、なんだかふらふらと、古い神社や、祠に興味を持ってしまう。あるいは、村の代々伝わっている舞踊とか、神楽とか、伝承がおもしろくてたまらないのである。
森に行ってもそうだった。なにしろ日本でも有数の森が、生まれた場所にはたくさんあった。あれは、不思議な場所である。行ったことのない人にはわからないだろうが、森の中は実に得体の知れないもの、いかんともしがたいものが充ち満ちている。森の奥に、霧のかかった湖があったりすると、幼い愚生の胸は高鳴ったものであった。じーんとくるのである。不思議な世界であった。
今、思うと、あれは人類が遺伝子として伝えてきた自然への怖れというようなものであったのではないか。そういう怖れを感じることで、対象を自分の世界から排除することによって危険から逃れ出る手法を学んでいたのではないか。つまり非対称化の作業である。非対称をすることは、安全でもある。このことは一神教の世界を見ても首肯できる。絶対者としての唯一神を設定することによって、いろいろな困苦から安全であろうとするからである。
されど、非対称化とは反対の、つまり、対称化の世界からは、愚生はいろいろなことを学ぶことができるのである。森と同化してしまうことは、まさにこの対称化の世界であって、時々出てくる小動物たちと、なんだか会話でもしてみたいという欲求になるのだった。幼い時の友人たちには笑われたが、単なる動物好きというだけではないものを感じるのである。
1月に亡くなった老犬ジョンは、対称化の意味で、愚生といろいろ会話を重ねていたのだった。おめぇさんよ、それは勘違いだろうがよんと言われる方もたくさんいるだろうけれども。
それでも愚生は、対称化という中で、生き物たちとの交流は可能であるような気がする。そういう遺伝子が、我々人類には組み込まれているのではあるまいかとも思う。鯨を捕まえるのに反対している方々もこれなんだろうと思う。
人類は、太古から狩猟をしてきた種族であり、戦争というのものもまた狩猟の延長であろうと思っている。そういう野生をいったん否定したところから、非対称化文明、思想としての一神教ができてきたと思う。
さらに科学はその一神教を否定したところから、スタートしてきた。
次の大改革がなにになるのかは、愚生にはわからない。
そんなことをイカはずっと見てきたのではないのか。イカもまた狩猟される対象である。生き物であるから、狩猟されることは「死」と直結している。太平洋でゆうゆうと泳いでいたときは、まさか自分が狩猟されて死んでしまうとは、思ってもみなかったに違いない。
あらゆる生物は、生と死の狭間で生きているのであって、我々人類だって例外ではない。ただし、食物連鎖からは逃れているというだけである。それだけである。
イカを見ていると、あれは鏡である。イカそのものは、なんにも考えてはいないだろうから。イカの眼にオノレがどう映っているのかということを考えるだけでいいのである。
そういう意味では神社の拝殿と一緒である。神社も、奥に鏡が置いてある。その鏡に映るオノレをじっと見つめてみなさいよという古代からの智慧であると、愚生なんかは感じてしまうのだ。
強風の中、外に出られないので、深海のイカについて考えてみた。
ご笑覧を感謝します。