在宅介護・看護のこと
最近NHKが在宅介護・看護のことを取り上げている。録画して何度も見ている。複数の番組をである。
最初に、こういう企画を立てていただいたことに感謝している。考えさせてくれるからである。観念の遊戯では無いからである。つまり、誰でも在宅介護・看護の問題は他人事ではないからである。いつか遠い未来のことではないからである。生きることも、病気になることも、年老いていくことも、そして最後には死んでしまうことも、皆不安なのだ。オレは、アタシは死ぬことなんか怖くないって豪語する方がたまにおられるが、潜在意識としてはどうなのか。ちょっと信用できない。いざその時になったら、あがいて死んでいってもいいではないか。愚生はそう思うのである。
だから、旧石器時代とか、縄文時代の我が先祖達はどんなふうに考えていたのだろうかと興味を持つのである。
昨日まで、鹿島踊りの分布図と、八重山諸島のミロク踊りの範囲を見ながら四苦八苦して原稿を書いていた。A4で40頁。30000字を超えた。しかし、まったく完成していない。全体の1/4でしかない。これから記紀神話と、古層の神々との関連を書かなくちゃならんし、文献探査も必要である。ま、楽しみでやっているのだから、これはこれでいい。しかし、ある恩恵を受けていることに気がついた。それは、「在宅介護に愚生がなったときに、どういう覚悟を持つことができるか」ということである。その回答が、あらゆる創唱宗教や、宗派派別宗教や、いろいろな哲学者たち以前に、古層の土の中に潜っているような気がするのである。
愚生は、だから信仰心というのが無い。それを不真面目と言って攻撃される方もある。致し方なし。観念としてのゼッタイ者とか、開祖のある宗教に興味が沸かないのである。ですから、愚生を説得しようとしても無駄である。何度もそういう方が来られたが、その都度関係を断ってきたから時間の無駄である。聞く耳を持たないのだ。
むしろ惹かれのは、旧石器時代に生きていた寿命の短かった祖先達である。何を考えていたのであろうかと本当に思う。日本ばかりではない。アフリカとかアメリカの先住民たちの文献を漁るのも好きで、そういう本から得るものは大きい。
愚生も、死ぬ間際になって、薄れていく意識の中で何を考えるのであろうか。不安か、恐れか、安心立命か、歓喜か・・なんだろうか。
その時まで、このくだらないブログを書いていきたいものである。闘病記から始まって。もっとも、事故死だったらどうしようもないが。
さ、けふは在籍校で文献探索である。さらに夜は柔道教室である。柔道の方は痛いだろうなぁ(^▽^)
嫌ならやめればいいのに、やめられない。タノシミであるから。ブログも自分宛に書いているから、これもまたやめられない。ただし、あまりアクセス数が増えると書きたくなくなっちまう。それが目的ではないからである。ほんの2、3人と茶飲み話をしているようなつもりで書いているから。来ていたいだいたことは感謝していますがね。(^-^)/
偏屈だから。
それでは行ってきますワイ。
(^_-)-☆