語彙と、死をどう受容し、語るかということ
柳田国男は、語彙を豊かにすることを自分の目標にしていたという。碩学にしてこれである。鈍才の私なんぞ、なにも言えない・書けない・沈黙症候群になってしまうというものだ。語彙なんて、なんにも知らないではないか。こんな案配では。
そして、柳田国男は、ムラ社会にこそレベルの高い文化があったというのである。どうも、みちのくの奥には蛮族しかいなかったのではないかと言う方もいるが、それはいかがなものか。妖怪や、鬼の類いしかいなかったというのは、どーもオノレこそ貴種であり、能力も優れているというような差別意識の表現でしかないと感じるのだが。いかがだろうか。東京だって、日本の歴史全体から見たら、微々たるものである。時間的には。ま、これ以上は書かないが。
私のように、決して手放しで東京文化圏を賞賛している輩ばかりではないということも、意識のどこかに持っていただきたいものである。
語彙というと、私は、豊かな語彙をもってして、オノレの「死」をなんとか表現したいと思っている。これは非常に困難なことである。ムリだということはわかっている。最初から。しかし、オノレの死を受容していく過程をシビアに見つめていきたいのである。事故でいきなり死んでしまったら、これはしょうもないが、じわじわと命を失っていくのだったら、記録していきたいのである。
そういうのが、古来の日本にはあると思っているのだ。伝承として、あるいは、神事として、またあるいは宗教的な行事としてである。古代の日本人が、あるいは中世の人々が、どんなことを考え、どう行動して、どう受容していったのかということに非常に興味がある。
なぜか。
私も死ぬからである。100%の確率である。免れることはできない。死をどう受容していくかということでは、イエス・キリストにも興味がある。彼もまた非常な苦しみを味わいながら受容している。ブッダもそうだ。長生きをなすったが、臨終の時は、どんな状況だったのだろうと、一時調べたことがある。
有名な例では、ある母親が、自分の子供の死を受容できなくて、いつまでも抱きかかえていて、腐ってきても悲しんで抱きかかえていたというのが仏典にある。以下に紹介してみよう。
インドのある村に、かわいいさかりの男の子を突然病気で死なせた母親がいた。母親は何とか生き返らせる手立てはないものかと、死んだ子どもを抱きかかえて狂ったように走りまわった。同情したある人が、釈迦のもとへ行けばなんとかしてくれるかもしれない、と勧めてくれた。母親はすがる思いで釈迦をたずね「なんでもするからこの子を生き返らせてくれ」と頼んだ。釈迦はこう言った「誰も死人を出したことのない家からケシの実をもらい、それをこの子に飲ませなさい」と。母親は、必死で死人を出したことのない家を探しまわったが、ついにそんな家はなかった。母親が再び釈迦をたずねていくと、釈迦は「死は生きとし生けるものすべての定めである。あなたの子だけにあるものではない」と諭したという。母親は心も静まり、ブッダを信仰するようになったとか。
おわかりのように、釈迦は死後の世界については何も語っていない。イエス・キリストのように生き返らせるという奇跡も行っていない。神を信じて祈れとも言っていない。供養しろとも言っていない。まして、経を唱えろなどと言わなかった。ひたすら冷静な語らいが書かれているだけである。
実は、死生学というのを現役最後の二年間学んでいたから、興味があるのだ。いや、逆だ。死について興味があったから、死生学を学んだのである。ターミナルケアとか、グリーフケアとかも学んだ。生涯学習でである。武蔵野大学のカリキュラムにあって、なかなかの手応えがあった。そこで二年間学んだのである。一生の財産である。そして、その経験と日本古来の伝承とか、民俗の事象が結びついていっているのである。ま、たいしたことではない。ただの道楽である。
しかしである。
そういう日本古来の伝承とか、民俗事象を追いかけていると、現在の自分のあり方、社会生活のあり方、政治のシステムとか、あるいは経済状況とか、まさに現代的課題としていろいろな問題がつきつけられてくるのを感じる。
今、まさに選挙の真っ最中である。
民俗学というのは、古いことばかり勉強して一人喜んでいるという指摘もされることがあるが、どうもそうでもないと感じることもある。現代的な課題について考えることもできるということを、最近は考えているからである。所詮、素人の戯言であるけれども。素人だから書けることでもある。
(^_^)ノ”””