[古代学のこと]
旅から旅へと彷徨するのが好きである。しかも、折口信夫全集のあの黒いのを持って。「古代研究」とかがいい。実にいい。もっとも最近は文庫本全集の方に傾いているけど。なぜなら、腕力が無くなったからである。重いのはもうしょうがないのだ。柔道マンだったなんて冗談でも言えなくなってしまった。
行きたいところが山ほどある。折口の巡った跡をずっと辿ってもみたい。東北も民俗学の宝庫だが、それに東北出身の愚生もまだ行ったことのない場所がいくつもあって、これまた老後のタノシミでもある。冬は行けないけれども。だって、あの雪である。若い頃は4輪駆動車でバリバリ行っていた。自称スキー愛好家であったからである。猛吹雪でもなんのそのだった。わらっちまうですなぁ。なにが楽しくて行っていたのだろうと思う。今なら、できない。スキー場の近くで温泉に入るのが楽しみであったから行けたのかな?
ともかく折口は、古代人の精神そのものである。直観で古代を理解できた人である。愚生はホントウにそう思っている。あ、愚生は彼の出た國學院大學とは無関係である。宣伝のつもりで書いているのではない。凄い人は、凄いからというその一点につきるからである。
さて、東北で生まれ育ったことを感謝している。民俗の宝庫であるからである。昔話も随分多い。社会制度的にも興味深い対象も多い。関西文化圏と違うことも多々ある。その一つが被差別のことである。関西と東北ではあきらかに違っている。このことは、ここには書かないが、愚生の芸能民との関わりにおける駄文ではかなり書かせていただく。否、書いている。そもそも、貴種の末裔であることを自慢するのは、どのような心理状態からくるのであろうかとずっと思っていたが、最近の学者先生たちの著書ではこのあたりが、いろいろと書いてあってありがたいかぎりである。
それにつけても知らないことが多すぎる。慚愧の思いで毎日を過ごしている。定年になったといっても、これまでなんにも成果を残していない。反省の日々である。なにをしていたのだろうか。毎日、毎日教育現場で悪戦苦闘していた。土・日もまったくなく、バレー、野球、柔道等々の部活動で明け暮れた。それなりの思い出はある。しかし、知的な活動ではまったく無為であった。疲れ果てて、家に帰って少量の日本酒をいただき、バタンキュ~であった。早朝起き出して教材研究をやったりしていた。それでもチョボチョボと書きためた京大式の情報カードがあるから、まだいい。目に見える形で残っているからである。昨日はそうした少ない情報カードを読み直していた。源氏物語のもあった。20代前半のである。愚生の。笑ってしまった。未熟である。解釈がなっていない。半端である。ま、自分だけが見ているものであるから、誰かに嘲笑されるという類いのものではないのだが。
老後もそうなのだろう。自己満足で生きていくしかない。在籍校を出てもなんにもならないのだし、そもそも単位をもらえるかどうかも自信がない。ただの老齢者である。伊能忠敬が隠居後に通った塾で言ったように、「老齢者でございます。先生方にはご迷惑をおかけしております」と、愚生も言ってはいる。しかし、伊能忠敬は日本一の成果を残した。愚生は、いい年こいて、海のものとも山のものともつかぬ境涯にある。話にならんですなぁ。ハハハ。自虐だ。ハハハ。
今週の土曜日に郷土史の研究誌編集会議がある。千葉市に出かける。価値のある研究誌である。県立図書館にもそろっていたから、愚生はびっくりした。気合いを入れて、やらなくちゃならん。愚生のような粘着質の方にミスを指摘されないように、しなくちゃならん。歴史学の専門家にいろいろと教えていただきならである。愚生以外は全員御著書を持っておられる。愚生はなんにもない。
ある意味、これからの人生はこういうことであるのだなと思う。ありがたいものである。ご縁があるから、こういう仕事をさせていただくのである。しかも、愚生の駄文まで10頁くらい掲載していただく。ご迷惑であろうに、感謝するしかない。来月その研究誌が出版される。楽しみである。ささやかな楽しみである。
生涯の記念とさせていただこうと思っている。もう二度とないかもしれないからである。
さ、これから在籍校に出かける。図書館に籠もる。午後、新しい講義を受けさせていただく。近代文学の御講義である。学部の時はこちらが好きだったから、ある意味大変たのしみである。
それではまた夜にでも。