比較の醍醐味
昨日は、拙ブログへの投稿を中断してしまった。あまりアクセス数が増えると恐ろしくなってくるからである。ホンマに。一日にお二人くらいの方と、茶飲み話でもしているような感じが一番よいのだけれども。だから、オレのブログはこんなに人気ブログなんだぜという自慢の仕方をする人とか、学校の宣伝ブログとかそういうことを書いている人とか組織があるけれども、愚生は少しもそういうことはしない。もっとも、自慢できるようなものは、愚生にはなんにもないんだけれどもねぇ。
「AとBなのか、Aのみなのか、Bのみなのか」という今日の記事のタイトルは、愚生の駄文でよく書くタイトルである。つまり、並立表記をするのが「AとB」である。どうもそういう傾向性を持っているらしいのだ。比較するのが好きなんである。比較してだからどうなんだと言われると、そんなものなんにもならないって言うしかないんだけれど。
今、やっているのが農民芸能と民俗学みたいなものである。その方向性で書いている。昨夜で約2万5千字になった。急ピッチでやっているが、こういう並列的な表現では、それぞれの正規軍の方々から見れば、あきらかに攻撃対象になる。だから正規軍とは戦わない。撤退する用意はいつでもできているから、あっという間にいなくなっちまう。所詮田舎の道楽郷土史愛好家である。今は、そういう自己規定をしてしまっているから、気楽なものである。
で、ふと思ったことがある。あの東日本大震災以来、どうも日本の思想界の潮流が変化してきたなぁと。「絆」ということを盛んに言われたし、現代日本人というのはいろいろな思想をあっちかじり、こっちかじり、ふらふらしながら生きてきたんじゃないかとずっと思ってきたのだが、ちょっと変化の兆しがある。それはなにも右翼化したとかそういう意味ではない。
たとえば、TTPの問題でも、反対者の背後にはグローバリズムという非常に流行している考え方というものへの懐疑があると思うのだ。なんでもかんでもグローバリズムという非常に何にでもきくクスリのような手法で説得されると、もう愚生なんぞうんざりしてしまう。しかし、その考え方にちょいと懐疑的になってイル方が登場してきたのだ。
かつて、サルトルとか実存主義が流行していた時期があって、愚生なんぞも一丁前にはまっていた。サルトルを知らないとならないという脅迫観念があった。高校の文芸部で生意気にも議論していたんだっけ。今、思うと、あれはとても恥ずかしい行為でありましたよん。わかっちゃいねぇのに、見栄で議論していたんだ。アハハハである。
さらに、構造主義にもはまったっけ。今、こちらはちょっと復権しているようだけど。
学生運動、つまり大学生による革命ごっこには愚生ははまらなかったけど、愚生の世代であれにはまった方々は多いはずである。4年生になると就職活動をして、きれいさっぱりそういう世界から足を洗った人も知っているけれども。だからレ・ミゼラブルという最近見た映画でも、フランス革命に命を捧げている若者たちが出てきて、愚生は70年安保闘争のことが思い出されて涙を禁じ得なかったのだ。
その延長上に、ニヒリズムがある。愚生の場合。行動の持つ無意味性というものが、政治運動に関わった人にはあるから、挫折をしたらニヒリズムに懊悩することになる。そこからいかに立ち直るかと言うテーマが、学部の時の卒論であった。ドストエフスキーを手がかりに、書いたものである。36000字しか書けなかった駄作である。しかし、あれが愚生のスタートであったと思う。マジに。
東日本大震災以来、日本の古層に埋もれている歴史的な潜在意識が復活してきたような思いに囚われることがある。記紀神話とか、仏教伝搬とか、そんな歴史の前にあった日本古来の文化である。非常に興味があって、ちょくちょくと旅に出かけているのもそれが原因である。もっとも、美味いモノを食って、配偶者と温泉を楽しむっていうのもあるけどね(^▽^)
最近では、石垣島に行ったのが、大変に勉強になった。日本古来の歴史と伝統、さらに琉球との関わり、中国文化との関わり、韓国との関わりというようなことを考えている。それが、現在の愚生の駄文書きのモチベーションを高めている。
「AとBなのか、Aのみなのか、Bのみなのか」なんてことを言っていないで、AもBもCもDもEもFも、全部やったろうじゃんと思っているのである。相変わらずである。
けふは私的な用事で、町の中をふらふらと出かけなくちゃならない。
またここでお茶でもやりまひょう。
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