「党派性」というやつ
なぜ我々は、自分の所属しているグループというものに拘り、自分と異質のグループを攻撃するのであろうか。「党派性」というやつだ。これはいろいろなグループにある。宗教間、会社間、学閥間、趣味のグループ間、政党間・・・数え上げたら切りが無い。現役時代はそういうのに囚われていたなぁとしみじみ感じる。
もっと根幹にあるもの、例えば宗教でも、ブッダやキリストの前、あるいはあらゆる宗教の開祖の前からあるものが、人類にはあった筈である。人類学的にも大変興味のある話題である。旧石器時代から行われていた儀式、例の洞窟壁画に描かれている絵の前で行われていたものをなんと呼ぶのかということに興味関心がある。
会社間にはもっと露骨に党派性がある。利害と絡むからである。食うか食われるかであるからだ。利害が伴うから、つまり「利」中心にものを考えたり、感じたりしているからである。資本主義というのはそういうことであろう。仕方がないと言えば言えるが。あまり好きではない。好きではないというレベルの話だけど。
学閥間というのもまったくバカみたいな話である。なんで、そんなことで対立して喧嘩するのか。これもまた「利」に絡んでいる。成果を上げるには、他を蹴飛ばした方がいいからであろう。自分の出身校を持ちあげていけば、自分が得するからである。まったくバカげたことである。アタシャ、学閥なんてなんもないから気楽なもんじゃ。学部も、修士も、専門学校も、今の学校も全部違っているからである。あ、昨日、学部の同窓会年間会費請求書が送られて来たけど、これを4つの学校分払わなくちゃならんと思うと憂鬱になっちまう。(^▽^)
趣味のグループ間でもある。短詩系の文芸を愛好する人々にもある。相手のことをなかなか認めようとしない。これもまた面白い現象である。流派が違うと、まったく傾向性を異にするからである。書道なんかもそうだ。流派の問題がある。聞いた話だけど。
なんでこういうようなことが起きるのか。
我々人間は、相手よりも優位な立場にいたいからということであると気がついた。つまり相手を指導したいのである。指導されたくないのである。強弱関係である。だから、愚生にも説教する方がたくさんいる。笑ってしまう。そんな資格があるのかと愚生に逆襲されたらどうすんのかね。イエスキリストが、石打ちの女を処罰していた男達に言った台詞のように。処罰できる資格があるのかねって言われたら、誰も反論できまへんでっせ。愚生はそんなことはゼッタイに言わないけどねぇ。言わせるだけ言わせて、ハイさようならであるから。もっとも、聞く時間も無い。もったいない。
底流に何があるのか、源流は何かということが愚生の興味関心であるから。だからこれだけは基本的に守っていきたいのである。時代を突き抜けたところにあるものは何かということである。旧石器時代人に文化が無かったのか?本当にそうか?進化論でなんでもかんでも説明しようとしていないか?。。。そんなことばかり考えてしまうのである。
暇だからなぁ。
アハハハハ。
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